第七話:アスタリスク(後編)

 白と黒の、モノクロの世界で。色のない炎が燃えていた。無限に広がる黒の大地に、その天蓋となる白の大空。色のない雲が、風に吹かれてたなびいていた。そんな場所にぽつんと一人で立っていたハイドラは、なんとなく思った。

(ああ……死んだのか、俺。……ここは多分、そういうところなんだろうな)

 ハイドラは辺りを見回して、生き物はおろか草木一つないその絶景を独り占めにした。しばらくそうして、ずっと遠くにも視線を投げて、やがて彼は気づいた。遥か彼方、万の陽炎を越えた先、誰かが佇んでいたのだ。ハイドラはそちらへ歩いた。気の遠くなるような、けれども歩いて行けると確信できるような距離を彼は歩いた。ハイドラが近づくにつれて、人影は一人また一人と陽炎の中から立ち上がって、彼の方を向いた。ハイドラは陽炎の揺らぎを鬱陶しく思いながらも目を凝らした。男が八人。女が一人。ハイドラは彼らの顔や格好が十分にわかるほど近づいた。彼らの身なりは様々だった。明らかに武装しているものも多かったが、それよりもハイドラが気になったのは、明らかに見慣れないというか、なんだか古臭い格好の者が多かったことだった。ただ、揃いも揃って英雄的に整った顔立ちをしていた。共通点はそれだけだった。全員、ハイドラの知らない人だった。そして全員、なぜか「仕方ない」顔でハイドラのことをじっと見ていた。

 やがて十人目が立ち上がった___金髪の少年が。

「___。あ……」

 ハイドラは目を見開き、彼の名を呼ぼうとした。が、しかし、金髪の少年は立ってすぐにダッと走り出し、そして___

「アーら___ぐえぇっ!!!」

 ハイドラの胸にドロップキックした。

「ゲッホ……んぐっ、何すんだア___ぐぉえっ!」

 なんとか受身をとってすぐに立ちあがろうとしたハイドラを、人影は代わる代わる蹴飛ばした。その度に、ハイドラは潰れた蛙と同じ鳴き声を上げ後ろに吹き飛んでいった。

「ちょっと……待っグホぇっ!!」

 人影たちは容赦なかった。少年の体を軽々吹っ飛ばすほどの、強烈な蹴りが、代わる代わる。そして最後に、ボロボロの布を体に纏っただけのみすぼらしい男が___ハイドラはこの男についてはどこかで見た覚えがあった___ハイドラを思いっきり蹴飛ばした。すると不意に、ハイドラは浮遊感を覚えた。

「ぐぇえぇぇっ……えっ、あっ___あぁ!?」

 ハイドラの体は上に向かって落下を始めた。加速……加速。加速!加速!!天邪鬼的物理法則が、手足をバタつかせる彼の体を連れて行った。

「おあぁぁああぁぁぁ!?!?」

 情けない叫び声を上げながら、ハイドラはとてつもないスピードで純白の空へと吸い込まれていった。ハイドラが黒い大地を見下ろすと、十人が全員、「仕方ない」顔で彼に手を振っていた。アーランも、そうしていた。

 ハイドラのたましいは雲の尾を引きながら、空の彼方へ。まるで逆らう彗星のように駆けて行った。まだ、あるべき場所へ___


✳︎


「うぅ……落ち…………はっ!」

 ハイドラは目を瞑ったまま、はっと大きく息を吸い込んだ。ほのかに湿気った感じの、やや冷たい薬臭い空気。ハイドラはゆっくりと目を開けた。しかしすぐに、穏やかな白日の光に刺激され、彼はその眩しさに思わず目を閉じた。そしてぐっと目に力を入れた後、またゆっくりと目を開いた。ハイドラはやけに青みがかる視界に、自身が長時間日差しの元で目を閉じていたのであろうことに気づいた。ハイドラは首を動かして左右周囲に目をやった。部屋はそこそこの広さで、壁には窓、床にはベッドが四つ並んでおり、自分もそのベッドの一つに、毛布と真っ白なシーツに包まれた状態で横たわっていた。病室だった。ハイドラの他には、誰もベッドを使っていなかった。

「……え、あぁ……っ!うっ」

 ハイドラは状況を理解した。そして起きあがろうとしたが、彼の全身を痺れが走り、その体をこわばらせた。強烈な喉の渇きと、焦燥感。

(……ステラがいない!)

