第八話:嗚呼、リーサリオン

 タン、タン。タン・タン・タン。

 タン、タン。タン・タン・タン。

『オーオ、リー・サリ・オン!』

 手拍子と足踏みのリズムが、大地を揺らす。止むことのない無数の声援が、大気を震わす。

『オーオ、フォル・ソー・レ!』

 打ち合う刃と刃が、火花を散らす。咲き乱れる血風が、熱狂に油を注ぐ。

「___ふ」

「ぐぁ……ッ!」

 嗚呼、リーサリオン。嗚呼、コロシアム。もっと、もっと強く!俺の名を叫べ。偉大なるクレーアドロスの伝説に、俺の剣闘すがたを上塗るように。

「___ふはは」

「ハァ……!ハァ……!何笑ってんだテメェ……!このイカレ野郎が……!」

 ……妙なことを。俺の方こそ問いたい。何故貴様は笑わないのだ?俺はそう口に出そうとして、ふと気づいた。嗚呼、そうか。貴様も……『違う』のか。

「……死ねや、フォルソォォオレェエエッ……!」

 残念だ。貴様の剣技は悪くはなかった。場数もそれなりに踏んでいるのだろう。だのに、何故だ。何故『理解わからかない』?何故『笑えない』?何故、何故……楽しむでもなく、明確な勝ち筋が見えているでもなく___そうしてこの俺の間合いに、無防備にも入ってしまうのだ。

「___ふん」

 振り抜けば、我が魔剣は当然にその斬り下ろしより疾い。貴様の両手首は目線を過ぎるより先に切断され、薄く血錆の乗った剣を握ったままのそれは、どんな鳥よりも華麗に宙を舞うのだ。

「ぁゔァっ!ぁっぁっ……うぶぉッ、おおぉ___!」

 そして、貴様の元手首たる完全断面は薔薇の噴水を撒き散らし、俺はそれを浴びながら貴様にとどめを刺すのだ。お腹に!

「ぐ、ぞぉ……」

『ウォオオオオオオオオ!!!』

 俺は愛剣を薔薇噴水器の腹から引き抜き、天に掲げてその魔性のぬらめきを観衆に見せつけた。するとコロシアム中、狂ったように手拍子足踏みでツー・スリーのリズムを刻みこの街と俺の名を合唱した。

 タン、タン!タン・タン・タン!!

 タン、タン!タン・タン・タン!!

『オーオ、リー・サリ・オン!オーオ、フォル・ソー・レ!!オーオ、リー・サリ・オン!オーオ、フォル・ソー・レ!!』

 絶ッ頂……の心地だ。刃を交えた敵手が地に伏し、万雷の喝采がコロシアムを席巻するこの瞬間。これこそが俺の生!そして、これこそが俺の記念すべき……。

「……こんなもので、並んでしまうのか」

 俺は血に濡れた外套の裾を翻し、踵を返した。負け犬に駆け寄る治癒術師どもとすれ違いながら、俺は舞台を後にした。

 ___それが早一年前のこと。記念すべき第九のメダリオン……偉大なるクレーアドロスの記録とようやく肩を並べるという時に食らった、壮絶なる肩透かしの記憶だ。

 人っこ一人いない晩冬の早朝。薄暗いコロシアム北の広場にて、俺はクレーアドロスのモニュメントの前に立ち、その威容を見上げ想いを馳せた。リーサリオンコロシアムの英雄、闘王と呼ばれた男。無骨にして剛健たる、鍛え抜かれた鋼の肉体に、なんと覇気に満ちた目であろうか。やはり飾り一つない、なんの変哲もないその兜こそ、貴方に最も相応しい冠に違いあるまい。齢わずか九歳より始まったとされるその連覇伝説は、十七歳までの九年間に渡り刻まれ続けたという。そして迎えた十八の年、ついにその伝説を打ち破る男が貴方の前には現れた。……では、俺は。

「……ふむ」

 俺はおもむろにモニュメントの台座に指を触れた。闘王、世界最強の戦士よ。俺のもとにも来るのだろうか、勇者が貴方にもたらしたような、甘き時が。それとも、このフォルソーレがこのまま貴方を、超えてしまうのか。

「……ふ。どちらにしろ佳い。また肩透かしでなければ、な」

 見ているがいい、闘王よ。コロシアムよ。まだ見ぬ好敵手よ。俺は___剣闘すがたで語るぞ。


✳︎


 昼過ぎのリーサリオンタウンはコロシアム南通り、石造りの古い街並みには色とりどりの出店が立ち並び、石畳の道を行く縁日客の雑踏と喧騒が例年の如く、アルセイラ屈指の祭りたる鳩連祭きゅうれんさいの活気ある風景を彩っていた。右向けば人混み、左向けば人集り。晩冬とはいえ晴れ空の下で、むせかえるような熱気は北風にも負けず、あちこちから立ち込めるソースの香りと汗臭さが複雑に絡み合った大気は、息苦しいなどというものではなかった。

