雨谷 雫と「シャワールーム連続猟奇殺人3」

 -「心の雨宿りクリニック」にて-

「雨谷 雫は、恋人の夢を見た」


 日が差している。真っ白なカーテンに透かされているような、その光は、今が穏やかな昼下がりだと知らせてくれる。

 枕のように組んでいた自分の腕から、雨谷は顔を上げる。白昼夢を見ていた感覚だけが頭の中でこだまして、意識は薄氷に覆われていた。感情が不確かなまま、開いた瞳に差す日光から顔を逸らす。

「起きた?」

 彼の声が聞こえた。遠い時を隔てようとも耳から離れない音色であり、耳を塞いでも聞こえる心の振動である。それは恋人の声だ。

 彼は恋人だった、──そう思い出す。雨谷は腕を突っ張って起き上がる。彼は、雨谷が寝ている姿をじっと見ていたようで、穏やかに笑顔を浮かべる。

「太陽くん......」

 上白沢 太陽と雨谷 雫。

 彼が「超自我」に収容される前、最後に顔を見合わせた時、彼の顔は血に塗れていた。遺そうとしてくれた言葉も、見せようとしてくれた表情も、血が覆い、雪が攫ってしまった。彼との別れは吹雪に飲まれ、雨谷はそれ以来、その笑顔の暖かさに焦がれている。

「また......?」雨谷は問いかける。小鳥のさえずりのような、なきごえが聞こえた。雀が流すような涙が流れる。

「うん、会えないみたい」彼は静かに伝えて、雨谷の髪を撫でる。

 積み上げた石を足蹴にされた子供のように、幼気な愛情が弾ける。張り詰めた水が、途端に器から溢れ出した。えんえんと泣いて、慈悲を乞うが、雨谷には彼と会うことが叶わない。彼は、それを伝えに来た。

「ごめんね」彼が謝る。

 乞い、願い、謝罪する。どこまでも誠実であればあるほど、慈悲は訪れがたい。離別の辛苦にも、喪失の虚しさにも、それは訪れない。慈悲とは、救われるために見出してきたものであり、見出されなければ存在しないものだ。

「......ううん。大丈夫。太陽くんは、元気? 辛くない?」

「うん。大丈夫。雫ちゃんが、元気なら」

「元気だよ、心配しないで」

 空っぽの元気どうしで満たし合うと、胸がいっぱいになった。吐き出せない息で、雨谷は窒息してしまいたかった。

「──まだ死にたい?」彼が問いかけた。

「ううん、死にたくない」

 雨谷は夢から覚めた。水を飲みに、眠っていたソファから降り、歩き出す。口内はカラカラに乾いていて、水道水はとても冷えて感じられた。

「おいしい」呟き、一気に飲み干した。



 -翌週、喫茶「たからもの」にて-

「雨谷 雫は、叔母の穂波から紹介したい人がいると言われた」


 穂波はブラックのコーヒーを頼み、雨谷へ訊ねた。

「先週はどうだった? 彼は、元気そうだった?」

「元気だって言ってたよ」

 雨谷は淀みなく返す。穂波は喜んで相槌を打って、雨谷のことを見つめている。

「施設はいつ出れるとか、そういう話はあったの?」

「ううん、それは分からないって。そもそも、前々回と前回の面談の間の期間と、今回で、ほとんどスパンが変わってないからね」

 雨谷は、平気で嘘をついている自分が、何一つ傷ついてないと感じられて、傷つく気がした。違和感も痛みも、全てが曖昧な感覚のまま、注文より先に運ばれてきた水のグラスへ、伸びない手を伸ばす。指をかけたまま、心は動かない。

 穂波の表情へ、ふと目をやった。穂波の笑顔を、まるで笑顔だと認識できない。脳が処理する情報は、それを笑顔だと言っているのに、心がそれを認められていない気がした。

 面会がある時を境に、何らかの理由で度々、キャンセルされるようになった。穂波には一度も、それを伝えていない。

 雨谷は動悸を感じて、それとなく、自身の胸に手を当てる。

──気づいてほしい。私が抱え込んで、勝手に引っ込みがつかなくなった、この感情に。早く気づいてほしい。その笑顔を見ていると、蓋をされているような気分になってしまう。

「ごめん。ちょっと、お手洗い行ってくるね」雨谷は離席した。



「そういえば、今日は午前、晴れだけど、午後は雨だった気がする。傘、忘れちゃった〜」勉強道具を広げている女の子が、机に伸びながら、向かい合って勉強をする子へ言った。その横の通路を、雨谷は歩いていく。

