小雪

 十一月の下旬。満月の日の前日。外気は一気に冷たく、真夏の反動のように真冬になった。


 外が暗くなるころ、アトリエの中も震えるような気温をしている。それでも暖房は付かなかった。


 満月の前日に、晦はいつもの高椅子で、二枚目の絵画を描き進めている。一枚目の『世界』はあと一筆で完成というところまで来たので、アトリエの火葬場に安置されている。満月の日に、一筆ずつ入れて完成にするという予定だった。いま描いている絵もすでに仕上げの段階に入っていた。


 小望月はそのキャンバスの斜め裏の位置――いつものテーブルとは違う場所に――椅子だけを置いて座っている。そこでじっと、晦の様子を見守っていた。そこからはキャンバスに何が描かれているのかが分からない。彼がそんな所にいる理由は、新たな一つの約束をしたからだった。


 二枚目の絵画を見ないこと。


 晦は二枚目を、小望月にだけは見せたくなかった。だから、不便を承知で約束させた。しかし小望月は嫌とも言わず、ただ約束を受けた。そして彼は絵が覗けず、かつ晦をいつでも助けられる位置で座っていることにしたようだった。


 じっと見られるのも、仕方ないか。


 晦はそんなことを思う。たかだか椅子に登るだけで息が切れ、筆を持つどころか、ただ素手を持ち上げるだけで消耗する。筆の力加減さえできなくなってきていた。鏡は見ていないが、きっと死人とそう変わらない顔をしている。誰の目から見てもじきに死ぬと分かるだろう。その自覚があった。


 こんなに寒いアトリエだって、寒いと思えないのだから。


 冷たいすきま風が吹いたとき、晦は予感がして筆を置き、椅子のふちを弱々しく握った。少し前から『不安定』が襲ってくるようになった。立っているどころか座っていることすら難しいほど、ふらりと身体が傾いてしまう。


 これはもはや自分では制御できない。こうして、襲ってくる気配を察知してせめてもの抵抗をするしかなかった。


「…………小望月……」


「ああ」


 呼ぶとすかさず後ろに回り込んできて、後ろからぎゅっと抱き締めてくる。その目はしっかりと閉じられていて、どんな時でも律儀に約束を貫く彼に、晦は思わず微笑みそうになる。


 こいつはきっと、世界がどうなったっていつも通りなんだろうな。それがなんだか嬉しかった。


「……何度も言ってるが」


「分かっている。もし死んだら、この絵を見てもいい。そうだな」


「まあ、な。始末する必要があるんだから、仕方ない」


 死んだ後でなら見せてもいいかと、晦はそう思っていた。どんな恥でも、死者には関係の無いことだ。だから遺書だって、あんなになんでもかんでも書いたのだ。


「そのまま、じっとしていられるか」


 どこまでも小さな声に、小望月は「ああ」と短く返事をした。晦は腕にしっかりと固定されながら、また筆を持ち上げる。姿勢の維持が補助されるだけでも、かなり楽になった。


 背に、小望月の存在を証明する圧と熱があった。それがキャンバスへの筆圧と熱意となって伝わる。


 やっと、これで完成するんだ。僕の最期の表現。死へ近付くための老い。これで、この死は理不尽ではなくなる。これで僕は――。


 ふと晦の手が止まった。


「……お前は、いつ満ちるんだろうな」


 気付けばそう、背へ呟いていた。小望月はぴくりとも動かない。


「僕はこうして、満足に活動を終えられそうだ。でも、お前はどうなんだ。お前はなにかを、満足に成し遂げられるのか」


「……さぁな」


「どうすれば、自分が幸せだと思えるんだ」


「分からない」


「誰だったら、お前を癒せる」


 返事はない。晦はただ、切なくなった。


「いつか、生き死にに価値を見いだせるか」


 また、返事はない。晦は筆を置いた。


 僕は死に対して、価値をつけた。受け入れられるものとした。だが小望月はどうだ。生にも死にも価値が無い、と言った。それは、生きて何も得られず、死んで何も喪えないと悟ったからじゃないのか。


