ハムちゃんはアイドルになりたい!

もちもちおさる

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 ハムちゃんはジャンガリアンハムスターの女の子。淡いグレーの身体と黒くてつぶらなおめめ、真っ白なお腹がかわいい女の子。ニンゲンの飼い主ちゃんとヒマワリの種が大好きです。日課の回し車で走っていると、飼い主ちゃんがお仕事から帰ってきました。今日もたくさんたくさんがんばったみたいです。

「ハムちゃん、ただいま」

「おかえり、飼い主ちゃん!」

 あぁ疲れた、と彼女は呟いて、リビングのソファに倒れ込みました。片手でピッとテレビをつけ、深く深く、息を吐きました。

「飼い主ちゃん、ごはん食べないの」

「ん〜、食べるよ……」

「お風呂は」

「うん……」

 ついでにあたしのお部屋のお掃除も、とハムちゃんは言おうとしましたが、飼い主ちゃんの瞼はどんどん下がっていきます。大変、このまま寝ちゃうかも! ハムちゃんは考えました。だけれどハムちゃんの小さな頭では良い考えが浮かばなかったので、ハムちゃんはとりあえずがんばってケージ(あたしのお部屋!)を抜け出しました。がんばればだいたいのことはなんとかなると、ハムちゃんはそう信じていたからです。そう信じなきゃやってられない、と飼い主ちゃんが言っていたからです。

 ハムちゃんが飼い主ちゃんに近づくと、そばに置かれたテレビのリモコンに気づきました。テレビでは真面目そうなニュースキャスターが真面目な顔をして原稿を読み上げています。ハムちゃんの親戚のチンチラが絶滅したとか、人狼が都会に現れたとか。しかしそんなことでは飼い主ちゃんの目を覚ませそうにありません。ハムちゃんはリモコンのボタンをデタラメに押しました。画面は次々と切り替わり、カラフルな背景に大きく映し出されたあるニンゲンの顔を見て、ハムちゃんはアッと声をあげました。

「あーっ! 推し出てる!」

 それよりも大きく声をあげたのは、さっきまで眠たそうにしていた飼い主ちゃん。がばりと身体を起こし、テレビの画面を食い入るように見つめます。そう、テレビの中のニンゲンは、飼い主ちゃんの大好きなアイドルでした。ハムちゃんは知っています。飼い主ちゃんが「推し」と呼ぶこのニンゲンは、アイドルであることを。そしてアイドルというのは、どんな食べ物や薬よりも、ヒマワリの種よりも凄いということを。

「そろそろご飯食べなきゃ、それとハムちゃんのお部屋のお掃除もね」

 飼い主ちゃんはそう言ってハムちゃんをケージに戻し、テキパキと動き出しました。たびたびテレビの画面を見てはニコニコしています。

「推し、マジで生きる活力。推しのためなら死んでもいい」

 ハムちゃんは思いました。飼い主ちゃんはそうやって、いつも「推し」に命を賭ける。健康なんだか不健康なんだかわからない。生きたり死んだり歪だけれど、真っ直ぐだ。きっと、どんな食べ物でも薬でも治せないものがあるんだ。その「推し」というのはアイドルなのだから、こうして飼い主ちゃんを元気にしてあげられるのは、きっとアイドルだけなんだ! でも待って、じゃあアイドルがいなくなったらどうするの? 誰が飼い主ちゃんを元気にしてあげられるの?

 ハムちゃんはテレビの画面を見つめて少し考えました。小さな頭で考えて、すばらしいアイデアが浮かびました。がんばればなんとかなるものと信じたからです。画面の中の「推し」が、『新人アイドルグループ、一般オーディション開催決定!』と叫びました。

「そうだ、あたしが飼い主ちゃんのアイドルになればいいんだ! そうすれば、ずっと飼い主ちゃんを元気にしてあげられる!」

 ハムちゃんはアイドルになろうと決心しました。がんばれ、ハムちゃん!