 雨谷が手洗いから帰ってくると、そこには楽しそうに談笑する穂波と、雨谷の知らない男がいた。その彼こそ、嵐 依貴という、穂波が紹介しようとしている交際の相手である。

「あ」嵐は人懐こい声で、雨谷に気づいた表情を見せる。

 嵐は立ち上がり、「どうも」とお辞儀をした。

 自分より若く見える、叔母の交際相手の容姿、振る舞いには関心を抑えることはできず、雨谷は挨拶を返しつつも心は興味ばかりでいっぱいだった。気持ちのこもらない挨拶にも、嵐は人懐こい返事をする。穂波は頬を小さく噛んでいるような表情で、雨谷の顔を見つめ、席へ着くように促した。

「嵐 依貴です。穂波さんと交際をさせていただいています」

「雨谷 雫です。穂波さんにとっては姪にあたって、私が高校生の頃に亡くなった両親に代わって、私を育ててもらっていました」

 自己紹介を交わし、雨谷は解れない緊張と微かな興奮をたたえた笑顔で、穂波を見た。

「本当に若い人なんだね、びっくりした」雨谷が言うと、穂波は「うん、まあ」と笑った。

「私なんかで良いの? って思うんだけど、選んでくれたみたい」ぎこちない笑顔は、やはり、年の差から来るものだろう。関係の近い、特に肉親である雨谷には、なかなか楽に報告できたものではない。

「そうなんだ。ちなみに、突然で申し訳ないんですけど、嵐さんは、どうして穂波さんが良いと思ったんですか?」雨谷は内心、疑念もないまぜの考えで、質問を投げかけた。

 嵐は悠然とした瞳で、テーブル上で紙ナプキンを滑らせる。冷えたコップから垂れた水滴が、しゅんと吸着された。

「穂波さんは包容力があって、一緒にいて落ち着きます。考え方や言葉遣いにも、ただ歳を重ねたからという理由には収まらない、穂波さん自身の知的さもあって、凄く魅力的な方です」

 そつのない回答に知性を感じて、雨谷は感心する。

「加えて言うと、僕は幼少期に母を事故で亡くしていて、その母と雰囲気が似ているというのもあります。お恥ずかしい話ですが、その面影を追ってしまっているのかもしれません」

 嵐は仕草では弱気な態度を見せている。しかし、それはあくまで、謙遜のようなものだと雨谷は感じた。内に秘めた自信が、揺るがない芯を感じさせる。

「『母親と重ねて』というのはマイナスに捉えられかねないかとは思いますが、むしろ年齢差などの面で僕は疑って見られがちになると自覚しているので、かえって納得していただける理由になるかなと」

 雨谷はまた、感心する。「亡くなった母の面影を追っている」というバックボーンを話すことについて、当人の心境そのものがどのようなものかは分からない。けれど、少なくとも彼は、対外的にどのように捉えられるかも踏まえた上で、信頼を得られるようにと胸中を開示してくれたのだ。

「そうなんですね。......誠実そうな方で、安心しました」雨谷は「ね?」と穂波に向かって笑いかける。

 穂波はしおらしく頷き、隣に座る嵐の膝へ手を伸ばす。嵐の手も、それに応えるように抱き合わせようとされた時、穂波のスマートフォンに着信が飛び込んだ。ガチャガチャと、突然の連絡が暴れる音が立って、穂波は慌ててそれを手に取った。

「ごめん、ちょっと仕事の電話」謝罪を空いた方の手で示して、穂波が離席する。

 嵐は「はい」と微笑み、雨谷は「うん」と言いつつ笑った。

 二人だけの空間になって、嵐の微笑みが段々と平坦な表情に吸収されていく。俯きがちなその表情に映る悲しみは、メイクを落とした曲芸師のようだ。観客のいなくなった会場の空虚さのような静寂に、唾液を間違った場所へ流しかけ、雨谷は小さな咳込みをした。

「嵐さん?」雨谷は、嵐の放つ異質な空気を感じられた。

「雨谷 雫さん。あなたはあの人を──、」彼は名前を呼ばれたことにもお構いなしに、口を開いた。

「あなたの叔母である、穂波さんを恨んでいますか?」

「え?」嵐のように突飛な質問に、雨谷は声を漏らした。

「穂波さんを、ですか?」

 雨谷は聞き返しつつ、嵐の表情を注視する。嵐は「はい」と頷き、雨谷を見返した。喫茶は静かに、弦楽器の伸びやかな音色で包まれている。

「なぜ、そのようなご質問を?」

 雨谷は混乱していた。

──叔母の恋人が、叔母を恨んでいるかと問うてくる。

 そんな可笑しい状況に、表情にも笑顔と呼べぬ笑みが漏れてしまう。兎にも角にも、嵐 依貴というこの男性は、何らかの目的を持って接触してきている。ただ、それだけは分かった。