 俺も燃料がない人間だ、というあの言葉の意味は――。


 ――希望どころか絶望さえないって、そういう意味だったのだろうか。


「幸せは夢ですらなくて、傷のないお前に癒しは必要ない。……そういうことか」


 そう言うと、背中の男が、わずかにその腕を緩めた。


 さっきまでの希望が嘘のように、満たされた感情が塗りつぶされていく。


 それは無力感だった。叶えたいもののない男にしてやれることなど、ありはしない。彼の働きに対して返せるものは報酬金だけだ。それで小望月はこと足りてしまっている。


 誰にも救えない男。何にも救われない男。


 ――僕の表現は、お前を救えないんだな。


「……この絵を見たいか?」


「いいや」


「見たい絵はあるか。音楽でも、文学でもいい。お前は表現の受け取り手になれないのか。表現を――芸術にしてやれないのか」


「ないだろうな。芸術とは無縁だ。燃料だけあっても、それを燃やす仕組みがなければ意味はない」


「まるで、魂が無いみたいな言い方だな」


「無いのかもな」


 目の前の絵を見る。


 これもほぼ仕上げが終わっており、完成と言っても差し支えないだろう。気になるところは僅かにあるが、直そうとすると歪むと分かるものだ。その一ヶ所を見れば気になるが、全体のために必要な歪みだ。


 不必要な歪みは僅か。明日これを直して、完成としよう。


 晦は黙ったまま、自分を抱き止める腕に手を添えた。あまりに温かい腕だった。


 しばらくそうして、冷たい手と温かい腕の温度が平衡するとき、晦が口を開く。


「変わらないお前が好きだ。でも、変わらないと何も満たされない」


「満たされない月。それが小望月というものだ」


「言葉遊びで自分を呪ってどうする。僕に、できることはないか」


「ない」


「ないって言うな。仕事のついでに僕を変えたお前に、仕返しできないだろ。どうすればお前は変われる」


「……俺は、変わろうと思わない」


「思わなくても、変われよ――」


 晦は小望月の腕を、弱りきっていると思えないほど力強く握った。


 晦は声に、涙を滲ませていた。


「――お前に傷ひとつ付けられないなんて。あんまりじゃないか」


「…………」


 小望月はただ沈黙していた。その無表情からは、晦の言葉の真意が伝わったかどうかすら分からない。


「……時間だ」


 小望月はそう呟いて、晦を椅子から降ろし、キャンバスの裏へ回った。


 帰り支度をする彼とキャンバス一枚隔て、うつ向いて椅子に寄りかかった。


 すっかり帰る準備を整え、小望月はキャンバスの裏から晦を覗き見た。


「……明日、完成できそうか」


「ああ、おかげでな」


「そうか。なら、帰るぞ」


「僕は……僕はいい。後で……、迎えが来る」


「そうか。また明日」


「……ああ」


 小望月はアトリエから出た。外でバンのエンジンが掛かり、その音は遠くへと行ってしまった。残響すら消えた頃のひどい静寂が、寒さよりも身に染みた。物音が自分の存在だけを誇張しているこの部屋で、帰り支度が終わったとき。


 何もかもが、もう、どうでもよくなってしまった。


 部屋の電気を消した。もう何も見たくなかった。


 晦は床に座り込み、壁側に山となっている画材置き場に寄りかかって、ただ静かにじっとした。もう何も聞きたくなかった。


 あいつは僕にとって特別な人だけど、僕はあいつの特別じゃない。


 ただ人生の中で出会った一人で、ただ記憶の隅へと追いやられる一人。


 僕は多くの人に、あの表現を届けることができた。昔の自分では考えられないほど、多くの人に注目された。


 届けたい人へ届ける。それが目的で、人気者などという道化になった。そのおかげで自己救済もできた。きっと、理解できる者へも届いただろう。だけど、本当に届けたい人には――届けるべき人には少しも届いていなかった。


