第九話:開幕

 昼前のことだった。男は目を覚ました。昨夜の寝床はリーサリオン北端にある森の空き家で、男はその周辺に何層かの結界を張り棲家としていた。男は魔術師だった。黒い外套は前を開けられており、そこから覗く青白い肌には蛇と幾何学のタトゥーが刻み込まれている。そして目深のフードの下では鋭い眼光がぎんとしていた。

「ああ……またか」

 男は一番外の結界が破られたのを察知した。そしてガリガリと胸の辺りを掻き、男は風を巻いて飛び上がった。男はふわりと木の枝に降り立つと、じっと遠くに目を凝らした。

「四人。そろそろここも捨てるか」

 男は風に乗り、枝から枝へと飛び移って行った。そして二枚目の結界が破られると同時に、男は森の入り口近くで、四人の男女と邂逅した。全員柿渋色のローブ姿で、先の尖ったフードを目深に被り顔を隠していた。四人は男を見るや否や、それぞれ手を突き出して何か呪文を唱えた。四人もまた魔術師だった。だが――男はそれを見て歯を剥いて笑った。

「下らねぇぞ……!」

 男は四人の何倍もの速度で呪文を唱えた。すると暴風が吹き荒れ巻き上がり、四人の魔術師たちはそれに当てられてうち一人が「噛んで」しまった。

「あっ……ガっ!!」

 バチンッという破裂音と共に、噛んだ魔術師の突き出していた掌が内側から裂けて血肉が飛んだ。しかしなんとか詠唱に成功した三人は、男に向かってそれぞれ砲丸ほどもある魔力弾を発射した。三つの砲丸は暴風にも負けず真っ直ぐに飛び、男は激しい閃光と蒼い爆発に覆われた。

 無事だった三人のうち一人が、手の裂けた同胞を無理矢理立たせて治癒の魔術をかけた。残りの二人はすぐに別の詠唱を始めていた。治癒をかけている一人は苛立ちを口にした。

「クソ、何やってんだ……お前らはそのまま弾幕切らすな!こんなのでれるわけ――」

「――その通りだ雑魚ども」

 爆煙は暴風によってすぐに晴れた。男は全くの無傷だった。前に翳した右手を中心に、二メートル四方の障壁が展開されており、男は難なく身を守っていたのだった。

 男はより一層風圧を強め、その場で舞い上がった。いつの間にか、男の頭上を中心に黒雲が出ていた。吹き荒れる風の中に、徐々に雨粒が混ざっていた。雨粒はばつばつと魔術師たちのローブを打っていたが、しかしその感触にはやがてより冷たく硬いものが、雹が混じっていった。そして――最後には、暴風の中を稲妻が走った。

「ぐぁああっ!!!」

 抵抗するまもなく、魔術師の一人が雷に打たれた。とんがったフードの先からつま先までを炭にされ、魔術師はその場に倒れ伏した。

 男を見て、魔術師の一人が呟いた。

「出やがった……嵐の王ワイルドハントだ」

 その呟きに一人が生唾を飲んだ。

「あれがやつの……『ナルガラアダの亡霊』の魔術……!全員守りを――」

 曇天を背に、暴風の中で男は笑っていた。目深にかぶられていたフードは、いつの間にか脱げていた。頬のこけた蒼白の嗤い顔の、至る所にも黒いタトゥーの数々が蠢いていた。タトゥーは刈り込みの入った白髪混じりの黒い短髪の下、その頭皮にも入り込んでいるようで、やはりその姿は魔的というに相応しかった。凶悪な笑みの鋭い眼光が生き残った三人を射抜いたその瞬間、暴風に乗って大量の氷槍と雷、そして風の刃が大挙として三人に襲いかかった。

「――死ね」

 その言葉は、どんな呪文よりも鋭利だった。張られた三枚の障壁は一瞬で破られた。憐れなる血飛沫は雨に流され、無力なる悲鳴は雷鳴にかき消された。そして風が、不遜なる挑戦者たちの命を奪った。見るも無惨、語るも無惨の一方的な殺戮は、圧倒的な力量差、天災が如き大魔術により幕を閉じた。リーサリオン北端の森は阿鼻叫喚の地獄絵図。地獄の主は嵐の王ワイルドハント、『世界で二番目に強い魔術師』。

 男の名は、『ナルガラアダの亡霊』。そう呼ばれていた。


✳︎


 祭の日の夜更け、深く掘られた窓枠に乗り込むようにして座り、ハイドラは剣の手入れをしていた。すぐ側に二つ並べられたベッドの片方では、光の魔女が安らかな寝息を立てていた。ハイドラは鈍く冷たい光を湛える銀の刃に布巾を滑らせるごとに、これまでに積んだ修行を一つ一つ反芻した。基礎を、技を、体を、限界を超えて鍛え抜いた。剣の握りから一部の高等技術まで。型、筋トレ、組み手、ロードワーク、座学、瞑想……あらゆる修行を通じて、師弟はハイドラの弱点という弱点を徹底的に炙り出し、そして長所を突き詰めていた。

