大雪 23時50分

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晦の遺書 2


 やっと最低限のところまで書けたか。ここで終わりにしてもいいが、どうせ筆を取ったのだし、もう少し話を続けるか。書くと決めた以上は、恥ずかしかろうが全部書く。これがさよならの手紙になるんだから、そうしないと後悔する気がするんだ。どうせお前は最後まで読めって言わなくたって読んでくれるんだろ。だから頼まれなくたって最後まできちんと書くさ。

 自殺者のロジック、覚えているか。あのときに、生の価値と死の価値が同じヤツはちょっと揺らいだだけで死ぬって感じの話をしただろ。そのときにお前に、告白したかったことがある。

 僕は、死にたくなったことがある。病気になるよりも前のことだ。活動を始めて、記者たちがこぞってやって来て、記者嫌いになったのを話しただろ。でも、それで終わりじゃなかったんだ。

 その記事の中に、ネットに載ってるのがあって、コメントで無茶苦茶に叩かれてた。若くて絵が上手いだけで中身がないのになんで調子に乗ってるの。皮肉を言えるオレ頭が良いアピールってゆう皮肉?

 こんなものだ。呆れたことにまだ空で一字一句書ける。そんな書き込みは少ししかなかったし、僕を庇うようなコメントもたくさんあったけど、どうしてか批判しか見えなかった。今ならこれがただのいちゃもんで、悪意でしか自分を出せなくなった人間の精一杯の表現でしかないって分かるけど、昔は違った。

 ふとした時に背中を刺されるみたいに痛んで、ずっとひとりで泣いて、痛いのが嫌だからそれから逃げようとした。だから色々と調べて、首吊りが良いって見つけて縄を買った。それを持って出掛けて、駅とか、ショッピングモールの屋上とか、森とか、死にたいって思ったときに首をくくる以外でもすぐ死ねるような道を散歩してた。でも結局、死なずに家に帰った。

 どうしてあのとき死ななかったんだろうって思って、命を操作するべきじゃないからだと思った。その価値観は今でも変わらないが、お前と生や死の価値がどうという話をしてハッキリしたよ。いつも吹いていた風が、たまたま綱渡りをした時だけ吹かなかった。それだけなんだ。

 それから、僕があの病気だったって分かった。死ぬって分かった途端に、風はピタリと止んだよ。死ぬのが楽しみでもなくなった。願いが叶うってなった途端にだ。皮肉なもんだよな。

 これでこの告白は終わり。書いてみれば、なんで言おうと思ってたのか不思議なくらいどうでも良いことだったな。もう終わったことだし、もっと他にも教えたいことがある。片っ端から書いてやる。

 お前との議論の後で僕が椅子から落ちたとき、弱音を吐いただろ。その後でお前に抱き締められたときのあの温かさが好きだった。お前が僕を抱き抱えたときも、本当はもう少しああしていたかった。夜で人目のないときだったら、あのまま連れて帰ってもらってもよかったかもしれない。

 ああもう。この紙をぐしゃぐしゃにして捨ててやりたくなってきた。こんなに恥ずかしげもなく書いてやってるんだからありがたく読めよ。せっかく全部教えたいって思えたんだから。

 そうだ。配信をしようってお前が提案したとき、本当に理解できる人がって言ってただろ。お前はどうだったんだ。僕の表現を見て、何か思うところはあったか。あの燃焼を見て、なにを思った?

 分かってる。書いてていま自分でも驚いたよ。感想を求めるなんてな。それに質問なのに直接お前に聞けないで、こんなところで聞いてる。だけどお前に、届いてほしい形で届いてくれないのが怖い。言いたいことと全然違う言葉として届いているんじゃないか。

 なんというか、お前にだけは理解してほしい。僕の見た世界を、僕の見たまま受け止めてほしい。少しも間違えてほしくないんだ。

 もしかしたら僕は、感想が嫌いなんじゃなくて、怖いだけだったのか。

 いったい僕はなにを書いているんだろうな。でもこんなにすらすら言葉が出てくるとは思わなかったし、思わぬ発見もあった。これでも最初は色々と考えて書いていたが、結局考えないで書く方がいいものだな。

