月夜の晩に

@sakamono

第1話

 ミクリという名の水草を知っていたので彼女の名前を聞いた時、その植物からの命名なのかな、と私は思った。

「違う違う。水繰って書くの」

 カウンターの上に指で文字を書きながらミクリは教えてくれた。目の前に置かれた二合徳利二本は既に空いていて、三本目を手酌している。小鉢に盛られた鶏モツの煮込み、鱒の塩焼き、もろきゅう。上機嫌でママから歓待を受けている。

「毎年今頃来てくれるから、うちでもてなしてるの。先代から引き継いで、もう四、五十年くらいかな?」ママが言った。

「そんなに長いおつき合いなんですか」

 ママが還暦をとうに過ぎていることは聞いていたから、商売柄、そんなつき合いもあるのかもしれない。私はコップに注いだビールを飲んでぎんなんをつまみ、カウンターの隣に座るミクリの顔を改めて見た。肩で切り揃えられた黒々とした真っ直ぐな髪、小動物のような黒目がちの小さな目、女性にしては低い声、どこか中性的な顔立ち。なぜか緑色のジャージを着ている。

 ママと年齢が近いようには見えなかった。二十代でも通るように思えるけれど年齢不詳の印象を受ける。少し見過ぎていたかもしれない。

「あれ、今朝会ったよね」こちらを向いたミクリが言った。


 ここ数日、秋雨前線が停滞していた頃のような雨が続いた。雨は昨日の夜半になって激しい雨音を聞かせた。遠く雷鳴も聞いたような気がするのだけど、布団の中の夢うつつのことだから確かなことは分からない。昨日で暦の上では冬になった。こんな時期に雷? 寝起きのぼんやりした頭で私は思った。

 布団の中で伸びをした。枕元の時計は午前六時半。外に雨の上がった気配を感じる。頬にふれる部屋の空気はさして冷たくない。目が覚めてしまったものは仕方がない。私は意を決して布団をはねのけ、起き上がるとカーテンと窓を開けた。思わず身震いする。アパートの前を流れる野川から川霧が立ち上っていた。外は初冬の空気。川霧は下手に向かってゆっくり流れていた。

 二階の窓からはその先に広がる平たい町並みが眺められる。東の空に低くたなびく雲が昇ったばかりの日を隠しているけれどまだ夜の色を残す西の空に雲はない。今日は晴れそう、と思い、ふと川の上手を見ると川霧の中に何か動くものが見えた。野川に架かる小さな橋の向こう。人? 川の中をこちらに向かって人が歩いているようなのだった。私はパジャマの上にカーディガンを羽織り、寒いだろうと靴下もはき、サンダルをつっかけた。玄関のドアノブに手をかける。一体、誰が来たのかな。

 アパートの敷地から路地へ出て左に折れるとすぐに小さな橋と人道橋がある。橋の中ほどで私は欄干に手をついて野川の上手を眺めた。細かな水の粒が顔に当たる。人影が近づいて来てその姿が次第にはっきり見えだした。女性? そう思ったのは肩のあたりで切り揃えられた真っ直ぐな髪が目についたからだった。着ているのは緑色のジャージ。私が高校生の頃に体育の授業で着たジャージに似ていた。下の裾を膝の上までまくり上げ、川の中をこちらへ向かって来る。なるほど、川の中を歩くにはジャージがいいのかもしれない。

「あら、おはよう」

 唐突に声をかけられて横を向くと首にタオルを巻いたジャージ姿のわに屋のママが立っていた。

「ウォーキングですか?」

「雨でしばらく歩けなかったから。今日はいつもより、ちょっと早め」

 人道橋を渡ったところにある木造平屋の古ぼけた小さな家屋が、ママの住居を兼ねた飲み屋で、うちから近いこともあり私はわに屋の馴染みになっていた。ママが健康のため毎朝ウォーキングをしていることは聞いたことがあった。

「早起きね。いつも散歩してるの?」

「今日はたまたま目が覚めちゃって。誰か来たみたいだったから、迎えに」

「誰か?」

「あそこに……」

 私は川を見下ろした。うっすらと切れてきた川霧の中をゆるゆると川が流れている。誰もいない。

「さっき、川の中を人が歩いてたんだけど」

「本当!」

 ママがうれしそうに声を上げたので私はびっくりした。

「きっとミクリだわ。今年も来てくれたのね」

 ミクリ? それがあの人の名前なのかな。

「今夜いらっしゃいな。ミクリに会えるわよ」

 ママは繰り返し「いらっしゃいな」と言いながら自分の家に向かって橋を渡っていった。振り返ると雲の上に顔を出した日が低い町並みと野川の川辺をオレンジ色に照らしていた。


「あの時、姿が見えなくなっちゃったけど、どうしたんですか」私は言った。

「すぐに来ると思ってお風呂沸かして待ってたのに、なかなか来ないから心配しちゃったわよ」

 カウンター越しのミクリの酌を白磁のぐい呑みに受けながらママが言った。

「川エビが捕れなくて。つまみにと思ったのに」

「何言ってんの、川エビなんて夏頃のものでしょ」

「川エビの唐揚げ、好きだから」

「去年も言ったのに」

「だめよ、去年の私に言ったって。だけどそれだけじゃなくてね」

 ミクリは言いさして杯を空け自分で酒を注いだ。酒はよく飲んでいるけれど、つまみはほとんど手つかずだ。鱒の背中がひと口かじりとられている。まるでお供え物のようだった。

