第十話:ラフ

 石の円の中、大地に敷かれた浅い砂には熱狂の声と幾千という戦士たちの血が染み込んでおり、心なしかそれは焼けたような赤みを帯びているようであった。その血焼けの砂を踏み締める男が二人。一人は髭面の大男で、筋骨隆々の肉体を見せつけるかのような上裸に兜という出立ち、そして樽ほどもある大槌を担いでの登場だった。その槌には黒い染みがじっとりと広がっており、髭面の男の遍歴をごく端的に表していた。

「会えて嬉しいぜ、チャンプ!」

 髭面はドシンと槌を下ろし、もう一人の男に話しかけた。

「お前をぶっ潰せるなんて、夢みてぇだ!」

「……ふ」

 髭面の言葉に、もう一人の男、蘇芳色の外套の剣士・フォルソーレは言葉返さず、不敵に笑うのみだった。髭面は大槌を両手で握り、フォルソーレは腰に吊っていた剣をスルと抜いた。刃渡りはおよそ一メートル半、両刃、青みがかった黒が艶やかな刀身。鈍鉄でできた十字型の鍔元には黄金の眼球をあしらったぎょくが埋め込まれており――ギョロリ、金眼の玉が髭面の男に向いた。

「来いッ」

 フォルソーレはそう言って、血の如き赤髪を靡かせ目を見開いた。髭面は大槌を構えたまま前方に跳び、強く踏み込んだ。その図体に反して、髭面の俊敏さには目を見張るものがあった。

「――オッ……ルァアッ!!」

 髭面は上段から渾身の振り下ろしを繰り出した。ズドンという轟音と共に砂煙が舞い上がるが、しかしフォルソーレは難なく身を躱し、逆袈裟に切り上げて反撃した。髭面は素早く槌を横振りにし迎え撃つが、なんとフォルソーレはその超重量の衝撃ごと一振りで弾き飛ばした。

「なんだなんだ今の一撃は!?まるで見かけ倒しの軽さッ、羽毛か貴様は!!」

 髭面はあくまでも冷静に、崩れかけた体勢を立て直そうと跳び退がりフォルソーレから距離を取ろうとした。だが、フォルソーレの追撃はその隙を与えなかった。バッと飛びかかった蘇芳の影は、髭面に息つく間もない斬撃の豪雨を浴びせた。

「ふっ、ふふッ……ふふははははッ!!」

「ぬぉおおおお……っ!」

 髭面は唸り声を上げ、必死にそれらを捌いた。縦横無尽、高低も左右もない無数の連撃は、とても一人の人間と一振りの剣から繰り出されているとは思えないほどの刃傷を髭面の四肢と槌に与えた。血焼けの砂が更にその血霧を吸って、赤く、より鮮やかに彩られていった。

「そこだァッ!!」

 フォルソーレは一気に剣を振り抜き、槌の柄の根本に刃を叩き込んだ。低く重い音が髭面の手に伝わり、彼は歯を食いしばりながら目玉が溢れんばかりに瞼を開いた。

「ぬぅッ!?」

 斬首刑のように槌の打撃部くびが宙を舞ったその瞬間、フォルソーレのハイキックが髭面の顎を捉えた。脳を揺らすその一撃に、髭面の体が完全に崩れた。フォルソーレは凶悪な笑みを見せ、剣を引いて構えを戻し、地が抉れるほどの勢いで髭面の脇を跳び抜けた。その通り抜けざま剣二閃。

「ぐぉっ……ごふ、ぉっ……!!」

 衝撃より先に、風を切る音が髭面の耳に届いた。髭面は己の脇腹に走った真紅の十文字を見ることなく、終わりを解した。声とも息ともつかぬものを吐いて膝から崩れ落ちる髭面の背後、フォルソーレはぬめる剣を振って血糊を飛ばした。

『ウォォォォォオオオオオオ!!!!』

 暴力的なまでの絶叫が、コロシアム中からぶち上がった。フォルソーレは剣を鞘に納め、血塗れの両手を掲げて天に咆哮した。

「――友よッ!!見ているかッ!!!」

 その叫びに呼応し、ツー・スリーのリズムが再びコロシアムに熱と狂乱を迸らせた。

 タン、タン!タン・タン・タン!!