 こんなとりとめもない、ぐだぐだで読むに耐えないような文章でも、お前はきちんと読むんだろう。この文章までたどり着いたってことだしな。

 まだ、なにか書きたいことはあったかな。そういえば、あの取材の記事がよく売れているそうじゃないか。お陰であの二人にも見つかってね。あの記事をポケットに忍ばせて、どこでも息子が息子がと自慢し回っているらしい。どうにも僕は、あの二人を受け入れられない。

 車でアトリエに送り向かいしてもらい始めた日にお前に色々と言われて、自分でも考えたんだ。

 これがお話だったらここで、受け入れることを学んで、みんなを受け入れて、幸せになりました。とでもなるんだろうな。生憎ここは現実だから、受け入れられないものは受け入れられない。そういうものだと割りきることにしたよ。

 ついでに書いとくが、あいつらが僕が死んだあとにお前を責めないように、ちょっとした映像も残しておく。たぶんあれで黙るだろうから、裁判だどうだなんてことは心配しないでいい。ちょっとした絶縁状ってやつだからな。

 話を戻す。まあ言いたいのは、不思議なもんだなってことだ。どうして僕はお前を受け入れられたんだ。それを言えば、日暈のやつも同じなんだが。

 お前ら二人と保護者の二人。何が違うんだろうな。保護者が恩着せがましくて僕を理想通りにねじ曲げたがっていることを置いておいたって、お前ら二人に心を許した理由が分からない。

 小望月と日暈。一方は僕に無関心で、一方は僕に熱狂している。一方は気だるげで、一方は元気が有り余っている。なんというか、絶望と希望くらいに対極にいて、どっちも頭でっかちだ。共通点が原因になるんなら、僕は頭でっかちにしか心を許せないことになるな。

 どうしてどうしてと書いてるけど、お前たちと違って白黒つけるまで考えようなんて気は無い。理由が分かったって結果は変わらないし、変えたくもない。それでも書いたのは、保証が欲しかったからかもな。

 馬鹿馬鹿しい。保証がなくても、お前はずっと変わりはしない。どうせずっと、僕を受け入れ続けてくれるんだろ。僕が死んだあとも、他のアルバイトに行って、いつも通りに生きる。そうして歳を食っていって、それでもずっとアルバイトしているんだ。

 ずっとお前はお前でい続ける。そんな気がする。変わるなよ。また会ったときによく笑う暑苦しいやつになってたら、どうしていいか分からなくなるだろ。

 ああ。悪いな。もう眠いんだ。こんな文章に五時間もかかるとは思わなかった。久しぶりの夜更かしになったよ。文字を書く習慣がない上、辞書を引き慣れてないんだ。

 だけどたぶん、これで全部だ。まだ書けることはある気がするけど、字面だけ違って内容が同じじゃあ、お前もキツいだろ。

 そうだ、最後にこれだけ。

 少なくとも僕は、お前を愛してる。

 なんてな。

 おやすみ。

――――――――――――――――


 巨大な洋風屋敷の影が、雪の降る夜空を背にして小望月を見下ろしていた。いくらかの窓が灯っているものの、敷地を区切る鉄の門扉の影からでは人の動きを感じることはできない。


 心臓がばくばくと身体の芯を震わせている。深雪を踏み越えた後に登山はあまりにも無茶な運動だった。屋敷の中からは見えない位置で、激痛の走る喉を鳴らしながら呼吸を整え、足を休めた。


 スマートフォンで時間を確認する。二十三時五十分。約束を殺せる時刻まであと、十分。


 屋敷の内部構造も、中に何人いるかも分からない。ここは暴力団の元会長の別荘だ。引退しているとはいえ、何らかの火器がある可能性も否定できない。


 当たり前だが、撃たれれば死ぬ。その前に絵画を燃やさなければならない。


 考えながら小望月は、屋敷の正面をじっと観察した。まずは広場に止まる車。道路から続く轍はあの一台だけに続いていた。大勢が居るわけでは無さそうだ。次に、玄関扉の側にある監視カメラが目に入った。ポツンとひとつ有るだけだがこちらを向いており、敷地内へ入ろうとすれば見つかるだろう。


 そして正面玄関。扉とその周囲だけが、四角く屋敷の壁へめり込むように奥まった構造となっており、扉の前には雪が積もっていないようだ。そして扉の両側には飾りの太い柱が立っている。