 磨き上げられた刃を軽く眼前に掲げ、ハイドラはそれに反射する己の瞳を見た。覇気のない、しかし強く闘志の灯った瞳を。鏡たるその剣は、彼の中にある二つの誓いそのものだった。一つは、目指すべき光へ。彼が未だ追い続けている背中へと向けられていた。もう一つは、星へ。暗き旅路を照らす導きへと向けられていた。だが、彼が捧げた誓いは二つとも同じ言葉に集約された。即ち、「強くなる」。

 そして、少年剣士は剣を鞘に納めた。全ての手入れが完了し、万全となったのだ。

(……あとは、俺次第……か)

 ハイドラは剣帯を鞘に巻き付け、窓枠から降りた。そして剣をベッド脇に立てかけて、彼も床についた。


✳︎


 ルカオを発って十一日後の夕方、師弟はリーサリオンに入っていた。それから鳩連祭までの約二ヶ月、ハイドラの特訓は熾烈を極めた。

 リーサリオン西端には荒野がある。魔女はそこで一定範囲の重力を強めて、その中でハイドラに剣術や格闘のメニューを中心とした修行をつけた。そしてハイドラの動きが慣れ始めるごとに、重力は少しずつ強められた。魔女は剣のみにとどまらず、短剣、槍、斧、槌など、多様な武器を操ってみせ、ハイドラにそれらの武器への対処法を伝授した。それぞれの武器のもつ強みと弱みをハイドラが理解するのに、そう時間はかからなかった。

 ある日、そんな弟子の意外な吸収の速さに、魔女は思わずそのことに触れた。

「予想してたより断然覚えが早い……もしかして既に勇者から教わってた?」

 ハイドラは中腰で膝に手をつき、剣を杖代わりにして重力に耐えながら答えた。

「……いやっ、多分そっちじゃなくてっ……」

「ん?」

 ハイドラは記憶を遡り語った。彼が勇者の後継となる数年前まで、ケテルナにはある男がいた。ゼトという名の老いた剣士で、かつてハイドラは彼から剣を習ったことがあった。

「そのゼト先生の剣術が……なんて言うんでしょうね、今思うと確かにちょっと変っつーか……ちょうど今やってるみたいな感じのでっ……剣を教えるのにも、色んな武器持ち出すような人だったんですよっ……」

「ほぉ〜、なるほどねぇ〜」

 魔女はハイドラの説明に合点がいったのか、顎に手をやってうんうん頷いた。そうすると重力に引っ張られた帽子が、魔女の頭のより深くを目指して少し落ち、魔女の顔はさらに隠れた。ハイドラはぐっと足腰に力を入れてなんとか直立しながら続けた。

「けど、そうは言っても、かなり前のことなんで、長らくほぼ、我流でやってたんですけどねっ……」

 そういった事情からか、ハイドラは広い分野の武器に対する立ち回りにおいて、魔女も目を見張るほどの飲み込みの早さを見せた。

 また格闘術においても、この一年かなりの密度で修行を積んでいたために、既に多くの応用技や高等技術への着手段階に入っていた。

「これまでにも何度か言ったけど、君は動体視力と反射神経、そして瞬発力が特に優れている。そして反面、持久力が伸びにくい体質らしい」

 組み手を行う最中、魔女は超重力をものともせず俊敏に動き回りながら、ハイドラに聞かせた。ハイドラは息を切らしながらも、突っ伏さないようなんとか根性で耐えつつ、魔女の猛攻を掻い潜って耳を澄ました。

「確かに基礎体力自体はついた。ただしその伸びはこの一年の移動距離やトレーニング量を考えると、ごく平均的と言える。まあ、この辺の話は遺伝的な要因が大きいから、君が気を揉むことではないけどね」

 魔女はハイドラの普段より遅いジャブに軽々とクロスカウンターを決めながら言った。ハイドラは頬に拳をめり込ませながらも、瞬きひとつせず聞いた。

「だが自分の性質を深く知ることは、戦術を立てる上では基本中の基本だ。何が言いたいかと言うとね、長所ぶきを活かせってこと」

 ハイドラはズンと重力に引っ張られたのち、すぐに起き上がって再び魔女に向かっていった。魔女はハイドラの放つ蹴りや突きをひらりひらりと躱しながら続けた。

「短期決戦を狙ってのインファイト、フットワークを活かしてのヒットアンドアウェーもいい。だがリターンとリスクは表裏一体、インファイトは敵も攻撃しやすくなるし、ヒットアンドアウェーは守りの堅い相手には消耗を強いられるだろう」

 魔女はハイドラのハイキックに対し、身を捻りながら屈んでそれを避け、同時にガラ空きとなったハイドラの軸足を裏から回した水面蹴りで崩した。

「どんな戦士にも弱点があるように、どんな戦術にも弱点がある――だからどんな戦いを組み立てるにしても、常に『もう一つ』、頭の片隅に刀子ドスを用意しなさい。その戦術の弱点を裏返して長所に変えうる、殺しの罠を」