『オーオ!リー・サリ・オン!!オーオ!フォル・ソー・レ!!』

『オーオ!リー・サリ・オン!!オーオ!フォル・ソー・レ!!』

「聞けッ!!この俺の名を呼ぶ、万雷の喝采をッ!!そして――追悼を送ろう、我が剣闘すがたでッッ!!!」

 地には赤、剣士は叫び、観客たちは歓びに吠えた。


✳︎


 控え室のバルコニーは選手たちの団子の中で、ハイドラはたった今目の当たりにしたものに打ち震えていた。

「なんだ、今のは……!」

「――の……番」

 フォルソーレ……奴だけ、他の戦士と違う。ハイドラは戦舞台を去り行くフォルソーレの姿に目を奪われながら、そう感じた。

「へへっ……やっぱハンパねぇ!」

 ハイドラの隣、少年騎士ニコは籠手で覆った握り拳でカンカンと手すりを叩いた。

「知ってるか、ハイドラ。アイツ……魔剣士フォルソーレ、この大会の覇者だ……!なんでも、使ってるあの剣は『オースの魔剣』シリーズの一つなんだってよ!しかも、なんとビックリ九連覇!そしてアイツは今年、十個目のメダリオンを狙ってやがるんだ……!」

「魔け……九!?はぁ!?」

 ハイドラは耳を疑った。ニコはプルプルと震えながら彼の顔を見て、興奮した様子で捲し立てた。

「そうさ、ヤッベェ奴なのさ!これまでのコロシアム史上最多、最高連続優勝記録は、三十年前の闘王クレーアドロスが打ち立てた『九連覇』だった!アイツは去年、とうとうそれに並びやがったんだ!そして今年、超えるつもりなんだよ!あの『世界最強の戦士』を!」

「――おの、……四番!」

 ハイドラはぽかんと口を開き、ニコの言葉に聞き入った。

「リーサリオン・コールは、もう長いことアイツの名でしか響いていないっていうぜ。なんでか分かるか……?それはさ、観客たちの誰もがフォルソーレの『ヤバさ』をハイの水準にしちまって、もうそのレベルでしかコールする気になれなくなっちまったからさ……!このリーサリオン・コロシアムは、アイツの世界なんだよ……!」

「マジかよ……」

「青の二十四番!!」

 ハイドラはビクッと体を跳ねさせた。微かなざわつきとともに、戦士の団子が揺らいだ。ハイドラはその人だかりの中からグイグイと押し割って脱出し、顔を出した。苛立った様子の係員が彼を見ていた。

「青の二十四番!試合が近いので、待機場所へ!」

 ハイドラは「すみません」と頭を下げ、駆け出した。

「頑張れよーハイドラー!」

「気張ってけー!」

 ハイドラが振り返ると、ニコとルデムが人だかりから顔を出して彼に手を振っていた。ハイドラは軽く頷いて返し、控え室を後にした。


✳︎


 控え室から次戦待機所までの通用路は壁に点々と灯りがつけられていたが、その数は多くはなく、遠い歓声のうねりが石壁にごうごうと反響していた。龍の肺の中を行く心地で、ハイドラは通用路を歩いた。かつん、かつん、風鳴りと轟きの中、ハイドラの足音もまた石壁に反響していた。

(……いよいよか)

 力を示す、己に。そして、これまで鍛えてくれた師に。その一心から、ハイドラは魔女に一応、「手出し無用」の旨を伝えていた。魔女は「無論」と言っていたが、しかしハイドラはそのオパールの瞳を見て、この期に及んでもまだ「守られている自分」を自覚した。

(師匠は……例え試合中だろうが、俺が死にかければ障壁かなんかで守る気だ……。それじゃあ、ダメなんだよ……。「実戦」に師匠はいない。俺は……「守る側」になるんだ。守りたいもんを守れるように……そのために、力をつけたんだ……)

 ハイドラは師の心を理解していた。だからこそ「勝つ」気でいた。守られてばかりではいられない。なりたい自分になるために、まず力を示さなければならない。師の守りから飛び立つに足るという力の証明。防具を着けぬという無茶な選択も、そこから来ていた。少年剣士は、己がすべきことを胸に刻んでいた。

(……勝つ!)

 秘めたる闘志を燃やし、ハイドラは通用路を進んだ。少し行くと試合場への入り口が見え、その脇に係員が紙を持って立っており、またすぐ近くに三人がけ程度の長椅子が置かれていた。長椅子には戦士が一人座っており、現在繰り広げられている試合をじっと見ていた。係員はハイドラを見て彼に声をかけた。

「青の二十四番ですね。次の次ですので、こちらでお待ちください」

 言われてハイドラは戦士の隣に腰を下ろした。戦士はハイドラを見て、「若いね」と言った。

「ええ、まあ」

 物腰柔らかなその戦士は初老かそれより少し若いくらいの男で、ゆったりとしたシルエットの濃紺の衣を着ており、腰にはきっちりと黒い帯を巻いていた。アルセイラでは見ない、異国風の出立であり、黒く長い髪を後ろで一本に編んで垂らしていた。

