10 悪女、悪女になる

 ドリナ・レースヒェンはノルデン帝国の帝都歌劇場を代表する悪女である。

 彼女の噂話は、今日も帝都の酒場に絶えない。


「なあ、最近ドリナ・レースヒェンの色気がどんどん増してきてないか?!」

「思った! それも、大人な色気というよりか、新鮮な雰囲気の美しさでさ」

「ほんの時々、乙女みたいな可愛らしい表情までしててね。どうしちゃったのかしら、あのドリナ・レースヒェンともあろう人が!」

「でも、悪女役の彼女にそんな顔をされると、不思議とキュンときちゃうのよね」


 人々の推測も、新聞の記事も、彼女の変容をさらなる演技の深化と見て、惜しみない称賛を捧げた。

 ほんのごく一部の聡い者は「今のドリナはまるで初恋の真っ最中にいる少女みたいだ」と評したが、"悪女"ドリナにまさか今さら初々しい恋愛など無いだろうと、一笑に付されただけであった。


 舞台袖の奥、演者たちの控える楽屋でも、一騒動が起きている。


「え〜っ! ドリナさんへの貢ぎ物、また増えてる〜!」


 高いソプラノ・レッジェーロの叫び声に、楽屋の奥で髪型を整えていた豊かな黒髪の女性は、うんざりしたように返した。


「マリー、うるさいわよ。それに貢ぎ物じゃなくて、贈り物ね」

「どっちでもいいですよぉ〜! あーもう、今回もマリーが主役だったのにぃ。お客さんも話題もぜーんぶドリナ先輩が横取りしてったぁ〜! このドロボー猫ぉ〜!」

「どこで覚えたの、そんな言葉」

「お芝居ですぅ〜」


 クッションの山に突っ伏してじたばたするマリーを、衣装係が呆れた表情で「ドレス早く脱いで、型崩れしちゃう」とせっつく。マリーは相変わらず悔しげな涙目のまま、テーブルの上に積まれたドリナへのファンレターや花束に視線をやった。


「お花も派手なものばっかり……。あ、でも、あのお客さまの花束は無いですねぇ。飽きられたんじゃないですかぁ?」

「あのお客さんって?」

「特等席のステキな男の人ですよぉ〜! いつもマリーにおっきな花束をくれてたのに、この間からドリナ先輩にばっかり、すごく大きな薔薇の花束贈ってた人!」


 ドリナは首を捻る。今日の特等席の来賓からは、すでに全員から社交辞令も兼ねて花束を受け取ったはずだが。


(薔薇の花束……って言葉で思い出すのは、ハイブルク公爵家のあのドラ子息だけど)


 記憶の底に辛うじて残っていたのは、特に思い出したくもないあの夜の、ベッドサイドに置かれた薔薇の花束の光景だ。金のある公爵家らしく、何百本も束ねられた派手な薔薇だった。

 しかし、今まであれを芝居の後で受け取った記憶などない。不思議に思っていると、衣装係の少女が「ああ、それなら」と口を挟んだ。


「私に覚えがあります。やたら派手な薔薇の花束でしょ。あれ、香り付きの媚薬が振りかけられてたから、いつもドリナさんの手に渡る前に私が処理してたんです」

「え、なにそれ。気持ち悪」


 マリーが思わず甘えた口調をやめるほどドン引きしていた。衣装係はそんなマリーの崩れたドレスを整えながら、ため息を吐いて、


「私に感謝してよね。マリーに渡される花束には変な薬とかはなかったけど、一緒についてた手紙には『今度暗い場所で会おう』『二人きりで会おう』とか書いてあったんだから。いちいち私がチェックして捨ててたの」

「え〜! そんな人だったのぉ〜? うわぁ、マリー要らないんで、ドリナ先輩に譲りますぅ」

「私もいらないし、たぶんもう来ないわよ」


 ドリナは話を聞いて、内心でひそかに合点した。クッションの陰から覗くマリーの瞳は淡いピンク色だ。


(あのドラ子息は、紅っぽく見えた瞳の若い女を手当たり次第に調べてたのね。まったく……)


 この間はさんざんな事件に巻き込まれたが、後輩があんな目に遭っていたかも知れないと思うと、むしろ巻き込まれたのが自分で良かったとすら思える。


(……だって、私には助けてくれる人がいたもの)


