第七話:アスタリスク(中編)

 ルカオの噴水公園。今の季節はその噴水も凍りつく。しかしその十分な面積の広場の、積もった雪が子供たちの遊び道具だった。村の宝たる子供たちの遊び場、そんな公園の奥。低い垣根の茂みを越えると、そこは鬱蒼とした森になっていた。師弟が特訓の場に選んだのとは、また違う森。そちらよりも僅かに仄暗く、その森はずっと続いていた。人の手の入らぬほど、遠くまで。

 だが、そのような森であっても、決して魔物が住みついているなどと言った話はなかった。はずだった。

『……。』

 太い首、歪な爪、大きな体、毒々しい体色のそれは、あまりにも場違いで___ゆえにこそ、魔物であるのだろうか。

 ルカオは、公園の裏の森にそれがいることを知らない。いつぞやの、ケテルナのように。


✳︎


 料亭でステラと話した翌日、雪が上がってもなお厚い雲に覆われた空の下、ルカオにて。ハイドラはあからさまに低いテンションで、いつもの村はずれの空き地で魔女との特訓に臨んでいた。

「ハイドラぁ〜、シャキッとしなさいよ。ったくもー。難しいオトシゴロなのはわかるけど、やる時ゃやるのが勇者ですからね」

「へい……」

「返事は」

「はい」

「よし」

 そんなこんなで準備運動と組み手を終え、魔女は再び人形氏を召喚した。人形氏はハイドラの方をチラリと見ると、少し遠慮気味に手を振った。

(人形が気を遣っている……)

 面妖な、と人形氏を眺めるハイドラの横で、魔女はさらに、帽子から鞘に収まった短刀を二本取り出した。

「今日は刺突の鎧通し。短剣を使うよ」

「普通の剣ではやらないんですか?」

「そっちはまだ。まずはこの技が最も真価を発揮できる短剣で覚えてもらう」

 魔女はハイドラに短剣を一本渡した。

「戦いの状況はさまざまだ。いつでもその剣を使えるとは限らない。その剣が有効とも限らない。だから出来るだけ色んな武器に通じておき、またそれらの使い手と相対した時の立ち回りも身につけるべし。魔術と格闘にこれ同じ。武器術もまた無限なり、だ」

「はぁ……」

 ひとまずは手本から、と言って魔女は人形氏に軽く触れた。すると甲冑の中身の材質が木から枕のようなものになった。魔女はそこから一歩半下がって短剣を抜き、構えた。

「いくよ」

 フッ、と魔女の体がブレると同時に、人形氏と魔女は組み合っていた。次の瞬間、人形氏の腕に魔女の腕がシュッと這って、その刃は甲冑と兜の隙間に入り込んでいた。そのままピッ、と魔女は横に短剣を振り抜き、人形氏は瞬く間に喉笛を掻っ切られてその場に倒れた。雪煙と共に、その傷口から羽毛が舞った。わずか三秒で負わせた、致命傷であった。

「……すげぇ」

 ハイドラは魅入っていた。魔女は弟子の素直な感心にふふんと鼻を鳴らした。そして人形氏を立ち上がらせ、氏から離れながらハイドラに短剣を抜いて構えるように言った。

「まぁ〜いきなりこうはできないと思うから、いつも通り手取り足取り___」

 その刹那。フッと魔女の脇を横切る枯草の風。魔女は目を見開き、瞬時に人形氏の方に振り向いた。鎧と兜の隙間、深々と短剣の鋒が抉り込まれて、そのままピッ……と振り抜かれた。

「……あれ?」

 やった当人が、目の前で舞い上がる羽毛に驚いた。ハイドラは、魔女とほとんど変わらない動きで、刺突の鎧通しをやって見せていた。

「でき、た……?」

「___。」

 これには流石に魔女も絶句していた。しかし、

「おおおぉぉ!すごいぞハイドラ!もう一回やって見せて!」

 魔女は興奮した様子で人形氏を起こし、二歩下がってハイドラに再度鎧通しを促した。

「は、はぁ……いきます」

 ハイドラの体がブレたと思ったその瞬間には、氏の懐に彼の姿。次の瞬間には刃は喉笛を捉えて、ピッと振り抜かれていた。

「……完璧だ」

 珍しく、魔女は手放しでハイドラを誉めた。舞い上がる羽毛と師の見慣れぬ拍手、そして何より、こんな技をなぜか一発でできた自分自身に、ハイドラは困惑していた。

「ふむ、じゃあこの技はもういいや。次」

 魔女はハイドラが鞘に収めた短剣を受け取り、自分のそれと一緒に帽子に放り込んだ。そして名残惜しそうに手を伸ばす人形氏を送還魔術でドロンと消し、改めてハイドラに向き直った。

