大雪 23時

――――――――――――――――

晦の遺書 1


 小望月。

 ただのアルバイトのお前に向けて、こんなものを書こうと思うなんて想像もしてなかった。この遺書はお前にだけ見せるように、弁護士に言ってある。そいつにも見ないように言ってあるから、これはお前だけにしか読めないはずだ。

 なんだか色々と、らしくもないことを書こうと思ったんだ。

 こうして言葉にすると、思ったより恥ずかしいし、馬鹿馬鹿しく見える。分からないだろうが、これが五回目の書き始めだ。何回書いても字は一向に上手くならないもんだ。何度書き始めたって納得できないから、もうこれで書ききる。どうせ面と向かってなんて言えないからな。

 まず、お前を雇って良かったと思ってる。ファンとやらを側に置かなくてすんだし、困ったときは相談もできる。色々と都合がよかった。良い顔はしないが、嫌な顔もしない。それがちょうどいい。

 それに、露骨に心配しないのも、生きるとはだの死ぬとはだのでお説教しないのもよかった。僕の見えるものを、受け入れも拒否もせず、ただ離れたところで見ている、その距離感がいい。

 なんだか、やっぱりまとまりがないな。でもこうして字を書くのは久しぶりで、手紙みたいなものは初めて書くんだ。許してくれ。なにはともあれ、お前を雇ってよかったと思ってる。

 どうせお前は笑わないから遠慮なく書くが、お前といて、人を受け入れるってことが分かったんだ。あのインタビューを受けると言った日。僕はお前や、日暈を受け入れていたと、あのとき自覚したんだ。

 ところでアトリエに着く前に、愛は無条件かみたいな、そんな話をしたのを覚えてるか。僕はお前のせいで死ぬまで忘れられなくなったよ。

 それであの話、ひとつ気になることがあるんだ。お前は僕を受け入れているって、そう言った。でも、こう書いちゃなんだがお前が誰かを受け入れるっていうのが想像できないんだ。アルバイターとして、食いつないで生きている。そこでお前が恋愛だの友だちを作って酒でも飲んでだの、ってしているとは思えない。

 お前は僕以外に、受け入れている人はいるのか。約束を守る奴なら、誰でも受け入れるのか。どうして、僕を受け入れてくれたんだ。僕の、どこまで深いところを受け入れてくれたんだ。

 もしも全部を受け入れてくれるなら、あの遺言の申し出を受けてくれないか。たぶん、この手紙より先に聞かされてるんだろ。変だと思うか。笑いたかったら笑え。おっと失礼。お前は笑わないやつだったな。

 馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。でも僕は本気だ。もし受けるなら、弁護士と話を進めてほしい。この手紙を受け取ったのなら、連絡は取れたということだろう。その弁護士だ。

――――――――――――――――


 あれから、しばらく。日は一気に落ちて、同じ日の二度目の夜が来た。


 バンは山間部へ突入し、高速道路の外は暗い山ばかりの銀世界となった。村のような明かりの群が、現れたと思えばすぐに消える。


 更に下がっていく気温は留まることを知らず、車内は暖房を入れているにも関わらず寒かった。ニュースに耳を傾けてみれば、数十年に一度の大寒波が直撃していると言う。その寒風に凍らされた道に警戒した車たちが、一斉にそのアクセルを緩めていた。小望月たちはそのなかで一切速度を落とさず、追い越し車線を走り続ける。二人とも口には出さないものの、焦りと緊張があった。


 警察に目をつけられる速度である上に、スリップの可能性がある速度でもあった。どちらも起こらないように、ただただ祈るしかできないのだ。


「……小望月さん」


「なんだ」


「ごめんなさい、これ……本当に始まっちゃうかもしれないです」


 処刑に向かうバンは法定速度内に収まっているものの、この雪の中では誰の目から見ても速い。ただでさえ『黒いバン』が捜索されているかもしれないというのに、到着までのあと三十分、このペースで警察に追われないのは現実的に考えて難しい。


「そうなったときの話をするか」


「どうしましょう。どうにか小望月さんだけ下ろして、私は囮でこのまま逃亡するのはどうです?」


「カーチェイスになってから俺を下ろすとなると、そのまま捕まらないか」


「それは……そうかもですけど」


「一気に油島の別荘まで行って、俺が大急ぎで決着をつける。火を付けてしまえばそれでいいんだ」


「それじゃ、絵画にたどり着く前に捕まるかもしれないじゃないですか」


 互いに譲る気は無かった。かなり無茶な状況で、確実な方法がない。いかにマシな選択肢を出せるかだ。


 小望月はスマートフォンで油島の別荘と思われる位置をもう一度確認する。別荘と高速道路との最短の位置は、高速の二つの出入り口のちょうど間だった。一つ目の出口はもう通りすぎているので、その次の出口で降りる計画だった。