 鏡に映る己の顔をドリナはじっと見る。瞳はサファイアの青緑色。

 よし。さっぱりしたメイクも髪型もバッチリだ。足りないものはあと一つ。そわそわと、その何かを待っているドリナの前に、衣装係の手がずいっと現れた。


「ほら。お待ちしてらっしゃった方からですよ」


 びくっ、と反応して振り向くドリナに、衣装係が訳知り顔で微笑む。その手には、待ち望んだ白い百合が一輪。

 仏頂面のドリナは、「……ありがとう」とぶっきらぼうに返して受け取った。細いリボンで飾られた白百合。リボンの色は紅色。


 つまり、今日はこの後で会えるということ。それを確認した途端、大急ぎでコートを羽織って、やけに嬉しそうに「ちょっと出かけるわね!」と早足で出て行ったドリナを、マリーは不可解そうに見送った。


「……ドリナ先輩なら、金持ちでも貴族でも、イイ男いくらでも捕まえられるのに。なぁんであんな地味なお兄さんに熱あげてるわけ? パトロンにもなんないじゃん」

「何言ってんの、優しそうないい人だったでしょ。マリー、ドリナさんが取られたみたいで拗ねる気持ちは分かるけど、二人の幸せは応援してあげなきゃ」

「拗ねてなんかないしぃ〜〜〜?! 悪女先輩のバーーーカ、さっさと新聞に熱愛報道すっぱ抜かれちゃえ!!!」


 最後の投げやりな叫びだけ、劇場の裏口から顔をヴェールで隠して出ようとしていたドリナの耳に届いた。客席に聴こえるわよ、とため息をついたドリナは、愉快そうに微笑して、軽やかな足取りで下町へ向かう。


(すっぱ抜かれたりなんかしないわよ。"彼"に関わる変な記事は全部、政府からもみ消されちゃうものね)


 諜報部の高官なのだから当然であるが、改めて思うとすごい事実だ。地味とか堅実とか言っても、なんだかんだ国で一番ヤバい男とドリナは恋愛しているのではないか。昔から度々「ドリーちゃんは情に厚くて入れ込みやすいから、将来危ない男に捕まりそうで心配だよ」とカミーユおばさんなど下町の大人から言われてきたのを思い出す。


(……浮気なんてしてみたら、どうなるのかしら)


 悪魔の囁きのような考えが、一瞬頭をよぎった。もちろん本気ではない。彼以外の相手に恋愛的な興味を持ったことなど無いし、これからだって無い。今はとにかく、付き合いたてのカップルとして、一途に愛を交わし合うことだけで精一杯だ。


 しかし。ドリナは、待ち合わせ場所を目前にした角の手前で、ふと立ち止まった。

 いつもいつもドリナばかりが、会いたくて会いたくて仕方ないといった感じで彼の元へ急いでいるのは、なんだか悔しい話ではないか。待ち合わせに遅くなるのはドリナの方なのだから、仕方のない話ではあるとしても——。


 ちょっと、気まぐれを起こしてみよう。

 ドリナはぷいっと踵を返した。宵の口に入りかけた下町は、あちこちの店に灯りがともって、暖かい賑わいに満ちている。しかし、公演終わりで夕食を取りにきた客はバーやレストランに集まっているためか、街路の人通りは案外少ない。