「さて、はっきり言って予想外だったけど、まぁその分有効な時間が増えたのでいいでしょう。そしたら次は足運びやろうか」

「……今の話の流れなら、こっちの剣か他の武器術じゃないんですか?」

「順当に行ってれば明日はそうしてた。けど、今の見てわかった。君、ステップ極めれば相当強くなるよ」

「はぁ……」

「今から教えるのは回避技術の中でも結構な高等技。その名も『流転身』」

「技名とかあるんすか」

「今つけた」

「今つけたのかよっ!」

「冗談だ。……オホン、流転身は攻防一体の足捌きだ。その分リターンとリスク、両方高い。心して学ぶように」


✳︎


 そして昼、師弟が料亭を訪れると、やはり時間帯なので店内は賑やかで、四、五人の従業員らは忙しそうにしていたが、ハイドラたちを見てステラは手を振った。……が、ステラだけでなく従業員全員が「おっ」だの「むむ」だのと言って師弟を……否、ハイドラを注視した。

「なっ、なんだ……?」

 見慣れぬ事態にたじろぐハイドラだったが、しかしさっと現れた店主らしき中年の男がスマートに師弟を接客し、彼らを空きの席へといざなった。師弟の着席を見てステラはすすとハイドラに歩み寄った。

「ハイドラ君、食べ終わったら待ってて。一緒に行こ」

 うわ、逃げられねぇじゃん、と口の中で言ったハイドラだったが、しかしステラの毒気のない笑みを見て彼は顔をこわばらせることしかできず、また魔女は店主に何やら目配せとサムズアップをしていた。それをめざとく見ていたハイドラは、何やら妙な気配を察知して師に問いかけた。

「師匠、なんです今の」

「ん?いや別になんでも?」

「絶対嘘だ……」

 ハイドラは「何企んでんだ……?」と疑いの眼差しで師を見つめたが、しかし魔女は口笛を吹き、メニューで顔を隠してはぐらかした。やがて注文を聞きに従業員が来た。

 それから昼食を済ませた師弟は、ステラの言葉通り彼女が上がるのを待った。やがてピークが過ぎて、店内が閑散としてきた頃、グリーンの防寒着を着込んだステラがやってきた。

「おまたせ!じゃあ行こ!」

「……はぁ」

 ハイドラは仕方なしと言った感じで立ち上がり、背もたれに掛けていたコートを掴んだ。

「いってらっしゃいお二人さん」

 魔女は生暖かい笑みを顔に貼り付け、料亭を後にする二人を見送った。

 ステラの案内で、公園を目指すハイドラ。しかし筋金入りの思春期男子は、この期に及んでまだ不貞腐れたような顔をしていた。

「あはは、なんかカタいよ、ハイドラ君」

「……ああ、うん。まぁ」

「……もしかして、やっぱり迷惑、だったかな」

「迷惑、ではない。ただ……」

「ただ?」

「……あんまり慣れてない、かな」

「なんだ、そんなことか」

 ハイドラの横を歩きながら、ステラはぽん、と胸を叩いた。

「大丈夫!最初は誰だって、何だってそう!やってりゃ慣れる!はず!」

 その言葉に、ハイドラは目を丸くした。そして、笑みをこぼした。

「あっ!笑ってくれた」

「……ああ、頼もしい」

「あはは、よかった」

 ハイドラはなぜか懐かしい気持ちになった。

 そんな調子で二人はサクサクと、しかし転ばぬように積雪と霜の道を歩いて、やがて例の凍った噴水の公園にたどり着いた。

「あっ!ステラお姉ちゃんと昨日のお兄ちゃん!」

 雪だるまなど作っていた子供たちが、門のところの二人を見つけて駆け寄った。

「みんなよかったねー!お兄ちゃん来てくれたよ!」

「やったー!また雪合戦する?」

「雪だるま高くしてー!」

「かくれんぼー!」

 子供たちがわっとハイドラたちのもとに集まったその時___

「ぶ___」

 ハイドラの顔面が、再び雪まみれになった。ハイドラを相手に二度も同じ攻撃を成功させた彼の名は___

「こらージャックー!」

 脱兎の如く逃げ出す丸刈り坊主を、ステラは追いかけた。

「へへーん、誰が捕まるか!」

 ハイドラは顔の雪を払い落とし、捕り物の一部始終を眺めた。足を取られそうな雪と氷の公園を、雪国の子らは何ら危なげなく駆け回っていたが、

「うわっ」

 油断した丸刈り坊主がつるりと足を滑らせ、ひっくり返ってそのままハイドラの足元までゴロゴロと転がった。やがていがぐりの如き回転は止まり、見下ろすハイドラと、ジャックの目が合った。

「……よぉ、ジャック」

「……ふんっ!」

 隙をついて第三の命中を狙ったジャックの放った雪玉は、しかしハイドラの首傾げによって難なく避けられた。ハイドラは大人気なく見下ろしたまま、勝ち誇った顔でジャックに言った。

「……流石に、不意打ち以外は当たらないな」

「く、くっそ〜!勝負だお前!」

 そしてルカオの噴水公園にて、雪合戦大会の第二陣、戦いの火蓋が切って落とされたのであった。ジャックとステラ、それとジャックと同い年くらいの子たち三人を合わせた五人のチーム。対するはハイドラと四人の子供たちのチーム。公園の門側と奥側に分かれて、両チーム白熱の試合となった。