 時間も情報もない。ならば人を殺すかどうかも迷えない。相手も俺も、死んだならば仕方ない。


 小望月は門扉の中央に立ち、押し開け、敷地内へ侵入した。


 白い雪に黒い足跡を付けつつ、正面玄関へと向かった。大きな両扉の前に立つが、ドアノブには触れず、小望月は引き返した。


 扉から見て左側の壁の裏へと回り込む。そして、今度は後ろ向きに歩き、自分の付けた足跡を綺麗に踏んで辿り、玄関へ戻っていく。雪の無いところまできたら、扉から見て右の柱の影に隠れてじっと待った。


 ただ、じっと。早く来いと息を殺し、呼吸を数えた。


 数分の後、玄関の扉がゆっくりと開く。忍ぶゆっくりとした足音。柱の影から覗くと壁の裏へ続く小望月の足跡を、ゆっくりと追っている背があった。あの姿勢からして拳銃を構えている。どうやら一人のようだ。


 開きっぱなしになっている扉を覗き、この男が一人であると確認してから忍び寄り、ナイフを取り出して男の右太ももの裏に突き刺した。


 男は呻きながら姿勢を崩し、倒れ込んだ。


 受け身を取ろうと頭上に上げた右手にはやはり、拳銃が握られている。男の右手首の下を思い切り踏みつけ、手から銃を奪い取った。


 回転式拳銃からシリンダーを取り出し、シリンダーから五発の弾丸を抜いて、弾丸とシリンダーと本体をそれぞれ別の方角へ投げる。黒い銃身が、闇の中へ溶けるように消えた。


 俺は訓練もしていないし、撃てるのはたったの五発。この銃が警察から流れてきた物であるとすれば、一発は空砲だろう。少しでも撃ち慣れた暴力団員との実力差は明白。更に弾数も少ない。撃ち合いになれば間違いなく、負けるだろう。


 ならばこの、少しでも使い慣れた火炎放射器で挑むしかない。


「そのナイフは抜くな。失血死したくなればな」


 そう言って、痛みで悶絶する男を背に扉を抜け、玄関に鍵をかけた。


 中は、『白』だった。


 大理石の床。石の壁に天井。階段と手すり。小机とその上に乗る瓶。シャンデリアに至るまで、エントランスホールのありとあらゆるものが白で統一されている。


 鳴金の家は白を基調にした内装だったが、ここは病的なまでの白だった。


 このエントランスで特に目につくのはいくつもの美術品だった。四行四列に規則正しく並べられた台座。その上に展示される、陶器の彫像やガラスのアンティーク。壁には一定の隙間を保ちつつ絵画が敷き詰められた。広さも相まって、個人の別荘というよりは美術館のようだった。


 ざっと見回したが、晦の絵らしいものは見当たらない。何を描かれているか知らずとも、あの加工されたような独特のざらざらした表面を見れば一目瞭然なのだ。ここにある絵はどれも普通の油絵だった。


 ならば二階だろうか。正面奥の大きな階段は壁に接する踊り場で左右のふた手に分かれており、どちらも折り返して二階へと続いている。上に行くには、あそこから上がるしかなさそうだ。


 小望月は物陰を移って周囲を確認していくが、人の気配はない。侵入者があれば総出で来るはずだ。この館に待機していた用心棒はあの一人だけだったのだろうか。


 あるいは、俺が晦の絵を狙っていると知って、そこを固めているのか――。


「――白は、命の色だ」


 低く、よく通った声が響く。階段から降りてくる、紳士然とした老人がひとり。


 白のガウンにスリッパ。髭や髪さえも異様に白い。あれは染めているのだろう。


 真っ白だからこそ、その手に持つ猟銃の黒さが際立つのだった。


「申し訳ない。私は家主の油島。ここに招いた者はみな、驚く。どうしてここまで白いのかと。君は、そうは思わなかったかな」


 彼が抱えるボルトアクションライフルには、どこで手に入れたのか拡張弾倉が取り付けられている。


 猟銃を違法に改造して弾の数を増やしたのだろう。


「闇を払う太陽の色であって、あらゆる色や輝きを殺さない色。光を求めて生きようとする者のための色。……希望から滲む色だ。だからこそ、病院は白い」


 彼は部屋の中央、小望月が隠れる像を見据えている気がした。だが確認はできない。下手に身体を出せば撃たれる。


「君はずいぶんと……黒いな。私はね、黒は命を奪うためのものだとしているんだ。不吉な色だよ、黒は」


 彼は咳のようにくつくつと笑う。


「私の言うことを不思議だと思うかね? だが、色に役割を与えるというのは、日常でもよくやることだと思わないか。熱ければ赤。冷たければ青。色が人に与える影響というものはすごい」