『ウォォォォォオオオ!!!』

 ハイドラと戦士は入り口から試合場を覗いた。見ればまた、一方が倒れ伏し一方が武器を掲げており、待機していた魔術師たちが倒れた方に駆け寄って、自分たちの待機場所へと運び込んでいた。

「黒の一番、ご健闘を」

 係員が戦士に言った。戦士は頷き、ハイドラに軽く会釈してから入口の方へ進んだ。ハイドラは戦士が去った席の空きを詰め、彼らの試合の成り行きを見守っていたが、彼はその時になって気付いた。今戦いに行った戦士、『黒の一番』が――武器を帯びていないことに。

 試合中央には全身を甲冑で固めた剣士が立っていた。剣士の得物は両手剣で、剣士は既にそれを抜いて両手に持ち、万全の戦闘態勢でいた。そして剣士との距離およそ十歩といったところで、黒の一番は掌に拳をつけ、剣士に一礼した。

「シャクルニと申します。どうぞ宜しくお願いします」

 その慇懃な態度に剣士は少し驚いたように身をこわばらせた。だが、やがてシャクルニと同じように頭を下げた。そして二人同時に頭を上げ、シャクルニは今度は両の拳を打ち合わせ、気の充実した声で叫んだ。

「ギサァッ!!!」

 するとコロシアム中にどよめきが走った。

「ギサだ……」

「おお、やりやがった……」

 そしてまたどこからともなくリズミカルなコールが始まった。

『ギサ、ギサ!!ギサ、ギサ!!ギサ、ギサ!!』

 ハイドラはその見慣れぬ光景にぽかんと口を開け、「なんだあれ」と呟いた。

「『ギサ』をご存じありませんか?」

 隣にいた係員が、ハイドラの呟きに反応した。

「殴り合いでの決闘を申し込む宣言ですよ」

 ハイドラはにわかには信じ難いといった様子で係員を見た。

「えっ……武器持ち込み前提のここで……?」

「だからこそなのです」

 ちょうどその時、別の戦士がハイドラの座る長椅子の元にやってきてそう言った。肩ほどで切り揃えた銀の髪が目立つ、凛とした雰囲気の少女剣士だった。年はハイドラやニコと同じか少し上くらいだろうか、太眉は逆八の字で生真面目そうなキリッとした表情をしており、手には鞘に納まった長剣を持ち、絹と革の平服の上に鎖帷子をつけ、その手足にはやや年季の入った銀の甲を纏っていた。少女剣士は壁に長剣を立てかけると、「白の二番です。失礼します」と言ってハイドラの隣に腰掛けた。係員は手元の紙を見ながら少女に言った。

「白の二番ですね、次の次なので、お待ちください」

「はい。……それで貴方、『ギサ』をご存知ない様子ですが」

 ハイドラは少女の言葉に頷いた。すると少女は澄まし顔の横にピンと人差し指を立てた。その瞬間、ハイドラは「しまった」と思った。

(あーこれめんどくさい奴だ……)

「よいですか?『ギサ』というのは古代の武闘家たちが広めたとされる決闘の礼法でその語源は古語の『誓約ゲシュ』であるとされています。古代武闘家たちは戦いにおいて武器を用いることは女々しい、または力がないことの証左であると考え、真の強者たるもの素手での闘争にて勝利を収めることこそが最も誇り高いとしていました。現在でもそのような考え方の武闘家は少なくなく、あの黒の一番も徒手空拳の専門家のようですね。ちなみに『ギサ』は絶対的なものではなく、受ける受けないの決定はあくまでも宣言された側に委ねられます。しかしその成り立ちから、『ギサ』を受けないということは即ち『自分は腰抜けだ』と言ってしまうようなものです。よってこのような衆人環視の中で宣言されては、誇り高き武人であれば――」

 ハイドラはもはや少女剣士の言葉をそのまま横流しにしていた。その麗々しい説明の口には係員も苦笑いで、彼女の自慢げな語りをよそに彼らは試合の行方に注目していた。

 シャクルニのギサに対して、剣士は剣を地面に突き立てガンと両拳を打ち鳴らして答えた。ギサを受諾したのである。コロシアムはギサの声で埋め尽くされ、二人の戦士は各々構えをとった。するとシャクルニはスゥと息を吸い、ギンと目を見開いて気声を発した。

「ゼァッ!!!」

 その気声に応じるように、彼の周囲に軽く砂塵が舞い、そして彼の体から蒼い光の粒子が溢れ出した。ハイドラはその蒼茫の様を見て息を呑んだ。

「魔力纏い……!」

「基本中の基本ですね」

 少女剣士は顔にかかった前髪をさっと払って言った。

「体内の魔力を活性化させ、身体能力を向上させる技術。あれ自体は魔術というよりは単なる魔力コントロールの一種で、今大会のレギュレーションにおいてもその使用は認められています。近接戦闘において極めて有用であるためほとんどの選手が使うと思っていましたが……意外にも皆様あまり使われませんね。温存されているのかしら」

