アソートワールド

さしみ

#1 さよなら日常

 人生で必死になったことはあるだろうか。


 例えば、スポーツで一点を奪い合うような切迫した勝負の場面や、第一志望の受験で分からない問題を必死に考えている時とか、あるいは、打ち込んできたゲームで強敵ににぶち当たりギリギリの戦いを繰り広げたとき等そういった記憶は否応なしに深く自分の脳に刻まれてしまい、その場面での勝敗にかかわらずそれに付随する感情までもが鮮明に思いだせるものだ。


 自分にとってのその瞬間は、ある春の日突然訪れた。


 コンビニに出かけた帰り道の事だった、遊歩道にはこの季節以外自然界ではあまり見ない淡いピンク色の花弁を一杯につけた桜の木が自分の美しさをこれでもかと言う程にアピールする様に咲き誇っていた。


 色とりどりな綺麗に舗装された遊歩道を暫く歩くと、近所の公園で遊ぶ数人の小学校低学年と思われる男の子を見かけた。彼らは砂場で何やら遊んでいる様だが位置的に遠すぎて何をしているかまでは見て取ることはできなかった。


 小さい時はよく遊んだなと呑気に考えていると、目の前の公園の出入り口から突然ボールが飛び出してきた。俺は手前に居たのでボールにぶつかることはなかったが、もしあの場所に居たらボールに当たって転んでいたことだろう。そうなってしまにっては、このコンビニで買ってきた期間限定商品の『春限定 桜餅風ソーダアイス』が下敷きになって崩れていたかもしれないと考えるとゾッとする。


 取り合えずサッカーボールを取ってやろうと思った俺は、近くにあった花壇の縁にアイスが入ったレジ袋を置こうとしていたその時だった。公園から猛ダッシュで子供がボールを取りに来ていた。公園の出入り口の前には横断歩道が設置されているが、子供はボールしか見ていなく止まる気配は無かった。何も無ければそれでいいのだが、運悪く俺の真正面からトラックが走りこんでくるのが見えた。


 突然のことに驚いた運転手は急いでブレーキを掛け甲高い金属音が鳴り響くが、車体の重さとスピードもあってか、見るからに衝突は避けられない勢いだった。俺は走って子供を止めようとしていたが到底間に合わない距離だった。子供はボールに夢中でもう横断歩道まであと数歩という所まで差し掛かっていた。


 間に合わないと悟った俺は走りながらも、横断歩道その子供にこれまでに出したことが無い程の大声で叫んだ。


「危ない!!!」


 そんな俺の言葉が通じたのか、いや、正確には通じなかったのか。子供は横断歩道に飛び出してしまったが車の方が間一髪本当にあと数センチの所で停止した。安堵した俺はほっと胸を撫で下ろしその場を後にした。


 家に帰り着き、部屋の椅子に腰かけると高揚していた心に一気に安堵感が増して冷静になり、さっきの場面を改めて思い出していた。もしかしたら目の前で一人の男の子が無残にもトラックに轢かれる姿を見ていたかもしれないと思うと、冷や汗がじんわりと出てきた。


 ぽかぽか暖かい春の日差しが窓から入り込み、涼しい春風が窓から入り込んでくる。心地いい気候で眠気が込み上がってきてベッドで寝転んでそのまま眠ってしまった。


 眠りにつく前にそういえばアイスを花壇に置いてきたままだった事に気づくが、強烈な睡魔には勝てずそのまま眠ってしまった。


 肌寒さを感じベッドから体を起こすと、すっかり夜になっていた。寒さを解消する為に、窓を閉めエアコンを付けようとするがリモコンはテーブルの上に置いてあった。


 仕方なくベッドから起き上がってリモコンを取ろうとすると、俺の足元から生暖かく柔らかいマットを踏んだような感触がした。特にカーペットとかを部屋に敷いていないので不思議に思いながらも足元を見つめると、そこには灰色の毬みたいに丸まった毛皮の塊があった。


 思わずビックリして声を出すと、ゆっくりと銀色の塊が元々の形を成していく。出来上がったのは月明りにきれいに反射して銀色に輝く灰色の毛並みの猫だった。


 まだ覚醒していない頭で考えた結果、昼間寝るときに窓を開けていたからそこから入ってきたのかと思い、猫を抱えて外に出そうとする。おばあちゃんの家で猫を飼っているから、猫の扱いはお手の物だった。


「気軽に触んじゃねぇ」


 そーっと猫の腹に手を入れようとした俺の手をするりと躱してその猫はベッドの上に乗った。口を開けた猫からは、腹話術みたいにおおよそ人間以外の種からは聞こえてこない青年みたいな声が聞こえてきた。


 余りにも現実離れした出来事に、信じられない俺は小さく「気のせいか」と呟きもう一度持ち上げようとする。


「だから、触わんなって言ってんだろ!」


 目の前の猫は確かにそう言うと、俺の目の優雅に飛び上がると爪で顔を引っ搔いてきた。意味不明な状況にパニックになった俺は咄嗟に逃げようと思い、ドアを開けようとするが何故か部屋の扉が開かなくなっていた、「そんなことしても出られないぞ」と猫は喋った。


「なんなんだよこれ!」


 少し語気を強くするも猫はどこ吹く風といった感じで、俺が座っていたベッドの上に乗って話を始めた。


「そんなことはどうでもいい、なんで来たかは分かるか?道波《みちなみ》まこと


 俺の頭はハテナだらけだった、こいつはなんなのか、何でここにいるのか、連行とは何なのか、何も分からなかった。問いかけに反応できずにいると図々しくも部屋に居座る猫は純白の牙をむき出しにして、眠そうにあくびをする。


「あーそういう事ね、自分の状況が分かってないんだ。まあいいや早く終わらせたいし、今お前に残ってる選択肢は二つ、おとなしく俺に連行されるか、抵抗して気を失うか。どっちにする?」


 何故こうなっているのかは理解できないが、とりあえず自分がどれだけ危機的な状況に追い込まれているのかは嫌でも理解できた。


 余計な事を話すとなにをされるかわからないと思った俺は覚悟を決めた。


「わかったよ、おとなしくするよ」


「そうか、案外おとなしいんだな、を犯したくせに」


 その言葉を最後に何か硬い物が俺の後頭部に激突した様な鈍い衝撃が走り、意識が落ちた。

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