 僕は……何をしていたんだ。


 すっかりと床に倒れ込み、晦はただ体側の冷たさだけを感じていた。身体を丸め、ただ目を閉じた。


 こんなにも寒いのに、身体は震えなかった。


 エンジンの音が聞こえる。


 こんな時間に、取材だろうか。ああ。面倒くさい。暗い部屋を見て、帰るのをじっと待とう。


 そう思っていると、扉が開いた。


「……暗いのは見て分かるだろ」


「ああ。暗いな」


 小望月の声だった。


 晦は顔を上げた。黒いシルエットは、なにかを持っているように見えた。


「…………残業代は出ないぞ」


「知っている」


 影は側までやってきて、しゃがんだ。


 そっと頬に熱い手を添えて、手に持っていたものをばさりと晦に掛けた。大きな毛布だった。


「今日は特に、冷える」


 大きな毛布に小望月も入ってきた。晦は拒絶も、質問もせずに受け入れた。お互いが向き合い、お互いにどこでもない場所を見ていた。


 ふたりの足の先に、窓から差す月の光があった。目で見ても分からないほどゆっくりと移動して、遅い時間の流れを示している。月の光と同じ速度で、お互いの体温が混ざっていく。


 お前は、こんなにも温かかったんだっけ。晦はそんなことを思った。


 月の光が小望月の爪先に差し掛かり、晦の身体がすっかり暖まったとき、晦の身体はやっと震え始めた。


 暖かさを知って寒さに気付くなんて、あんまり遅すぎるじゃないか。そんなことを思った。


「……僕は、怖い」


 そう呟いて、身を曲げ、小望月の胸にすがり付く。


「死んでも構わないって思ってるのに、死ぬのは怖い。……矛盾しているよな。僕がおかしいのか」


「俺には、分からない」


 あっさりとした言葉だったが、ひどくいつも通りで、ずいぶんと温かかった。


 それもそうか。目の前の男は死にたいとも、死ぬのが怖いとも思ったことすらないのだろう。


 人は生きているだけで良くて偉いなんて言葉が嘘だと思えるほどの、ただ生きているだけの男。


 本当に不思議なものだ。こいつをどうしてこんなに好きになって、心から受け入れたのだろう。


「……死にたくない。だけど、生きていたい世界でもない。お前はどうだ」


「生きていたい世界じゃないが、わざわざ死のうとも思わない」


 小望月らしい答えに安心して、晦は彼の身体へ腕を回し、抱きついた。彼はただ、抱き返してくれた。


「……いま死ぬなら、怖くない気がするんだ」


 この体温の中で。この腕の中で。


 小望月と居るこの瞬間に終わることができるのなら。


「……すまない」


 小望月はただ謝った。晦はほんの少し苦笑いした。


 殺してくれと頼んだ訳じゃなかったんだがな。でも、頼んだら殺してくれると思っていた。そうじゃないのは、僕を心から受け入れてくれているからだろうか。


 もしそうなら、ただどうしようもなく嬉しい。


「いいんだ。僕はただ自然に、ここで死にたい」


 だから。


「……ずっと、このままでいてくれ」


「……いつまでも、このままでいる」


 晦は満足した顔で目を閉じた。いつの間にか月の光は、ふたりをすっかりと包んでいた。


 静かに呼吸をして、温かさの中でゆっくりと眠っていく。


 少しずつ、溶けていくように感覚が希薄になっていく。


 それが夢へ向かっているのか、死へ向かっているのかも分からないでいる。


 どちらでもいい。こんなに心地よく眠れるのなら、どちらでも。


 背後で金属音がした気がした。小望月が何かを取ったのかな。夢うつつにそんなことを思っていた。


 さっきまでの絶望が嘘のように、感情が満ちていく。それは――。


 ――エンジンの音?