 最短の場所を調べて周辺の写真を眺める。遠い道からもその場所が映り込んでいないか、念入りに観察し、小望月は頷いた。


「二人の案の、ちょうど中間はどうだ」


「中間ですか?」


「日暈さん。ここで一旦、停車をしてくれ」


 小望月は運転席と助手席の間から身を乗りだし、スマートフォンの画面を見せた。


「そ、そこですか? どうして……」


 日暈は地図の画面を受け取ってチラと見た。日暈の代わりに道の先を見たとき、左車線に追い越されようとする車が、相対的に後ろへと動いていくのが目についた。


 運転席の男も、助手席の男も、じっとこっちを見ていた。


 日暈が手に持った物を発見するなりパトランプをルーフに付ける。運転中のスマートフォン使用は、こちらを止めさせるには十分すぎる材料だった。


「すまない、しくじった。覆面だ。カーチェイスの出番だぞ」


「え! も、もうですか!?」


 小望月は火炎放射器を取り出し、日暈へ向けた。


「とにかく、止まる位置はそこだ。頼む」


「か、覚悟決めますっ!」


 日暈がアクセルを一気に踏み込む。急加速する車。小望月は後ろへ転びそうになった。バンはタイヤを鳴らしながら車線と車線を区切る、区画線のちょうど上に陣取った。他の車たちは事故を警戒し、車線の中心よりやや外側を走っている。その間を真っ直ぐに突っ切っていく。


 バックライトの赤い光が前方から流星群のように振り注いで、前照灯の白い光になって背後へ消えていく。真後ろからは赤いパトランプが、小さな炎のようにチラチラと輝いて追ってきている。


 ひとつのハンドル操作を間違うどころか、少し運が悪いだけでも他の車に接触し、強烈な事故となって巻き添えを出しながら死ぬ可能性がある。


 偶然に死ぬか、偶然に生き残るか。もはやカーチェイス以前の暴走だった。


 ひとつだけ幸運であるのは、この悪路や走っている場所のお陰で覆面パトカーがすり抜けたり追い抜いたりできないということだった。


 しかし、このままでは車から降りることさえままならない。少しだけ時間を稼ぐべきだろう。


「日暈さん。そのまま突っ切るんだ。止まらない限り追い付かれはしない」


 小望月は言いながら、肘でバックドアのガラスを叩き割った。ガラスが道路へ落ちたというのに、覆面はブレーキもかけなかった。反応しきれなかったか。


 車が風を切る音と、身を切るような冷たさがなだれ込んでくる。


「な、なにしてるんですか!?」


「気にするな」


 小望月は割れた窓から身を乗りだし、火炎放射器を追ってくる覆面へ向けた。同じ距離を保っていたパトランプが、後ろへ加速するように遠くへ離れていく。それと同時に窓から上に向かって火を撒いた。


 車の速度に取り残された火を纏う液体が、風に乗ってより遠くへとその身を伸ばしていく。


 エタノールの火はほとんど透明で見辛いが、あのパトカーに直撃させれば燃えていることは分かるはずだ。それがわずかでも時間稼ぎになればいいが。


 小望月は銃を置き、揺れる車内で大急ぎで準備を進めた。上着を着て、ガスマスクと飛行帽を被り、スリングベルトを利用して火炎放射器とタンクを、身体の前面にしっかりと固定した。