 そう言って魔女は、ハイドラにいくつか技を教えた。


✳︎


 鳩連祭の翌日。リーサリオンコロシアム・トーナメント、一日目の朝。その日のハイドラの目覚めは普段より二時間早かった。ハイドラは窓と横のベッドを見た。まだ外は薄暗く、魔女は寝息を立てていた。そんな魔女を起こさぬよう、彼は出来るだけ物音を立てないようにしながら身支度を済ませ、宿を出た。起き抜けにも関わらずあまりにも軽い身体と、胸の奥で沸々と静かに滾る興奮、それらを持て余して表に出た彼は、軽く体を慣らすためにジョギングを始めた。

 早い時間のリーサリオンは閑散としており、少年の踏む規則的なリズムが石畳の道に鳴った。ハイドラの吐く息は未だ白く、彼ははじめ二の腕を擦ったが、しかし走っているうちに体は温まり、それに比例してペースも上がっていった。暁の空の下、石の街並みを少年が駆けていく。目抜き通りを横断し、坂を飛ぶように登り、少年は古い街の寒風を味わった。そうこうしているうちに、いつのまにかハイドラはコロシアムの外周を走っていた。南広場に座す鳩連れ様像にお目見えし、緩やかなカーブの道を走った。しばらく行くと、今度は北広場、もう一つの巨像がハイドラの目に飛び込んできた。

「はっ……はっ……あれか」

 ハイドラは広場に入ると少しずつペースを落とし、やがて歩きになりながらクレーアドロス像に見入った。ハイドラは一度、それと同じ人物の像を別の場で目にしたことがあった。その時の記憶と比べると、今眼前にある巨像はより重厚かつ屈強さを強調されているようにハイドラは感じた。言うなれば、その英雄の「つわもの」たるを誇示するかのようであった。

「……ん」

 ハイドラはふと、その巨像の台座の前に、先客がいたことに気づいた。その後ろ姿は背の高く体つきのしっかりとした男のものだった。男は蘇芳色の長丈の外套を着ており、長く血のように赤い髪は後頭部の上の方で一本に束ねられていた。ハイドラがじっと男を見ていると、不意にその結われた髪が揺れ、男はハイドラの方へ振り返ろうとした。ハイドラは反射的にそちらを見ていないふりをしつつ、ジョギングを再開しその場を後にした。

「……」男は、像に向き直った。

 ハイドラはそのままリーサリオンを一周して宿に戻った。彼が部屋の扉を開けると、魔女は一通り支度を終えた状態で窓枠に腰掛け、凍える窓の露を溶かす朝日に日向ぼっこしていた。魔女は膝に乗せていた帽子を手に取り、窓枠から降りながらハイドラに尋ねた。

「おはよ。体調は?」

 逆光の影の中でオパールの瞳が色の移ろいとともに煌めき、ハイドラはふと、彼女が自身の手を取ってくれた日のことを思い出した。アルセノの書斎で修行の旅を提案してくれたあの時の記憶と、今この宿の一室で朝日のスペクトルが撫でる師のシルエットが、ハイドラの目には重なって見えたのだ。

「好調です。腹減りました」

 ハイドラのはっきりとした受け答えに、魔女はニヤリと笑った。

「よろしい。朝飯行こう」

 ハイドラは頷いた。彼が思うに魔女の姿は、一見してあの日と何も変わりはしなかった。ではあの日から自分は何が変わったろうかと、ハイドラは己に問いかけたが、しかし答えは既に手元にあることを彼は理解していた。

(これから、だ)

 そして彼はベッド脇に立てかけていた剣を取り、腰に吊って再び部屋を出るべく扉を開いた。

 がちゃり、がちゃり、がちゃり。

 ハイドラが部屋から出ると、ちょうど左右の部屋の扉も開いた。そしてそれぞれの扉から一人ずつ部屋の借主が出て、ハイドラは両サイドから妙な視線を感じた。

「……」

 ハイドラは右を向いた。

「ハイドラ。十六時間と四十四分ぶりだな」

 ハイドラは左を向いた。

「おおぅっ……どうもおはようございまス〜……き、奇遇っスね……」

 ハイドラが固まっていると、魔女が歩いてきて部屋の外の様子を見た。

「わーお。狭いね、世間」

 ハイドラはぎこちない動作で、両サイドの知人に交互に頭を下げた。道化師しりあい行商しりあいに挟まれて、少年はその偶然に動揺を禁じえず。

 ブリキの如き情緒の道化師は必要最低限の反応のみを見せ、雑談などという選択肢を発生させる間もなく宿を後にした。スタスタと立ち去るオレンジの後ろ姿を見送って、ネムと師弟は連れ立って階下の食堂へと赴いた。