 眠りかけた意識が僅かに覚醒する。


 だが眠くてたまらない。


 上手く身体も動かない。


 ああ。こんなときに。


 アトリエの扉が開き、明かりが付く。


「――おい、お前っ!」


 静寂を破壊する声。血が繋がっただけのあの男だ。


 どうしてだ。


 僕が役立たずだったときは探さなかったくせに。


 いなくならないかなんて陰口を言ってたくせに。


 僕の名前すら呼ばないくせに。


 どうして来るんだ。


 小望月が起き上がる。


 行くな。離れないでくれ。


「ふざけてるのか。うちの息子をこんな寒いところで!」


「毛布は用意した」


 男は晦をじっと見下ろす。少年の様子が変なことに気付いた。


「大丈夫かっ! おい。こんなところで寝るから……」


 うるさい。


 世話なんか焼こうとするな。


 僕はずっと世話なしで生きてきたんだ。


 なんで手遅れになってからやって来るんだよ。


 なんで、最初から愛してくれなかったんだ。


「だ、大丈夫?」


 女も入ってきた。晦は男に抱き上げられる。ぐったりとして、抵抗もできない。


「早く病院へ運ばないと……!」


「う、ウソ。ねえ大丈夫なの?」


「分からないよ! だから早く病院へ――」


「おい」


 小望月が、男の腕を掴む。


「なん……だ……」


 男は凄もうとして怯んだ。どうしたんだ。どうにか頭を持ち上げて見上げる。


 殺意が、小望月の顔に滲んでいた。


 お前――そんな顔できたんだな。


「晦が病院を嫌っていることは、親として知っているはずだ」


 首を上げ続けていられず頭を下ろす。よく見れば、小望月の手にはペインティングナイフが握られていた。


 あの、よく切れる方のナイフか。さっきはそれを取ったんだな。


 ……このふたりを、殺す気か。


「………………月。……小望月……」


 どうにかして声を絞り出す。


 お前の手を、こんなふたりの血で汚すな。こんなふたりのために、罪を背負うな。


「もう……いいんだ。僕は、もういいから……」


「晦……だが」


「あの約束は……もういい。……だから……絵を……頼む……」


 小望月は晦の顔をじっと見た。


 首を少し動かして、横向きになった風景のままで、その顔を見返した。


 怯えたみたいな顔をしていた。


 そんな顔もできたんだな。だけど、嬉しいよ。僕のためにそんな顔を見せてくれたことが。


「……絵を始末するって……約束してくれ……」


「……分かった」


 小望月は目を伏せて、手を離した。


 こんな状況でさえ名前を呼んでくれないふたりに連れられ、小望月から遠ざかっていく。アトリエを出て、車に乗せられ、男の運転で、女に膝枕をされた。


 さよならぐらい、言えばよかった。ぼうっと、そんなことを考えていた。


 あのときだ。あのときに、死にたかった。


 あの瞬間。あの場所。あの温かさの中で。


 急に怖くなって、震え始めた。


「大丈夫。早く病院に連れていくから。がんばって。お願い。がんばって生きてよぉ……!」


 女の懇願が、途中まで聞こえていた。


 最期に感じたのは、熱だった。


 だけど、違う。


 これじゃ――ないんだ。


 ――――この熱じゃ――ないんだ――――――。


 揺られる車の中。


 晦は、


 独りで死んだ。




 満月の日。その日中。小望月はアトリエに来ていた。


 当然、仕事は――約束は全うする。報酬は前払いで支払われているから、拘束時間内はアトリエに居た。


 結局、晦は病院にたどり着くことなく息を引き取ったと、晦の両親に責め立てられて知った。晦の弁護士と会ったやら。ついでにお前を訴えてやるやらと言うだけ言って、あっという間に彼らは去っていった。


 だが小望月は帰らなかった。いつもの机で、なにをすることもなく、ただ時が過ぎるのを待った。絵画を見てもよくなったが、見なかった。自分でもよく分からないのだが、見るべきでない気がしていた。