✳︎


「あぁ〜……疲れた」

 徐々に日も傾き始めた頃、子供たちの体力の恐ろしさを味わい尽くしたハイドラは、ぐったりした様子で冷やっこい噴水の淵に腰掛けていた。旅の日々、毎日の修行で体力にはかなり自信があった彼だったが、しかし修行と遊びでは使う筋肉も運動ペースも全く異なり、また小さい子らの自由に跳ね回る様に翻弄されたのであった。三、四時間にも及ぶ激闘の末の感想、チビども恐るべし。そう思いながらふと目をいがぐりにやると___

「ふんっ!」

 何となくそう来るかなと思っていたハイドラは雪玉を片手で軽々受け止め、それをジャックに投げ返した。

「ぶ___」

 逆にジャックの顔が雪まみれになったのを見て、子供たちはドッと笑った。

「く、くっそ〜!くそくそくそ!」

「もー、そんなにクソクソ言わないの」

「だってよーステラ姉ちゃーん!」

 少し涙目になったジャックは、ステラとハイドラの顔を交互に見ると、その僅かな涙を拭い歯を剥いて、ハイドラに「イーっだ」と年相応の捨て台詞を吐いた。そしてそのままばっと駆け出し、公園の奥の茂みを飛び越えて行ってしまった。

「あっ、こら!もう、あの子嫌なことあるといつもああして森まで行っちゃうのよ」

「……ああいうのは、構って欲しいってことだ」

「!___あは!なんだ、そういうのわかるんだ!」

 ステラはハイドラに笑いかけた。

「もしかして、意外と好き?子ども」

「……どっちかというと苦手。ただ……俺も結構ああいうタイプのガキだった。年上の気を引きたがるガキ」

「そうなんだ、意外!」

「……いいから、そろそろあいつ追いかけてやんなよ」

「うん、もう暗くなっちゃうしね。みんなー!おひらきー!」

 ステラの号令で、子どもたちは素直に帰り支度を始めた。

「じゃあ、あたしジャック連れ戻したら、またお店にいるから!また後でね」

「……ああ」

 その時、手を振り立ち去ろうとするハイドラを、ステラは思い出したように呼び止めた。

「あっ、待って」

「なんだ?」

「魔女さんからの伝言。『宿より先に料亭に行っちゃダメだよ』って」

「……何だそれ?」

「さぁ……」

 それだけ言ってステラは踵を返した。

「それじゃ、また後でね!」


✳︎


 言われた通りハイドラは真っ直ぐ宿に帰った。すると、受付の男___おそらくジャックの父___が彼に声をかけた。

「おお、兄ちゃん。あんただったよな、とんがり帽子の姉ちゃんのツレって」

「……ええ、まあ」

「よかったよかった。帽子の姉ちゃんからメモ預かってんだ。ほれ」

 ハイドラは男の太い指に挟まれた四つ折りの紙を受け取り、開いて中を読んだ。

『ハイドラへ 

 十八時に料亭に来てください

 部屋に着替えなどを用意したので、出来るだけキレイな格好でね

 でももし、早く来たり遅れたりしたら明日の朝練をいつもより二時間早く始めます 

 超若くて美人なお師匠様より』

 ハイドラは無表情で紙をくしゃくしゃに丸めポケットに突っ込みながら、チラリと時計を見てまだ余裕があることを確認し、男に礼を言って部屋へと戻った。部屋には確かにタオルと水が張った桶、それと着替えが置いてあった。ハイドラはそれらで身支度をしながら首を傾げた。先のメモといい、この準備といいなんなのだろう、と。ハイドラはメモを取り出し、改めてそれを見ながら考えた。思えばこのところの魔女は妙なところがあった。急に自由時間などを設けたり、何か料亭の従業員とコソコソしていたり、他の村や町に泊まった時にはこんなことをしていたことは一度もなかった。

(何企んでんだ?師匠)

 結局それらしい答えなど思いつかぬまま、ハイドラは身支度を終えた。いつもの麻のシャツとズボンだが、小綺麗にされたそれは清潔感に満ちていて袖を通して気持ちよかった。ハイドラは机の方を見た。コートまで、新しいものが置いてあった。雪遊びで水を吸い汚れてしまうのを見越したのだろう、やけに気がきく、そう思いながら、ハイドラは素直にその厚意に甘んじてふっくらと乾いたコートを手にした。そして床に置いていた剣をベッドの横に立てかけ、再びくしゃくしゃにしたメモをポケットに突っ込み、彼は部屋を後にした。

 そしてロビーを通ろうとしたハイドラだったが、ふと、ジャックのことが気になって受付の男に尋ねた。

「ああ、倅が世話んなってるね。いやぁ俺も手ェ焼いてるよ!誰に似たんだか威勢ばっかよくって、迷惑かけてねぇといいんだが」

「まぁ、子どもなんて多かれ少なかれ周りに迷惑かけて育つもんでしょ……それより、まだ帰ってないんですか?」

「そうだな、ちと遅いが……けどいつもステラちゃんが面倒見てくれてるからな!あの娘に任せときゃ安心だ!ついでに倅の将来も安心だ!」

 がっはっは、と笑う男に「そうですね」と愛想笑いしたハイドラは、そろそろ約束があるのでと宿を出た。

「ふぅー……まだ帰ってないのか」

 ハイドラは白い息をスゥと吐いて料亭への道を一人歩きながら、流石に心配していた。ジャックは太々しいヤツだが、しかしまだ年幼い子どもだ。森に行ったとのことだったし、なおさら危なくないか、と考えたところで、ジャックが帰ってないということはステラもだ、というところに彼は思い至った。

(……本当に大丈夫か?)