 食堂は漆喰の壁にて暖炉の熱を逃さず、旅人たちは朝の寒に曝されることなく、パンと目玉焼き、コーンポタージュの質素な朝食にありついていた。

「……それにしても、まさか同じ宿とは」

 昨日ハイドラに話したのと同じ内容を魔女にも話し終えたネムの顔を見ながら、ハイドラは呟いた。

「いやぁ〜、近いうちにまた会えるかもとは思ってたっスけど、ホントまさかまさかのっスネ〜」

「しかも部屋隣だしね。そして反対の部屋にはサイライカとは。妙な縁もあるもんだよ」

 魔女はポタージュをひと匙飲みながら言った。

「さっき顔の怖いクラウンが居たろ?彼も私たちの知り合いなんだよ」

 魔女の説明にネムは「ああなるほど」と答えた。

「やっぱりそうだったんスね。部屋出た時、そんな感じでしたもんね。しっかしオフの日のピエロってあそこまで表情カタいんスね〜。人形みたいでしたよあの人」

「ああ、それは……」

 ハイドラはネムにサイライカの事情を話した。「感情を盗まれた」などという面妖な話にネムは半信半疑といった様子だった。

「まぁ、信じられないのも無理はないね」

「いやぁ……別に嘘だとは思ってないっスけど……。その魔術師は何のためにそんな魔術を作って、わざわざピエロさんの感情を奪ったんスかね……?」

 魔女は腕を組んでうむと唸った後、帽子のつばを指で弾いてフッと笑った。

「ザ・謎だよ……!」

「ザ・謎スか……!」

(ザ・ってなんだ……?)

 ハイドラは疑問に思いながら、パンでポタージュの残りを拭うようにしてからそれを口に放り込んだ。


✳︎


 食事が終わると、旅人たちはそれぞれの目的に従って宿を出た。ネムは下町へ、師弟はコロシアムへ。

「緊張してるかい?」

 街の中心への道中、魔女はハイドラに聞いた。

「して……ません」

「うはは!ウソつけ!じゃあなんだよその間は!」

 ハイドラは片目をつぶって晩冬の晴れ空を仰いだ。

「……緊張とはまた違う……と、思います。まぁ何割かはそれもあるかも知れないですけど、そうじゃなくて……高鳴り?」

「高鳴りときたかぁ〜!」

「茶化さないでくださいよ……ったく」

 魔女は笑った。それを見て、ハイドラも釣られて軽く笑った。そして、師弟はコロシアム南広場へと踏み入った。一般開場まではまだ時間があるためか、広場には参加者らしき者たちの姿だけがちらほらと見てとれた。その多くがなんらかの武器を帯びており、皆一様に目をぎらつかせて互いの得物や体つきに視線を走らせていた。コロシアムの入り口前には六ほどのブースが設けられており、そこに何人かの戦士たちが集まっていた。

「あそこが受付だね。行っといでハイドラ」

 魔女に促され、ハイドラはブースへと足を運んだ。受付ブースとの距離が縮まるにつれ、周囲の視線がハイドラへと吸い込まれていく。刃渡り一メートルもない剣を腰に下げただけの、取り立てて大きな体つきというわけでも、見るからに凶暴そうな外見をしているわけでもない、寧ろ一見するとややナイーブな印象の少年剣士。そんな彼のみてくれに、戦士のほとんどは見るや否や鼻で笑った。しかし笑わない者もいた。受付係の六人と、ハイドラの佇まい、特に歩き姿や手を見ていたほんの何人かの戦士たちだ。ハイドラはちょうど空いていた一番左のブースの前までやってきた。受付ブースには係の男の前に机が置いてあり、そこにはペンとインクが据えられていた。

「おはようございます。大会参加希望の方でよろしいですか?」

 その問いかけにハイドラが返事をすると、受付の男は二枚が重なった紙を出した。誓約書である。受付は簡単にそれについて説明した。大会参加に際してのあらゆる事態に対する自己責任の旨が主な内容だった。ハイドラがそれにサインすると受付はペリとそれを剥がして二つに分け、机の下から取り出したハガキ大のカードと誓約書の控えをハイドラに手渡した。カードには青いインクで『二十四』と記されていた。

「会場内では選手はカラーとナンバーで識別されます。あなたの場合は『青の二十四番』と呼ばれます。またナンバーカードはシールになっておりますので、腕や胸など体の見えやすい位置にお貼りください」

 ハイドラは頷き、その場でナンバーシールを腕に貼り付けた。

「開会は十時からで、選手はその一時間前に点呼がありますので必ず控え室にいますようお願いします。何かご質問はありますか?」

「大丈夫です」

 受付は頷き、「ご健闘を」と短く締めくくった。ハイドラはブースを後にし、師のもとへ戻った。

「師匠、終わりました。紙預かってください」

「ん」

 魔女は誓約書を受け取り、帽子の中に放り込んだ。ハイドラは左手の四指で剣の柄を撫でた。そして軽く鯉口を切って刃の滑りを見た。

「十時開会で、選手はその一時間前までに集まれ……だそうです」

「まだ結構時間あるね」

 師弟は近くの植木の側にあったベンチに腰を下ろした。ハイドラはまた、無意識のうちに剣をいじりはじめた。俯き気味のためか、木陰のためか、少年の顔が少し陰った。

「ハイドラ」

 魔女に呼ばれてハイドラは顔を上げた。魔女は弟子の頭にポンと手を置き微笑んだ。

「大丈夫、君は強くなったよ」

 ハイドラは再び俯き、そして右の掌を見た。その指に火は、弱々しくとも灯るようになった。けれど光の粒は未だ出ず。ハイドラの魔力は、理論が構築されなければ主に応じることはない。応じたとしても十全たる働きを成さない。純魔力の放出と正常な魔力操作は、純粋な精神エネルギーによってのみ成立する。即ち魔術不全、その完治の最後の壁――問題の根本、自己不信。

