パッチワーク

さんせっとぼーい

月、墜つ

落ちている。真っ逆さまに。いや、真上にか?

それはわからないが、ただ惹きつけられていることはわかる。ここは真っ暗で近くのものも何も見えない。でも遠くの方から鈍く暗い、まるで雨雲に覆われた通学路のようななにかが見え、それに引き付けられていた。引き付けられている方にはぴかぴか鋭く光る何かがある。

なんとか逃れようともがくが、まるで押さえつけられているようにその場から動くことができない。息も続かない。抵抗することはできないと悟り、気づけばもがくことを諦めていた。

とにかく息を、早く吸いたい。

きらきら光っていた頃を思い出す。するとかすかに灯っていた矜持を蝋として扱ったような蝋燭の煙の中からぷくぷく、きらきらした泡が噴き出してくる。それを一生懸命吸った。息を続かせる為ではない。安心のためだ。そしてふっと思い出した。

「あ、俺は月だったんだ」

すると、空間はぐにゃりと曲がった。


ジリジリと急かすような音が聞こえ、毛布の中でもがきながら目を開けた。

なんだか重い感触で目覚ましを止め、そのままの勢いで立ち上がる。

そしてさっさと朝の支度を終えて中学に行く準備をした。

秋晴れの澄んだ空気は妙に刺々しく、冷気は肌に突き刺さるようだった。目の先には美しい空の青と重苦しい枯れ葉の濃茶の色とが歪なコントラストを成していた。

ほんの少しだけ重い足取りを、足枷を振り切るようにスピードを上げて歩いた。

その最中、左手にある一軒だけ周りに馴染んでいない、まるで地中海にあるような、蜜柑のような屋根、本当に砂で固めたような白塗りの壁が特徴的な建物が目に入る。その蜜柑は本当に地中海のオレンジの木になっているような鮮やかさで、光を象徴するような白色と共に僕を嘲っているように見えた。アトリエだ、そこで絵を描いていた。コンマ数秒だけそこに向いた意識を進路に向け、前を向いて歩いた。しかし、記憶が流れ出ることは止められず、最も古く鮮明な記憶が頭を駆け抜けていった。


俺は負けた。Bという超新星に、コンペティションで。

神童と言われていたはずの俺が。

最も綺麗な風景を描いたものが最高賞をもらえる。いつも通りそれは俺であるはずだった。

しかし、その日は違った。2位に甘んじたのだ。

それも圧倒的実力差で。それに加え、俺は気づいていた。この差は1と2の差ではない。その絵たちの間には越えることのできない、高く険しいゴツゴツとした岩肌があることも気づいてしまった。

生まれてはじめての敗北の味は噛み締めるにはまだ早かったらしい。俺はそのまま絵を辞めた。


そんな取るに足らないことを思い出していると、いつのまにか学校に着いていた。フワッと立ち上る土煙の中を目を細めながら歩き、褪せた壁の建物の中に入っていくとすぐ靴を履き替え、教室に向かう。席に着く。号令がかかる。

さっきの記憶の奔流よりも速く現実は流れ去っていった。


特にやりたいことも決まっていないため漫然と受けているだけの授業が終わり、行きの巻き戻しのように教室を出、靴を履き替え、褪せた壁を背に中学校から歩き出す。次はアトリエが目に入らないようにしないと。そんなことを考え帰路についた。


家に帰っても特にすることがないので、とりあえず朝ぶりにベッドに寝転がり、呆然と時間の流れを待った。寝て時間を潰そうかなと考えたが、よくない夢を見る予感がしたのでやめた。





気づいた時にはすでに夕飯時。親から呼ばれる声がして、家の階段を下りLEDがピカピカ光り、テレビの音で賑やかに聞こえるダイニングの席へとつく。仕事から帰ってきた父と主婦である母、そして自分の家族3人で夜ご飯を食べ、話すことは一家の決まり事だった。

「今日はなんか面白いことでもあったか。」

と父が口を開く。

「別に普通かな。いつも通り平穏だったね。」

と答えると、父は苦笑しながら

「お前はいつもそれだな」

と返答をする。

父と母は特に部活動に入っているわけでもなし、

友達とよく遊んでいるわけでもなし、当然グレているわけでもなし、そんな俺を心配しているようだった。至極当然のことであるなと俺は思う。

しかし、俺の心はもう燃えていないのだ。

いつの日か俺は心の蝋燭を燃やし尽くしてしまっていた。それは油の切れたカンテラのように補充できるような燃料ではないらしい。

そんなことを考えているうちに話は逸れ、テレビに映っているバラエティ番組の話になっていた。


翌日の朝、前日とはうって変わってよくない夢は見なかった。しかし謎の不快感、悪い予感がした。特に真っ白とオレンジの色が頭から離れない。とにかく学校に行かねばと思いたち、急いで朝の支度をする。


起きた直後、思案を重ねていたせいで少し家を出るのが遅れてしまった。少し早歩きでまたループの日々に入ろうとしたその時、左手から俺を呼ぶ声がした。悪い予感はこれか。と思いながらもアトリエの方から聞こえた声の方を向く。昔、絵を教えてくれていた先生からの声だった。


「お久しぶりですね、Aくん。」

とおそらくアトリエの前を掃除していたのであろう様子で、黄色いエプロンに竹箒を持った先生は優しい声で言った。

「こちらこそお久しぶりです先生。」

と返答する。

「どうですかサッカーの調子は。」

そう言われてコンマ数秒程度考える。

確かアトリエに行くのを止める口実がサッカーに励むためだったなと思い出し、慌てて

「もうやめたんですよね、サッカー。」

と俺は言った。

「そうだったのですね。時間があるならアトリエにいらっしゃい。」

と先生から言われる。

そんなことができるわけがない。あの瞬間、Bに負けた瞬間、途中で逃げ出した道、そこへ戻ろうとするのは遅すぎると感じた。

「もうあまり絵は描いていないので。学校の美術の授業くらいなものです。」

と軽く笑いながら言ってみた。

そうすると先生はまっすぐこちらを見つめながらも、全くもって威圧感なく、

「それは残念です。あんなに生き生きと描いていたのに。君の使う色彩の感覚、好きだったのになぁ。」

と先生が少し目を落として言った。

先生に言われたように、生き生きとしていた頃を思い出す。一度目を背けた道、茨の道。

何かを描くだけであんなにしあわせだった頃を。

「そういえばAくんはBくんが分かりますよね。

彼は今うちのアトリエにたまに来てるんですよ。

いつも描いてた場所が使えなくなったみたいで。」

その話を聞き、何かが俺の中で弾けた。

そして弾けたところから火花が散っていった。

押し留めていたBへの嫉妬や羨望、楽しかった頃への憧憬、期待されていた時の矜持。期待を向けられていた頃の不安。そして絵を描きたいという一点の穢れも澱みもない純粋で無辜な気持ち。

これらがぱっと弾けた。

天からチャンスを与えられているのかもしれない。そして道を選ぶことのできる最後の岐路だ。

そんなことが頭を駆け巡っている最中、

「君が1番絵を楽しそうに描いていたんですよ。

アトリエにいる時は。ニコニコしながらね。」

と微笑みと共に先生は言った。

そうだった。それだけでいいのだ。絵を描くのはそれだけで。さっき散った火花は気づいた時には燃やし尽くしていたはずの蝋燭に火をつけていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パッチワーク さんせっとぼーい @sunset_boy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