希望的観測の先に
智原 夏
希望的観測の先に
小学生の頃、将来の夢についての作文を書く宿題が出て、作家になると書いたら、担任の先生から呼び出しを受けた。
「高村君、作家なんて、一握りの才能がある人しかなれないんだよ。そんな叶わない夢を追うより、お父さんのような研究者になる方が先生は合ってると思うな」
父は研究者で、有名な研究所に勤めていた。
俺はその教師が、父の息子という視点でしか見ていないということを、子供ながらに見抜いていた。
実際、俺は、理科も算数もダメで、得意科目は国語と社会という、明らかに文系の人間だった。
父とは違う性質を持っているのを把握しているはずの担任は、その現実を見ようとしていなかった。
先生は俺が父の息子だから、同じ道が合うと思っていて、俺はその道は合わないと思っている。その矛盾が俺を悩ませた。
理科や算数を頑張ってはみたものの、どうにも成績は上がらなかった。
幸い、父は研究で忙しく、たまに家に帰って来た時も、俺には一言も研究者になれと言ったことはなかった。
とはいえ、俺はあの先生の話がずっと心に重くのしかかっていた。
自分が一握りの才能がある人になれるとは思わなかった。
けれど、文章を書くことがたまらなく好きで仕方がなくて、作家を諦めきれなかった。
高校卒業後、上京した俺は、大学の文学部で、
同じ作家志望だったから、すぐ仲良くなって、お互いの小説を見せ合った。
俺は澪の小説を見て、ただただびっくりするしかなかった。本当に同い年か?と思えるほど、文章にキレがあり、確実に賞を取る予感がするほど、話に深みがあった。
彼女こそ、一握りの才能がある人だと認めるしかなかった。
そんな彼女が俺の作品が好きだと言ってくれたことは、お世辞だとしても、とても嬉しいものだった。
そのうち、お互いのことが好きになって、付き合い始め、俺たちはそれぞれ、賞に応募し続けた。
一年が過ぎた頃、俺の予感は現実のものとなり、澪は新人の登竜門とされる文学賞を受賞した。
あの時はとても嬉しかった。まるで自分の小説が認められたかのように、喜んでいた。
しかし、それからの俺は、自分が作家になりたいが為に賞に応募しているというより、澪と同じ世界にいたい、作家である澪を追っかけたい、という気持ちが強くなっていった。
それから何年か経った梅雨の季節に、澪は芥川賞の候補になった。
その途端、もう澪に追いつけないという絶望が俺を支配していって、どうしようもなくなり、気が付くと、書店の中で呆然と立ち尽くしていた。
目の前には澪の作品が並んでいて、芥川賞候補作と書かれたPOP広告の紙が、天井から流れる冷房の風でゆらゆらと不安定に揺れていた。
「あれ、君、澪ちゃんの彼氏じゃない。どしたの?この世の終わりのような顔をして」
聞き覚えのある声にはっとして、振り向くと、作家の
「夏原先生!」
と大声で叫んでしまった。
俺は言った後で、周りを見渡し、しまったと思った。
皆こちらを見ている。
突然、夏原先生は、俺の手を掴んで引っ張り、書店の出口へ向けて走り出した。外に出ると、目の前の道路の奥に、大きな橋のアーチが見え、その上にある重苦しい曇天が川面にも影を落としていた。俺と先生は手を繋いだまま、橋の歩道を半分まで走った所で、息切れを起こしてしまい、膝に手を突いて、はあはあ言った。
「まったく、あんな所で僕の名前を叫ぶなんて、どうかしてるよ」
「すみません」
夏原先生は澪の師匠で、その関係で以前、会ったことがある。確か、澪より十歳ぐらい年上で、親しみやすく、柔和な人だった。
「でも、君、何で澪ちゃんの本の前で、あんな顔して立ってたんだい?そう言えば、君、作家志望だったよね。もしかして、賞に落ちたのかい?」
先生は、柔らかな物腰で俺に話しかけた。
「はい」
うなだれながらそう言った。
「そんなに落ち込まなくても、次があるよ。君はまだ若いんだし」
「いえ、もうだめなんです…」
「だめってことはないよ。僕だって、何回賞に落ちたことか」