「……はい」

 ハイドラはぐっと握り拳を作った。払拭する――そう誓って。


✳︎


 石造りの街は南に歓楽街、中心にコロシアム、北は多くの階段や坂道を降りて地元住人たちの下町が広がっている。リーサリオンの街はさまざまな顔を持っていた。一つは、戦士たちの聖地たる古きコロシアムの街の顔。一つは、その荒くれの興行や、歴史的建造物、華やかな祭りなどが当ての観光業で経済を回す、歓楽の街の顔。そしてもう一つ、製鉄の街の顔。

 戦いに鉄は付きものなれば、リーサリオンでは古くから製鉄と加工の産業も盛んであった。街に多く訪れる戦士たちは、やはり常々武具のプロフェッショナルを求めるが故に需要は高かったため、リーサリオンは「コロシアム」を芯に「歓楽」と「鉄」、二軸を螺旋のようにしてその営みを発展させていたのだ。

 そのような歴史のために、リーサリオンの下町には南の歓楽街とはまた違った趣があった。同じ石畳の道でも横幅は慎ましく、通りに所狭しと立ち並んだいくつもの漆喰の家屋のあちこちから、鉄を打つ甲高い音や威勢の良い声が響いていた。道ゆく人々はやはりそんじょそこらの町人と呼ぶには頑とした雰囲気が濃く、そこには一種の飾らない美しささえあった。煤煙と職人の街である。

 そんな下町を、忙しなく駆け回る若い女がいた。長い髪は後ろで一本に結えられ、引き締まった長身痩躯は軽やかなストロークで女を走らせていた。今日は物置鞄を置いてきた行商人、ネムである。ネムは道脇に腕を組んで立っていた頑固そうな中年の男に声をかけた。

「あのぉちょっとお聞きしたいことが……」

「オウ!なんでい姉ちゃん!武器か鎧か鉄の卸か!?」

「いや、人探しで……」

 ネムは、とある男を探していた。もう七年も前に一度会っただけの、この街に住んでいた男のことを。


✳︎


 一方、南の歓楽街にも人を探す者がいた。直始まる武闘大会を観にコロシアムへ流れゆく人の濁流、その中でも際立つオレンジと白の派手な衣装の道化師の男だ。しかし「道化師」の格好に対して不気味極まりない鉄仮面の如き無表情。悪趣味な芸術品だと言われれば誰しもが納得しそうなその顔をもつ男の名はサイライカ。

 サイライカは人の流れを掻き分け、時折裏路地へと入ってはそこに沈んでいる浮浪者らに話かけた。しかし浮浪者たちは皆一様に薄汚い笑みを見せるばかりで、碌に会話ができたものではなかった。

 サイライカはまた表に戻り、そして少し離れた別の脇道に入った。虫が沸き饐えた匂いが薄らとする暗い道を行き、サイライカはその壁に背を預けて座り込む一人の女を見つけた。

「聞きたいことがある」

 サイライカは女の側に屈んで問いかけた。

「……あは」

 女はサイライカの顔を見て、笑った。女はこの汚らしい陰りの小路に座り込んでいるにも関わらず、その服はほとんど汚れていなかった。髪も直近に手入れされているようでサラサラとしており、身綺麗と言わざるをえない状態であった。女の存在は場違いであった。

「この特徴に合致する男を探している」

 サイライカは女に、探し人の特徴を告げた。

「あは」

 女は笑っていた。道化師の問いかけに答えることなく、無垢に空虚に、笑っていた。サイライカは女の在り様を見て無意味たるを理解し、すくと立ち上がってその場を後にした。

「あは。あはは……」

 暗い路地に、女の笑い声がこだましていた。


✳︎


 ドン!と腹に響く太鼓の音。もう一度、二度、三度。打ち鳴らされたそれは徐々に間隔を短くしていき、最後、ドドン!満員のコロシアムに、響き渡った。

「皆様ァッ!大ッ変ッ長らくッ!!」

 衆人環視の舞台中央、大太鼓を叩く男衆の前に、一人の女がいた。艶やかな黒髪に褐色肌の眩しい、真っ赤なドレスを着た女。女は音響石を口元に近づけて観衆に叫んでいた。

「おぉぉ待たせッしましたァァアアアッッ!!!」

『ウォォオオオオオオオ!!!!』

 女のシャウトに、観衆たちは立ち上がって絶叫した。巨大な石の円の中、人間の体には到底収まり切らぬであろう狂気にも近い熱気を、何万という観衆たちは声として吐き出していた。その爆発的な興奮の響きが、さらなる興奮を呼び覚ますように、祭典は幕を開けたのだ。

「第一〇八回ィッ、リーサリオンコロシアムッ・トーナメントォォオオオッ!!!」

 ドン!とまた太鼓が鳴った。コロシアムを包み込む喧騒の中を女の声が突き抜けていく。

「はい!今年もやって参りましたこの季節が!!お送りしますのはお馴染みこの私!ミス・リーサリオンでございます!!!」

 ミス・リーサリオンは西に東にお辞儀した。

「大陸最強!力自慢に腕自慢!集まったのは我こそはという野郎ども!!剣?斧?槍?はたまた拳!?研ぎ澄まされた力とパワー!武器持て技持て大暴れ!!お前らの血は……何色じゃアーーーッ!!!」