 無為に過ごしていると、自分の考えていることに奇妙なところを見つけた。


 晦と過ごした日々よりも、晦の最期の顔よりも、どうしてかあの炎のことばかりを思い出すのだ。あの輝く炎の色に、焦がれているように。


 あの炎の美しさが、今になって本当に理解できたような気がしていた。


 あまりにも遅い。今更だ。そう思うのと同時に、それでよかったとも思った。


 もし俺が語れば、きっと晦は眉を潜めただろう。そうしてこう言う。


『やめろ。言っただろ。感想など聞くに堪えん』


 じっと待ち続けて、日が傾いて、もうじき暗くなるだろうというときになって、電気を付けた。


 ちょうどそのとき、日暈がやってきた。


「あ、小望月さん。日暈です、お邪魔します」


「…………」


「お仕事帰りなので遅くなっちゃいました。でもちょっとだけ居させてください」


「…………」


 何も答えない小望月に、日暈は不思議そうな顔をした。


「あれ。晦さまはおトイレですか?」


「晦は来ていない」


「え。具合が悪いんですか。心配ですね。あんまり調子が良くなさそうでしたし」


 不安そうにする日暈だった。小望月はうまく、言葉が出てこなかった。


 死んだよ、その一言で済む話だ。今までの小望月ならそうしていた。だが口にできなかった。


 目を伏せた小望月を見て、日暈は口に手を当てた。


「…………ウソ……」


「……晦はもう、いない」


 彼女は呆然としたが、はっとして裏側に置かれているキャンバスを見た。


「絵は……」


「完成としても差し支えない。あと一筆入れて完成、という計画だった」


「そうですか……。なら、良かったです。ちゃんと最後までできたんですもんねっ」


 彼女は微笑む。


 だがそれは、ふた呼吸もしないうちに崩れた。


「……ごめんなさいやっぱり無理です……! 晦さまぁあ……っ!」


 泣き崩れ、しゃがみこんで大声で泣き始めた。


 雨みたいに涙がこぼれ落ちて、水溜まりを作っても、泣き続けた。


 羨ましい。小望月はただ、そう思った。


「……茶を買ってくる」


 小望月は日暈を残し、アトリエを出た。それとほとんど同時に大粒の雪が降り始めた。大雪と呼べるほどに大量の雪粒がアスファルトに落ちては溶けていくが、小望月は引き返さずコンビニに向かった。


 いくつか道を曲がり、坂を上がり、路地へ入ってくる車を避けて大通りへ出る。


 歩きながら小望月は考え始めた。どうしてあの絵を見られないのか、と。


 絵や、音楽や、文学や、様々な芸術。心動かす全てを好んで見ることのない彼だ。見ても見なくとも何ら問題はない。それが例え、晦の描いた絵でもだ。


 むしろ、見ることに抵抗があった。


 何故だろうと考えていくうち、ひとつ不思議な考えが自分の中にあると気付いた。


 また会ったときに、あの絵を見たか聞かれるような気がしていたのだ。


 見ていないと答えると、晦は「律儀なやつだな」と笑い、安堵する。そんなことを考えていた。


 俺はそう望んでいるのか。あるいは、これが俺の中に生まれた――。


「うわぁ。もう雪か。十一月なのにな」


 コンビニから出てくる中年が話しかけてきた。


「こりゃあ積もるわ。なぁ?」


「そうだな」


 返事をしただけで中年は顔をしかめて、去っていった。


 コンビニへ入ると、中は熱気で充満していた。客を気遣っているようだが、明らかに暖房が強い。


 冷蔵庫のガラス戸を開け、茶を一本取った。


 雪に気付いた店員がいくつもの傘を垂らすラックを裏から出してきたので、日暈にと一本取り、セルフレジに通して買った。


 コンビニを出て、凍りつくほど冷たい風に吹かれたとき。


 死にたい。


 初めて、そう思った。


 今までそんなことはなかった。どんなに苦しくとも、どんなに空虚であろうとも、自ら進んで死のうとはしなかった。それだけの気力がなかった。気力を生み出す希望もなかった。


 だからこれは、無気力な男に芽生えた希望は――。


 ――何よりも強い、衝動になる。


 小望月は引き返し、自動ドアを抜け、文房具のある棚の前に立った。手に取ったのは、カッターだった。この場で開けて首を切れば、身体中の血を流せば、あのときの晦と同じ冷たさになれるかもしれない。


 待て。それでは約束を殺せない。また約束を怪物にするつもりか。晦の最期の願いを、無下にするのか。


 そう自分に言い聞かせるが、クリスマスプレゼントを見つけた子どもみたいに、この場でカッターの包装を破きたかった。


 抑えろ。考えろ。どうすればこの衝動を止められるか。欲求を誤魔化すためにはどうするべきか。ひとつ、欲求を別の方向へ向けて消費すること。ふたつ、欲求に近付いていると錯覚して一時的な満足感を得ること。みっつ、やり過ごすこと。


 今この場で、別の欲求を満たすことはできず、やり過ごすこともできそうにない。消去法でふたつめだ。


 錯覚の方角はふたつ。自分か、他人か。他者を殺害すると約束の達成までに逮捕される危険性がある。なら自分へ向ける。希死念慮の達成。即ち自殺へ近付くためにはどうするか。思い付いた方法はふたつ。


 ひとつ、自殺の準備をする。これでいつでも実行できるという安心を得て、実行したいという欲を抑える。いつでも逃避できる逃げ道が存在することで、むしろ穏やかになれる場合がある。