 どうする。左右どちらかに飛び出して、隣の台座の影に隠れるか。それだと次に動くところを狙われるか。


 考えろ。猟銃はどう撃つ。獲物を仕留めるコツはなんだ。


「それにしても、全く、まるで死神のようじゃないか、君。あまりに似つかわしくない。この場所に」


「猟の腕はどうだ」


 小望月の突飛な質問に、その場が静寂に包まれる。ややあって、油島が訝しげに口を開いた。


「……なんの話かね」


「撃つのは上手いかと聞いている」


「ああ、そういうことか。自分で言うのもなんだが、上手い。相手は鹿なのだがね、ここ十頭は外していない。もっとも、プロに言わせればまだまだだろうが」


 ガッチャ、ガチャリ、と銃のボルトを動作させる音がした。


「君は、鹿よりも素早く動けるのかね?」


 あれは銃身に弾丸を込める行為だが、今さらそれをしたとは思えない。脅しのために鳴らしたのだろう。それは同時に、本気で撃つ気がないということを意味していた。本当に殺す気ならばこちらに勝機があると思わせ、構えていることすら悟られないように動き、俺が顔を覗かせた瞬間に撃つ。


「いいや、無理だ。……もうひとつ、質問がある」


「構わないが、時間は大丈夫かな。あと……七分、いや、ちょうど今残り六分になったところだ。こんな時間に無理をしてやってきたということは、絵を燃やすのはこの日だから意味があるんだろう。話している間に日付が変わってしまうぞ」


 勝ち誇ったような声。確かに状況だけなら負けている。台座の影から出ることすら叶わないだろう。


「あの絵はどこだ」


「二階の、一番奥だ。入口から最も遠い。元は私の寝室だったが、あの絵専用の部屋に改築したのだ。おぉそうだ。二階にはショットガンも用意している。散弾だ。……回りくどく言うのもなんだ。撃ちはしないから早く降参したまえよ。この聖域で人が死ぬことは許されない」


「死人が出るかどうかはお前次第だ。上手くいけば人は死なない。俺が殺すために殺すのは――約束だけだ」


 言い切るか否かで右の壁に火を吹いた。いくつかの絵画が火に包まれるのと同時に火の方角へ飛び出す。


 背後で弾丸が飛んでいく音を聞いてから、方向を変え、隠れていた台座のひとつ奥の台座へ向かう。


 上手いのであれば、セオリーがある。


 セオリーがあれば、利用できる。


 猟銃は獲物を見て当てるのではなく、獲物の逃げる先を読んで当てる。それは、野生の動物は弾丸を避けないという前提があって成り立つもの。


 ならば、避ければいい。


 辿り着くところで跳ねるように身を翻し、フェイントをかけた。弾丸の飛翔、着弾音を聞きながら更にひとつ奥の台座へ。真っ白な空間。闇より深い黒の怪物が、信じられないような早さで距離を詰めていく。


 例えば相手が俺の動きを読めば、ただのあてずっぽうで撃てば、俺が間違えて動けば、被弾するだろう。


 どうでもよかった。


 死を望みすらする彼にとって、もはや銃は脅しでもなんでもない。


「お前……!」


「そこを動くな」


 並ぶ台座の最前列に来た小望月は隠れたまま、台座に立つ分厚いガラス細工の上を狙い撃つ。火のついたエタノール燃料が放物線を描いて、油島の立つ位置のすぐ側に垂れた。


 うお、という叫び声と、走る音。それを聞いて小望月は台座から飛び出し、階段を駆け登る。


 逃げながら撃っては来ないはずだ。油島は生を賛美し、裏を返せば死を極端に恐れている。相討ちになる可能性を必ず排除するため、距離を取ってライフルが有利になる間合いを保ち、そのついでに中距離の間合いを得意とするショットガンでも取りに行くのだろう。