「いえ、確かに実用的な技ですが、基本中の基本というには……それなりの高等技術のはずです」

 係員がそう言うと、少女剣士は澄ましながらもどことなく誇らしげにフフンと鼻を鳴らした。

 試合場では戦士たちが激しい打ち合いを繰り広げていた。

「ハァッ!!」

 兜で守られた剣士の頭に、シャクルニの掌底が叩き込まれた。兜越しとはいえその衝撃は凄まじいらしく、剣士はぐらりと足をよろめかせていた。ハイドラはシャクルニの戦闘スタイルを観察した。魔女の教えやアルセノのそれとはまた違った癖のある動きで、しかしそうだとしても何らかの理論によって効率化されているのであろう素早い身のこなしと流れるような打撃の数々のは明らかに一種の武術であり、かつ彼はその道の達人なのだろうと、ハイドラはその立ち回りの澱みなさから推察した。

 剣士も負けじと踏ん張り、甲冑の重そうな体で前蹴りや掴みかかり、ストレートパンチなどを繰り出すが、シャクルニはその出鼻に対して的確に手の甲や脛を打ち合わせることで捌いていた。そして隙さえあらば金的や顎狙いの掌底など、甲冑相手にも有効な攻撃を挟んで牽制をかけた。剣士も一応魔力を纏っているらしかったが、しかし練度が低いのかその蒼茫はシャクルニと比べて微小であり、徐々にその動きも緩慢になっていった。そして剣士が決死のアッパーカットを敢行したところで、それを完全に避け切ったシャクルニはスッとその懐に潜り込んだ。

「しまっ……!」

 剣士が声を漏らした時にはもう遅かった。シャクルニはその拳を鉄の胴にふわりと軽く押し当てるようにしていた。そして一際大きな気声が発せられたその瞬間、胴が轟音を響かせながら深くひしゃげ、剣士は後ろに吹き飛んだ。ハイドラはそれを見てまたもや驚愕した。

(打撃の鎧通し……!)

 仰向けに倒れ込んで痙攣する剣士に数秒構えを維持していたシャクルニは、細く長く息を吐きながらやがてそれを解き、誇り高き立ち合いと相手に敬意を表し一礼した。と同時に、会場がまたワッと湧き上がった。

「青の二十四番」

 戻ってくるシャクルニを眺めていた係員がハイドラに振り返り、彼に言った。

「ご健闘を」

 ハイドラは頷き、立ち上がった。そしてまた軽く会釈するシャクルニとすれ違い、彼は初舞台に出た。


✳︎


 血焼けの砂を踏む少年剣士を見て、観衆たちはまたざわめきを発した。

「おおっ、今度のはまた若ぇな」

「あーらら、気の毒だな。見ろよ、文字通り大人と子供だぜ」

 ハイドラは試合場中央の方へと歩きながら、向こうの入場口から歩いてくる対戦相手を見た。上裸の浅黒く日焼けした肌の至る所に古傷だらけの、身長二メートルにもなる巨漢だった。色抜けした長い髪は後ろで三つ編みにしており、その頭には髑髏マークのついた海賊帽が乗っていた。そして丸太の如き腕には肉厚な両刃の斧と、的のような目玉模様のラウンドシールド。歩くたびに、その筋肉と脂の乗った腹がどるんと揺れた。

「ホッホーウ!初戦相手は坊ちゃんか!まずは白星、こいつぁラッキー!」

 互いに十歩ほどの距離、男は欠けた歯を見せて笑った。ハイドラは男の格好を見て、「海賊か?」と聞いた。

「おうよ如何にも!俺こそがあの大海賊、キャプテン・ザイロレット様だ!」

 海賊ザイロレットはガンと斧で盾を打ち鳴らした。ハイドラはピンと来ていない顔をしつつ、腰の剣を抜いた。ザイロレットはそんなハイドラの反応が気に食わなかったのか、斧の先をハイドラに向けて吠えた。

「おいガキ!テメェで聞いといてなんだその態度は!結構傷ついたぞ!」

「いやぁ……」

 ザイロレットはハイドラの物言いに対してさらに怒りを増したようで、彼に飛びかかりながら叫んだ。

「テメェも……名乗らんかいッ!!」

 ハイドラはバッと後ろに飛び退って、「ハイドラ、旅人だ」と名乗った。ハイドラが先までいたところに斧が振り下ろされ、派手に地が抉れ砂煙が上がった。その景気の良い開戦に、観衆たちも一層盛り上がった。