「雨谷さん、あなたを不用意に傷つけたくはありません。だから、言葉を選びます」

 嵐はスマートフォンを取り出していたようで、両膝の間で操作していた画面を、雨谷へ見せた。そこには、一枚の絵の画像が写されている。現代美術に分類され、この数年で最も、世界中の話題をさらった一枚である。

「この絵を描いた人から、あなたを守ってくれなかった穂波さんを、あなたは恨んでいませんか?」



 -ある夏の日 新杖にいづえのある平屋にて-

「雨谷 雫は、叔父の雨谷 開紀かいきの元へ身を寄せる」



 幼い頃の雨谷は、平凡かつ呼吸で時間が満ちているような田舎で、小さな頃から何もない空を見上げていた。歳を重ねても、見上げる空と自分を隔てるものはできない、静かな場所に暮らしていた。

 両親は共に、海外を飛び回っている。戦場を転々とする、ジャーナリストと医師。義を知らない幼少の雨谷は、二人の思う正しさを祖父母から飲み込まされて育った。心を開いていたのは、一緒に暮らす祖父母と、よく一緒に遊んでくれていた霧原 雄一だけだった。

「ねえねえ、キリちゃん」

「なぁに?」幼い頃の霧原は笑顔が柔らかく、仲の良い兄妹のような関係を築いていた。

「んー、......内緒」

 雨谷は頬を染めて、その細い腕で霧原の首に抱きつく。霧原は「えー?」と声を上げて、雨谷を抱き上げる。

 その穏やかなつまらない場所も、雨谷は大好きだった。祖父母という家族がいて、好きな人がいて、ちょうど良くつまらなかった。



 ある日、叔父の開紀が、祖父母と雨谷が暮らす家を訪れた。

「久しぶり母さん、元気にしてた?」

 父と似ていると言われれば似ていて、けれど、どこか気持ち悪い男の人。写真で見る、たまのビデオ通話で見る父の顔にはない、作り物の笑い皺。手首をさすりながら祖母が話しかけに行き、祖父は雨谷を寝室へ移動させた。

 雨谷も既に、この頃には中学生になっていた。学校から帰って、まだ制服姿だった雨谷を見る開紀の瞳は、水辺の岩場に隠れていた青大将の目によく似ていた。

 その頃、叔父の開紀は芸術系の大学で教鞭をとっていると、祖父母から聞いていた。しかし、制作活動に励む時間を取りたいと、地元へ帰ってきたらしい。何でも、自分は実力を認められていて、融通はいくらでも聞かせられるそうだ。何度も何度も、彼は雨谷へ自慢をした。その会話の場は、大抵、夕ご飯の時間だった。

 開紀は夕方ごろになると、ご飯を食べに押しかけてきて、なんだかんだと言い訳をしながら居座って、泊まっていく。

 小学校に入るよりも前から自分用の部屋を与えてくれ、一人で寝させていた祖母が、その頃から一緒の部屋に布団を敷いて寝るようになった。得体の知れない恐怖を抱えているうち、霧原に言われた。

「最近、何かあったか?」高校生になった彼は、既に立派に大人のような体格になっていた。細く薄く、淡い雪のような少女の雨谷とは、対照的な姿だ。言葉遣いもどこか、幼い頃よりも成長して、よく言えば誠実になっている。

「あ、ううん。何もないよ」

 霧原は、知っていた。最近、雨谷にとっては叔父にあたる、ある男性が彼女の家に入り浸っていることを。

「ねえ、雄一くん。雫ちゃん、大丈夫?」近所の人はみんな、自分に対して聞いてくる。一番、彼女と関わっているから。

 叔父の開紀の学生時代の評判が、何やら悪いことも知っている。気が気でない霧原は言葉を探しているうち、いつも二人が別れる場所まで来てしまう。

「雫。──今日、うちに泊まらないか? いや、今日だけと言わず、これから少しの間でも」勇気を出して踏み出した時、雨谷の表情が歪んだことに気づいた。

 彼女は口を失ったように、何か伝えたい感情を雰囲気から発散するだけで、言葉を生まない。

「雫?」霧原は名前を呼ぶ。チリチリと小さな音を立てて転がる自転車の車輪が、二人の横を通り過ぎていった。

「ううん、何でもないよ。ありがと、キリちゃん」

 雨谷は「バイバイ」と手を振り、その場を去った。

 雨谷は家に着くと、ご飯の用意に取り掛かる。この頃、祖母は調子が悪く、雨谷が家を支えなければいけない状態になっていた。手伝い程度にしかしてこなかった家事を、自分で回す生活に咄嗟に変わって、眠れない日も増えた。皿洗いをしていると、祖父が寝室へと歩いている気配を感じた。