 そんな混沌たる祭りの熱に当てられて、一人の少年剣士が人の流れに逆らえずにいた。彼は、溢れかえる群衆の中で孤独を感じながら壁際を目指していた。春半ばにも近しい体感気温、そして十五にもなって迷子という事実に密かな羞恥と焦りを抱えて、火照る体から止まらない汗。じっとりと染みては麻のシャツや枯草色の髪を張り付かせた彼の名は、ハイドラ。

(どこだ……あんな目立つ帽子、見えさえすればすぐわかるってのに……)

 リーサリオンコロシアム・トーナメント、開催前日。ハイドラは光の魔女と共に縁日を訪れていたのだが、慣れない人混みに圧倒された彼は師とはぐれてしまったのであった。ハイドラは一刻も早く、立ち止まりたかった。立ち止まってまず心を落ち着かせ、その上であわよくば師匠の方から見つけに来て欲しいと思っていた。もう自分で見つけるのは無理だと、彼は薄々思っていた。この、どこへ向かっているのかもわからない人混みから一刻も早く解放され、そして新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで肺を綺麗にしたいと、彼はそう思っていた。

(……そこだ!)

 ジリジリと横へと移動しながら注意深くチャンスを伺っていたハイドラは、ついに抜け出せそうなスペースを見つけ、身を出した。

「す、すみません、ちょっと前通ります……」

 素早く人ごみから抜け出したハイドラは、目論見通りの場所に身を置いた。建物と建物の隙間、人が二、三人通れるくらいの日陰になっている路地で、ハイドラは壁に背を預けふぅと息を吐いた。

(……で、これからどうするか)

 ハイドラが通りを見返すと、やはり凄まじい量の通行人が大河の如く流れていた。いっそ大声で師匠を呼ぼうかと思ったハイドラだったが、しかし流石にそれは恥ずかしいしおそらく無意味だろうと、彼はその考えを振り払った。

「ちょぉいと、お兄さんや……」

 その時、トントンと腕を軽く叩かれたハイドラ。彼が振り向くと、彼のすぐ隣に一人の爺が立っていた。爺は小汚い焦茶色のローブを纏い、大きな肩掛け鞄は肩紐を襷掛けにしていた。そしてフードは目深に被られていて、目元はハイドラからはほとんど見えなかった。ただ、爺が口を開けて笑うと何本か抜けている黄ばんだ歯並びがあらわとなり、粘着質の唾液がその口の中で糸を引いていたのが見えたので、ハイドラは爺に生理的嫌悪感を覚えた。

「……なんすか」

 ハイドラは出来る限りその嫌悪を顔には出さないよう努めながら、爺に尋ねた。

「お待ちでさぁ。ほら、こっち……お連れ様が」

 爺は裏路地の奥へ行こうとしながら、ハイドラに手招きした。

「連れ?」

「ええ、そうでさぁ……迷子で、いらっしゃるんでしょ?」

「えっ」

「呼んでいらっしゃいましたよ……お連れ様が」

 爺は手招きしながら、薄暗い路地を進み出した。それを見て、「ああ師匠が寄越したのか」とハイドラは爺に着いて行こうと反射的に一歩踏み出そうとした。だが、ふと彼は思った。「師匠はこういう時、自分から来るタイプだろ」と。ハイドラはぐっと足に力を入れてその場に留まり、一瞬考えた。そして爺を正面に捉えた彼は口を開いた。

「……父さんがそっちにいるんですか?」

「ええ、はい。……お父上がお呼びですよ」

 ハイドラは爺から一歩退いた。

「……眼科行けよ爺」

 爺は少し驚いた様子で、ハイドラの方へと振り向いた。ハイドラは強い疑念と敵意のこもった目で爺を睨めつけながら、鯉口を切って見せた。爺は一瞬固まったが、すぐにハイドラの言葉の意味に気づいて舌打ちし、路地の影へと素早く去って行った。

「ふぅー……」

 ハイドラはシャツの襟元を摘んでぱたぱたとさせた。

(やっぱ、こう人が多いと変な奴もいるもんだな……気ぃつけよ)

 ハイドラは改めて路地の奥の方へと目をやった。表通りの活気がまるで嘘のような、暗くカビ臭い影が広がっていた。ハイドラが目を凝らすと、ごみや浮浪者などが壁際に追い込まれて捨て置かれており、また闇の中でいくつかの分岐路ができているのか、ほのかな光の段差が彼からも見てとれた。ハイドラはあちらに行くのは絶対にやめておいた方がいいなと直感した。

 そして改めてハイドラがため息をついているとその時、雑踏の流れは人混みの中に二人分くらいの径の穴を作り、ガリガリと石畳の削れる異音を運んできていた。穴と異音の中心には、女がいた。だがただの女でないのは一目瞭然だった。だから人は露骨に彼女を避け、人混みに穴を作っていたのだった。

「……あら?」

 穴の目に立つ女が、ふと壁の方に目をやった時、彼の枯れ草色の髪が彼女の目に留まった。女はガリガリと音を立てながら、壁際の方へと歩いて行った。誰もが彼女を避けるので、彼女はすんなりと裏路地の口までたどり着いた。