「おおやっちまえ海賊ー!」

「若ぇの!ひっくり返してやれ!」

 ザイロレットは下がったハイドラに対して大きく踏み込み、吠え声を上げながら横に振りかぶった。ハイドラは剣を肩に寄せてガードの構えをとった。

「オーーゥルァ!!」

 ズンッ、とさらにもう一歩、ザイロレットはさらにもう一歩大きく踏み込んだ。斧は振らず、ザイロレットは盾のど真ん中でハイドラに体当たりをかましたのだ。ハイドラは瞬時に身を捩ってガードの向きを変え、盾のタックルを剣で受けた。まだ軽い少年の体が、砂地を滑ってザァと後ろに押された。

「まだこんなもんじゃねえぞ!」

 ザイロレットはさらに追撃した。跳躍し、その勢いを活かして盛大な兜割りを繰り出した。しかしハイドラは素早く身を躱したが、避けられれば今度は盾を横振り、前蹴りと、豪快で力任せながら己の武器を最大限に生かしたコンビネーションを披露した。

「行けぇ!海賊ーー!押してるぞー!!!」

 観衆たちの声援を受け、ザイロレットはさらにラッシュを速めた。対してハイドラは防御に徹していた。その乱雑な攻勢に反撃を挟まず、迫り来る暴力的な鉄に対してまるで紙か木の葉のようにさらりさらりとして、少年剣士の血は流れなかった。

「ガキィ!何やってんだー!攻撃しろ攻撃!避けてばっかつまんねーぞ!」

「ビビってんのかー!!」

 観衆たちはその試合展開を好ましく思わず野次を飛ばしまくった。熱気、声、冬の終わりの照りつける日差し、それを反射する砂と石壁の煌めき。その環境の全てが、その戦いを見る人間を狂わせていた。しかし観客席にて一人、戦場にて一人、そして選手たちの控えに数人、それに当てられてなお狂わぬものたちがいた。

「……はは、いい打ち込みだ。ハイドラ」

 観客席でその戦いの成り行きを狂わずに見守っていた、光の魔女。膝に乗せたとんがり帽子の先を指でこねながら、彼女はほくそ笑んでいた。初舞台を飾る愛弟子の、その万全の仕上がりに。

「クソ、クソ、クソっ!!……なんのつもりだテメェ!!」

 ザイロレットは戦狂いしながら、しかし内心焦りを感じていた。どれだけ斧を振るおうとも、盾でぶちかまそうとも、目の前の小僧をとらえられない。いや違う。時々「当たり」はある。だが斧のそれは肉を裂くには至らず、盾のそれも骨を砕くには至らない。ザイロレットはその妙な手応えに、少年剣士の得体の知れなさを思い始めていた。そしてザイロレットは徐々に息を切らし始めた。

 ハイドラは鋭く息を吐きながら、また一つ紙一重でザイロレットの斧を潜り抜けた。その瞬間――音のない打撃が密かにまた一つ、ザイロレットの足に入っていた。

 ザイロレットはそんなこと露知らず、下がったハイドラの顔面を蹴り上げようとしたが、しかしハイドラはわずかな動きで、実体のない影のようにその蹴りを透かした。さらに離れ際、その蹴り上げによってガラ空きとなった軸足にハイドラはまた『音のない打撃』を打ち込んだ。

「ちょこまかすんじゃねえぇ!!!」

 ザイロレットは飢えた獣のようにハイドラに猛追した。目眩く動き回る二人は試合場の砂をやりたい放題に巻き上げた。どんどん悪くなっていく視界にコロシアム中、腹の底からのブーイングが各方向から一斉にハイドラたちに浴びせられた。

「ふざけんなーー!!見えねぇよボケェ!」

「もっとわかりやすく戦えオマエら!」

「派手に地味ですよコレ!」

 至近距離にいるハイドラとザイロレット、もはやこの二人だけが互いの姿を正常に視認できていた。

(――よし、『整った』)

 ハイドラは密かにほくそ笑んだ。そして観客席では魔女もまた、その状況を見てほくそ笑んでいた。

 ザイロレットは半狂乱で目を血走らせ、もはや言語になっていない声を上げながら斧を天高く振りかぶった。

「おおおおおおおッッ!!!」

 舞い上がった砂塵の幕の中、死の刃が血を求めて振り下ろされようとしていた。それが見えていたのは刃の主たるザイロレットと、対峙するハイドラ、その二人のみ。渾身、大気の唸りを引き連れた殺意の塊、ハイドラは加速した神経によってその風の動きを目で追い――そして、刃を服越しに肌で受けた。


✳︎


 とった!当たった!ぶっ殺した!ダメだった!渾身の振り下ろしが枯葉の小僧の肩をようやくとらえたその瞬間に、俺はバッチリその手応えを得た!(得てなかった速く構え直さねえと)よっしゃよっしゃ、今度は偽物じゃねえ、マジの肉と骨の感触だ!違う避けられてる。このまま一気にブン下ろせば、こんクソ生意気な小僧の中身をぶちまけられる!違う騙されてる――目の前で溶けやがった!?このクソガキ!?