 ふたつ。自傷する。怪我することや血を見ることは、動物の死のプロセスの大半に含まれる。大きな痛みや苦痛によって、そのプロセスの第一歩を踏んだのだと錯覚させる方法。


 どちらも一緒に試せる。そう判断した小望月は、カッターと、別の棚から包帯を取ってセルフレジへ持っていき、さっきと同じように買った。


 そのままトイレへ向かい、扉を閉めて鍵を掛け、便座に座った。箱を開封してカッターを取り出す。


 チッチッチと、先端から新品の刃が出てきた。それを、自然な動作で首へ運んだ。


 数回呼吸して首から刃を離した。まだ収まらない。


 ならふたつ目の方法。左腕の袖を捲り、脚を開き、便器へ向かって拳を突き出す。


 ここで出血多量を起こして死んでは仕方ない。そうは思っても、熱と眩暈によく似た衝動に、抗えなかった。


 加減や正しい応急処置など知るか。手首と肘のちょうど間に刃を当て、躊躇いもせずに引き切った。


 少し大きな血管が切れたのか、一瞬血が吹き出たかと思うと、だらりと血が流れ、左手を血塗れにする。


 便器の水へぽたりぽたりと落ち、上下逆さまの煙みたいになって溶けていった。


 ゆっくり、ゆっくりと水が赤く染まっていく。暖かい液体が腕をなぞっていく。


 腕全体がすっと冷たくなった気がした。俺の熱が、煩わしさが、腕の傷からこぼれ落ちていく。


 この感情は……なんだろうか。嬉しいとは違い、怖くもない。むなしさも、苛立ちもない。


 この気分が、『なるべくしてなった』という安心感だろうか。


 小望月はカッターを手近にあった洗面器へ置いて、ビニール袋で傷口を直接縛り、濡れた手をトイレットペーパーで拭いた。


 包帯を箱から取り出して、ビニール袋の上から傷口周辺を圧迫するようにきつく巻いた。飛び散った血はトイレットペーパーで拭いて処理し、赤い水ごと流した。


 そして、ひとつ大きなため息をついた。


 凄まじい衝動を満たした、その後の徒労感だった。


 ……きちんと処置しないとな。


 雑な準備で腕を切った自分に呆れながらトイレを出て、暑いコンビニから逃げるように出ていった。


 ずきり、ずきりと左腕に痛みが寄り添っていた。本当に効果のあるお守りを持ったような感覚だった。冷たい風に吹かれて飛ぶ雪に当たられながら、コンビニの目の前の交差点で信号を待つ。


 赤信号になり、車たちは積もりかけた雪に警戒してそろりと止まる。小望月が渡ろうとする横断歩道の左奥に止まった、信号待ちの車。それに一瞬目を取られ、すぐに目線を逸らした。


 ――あの黒いバンは、ついさっきすれ違った車だった。小望月のものと型こそ違うものの、かなり大きな車両なので一瞥しただけで分かった。何でもない車のはずが、妙な予感がした。


 あの路次へ入っていった車がもう出てきたのか。Uターンならもっと簡単にできる場所がいくらでもある。迷うにしても、あの路地へわざわざ入ろうとするだろうか。


 一応、記録するか。気のせいならそれでいい。


 歩行者の信号が青になる。歩き始めながらスマートフォンを取り出し、カメラを起動し、録画モードに。撮影を始めた。すれ違う人が血の臭いに振り返る気配を感じながらあの車の目の前に来たとき、スマートフォンをわざと取り落とした。屈んで拾うときにナンバープレートを移す。


 立ち上がり、落として端に傷がついていないか確認するふりをしつつ、運転席へカメラを向けた。そしてゆっくりと歩き出し、歩きスマホで横断歩道を渡りきってしばらく行き、適当な路地へ入った。


 映像を確認する。車のナンバーも、運転手の顔も、ハッキリと撮れている。


 路地から覗き込むとあの車はもうどこかへ行っていた。小望月は足早に大通りを抜け、来た路地へ戻り、坂を下り、いくつか道を曲がる。


 雪の勢いは増すばかりで、この少しの間に地面はすっかり白くなっていた。


 アトリエへ続く薄い轍を踏みしめ、着くなりやや乱暴に扉を開ける。


 キャンバスはない。その代わり掃除用具入れの前に、泣き腫らした日暈が悲痛な顔をして立っていた。

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