「ん……?なんだこの音……」

 ハイドラも、雑踏の中でガリガリという音が自身に近づいてくるのが聞こえてきたので振り返った。するとにょきり、彼の目の前には剣の柄が生えていたのだった。

「あー!やっぱりそうだわ!」

 ハイドラは柄の少し下の方、声のしたところへ目線を落とした。亜麻色の髪の、春の花のような乙女が立っていた。

「……あなたは」

「久しぶりね、剣士くん!」

 相も変わらず、物騒極まりない大剣はその小さな背に。ハイドラはそのアンバランスなシルエットに強烈な既視感を覚え、彼女の名を容易く思い出せた。

「アイリーンさん」

「よかった、覚えててくれた!」

 アイリーンはニコリと笑った。その笑顔はやはり、年端も行かぬ少女のように幼なげであった。


✳︎


 ハイドラから事情を聞いたアイリーンは、こういう時ははぐれた場所周辺のできるだけ目立つところで待つといい、と提案し、二人は通りを流れる人の大河へと入って行ったのだった。

「それにしても」

 群衆はアイリーンを露骨に避けて歩いていた。無理もない。可憐の二文字が人に生まれ変わったかのような女が、無骨で巨大な鉄塊を背に担ぎながらも何の苦もなさげに歩いているのだ。鉄塊の先端でガリガリと石畳を削りながら、歩いているのだ。誰もがアイリーンの可憐さに二度見していた。そして誰もがその背のブツを見て三度見四度見していた。そんなわけで、ハイドラとアイリーンは息の詰まるような人混みの中を悠々と歩くことができたのだった。

「剣士くんったら、あたしと会う時いつも迷子ね〜?」

「う……お恥ずかしい」

「うふふ」

 アイリーンの言葉に、ハイドラは頬をぽりぽり掻いた。

「でも見違えたわ!こんなに逞しくなっちゃって、やっぱり成長期ね!」

「えっ……いやいやそんな」

「え〜?前に会った時より背も伸びたし、体つきもがっしりしたと思うわよ?」

「……そ、そうですかね」

「うん!それにちょっと男らしくなったわ!もしかして……」

「?」

 アイリーンはにんまりしながらハイドラの顔を見た。

「恋人、できた?」

「……」

 ハイドラはわずかに頬を染めながら、顔に力を入れてフッとそっぽを向いた。それを見てアイリーンは破顔し、きゃーきゃー言いながらハイドラの腕を肘でツンツンつついた。

「やだー!お姉さんコイバナ聞きたーい!ねぇどんな子ー!?ねぇ〜え、おねがーい!」

「いや、あの……違……うぅ……」

 そうこうしているうちに、二人はコロシアム前の南広場へと着いた。南広場には出店もまばらで、休憩場所を求めた観光客たちや待ち合わせをしている者などが、植木の根元にあるベンチや、コロシアム前に鎮座する巨像の台座下の程よい段差などに腰を下ろしていた。

「あっ、ほらアイリーンさん!あの像とかすごく目立ちますし……!」

 ハイドラは話を逸らすために必死になった。巨像の方へと歩を進めながら、ハイドラは強引にアイリーンに話を振った。

「あー……っと、ところでアイリーンさんは、どうしてリーサリオンに?」

 アイリーンは「その魂胆お見通しです」とでも言うかのようなしたり顔でハイドラを見ながらも、彼の質問に律儀にも答えた。

「それはね、なんと旦那の故郷なの、ここ。それで、どんなところかな〜って見に来たのと、あとは旦那のお友達に会いに来たのです!それで剣士くんの___」

「あ、そうなんですね、そりゃいいですね……!俺はあれです。あの、あー……コロシアム!大会、あるじゃないですか。あれに出るんです」

 ハイドラは食い気味に言った。あわあわと仕切りに身振り手振りし、普段の落ち着きはどこへやらといった風に、彼はらしくもなくペラペラと喋った。その様をアイリーンはにまにまと眺めていたのだが、不意に彼女はギョッとした様子で目を見開いた。

「___剣士くん、手……」

「え?……ああ」

 ハイドラは両手を下ろした。アイリーンはそれを___左を目で追った。凄惨な火傷の痕と、小指の欠けたそれを。

「……あっ、ごめんなさい。あたし……あの、気にしないでね?……あ、コロシアムの大会ね」

「あー……大丈夫です。アイリーンさんの方こそ、気にしないでください。俺も全然気にしてないんで」

 ハイドラは両掌をひらひらとさせて見せた。アイリーンは心配そうに眉を顰めて、ハイドラの顔を見た。ハイドラは不慣れがバレバレなぎこちない笑顔をしているのを自覚し、少しだけその笑顔を悔いた。