「飼い主ちゃん、あたしがんばるからね!」

 ケージの掃除中にそう言われた飼い主ちゃんは、ハムちゃん語をうまく聞き取ることができなかったけれど、ハムちゃんの輝く瞳を見て、うん、とだけ返しました。


 審査待ちの席に座るハムちゃんは、とても緊張していました。なぜなら、オーディション会場にはハムちゃんよりずっとずっとかわいくて綺麗な子がたくさんいたからです。ハムちゃんのように小さな子は全く見かけません。ほんとうはそんなことないのだけれど、オーディション会場に棲む悪魔のせいで、ハムちゃんの心臓は爆発寸前でした。たくさん練習してオシャレもして、自信たっぷりで家を飛び出したはずなのに、迷子になったかのような心細さがハムちゃんを襲いました。ひくひくと鼻が震えているのがわかります。おめめが飛び出してしまいそうなくらいに震えているのがわかります。

 ハムちゃんの隣には真っ白なネコちゃんがいました。彼女のすらっとした身体を包む高級ブランドのお洋服を見てしまうと、飼い主ちゃんが作ってくれた一張羅が、なんだかみすぼらしく見えてしまいます。そんなこと思いたくないのに、ハムちゃんは自分の心が嫌になりそうでした。堪らず、首から提げたポシェットを握りしめます。飼い主ちゃんが、お休みとれなくてごめんね、終わったら連絡してねとハムちゃん用のケータイをくれました。それが入っています。ハムちゃんは夜行性なので、夜遅くまで眠らずにミシンに向かう飼い主ちゃんの姿を覚えています。「推し」のダンスの振りをハムちゃんにわかりやすく教えようと、どたどた踊る飼い主ちゃんの姿を覚えています。無機質なミシンの音と、ありふれた愛を歌うポップ・ミュージックと。ハムちゃんはケータイを取り出して、ボタンを押しました。一回目の呼出音が鳴り終わる前に、画面の向こうから声が聞こえました。

『あれ、もう終わったの?』

「ううん、これからだよ、飼い主ちゃん」

『そっか』

「……」

『緊張してる?』

「うん……」

『大丈夫だよ、あんなに練習したんだから!』

「うん」

『それはハムちゃんが一番よくわかってるんじゃないの?』

「うん……」

 ハムちゃんの心臓が、身体を揺らします。声を揺らします。小動物なので、鼓動一つでハムちゃんの全てが揺らぎます。ハムちゃんは言葉が上手く出てきません。しばらく間をおいて、飼い主ちゃんが言いました。

『ハムちゃん、やめてもいいんだからね』

「……」

『私のためとか、私を理由に自分自身を決めないでね。ハムちゃんはハムちゃんのために行動してね』

 それは無理な話だよ、とハムちゃんは思いました。でも、そう返したら飼い主ちゃんはとても悲しいだろうなと思って、黙っていました。黙って、うん、とだけ絞り出して、ケータイのボタンを押しました。通話が切れ、ハムちゃんのエントリーナンバーが呼ばれました。

 心臓は相変わらず激しく鳴っています。だけれど、ハムちゃんはその揺れをドラムのビートだと思うようにしました。これにどんなメロディーと歌詞をのせれば、「アイドル」になれるんだろうと考えました。小さな頭で考えて、がんばればなんとかなるものと信じました。飼い主ちゃんはきっと、「推し」にもあのようなことを言うんだろうと思いました。それならば、あたしがやめるわけにはいかない。あたしは飼い主ちゃんのハムちゃんなのだから。それだけがあたしの全てだ。

「ハムちゃんです、よろしくお願いします!」


「――じゃああとはね、こちらの雇用契約書に飼い主さんの署名と、ハムちゃんの……そうね、おててのスタンプもらえればいいからね」

 ハムちゃんは事務所の所長さんに言われるがまま、ぺたぺたと手形をつけました。隣に座る飼い主ちゃんも、少し緊張した面持ちでペンを走らせます。そうです、ハムちゃんはこれでアイドルになります。アイドルになる、世界で初めてのハムスターです。ハムちゃんはおててのインクを拭き取りながら思いました。これで飼い主ちゃんは元気でいられるのかな。これでよかったのかな。


 ハムちゃん、合格! 笑顔でそう伝えてきた飼い主ちゃんはほんとうに嬉しそうで、ハムちゃんは、ああ、よかったなぁと思ったのです。合格か不合格かより、飼い主ちゃんが元気でいてくれるか、それだけがハムちゃんの心配事だったのです。それから飼い主ちゃんとともに、これからお世話になる芸能事務所へ行き、いろいろ難しいお話を聞きました。ハムちゃんの小さな頭ではわからない言葉だらけでしたが、飼い主ちゃんは真剣な顔で、はい、はい、と返事をしていました。