「おじいちゃん、今日のお薬、まだ飲んでないんじゃない?」近くに提げた手拭きタオルでびしょ濡れの手をぬぐって、食器棚へ歩く。

「ああ、忘れてた」雨谷の二分の一の速度で、祖父は進行方向を変えた。食事に使うテーブルにひかれたテーブルクロスの上に、水の入ったコップと錠剤を置き、雨谷は皿洗いに戻る。

 少しして、「雫ちゃん、ごめんね」と叔父の開紀がリビングから声をかけてきた。振り向いて、「いえ」と雨谷は答える。開紀は側へ歩いてきて、雨谷を見つめた。その視線は、少し見られたくない場所を見る。雨谷は不思議と笑顔が浮かんでくる自分に驚きながら、愛想よく「どうしましたか?」と返す。

「雫ちゃんは、綺麗な女性になりそうだね、つゆさんに似て。うちの弟に似なくてよかった。あいつは不細工だから」開紀は彼女の両親について触れて、雨谷を褒める。おりに、このような褒め方をする。弟の妻であるつゆへは賛辞を送り、とうの弟へは批判ばかりだ。特に、弟への妄執は強く、医師であるつゆに対し、「弟は表現力が乏しく、兄である自分のような芸術家にはなれず、戦争という過激な題材で自分の矮小さを誤魔化す表現者崩れになった」このような具合である。

尋久ひろひさは、僕に嫉妬していたからね」開紀がそう締めくくる度、離れていても愛している父親の優しさを汚されるようで、胸が苦しかった。

 何事もなく、常に息苦しい水面下の日々が続き、雨谷の中学生活も終わる頃、祖父が息を引き取った。朝、起こしに行った祖母が、祖父が息をしていないことに気づいたのだ。本当に呼吸をしていないのか不思議なほど、何でもない寝顔のまま、祖父は冬の朝と同化した体温になっていた。

 訃報を聞きつけ、すぐに穂波がやってきた。理解の追いつかないまま色々な手続きを手伝ったことを雨谷は覚えている。その時、穂波から聞かれたことを覚えている。

「困ってることとかはない? ──その、兄がいて」穂波は指を指して、雨谷へ問いかけていた。



 -現代 喫茶「たからもの」にて-

「雨谷 雫は、フラッシュバックした核心に当惑した。」


 嵐と向き合っている、大人になった雨谷は、その記憶に気づく。

「穂波さんは、気づいてたの?」雨谷の手は、小さく震えていた。

 今まで思い出していなかったことが不思議なほど、その事実は鮮明かつ簡単に、脳の内側から這い出してきた。その契機となったのは、「穂波を恨んでいるのか」という一つの問いだった。

「『気づいてた』とは、どういうことですか?」暗い店内で、嵐の視線が鋭く光を反射した。先ほどまでの、寂しげな憂いは消え去っている。

──深層心理で、育ててもらった感謝と恨みがないまぜになって、記憶を蓋して閉じ込めていたんじゃないか。

 雨谷はその論理を、首を振って解消した。

 穂波を恨むことなんて、万に一つの可能性もありえない。そう思っている。

「......いや、なんでもないです」

 なんでもない、という言葉では覆い隠せない事実、思い。人は度々、覆えない布で、被さらない蓋で、そうして「知られること」を拒絶する。

「そうですか。......深くは聞きません」彼はまた、ナプキンでテーブルを拭いた。結露した水滴の反射していた明かりが、消えた。

 嵐が食い下がってこなかったことに、雨谷は驚く。驚きと安堵が重なって、居住まいをどうすれば良いのか分からなくなっていると、嵐は口を開いた。

「では、もう一度聞きます」前置きをして、また同じ場所へ、雨谷は連れ戻される。

「あなたが負わなくてよかった傷に気づきながら、あなたを守らなかった穂波さんを、あなたは恨んでいますか?」

「恨んで......」雨谷は逡巡する。

 恨んでなどいない。穂波を疑ったりなどしない。

 この二点の感覚、そのものは確かに真実だった。しかし、この感覚を持っている自分のことを疑う自分がいた。

 穂波を疑ってしまえば、自分の安全な基地が消えてしまうように思える。幼少期の頃、川に遊びに行くことができたのは、霧原が守ってくれている気がしたからだ。小学生の頃、盆の祭りで夜まで遊んでいられたのは、祖父母が誰よりも自分を思って、家で待ってくれていたからだった。