 ほんの瞬き一回分にも満たない時間の中で、俺は記憶と思考の時系列がグチャグチャになっちまったような錯覚を覚えた。

 俺の斧の刃があのちっせえ肩に当たった。だから俺はそのまま一気に振り下ろそうとした。でも、そしたらこの小僧がぐにゃっと溶けやがったように見えた。まるで椀の中の生卵をスプーンの裏で掬おうとしてるみてえに、意味のねえ気持ちわりい手応えだけが斧を握る手に残った。

 そして次の瞬間にゃ、もう奴はアメーバみたいに見えた。手足や頭の位置が俺の目では正確に追えなくなっていて……ありゃあ、腕か?……違う、靴……足だ。足が顔目掛けて飛んできてた。

 まぁ、見えたんだから避けられ……あ?体動かねえ。いや、体っつーか『手首』と『足首』が動かねえ。

 あ、やべ――がっ。


✳︎


 砂の煙幕の中、ハイドラは宙を舞っていた。ザイロレットの目の高さ、横に倒した身を捻り、『流転身』の勢いを乗せた渾身の浴びせ蹴りをザイロレットの頬骨に放っていた。

「――釣瓶落つるべおとし!!!」

 ハイドラの蹴りをもろに受けた巨漢は錐揉み回転しながら後ろに吹き飛び、爆発にも見まごうほどの音を轟かせて石壁に激突した。ザイロレットはその鉢の広い頭を守ることもできず、石壁に頭を叩きつけた。頭にハンマーを振り下ろされたかのような激痛と衝撃が走るとともに、彼は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。砂煙が晴れゆく中、ハイドラはその場でくるりと勢いを逃しながら着地した。そして、会心の一撃に思わず師のようにニヤリとし、小さく息を漏らした。

『ウォォォオオオオオ!!!』

「海賊が倒れてる!番狂せだ!!」

「何が起きた!?全然見えなかったぞ!!」

「ガキが飛びかかって殴ったんだ!!」

「ちげえよ!あんだけ吹っ飛んだんだからありゃドロップキックだっ!!」

 コロシアム中から怒号の如き歓声が巻き起こった。誰も彼もが巨漢の圧勝、そう予見して見守っていた。それが気づけば大番狂わせ、決まり手すらも定かではないその結末に、観客たちは驚きと興奮を迸らせた。

「……はは!ナイスファイト、ハイドラ!」

 声の嵐の中、試合場を後にする弟子の後ろ姿を見送りながら、魔女は満足そうな笑みで頷いていた。


✳︎


「ホントにそんなことになります?」

 ハイドラは疑念顔で魔女を見ながら言った。

「なるんだなぁ、これが」

 時は二ヶ月前に遡る。ルカオのはずれにある雪の森の空き地にて、魔女はとある技をハイドラに伝授していた。魔女はより詳細に説明した。

「戦闘の最中、極度の興奮状態に陥った時や、命の危機に瀕した時、人間の脳は時間の流れが普段の何倍にも遅く感じられるような集中状態に入ることがある」

 それに関しては、ハイドラも覚えがあったので頷いた。

「多くの場合、そういう状態にあっても自覚があれば特に問題はない。ただし、あまりに加速しすぎた思考は時に自分の行動さえ予測し、『まだやっていない自分の次の行動』や『勝手に想像した未来の相手の行動』を、『今の行動』の前提に組み込もうとしてしまう」

 この辺りからハイドラは首を傾げ始めた。

「まぁ、だとしても通常、それでも問題はないんだ。そのシミュレーションを加味した動きを実現するよ、人体は。けどね、ハイドラ……それもこれもあくまで『万全』ならの話。そうして先走った思考ってのは、事前情報に少しでも齟齬があれば途端に瓦解し――突如、体は意思を無視して硬直する」

「全っ然分からないんですけど……」

 ハイドラがそう言うと、魔女はからから笑って彼から数歩分距離をとった。そして「実際に体験させてあげるよ」と言い、彼に構えるよう促した。

「とりあえず、全力でかかってきな」

 その後、師弟の組み手は辺りの雪を蹴散らしながらヒートアップしていった。しかしハイドラの踵落としが魔女に決まろうとした、その時だった。

「これが――流転身だ」

 魔女は頭から、その踵落としをもろに食らったかのように見えた。少なくともハイドラの目にはそう映っていた。しかし――

「――えっ?」

 ハイドラは目を疑った。確かな手応えをもって決まったはずの踵落としだった。だからこそそのまま打ち込みを止めずやり切ろうとした。しかし、突如として師の体がぐにゃりと曲がって見えた。手足も胴も頭もめちゃくちゃになり、大きく不定形に広がったように見えたのだ。それどころか、確かに足に感じていた感触さえ、ゆらりとして虚になっていた。

(当たったのに……当たってない……!速く体勢を戻さねえと……!?なんだ、手足が……!)