 ハムちゃんは、飼い主ちゃんの手のひらの上に乗って帰りました。飼い主ちゃんは言います。これからのことなんて考えなくていいよ。今がよければ、それでいいじゃない。ハムちゃんは返事をしようとして、でも何を言えばいいのかわからなくて、黙ってしまいました。心の中でたくさんの言葉が渦巻いています。そんなこと言わないで。そんなこと、言わないで。だってそれだけが、あたしの。あたしの。

 ハムちゃんは自分の手のひらを見つめました。飼い主ちゃんのと比べたら、ずっとずっと小さな手です。ぎゅっと握りしめました。あたしを包み込む手は、いつも温かかったから。

 ハムちゃんは、アイドルになりました。


 ――そんな簡単になれるのなら、どんなに楽か! ハムちゃんの小さな身体は、練習室のつるつるとした床に倒れこみ、くるくると滑りました。大丈夫? ハムちゃんとともにアイドルになる、他のメンバーたちが声をかけます。みんなとの練習が始まったはいいものの、ハムちゃんの身体では、ダンスをするのも、他の子に合わせるのも、ワンフレーズ歌うのも一苦労。まだまだ全然アイドルじゃない。ハムちゃんはそう思いました。これじゃ、飼い主ちゃんを元気にしてあげられない。ぐらぐらと視界が揺れます。転んだだけで身体が飛ぶのです。転んだだけで世界が遠ざかるのです。

「ハムちゃん、立てる?」

 そう声が頭上から響き、霞む視界に白くてピンクのおててが映りました。ふわふわとした毛に、クッションみたいな肉球。ネコちゃん先輩のおててでした。ハムちゃんはそのおててに助け起こされます。

 ネコちゃん先輩は、真っ白でとても綺麗なネコちゃんです。実は、オーディション会場でハムちゃんの隣で審査待ちをしていた女の子です。ネコちゃん先輩は子ネコ時代からのアイドル経験者で、ハムちゃんより、みんなより少し歳上です。だから、とびきり小さいハムちゃんをよく気にかけてくれます。ハムちゃんは最初こそネコちゃん先輩を怖く感じていたのですが、ネコちゃん先輩はネズミを食べずオーガニック食品にこだわるタイプだし、爪とぎも決してみんなの前ではしないし、声はナイチンゲールのように優しいのです。ネコちゃん先輩みたいなネコちゃんもいるんだな、とハムちゃんは思いました。それなら、ハムスターだってアイドルになっていいはずだし、誰だからどうとか、何かになるべきだとか、そういうことはやっぱり、みんなどこかにもう置いてくるべきで、散々わかりきってるはずなのに、どうして忘れらんないんだろう。あたしがハムスターだから? だからいつも、同じところで転んでしまうのかな。ハムちゃんは、そんな考えを吹き飛ばすかのように言いました。

「ごめんなさい、もう一回お願いします!」


 ハムちゃんは練習中にたくさん転んでしまいました。軽い体重とふわふわの毛皮のおかげで怪我はなかったのですが、痛めないように、とネコちゃん先輩が手当てとマッサージをしてくれました。やっぱり、ネコちゃん先輩はいいネコなんだ。あたしを食べないし、とっても綺麗だし、歌もダンスも上手だし。それに、ネコちゃん先輩以外のみんなも。このグループのセンターかつリーダーは、とっても元気で優しいイヌちゃんリーダーだし、スタイル抜群のチーターちゃんがダンスのリーダーで、ガゼルちゃんは歌が一番上手だし、ウサギちゃんはファッションリーダーで、あたしと同じげっ歯類のリスちゃんは、ラップができる。ほんとう、一気に言いきれないぐらい、みんなはアイドルにふさわしいみんなで、それにあたしはちゃんと入れているのかな、ほんとうにこれでよかったのかな、とか。アイドルになってから、そんなこと考えてばっかりで。もっと気楽になれたらいいのに。何かになるとか、そういう、自分の存在みたいなこと、全部気楽になれたらいいのに。何かを大事にするって、ほんとうは苦しいことだ。