 ハイドラは自分でもよくわからなかったが、その胸騒ぎに僅かな覚えがあった。何か、最も忌まわしい類の、そういう予感___そして、その忌まわしさの由来に気づいたところで、彼はふと顔を上げた。声が聞こえたのだ。

「!」

 ハイドラはばっと振り返った。見ると、ハイドラの後方遠くから、ジャックがこちらへ向かって走っていた。ひどく慌てた様子で「助けて!」と叫びながら。

「っ……!」

 ハイドラは居ても立ってもいられず、ジャックの方へと駆け寄った。

「どうした……!」

 ジャックはハイドラの顔を見ると、何かを伝えようとしたが、しかし息が上がって思ったように喋れないでいた。

「落ち着け……!まず息整えろ……ゆっくり深呼吸するんだ」

「ねっ、ね……んぐっ、姉ちゃんが」

 ジャックは震えながら、途切れ途切れの言葉を紡いだ。

「姉ちゃんっ、っが、襲われてるっ、魔物っ!」

「!?」

 ハイドラはドクンと心臓がざわめいたのを感じた。そして即座に、どこで襲われたのか聞いた。

「も、森……公園の、裏の。俺……おれ……こわくて……」

「公園の裏の森、だな?よし___」

 すぐに駆け出そうとしたハイドラだったが、しかし思い立って、小走りになりながらジャックに叫んだ。

「料亭に行け!黒い服着た三角帽子の女がいる!その人を呼んでこい!」

 それだけ言って、ハイドラは公園に向かい全力疾走した。___剣も、持たずに。


✳︎


 ___時を遡ること十分前。

 ジャックは木々の間をすり抜けて、足跡一つない雪の中をもすもすと進んでいた。その後ろの、ぽつぽつとした足跡を追ってステラも森に入っていた。

「はぁ……はぁ……なんなんだよあいつ……!」

 ジャックは走りながら、あのハイドラとかいうスカしたヤツに対する怒りとも悔しさともつかない気持ち……というより、一言で言えばステラへのヤキモチを持て余していた。普段よくしてくれる、近所に住む彼の姉の如き人は、しかしその優しさゆえに余所から来た子にも親切に接していた。ジャックはいつも、それが気に障った。自分にだけ優しくしてほしい、そうは思うが、しかしそう言い出すわけにもいかない彼は、もっぱらその余所者に悪戯するくらいのことしかできなかった。

 今回もそうだった。だが、なんだろうか。ジャックは感じていた。ハイドラ……アイツは普通の余所者とは違った。何が……。多分、ステラの態度が。それが何より、ジャックにとっては許せないことだった。ステラには自分だけの、姉でいてほしい。あんなヤツに取られるなんて嫌だ。そういう思いで、彼はいつものように公園裏の森に入っていた。こうすれば、いつもステラは自分を連れ戻しにやってきてくれるから。ジャックにとって、これが何より嬉しいことだった。

「はぁ……はぁ……!」

 風は肌を切る冷たさだった。だけどそんなのへっちゃらだと、ジャックは進んだ。耳を澄ますと、自分の以外の足音が聞こえた。後ろから……ステラの!右前から……右前から?

「えっ……?」

 ジャックは立ち止まった。するとすぐに、「ほら、捕まえた」とステラがやってきた。

「もう、帰るよ」

「姉ちゃん……あれ……」

 ジャックが震える手で指差した。ステラは「なぁに?」とその指差す方を見て、目を見開いた。そしてすぐに、ジャックを自分の後ろにやって静かにつぶやいた。

「___逃げなさい」


✳︎


 もうすぐ日暮れだ……。どこだ……どこだ……。俺は荒い息を吐いては吸って、森の中を走っていた。ぼつぼつと続く足跡。雲越しの斜陽が雪によって白飛びしたようになって、それに木々の影が薄暗く、視界はすこぶる悪かった。だが、追跡は問題ない。深く注意すれば、その足跡はくっきりとしていて辿るのは容易だったからだ。

 だから、無心に走り、探した。少しでも彼女の生存率を上げるため。最悪の事態の想像を掻き消すため。瞬きも忘れるほどの集中で、血眼になって、俺は探した。

「ステラぁあーーーー!!!」

 叫ぶたびに冬の冷たく乾いた空気が喉に刺さった。勢いよく吸い込んだ冷気で、肺が凍てつきそうだった。だが、叫ぶのも走るのも俺はやめなかった。絶対に嫌だった。こんな、アーランの二の舞みたいな状況で、絶対に死人を出させたくなかった。それが全てだった。

「はぁ……!はぁ……!……っ!!」

 目と鼻の先、開けた場所を見つけた。そこへ、足跡は続いている。明らかに、乱れたそれがぼすぼすと。俺は死に物狂いでもがきながら、その先を目指した。そして___

「ステ……っ」

 パッ、と、飛び散る鮮血。どうしようもなく赤かった。思わず飲んだ息が、その冷たさが、ドクンと俺の心臓を激しく揺さぶった。目の前で、ステラの体が吹っ飛んだ。

 木立を抜けた俺は森の中の狭い雪原に出た。そこで……見たことない魔物とステラがいて。魔物の払った手が、ステラを弾いていた。吹き飛んだステラは激しい音と共に頭を木にぶつけ、そしてその木の根元にうつ伏せに倒れていた。