 ハイドラは必死に構え直そうとした。しかし、既に体は踵落としを最後まで出し切ろうとしていた。否、踵落としとしてすら不完全な形で、彼の体は強張っていた。ハイドラは石像のようになった手足になんとか力を入れようとしたが、しかし彼の脳はその度に矛盾した電気信号を四肢に流していた。

「そしてこれが――釣瓶落としだ」

 ハイドラの顔面を魔女の浴びせ蹴りが襲った。

「ぼぁッ――!?」

 ハイドラは回転しながら吹っ飛び、盛大な雪煙を巻き上げた。

「どう?『溶けて見えた』し、『動けなくなった』ろう?」

 鼻血を垂らしながら戻ってきた弟子に治癒魔術をかけながら、魔女は言った。

「流転身。相手の攻撃が触れた瞬間、その攻撃方向に同速で動き、次の瞬間それより速く動くことで、ダメージを無効化する技術」

 魔女は広げた掌に拳を打ちつけ、その掌をす、すーと動かしてみせた。

「この技の特徴は二つ。一つは、思考が加速している時にやられると『思考の順序が狂う』っていうの。脳が前もって送った電気信号を、それをキャンセルさせようとする電気信号で破壊してしまうんだ。すると――一瞬、体が言うことを聞かなくなって、さらに相手の体があたかも溶けたかのように錯覚する。特に、それまでに手足の靱帯にダメージを受けているとより効果的」

 ハイドラは先の立ち合いを思い出しながら、手首や足首を見た。気付かぬうちに、青あざができていた。

「こんなの、いつの間に……」

「そしてもう一つの特徴」

 魔女はそれらも治しながら続けた。

「カウンターの強化。発生させた相手の攻撃の所作の隙、身体の硬直……そこに、回避した自身の運動エネルギーを乗せた強烈な反撃を叩き込むのさ。死地転じて生を得、返す技にて相手を殺す。まさに輪廻の巡りの如し。故に流転身。そして――」

 弟子の治癒を終え、魔女はニヤリと笑った。

「流転身から派生させるカウンターの一つ。振り下ろすような攻撃に対し、身を柔らかに落としながら回転させていなし、その勢いを殺さず活かす。反動と全身の関節、バネを使って一気に跳ね上がり、ガラ空きとなった相手の顔面に叩き込む浴びせ蹴り」

 空を舞うその蹴りはまるで、流転身での回避からの一連の流れが、井戸の滑車が勢いよく回って『釣瓶』が落ちるさまに見えることから、こう呼ばれるのだと魔女は言った。その名も――


✳︎


(釣瓶落とし……かなり理想的な決まり方だったな……砂でうまく隠せたし)

 ハイドラは先の戦いの余韻を胸に、控え室に戻った。彼が扉を開けると、近くにいた数人の選手たちがハイドラの方を見て、何かを囁き合った。ハイドラは少し人数の減ったその部屋を進み、壁のトーナメント表を見た。

(次の試合は――)

「やあ、さっきの」

 ハイドラがその声に振り返ると、シャクルニが朗らかに笑いながら立っていた。

「……ああ、あなたは」

 シャクルニは試合場で対戦相手にしていたように、掌に拳を合わせてハイドラに一礼した。

「改めて、シャクルニと申します。お互い勝ち残ったようだね」

 彼の邦の礼儀なのかな、とハイドラは勝手に想像し、シャクルニの真似をして手を合わせて彼に一礼した。

「ハイドラと申します……はい。なんとか」

 シャクルニは頷き、ハイドラの後ろのトーナメント表を指差した。

「ハイドラさん。君の次の対戦相手は私だよ」

 ハイドラが表を見ると、青の二十四から伸びた線は確かに黒の一番のそれとぶつかった。

「お手柔らかに頼むよ」

「……こちらこそ」

 二人は試合を見るべくバルコニーの方へ行った。バルコニーにはニコやルデムの姿はなく、彼らは既に自身の試合に備えて待機所に向かったようだった。ハイドラが手すりに身を預けて下を見下ろすと、試合場では先の少女剣士が戦っているのが見えた。相手は……ニコだった。魔力を纏った少女の猛攻にニコは槍で応戦していたが、誰から見ても少女の方が優勢だった。