「家に帰らないでいられた」のは、「家に帰ったら守ってくれる人がいたから」という矛盾でできている。

 その家も、好きだった人も、誰にも頼れなくなった先は、明かりのない夜の畦道だ。星も月も、誰も見守ってくれない夜は、夜を威嚇して、暗闇に呑まれないように生きていた。

 親に捨てられた獣のように、逃げて、拒絶して、噛み付いた。逃げても、拒絶しても、噛み付いても、暖かった太陽が現れるまでは酷い日々だった。

 上白沢 太陽。二度目の恋は大きな壁を隔ててなんとか繋ぎ止めている不確かなもので、心が保っていられるのは、穂波という信じられる大人に抱き寄せてもらえたからだ。

「私は......穂波さんのことを......」

 命綱にぶら下がりながら、その綱を切る勇気なんて、誰が持てるというだろう。雨谷は、相反する感情が耳障りな音を立てて反発し合っているのを感じた。不協和音が、凪いだ店内の音響を乱していく。

「私は──」雨谷が同じ言葉を繰り返していた時、嵐の表情が戻った。

「ごめんね、二人だけ残しちゃって」穂波が帰ってきて、席に着く。

 気持ち悪いほど穏やかに、嵐は穂波の恋人だった姿で笑って、「穂波さんをどう思っているか聞いていた」と話す。はにかむ穂波を、雨谷は少し前のように微笑ましく思えなかった。

 ざあざあ降り始める。多分、雨だろう。

 穂波が「あら、雨みたい。どうしよう、傘も持ってないのに」と言った。

「ああ、僕が買ってきます。隣で百円で売ってるはずですし」

 嵐が立ち上がり、リュックを背負う。穂波が「ほんと?」と聞くと、「ええ、大丈夫ですよ」と、嵐は颯爽と歩いて行った。

「そうだ。話してなかったけど、彼、絵を描いているそうなの。すごく上手で、ネット上で発信しながら、広告とか本の表紙とか、お仕事を貰ってるみたいなの」

 穂波は両手のひらを合わせて、嬉しそうに話し出す。

「もう聞いてたかな?」

「あ、ううん。まだ、どんな絵を描いてるの?」雨谷は平静を装い、質問を返す。

 絵を描いていると聞いて、真っ先に浮かんだのは、霧原から相談された事件の内容だ。ふと、点と点の間に線を引こうとしている自分がいることに気がついた。

「えっとね、人物画かな。すごく写実的な人物画なの。それも鉛筆だけで、モノトーンで描き切っちゃうから、びっくりしちゃうの」

 ざあざあ。窓ガラスの先で、雨はアスファルトを強く打つ。喫茶に流れる音楽と遠い雨音のアンサンブルは、典型かつ完成された情緒を感じられるものだと信じていた。それが覆されるような衝撃が、雨谷を殴りつける。

 絵を描く人間は、この世界にごまんといるだろう。街一つの単位で見たって、相当の人数が想定できる。鉛筆画、人物画と包含する範囲を狭めていこうとも、それは変わらない。

 だのに、それだけ強い衝撃を感じたのは、嵐の見せた人格がひとえに、雨谷の感じた犯人像と重なってしまったからだ。

 表面的には魅力的な人間を演じられ、知的な言動からも認知能力の高さが窺える。ここまででは、部分的とも取れるだろう。しかし、彼は絵を描いている。人物画かつ、画材は鉛筆だ。

 ふと、嵐が紙ナプキンで繰り返し、テーブルの水滴を拭いていたことを思い出す。材料としては弱いが、神経質な傾向はあると言えるかもしれない、と嫌に鮮烈に残ったノードが結ばれていく。

「ねえ、穂波さん。嵐さんって、綺麗好き?」

 雨谷は考えついたのとほぼ同じタイミングで、浮かんだ質問をしていた。

「ああ、水回りとかは、凄く気にしてるかも。私も、ちゃんと気にして飛び散った水滴とか、気にする方だと思ってたんだけど、嵐くんの方がしっかりしてるかも。いつも清潔な感じだし、人がいっぱい触るものにはあまり触らないかな」

 潔癖の気質がある。その事実は、雨谷に重くのしかかる。勝手な推測ばかり先行していることを自覚しながら、一度定め、覗いた照準が離せない。最も、銃などは持ち合わせておらず、自衛の術はない。むしろ、嵐が殺人を犯せる「エゴイスト」なら、照準を定められているのはこちら側だ。

 狙いは、穂波さん? 私?