「キツネが出たの」ミクリは言った。

 いつからそこにいたのか、キツネが岸からじっとこっちを見ていて。まずいな、と思ったらそのうち落ち葉をくわえて川に近づいてきたの。あ、まずいまずいと思っているうちに、くわえた葉っぱからぽたぽたと水をたらし始めて。そんなことされたらもうだめ。あっという間に大水になって肩まで水につかっちゃった。

「お風呂沸かしといてよかったわ。ずぶ濡れで来るとは思わなかったけど」ママが笑った。

「温まってゆっくり眠れてよかった」

「ずい分前にもずぶ濡れで来たことあったわよね」

「最近キツネは減ってきてるから、油断したなあ」

 私はビールを飲みながら酔った頭で二人の会話をぼんやり聞いていた。

「じゃあ、行こうかな」ミクリが立ち上がった。

「あら、もう? そうね。いい時間ね」

 午後九時を過ぎたところだった。つまみをほとんど残したまま一体どこに帰るのだろう。隣に立つミクリを見上げて私は「それじゃ」と会釈した。そして次のミクリのひと言にびっくりした。

「あなたも一緒に」


 昼間はよく晴れて暖かだったせいかその夜はさほど冷え込みが感じられなかった。足元の濃い影に人道橋の上で夜空を見上げると東の空で半分になった満月が、低い町並みと野川の川辺を青白く照らしていた。二つの影が並んで歩く。

「どこに行くんですか?」私は聞いた。

「あそこ」ミクリは私の住んでいるアパートを指差した。

「あのアパートの裏の林の中」

 私の住むアパートは野川に連なる崖を背にして建っている。崖の緩い斜面は雑木林になっていて、そこにアパートの裏手から崖上まで自然散策路といった体の小道が、つづら折りにつけられている。その小道にミクリが先に踏み入って手招きする。

「大丈夫。今夜は林の中も明るいから」

 私はミクリの後に続いた。小道に降り積もった落ち葉がここ数日の雨でしっとりと湿っていて足の裏にやわらかな感触を残す。これだけ落ち葉を降らせていても、てんでに伸びたカシやケヤキの枝先は、まだたっぷりと葉が茂っている。すっかり葉を落とすのは本格的な冬になってからなのだろう。

 ミクリの言った通り林の中は妙に明るい。半分ほど上ったところで先を行くミクリが立ち止まった。そこには私の膝ほどの石造りの小さな祠があって、辺りの木々が少しまばらになるので空が望める。そのせいか少し明るさが増したように感じた。青味が増したといった方がいいかもしれない。周りの空気に含まれる水の粒に、濃紺の夜空が溶けだしたように林の中がうっすらと青白い。しんとした林の中にじっとしていると、かすかに水の流れる音を聞いた気がした。それはあまりにかすかで聞くというより気配がした、といった方がその時の私の感覚に近いと思う。

「ほら、ここ」

 ミクリの指差す先を見る。祠の脇を細く水が流れていた。脇から出た水は小道に沿ってしばらく下り下草の中へ消えてゆく。流れる水が自然に作った細い溝。私は祠の裏をのぞいた。背にした崖の斜面から岩肌をなめるように染み出した水が、下に着くと幾筋もの細い流れを作っていて、小さな蛇のようなその流れが祠の脇で一つになると小道に沿って溝を下っているのだった。そして崖の斜面にはぽっかりと丸い穴が空いていた。中に埋まっていたスイカほどの丸い玉がこぼれ落ちたような穴だった。私は穴の内側をさわってみた。内側はつるりとしていてなめらかで何か丸くて固いものが埋まっていたように思えた。私はそのまま背中越しにミクリに言った。

「何でしょう、これ」

「地脈が通ったしるし」ミクリは言った。

 その時、後ろからほんのわずかな光が差したように思った。青白かった林の中に淡いオレンジ色が染み出すように少しずつ辺りの色が変わってゆく。私が振り向くとこちらに背を向けたミクリが大きなカシの木を見上げていた。見上げたカシの枝先はたくさんの小さなぼんぼりが灯されたようにぼんやり光を放っている。

 それは枝先にからみついたカラスウリだった。

「それじゃ仕上げ」

 ミクリが言うと、ぽん、ぽんと軽快な音をたてカラスウリが次々に弾け、その勢いで中から飛び出した小さな蛇が光の尾を引いて空へ昇ってゆくのだった。

 私とミクリはしばらく無言でその様子を眺めた。

 最後の一つが弾けると辺りは元の青白い世界に戻った。

「どうして私を誘ったんですか」

「ヒトに立ち会って欲しくて。水が滞ったら困るでしょ」

 確かにその通りだと私は納得する。

「今年のお役目は済んだから、もう帰るね」

 ミクリが小道を崖上に向かって上り始めた。

「わに屋に戻らないんですか」

「私の残したつまみとお酒、片づけちゃって。また来年の私によろしく」

 そう言ってミクリはまた歩き始めた。

 そっか、直会か。

 私は元来た道を下った。

 葉の茂った枝の間から丸くなった満月が見えた。

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