「俺は、澪と同じ世界に存在したくて、賞に応募してきました。でも、それは叶わないってことが分かったんです」
「ふーん。澪ちゃんと同じ舞台に立ちたかったわけか。でもさ、澪ちゃんと同じ舞台に立てなくても、君は小説を書く能力を失ったわけじゃないだろう?プロの小説書きだろうと、アマチュアの小説書きだろうと、書いているということは同じだ。君と澪ちゃんは、それだけで、繋がっていると思わないかい?」
と先生は目尻に皺を寄せて、にこりとした。
「夏原先生」
先生は少し下に目線を置いて、
「澪ちゃんはさ、同じ舞台とかそういうことは思ってないよ。ただ、ずっと、一緒にいてくれたらなぁとか思ってるんじゃないかな」
と言ってから、視線を俺の方に向けて、首を傾けて微笑んだ。
「ありがとうございます」
「とにかくさ、君には澪ちゃんを守って、支えてほしいんだ。頼むよ」
と、夏原先生は、俺の肩を叩いた。
「はい」
七月に入り、芥川賞の発表が近づき、澪は忙しそうだった。
俺も仕事が忙しくて、あまり構ってあげられず、申し訳ない気持ちで一杯だった。
芥川賞発表の日は、台風が近づいていて、強い雨と風が吹き付けていた。
仕事が終わり、スマホで結果を見てみると、受賞者は、澪ではなかった。
俺は、慌てて澪に電話をかけた。
「はい」
「澪、結果見たよ。残念だったね」
「うん」
様子がおかしい。
「泣いてるの?」
「私、賞取らないと、連載も本も難しいって言われてたんだ。だから、もう、作家としてはやっていけないんだ。どうしよう、私、続けたいのに」
泣きじゃくっているのが電話越しに伝わってきて、俺はどうにも彼女の元に行きたくなった。
「今どこにいるんだ?」
「アパートの部屋だけど」
「今から行くから、待ってて」
「待って」
という声が聞こえたが、もうその時には通話終了のボタンを押してしまっていた。
俺は、急いで会社を出た。
外は土砂降りの雨で、俺は傘を差しながら走った。この天気で、電車が動いていないことは分かっていた。
傘はすぐダメになった。街灯を頼りに、びしょ濡れになりながら歩いていると、急に車が横に止まって、
「高村!お前、大丈夫か?」
という聞き覚えのある、男性の声が聞こえた。
その方向を見ると、職場の杉浦先輩が運転席の窓を開けて、こちらを見ていた。
「早く乗れっ!」
俺は、反射的に、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
ドアを閉めると、先輩は、
「皆、会社に泊まるって話をしてたら、急に飛び出していくから、心配になって、探してたんだ。どこか行きたい所があるんだろう?連れてくよ」
「でも…」
「いいから。色男の高村君が、必死こいて行きたい場所は、恋人の所だろう?わかってるんだ、そんなこと」
「すみません」
「何で謝るんだよ。住所、教えてくれ」
俺が伝えると、先輩はカーナビに住所を入力して、車を発進させた。
俺は寒さでガタガタ震えていた。革靴の中は水が溢れかえっている。
ポケットに入れていたスマホを取り出すと、すっかり水に濡れていた。防水仕様にしなかったことを悔やんだ。
抱えた鞄の中の書類も全滅だろう。
だけど、部長に怒られるとか、そんなことはもうどうでもよかった。
車の中で待つ時間はとても長く感じられて、早く過ぎ去ってくれることだけを願っていた。
「高村」
という声ではっとした。
「着いたぞ」
「ありがとうございます。あの、シート汚してすみませんでした。このお礼は必ずさせて頂きます」
と俺は頭を下げて、車を降りた。
クラクションを鳴らしながら、走り去る車に再び俺は頭を下げた。
雨が体全体に打ち付けて、俺も地面に吸い込まれそうな感覚だった。
アパートの階段を上って、澪の部屋の呼び鈴を鳴らすと、泣きはらした目で澪は出てきた。
澪は、少し声を上げて、驚いた様子だった。
「どうしてこんな日に来たのよ。ばかっ。何回も電話したのに出ないし」