 ハイドラは横になったまま記憶を辿り、考え、そして青ざめた。魔物に襲われたステラを、森に助けに行ったこと。ステラも自身も、魔物によって瀕死となったこと。そして今、自分は「病室」で目覚めて……なのに、ステラはここにいない。つまり。

「あ……あぁ……嘘だ……」

 ハイドラの目から涙が溢れた。その時、ガチャリとドアが開いた。

「……ハイドラ!?ハイドラっ!!」

 一人の人物が入室し、嗚咽を漏らす彼の元に駆け寄った。光の魔女だ。魔女は珍しく取り乱した様子でハイドラの側まで来ると、しゃがんで彼の頭に手をやって支えた。そして涙と共に顔を歪ませる愛弟子を見て、彼女もほろと涙を溢し、そして破顔した。

「目が覚めたのか……!よかった……!」

「うぅぅっ……師匠ぉ……ステラが……」

 魔女は法衣の袖で涙を拭うと、「大丈夫」とハイドラに言った。

「……え?」

「生きてるよ、ステラちゃんも」

 その言葉に、ハイドラは一瞬放心した。そして、さらにぼろぼろと涙を流した。


✳︎


 魔女はハイドラに、彼が目を覚ますまでの一日半の経緯を説明した。料亭でハイドラを待っていたら、恐ろしく慌てた様子のジャック少年が駆け込んできて、真っ直ぐに魔女のところまで来て「助けて、魔物が」と。状況と場所を聞いた魔女はすぐに現場へと急行したものの……彼女がついた頃には、既に血まみれの二人が倒れていたのみだった。そして魔女はその場で二人に処置を施した後、村まで運んだ。ステラは診療所に運ばれた後、意識さえ戻らなかったものの、傷の具合は問題がなかったらしく、一日入院させて様子を見たのち、家族の要望で自宅療養となったのだそうだ。ハイドラはそれを聞いて胸を撫で下ろした。

(……てか、そもそも同じ病室にいるわけないよな)

 こういうの男女分けるよな普通、と、冷静になったハイドラは先の焦りを思い出して一蹴していた。

「本当にすまない……私がついていながら、君を命の危機に晒してしまった。それに、君の友人も。ご両親や、それに私を信じて任せてくれたアルセノに申し訳が立たない……」

 魔女はハイドラに、深々と頭を下げた。しかしハイドラは「顔を上げてください」と、彼もひどく悲痛そうな顔をして言った。

「やったのは……魔物です。そしてヤツを止められなかったのは……俺です。俺が、弱かったからです。……甘えてたんですよ俺。今まで、本当に危ない時は師匠が助けてくれてたから、一番根っこのとこでは『絶対に死なない』ってことに、胡座をかいてたんだ」

 ハイドラは上体を起こし、ベッドに座る形になった。シーツがはだけ落ち、包帯だらけの体に青い毛糸のカーディガンを着せられた体が出てきた。ハイドラは両手をシーツの上に出した。右は肩から肘、肘から手首まで包帯が巻かれていた。左は手先まで、指の一本一本まで包帯が巻かれていたが___左手の小指が、なくなっていた。あの火炎を起こした時に、焼け落ちていたのだった。

「……魔術不全だからとか、才能がないとか、そういうのを、『これからゆっくり成長していけばいい』理由にしてたんです。でも、そんな考えでいたから、今回俺は死にかけて、しかも助けようとした相手に逆に助けられて、危うくその人を殺されるところだった」

「それは___」

「……強くなりたい。師匠、俺……もうあんな思いしたくないんです」

 ハイドラは魔女の目を見た。魔女も、彼の目を見た。いつもの覇気のない目とは違う、悲しみと共に静かに燃える意志のある眼差し。魔女は強く、頷いてみせた。

「……わかった、任せてくれ。そう君が言うのなら、私は君をより強くする。より、厳しくするよ。より早く、成るように」

 ハイドラも頷いた。そして、魔女はハイドラたちを見つけた後のことに話を戻した。

「……まだ、説明すべきことがあるんだ。今回君たちが負った、傷のことについて」

 二人を見つけた魔女は、その場ですぐに処置をした。しかし___

「……君たちを襲った魔物は、相当な魔力の持ち主だったらしい。この村に来る前に猪を見たろ。多分、あれよりも圧倒的に強い魔物だったはずだ……満身創痍とはいえ、よく一人で倒せたもんだ。……相当無理したんだろう。その火傷だらけだった手。掌の肉、なんとか治せたけどほとんど残ってなかったよ。小指は完全に無くなっててだめだったけど……」