 ハムちゃんが目を伏せていると、頭上から優しい声が降ってきました。ナイチンゲールのような声です。

「ハムちゃん、ハムちゃんはハムスターでよかったのよ。ニンゲンだったら、転んだときにきっと、痛い思いをしただろうから」

「そうかな、ネコちゃん先輩」

「そうよ」

 でも、ニンゲンだったら、そもそも転ばなかっただろうし、もっと上手に転べたと思う。それに、多少は痛い方が、それだけ意味があるってことだと思う。そう、痛いくらいじゃないと。痛いくらいじゃないと! あたし、きっと諦めてしまうから。誰かに飼い主ちゃんを任せてしまうから。それじゃダメなんだよ。俯くハムちゃんに、ネコちゃん先輩は続けます。

「それに、歌やダンスが上手いだけじゃ、アイドルにはなれないのよ。それよりもずっと大事なものが、ハムちゃんにはきっとあるから」

「そうかな、ネコちゃん先輩」

「そうよ」

 たくさんがんばってるハムちゃんなら、きっと見つかるわ、そう言われると、ふと飼い主ちゃんの顔が浮かびました。アイドルになってから寮で生活しているので、しばらく会えていません。元気かな。早く、飼い主ちゃんの「推し」になりたいよ。ハムちゃんは、次のお休みにおうちに帰ろうと思いました。


 この日のライブを終えれば、お休みの日が来ます。ハムちゃんはたくさんたくさんがんばって、どうにかアイドルを続けます。そして、みんなの自己紹介の時間に、ハムちゃんの番が回ってきました。みんなデビューしたてですから、たくさんアピールしてもっともっと知ってもらう必要があります。「大好きなものは?」の質問に、ハムちゃんは、

「えっと、大好きなのはニンゲンの――」

 飼い主ちゃん、と言おうとしたところを突然、ネコちゃん先輩に口をふさがれました。ネコちゃん先輩はこっそりハムちゃんに囁きます。

「ダメよハムちゃん! アイドルが特定の誰かを贔屓しちゃあ!」

「あ……!」

 そうだった! 確かに、マネージャーさんから言われていた気がします。アイドルはみんなのもの。みんなのハムちゃん。ハムちゃんは平等にみんなを愛さなければならないし、それゆえにみんなもハムちゃんをアイドルとして愛してくれるのです。ハムちゃんは慌てて言い直します。

「大好きなのは、ヒマワリの種です!」

 かわいいー、と観客のみんなが返します。ハムちゃんとネコちゃん先輩は、ほっと一息。だけれど、ハムちゃんの胸がちくりと痛みました。飼い主ちゃんを嫌いになったわけじゃないのに。でも、他になんて言えばいいのでしょう。飼い主ちゃんが好き。みんなもネコちゃん先輩も好き。果たしてその好きは平等? 果たしてその好きは同等? ハムちゃんはよくわかりませんでした。だから、ひたすらに笑いました。飼い主ちゃんの、みんなの「アイドル」になれるように。

 飼い主ちゃんは、アイドルのハムちゃんをまだ見たことがありません。お仕事でライブに来れないからです。まだ新人でテレビに出れないからです。だから、せめておうちに帰ってあげたい、ハムちゃんはそう思いました。


「ただいま、飼い主ちゃん!」

 なんだかずっとずっと大きく感じる扉をくぐり、ハムちゃんは生まれて初めておうちで、「おかえり」ではなく「ただいま」と言いました。飼い主ちゃんの「おかえり」と、笑顔を信じて。すると、返ってきたのは、

「誰?」

 ハムちゃんと同じくらい小さな、女の子の声でした。

「……え?」

 ハムちゃんはハッとして辺りを見回します。そこに飼い主ちゃんの姿は無く、玄関で待っていたのは、金色の身体を持つハムスター。その子が入っているのは、ハムちゃんのケージ。あたしのお部屋。

 どん、どんどんどん、と心臓が揺れます。頭の芯が冷えていきます。どうして。どうして、なんで、知らない子が、あたしのおうちに、あたしの、お部屋にいるの! 当然みたいな顔して、飼い主ちゃんを待ってるの!