 ふた手に分かれた踊り場の右へ行く油島に対し、小望月は踊り場に火を撒きながら左へ曲がった。


 上の階へ上がると、小望月の登った階段は、油島の登る階段と合流していた。息を切らせて駆け上がって来る油島の前に火を巻き、白い廊下を駆け抜けた。


 先回りしてショットガンを回収すべきか。部屋一つ一つを見て回る時間はない。


 一番奥の扉へ突っ切り、両開きの扉を体当たりするように開く。真っ白な広い部屋には一つとして家具がなく、妙に寒い。


 そして正面の壁に、それは飾られていた。


 青い、岩場の絵だ。


 岩ばかりの谷、その向こうへ歩いていく二人。それを写真に撮ったような、どこまでも写実的なタッチ。だからこそ一目で、その二人が誰だか分かった。


 右の背は晦で、左の背は小望月だ。ふたり揃ってただただ歩いている。学校帰りのように、散歩のように、だらだらと。一見すると青色に寄せて描かれただけの、何ら特別なこともない風景画だ。


 それを油島は、ガラスケースで保護していた。どうやら機械で冷やしているらしく、ケースの縁には霜がついている。


「満足かね」


 背後に気配があった。ガッチャッと音がする。明らかにライフルのボルトアクションではない。大方は、ダブルバレルショットガンの動作音だろう。


「おっと、今度は避けない方がいい。バードショットを装填している上に、ソードオフまでしている。そう言って、伝わるかね?」


「……バードショットは弾の種類だ。細かい粒で、散弾の拡がりが大きい。一方でソードオフは銃身を切って短くすることで、飛距離を犠牲に散弾の拡がり方を大きくする。つまり散弾はかなり広い範囲を捉え、避けても命中する。ただし、粒が小さくガスに押し出される距離が短くなることで威力は小さくなる。俺の装備に対して、致命傷になるかは怪しい」


「致命傷にならずとも、痛みで動きが止まれば後はどうとでもなる。しかし君、詳しいじゃないか。敵ながら同じ趣味を持っていたとは、実に惜しい」


 油島は本当に感心した声だった。


 ……広く拡散する、か。


「絵画に近付いても、構わないか」


「構わないが、部屋の中心までだ。それ以上は引き金を引く。いいね」


「ああ」


 小望月は言われた通り、部屋の中心まで歩を進めた。銃を向けられているのに振り返りすらせず、晦との『無かった日常』をじっと眺めていた。


 散弾の弾は拡がる。少し距離を取ればいよいよ回避ができなくなるのだが、それはお互いに分かっていた。これで油島は、優位な立場を絶対的なものへと変えた。


「さてどうかね。見ての通り、晦君の素晴らしい絵画は大切に保管している。その水鉄砲じゃ燃やせんよ」


「どうして、冷やしているんだ」


 小望月は呟く。油島は、いち人生の先人として若者を諭すような、和らげな口調になった。


「そうだな……いわば、延命だ。燃えやすくするためにエタノールを使っているそうだから――」


「そうじゃない。延命して、なんの意味があるかと聞いている」


「意味、か。知っての通り、晦君の芸術は死の象徴だ。死ぬことの決まった者が、死ぬことが決まった絵を描く。芸術は産み出された子のようなものだ。親の呪いを子が受けなければならないなど、なんたる悲劇だとは思わないかね」