 ……骨壺までは持てないか。


 車が一気に路肩に寄り、停車する。


「壺に灰を入れるのは、証拠品として押収された灰が返却されてからになる。その作業は頼んだ」


「な、何を言ってるんですか。着きましたけど、ここからどうするんですかっ?」


「警察に捕まったら、相談した通りに立ち回れ」


 小望月は全く取り合おうとはせず、車の外へ出た。日暈も追うように出る。


「って、ここ何にも無いじゃないですかっ!」


 文字通り、何もなかった。ここは山と山の間の谷になっている部分に架かった橋。空中なのだ。


「質問に答えてくださいよ! どんな考えがあるんですかっ!」


 日暈は焦る。こんな場所で何をするのか。そもそも停車する意味があったのか。


 そして、警察が追い付くということよりもずっと、ずっと嫌な予感がした。


「すまない。最後にまた面倒をかけて」


「……小望月さん」


「日暈さん。これを」


 小望月が拳を差し出す。日暈はその下に両手で受け皿を作ると、チャリンと鍵が落ちてきた。


「これは……アトリエの鍵、ですか?」


 小望月は、道路の外へ向いた。


「あの、か、考え直した方が――」


「――灰を、よろしくお願いします」


 彼女の言葉を最後まで聞くこともなく。


 小望月は、高速道路から飛び降りた。


「――小望月さぁんッ!」


 日暈は慌てて止めようとしたが、手遅れだった。下を覗くと闇は深く、どうなったかは分からない。振り返ると、少し遠くにパトランプが見えた。


 日暈は靴も脱げる勢いで駆け出した。


 きっと大丈夫だと思ったから飛んだんだ。でも無事だったことを確認して安心する余裕さえくれない。小望月さんの馬鹿。無茶するならもっと、ちゃんと安心させて。


 停車した覆面から降りた男へ、日暈は泣きながら助けを求めた。靴が脱げて飛ぶ。それでも止まらず、信じられないほど冷たい路面を走った。


「大丈夫ですかっ! そのまま走ってこちらへ!」


「お願い……! お願い助けてぇっ! いやぁ……!」


 ほとんどが本心の、迫真の演技だった。




 晦が居た。


 ミンミンと、外がうるさいアトリエで、ただただ絵を描いていた。


「……だったら、よかったのにな」


 何かを言った気がするが、何を言ったのか自分でも聞き取れなかった。


 ただ晦は、苦笑いしていた。それでいいかと、そんなことを思う。


 気がついたら小望月は、ペインティングナイフを持っていた。それを晦の隣の画材置き場にそっと置いておいて、いつもの席に座った。キャンバスが見えるが、何が描いてあるかは見えなかった。


「……晦」


「なんだ」


「お前は、あれでよかったのか」


「まあな。僕は……」


 晦は、何かを言った。何を言ったんだろう。


「晦」


「興味がないと言ったから雇ったんだぞ」


 不機嫌な顔があった。


 今はただ、その表情が、晦の気を悪くしたことが怖かった。


「……すまない」


 自分ではなく、腕の中に居た晦が呟いていた。


「……俺は……」


 抱き締めた身体はどこまでも冷たかった。それでも彼の身体を、確かにこの腕で抱き続けた。


 冷たさが俺の身体に染み込み、熱を奪っていく。


 冷たい。俺も、晦も。冷たくなっていく。


 その顔は青い。その身体は冷たい。


 寝顔の奥で、燃焼しているんだ。


 なら、それでいい。


 このまま――――。


 ――――燃え尽きてくれ。


 あらゆる感覚が、現実のものに統合された。


 暗い視界。闇に光る雪の冷たさ。染み込んでくる水の冷たさ。抱く火炎放射器の冷たさ。寒さばかりで匂いは感じられず、身体の感覚も希薄になっていた。


 眠って……いや、気絶していたのか。ともあれ生きているならば、雪をクッションにし、山の斜面で滑ることで勢いを殺す策は概ね成功だ。


 スマートフォンを取り出す。時は、二十三時半。三十分も無駄にしたか。だがそれでもいい。周囲には警察どころか誰も居ない。山の中で、かつ雪も降っていては捜索も難しいからだろう。狙いの通りだ。


 小望月は立ち上がり、酸素ボンベをぷしゅうと鳴らしてタンク内圧を上げ、火炎放射器を少し撃つ。炎が雪の上に垂れ、雪に染み込んでいくように深い穴を開けた。問題なく動作している。時間以外は狙い通り。


 ならば迷うことはない。タンクを背負い、スリングで銃身を身体の前にぶら下げた。空を見上げ、高速道路の位置から自分の向かうべき方角を確認し、真っ黒な怪物は歩みを始める。


 膝ほどに積もった真っ白な雪を掻き分け、転びそうになりながらも、確かに地面を踏みしめていく。


 息切れをしようと、喉が血を滲ませようと、肺に冷たい痛みが走ろうと。


 ただ膝を上げ、雪を押し退け、悪路とさえ呼べぬ道なき道を突き進む。


 少しして、道路に出た。山の斜面を登っていく道だった。そこには薄い轍が残っている。


 上を見れば、少し遠くにぽつんと光が灯っている。それは少し大きな屋敷のようだ。あそこが例の住所の位置。間違いなく油島の別荘だ。


 これならば間に合う距離。急がねば。


 小望月は一息入れ、また足を上げ、踏みしめて登る。


 しっかりとした足取りが雪を踏み潰し、滑る猶予さえ与えない。どこまでも力強く、反動がずしりと身体に返ってくる。


 がちゃり、がちゃり。


 ちゃぷん、ちゃぷん。


 音のリズムは決して変わらない。


 疲弊し、命すら削り、それでも行進を止めない。


 焚殺人は、燃える意思ひとつで山を登っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る