「はっ……はっ……」

 呼吸が……おかしい。静まらない。なんで。そんなの決まってた。目の前で最悪の状況が広がってたからだ。俺は木の根元に伏せるステラを見た。魔物が腕を払った時、ステラは両手で頭を守っていた。だが……。

「……おい」

 だが、ステラの左腕が、肘の先から変な方向に曲がっていた。肩と腕が裂けて、さらに木に打った頭からも、ひどく出血していた。

「おい……!」

 弱々しく、彼女の体は上下していた。息はかろうじて、しかし、よく見なくても危ない状況だった。すぐに医者に……いやそれより師匠に見せないと……!

「おい……何してくれてんだクソ野郎ッ!!」

 俺は剣を抜こうとした。だが___右手は、すかっ……と冷えた空気だけを掴んで、俺はその虚な感触にぶわっと冷や汗をかいた。剣を、置いてきてしまった。瞬間、脈拍がイカれた勢いになり、酸欠気味なのもあって、俺はこめかみのあたりに激しい痛みを覚えた。

「はっ……!はっ……!」

『もおぅ?』

 魔物が、こっちを見た。深い紫の、毒々しい色をした巨体。二足で立った熊を思わせる大きさとシルエットのそれは、しかし熊のような丸い耳などついてはおらず、ぬるりとした頭には目鼻口を思わせるだけの穴ぼこが開いているだけだった。そして太い首と、太い腕。腕の先には、ステラの肩腕を裂いた歪な爪が、血に濡れていた。そして、ドスの効いた濃い魔力を纏っていた。

「うっ……うぅ……」

「っ!」

 ステラは苦しそうに呻きながら、なんとか立ちあがろうとしていた。同時に、魔物も動き出した。魔物はのろく、俺とステラのどちらから先に手をつけようか迷っているように見えた。だが俺は___本当に嫌気がさすのに___この状況でバカみたいな速度で回転するだけの脳みそで、思考の濁流に飲まれていた。目の前の景色の数千倍速の脳内世界は、俺に大量の情報と自問自答をとめどなく押し付けてきた。

 目の前でステラが襲われてる。助けないと。

 魔物。今まで見たことないタイプ。人型に近い。濃い魔力を纏ってる。間違いなく強い。

 ジャックに師匠を呼んでくるように言ってある。勝てなくても時間を稼ぐだけでいい。

 時間稼ぎなんてできるのか?

 けど剣はない。

 武器になりそうなもの……周りは雪ばっか、木の枝くらい。

 ポケット……さっきの師匠の手紙だけ。

 魔術……しょぼい火しか出せない。

 素手?こんな化け物相手に?

 殺される。

 死ぬ。

 恐い。

 鼓動が速くなっていく。耳の中でドクドク響いて、やけにうるさい。

 死ぬ。俺が死んだら、あの子も死ぬ。

 ステラ……ひどい傷だ。でも、まだ生きてる。でも、放っておいたら死ぬ。

 ……俺が死んだら、勇者の後継が、終わる。

 …………逃げる?……俺だけで?………見捨てる?

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………待てよ。

 それだけは、やっちゃダメだろ。

 それやったら、二度とアーランに顔向けできなくなるぞ。

 ……。

 …………決めた。

「ぁあ……あぁああああァアアアア!!!」

 俺は恐怖を振り払うため、そして魔物の注意を引くために大声を上げ、ヤツに向かって走り出した。そして効くかはわからなかったが、とにかくヤツの気を引くためにそのブヨブヨとした紫の腹を殴りつけた。

『もぉうん?』

 絶対に効いてなかった。

「……ッ!!ざけんなっ!!!」

 もう効くかどうかなんて二の次で、テンパりかけていた俺は習いたての鎧通しを、鎧なんか着ていない魔物に叩き込んだ。魔物の腹はぶよんとして、明らかに衝撃という衝撃を吸収していた。

『むぉう。』

 ブン___と腕が振り上げられたのを感じて。俺は咄嗟に跳び退った。鼻先を掠めた死の爪先は、しかし空を切っただけに終わったかに見えたが、しかし___

『むぅん、むぅん。』

 魔物の攻撃は執拗に、俺を殺すために振るわれ続けた。真横に、袈裟に、上から、左右から、頭や胴を狙って、その殺意の生々しさと言ったらなかった。俺はそれらを間一髪で避け続けた。

「うぅ……はい、ドラ……くん」

「ステラっ!!」

 俺はステラに逃げろと叫んだ。助けは呼んであるから、俺が引きつけているうちに逃げろと。だが、ステラはふるふると震えてそこから動けないでいた。

「ステ___」

 ガッ、と踵が鳴った。体幹が、傾いた。ステラの方に意識をやった、その瞬間。俺は思い出した。無意識すら制御しなければ死ぬのが、自然の摂理。深い雪に隠れた木の根。足を取られて、俺は体勢を崩しかけた。その瞬間にも、魔物の爪は俺の命を取りに迫り来る。間に合わない。回避の無理を悟った俺は、咄嗟に右腕でガードの姿勢をとってしまった。