「……」

「……」

 大した時間ではないが、沈黙が流れた。二人は歩いていた。

「……この傷は」

 ハイドラが口を開いた。

「……す、好きな女の子を、守るために負った傷、ですから……負ってよかった傷、です」

 アイリーンはハイドラの顔を改めて見た。少年は横に目を泳がせてはいるものの、彼女はその言葉から何か変化があったことを敏感に感じ取った。

「……ごめんね、あたしったら、何か勘違いしちゃったね。剣士くん、やっぱりちょっと大人になったね」

 アイリーンは表情を和らげて言った。ハイドラも、自然な微笑みをして頬を掻いた。

「……いえ。まだ迷子になるようなガキっす」

「うふふ、そっか」

『ソーダナ!マダガキダ!ギャッハー!』

「魔剣さんうるさい!」

「そういやそれ喋るんでしたね……」

 二人は巨像の前に着いた。大理石で作られたそれは天を衝くような大きさで、鳩を肩に乗せた剣士が少年にメダリオンを手渡しているというシーンを再現していた。

「ん〜。その女の子のお話もっと聞きたかったんだけど、あたしも待ち合わせしてるから、もう行かないとだわ……」

 アイリーンは名残惜しそうに頬を手で支えながらため息をついた。

「ああ、そうだったんですか。すみません、わざわざお手間取らせちゃって」

「んーん。ここで、一人で大丈夫?」

 ハイドラはくすりと笑った。

「まあ……流石に」

「流石に、そうよね!うん、じゃああたし、行くわね!」

 アイリーンは通りの方へと歩き出しながら、ハイドラに振り向いて言った。

「あたしもしばらくこの街にいるから、また会えるかも!魔女さんにもよろしくね!」

「ええ、ありがとうございました」

 二人は手を振り、アイリーンは再び雑踏の中に目玉のような穴を生み出しながら去って行った。


✳︎


「……ふぅ」

 ハイドラは像の台座に背を預け、腰を下ろした。そして彼はなんとなく、左手の焼け痕に目をやった。枯葉のように赤茶けた、ぼこぼことした肌。不揃いの形に歪んだ爪。それでもこの二ヶ月で大分、目立たなくなったのではとハイドラは感じていた。最もそれはハイドラの自意識上での話でしかなかったが、しかし傷というものは、得てして「他者から見えるもの」と「当事者にのみ見えるもの」という二面性を持つものであった。それは心の傷だろうが身体の傷だろうが同じで、いかなる傷にもそれを負うに至る経緯があるからこそ、その傷の痛みを知る者と知らぬ者には絶対的な隔たりがあるのであった。そして、ことハイドラという少年は考えることがなくなると、たとえ既に乗り越えた傷であっても、気がつくと指や目でそれをなぞっているようなタイプであった。故に、彼は痛みへの慣れは早くとも、しかし傷への意識を捨て切るのは遅い、そういう気質であると言えた。

「……」

 ハイドラはかつて小指があったところの蕾を親指でこねた。硬くなった皮膚越しの、通常知るはずのない骨の感触と甘い幻肢痛を、少年は毎夜の眠る前と同じく何とも言えぬ顔で味わった。気にはしていないはずがつい気になる、そんな少年心であった。

(……ん?)

 鑑賞に浸っていたハイドラは不意に顔を上げた。彼の背後、像の裏から騒ぎが聞こえたのだ。通りの喧騒とはまた違う、何か、女がぎゃーぎゃー喚きながら、男に追い立てられているような……。

「おぉぉぉたぁぁあすぅぅけぇぇえ!!!」

「待てゴルァァア!!」

「……な、なんだ?」

 ハイドラは立ち上がり、像の影から頭を出して裏を覗き見た。すると、凄まじい速度の物置が走ってきてハイドラの顔面に衝突した。

「ぐえぇぇえっ!?!?」

「ぎゃぁぁーー!?!?」

 ハイドラと物置は、たちまち台座下へと転げ落ちて行った。

「いってえ……」

 ハイドラはぶつけた身体のあちこちをさすりながら上体を起こし、横でひっくり返っている物置を見た。そして、彼は「あっ」と声を漏らした。

「あたたた……ああ、金ヅルたちが……じゃなくて、どうもすみませんっス……ってホワぁぁぁあ!?!?」

 物置___ないし、物置の如き巨大な鞄を背負った女はハイドラの顔を見るや否や、間抜けな亀のようにひっくり返ったまま奇声を上げた。

「ネムさん……!?」

「は、ハイドラ君……お、お久しぶりっス〜。え、えへへ……」

 長身の女性行商人・ネムは、どことなく卑屈な笑みをハイドラに見せた。

「……何やってんすか?」

「い、いやぁそれがちょっとナンパされたというか、ヤカラに絡まれててっスね……あのぉ、もしよかったら起きるの手伝ってもらえま___」

「追いついたぞ物置女ァ!」

 物々しい声にハイドラが顔を上げると、二人の前に例の輩が二人現れた。輩の一人は大柄な体格をしたスキンヘッドで、隆起した筋肉を見せつけるかのようにシャツの袖を肩までたくし上げていた。そしてツルツルの頭には獅子のタトゥーが入っており、浮かんだ青筋とそれが汗に塗れてテカテカとしていた。

「おうおう!話が聞きてぇんだろ姉ちゃんよぉ!逃げるこたぁねえだろぅよぉ!」

「そうでやんす!その男のこと話してやる代わりに、ちょっと俺らと茶ァしばくだけでやんす!そんであわよくば、あんなことやこんなことにも付き合ってもらうだけでやんす!」

 もう一人の輩は、狐のようにとんがった目をした小柄な男で、こちらは鶏の如き赤いモヒカン頭に、シャツの上には革のベストという出立ちであった。しかも腰履きのズボンに手はポケット、ガニ股であるため、そのシルエットは余計に小さい印象を与える格好だった。