 その嘆きは、本物の憂いだった。


「その運命を、私が変えようと言うのだ。死の運命から逃げ果せたならば、死の象徴は生の象徴として返り咲くのだ」


「呪いを転じて祝いとするため、ということか」


「ほお。いいじゃないか。気の利いた言い回しだ」


 老人はしみじみと言いながら、何かを滑らせて小望月の足に当てた。折り畳み式携帯電話だった。


「時間を確認したまえ」


 言われた通り、拾って開いてみる。残り四分だ。


「その目で果たせなかったことを見届ければ、諦めもつくだろう?」


 説得の言葉を背にまた絵画を見た。


 こんな時なのに、初めて見ていたい絵画に出会うとはな。こんな皮肉、いかにも晦が好みそうだ。


 よく見たらその下に、ネームプレートがある。そこには『開拓』の文字。


「開拓?」


「そう、開拓だ。なにも無い岩場で、ふたりきり。生きるための世界をこれから作り始める。そんな希望に満ち溢れた絵じゃないか」


「そういえば、名付けは消費者に任せると言っていたな、あいつは」


「そうとも。しかしこれは、晦君の見た世界に、燃やそうとした世界にもっとも近い解釈だ。この青さも、これから成長するこのふたりの若さを示唆していて……」


「話は変わるが、ショットガンの安全装置は外したか?」


 小望月の問いに、油島は怪訝な顔をした。


「それはそうだ。とっくに外したとも。相手の意識を逸らさせて反撃とは典型的な手だが……背を向けたままというのはどういう了見かね。焦って手順を間違えたか」


「かもな。――話を戻そう」


 黒い怪物が、ゆっくりと振り返った。


 黒い飛行帽と、黒いガスマスク。その間から覗くあまりにも鋭い目。


 その異様な見た目は、表情が分からないどころか、人間であるかすら疑わしい。


 油島は思わず、下げかけた銃身をしっかりと構え直した。


「これは、ただの岩場じゃあない。『新月』だ」


「……新月?」


「地球が満ちる日。地球に照らされる夜。月の夜道は、地球に青く照らされるか。そういう議論とも呼べない議論をしたんだ。ここに描かれているのは、そんな机上の空論を旅する俺と晦だ。旅と言っても、暇潰しの気分転換でしかない」


「……そうかね。だから、どうしたというのだ」


「いや。ただ、今さらになって晦の気持ちが分かった。それが嬉しいと言うか、切ないと言うか。自分でもよく分からない。こんな気持ちはいつぶりだろうな」


 怪物が微笑んだ。


 表情など全く分からないはずなのに、油島にはそうとしか見えなかった。


 ショットガンのふたつの銃口が、震え始めた。


「な、何を――」


「全くもって、『感想など聞くに堪えない』な」


 小望月が引き金を引きながら銃口を上げる。


 噴射口の迷いの無い軌道を、火が辿って塗りつぶしていく。小望月の足元から油島の身体を通って、その頭までをも舐め上げる。


 油島は僅かに反応が遅れ、引き金を引く。爆発と共に拡散された鉛の粒が、小望月の左肩を中心に命中した。顔の、首の、胸の、腹の、腕の肉がずたずたにされる。


 その背後で、すり抜けた粒が絵を保護するガラスを砕いた。


 ガラスの割れ落ちる音が止むのと、油島が火だるまで絶叫しながら部屋から出ていくのと、小望月が膝を着くのはほとんど同時だった。


 うまくいった。ガラスを破った。だが――。


「…………か……ぁ……」


 あまりの痛みに、力が入らない。両膝をついたまま立つことはできず、呼吸すらも困難だった。


 明るい色の血が首もとから少しずつ吹き出すのが見える。動脈が傷ついたか。


 背中のタンクから空気圧が漏れ出す音もする。


 上手く思考することさえできない。ぼやけた意識の中、床に取り落とした携帯電話があるのが見えた。その画面には、二十三時五十九分の表示。


 まだだ。


 まだ終わるわけにはいかない。


 早く、動け。


 ――死んでも間に合わせろ。


「く……うぉおッ」


 膝立ちのまま勢いで上半身を回転させる。姿勢を崩しながら、真後ろへ銃を向け、引き金を引いた。


 火は弱々しく小さな弧を描き、絵画の少し下のネームプレートへたどり着いた。火柱がプレートを焼きながらすぐ上のキャンバスを炙り、次の炎へと転じた。


 火は一気に広がり、二人の背が、二人の思い出が、喪った世界が――。


 ――――ふたつの色に、燃え始めた。


 小望月の居る左側は、紫の炎。


 晦の居る右側は、赤い炎。


 目前がぼやけても、もはや明るさばかりしか見えなくとも、その意図は分かった。


 そうか。


 例えどうなっても、お前を焼くという約束を終わらせてくれるつもりだったんだな、お前は。


 ありがとう。


 もう、どこにも届かなくなった礼を呟いた。


 これで、殺すべき約束はなくなった。


 これでやっと、終われる。


 エタノールの臭いが鼻をつく。燃料タンクが壊れて漏れだしていた。血と混ざった池を作ってゆく。


 だが。叶うのならば。


 俺は、あのときに死にたかったんだ。


 あの瞬間。あの場所。あの温かさの中で。


「…………晦……」


 燃える絵画から、一欠片の火の粉が舞う。


 それは、小望月の血とエタノールの混じった池に落ちた。


 最期。僅かに感じたのは、燃焼の熱だった。


 ――この熱は――この温かさは――――。


 ――――今なら。


「………………いるのか…………」


 死にゆく絵画の前。


 小望月は、

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