「しまっ___」

 穢らわしい爪が、俺の腕の肉を裂いた。トマトをフォークで引っ掻いたように、血が噴き出した。そしてステラと同じように、俺も吹っ飛ばされた。

「ぁあぐっ、がっ、あぁ……っ!」

 俺はその膂力に転がされ、雪原にバッと血糊を撒き散らした。痛み……は、実際のところそれほどでもない。いや、違う。あまりの痛みに、脳が大量の麻薬物質を出して騙しているんだ。ここで、終わらないために。

 俺は獣じみた息を吐きながら、その傷口を見た。肉がばっくりと抉れ、何か白っぽい……ああ、骨が。右手はもう、ビクビクとするだけで言うことを聞かなかった。

「ステラぁ……ハァ……ッ、逃げろ……!」

「お、置いて行けるわけ……!」

「それでも行けッ!!!」

 俺はなんとか立ち上がって、魔物を睨んだままステラに叫んだ。もう、「どっちかが助かる」しか道はなかった。そんなの、ステラにだってわかってるはずだった。お前もそう思ったから、ジャックを逃した。俺は、そんなお前の真似をしてるだけだろ。そう思いながら、けれどそこまで言う余裕なんかなかったから、俺はまた犬のように吠え声を上げて、まだ生きている左手で魔物の間抜け面に雪玉を投げつけた。

『もゎぉ?』

「こっちだデカブツ!」

 そして、さらに深い森の中へ。できる限り、あの娘からヤツを遠ざけるため。頼む、お前はあの子のアーランになるな……頼むから生きて帰れ。俺はそれすら彼女に言えず、魔物を連れてひた走った。


✳︎


 気管が、肺が、焼けてしまいそうなほど凍えていた。凍えた肺から、熱を奪う空気が、身体中を駆け巡っていた。そんな冷えゆく血液すら、傷口から熱と共にとめどなく溢れていって。俺は暮れの森を走っていた。逃げる、逃げる、背後の死から、逃げる。けれど、その逃げる先にあるものも、また、死。俺はもう、恐怖でまともではいられなかった。なんだか、変な笑いも込み上げてきた。今日の午前は師匠と修行デート。その後昼過ぎガキどもと雪遊びデート。そして暮れ方、魔物とデート。思えば一日中、ハードな運動ばかり、しまいにゃ汗じゃなくて血ィぶち撒けてる。

「はっ、はは……はは……ぐすっ……」

 ただでさえ視界は朦朧としはじめてるのに、涙まで出てきた。死ぬんだ。恐い。俺、今まで甘えてたんだ。師匠がいて、絶対に危ない時は、いつも助けられてた。そんで、師匠がいなくてこのザマ。ベソかきながら、敵から敗走してるよ。まるで小さなガキだ。___なんで、こんな惨めなヤツが勇者なんて大層な役割を継がなきゃならないんだろう?絶対に間違ってる。俺は……俺だけは……違うじゃん。俺はアーランのすぐ後ろを歩いてるだけで幸せだったんだよ。それだけが生き甲斐だったんだよ。なのに、ああもうなんでだよ。もうアーランいねぇよ。もう俺も死ぬよ。

 最悪な人生だ。なんか、あの日のことを思い出してきた。アーランが死んだって聞いた時、マジで信じられなかった。でもあいつの死に顔見せられた時、なんかストンときて、そんですぐ死のうと思って。でも半日もしたらなんか何もしたくなくなってきて、死ぬ気すら失せて。気づいたら勇者の後継にされてて、心ボロボロで。そしたら……墓場で師匠と出会って。……師匠と出会って、俺、変われると思った。のに。

「ぁぁぁああぁあぁああ……」

 嗚咽を漏らしても、後ろから、どすどすとクソうるさい地響きと足音が聞こえた。ちゃんとついてきてるよ、畜生。正直ほんのちょっとだけ後悔してた。久しぶりに同世代の女の子と仲良くなって、カッコつけてる自分がいた。そんで、何となくあの娘、アーランと重なるところまであって…‥そこまで行って見捨てられるわけもなかった。

「くそったれぇぇえええ……!」

 こんな一日中暴れ回った足で、まともに走れるわけなんかなかった。もつれもつれの俺の歩幅は次第に短くなっていき、それに比例して魔物の足取りが、息遣いが、近づいてきた。

『もおぉう!』

 ___ヤバい。そう思った俺は、ふっと体の力を抜いた。どろりと液体のように倒れゆく体。そういう回避術を、結構前に師匠から教わっていたのが、無意識のうちに今出てきた。それで、本当なら今俺をぶっ殺すはずだったその一撃は、内臓まで届くことなく、俺の背を浅く抉っただけにとどまった。