 スキンヘッドはモヒカンの頭を小突いた。

「バッカお前、そーいうこと言うからアレなんだろーが!」

「す、すんません兄貴ぃ!」

 そんなやりとりを尻目に、立ち上がったハイドラはネムの手を引っ張って彼女が起きるのを手伝った。

「……事情は知りませんけど、あなたほどの健脚なら十分走って逃げ切れるでしょ」

「この人たちシツコイんスよ〜……それにどこもかしこも人だらけで走りにくいっス……」

「おうおう兄ちゃん!その物置姉ちゃんの知り合いかい!?」

 スキンヘッドがハイドラにグッと顔を近づけた。

「俺らァちとその物置ちゃんとお話してぇからよぉ……ケガしたくなけりゃァうせなァ!」

「そーでやんす!ガキの癖に枯れたツラしやがって!ガキはガキらしくママと一緒に縁日でも行ってこいでやんす!」

「いや、人待ってるんでここ離れたくないんすけど……」(口臭ぇ……)

 ハイドラは男たちから一歩退いた。しかし、そんなハイドラの腕をガシッとネムは掴んだ。

「ハイドラ君……いや、ハイドラさん……!」

「……いやですよ」

「やっちゃってくださいっス〜!お願いしまっスぅ〜!」

「だから……」

「……っだぁあーからとっととどっか行けよガキィ!」

 痺れを切らしたのか、スキンヘッドは大きく振りかぶってハイドラに殴りかかろうとした。ネムはそれを見て叫び声を上げた。

「ぎゃあー!」

 ハイドラは反射的に、ネムの物置鞄を引っ掴み彼女ごとタッタッと数歩後ろに避けた。ブンッ、とそれなりの重さのある拳が空を切った。

「あのガキぃ……やっちゃってくだせえ兄貴ぃ!」

「おうよぉ!」

「……え!?俺!?」

 いつの間にか、輩たちのターゲットはハイドラへと移り変わっていた。

「ハイドラ君……ふぁいと!」

「……」

 ハイドラはじっとりとネムを見つめた。ネムはニパッと向日葵のような笑みを返したが、次第に申し訳なさそうに萎んでいき、やがて手を合わせてヘコヘコと頭を下げた。

「……はぁ。終わったら話あるんで、勝手に逃げないでくださいね」

「は、はいっス……」

 ハイドラは輩たちに向き直った。

「おうおうおう!なんだよオイやんのか兄ちゃ___」

 スキンヘッドは目を見開いた。つい一瞬前まで、少年は物置女のすぐ横に突っ立っていたはずだった。しかし、いなくなっていた。___スキンヘッドはたらりと冷や汗をかきながら、自分の足元を見た。少年がいた。

「___フンッ!!!」

「ホぎょぉおぉおおおお!!?」

 ハイドラの蹴り上げた脚が、スキンヘッドの股間に炸裂した。無慈悲、金的、一撃必殺!

「あっ、兄貴ぃぃぃぃい!!!」

 モヒカンの悲鳴の中、スキンヘッドは白目を剥いて泡を吹き、膝から崩れ落ちた。


✳︎


「クッソォ、覚えてろォ!枯れたツラのガキィ!!!」

 兄貴分を担いで捨て台詞を吐きながら走り去るモヒカンの背を見送り、二人は像の前に腰を落ち着けた。

「若いのに相変わらず強いっスね……」

「いや……まぁ、最近鍛え直してたんで」

「……あの、手……大丈夫、スか?」

「大丈夫です。ちょっと色々あったけど、なんとかなってるんで」

「そ……そっスか」

「……それはいいんで、もうゴタゴタに人を巻き込まないでください」

「あう……ごめんなさい……」

 素直に謝ったネムに少し気まずさを感じたのか、ハイドラはうなじを擦った。

「……あの、ハイドラ君」

「なんすか」

 ネムは石畳を見ながら、ぽつぽつ呟くように言った。

「贖罪……今、三人済ませたっス……」

「……」

 ハイドラは顔には出さなかったが、その言葉に内心多大な衝撃を受けていた。もちろん、彼の心の半分くらいは「嘘だろ」という疑いが占めていたが、しかしチラリと彼が横目で見たネムの姿はあまりにも弱々しく映った。

「それで、この街にも贖罪相手を探してやってきたんスけど……色んな人に聞いて回ってたら、さっきのみたいなのにも絡まれたりして……」

「……」

「あ、あはは……いや、自分のやってたこと考えたら、何言ってんだって話なんすけどね……!」

 ハイドラはなんと答えたらいいのか分からずにいた。ただ、ネムの言葉を静かに聞き取っていた。

「その……だから……。ごめんなさい。あの帽子のこと」

 ハイドラはネムの方を見た。ネムは、ハイドラに深々と頭を下げていた。ハイドラは、ネムが本当に心から謝罪しているのだと気付いた。

「……ネムさん」

 ハイドラは口を開いた。

「顔上げてください。俺は別に、あなたを許す許さないとか、そういう相手じゃないんだから」

 ハイドラの言葉に、ネムは顔を上げた。ネムは、ハイドラの言っていることが今ひとつわからないというような顔をしていた。ハイドラは言葉を続けた。

「……確かにあの時は、なんかすげえショックだったし、今でもあなたのやったこと肯定する気はないです。……でも、それを踏まえた上で、あの件の当事者はあくまでも『あなた』と『師匠』だった」