 魔創。一定以上の濃度の魔力を帯びた外傷は、ごく短時間のうちに治せなかった場合に、そう呼ばれるものになるのだと言う。魔創になると、治癒の魔術を用いても傷の治りはかなり遅くなり、さらに___完治しても、くっきりと痕が残るのだと魔女は言った。

「人間の皮膚の少し深いところ、『神皮しんぴ』と呼ばれるところには魔力の受容体があるんだけどね……その層を濃い魔力で傷つけられると、色素沈着が起きてしまうんだ」

 皮膚の深層に、色が染み付く。さながら、『タトゥー』のように。魔女は申し訳なさそうに、目を伏せた。

「……ごめん、私がすぐに駆けつけていれば。それに、手も。……その火傷の痕は、かなり目立つ形で残る。指も欠けさせてしまった……本当にすまない。……君だけじゃなく、ステラちゃんもだ……女の子なのに、顔……」

「……」

 ハイドラは自分のことはもはやどうでもよかった。それを聞いて、ステラのことだけ考えていた。……自分を守るために負った大きな傷が、顔に残る。ハイドラは強い罪の意識に押し潰されそうになり、俯いた。

「……師匠、ステラは……もう目覚めたんですか」

「いや……まだだよ」

「……ステラの親御さんは、このことは」

「……伝えてある」

「……そうですか。……ステラが目覚めたら、説明する時、俺も連れてってください……謝りたい。親御さんにも。……会いに行ってもいいか、二人に聞いてきてくれませんか」

「ハイドラ……」

 魔女は、俯くハイドラの肩を抱き寄せた。

「自分のせいだと考えないでいい……。君は君のできることをやったじゃないか。なにも悪くなんかない。悪いのは……私の方だ。ちゃんと、君と一緒にいれば……」

 その時、ドアがノックされた。

「ん……」

 魔女はぐっと涙を拭ってドアに向かった。ドアが開かれると、二人の中年の男女が立っていた。料亭の店主と、女将。つまり、ステラの両親。

「あっ……ステラちゃんの」

「どうも……娘の治療、ありがとうございました」

「あの……少し失礼してもよろしいでしょうか……昨日は娘につきっきりでいさせていただいたので、今日こそは眠っていても、お顔だけでも……あ、起きたのかい!?」

 魔女が通すと、二人は小走りでハイドラの方へと向かった。ハイドラは二人を見て、泣きそうになるのを堪えながら謝罪の言葉を吐こうとした。が___

「あぁ……ごめんなさ___」

「ありがとうっ!!!」

 夫婦が、がばっとハイドラに抱きついた。ハイドラが「ぐえっ」と声を漏らすと、二人は慌ててハイドラから離れた。

「ああ、すまない!そうだよな、君も重傷なのに、私たちとしたことが……」

「い、いえ……」

「でも、本当にありがとうございました。……あなたが娘を、救ってくれたのよね?」

「えっ……いや、違」

 反射的に否定しようとしたハイドラを、夫婦は首を激しく振って否定した。

「違くないよ。……君が駆けつけてくれなかったら、娘は人知れず魔物の餌食になっていたのだろう」

 ハイドラはその言葉に虚をつかれたのか固まった。すると女将は、ハイドラの包帯だらけの手に自分の手を置いて話した。

「……ジャック坊やに聞いたわ。娘が坊やを逃して、坊やからあなたは話を聞いて。それで……坊やに助けを呼ばせに行かせて、あなたは我が身も顧みずに、娘のところへ行った。そして……そして……二人とも、傷だらけでも、生きて、帰ってきてく、れた……うぅ……」

 女将はその場でわんわん泣き出してしまった。ハイドラはその様子をぽかんと眺めていたが、店主が彼の両肩をがしと掴んだので、ハイドラはびっくりして店主の方を見た。店主も、涙と鼻水が出ていた。

「わかるかい……!?娘の命の恩人なんだよ、君は。もし君が真っ先に娘のところへ行ってくれていななければ、それだけで運命は変わっていた!君が助けてくれたんだよ!本当に、本当に、ありがとう……!」

 夫婦はそっくりの泣き顔でわんわん泣いた。ハイドラは大の大人が二人して大泣きするそのあまりの迫力に、申し訳なさやら何やら全てが吹っ飛び、ただ呆然としていた。


✳︎


 ステラの両親はひとしきりハイドラに感謝を伝えると、愛娘の元へと帰って行った。ハイドラは二人が帰るまでの間ほとんどずっとおろおろしていた。そんなハイドラが唯一、夫婦に口を開いたのは「ステラの顔の傷のこと」。魔女は黙って見守っていた。俯いたハイドラは、しかしそれだけでは強い自罰的な心を隠すことはできずに、その傷を彼女が負った経緯をありのまま話した。自分なんかのために、年頃の女の子の顔にあんなに大きな傷を負わせてしまったこと。そして、その痕がこれからずっと残ってしまうこと。ハイドラは___夫婦に許さないで欲しかった。感謝を、しないで欲しかった。