「……っ!!!」

 早く、立ち上がって走らないと。そう思ったのも束の間、とうとう魔物の馬鹿デカい手が俺の首根っこを捕まえた。

「ぐっ……!」

 まずい、絞められる……!生きてる左手で反射的に魔物の手を掴み返したが、しかし握力は万力の如き圧迫で俺を捕らえてびくともしなかった。もう何も考えられず、完全にテンパった俺はいつもの癖でその掴んだ左手に理論の熱を送った。すると、いつもの情けない火が灯った。だが___

「……っつ!!」

『むぉおん!!』

 魔物が、手を放した。俺は雪の上に転がされ、左掌の熱さに悶えた。

「っちぃ……クッソぉ……あれか、火の魔術の延焼……」

 見れば、熟々とした火傷が左掌全体に広がっていた。野太い声で喚く魔物の手にも、くっきりと俺の手形の焼け跡がついていた。いつか師匠に忠告されてたっけ。火炎魔術は、魔力以外の燃料を加えると術者も焼くと。そしてその分、火力は増す、と。ヤツの肌を燃料に……。

「ははっ……だから俺の火なんかで、こいつこんな痛がって……」

 自虐も含めて思わず半笑いになった。しかし___

『ぶぉおおおおお!!!!』

 魔物が、手を振り上げていた。明らかにブチギレていた。俺は逃げようと、立ちあがろうとした……が、もう両手ともにイってて。足は痺れ出して。浅いはずの背の傷がやけに生暖かくて、腕の傷を脳が騙しきれなくなってきて。___ああ、終わった。そう思った。___のに。

「___っ!?」

 誰かが、俺と魔物の間に走り込んできた。そしてそいつは魔物に立ちはだかるようにばっと両手を広げて___左腕が折れてて___そして、魔物の振り下ろされた爪に、顔面を切り裂かれて、血ィ噴き出して、ぶっ倒れた。

「あっ……あ、あれ?すてら?おい……おい……!ステラ……っ!!」

 バクン!と心臓が跳ねた。脳に電気が、足に電気が、身体中稲妻に打たれたような衝撃が走って___俺は目を見開いた。

「おい、おい!何やってんだよステラ!!起きろ!おい___」

 嘘だ。

 すぅ___……と、何か嫌な落ち着きが心を満たした。

 こいつ殺さないと。

 俺は悲鳴を上げる体を無視して立ち上がった。立ち上がるまでのわずか三秒弱の間に、全てを考えた。目の前の薄汚ぇ肉の塊に、生まれたことを後悔させる方法を。俺にできる、償いの全てを。自罰と私刑の、その一手を。

 殴ったところで意味は皆無。

 あの太い首には絞め技も効きそうにない。

 その時、手の火傷がズキンと痛む。

 ___火。さっき、奴は俺の大したことない火に怯んでた。……一応効く。

 けれど、さっきみたいに正面からでは、俺のすかしっぺみたいな火ではとても致命傷には。

 ___なら、「内側」から。あの節穴みたいな口はそのための穴に決まってる。

 ___そして思い出す、師の教え。火の魔術は、燃料を足せば火力を増すことができる。けれど、そうして術者の魔力以外で燃えた火は術者自身も焼く。

 ……ああ、師匠。教えてくれてありがとう。そして、素敵な手紙をありがとう。

 俺は爛れた左手をポケットに突っ込んで、グチュと音を立てながらそれを握り込んだ。___宿で丸めた、師匠からの料亭での待ち合わせの手紙。俺の今の持ち物で唯一の、乾いた可燃物……!

「おい……」

 俺は魔物の穴のような目を見た。そんな何の意思もないような目で、この娘を見るなよ。俺はそんなことを思いながら、魔物に飛びかかった。妙に、体が軽かった。変な覚悟のせい?背負ってたもん捨てたせい?それとも?……いや、何でもよかった。

『ぼぉおおお!!』

 魔物は喚き、骨の見えた腕で組み付く俺の腹を、その返り血まみれの手で掴んだ。爪が腹の柔らかいところから刺さって、やっぱり血が噴いて、腑に汚らしい感触が来て。それでも。それでも俺は血反吐を飲んで、魔物の穴ぼこみたいな口に、爛れた左手を肘まで突っ込んでやった。

「……俺の勝ちだ」

 俺は脳裏に、燃え盛る炎をイメージした。そしてその理論を刻み建て、魔力を掌の火傷に集中した。刹那___火花。

『ぼっ……ンごボッッッ!!!ぉぼ………』

 極まった冷たさにも錯覚するような、激しい熱が俺の左腕を刺し尽くして。それと同じだけの熱を、魔物は食道から胃へ、消化器を焼き尽くして他の臓腑へ……心臓へ、もたらされて。ヤツは口と鼻から白煙と黒煙の両方を上げた。焦げた肉の臭いが、雪の森に立ち込めた。やがて___

『もぉぉっごぽっぉおぉお……。』

 魔物は、断末魔と血反吐をぶち撒けながら仰向けにぶっ倒れた。

「がっ……」

 同時に俺も、魔物の体から落ちた。そして、魔物の巨大な死体は黒い塵となって、ひゅうと吹いた北風に吹かれて散った。

「ぜぇ……ぜぇ……はぁ……ぁぁ……」

 痛いとか、そういうのじゃなかった。感覚なんかなかった。ただ動かなくなった自分の腕からする、焦げ臭さと嫌な香ばしさ、その不快さと来たら。赤黒く爛れた左腕を見た俺は、おもむろに立ち上がろうとした。力が入らない。ああ、でも、立たないと。俺はほとんど死体のような血まみれの両腕を、つっかえ棒のように無理やり使って立ち上がり、後ろに振り返った。