 ハイドラは深く息を吐き、吸って、続けた。

「師匠の帽子の件は、師匠が許した。だからその件はもう終わった話。俺は……そう割り切ります」

「ハイドラ君……」

「そして、あなたはその前までにもコソ泥やってたんでしょうが、それも、言っちまえば俺には関係がない。……部外者である俺が首を突っ込むのは、違う」

 ハイドラは、言葉を探していた。自分の中の信念や正義の中にある言葉を。

「正直、俺は今でもあなたは法で裁かれた方がいいと思ってる、けど……師匠はああいうスタンスだったし、言っちまえばあなたが捕まったところで多分、正確な罪の立証もできないし、元の被害者たちに何が還るわけでもないし……なら、あなたに償いの気があるんなら、それを続けるのが一番いいと……それが本当に正しいのかは知らないですけど……思います。だから……俺には、謝らなくていいですよ」

「……」

 ハイドラは言い切ったのか、ふぅと息を吐いた。ネムはそんなハイドラを見つめて、きゅっと唇を噛んだ。短い沈黙が流れた。そして、ネムは再び、深々と頭を下げた。

「……ハイドラ君は魔女さんの独善だと思ってるかもっスけど……チャンスがあるだけ、ウチは自分のこと、救われてると思うっス……よいしょ」

 ネムは立ち上がった。

「……それじゃあ、ウチはそろそろ行くっス。偶然とはいえ、近くにいるなら魔女さんにも改めて謝りたかったっスけど、今いないみたいなんでまたの機会に。ウチはしばらくこの街で人探しをしてるっスから、きっとお二人ともまた会えると思うっス」

「……ええ、俺たちもしばらくここの街にいるんで、そのうち」

 ネムは頷き、改めて頭を下げ、そして歩き出した。

「それじゃあ、また!」

 ハイドラは手を振り、歩いていく物置の後ろ姿を見送った。ネムはちょっと行ったところで、早速誰かに話しかけていた。ハイドラはそんな彼女の元気そうな姿を見て、相変わらずのバイタリティだな、と少しホッとした。そしてふと、そんな彼女が話しかけた相手の姿に目が行った。

「……ん?」

 あまり有益な情報は手に入らなかったのだろうか、物置の彼女はすぐに、その人物のもとから去って行った。ハイドラは立ち上がり、その人物の方へと歩み寄った。オレンジと白の縞模様の、派手な衣装。近づいて気づくのは、にんまり笑いのメイクの下では違和感しかない、不気味なまでの無表情。ハイドラは、その道化師にやはり見覚えがあった。そして、彼は道化師に声をかけた。

「サイライカさん」

「ハイドラ。二七〇と六日ぶりだな」

 感情なき道化師、サイライカがそこにいた。


✳︎


 少年剣士と道化師は二人、巨像の下に座っていた。

「なるほど……例の魔術師の情報を追って、この街に」

「そうだ。集めた情報を総合的に分析するとおそらくこの街にいるはずだ」

 サイライカは相変わらず、自身の感情とそれを奪った相手を探していた。

「ある程度の人物像とこれまでの足跡を把握することに成功した。情報は不特定多数の提供から特に信憑性の高いものを抽出した。間違いの可能性は極めて低い」

 ハイドラはサイライカの無機質ながら強い意志を感じる言葉に、浅からぬ興味を抱いていた。

「……どんな奴なんですか?」

 ハイドラの問いかけに、サイライカはポケットから手帳を取り出し、さっと目当てのページを開いてハイドラに見せた。

「ふむ……性別男性、推定身長一五〇センチから一六〇センチ、推定年齢六十歳前後……服装は目深なフードのボロボロのローブ……目立つ持ち物は、大きな肩掛け鞄……」

 ハイドラはハッとした。彼は見せられた特徴に、心当たりがあったのだ。

「サイライカさん、こいつ……俺さっき見た」

 ハイドラは微かに震えた。もしかして、さっきの自分は相当危険な状況にいたのではないか。そう思った彼は、ぞくぞくとした恐怖を感じたのだ。だが、そんなハイドラの様子には全く関心を示さなかったサイライカは、しかし機械的速度で彼の言葉に反応した。

「なに。それは本当か」

 サイライカは全く驚いていなかった。だがその食いつきは異様ですらあった。

「どこだ。奴はどこにいる。案内してくれ。または場所を教えてくれるだけでもいい。頼む。詳細な情報を提供してくれ」

 サイライカは全く切羽詰まっていなかったが、ハイドラにとてつもない眼力を向けて捲し立てた。ハイドラはその妙な迫力に気圧されながらも、サイライカの要求におずおずと首を縦に振った。


✳︎


「ここ……なんですけど、もういなくなってるかも」

 ハイドラとサイライカは表通りの雑踏の流れに乗り、またかき分け、例の裏路地の入り口に立った。

「……行くんですか?」

「ああ。協力感謝する」

 サイライカは全く心のこもっていない謝辞をハイドラに投げかけた。ハイドラは裏路地の闇に目を凝らした。ごみと浮浪者が傍に打ち捨てられ、時折かさかさと何かが蠢く音が耳障りな、全くもって不吉な路地だった。ハイドラはうなじの辺りの毛が逆立つのを感じた。