 けれど、夫婦は「そんなこと」と言って憚らなかった。「死ぬかもしれなかった。命があっただけ、それ以上なんか望めない」夫婦は口を揃えて言った。ハイドラは、それ以上は何も言えなかった。

 その日の夜、魔女も診療所に迷惑だからと宿に戻ったあと。ハイドラは横になっても眠れずに、窓から差す月明かりにたれていた。一日半眠っていたのだから、彼が眠れないのは当たり前だった。ハイドラは月明かりに左手をかざした。小指は、彼の感覚の上では生えているのだ。だがないのだ。ぐっと拳を作ると、小指を曲げた感覚はあるのだ。だが、ないのだ。ハイドラはその不思議な感覚をひとしきり味わって、そして、凄まじい虚無感に襲われた。体の一部が、なくなるということ。魔術でも治らない。そういうことを、彼は今まで想像したこともなかった。下手をすれば、左手全てそうなっていたかもしれなかった。ハイドラはぶるりと震え、そして、それどころか今回は死んでいてもおかしくない状況だったのを思い出した。喪失感や恐怖すら生還の産物であるという事実に、少年は愕然としていた。

 ハイドラはすぅと細く長く息を吐きながら手を下ろした。___死。今までにも、何度かそれが頭をよぎったことはあった。だがそのほとんどは、魔女という絶対的な力を持つ保護者が近くにいる上での、言ってしまえば「安全な命の危機」だった。そして今回味わったのは、真の意味での「命の危機」と、真の「無力感」。多少剣が振れる自分。魔術なしでもこれまでなんとなくやってきてしまった自分。その結果の、「剣がなければ何もできない自分」。死にかけて、彼はその事実にやっと気づいた。

「……このままじゃ、だめだ」

 彼は口に出してそれを自分に刻んだ。

「……変わらねぇと」

 ハイドラは頭を横に倒し、魔女に頼んでベッドの脇に立てかけてもらったアーランの形見を見た。彼は旅立つ時、この剣に誓っていた。立派な勇者になると。そしてその誓いは、この夜改めてたてられたのだった。

「……」

 冬の夜の病室は、表通りに積もった雪が照り返す月明かりを窓から招き入れ、部屋を満たす影と薬臭さに青い線の絵を描いていた。その月光の図形だけが、少年の新たな誓いのただ一人の目撃者だった。

 誓いが終わり、ハイドラは起き上がった。そして、魔女が気を利かせて置いていってくれた黒いコートをベッド下のカゴから取り出し、それを纏った。


✳︎


 病室を抜け出して、ハイドラはルカオを歩いた。吐いた息は白く煙って風になる、空の月と星以外灯りひとつない真夜中の村を、彼は一人歩いていた。凍った雪に足を滑らせないように、俯き気味に、けれど時折、自分だけの景色を楽しみながら。閑散とした通りは、行き交う冷気の風ばかり。いつもは温かみのある木目の家々も、深く影を落とすばかり。雑貨屋、時計台のならび、ひたとして静かだった。ハイドラは気づけば宿屋の前まで通り越して、いつもの料亭の前___

「あれ、なにしてんの」

 ハイドラはその声に顔を上げた。

「___あ」

 小柄な体に、緑の上着、金の髪。顔は包帯だらけだが、その隙間からグリーンの瞳がのぞいていた。そんな少女が、料亭の前に佇んでいた。ハイドラはすぐに駆け寄ろうとした。だが。

「___うぉっ!」

 凍った雪に足を取られて、つるりといきそうになった。そして変な勢いでテッケテッケと歩いて、彼女の側で、立ち止まった。

「はぁ……はぁ……ステラ、だよな」

「イイエ、ワタシハ、ミイラデス」

 ステラはおどけた様子で両手を突き出し、おばけのようにゆらゆらと動いた。

「……何言ってんだ」

「あはは」

 ハイドラはふっと息をこぼしながら、少し申し訳なさそうに目を細めた。

「……寝てろよ、怪我人」

「いや君もだよ!!」

 二人は歩き出した。どちらからともなく、あの時と同じ道を。凍った噴水公園への道を。けれどあの時と違うのは、特に、二人とも何も話さずに歩いたこと。「生きててよかった」。料亭の前で目を合わせて、それだけでお互い、もう十分伝わっていたから。