『ウォォォオオオ!!!流石だぜミス・リーサリオーーンッ!!!相変わらず何言ってんのかわかんねぇええええ!!!』

 ミス・リーサリオンは観客たちの狂気的なレスポンスに満足したのか、ンンッと咳払いをした。

「……ふう、ではルール説明をば!」

 リーサリオンコロシアム・トーナメント。全ての試合は一対一の真剣勝負。武器持ち込み可。時間制限なし、どちらかが戦闘不能になるか降参を宣言するまで試合は続けられる。禁じ手は火薬、飛び道具(投擲を含む)、そして「遠距離攻撃系魔術」の使用。優勝者に贈られるのは、豪邸三軒程度の価値がある金のメダリオン、そして、「大陸最強の武人」という肩書き。

「また、優秀な治癒魔術師たちが大量に控えておすのでッ、選手各位は安心して噴血していただければと思います!」


✳︎


 ああ、本当に始まった。と、ハイドラは人集りの中に紛れて控え室の壁に貼られたトーナメント表を見ながら、絶叫とコロシアムそのものの揺れを感じてその幕開けを察知した。控え室は簡素な石造りの大広間で、入って左右の壁に一枚ずつのトーナメント表が掲げられており、また部屋奥はバルコニーになっており、石の手すりの向こうには試合が見えるようになっていた。ざっと百人強がいたが、それでもかなり余裕のある広さだった。選手の大体は左右のトーナメント表の近くに団子になっており、他は知り合い同士でかたまって雑談したり、また一人で黙々と装備の点検をしたりと、それぞれ好きなように過ごしていた。

 ハイドラは自分の順番を確認したのち、ぎゅうぎゅう詰めの中から脱出した。

「へっへっ……見ろ、ガキがいるぜ」

 ハイドラは声のした方を見た。ガタイのいい男たちが三人、ハイドラの方を見て明らかに治安の悪い笑みを浮かべていた。ハイドラは無視して部屋の奥に行こうとしたが、しかし男たちはハイドラに近づいて、一人が彼の腕を掴んだ。

「んだよ、無視するこたぁねえだろ?」

「……放してください」

 ハイドラは腕を掴む男を観察した。男は鉢金の付いた兜を被り上裸に鉄の肩当てと胸当てを付けており、腰には幅広の片手剣を吊っていた。後ろの二人も同じような格好だった。このコロシアムの選手で一番よく見る格好だった。男たちはハイドラを取り囲むようにゆらりとして、彼の顔を見てニタニタと笑った。

「いいかガキ……ここは冷やかしが来ていい場所じゃあないんだぜ?特に……お前みてーなナヨっとしたヤツが立ち入っていい場所じゃあねえ!」

「なあオイ、わかってんのか?ここ、リーサリオンコロシアムはよ、俺ら戦士たちの高みなんだよ。それをよぉ、お前……防具も着けねえで、舐めてんのかコラ!」

 ハイドラは顔には出さなかったが、内心沸々と怒りが込み上がってくるのを感じた。自分がここに来た理由が「冷やかし」だと思われている、というのはとてつもない侮辱であるように、今のハイドラには感じられた。ハイドラは腕を掴む手を乱暴に振り解き、囲む男たちに肩を当てながらその包囲網から脱出し、彼らと向き直った。

「……冷やかしだと思うのか?」

 ハイドラはあくまでもポーカーフェイスで、腕を掴んだ男の目を見ながら言った。男は尚も笑いながら、しかしコメカミに青筋を浮かべて答えた。

「ああ、見えるぜ!自分がどんだけこの場に相応しくねえか、教えてやるよ」

「オイ、あんま調子乗ってんじゃねえぞコラ」

「ガキだからって大目に見てもらえるとか、ンなワケねえぞ?」

 気づけば、周囲の選手たちも四人のやりとりに注目していた。一触即発、四人がそれぞれの得物に手を伸ばそうとした、その時――

「――弱者による弱者いびりとは、感心せんな」

 三人の男の背後から、声が響いた。途端に男たちは顔を青ざめてバッと振り返った。ハイドラは首を傾け、男たちの後ろから声の主を見た。

(!……こいつ、今朝の)

 腰には剣、蘇芳色の雅な外套を纏った、血のように赤い髪の男がいた。ハイドラが今朝、ジョギング中にクレーアドロス像の前で見かけた男だった。しかしその時はハイドラからは彼の顔は見えていなかったのだが、ハイドラは改めて男の顔を見て、脳裏に稲妻が走ったのを感じた。

(なんだ、こいつの目……!?)