「では失礼する」

 しかしハイドラの予感など露知らず、サイライカは恐怖や不安など全く感じていないのがありありと分かる規則的な足取りで闇の中を突き進んでいった。どんどん暗くなっていくオレンジの背中を見て、ハイドラは咄嗟に手を伸ばし、自身もサイライカについて行こうとした。その時___

「___ワッ!」

「うおぉおっ!?」

 ハイドラはビクンと体を跳ねさせた。彼の背後から、何者かがガッと彼の肩を掴んできたのだ。ハイドラはジタバタと暴れて手を振り払い、抜刀体勢で振り返った。

「……あ、師匠」

「迷子小僧〜、やっと見つけたぞ」

 三角帽子の黒ずくめ、光の魔女が立っていた。ハイドラは胸を撫で下ろし、大きなため息を吐いた。

「焦ったぁ……ビックリさせないでください」

「はいはい。つーかすごい探したんだけど。こんな所で何してたの?」

「ああ、それが……あ、もういなくなってる」

「ん?誰か一緒にいたのかい?」

 ハイドラはここに来た経緯を魔女に話した。

「なるほどねぇ、あの無表情クラウン殿が……」

 ハイドラは頷いた。

「あと、その前にアイリーンさんとネムさんにも会いました」

「何その再会ラッシュ……サイライカッシュ……くっくっ」

 ハイドラは聞こえないふりをして裏路地の中を少し進んだ。

「師匠がいるなら大丈夫かな……師匠、ちょっと様子見に行きませんか」

「え〜、お師匠様のダジャレを無視しちゃうようなお弟子さんはちょっとぉ……」

「ちっ……俺の師匠つまんな……」

「……。言うようになったなクソガキ……」


✳︎


「どっちもいなかったね」

 細く暗い裏路地の果てに師弟がたどり着いたのは、明るく活気に満ち溢れた祭りの通りだった。師弟は結局、サイライカはおろか例の爺すら見ることなく、カビ臭い影から抜け出てしまったのだった。道は途中二度ほど曲がり角があったのみですぐに終わり、その先はもう入り口とは別の表通りと合流していた。

「まあ、いいんじゃない?サイライカもここから別の場所探しにいったんでしょ。それよりほら、明日からとうとうトーナメントが始まるんだから、英気を養いたまえよ!」

「はあ……」

「ほーら、行くぞ」

 ハイドラは魔女から逸れないよう、彼女の横に着いて行った。

「ハイドラはなんか食べたいやつないの?」

「そうですね……うーん」

 ハイドラは道沿いに立ち並ぶ様々な屋台を見比べた。鉄板の上で肉汁弾ける串焼き、色艶のいい野菜とハムやベーコンなどを挟んだミックスサンド、魔術師がその場で果物やドリンクを凍らせて作るシャーベット、そしてガム。

「……ガム!?」

「ヘイ、そこの暗い顔した坊ちゃァん!魔術師のお姉ちゃァん!ガム噛まな〜い?」

 ピンクのアフロヘアをしたガム売り男は師弟に愛想よく笑ったが、師弟は彼を一瞥したのみで目を逸らした。

「……魚介串焼きで」

「おっけ。何本か買お」

 師弟はガム屋の隣の串焼き屋台で数本買い、歩行者の流れに乗ってその場を去った。ハイドラは甘辛い味付けの巻き貝の串焼きを食べながら、祭の風景を眺めた。流れゆく人々の手にはそれぞれ飲食物があるのがほとんどだったが、ハイドラは時たま、特に子供の手に鳩の形をした笛や、玩具のメダリオンがあるのが目に入った。

「時にハイドラ。このお祭り、鳩連祭の由来を知っているかい?」

 ハイドラがいいえと答えると、魔女は蛸の串焼きを片手に語り出した。

「鳩連れ様、と呼ばれる偉人の伝承さ」

 アルセイラの各地に、古くから伝わる話がある。白い鳩を連れた名もなき剣士が、行く先々で人を助ける、そんな話。剣士は時に、山ほどもある巨大な花の魔物をたった一人で倒し、日照りの集落では尽きぬ泉を掘り当て、神の怒りにも思える恐るべき蝗の群を剣の一振りで滅したという。人々は剣士をありがたがり、名を尋ねたが、しかし剣士はただの一度も名乗りはせず、また誰とも口をきかずに去って行ったという。故に剣士の名は誰も知らず、後世にて各地に残る逸話では、その特徴から「鳩連れ様」と呼ばれるようになったのだ。

「鳩連れ様の伝承はここ、リーサリオンにも一つある。コロシアム南広場の像を見たかい?」

「ああ……ありましたね。子供にメダリオンあげてるデカい像が」

「そう、まさにそれ。明日から始まるリーサリオンコロシアム・トーナメントの前身にあたる剣闘大会、その優勝のメダリオンをある幼子が欲しがった。その子のために大会を制し、メダリオンをプレゼントしたのが……」