「あれ、ねぇ――」

 金色の子が再び口を開いた瞬間、ハムちゃんは踵を返し走り出しました。おうちから飛び出し、寮への道を真っ直ぐ駆けていきます。お外でこんなに速く走ったことはありませんでした。ケージの回し車やトレーニングルームのそれとは明らかに違います。道を流れていくいろいろな匂いと、身体全体を撫ぜていく風と。ハムちゃんはその懐かしさに身体を震わせました。これは、ハムスターが野生だった頃の、ハムちゃんのご先祖さまの記憶です。ハムちゃんの本能に焼き付いている記憶です。そうだ、あたしたちはこうやって駆けていた。あたしたちは紛れもなく自由だった。あたしたちは、何者でもなかった! ハムちゃんは懐かしさで胸がいっぱいになりました。でも、どうして涙が出るんだろう。どうして。きっとご先祖さまは、一匹でも泣いていなかった。

 あたしのおうちに、あたしに、「おかえり」なんてなかった。


 きっとあたし、飼い主ちゃんに捨てられちゃったんだ。全然アイドルに、「推し」になれてないし、おうちで飼い主ちゃんを待ってあげることもできない。だから、新しいハムスターが「ハムちゃん」になっちゃったんだ。ハムちゃんはそう思って泣きました。目を閉じると、金色の子のきらきらの身体が浮かんできます。あたしのくすんだグレーよりずっと綺麗で、あの子の方がよっぽどアイドルらしい。身体もあたしより大きかったから、歌もダンスもきっと上手い。あたしはアイドルになれなかったんだ。だから、飼い主ちゃんのハムちゃんじゃなくなったんだ。それだけがあたしの、あたしの全てだったのに。あたしの、あたしの。


「――ハムちゃん、あのね、」

 ナイチンゲールのような声でした。

「私、ハムちゃんに言ってないことがあるの」

「……ネコちゃん先輩?」

 ハムちゃんは、ネコちゃん先輩に抱きしめられていました。ひどい顔で寮に帰ってきたからです。他のみんなも、心配そうにハムちゃんを見つめています。

「よく聞いて、ハムちゃん」

 ネコちゃん先輩の声は、小さい子をあやすように優しいものでした。彼女は物語を紡ぐように言いました。

 ネコちゃん先輩は、実は黒猫なんだそう。でも、この国で黒猫は不吉とされています。アイドルのイメージにそぐわないので、ネコちゃん先輩は全身の毛を脱色したのだそう。だから、ネコちゃん先輩は最初からアイドルではなかったのです。

「私もそう」

 イヌちゃんリーダーの声です。ネコちゃん先輩と同じような調子で、彼女は言いました。

 イヌちゃんリーダーは、昔は長いしっぽがあったそう。でも、ダンスをするときに踏んづけて転んでしまうので、短く切ったのだそう。もう感覚はないけれど、たまに尻尾を振ると、まだそこにあるような気がして、涙が出そうになる、と。他のみんなも、「私も」と続けます。みんな、同じようなものでした。アイドルにふさわしいみんなは、ふさわしくなるために、いろいろな何かを、思い出の奥にしまってきたのです。

 みんなが話し終えた後に、ネコちゃん先輩は言いました。

「ニンゲンが多すぎるこの世界で、私たちが完璧に生きれるわけないの。何も失わない子なんていないわ。もしいたとしたら、それは自分を失ってしまったということよ」

 ハムちゃんは胸がつぶれてしまいそうでした。飼い主ちゃんの笑顔、飼い主ちゃんの手の温もり、飼い主ちゃんの声、匂い。全てが浮かんできて、嗚咽となって溢れ出ました。それから、みんなで泣きました。

 ハムちゃんは、ネコちゃん先輩の胸の中で思いました。ネコちゃん先輩はこんなにも優しくてかわいいんだから、アイドルなんてやらなくていいのに。こんなのにならなくていい。ならなくていいよ。そう、あたしだって。「やめてもいいんだからね」って、飼い主ちゃんは言ってた。もう、いいよ。


 ほんとうに?


 ねぇ、あたし、ほんとうにそう思うの?

 どん、と心臓が揺れました。その揺れで、身体が跳ねます。ネコちゃん先輩の腕がゆるんで、ハムちゃんは咄嗟に玄関の方へ振り返りました。とても大きな音と、声がしたからです。

「――ハムちゃん!」

 ハムちゃんがずっとほしかった、「おかえり」と言ってほしかった声。

「帰ろう、おうちに」

 飼い主ちゃんが、寮の玄関にいました。仕事帰りの服装です。息は荒く、髪は乱れ、額はじっとり汗ばんでいます。まるで、帰ってきてすぐ、おうちから全力疾走で駆けつけたようでした。

「……飼い主、ちゃん、」

 ハムちゃんの声は震えました。今すぐ走り出して、手のひらで包んでもらいたいと思いました。だけれど、足が動きませんでした。あたしのおうちを、お部屋を、奪われた記憶が。ちくちく胸を刺してきて、筋肉が凍りついたように動かなくなりました。