「時に、ハイドラさん」

 ハイドラの隣で後ろ手を組んで試合を眺めていたシャクルニが、口を開いた。

「先の試合、素晴らしい動きだった。流派はどこだね?」

「……『魔女流』です」

 シャクルニは首を傾げた。

「変わった名前の流派だね」

「……ええ。変人師匠の技なので」

 悪びれもせずぬけぬけと言い放ったハイドラに、シャクルニは思わず笑いをこぼした。

「ああ、すまない……愚弄したわけではないので、悪く思わないでおくれ。……私の流派は、『隠爪流』という名だ」

 シャクルニは「知らんだろう」と言って続けた。

「無理もない。異国の拳法でね、それも本国でもだいぶ廃れてしまった無名の流派さ……。だが、私はこのアルセイラで『隠爪』を再興したいと考えている……」

 シャクルニは語った。己がこの大会に参加した理由は、注目を集めるためだと。多くの目があるこの大会で一旗上げることで己が流派の力を知らしめ、それによって門下を増やすというのが狙いなのだ、と、シャクルニはハイドラに熱弁した。

「隠爪拳は素晴らしい武道だ。肉体を鍛え、技を鍛え、心を鍛える……それぞれの「生」を得るために。武に限らず全てのことに言えるが、先人たちはそのために工夫を凝らし、そして後進へとその技を引き継いできた。隠爪もまた、然り。より多くの人に、我が流派の良さを知ってもらいたい。私はそのための伝道師なのだよ……して、そこでだねハイドラさん」

 ハイドラは試合を見ていて話半分だった。しかし今シャクルニに呼びかけられ、ハイドラは彼の方へ改めて意識を戻し……そして異邦の男と、少年剣士の視線がぶつかった。ハイドラは密かに心臓が跳ねたのを感じた。それまで柔和に見えていた男の目を初めて直視して、ゾクリと背筋が凍りついたのだ。――そのあまりの光のなさに。

「どうだね、君、我が門下に入る気はないか?」

 シャクルニは蛇のように静かで滑らかに、ハイドラの肩に腕を回そうとした。

「……ッ!?」

 バッ、とハイドラは反射的にその腕を跳ね除けてシャクルニから距離をとった。白熱するコロシアムの熱気と歓声の横で、二人の間にだけ冷ややかな無言の空気が流れた。

「……はっ、すみません、つい……」

「……いやいや、こちらこそすまなかったね、急に馴れ馴れしくして……」

 ハイドラは内心焦燥に駆られながらも頭を下げた。対してシャクルニは柔和な顔を崩すことなく、手をひらひらとさせていた。そしておもむろに、彼はバルコニーから離れはじめた。

「……まあ、今今すぐというのも難しかろう。そうだね……答えは我々の試合が終わった後にでも。その時には、隠爪が君にとって学ぶに値するものだと……いやでも思い知っていることだろうからね……」

 そう言い残して、シャクルニはバルコニーを後にした。

「……」

 その紺色の道着の背と揺れる後ろ髪を、ハイドラはじっと見つめた。バルコニーの端では、そんな二人のやりとりに耳だけ傾けていた魔剣士がいた。


✳︎


 登ればコロシアムの喧騒が遠く聞こえる、リーサリオンで最も高い尖塔。ナルガラアダの亡霊は今日もまたその屋根の上にいた。追う者でもあり、追われる者でもある。そんな彼の二重の生活は、しかし一つの因果のもとで結びついていた。彼がこのリーサリオンに降り立ったのはおよそ三ヶ月前。街から街へ、数ヶ月ごとに居場所を移しては、そこで人を探す。しかしやがて追手に勘付かれれば、それを始末しまた次の街へ。それが彼の生活だった。

 故に、彼はぼちぼちこの街からも去らんとしていた。普段の彼であれば追手を始末した時点で既に発っていた。しかしこの街でのナルガラアダは違った。コロシアムのリーサリオン、ここには日々大量の旅人が流れ込んでは去っていく。人とは情報だ。追跡者にとって、人の出入りが激しい街というのは多少名残惜しむ程度には価値があった。よって彼は次なる目的地を決める前にもう一人だけ、聴取相手をもうけようと思ったのだった。

「……」

 群衆、見るほどに無個性。亡霊は選びあぐねた。

「……む」

 しかし、流れゆく人の大河に逆らう奇っ怪な装いの男が彼の目に留まった。派手なオレンジの衣装を着た道化師が何やらキョロキョロとしながら裏路地へと入っていくのが見えたのだ。

 ナルガラアダの亡霊はほくそ笑み、風を起こした。

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きずをおうもの 滓京 @Shikyo

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