 赤い髪の男は荒削りだが整った顔立ちをしていた。しかし異質なのは、その眼光。濃い灰色の瞳は透き通っていながらもどこか、肉食の獣を思わせる凄みを感じさせる光があった。赤い髪の男はその鋭い眼光で、ハイドラに絡んでいた三人をじっと見ていた。三人は明らかに動揺した様子だった。赤い髪の男はその場に佇んでいるだけにも関わらず、その威圧感に気圧されてか、三人はじりと半歩後ずさった。

「フ、フォルソーレ……よ、よお」

 ハイドラの腕を掴んだ男がわずかに震える声で、赤い髪の男、フォルソーレに呼びかけた。フォルソーレはゆっくりと首を傾げ、口を開いた。

「たった今……防具を着けないのは舐めている、と聞こえたが」

 フォルソーレの装いは、腰に吊った剣と、蘇芳色の外套とその中には黒のシャツと、なんの変哲もないズボンと靴だった。防具らしきものはない。三人はフォルソーレの問いかけに、もげそうなほどの勢いで首をブンブン横に振った。

「そうか、俺の聞き間違いか。まぁ、そうだろうな……」

 フォルソーレは傾けていた首を戻した。

「では、このリーサリオンコロシアムを、『戦士たちの高み』とは言っていたな……?」

 三人は首を横に振るべきか頷くべきか分からず、小刻みに震えていたが、しかしフォルソーレがフンと短く鼻を鳴らし、「全くその通りだ」と言うと、三人は猛烈な勢いで頷いた。

「そう、ここは戦士たちの高み……だが、今このコロシアムに真の戦士はただ一人。___誰かわかるか?」

「フ、フォルソーレ!!」

「あんただ!」

 残りの一人もまた猛烈な勢いで首を縦に振り、同調してみせた。フォルソーレはそんな三人を一層強い視線で射抜いた。

「そうだ……このフォルソーレを前にして、貴様らも!そこの立ち枯れの如き小僧も、何も変わらん……!冷やかしによる、冷やかしへの、冷やかし……!目障りだ、虫ケラどもがァッッ!!」

「ッ……!」

 フォルソーレの声に男たちは凍りつき、そして、控え室全体がしんと静まり返った。

「……フン、散れ」

 フォルソーレが顎で指図すると、男たちは脱兎の如く控え室から出ていった。

「……。なんだ?小僧……」

 フォルソーレは三人の男が消えた後の空間に目を落とした。そこには、枯草色の髪の少年剣士が一人。ハイドラはフォルソーレをじっと見ていた。覇気のない目と、覇気に満ち溢れた目がぶつかった。そして、ハイドラは口を開いた。

「……冷やかしじゃない」

「ほう……」

 フォルソーレはその眼光はハイドラの眉間を射抜いたが、しかしハイドラは固唾を飲み込み、言い放った。

「……俺は俺で、結果が欲しくてここに来た。冷やかしなんて言われる筋合いはない……!」

 ハイドラは込められる限りの力を腹に込め、その言葉をフォルソーレに当てた。フォルソーレは尚もその槍の如き視線でハイドラを刺していたが、数秒か、それ以上の時が経って、不意に「フッ」と笑みを溢した。

「悪くない……あの雑魚どもに比べれば、上出来だ……だが、例えどれほど綺語豪語を並べようとも、所詮は言葉。形は成さん……」

 フォルソーレは外套の裾を翻した。

「……小僧、真に語るべきことがあるならば――行動すがたで語れ」

 外套の襟越しにそう言い残し、フォルソーレもスタスタと控え室から出ていった。そしてそれと入れ違いになるように、係員二人が何やら話をしながら入室し、そして彼らは頷き合って選手らの方を向いて呼びかけた。

「白の八番!黒の三十三番!赤の二番!青の四十五番!待機場所へご案内します!」

 ハイドラは大きく息を吐き出した。そして新鮮な空気を求めて、バルコニーへ向かった。バルコニーには既に何人もの戦士たちが陣取り、セレモニーの熱気を楽しんでいた。ハイドラはそんな並びの中で隙間を見つけ、手すりに肘をかけてフゥと息を吐いた。すると隣にいた大男が彼を見て、「オゥ若ぇな!」と言ってニカッと笑った。

「あっ、はい……」

 ハイドラは既に疲弊していた。何故戦士という生き物は人を見ると絡んでくるんだ、とハイドラはウンザリしていた。

「なんだァ元気のねぇ。兄ちゃん、ここぁリーサリオンコロシアムだぜ!?これから祭が始まるんだぜ!?それなのにそんなんでどうするよォ!」

 大男は甲冑と、顔が見えるタイプの兜を身につけており、それらをがちゃがちゃ言わせながら豪快に笑った。ハイドラはちらりと大男の得物を見た。手すりに立てかけられているのは長柄の斧槍、ハルバードと呼ばれる武器だ。また胴には赤色の『六十二番』のシールが貼ってあった。全身鎧に長柄の武器。ハイドラは男の装備をやや羨ましそうに眺めた。するとそんな二人のもとに、一人の少年が歩いてきた。

「うぃ〜す、ルデムさーん。便所すげー遠かったっすよ〜……おろ?」

 ルデム、と呼ばれた大男とハイドラは振り返った。見るとハイドラと同じくらいの年の、これまた全身甲冑姿の少年が立っていた。胴の部分に黄色の『三十九番』のシールが貼られており、またその両手には長槍が握られていた。鎧の少年はハイドラの姿を見て、利発そうな顔をパッと輝かせた。