「誤解なの、ハムちゃん」

 飼い主ちゃんの瞳が、ハムちゃんを真っ直ぐ捉えました。

「あの子は、違うの」

 瞳の奥が微かに震えて、透明なしずくで濡れました。それでも、ハムちゃんを見つめたまま、飼い主ちゃんは話します。荒い息に、今にも崩れてしまいそうな声。

「友達から、預かってて。その子のケージ、洗って干してた、から。ハムちゃんのお部屋、仕方なく、ううん、全部言い訳だよね、」

 飼い主ちゃんは玄関に座り込みました。涙が一筋、目から頬を伝って、落ちていきました。

「ごめん、ごめんね。私、ハムちゃんの言葉だって、覚えたのに。少しもわかってあげられなかった、ちゃんと、話しても、全然わかってあげられない、ごめん、ごめんね」

 ハムちゃんは足を持ち上げました。凍りついていようが関係ありません。

「これじゃあ私、ハムちゃんの飼い主になんて、なれないよ」

 ハムちゃんは歩きだしました。飼い主ちゃんの泣いている顔なんて、一番見たくないからです。あたしが何であろうと、それだけは。ハムちゃんは息を深く吸いました。アイドルは、声を震わせたりしないのです。お腹に力を込めて言いました。

「おうちに帰ろう、飼い主ちゃん、」

 それであたしに、と続けて、ハムちゃんはニッコリ笑ってみせました。頬の筋肉はこわばっているけれど、気が遠くなるくらいに練習した、精一杯の笑顔でした。

「「おかえり」って、言って」


 それから、一年。ハムちゃんは、精一杯アイドルをやりました。歌もダンスも、どんなハムスターよりも上手くなりました。一生懸命にニンゲン語を話す姿と笑顔に、ファンのみんなは温かい笑顔を返しました。ハムちゃんはほんとうにがんばりました。飼い主ちゃんの、みんなの「アイドル」になれるように。

 そしてとうとう、とても大きなドーム公演を開くことになったのです。ハムちゃんはより一層がんばろうと思いました。だけれど、最近ずっと眠たいときが続いていて、ご飯もあまり食べられないし、この公演が終わったら、少しお休みしたいな、とか。そんなことを思いました。飼い主ちゃんは、もういいよ、とずっと言っています。だけれど、このドーム公演だけは絶対に成功させたいのです。ハムちゃんは、一匹でアイドルをやっているわけではないのですから。ネコちゃん先輩の、イヌちゃんリーダーの、他のみんなの悲願なのです。ファンのみんなも、事務所の所長さんも、マネージャーさんも、みんなが目指していたことです。ハムちゃんが飼い主ちゃんのためにアイドルをしているように、みんなそれのためにがんばってきたのです。飼い主ちゃんはもう一回、もういいよ、と言いました。

「ねぇ飼い主ちゃん、」

「なに?」

「あたし、そろそろ飼い主ちゃんの「推し」になれたかな?」

「なれてるよ、もう十分」

「ほんとう?」

「ほんとう」

「あたしのためなら死んでもいいって思える?」

「うん、思えるよ。でも、あんまりそういうこと言わないで」

「どうして?」

「……言わないで」

「……そういえば、ニンゲンの方の「推し」の子、まだアイドルしてるかな?」

「ああ、あの子?」

「うん、前はよくテレビに出てたよね」

「……もう、やめちゃったよ」


 ドーム公演の日が来ました。先頭をイヌちゃんリーダーが歩き、その後ろにネコちゃん先輩が続きます。他のみんなと一緒に、ハムちゃんはステージにあがりました。ファンのみんなの歓声が、ステージを、ハムちゃんの身体を揺らします。太陽のような照明が、会場全体と、ハムちゃんたちを照らします。

 嘘みたいで、馬鹿みたいで、夢みたいだ。ハムちゃんはそう思いました。こんなにたくさんのニンゲンの前に出たハムスターは、きっとハムちゃんだけでしょう。メンバーの誰かが、少しだけ声を漏らしました。ネコちゃん先輩のまつ毛は、イヌちゃんリーダーの背中は、僅かに震えています。ずっと遠くに、飼い主ちゃんの顔も見つけました。ああ、アイドルって、こんな景色が見れるんだ。そっか。

