ミカ
つきのはい
ミカ
ミカは先日、床に描いた絵を眺めていた。
絵を描いたのは先々日の夕暮れ時だった。
いつものように、沈む太陽は赤く輝いている。この部屋唯一の窓から、その赤い光が差し込んできて、描いている床の絵を照らし出していた。
ミカが描いている絵は世界の断片だった。
他に、壁や天井にも描かれているが、これが世界である事を知っているのはミカだけである。
それは当然のことだった。ミカからしても、その絵の中に住む人からしても、この部屋の中で活動する世界はごく当たり前なのであった。
流れていく時間に規則はないが、世界が更新される(土地が増える)には、精々ミカが描き始める必要がある。そうでなければ、世界の面積はずっとこの数値なのだ。
ミカは先日、床に描いた絵を眺めていた。
絵の中で繰り返される毎日は、すごく退屈で、眺め続けることも退屈だ。
そこで、ミカが少し、ほんの少し軽く絵に描かれた世界に触れてみると、その世界で生きている人達はなんだなんだと騒ぐのである。
世界にとって、ミカの発する声や吐息は、超常現象となって降りかかるのだ。
現実でいう地震や落雷や台風のような、天災の一部として二次元の絵に影響する。
その、影響したことで住人達がパニック状態になるのを眺めている事は、ミカにとってそれまでの退屈を破壊する行為に等しく、実に爽快で気分が良くなる。
その感情が確かに、ミカの中にあるとミカは自覚していた。
そして先日に引き続き、また今日も世界の平和を脅かしてやろう。ミカは自分の中でそう気ままに決めていた。
流れていく時間に規則はない。ミカが生み出す時間が規則的でない限り、その絵に添えられた時間が規則という紐に縛られる事はありえなかった。
時間が規則性を帯びないという事は、その中では非常に過ごしづらくなるらしい。世界の断片と勝手にミカは名付けていたが、その絵の中で住む者達が時間の不規則を理由に、病を患っていたことは知らなかった。
ミカは自ら描いた絵を、天井から壁、壁から床へと、上から下に視線を下げて見ていった。平らな面を、人々が行き交う様はやはり飽きてしまう。
平和を脅かすのは、住む人達にとってみればとんだ迷惑だ。それをわからずに行っているわけではない。ミカの中でも多少悪く思っている。そして、そう思っているにも関わらず尚もしてしまうのは、毎回自分の欲に目が眩むからなのだ。
ミカが呼吸をする。描かれた絵『世界の断片』に台風が発生する。人々に災害としてそれが襲い掛かる。
面白い。楽しさがこみ上げる。心の底の方でぞくぞくと悪の自分が喜んでいた。
ミカは我に返った。少し遅かった。目の前にある絵は悲惨な事態となっている。
「また、私はなんてことを……。非道な」
ミカは荒れた地を指でゆっくり、すうっとなぞった。
ミカはある事に気付いた。
台風で崩壊した家の瓦礫の上で、真っ直ぐ立ち尽くす一人の男がいることに気付いたのだ。
男はミカの存在に気付いているのかもしれない。それほどその男は、その世界の空を仰いでいた。事実、男の視界にミカが映るわけはない。ではなぜ見つめているのか。そして一人だけ助かっているのか。
ミカは彼に尋ねたいことが少々あった。
すると、一瞬にして平面に描かれていた男が絵の中から抜粋され、そこに実物として出現した。確かに実体だ。映像や二次元の絵ではなく、ミカと同じように呼吸をする、人間という動物だ。
「君、名前は?」
ミカは男に尋ねた。男は、絵から抜け出てきたことについて驚きはしなかった。特にミカの部屋中に描かれた『世界の断片』なる壁画についても、それを見たところで大して表情を変えなかった。ただ質問だけに答えた。
「名前はありません。僕はこの絵の中にいた絵の一部ですから。あるとしたら『世界の断片』です」
「世界の断片……え? 確かにこの絵の名前は『世界の断片』だけど、それはあくまで私自身が私自身の中で、その絵を呼ぶ手段としての仮の名前としてつけたんです。決してこれがそういう名前であるわけではありませんよ。ただ必要だっただけなんです。名前が」
「何を言っているんです? だから先ほども言いましたが、あるとしたらの話をしてるわけです。でもよく考えてください。名前を付ける時、それには全くふさわしくない名称を仮にだとしても使うでしょうか? もし林檎があり名前がわからない場合、林檎に全くふさわしくない名前を付けるでしょうか? 林檎は赤いですから『赤』とか『赤いそれ』という名前で呼ぶのならば頷けます。でも『黒』だとか『三角』だとか林檎という物体の外見からわかる情報に無関係なものの名前を付けては、仮であってもわかりにくいじゃないですか? だから例え保留にされている仮の名前であっても、僕はそれを使わせていただきます。それに、おそらくこの絵の名前はこれになりそうなので」