 そうして二人は、公園にたどり着いた。人っ子一人いない噴水の公園はしんと静まり返り、昼間の子供たちが遊んでいた時の騒がしさと対照的で、ハイドラはまるで異世界に足を踏み入れたかのような感覚がした。

「座ろ」

「……ああ」

 二人は噴水の縁の雪を払い、そこに腰掛けた。

 しばらく、二人とも黙っていると、やがてハイドラが切り出した。

「……話しとかないといけないことがある」

「なぁに」

 明日にも魔女がちゃんと説明しに行くが、と前置きして、ハイドラはステラに魔創について簡単に話した。

「……そっか」

「ごめん。俺を庇ったせいで、顔を……」

 その時不意に、ステラは自身の顔に手をやって、包帯を解いた。ハイドラが少し驚きながら見る前で、シュル、シュル、と汚れ一つない木綿のそれが、彼女の首元に降りきった。

「……どう?」

 そう問うステラの顔、右目の上から口の左端にかけて走る赤茶けた大きな爪痕。目立っていないとは到底言えないほどに、ひどく凄惨な傷跡だった。ハイドラはその傷を見つめ、「ごめん」と。

「……謝んないで。……そっか、やっぱり……結構目立つんだ」

「ああ……」

「正直者」

「……ごめん」

「あはは、だから、謝んなくて___」

「俺のせいだ。俺が、弱かったから」

 その言葉に、ステラはキッと鋭い表情をしてハイドラの顔を見て、言った。

「違う!」

 ハイドラは思わず目を見開き、わずかに肩を跳ねさせた。ステラは語気を強めたまま続けた。

「そんなことない!ハイドラ君は弱くなんかない!だって、あたしを助けるために……自分が怖いの、我慢してアイツに立ち向かってくれたじゃん」

「___。」

 ハイドラは、何も言えなかった。「自分が怖いの我慢して」。それを完全に見抜かれていたために、ハイドラは黙るしかなかった。強いて言えばそれはステラにも言えたことだったが、けれどステラは、今はそれすら飲んでハイドラに言ってのけていた。彼の性格を、理解していたから。

 ステラは首まで弛ませた包帯をするりと取っ払って、「あたし気にしない」とさらに続けた。

「……人を守るために負った傷だもん。どんなに醜くても、恥ずかしくなんかない」

 ステラは、その瞳のグリーンの深みに月の光を映して、ハイドラの目をじっと見ながら言った。

「……あたし、たとえ誰かに笑われたり、ひどいこと言われたりしても……この傷を隠したりしないよ。こんな傷負いたくなかったなんて……思わないよ。だって、この傷を負ってよかったって思えることがあるんだから」

 そして、彼女は傷の走った顔で微笑んだ。

「___君が、助かったんだから」

「___っ」

 ハイドラは天を仰いだ。投げられたその言葉のあまりの誇り高さに、そして込み上げた涙を誤魔化すために。歯を食いしばり、必死に。

 そんなハイドラの様子を見て、ステラはニコリと笑い、同じように空を仰ぎ見た。

「……そういえば、あの時も二人でお星様を見たんだよね」

 二人して血を流し、瀕死となって雪原に転がったあの時。あの時二人が見たのは、暮れなずむ空でたった一つ輝く金の星、宵の明星。そして今、ことなきを得た二人が目にしているのは、夜空を埋め尽くす満天の星と、上弦の弓張月が青く照らす銀河だった。

 星空に、二人の吐息がふわと上がっては、かき消えて。しばらく二人は星々の瞬きを眺めた。

「ね、知ってる?」

 ハイドラの横顔に目をやりながら、ステラは夜空の中心を指差して語った。

「多分、あの星。北極星っていうやつね」

 ハイドラは聞き入った。大昔、まだ羅針盤もなかった時代、広い海や荒野を征く旅人たちは、空の星を目印に旅をしていたのだという。夜空を巡る星々の、その中心。唯一つ動かぬ、北を指す星、北極星。その光は太古、旅人を導いたのだという。

「……夜、方角がわからなくなったら。立ち止まって星空を眺めてね」

 ハイドラにとっては、その星の話は別の意味を持った。彼女の、あの強い言葉と重なって。ハイドラは改めてそれを反芻した。

 ……目の前の絶望に、命を諦めたあの時。きっと恐怖していたのは同じだったろうに、それでも折れた腕をも必死に広げて庇ってくれたステラの、その気高さ。負った傷を、否定しないのは、助けたことを、否定しないため。「君が、助かったんだから」。その言葉こそ、ハイドラにとっての星であった。罪の意識の暗鬱の中を彷徨う、痩せた旅人である自分。それを照らし、赦しへと導いてくれた光。ステラは、ハイドラにとって星に違いなかった。