 ひた、ひた、ぼそ、ぼそ。おぼつかない足取りで、ステラの亡骸に……ああ、動いた。よかった。まだ生きてた。

 ステラに、近づいた。血が、止まらなかった。俺も、ステラも。ステラの周りの雪が、血が染み込んで薄く溶けて少し低くなっていた。俺の動いた後の乱れた雪も、べっとりとした血糊で溶かされてボツボツ凹んでいた。

 ああ……くそ、助けたかったなぁ。そんなことを思いながら、俺はステラのすぐ隣に倒れ込んだ。

「ぶっ……ぶはっ……はぁ……」

 流石に雪に突っ伏すと息苦しくて、俺は仰向けになった。頭がステラにぶつかった。

「……わり」

「ううん……」

「……喋んなくていい。出来るだけ、安静に___」

「___もう、意味なくない?」

「___。」

 声うわずってるくせに、はっきり言いやがる。でも、その通りだった。俺は薄ら笑いで肯定せざるを得なかった。

「へへっ……はぁ……うん。そうだな」

「……あはは」

 もう、笑えばいいやって気持ちになった。

「はぁ……なぁ、なんで逃げずに、こっち来た?」

 決して、責める気はなかった。ただ、その答えを知りたかった。ステラは少し黙った後、「わかんない」と答えた。

「……わかんない。最初は足がすくんで、動けなかったの。でも、君があたしを助けるために、アイツに、殺されちゃうって、考えたら……」

 俺は黙って、ステラの言葉を聞いた。

「……気づいたらあたし、走ってて……気づいたら、ああしてた。……ごめんね、せっかく逃して、くれようとしたのに……無駄にしちゃった」

 ああ、やっぱ同じようなもんなんだな、人間って。俺はため息とも納得ともつかない息を吐いて、「別にいいよ」と答えた。

「……いいよ。助けてもらっといて死ぬのは、お互い様だろ。……俺も、ここまでしてもらっといて、ダメそうだから……。ごめん」

 口に出すと、無性に申し訳なく思えた。俺たちは、互いのために命を無駄にし合ったんだ。___ああ、馬鹿みたいだ。

「___あはは……。やっぱり、死んじゃう……よね。あたしたち」

「……」

 俺は沈黙で肯定した。そして、ふと空に意識を移した。もうほとんど夜になりかけていた。冬の澄み切った空気を通して輝く、星が一つ、霞む視界ですらはっきりと見てとれた。

「……星が」

「ん?」

「星が、よく見える」

「……ほんとだ。宵の明星、だね」

 俺たちはしばらく、何も喋らず星を眺めた。冬の森の夜のはじめ、聞こえるのは、互いのかすかな呼吸だけ。

 不意に、ステラが呟いた。

「……ねぇ、よかったら、キスしてくれない?」

「……なんで」

 シンプルに意味がわからなかった。なんで今?するとステラは、照れ臭そうに笑いながら言った。

「ファーストキスもできずに、死んじゃう人生なんて、やだ」

「……」

「それとも、あたしとじゃ嫌、かな……あはは」

「……俺も、誰ともキスできずに死ぬのは嫌だ」

 ああ……もうどうせ死ぬんだから、最後にちょっとくらい、いい思いしてもバチは当たらないだろ、と俺は半ばヤケクソ気味にその提案に乗った。正直嬉しかったが。

 俺は感覚のない両腕の最後の力を振り絞って体を起こし、ずずと這った。そして彼女の頭の横に肘をついて、彼女の顔を見下ろした。彼女の顔は、右目の上から口の左にかけて痛々しい大きな裂傷が走り、血でひどく汚れていた。グリーンの瞳に映った俺の顔の汚れ具合もまた似たようなものだった。

 俺は乾きかけの血で汚れた唇で、ステラに口づけした。二人の唇が離れると、赤い唾液が糸を引いた。

「……あはは、鉄の味がする」

「……くっ。ははっ、そりゃそうだ……!」

 ……血反吐吐きましたから。俺は気恥ずかしさを悟られないよう、必死に顔を力ませながら、ステラの上から退いて、その隣にまた横たわった。そして、俺も一つ提案した。

「……なぁ」

「なぁに?」

「手ぇ、握らないか……」

「うん、いいよ」

 俺は差し出してから、出した方の手が火傷でグチャグチャの方だったのを思い出したが、しかしステラは嫌な顔ひとつせず、俺の焼け爛れた手を握ってくれた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 ___ああ、いよいよ……だ。俺は遠くに眠気を感じて、震える声で、最後に正直な心を吐露した。

「……一人で死ぬのが、怖い」

「……奇遇ね、あたしも」

「……どっちか死ぬまで、握ってないか」

「……うん」

 ___。


✳︎


 薄れゆく意識の中で、その手にとった互いのかすかな温もりだけが、二人にとって唯一の救いだった。

 そして、二人は目を閉じた。

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