男は絵を眺めた。床から天井へじっくり。そんな男をミカは見ている。そしてまた口を開いた。
「どうしてか尋ねていいですか?」
「何をです?」
「絵から出てきたことです」
「はい、いいですよ」
「では、なぜ?」
男は真剣な眼差しでミカを見つめた。
「この、あなたが描いている絵の中にいる人間は、あなたの気まぐれによって日々を送らなければなりません。あなたが絵を描き出せば、絵の中にあるそれまで停止していた時間が動く。それぐらい、描いていたあなた自身も気付いていたのでしょう?」
「ええ、まぁ」
「この絵の中と、現実の世界との間にある違いはたった一つです」
「それは?」
「時間が止まるか、止まらないか、という事です。しかし、この絵の中に入らなければわからない事があります。それは時間が停止していても動くことはできるということです」
ミカは混乱した。男の説明の矛盾した点が、やけに気持ち悪かった。
「停止しているのにですか?」
「この絵はあなたが描く事で開拓される。開かれていなかった土地は静かなままですが、僕が居た所、つまり、もうすでに家々が立ち並ぶような、開拓を終えた土地は静かなわけではありません。絵が描かれなくなると、住人達は時間という枠から外れ、ただ意味もなく生活を続けるのです。あたかも最初からこのように過ごしていましたとでも言うように。そうなると、あなたが次に気まぐれで描こうとした時、人々の生活の時間帯と、絵の中で新たに送られる日々の時間との間にずれが生まれます。例えば夕方に起きるとか、真夜中にお昼ごはんをとったり、学校にいったり、とにかくそうした、生活のリズムにずれが生じるんです」
男は絵を見ながら話していた。
もう外に夕陽の姿は無く、残酷な朱色の空もただの闇に化けていた。
闇夜に一つ、丸い形をして白い光を放つ星が観えていた。その光は半分開いていた窓から、ミカの部屋に注ぎ込まれていた。
それが床に描かれている『世界の断片』を照らしているのは、ごく普通の光景だった。
この光が絵に当たっているにも関わらず、この絵の中にある世界には届いていないというのは、やはり少々不思議であった。
「では私はどうしたら? あなたが言う話を聞いていると、明らかに私が悪いと、そう示唆した話し方だなと、私は感じるのですが」
「だってそうでしょう? あなたが絵を描く事に終始命を吹き込むなんて決めなければよかっただけの話じゃないですか」
ミカは目を丸くした。男は怒るというよりも、哀しそうな表情をしていた。その表情を作ったのはミカなのだろうか。
なんて寂しそうな顔をしているんだ。
ミカはそう思った。
男が生きていた世界は、私のほんのわずかな遊び心で崩れてゆく。描き出す思考が彼らの命に直結しているわけではない。これは絵である。絵は、消す事ができる。
画用紙は水に弱いことくらいミカは知っていた。ただ壁画というのは違うはずだ。描く際に込めた気持ちを消す事は難しい。壁や床は常にミカの周囲に居る。そこにこの男のような人の居る絵を描いているのだ。ただ一つの遊び心で。
「私が悪かったんですね。では、どうしたら罪滅ぼしになるのか教えていただきたい。名前もまだ決まっていませんが、あなたは私よりも幾分賢いみたいなので」
「今、僕はこちらの世界に居ますが、絵の中の世界はもっと残酷です。あなたが不定期に絵を描くものですから、住人達はおかしい速度の時間を味わいながら過ごしている。あなたが絵を消すか、定期的に描くか、どちらかを選んでください。そうでなければ、絵の中にある命は無意味に死んでいくだけです」
「わかりました。私がどちらかを選べば全て解決するのですね」
「ありがとうございます。これで全ては解決しました」
ミカの部屋いっぱいに煙が立ち込めている。同時に真っ赤な炎が燃え盛っていた。ミカは窓から部屋の中を覗いていた。
「あなたも……」
「はい、そうです。勿論僕も絵の中に居た人間ですから。絵が燃やされると、僕も死にます」
男の下半身が炎に包まれている。そして部屋が炎に包まれ、燃え終えたところから黒い屑と灰になる。
「では、僕はこれで。もう会うこともないでしょうね。きっと」
「ええ。そうでしょうね」
次第に火の手が男の全身を包み、男は悲鳴一つあげることなく灰となった。
灰はどこからか吹く風に乗って、外へ出て、ミカから遠く離れた上空に舞い上げられていった。
「なんなのでしょうか、この気持ちは。……なるほど。おそらくこれが私の受ける罰なんですね。人の命の重みを忘れた私への」
風は、何もない空から吹いてきていた。
ミカ つきのはい @satoshi10261
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