「……ありがとうな」

 ハイドラは上に向けていた顔をやっと下ろして、深い感謝のこもったその言葉を呟いた。

「……あはは、どういたしまして」

 白い吐息をたなびかせる、冷たい風が吹き抜けた。少女はそれに当てられて、小さくくしゃみをした。

「……そろそろ戻るぞ」

「まだ話したい……」

「……。じゃあ」

 少年は自分のコートを少女に着せるために、脱ごうとした。けれど少女は「待って、」とそれを止めた。そして、拳一個分開いていた距離を詰めて、少年にコートを開かせた。

「入れて」

「……はぁ!?」

 少年は大いに顔を赤らめながらも、しかし結局それに応じて、前を開けたコートを少女の肩に被せた。

 静まり返った冬の夜。凍った噴水の前で、触れ合った互いの肩の温もりだけが、言いたいことを言い終えた二人にとって唯一の会話だった。


✳︎


 残雪の朝。冬の寒空は凍雲を散らしながらも晴れ、降り注ぐ日差しはルカオの人々にやがてやって来る春への思いを馳せさせていた。

 病室、ハイドラは包帯を全て外した。腹と脇腹には溶解した太陽のような穴の痕。背の中心には、彼自身の肉眼では見えなかったが、浅い三本傷。右腕と右肩には、大きく抉れたであろうことをありありと想起させる幅広の傷があり、肘を曲げるとそれは一直線につながった。そして、左手。小指が付け根からなくなり、爪はほとんど剥げ、指先から肘先まで秋の枯れ葉のような色をした瘢痕がぼこぼこと淡く泡立って広がっていた。ハイドラはその瘢痕を撫でた。そして、「隠さない」と胸に誓った。

 そのまま病室で身支度を整えたハイドラは、顔を出しにきた魔女と話し、師弟は予定を早めて昼にはルカオを発つことに決めた。ハイドラの強い要望によるものだった。彼は強くなりたがっていた。だから、居心地の良いこの村を、一刻も早く離れないといけないと考えていた。魔女はそこまで焦らなくてもいいと言ったが、しかしハイドラは頑なだった。進まなくては。この温かな場所ではきっと手に入らない、生きるための力を、死に打ち勝つための力を、手に入れるために。ハイドラの強い意志の宿った願いに、今回の件で責任を感じていた魔女は応じる他なかった。

 準備ができたハイドラを連れて、魔女は宿の受付でチェックアウトを済ませた。もはや顔見知りとなっていたジャックの父に別れを告げ、宿を後にした。そして、最後の挨拶をするために料亭へ師弟は向かった。師弟が顔を出すと、店主と女将がすぐに駆け寄って師弟を席に案内しようとした。しかし挨拶をしにきただけの旨を伝えると、店主夫婦は残念そうにしたが、身を引いて頭を下げた。

「また、いつでも来てください。お二人は娘の恩人です。お代もいりませんで」

「はは、ええ。今度来た時は是非!……それと、申し訳ない、例の件。せっかく準備してもらったのに」

 魔女は深々と頭を下げたが、しかし夫婦はとんでもないと魔女に頭を上げさせた。ハイドラはその謎のやり取りを見て困惑していたが、ふと店の奥に目をやると、エプロンをつけたステラがこちらを見ていた。包帯は全て取っていて、傷跡は目立ちこそすれ完治していたようだった。この時夫婦が何かハイドラに言っていたが、彼の耳には入っていなかった。