「例の『鳩連れ様』ってことですか……なんかその話だけスケール小さいですね」

 ハイドラは食べ終えた串を魔女から受け取った紙袋に入れた。魔女は蛸足を咀嚼したまま「はは」と笑った。

「まあ、ほう言はれれば。けほれハイほラ、英雄っへほはへカいこほふえばいいっへもんへもない___んく。たとえ巨大な魔物を倒すことはできずとも、泣いている子供の一人を喜ばせてあげるのも、『救い』さ。そういう意味では鳩連れ様は、武勇と慈悲の両方を兼ね備えた、勇者にも等しい英雄なのさ。現にお祭りにもなってるし」

 言って、魔女はまだ串焼きの入った紙袋をハイドラに預け、脇の露天で紐付きの鳩笛を一つ買ってきた。そしてぽっぽっとそれを吹いて見せ、ハイドラの首に掛けた。

「妙に似合うねぇ」

「……ガキじゃあるまいし」

「さっき迷子になったじゃん」

「……」

「はは。……ああ、ちなみに、コロシアムを跨いで反対側の北広場にはクレーアドロスの像があるよ」

 魔女は通行人の頭越しに見える、古い石造りの巨大な円筒の建物を指差した。文化と歴史、そして人間の闘争本能を体現するかのような圧倒的巨塔、古きリーサリオンコロシアムを。

「闘王クレーアドロス……伯父さんの仲間、勇者一行の一人、でしたね」

「ざっつらいと。彼はここの出身なんだ」

 ハイドラはラクヒで見た七つの像の一つを思い出した。『脅威を討ちし剛力を称えて』、その文の刻まれし台座に据えられた、巌の如き偉丈夫の力強い眼差し。世界最強の戦士、そのルーツがこの街にあると魔女は言った。

「勇者アルセノ伝を読んだのなら、それくらいは知ってたかな、はは。つまりさ、ここは謂わば一種の聖地なのさ。戦いに生きる者たちにとっての」

「聖地、ですか」

 魔女は頷いた。

「そう。民に王都、焔華にフォートリム、魔物に深界、魔術にエイルシオン、そして戦士にはここリーサリオン。文化、思想、歴史、技術、信仰……それぞれの真髄はそれぞれの聖地へと集約する。故に、君はこの街で『戦い』を知るだろう」

 ハイドラは魔女の言葉に耳を澄ましながら、近く遠いコロシアムを見据えた。

「勇者とは、いかなる戦いをも制す者の称号だ。時に力の、時に理の、時に運の、時に忍耐の、時に誇りの……何をもって勝利とするのか、何をもって敗北とするのか。学びたまえ、その多様な姿を」

 ハイドラはコロシアムから移した目を、隣を歩く師のオパールの瞳へと向けた。ぶつかった師弟の目が、静かに闘志を共有した。

「ルカオでは、力をつけたいと言っていたね。あれから二ヶ月……正直私も引くレベルのメニューを、君は一日も欠かさずやり通した。そしてもちろん、それ以前の旅路もまた多大なる積み重ねを成したとも。……あとは、君次第だ」

 ハイドラは頷き、前に視線を戻した。そしてポケットの中に手を突っ込み、人知れず指先に力を込めた。……未だ、蛍は現れず。しかしそれ故に、ハイドラは己の内に燻る火を自覚した。

(変わる……ここで勝って、俺は自分を変える……!)

 魔女は、弟子の横顔に羽化の兆しを垣間見たのか、ほのかに口角を上げた。

 古き石の街には、その中心にコロシアムがある。数多の旅路が結びつき、数多の戦士が集う場所。新たな縁、再会の縁、別れの縁、凶事の縁。それらは複雑に絡み合い、血管となり、道となる。

 血管みちは全て心臓に通ずる。血潮の如き人の流れ、出入り盛るはコロシアム。狂乱、歓声、手拍子、足踏み、ツー・スリーの脈拍が、しかして街と、誰を呼ぶ。

 タン、タン。タン・タン・タン。

 タン、タン。タン・タン・タン。

『オーオ、リー・サリ・オン。オーオ___』

 街の名はリーサリオン。二人の英雄が見守る街。さまざまな思惑と、旅人たちの交差点。戦士たちの聖地、コロシアムの街___師弟の、旅の目的地。


✳︎


「……何処だ」

 男は、街で最も高い尖塔の頂上に一人佇み、その古い街並みを行き交う人々を一望していた。眼下に広がる石の海に、人の川が流れゆく。その活気と熱気を見るほどに、男の不気味さと不吉さは際立つようであった。黒いローブの下に覗く、病的な痩躯に刻み込まれた怪異的な広がりのタトゥー。幾何学模様と蛇のそれは、男の鋭い眼光をそのまま投射し変形させたかの如き妖しさと恐ろしさがあった。

 男は探していた、たった一人を。その理由は、男しか知らない。

 ___だが、人々は男のことを知っていた。

 幽鬼の如きその姿。嵐を操り、天候すらも従える魔力。男を敵に回した者たちは、皆一様に恐れと諦めを抱くという。

 男は魔術師だった。『世界で二番目に強い魔術師』、そう呼ばれていた。

 或いは___その男は、亡霊と呼ばれていた。

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