 ほんとうに飼い主ちゃんのためを思うなら、ずっと一緒にいてあげればよかったのかもしれない。でも、アイドルになりたいと思って、よかった。

 ハムちゃんは安心して、余計な力が身体から抜けていくのを感じました。何百回と聴いた音楽が流れ出します。その流れの中を泳ぐように、何百回と繰り返した振り付けと、フレーズ。ハムスターだってアイドルになっていいんだってこと、それで、ほんとうは、みんな何も失わずに、何にだってなっていいってこと、そう胸を張って言えるような世界を、あたしは見たいんだ。

 ハムちゃんは、アイドルになりました。


 ほんとうに夢のような時間でした。何曲も歌い踊ったハムちゃんはもうヘトヘトでしたが、トラブルも無く全ての曲を終えることができました。メンバー全員で別れと感謝の言葉を何回も伝え、ステージから去っていきます。照明が通常の明るさに戻り、夢から醒める時間だと会場全体に告げました。それでも、ファンのみんなは割れんばかりの拍手を送ります。ハムちゃんは、それに言いようのない喜びを覚えながら、舞台袖で胸を撫で下ろしました。そして、


 ぐらりと、視界が揺れました。


「ハムちゃん!?」

 メンバーのみんなが声をあげて駆け寄る音が聞こえます。心臓が激しく鳴る音が聞こえます。ハムちゃんは、全ての力が抜けて、ぱたりと倒れ込んでしまいました。

「意識はある!?」

「救急車!」

「手が空いてるスタッフ全員来て!」

「飼い主ちゃん呼んで!」

 みんなの切羽詰まった声が聞こえます。だけれど、ハムちゃんは確かに聞きました。ステージの方から、まだ鳴り止まない拍手と、「アンコール」の声。それはどんどん大きくなり、みんなも気づき始めたようです。ハムちゃんは、身体のどこも動かせない中、考えました。

 アイドルならば、どうするだろう。アイドルならば、「推し」ならば。答えはもう、わかりきってる。

「みん、な、」

 上手く息ができません。でも。でも、あたしは。

「だい、じょうぶ、大丈夫」

 ほらこうやって、深く息を吸って、吐けば。ハムスターだってアイドルになれる。

「行こう、」

 足に力が入りません。でも。でも、あたしは。

「みんな、待ってるよ」

 ほらこうやって、何度も持ち上げれば。ハムスターだってアイドルになれる。


「ねぇハムちゃん、」

 ふわりと、身体が浮きました。辺りを見ると、手のひらの上にハムちゃんは乗っているのでした。温かい手のひらです。飼い主ちゃんの手のひらです。

「もう、いいよ」

 観客席から急いで駆けつけてくれたのでしょうか。飼い主ちゃんの髪は、服は、少し乱れていました。ハムちゃんは、また飼い主ちゃんが泣いちゃうんじゃないか、とぼんやり思いました。飼い主ちゃんは、あのときみたいな顔をしていました。

「ハムちゃん、だってもう、ハムちゃんはさ、一年も、アイドルをしたんだよ」

 でも飼い主ちゃんは、笑いました。泣きそうな顔で、笑いました。

「ハムスターの寿命、知ってるでしょ? 普通に生きて、二年か三年、長くて四年なんだよ」

 寿命。ハムちゃんの、残りの命。

「もう、限界なんだよ。ハムちゃんの身体」

 気づいていないわけではありませんでした。でも、ハムちゃんにとって、それはあまり重要なことではなかったのです。飼い主ちゃんは続けます。

「アイドルになれたのだって、そういうことなんだよ。ハムスターのアイドルが今までいなかったのだって、つまりそういうことなの。身体がもたないの。だからアイドルになれないの。ハムちゃんはさ、それでも、それでも命を削ってるの。その一瞬のきらめきを信じて、みんな応援してるんだよ。とても美しくて、無垢で、素敵かもしれないけどさ、こんなのっておかしいよ、そこまでする必要ないよ、ハムちゃん」

「……飼い主ちゃん」

 心臓は鳴り止みません。拍手も鳴り止みません。飼い主ちゃんの顔を見て、ハムちゃんは胸が痛くなりましたが、迷いませんでした。

「必要かどうかじゃないの。あたしは、飼い主ちゃんのハムちゃんだから。それだけなの」

 そう。それだけ。飼い主ちゃんは、それでも言いました。

「全ての生き物は、心臓の鼓動の回数が決まってるんだよ。ハムちゃんががんばればがんばるほど、その回数がどんどん減ってくの。ねぇ、ハムちゃんは、今までにどれくらい、心臓を揺らしたの」