 じっ、とハイドラの目を見る、グリーンの瞳。

「ステラ……」

 何の気なしにハイドラがつぶやくと、彼女はパタパタと師弟の方に歩いてきた。

「……もう、動いていいのか」

 ハイドラはそんなこと知っていたが、しかし変な気を回してステラに尋ねた。

「うん、元気。動いてないと落ち着かないから、パパとママに無理言って出させてもらってる」

 ハイドラは彼女の言葉の端に、ほんのちょっぴり棘を感じた。身に覚えは……あった。

「もしかして、行くの?」

「……ああ」

 案の定の答えに、ステラは眉間に皺を寄せた。

「急……」

「……」

 すると見かねた夫婦が、ステラに見送ってきていいと言った。ステラは不貞腐れ顔のまま頷き、エプロンをとって女将に渡した。


✳︎


「ねぇ、また来るよね?」

「多分……」

「多分?」

「……来ます」

「うん……」

 三人はルカオの残雪の道を歩いた。魔女は終始ニヤニヤしながら何も言わずに二人の会話を聞いていた。

「……俺、」

「ん?」

「俺も、隠さないよ」

「……。うん。嬉しい」

「変な感想だ……」

「あはは」

 そして、村の出口に着いた。開けられた丸太作りの門、ルカオの境界、リーサリオンタウンへと続く道の、その始まり。門の外はやはり針葉樹の森が広がっており、雪の上にはまばらな足跡が点々と遠く見えなくなるまで続いていた。三人は立ち止まった。

「……この辺まででいい」

「えっ……」

 ハイドラはステラから目を逸らそうとした、が___

「さよなら。もう村から出ちまブヘッ!!」

 ステラの両手がバチーンと、ハイドラの顔面を両サイドから思いっきり挟んだ。

「にゃっ……にゃにふんりゃ!!」

「素気ないのよアンタ!」

「ぶ、ぶぇぇ……!?」

 ステラは険しい顔をしながらも、言ってハイドラの顔を放した。するとハイドラの両頬に紅葉ができていた。魔女はそれを見て吹き出し、そして「先行ってるよォ〜!!」と言って全力疾走で森の道に消えていった。

 ステラは魔女に「ありがとうございまぁす!」と叫び、顔を真っ赤にしてキレ散らかした。

「あのねぇ!言わなくてもわかるのがあるのはわかるけど!!口に出して言ってほしいことがあるのもわかるでしょ!?カッコばかりつけて!この思春期っ!!」

「う……!」

「どうなの!?」

 声が、デカかった。

「わ、わかります……」

「じゃあ、言ってよ……!」

 ハイドラは内心とんでもねぇなと思いながら顔の紅葉をさすり、ステラの目を見た。グリーンの瞳が、薄らと潤んでいた。

「うぐ…………」

「……」

「す……」

「……」

「…………す」

「……」

「…………す、すき……です」

 無限にも思えるタメの果てに、紅葉も溶け込むほど真っ赤になった顔で俯きながら、ハイドラは蚊の鳴くような声で四文字を捻り出した。

「……地面に言わないでよ」

「……頼むもう勘弁してくれ」

「……」

「……」

「……しょうがないなぁ」

 ルカオの少女は、プルプル震える異邦の少年を抱きしめた。

「あたしも好き。また来るんだぞ」

「……へい」

 ステラはハイドラを解放した。そして彼女も真っ赤になった顔で微笑んだ。


✳︎


 ハイドラは今度こそ、ステラに別れを告げた。ステラも、今度はその言葉を受け入れた。「さよなら」ではなく「またな」、だったので。

 そしてハイドラが踵を返そうとした時、村の方からダッ、と誰かが二人の方へ駆けてきた。いがぐりの如き丸刈りの頭は帽子も被らず、寒さなんてへっちゃらだと言わんばかり。ジャックが走ってきた。

「おーい!」

「あれ、ジャックだ。おーい!」

「……」

 二人のもとまで来たジャックは、膝に手をつき肩で息をした。やがて落ち着くと、ハイドラの顔を見上げた。

「……」

「……見送りに来てくれたのか?」

「……そうだっ」

 ハイドラは目を丸くした。

「お礼を、言いに来た。ありがとよっ……姉ちゃんを助けてくれて」

 ハイドラはぽかんと口を開けた。ステラもハイドラと同じ顔をしていた。

「……もしも、」

 ジャックは続けた。

「もしも、また魔物が出ても、今度は俺が姉ちゃんを守る!それぐらい強くなってやる!お前よりも!」

「___」

 ハイドラは言葉を失った。誰かを守るために、強くなる。このガキは、その言葉の意味をちゃんとわかった上で言っている。ハイドラはジャックの顔を見て、なんとなくそう直感した。その背伸びの強さに、彼は微笑んだ。

