大暑 一年後
あの場所。あの瞬間。
毛布を抱えた小望月が、死んだように冷えた夜のアトリエに来た。
「今日は特に、冷える」
晦へ毛布を掛け、小望月はそこへ身を滑り込ませた。晦は拒絶も、質問もせずに受け入れてくれた。お互いが向き合い、お互いにどこでもない場所を見ていた。
ふたりの足の先に、窓から差す月の光があった。目で見ても分からないほどゆっくりと移動して、ゆるやかな時間の流れを示している。月の光と同じ速度で、お互いの体温が混ざっていく。
お前は、こんなにも冷たくなっていたんだな。小望月はそんなことを思った。
月の光が小望月の爪先に差し掛かったとき、晦の身体が、小さく震え始めた。
「……僕は、怖い」
晦は身を曲げて、胸にすがり付いてきた。
「死んでも構わないって思ってるのに、死ぬのは怖い。……矛盾しているよな。僕がおかしいのか」
「俺には、分からない」
生きたいと思ったことのない代わり、死にたいと思ったこともない。他人がおかしいか否かを判別できるほど、自分が普通側にいるとも思っていない。
「……死にたくない。だけど、生きていたい世界でもない。お前はどうだ」
「生きていたい世界じゃないが、わざわざ死のうとも思わない」
そう答えると、ぎゅっと抱き締められた。それをただ返してやった。
どうして、俺なのだろうか。ふとそう頭をよぎった。晦は俺が空っぽだと知っていて、何を求めているのだろうか。
もしかしたらもう俺は、与えていたのかもしれない。晦の望むものを。
「……いま死ぬなら、怖くない気がするんだ」
答え合わせのように、晦が呟いた。
お前は俺の、何を受け取ったんだ。お前を受け入れたことだろうか。それだけで良かったのか。単純すぎて、ずっと気付けなかった。
ずっと、お互いに差し出していた。
「……すまない」
もっと早く気づいてやれればよかった。
お前から受け取るのが、ずいぶんと遅れてしまった。
「いいんだ。僕はただ自然に、ここで死にたい」
お前は俺の『喪える人』になってくれた。
俺もお前の、そういう人になれたんだな。
「……ずっと、このままでいてくれ」
「……いつまでも、このままでいる」
晦は満足した顔で目を閉じた。いつの間にか月の光は、ふたりをすっかりと包み込んでいた。
晦の呼吸が、少しずつ、少しずつ静かになっていく。
時は立ち止まるほど遅いというのに、焦燥が胸を駆けた。
喪える人になってくれたお前を、このまま喪うのか。このまま、この腕の中で死ぬのを見ているだけなのか。どうすればいいのかも分からないまま、気付いた瞬間に失くしてしまうのか。
ふと、月明かりの中に銀色の輝きが見えた。その輝きは、研がれた刃の鋭さを誇示する反射光だった。
古いペインティングナイフだ。捨てられず、バケツの蓋の上に放置されていた。
それを取ると蓋と擦れて音が鳴った。だが晦は眠ったようで、気付かなかった。
目の前で消えかかった炎を見た。
その顔は青く、その身体は冷たい。
寝顔の奥で、燃焼しているんだ。
ならそれでいい。
このまま燃え尽きてくれ。
――そうしたら俺も、お前と一緒に灰になるから。
晦を燃やすという約束は殺せなくなる。
だが、初めて約束がどうでもいいと思えてしまった。
そう思えた、この瞬間なら。
お前が居てくれる、この場所なら。
お前の、この温かさの中でなら。
この俺の死にも――――意味があるんだ。
適度な夏。猛暑日でも去年に比べればずいぶんと涼しく、蝉の声がうるさかった。
例年のじめじめとした暑さの中で彼女――日暈は、アトリエへ向かっていた。
あれから半年と少し。七月の中旬。小望月と初めて一緒に帰ったあの日から、ちょうど一年くらいだ。
裁判は思ったよりもあっさりと終わった。小望月が亡くなったので主犯が不在となり、裁判は日暈が共犯であるかどうかに焦点が当てられた。
その結果、日暈は被害者であると断定されたのだった。裁判と捜査の中で、日暈が自作自演で記事を書くために協力したのではという疑いもあったが、用意したいくつかの証拠によって晴れた。
そうして容疑者死亡により不起訴として、事件は幕を閉じた。