「ごめん、スマホ、水没しちゃって」
と俺は苦笑いをした。
「とにかく中に入って、タオル持ってくるから」
玄関に入ると、澪は慌ててタオルを持って来て、俺の体を拭き始めた。
「せっかくのスーツが台無しね。仕事終わってすぐ来たの?」
「ああ」
「ありがとう。さ、すぐに、お風呂に入りましょう。上がって」
俺は玄関を上がって、浴室に向かった。
びしょびしょの服を脱ぐのに苦労して、湯船に浸かると、ほっとした。
「悠真、この前来てた時に置いていった服、ここに置いとくね」
浴室のドアの向こうで、澪の声がした。
「ありがとう」
励ますつもりでやって来たのに、逆に迷惑をかけてしまったかなと俺は少し気にかかった。
風呂から上がると、澪は食事の用意をしてくれていた。
「ご飯まだでしょ?食べていって」
「ごめん、迷惑かけて」
食卓の前の椅子に座ると、料理が目に飛び込んできた。ナスの味噌汁に、鮭の塩焼き、煮豆が並んでいた。
「そんなことないよ。こんな雨の中、来てくれたのに、そんなこと思ってないし」
向かいに座った澪は首を横に振って、こちらを気遣う言葉を掛けてくれた。
「仕事忙しくて、あまり構ってやれなくてごめんな。俺さあ、夏原先生に言われたんだよね。守って支えて欲しいって。でも、ちゃんと出来てなかった」
「出来てるよ。十分過ぎるぐらい、支えてもらってるし。自分の力を見くびりすぎ」
と、澪は少し笑ったが、やがて寂しそうな表情になり、
「あのさ、悠真は何で私と付き合ってくれているの?悠真、顔いいから、他にも女性との縁があったはずなのにどうして?」
と、今まで一度も聞いてこなかったことを訊ねてきた。
「澪はずっと憧れの存在だったんだ。俺より小説が上手くて、書くことが大好きな女の子が好きで、ずっと追いかけていた。俺がずっと賞に応募してたのも、自分が作家になりたいからというより、澪と同じ世界に居たかったのが理由なんだ。けど、澪が芥川賞の候補になった時、その夢は叶わないと気付いた。それを、夏原先生に言ったら、プロの小説書きだろうと、アマチュアの小説書きだろうと、書いてるということは同じで、俺と澪はそれだけで繋がっているんじゃないかって言ってくれたんだ。俺はその繋がりを大事にしたい。澪、よかったら、これからも、小説を書き続けてくれないか?俺も、書き続けるからさ」
俺はにっこりと微笑んだ。
「悠真がそんな風に思っていてくれたなんて、知らなかった。ありがとう。私ね、作家の仕事がなくなるのが怖かった。作家でいられなくなるのがこんなに辛いなんてって思ってた。でも、書いていることは、作家でなくなっても一緒だものね。あのね、私は悠真の書く話、すごく好きだし、認めているだけに夢を諦めて欲しくない。それが例え、希望的観測でも、信じたいの」
認めているという言葉が心を揺さぶった。芥川賞候補にまでなった澪が、俺のことをそう思っていてくれたなんて。
「ありがとう。そう言ってくれることで、どれだけ俺が救われたかしれないよ」
その後も俺は賞に落ち続けた。澪は、芥川賞候補になったことがきっかけで、連載を持つことになり、作家はやめなくて済んだ。
俺は自分のために書いていた小説を、澪以外の誰かに読んでもらいたくなって、インターネットの小説投稿サイトに、自分の小説を載せた。
すると、読んでくれる人が現れて、ランキングに参加すると、順位がどんどん上がっていった。
顔も名前も知らない人が、俺の小説を読んだ感想を送ってきてくれた。
批判的な物は一切なく、中には感動したとまで書いてあるコメントも付いていた。
澪の言ってくれたことは、あながち、希望的観測でもなかったということだ。
そう思うと、胸が一杯になった。
俺が書いたことは、無駄じゃなかった。
賞は受賞出来なかったけど、俺は、大事なことに気付くことが出来たんだ。
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