「……はは。……絶対だぞ、ジャック」

「っ!もちろんだ!」

 ハイドラは嫌がるいがぐりを強引に撫でた。そして、とうとう踵を返した。

「……じゃあ、行くよ。師匠待たせてるし。二人とも、またな」

「またね」

「またな!」

 少年は二人に手を振り、ルカオの村を後にした。


✳︎


 五分ほど歩いたところで、ハイドラは魔女と合流した。

「青春羨ましー」

「うるさいですよ……ありがとうございます、気ぃ遣ってくれて」

「はは、気にすんな」

 雪の森を、師弟は歩いた。もす、もす、ぼす、ぼす、残雪を踏み締め、辺りに気を配りながら。

「……そういえば」

 ハイドラはふと、思い出した。彼が魔物の体内で火をつけた、あの手紙のことを。

「師匠、あの手紙なんだったんですか?」

「あっ、忘れてた!」

 魔女は急にハイドラの方を向き、帽子の中をまさぐった。

「えっ、どうしたんですか」

「むふふ……ちょっと待ってね……あった」

 魔女はにこにこしながら、帽子から黒いビロード張りの小箱を取り出してハイドラに渡した。

「?」

「開けてごらん」

 言われてハイドラが箱を開けると、中には小指の爪ほどの大きさの黒い光沢のあるぎょくが二つ並んでいた。ハイドラは片方を摘み上げ、「あっ」と声を漏らした。

「……ピアス?」

「そう。もうだいぶ過ぎてしまったけど、十五歳の誕生日おめでとう」

「…………あ」

 ハイドラは思い出した。自分の誕生日の日にちを。それは魔物に襲われてステラと死にかけた、あの日だった。

「えっ、師匠そんなのいつ知って、てか……ああそういうことか!」

 今までの師の妙な言動のあれこれが、ハイドラは一気に納得できた。

「本当はあの晩、料亭でお祝いしようと思って色々準備してたんだよ。……でも、余計なことだった、よな。ごめん……」

 魔女は申し訳なさそうにうなだれたが、ハイドラは首を振った。

「いや、そんなの師匠の謝ることじゃ……もう、俺もステラも割り切ったんで。今回のことはいいんです。何度でも言いますけど、師匠の落ち度だって元からないんですし」

 ハイドラは魔女の目を見た。オパールの瞳は、わずかに潤んでいた。魔女は愛弟子の言葉に頷き、それを拭った。

「……穴、開いてるよね?」

「……一応。アルセイラ人なんで、生まれてすぐの儀礼で」

 ハイドラはその黒い艶やかな玉のピアスをつけて見せた。

「……どうですかね」

「うん、似合ってる……!」

 師弟は、歩き出した。歩きながら、魔女は語った。

「その玉はね、オニキスって言うんだ。古くから魔除けの効果があると信じられていて……。なぁ、ハイドラ」

「はい」

 魔女は、言葉を選び選び、言った。

「……義指、とかも。すぐ作れるからな。私。長手袋とかも……。必要なら、遠慮なく言っておくれよ。あと、変なこと言うやつがいたらぶっ飛ばすし……」

 ハイドラはしばし呆気に取られたが、しかしすぐに師に微笑んだ。

「……ステラが、言ってくれたんです。誰かを守るために負った傷は、恥ずかしくなんかないって。守った相手が助かったんだから、この傷は負って後悔のない傷なんだ……って。ステラは、顔の傷を隠さないと言ってくれました。だから俺も、この傷を誇りに思うことにしたんです」

 ハイドラは指の欠けた火傷痕の左手を、右の手で撫でた。魔女はそんな弟子を見て、彼と同じ優しげな微笑みを浮かべ、「そっか」と納得した。


✳︎


 ジャックとともに来た道を戻りながら、あたしはハイドラ君のことを思い出していた。枯草色の野暮ったく伸びた髪に隠れた、自信なさげな目。いつもへの字に曲がった口。ぼそぼそ喋りで聞き取りづらい、ぶっきらぼうな物言いの声。それと、なんかちょっと後ろ向きで、情けなくて……優しくて、勇気があって。人並みに怖がりなくせに、それでも助けに来てくれた彼。知り合ってほんの二、三日の相手に命までかけてくれた。でも、そのくせ同じことされると、何かとんでもなく迷惑をかけたような顔するんだ、彼は。それに……いつも、どこか寂しそうだった。だから彼のことを見ていると、すごく心配になった。でも……違う、だからこそ、会えてよかった。彼のことを全てではないけど、知れてよかった。今度来た時は、もっといろんなこと、話せるはずだから。だから、会えてよかった。

 あたしは顔の傷を撫でた。右目の上から、口の左端へ。いやでも目立ってしまうだろう、けど。絶対に隠さないからね、ハイドラ君。君が助かってよかったって、あたし、思ってるんだから。

 そして、あたしは空を仰いだ。昼の明るい空には、白い雲と青空しか見えなかったけれど。夜はきっと星が彼を見守り、導いてくれるから。だからきっと大丈夫。

 あたしはきずを負った笑顔で、見えない星に笑いかけた。

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