それからしばらく。証拠品であった灰が返却され、彼女は重い足取りでここまで来たのだった。
だけどまだ、気持ちの整理がつけられない。
大好きだったふたりを、一気に喪った。小望月は晦を追いかけていったんだ。きっと向こうでまた会えた。どこかのアトリエで、いつも通りに主と助手をしてるんだ。そう自分に言い聞かせてきた。だが、もう二人に会うことは叶わないという現実は変わらない。
お風呂で、トイレで、人のいないところで、泣き続けた。証言中に泣き出してしまったこともあった。今まで、こんなに泣いたことはない。
裁判が終わり、しばらくして自然に涙が出てくることはなくなった。その頃に最後の絵画の灰が、なぜか日暈の元へ届いた。
あの灰は、残留物の特徴がアトリエの灰と一致し、晦のものであるとして返却されることになったのだ。そして晦は自分の遺産を小望月に相続させると遺言に残した。よって受取人は小望月になる。
どうやらそこで、今度は小望月が日暈を財産の受取人に指名したらしかった。最初から、どうあれ死ぬ気だったのだろう。ひどい人だと、心の中で彼を責めた。
結果として、灰は日暈の財産として返却されたということになる。
変なの。そう思い、それを真っ先に話したいふたりの顔が浮かび、また泣いた。
だから、もうアトリエには行きたくなかった。あの風景にはもう誰もいない。
あまり泣かない人生を送ってきた日暈には、泣き止み方が分からなかった。あの思い出の場所で、また泣けなくなるまで涙を流し続けるようなことはしたくなかった。
それでも小望月さんとの約束がある。だから行かなきゃ。約束を破ったら、きっと物凄く怒るんだろうな。そんなことを考えながら歩き、いくつかの角を曲がって、アトリエの入り口まで来た。
「…………行こう」
合図をするように歩き始め、合鍵を取り出しながら扉へ向かう。
「あ、あの!」
「ひゃっ! た、たぁあっ!?」
驚きすぎて飛び退き、足をもつれさせて転倒した。声の主が慌てて駆け寄って来て、手を差し出してきた。
「ご、ごめんなさい。驚かすつもりじゃあなかったんだけどな……」
なにをやっているんだろう私。間抜けな自分が見えて、それがなんだかおかしくて、思わず笑ってしまいそうになった。
その出かかった微笑みが、見上げて見えた顔で引っ込んだ。
「な、鳴金さん!?」
「あぁ。覚えていてくれてたんですね」
「そ、それは……」
嘘の取材をし、小望月を侵入させる手引きをしたのだ。忘れる訳がない。
「いや、あのことは全く恨んでないですよ、もう」
「あ、あのことですか? その……なんのことだか」
「ん? ……あぁ、そうですよね。大丈夫ですよ、録音とかしてないですから」
「……失礼ですが、何をなさっていたんですか?」
日暈はちらと、鳴金が出てきた方を一瞥した。そこにあるのは木と縁石くらいだ。まさか木陰で、ただただ待っていたのだろうか。
「アトリエの関係者を待っていたんです。晦君が亡くなったことは聞いているので、そのご家族を」
「はぁ……」
嫌な予感がした。まさか絵画を買った金を返せと言うのだろうか。彼の会社はあれから一気に成長したというし、金はあるはずだが……。そういう問題でもないか。
そんな日暈の不安と恐れは、一瞬で砕かれることになった。
「絵画の代金と、プランを用意したんです」
「ぷ、プラン、ですか?」
「はい。私の資産にプラス、クラウドファンディングで費用を集め、このアトリエを維持するのです。そういうプランがあるとSNSでプレゼンしたら、多くのコンセンサスを獲得できました。何十年先までプロテクトできるアウトルックが……」
そこまで言って、鳴金ははっとした。
「すみません、いつもの癖で。要するに、アグリー……じゃなくて、同意さえ頂ければアトリエを守る協力ができるってことです」
「それは……凄いですね。でも、どうして? あんなことがあったのに」
「あったから、です。あの日、小望月君が家に来たときに、あの火を見ました。それで晦君の大ファンになったんです。奇妙だって思うでしょうが、本当なんです」