「おお!おんなじくらいのヤツ見っけ!めっちゃレア〜!」

 鎧の少年は「いえーい」と言いながら手を挙げたが、しかしハイドラは再び「あっ、はい」と素っ気なく返した。

「うっわ絶望的なノリの悪さ!なぁー歳いくつ?俺十五!名前はニコ!よろしく!あと、このおっさんは俺の上司でルデムさんってんだ。俺らカトロニエナの騎士なんだ〜かっちょいいだろ〜?そんで君は?」

 ニコと名乗った少年のあまりの矢継ぎ早に、ハイドラは少したじろぎながら名乗った。

「……ハイドラ。同い年だ、俺も十五」

「マジ!?タメとかヤバ!」

(別にヤバくはないだろ……)

 そこからはニコがはちゃめちゃに話しまくり、ハイドラはそれに対して半ば機械的に相槌を打った。

「そう!武勲は騎士の誉だからな!俺は誇り高きカトロニエナの見習いとして、一丁ハクをつけにきたってワケよ!」

「へえ」

「そしてルデムさんは毎年参加してるベテランなんだぜ〜!」

「ほお」

「そういやさっき俺らくらいの女の子もいたぜ!超ピリついてたから声かけなかったけど!」

「ふぅん」

 そんな栄養価ゼロの会話が繰り広げられていると、不意にコロシアム全体からワッ!と歓声が上がった。それと同時に、それまで室内にいた選手たちもバルコニーに大挙した。ハイドラはもみくちゃにされながらも、会場の中心を見た。今まさに、第一試合が始まろうとしていたのだった。

「おおっ!始まった!」

「うっひょー!待ちきれん!」

 戦士たちのいななきの中、ハイドラは目を凝らし、向かい合う両者の姿を見た。革鎧の戦士たちは互いに剣を構え、慎重に間合いを見合っていた。時に両者同時に飛び込み切り結び、離れては追って、ぶつかり合いを繰り返した。そして一方が浅く抉られるたび、オオッとコロシアム中から声が溢れた。

「やっちまえぇぇえ!」

「いいぞー!相手ビビってんぞ!」

「浅ぇよコラー!」

 その歓声と野次のけたたましさたるや。飛び交う叫びの津波に、ハイドラはすっかり飲まれてしまった。やがて一方が剣を弾き飛ばされ、無防備となったところに袈裟斬りをもろに受けて倒れた。観客たちは一斉に沸き上がった。決着と共に勝者は武器を掲げて歓声を浴びつつ去り、敗者はその場で治癒術師の応急処置を受けてから運ばれていった。そして全員がはけると、やがて別の組みが立ち合った。また、控え室出入り口からは絶えず、トーナメント表の片っ端から色と番号呼ぶ声が聞こえた。

 そのような戦いが十ほど続いた、その時だった。

『ウォォォォォオオオオオオ!!!』

 突如として観客たちのテンションが一気に最高潮に達した。空気の振動、会場の揺動、ハイドラは昔、家の近くに雷が落ちた時のことを思い出した。しかし、その万の叫びはそんなものではなかった。ハイドラはこれまでの人生で最も巨大な音を耳にしていた。

「なっ、なんだ……!?まだ選手も出てきてないってのに……」

「いや、違う!ハイドラ、やつの出番なのさ!」

 ハイドラの疑問に、真隣で同じくおしくらまんじゅうにされていたニコが答え、そして自分たちの真下を指差した。みれば、血のように赤い髪に、蘇芳色の外套の剣士が歩み出ていた。

「さっきの……」

『ウォォォォォォォ!!フォルソォォオレェェエ!!!』

『待ってたぞぉぉおおおお!!!』

 観客たちはその名を高らかに呼んだ。いつの間にか叫びの中に、手拍子の音が混じるようになっていた。最初はバラバラで、まとまりのない乱雑なクラップ。しかし徐々にそれらは旋律を得て、足踏みも入り始めた。ごくわずかな時が流れ、それらはコロシアムを埋め尽くし、統一された。

 タン、タン。タン・タン・タン。

 タン、タン。タン・タン・タン。

 二拍打って、一拍空けて、三拍打つ。ツー・スリーのリズム、何万という人間がこの時一体となって巨大な円を鳴動させていた。

『オーオ、リー・サリ・オン!オーオ、フォル・ソー・レ!』

 手拍子に合わせ、街の名と彼の名が永遠のように呼ばれた。それは何かの儀式であるかのようにハイドラは思った。

「なんだ……これ……?」

「リーサリオン・コールさ」

 ニコはニヤリと笑いながらハイドラに言った。

「このコロシアム特有の文化さ。とびきり戦士を讃えるのに、ああして手拍子に合わせて街とそいつの名を呼ぶんだ……!くぅ〜、アゲだな!!」

「ア、アゲ……?」

 ハイドラはコロシアム中央、向かい合う二人の戦士に視線を戻した。今まさに、フォルソーレの戦いが始まろうとしていた。

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