 菓子屋や服飾店のショーウィンドウを眺めながら優雅に歩いていると、道の脇からコツコツコツと早足なブーツの音が近付いてきて、ドリナとぶつかりそうになった。


「きゃっ」

「ああ、すみません。大丈夫ですか?」


 少しよろけたドリナの身体を、すばやく支える手があった。

 その動きは上品で優しかった。が、妙なことに、ドリナに触れた手はそのまま、肩と腕をがっちり掴んで離さなかった。


 ドリナは眉をひそめ、ヴェール越しに相手の顔を見上げて睨んだ。


「助けるためとはいえ、出会い頭の女性にべたべた触るのはいただけないわよ」

「それはそれは。失礼しました。ですが、僕は貴女とは知らない仲ではないはずなんですけど?」


 丁寧過ぎるほど慇懃な口ぶりでありながら、苛立ちと焦りがまったく隠せていない声と言葉に、ドリナは思わず吹き出してしまった。

 笑いだす彼女を、まだ強く掴んで離そうとしない長身の青年——ロアルドは、せっかくの柔和で端正な顔立ちを、珍しく不機嫌そうな仏頂面で固めたまま問いかける。


「なんで、すぐそこまで来ていたのに、待ち合わせ場所に来なかったんですか?」

「あら。近くまで来たことに気付いていたなら、もっと早く呼び止めてくれても良かったんじゃない?」

「しばらく尾行しようかと思いましてね。貴女が早々に僕に飽きて、他に男を作ったりしていないか」

「疑り深いわね。もし本当にそうだったら、どうするつもり」


 いたずらっぽくドリナが聞いた。もちろん、戯れの冗談に決まっているのだが、ロアルドは話にならないと言ったように首を振って、ため息をついた。


「ドリナさん。あのですね、僕はこれでもそれなりに権力を握っている官僚なんで、貴女の身をなんとでも出来るんですよ。いかにドリナさんが皇都中で名の知れた大女優だろうが関係ありません。一夜でドリナさんについてのあらゆる記録を抹消して、誰にも見つけられない僻地の屋敷に一生閉じ込めることだって出来ますし、逃げられないように足の骨を砕いて、僕だけを好きになるよう朝から晩まで洗脳することもできます」


 トントン、と額を指でつつかれて、ドリナは顔をしかめた。ロアルドは涼しい表情のまま、あやすように彼女の頬に軽くキスを落とした。


「それをしないでいるのは、単に自制の問題です。ドリナさんの身の安全は、僕の良心にかかっていることをお忘れなく」

「……悪徳官僚」

「なんとでも言ってください」


 そして、相変わらずドリナを離そうとしない。正体を明かしてドリナと付き合いだしたロアルドは、以前よりだいぶ図々しくなった。その分、好意を直球に伝えてくれるようになったので、嬉しい気持ちは否めないが、やられっぱなしは癪である。


「何よ、偉そうに。それなら私だって、この紅色の目を政府にリークすれば、すぐあなたを絞首台に送れるんだから」


 ヴェールを外したドリナの瞳は、夜道の端の薄暗がりの中で、暗闇のルビーのように妖しく煌めいている。

 ドリナにとっては特に何の価値もない王族の証だが、これがロアルドを引き寄せてくれたきっかけであるならば、少しは自慢に思える。


「あなたの命も、私の良心にかかっていることを覚えておくのね。王女様には逆らわないことよ」

「はいはい。ふふ、まあ、仲良くやりましょうよ。こんな事情があったら、どうせ僕たち別れることなんて出来ませんし。どうか末永く一緒に」


 そこで、やっとロアルドはドリナから手を離した。そして、どちらからともなく、いつものバー・カミーユに向かって歩き出した。

 店の前まで来たところで、またドリナはふとした思いつきで、隣のロアルドの腕を取り、身体を寄せてもたれかかった。ロアルドはちょっと目を見開く。


「珍しいですね。ドリナさんから、そんな風に分かりやすく甘えられるのは」

「そんな気分だったのよ。いいでしょ、恋人なんだから」

「それはそうですが……」


 ドリナは腕に抱きついたまま、ぎゅっとさらに力をこめた。豊かな胸がロアルドの腕に当たる。ドレスの布越しだが、弾力ははっきり伝わっているはずだ。ロアルドは何とも言えない表情で、少し赤面しながら呟いた。


「……あの、やっぱりお店に入ったら離れてください」

「なんで」

「下心を抑えるのが大変なので」


 真面目な顔で答えるロアルドは、やはり何だかんだ言っても、誠実そのものである。ドリナはいよいよ大笑いして身体を震わせた。


「ふ、ふふ、あははは! 何よもう、純情ぶっちゃって! どんなに私が誘惑したって平気な顔してたくせに!」

「平気な訳がないじゃないですか。演技ですよ演技! それと紳士としての意地ですね」

「はははは、あーおかしい! 私、あなたのこと大好きよ、ロアルド」


 不意打ちで素直なドリナからの告白を受け取ったロアルドは、ぽかんとした面白い反応をしていた。

 立ち尽くしてしまった彼を、ドリナは腕を引っ張って「さ、早く行きましょう」とせっつく。ロアルドは慌てて彼女に追い縋る。


「ドリナさん! 初めてじゃないですか? 今初めて、はっきり僕のことを好きだと言いましたよね?」

「あら、私何か言ったかしら? そんなことより、紳士のロアルド・ギュンターさん、今日の私はたっぷりあなたに甘えるけど、下心は仕舞っておいてね。優しいあなたが好きだもの」

「……僕も悪人ですが、貴女もだいぶ悪い人ですね」

「あら、今更気付いたの?」


 振り返って笑う顔は、してやったという喜びと恋人への愛おしさで、舞台の上よりも華やかに輝いていた。


 彼女はドリナ・レースヒェン。

 ノルデン帝国皇都で一番の、純情な悪女である。

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なんちゃって悪女の初恋事情 三ツ星みーこ @mitsuboshi-miiko

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