日暈はあぁと腹落ちした。あのとき小望月が「通報もしない」と断言したのはこういうことだったんだ。
よく見ると、鳴金は汗だくになっている。暑い中で待ち続けていたのだろう。
「……それで、ずっと待っててくださったんですね。ごめんなさい」
「いや、いいんです。きっと辛かったでしょうし、……ああ、最初に言うべきでした。晦君と小望月君のご冥福をお祈りします」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた鳴金に、ぺこりと頭を下げ返した日暈だった。
「その、それで、このアトリエの所有者を探しているということでしたよね」
「そうです。晦君のご自宅は流石に知らないもので、もし良ければ連絡を取り繋いでいただきたいのです」
なるほどと頷き、妙な間をもって、日暈は口を開いた。
「わ、私です」
「え?」
「所有者は私なんです。その、色々ありまして」
「え。で、でも、記者さんですよね?」
日暈は少し気まずそうに顔を反らした。
「…………奇妙なことばっかりですよね。小望月さんが関わると。入りましょう」
急ぐように合鍵で扉を開け、中へ入った。
そこには、あの日のアトリエがあった。
晦が死んだ日とほとんど一致し、小望月が死んだ日とまったく一致する風景。
居るべき人がいないという違和感に目頭が熱くなり、喉がきゅうと鳴る。
ああ、駄目、やっぱり――。
「ここで! あの絵を描いていたんですねぇ」
しみじみと言う鳴金に、涙が止まった。意外なところで、意外な男に救われた。
「……わ、私は、することがあるので」
日暈はその足で、アトリエの奥へ行く。火葬場の電気をつけ、打ちっぱなしの場所で荷物を下ろし、中身を取り出す。
この部屋に入るのは、去年のちょうどこの時期以来だ。あのときは、ファン熱にやられてたからってとんでもないことしてたなぁ。そんな懐かしさが押し寄せてきた。
「それは?」
鳴金が、入り口から覗くように入ってきた。
「灰です。最後の絵画の」
言いながら骨壺を梱包から出して置き、その上から証拠品袋の灰をそっと流し込んだ。少しガラス片が混ざっているようで、流れる灰がきらきらと輝いた。
全て入れきって蓋をし、壺を持ち、さらに奥の部屋へ。
納灰堂の扉を開け、明かりをつけた。埃臭く、不思議とひんやりとした部屋だった。この部屋に入るのは初めてだったが、話に聞いた通りの部屋だ。名札付きの棚があり、この壺を置くべき場所がある。
中へ入り、いくつもの名札と骨壺を通りすぎ、棚の一番奥へ。
そこには壺ひとつ分の空きがあり、名札が無かった。
ここだ。積もっていた埃を手で払い、そして、そっと壺を置いた。
これで――終わりだ。
小望月さんと交わした、約束も。
晦さまの表現の、完成も。
入り口を見ると、鳴金が名札と壺をまじまじと見ていた。
「これがあの、後で名前が分かるギミックですか?」
「そうです。私の記事、読んでくださったんですね。ありがとうございます」
「ええ。……そうか。もう、灰なんだもんな。もっと早く知れていればなぁ」
「それだったら放送の映像が残っているみたいですよ。向こうの部屋のパソコンに」
以前、小望月が教えてくれたことだ。映像が炎の影響で変になっていないか、それを確かめるために映像と、そのときのカメラの設定を記録しているのだと。
「そうなんですか!? よければ、見ても?」
「どうぞ、ご自由に」
嬉々として戻っていく背に、思わず苦笑いが出た。ひとりだったらきっと耐えられなかっただろう。居合わせたのは偶然だったとはいえ、こんな形で助けられるとは。心の中で感謝した。
日暈は玄関まで戻り、小望月と駄弁っていたいつもの席に座った。机の上の物まであの時のまま、ただ埃を被っていた。
埃を払って机の上を綺麗にしながら、晦のノートを手に取り、ページをめくる。
絵画の構想や、下書きの細部の考察が書かれたページ。
日暈の落書きがあった破られたページ。
日暈以外を皮肉った落書きのページ。
そして最後の二枚の絵画を詳細に練って描いた、十ページ以上に渡る設計図。