 そんなの、わかんない。でも、アイドルにならなければよかったとか、ずっとおうちにいればよかったとか、そんなことないよ。きっとそんなことない。あたしはほんとうに、アイドルで、飼い主ちゃんのハムちゃんで、よかったんだよ。

 そんなことを考えて、ハムちゃんは言いました。

「ねぇ飼い主ちゃん、早く席に戻って、あたしを見て。舞台袖からじゃ、一番かわいく見えないから」

 飼い主ちゃんは、その言葉にぎゅっと顔を歪めて、それから。ゆっくりと、ハムちゃんを手のひらから降ろしました。ハムちゃんはニッコリ笑って、最後に口を開きます。

「あたしをあなたの「推し」にして」

 ハムちゃんにとって、それは祈りの言葉でした。


 会場の照明が落ちて、ワァッと歓声に包まれました。暗闇の中、ハムちゃんたちはステージに戻ります。いつもの位置、いつものメンバー。さっきまでと全く同じ空間。だけれど、ハムちゃんの身体はとっくのとうに限界でした。くらくら視界が揺れて、もやがかかったようにくすみます。ハムちゃんは少し息を止めて、下を向きました。地面が揺れているようだけれど、まだどうにか立てています。自分の鼓動で身体が揺れているのか、それすらも分かりません。でも、みんなの声でこうして世界が揺れるのならば、それも悪くないかも。顔を上げ、はっと息をつきました。

 暗いはずの会場に無数の光が満ちています。ファンのみんなが掲げるペンライトです。隣のネコちゃん先輩の、衣装に縫い付けられたスパンコールが、彼女の丸い瞳が、前に立つイヌちゃんリーダーの、彩られた爪が、流れる汗のひとしずくが。ハムちゃんの視界に映る全てが。光を返し合い、霧を晴らして夜空に浮かぶ星屑のようでした。ハムちゃんはそのとき、ようやく気づいたのです。私が探していた、私がなろうとした、誰かを照らす光とはこれなんだと。

 飼い主ちゃんのためとか、あたしのためとか、ファンのみんなのためとか。きっとそのためなんだろうけど、そう言い切ってしまえばそれまでなんだけど、それだけじゃない。たぶん、あたしにもわかりそうにない、とても大きな何かのために立っているんだってこと。


 ハムちゃんは歩きだしました。自分の位置を離れ、ステージの真ん中に立ちました。照明が、ハムちゃんだけを照らします。何かを感じ取ったファンのみんなは、静かに口を閉じました。ハムちゃんの小さな声が、マイクを通じて、しんと静まり返った会場全体に響きます。

「みんな、もしかしたら、あたしがステージに立てるのは、今日が最後かもしれない」

 息を呑む音。心臓の鼓動。

「ほんとうは、今すぐにやめるべきなんだと思う。みんなもさ、最初は思ったよね、ハムスターがアイドルなんて、って」

 一年前のハムちゃんの姿が思い浮かびます。オーディション会場で縮こまっていた、あの小さな、女の子。練習で転んでばかりいた、女の子。ハムちゃんは、全てが愛おしく思えました。大きく口を開きます。あたしの知ってるアイドルは、そう、アイドルは。声を震わせたりしない。

「だけどあたし、みんなが大好きだから、アイドルが、大好きになっちゃったから! これだけは伝えたくて! ずっとここに、立っていたくて!」

 身体中の全ての息を吐き出しました。でも、苦しくなんかありません。頭が揺れるような音響も。焼けそうなくらいに熱い照明も。身体が飛び跳ねるくらいのステージの揺れも。アイドルのハムちゃんならば、全てが心地よく感じられるのでした。そう、そうだ。あたしは飼い主ちゃんのハムちゃんなのだから。それだけがあたしの全てだ。

 ハムちゃんは、ニンゲン語を喋るのをやめました。

「それから、ほんとうに大切なことが、もうひとつ、あって、」

 ハムちゃんは最後の力を振り絞って、太陽を見上げる花のように笑いました。細い手足は震え、胸も大きく波打っていました。それでも、笑いました。

「あたしがほんとうに、ヒマワリの種よりも、ほんとうのほんとうに大好きなのは――」

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