その前半は、晦が絵画を描く瞬間を映す『世界』について。
後半は、晦と小望月が月の岩場を並んで歩く――。
「――あ」
一番最後のページに、その絵画のタイトルが書かれていた。まるで、落書きのように、小さな文字で。
きっと最後まで悩んでいたのだろう。そんなタイトルだったんだと息を漏らした。
そこから先のページは白紙だった。だが、最後のページにだけは落書きではない、何かが書かれていた。
鉛筆描きの絵だった。色は薄く、線は震えている。それだけで、どれだけ弱々しく鉛筆を握っていたのかがよく分かった。
ひとつの長ベンチに、左から無表情の小望月と、顔のない晦と、笑顔の日暈の順で座っていた。
ひどく切なくなって、胸が締め付けられたが、もう涙は出なかった。
日暈はノートを閉じ、席を立った。
「……よし」
報告に行こう。今ならきっと、大丈夫だから。
同じ日の黄昏時。空は闇色で、地平線の夕陽色も今に消えてなくなるだろう。風も涼しくなってきた。
日暈が来たのはアトリエからは遠い場所にある墓場だった。決して大きいとは言えず、せいぜいその土地にこだわりがある地元の人間が使う程度の、ごく小さな墓地だ。調べなければここにあるとは気付かない。
晦さまも、よくこんなところを見つけられたなぁ。だからこそ、静かで平穏な場所なのだろうけど。
日暈はそんなことを考えながら、ある場所で両ひざをついて、手を合わせた。目前にはふたつの墓。お互いに触れるほどに近く、この下ではふたりが身を寄せ合って眠っている。
右の墓には、小望月が。
左の墓には、晦が。
となり同士になったのは、小望月が晦の申し出を受け入れたからであるという。晦の弁護士へ墓の住所を聞いたとき、そう教えてくれて驚いた。そして、泣いた。弁護士に気を遣わせてしまったことを思い出して、日暈は耳が熱くなった。
頭を振り、改めてふたりへ報告をした。約束を果たしたと。
しばらくして、両手を下げた。もうすっかり夜だった。
報告は終わったが、日暈は膝をついたまま、土をぼうっと眺めて考え続けていた。
本当に、これで全部が終わったのだろうか。
晦さまはやり残したことを終えた。
小望月さんは交わした約束を終えた。
だけど――私は?
晦さまに取材を受けさせてもらって、なにひとつ返せていない。それどころか、小望月さんへ罪を着せて逃げた。事件は終わったが、私は、私の為すべきことを為していない。ずっとそんな気がしていた。
これじゃきっと駄目なのだろう。小望月さんを悪人にして、私だけ何もなかったように生きるなんて。彼が望んだからといって、それに甘んじるのは違う。いま思えば、彼を獄中生活させて、出てきた後でたくさんお返しをしようなんて、そんな考えすら甘かった。
どうすればいいのか。記者として、私にできることは常にひとつ。
真実を報道する。
バッシングは避けられないだろう。記者生命どころか、社会的にすら死んでしまうかもしれない。だけど、それでも構わない。ある意味ではこれも、自殺の内なのかもしれない。
生に価値があり、死にも同じだけの価値があるべきとした芸術家が居た。
生にも死にも価値は付けられず、どちらも選ばなかったフリーターが居た。
日暈はこの事件で、生や死のあり方に答えが出せなくなった。
だけど、ひとつだけ。
小望月が言ったあの言葉だけは正しいと信じている。
生き残ろうとすることだけが、正解ではない。
「小望月さん。私のこと、私の人生を、守ってくれようとしてくれましたよね。ひとりで全部庇ってくれようとして、嬉しかったんです。あなたは否定しますけど、あなたはどうしようもない人間なんかじゃないんですよ。だから――」
日暈は立ち上がった。その顔には、静かに燃え始めた決意があった。
「――今度は、私の番です」
星々の輝く夜空。
夏の分厚い雲に隠った月は、ただ丸々と満ちていた。
焚殺人 能村竜之介 @Nomura-ryunosuke
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