 嵐は「穂波を恨んでいるか」と聞いた。少なくとも、その一連のやり取りに、雨谷 雫という他者を巻き込んだ必然性を語る、なんらかの動機があるはずだ。

「穂波さん、今日はこの後、どんな予定?」

「今日? えっと、彼と出かけるつもりだったんだけど、だいぶ雨も酷いし、今日は帰るかな」穂波は窓の外を眺め、幸せそうに語る。おそらく、同じ家に帰って、二人で過ごすのだろう。

「分かった」雨谷は頷いて、対して口をつけていないラテを啜った。氷が溶けて薄まった味が、今はかえって飲みやすかった。



 -土砂降りの中 傘の下-

「嵐 依貴は、尋問を始めるはずだった」


 歩道のタイルに墜落し続ける雨粒が、透明な花火みたいに弾ける。バツバツと、百円の傘を叩く音が鳴り続けている。

 傘の下は、まるで別世界のようだ。塞ぎ込んで外を眺めているように、安心と不安とが表裏一体となっている感覚だ。ここに居れば傷つかなくて、ここに居れば傷つくことと闘う権利を失い続ける。嵐はため息を吐く。

 暗い雲に覆われた空を見上げなくて済むようにしてしまう傘という空間を、嵐は嫌っていた。そんな傘を握る嵐の手に、穂波の手が重ねられた。

 不意のことに、嵐は慌てる。

「雫ちゃんにも喜んでもらえて、怯えすぎてた自分が、ちょっとばかみたい。ありがとうね、嵐くん」

「穂波さん」嵐が呼びかける。

 ゆったりとして歩調で歩いていた二人の間には、先ほどまでと同じ、穏やかな時間が流れていた。

「なに?」穂波の声を聞くと、嵐はやたらに胸が騒いだ。

 沈黙が続く。嵐は、自分の思考が不全に陥っていることを感じていた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 異様な雰囲気を察して、穂波は不安げに訊く。子の身を案ずる母親のような声に、嵐は内臓を潰されたような顔をした。歪んだ表情を見て、穂波は体を寄り添わせた。

「どうしたの? 教えて?」

 嵐は唾液を飲み、痛むほど緊張した喉を動かす。

「僕は、あなたを殺すために近づきました」

 告白は、にわかに始まった。

「え?」穂波は声を上げる。

「僕の母を死に追いやったやつを、殺して、殺して。また殺して。とっくのとうに、張本人の雨谷 開紀は死んでいたから、肉親をやってやろうと思って、あなたを見つけた」

「嵐くん、どういうこと?」

「依貴って......」嵐が言いかけた時、「殺すって──」穂波の言葉が重なりかける。嵐の怒鳴り声が、傘の下で響く。

「依貴って呼べよ!!」

 穂波が小さな悲鳴を上げる。雨が、傘より外の世界では鳴り響いていて、二人の声は打ち消されている。

「雨谷 開紀が憎かった。俺と母さんの人生をめちゃくちゃにした。殺してやりたかった。でも、憎むようになったのは、雨谷 開紀が上白沢 太陽に殺された後だった」

 穂波は言葉を失っている。嵐の手に重ねた手が、離せなかった。

「だから、もしも雨谷 開紀に親や兄弟がいるなら、殺してやるしかないと思った。雨谷 開紀への恨みを、全てあなたに向けて出会いを果たした。最後の罪のつもりだった」

 嵐の肩からリュックが抜け落ち、どさ、と音を立てて地面に落ちる。へたり込んだように、それは力を失って、アスファルトに身を預ける。

「なのに、自分が分裂したみたいに、出会ってすぐに、あなたに恋をした。母さんみたいに名前を呼んで欲しくなった」

「ま、待って、嵐くん──」穂波はただ、当惑している。

「どうせ、気持ち悪いとか思っただろ。この『マザコン』が、って」

「そんなこと──」穂波が言いかけた時、嵐の手から、傘の柄が抜け落ちた。

 嵐はリュックを拾い上げ、中から透明なファイルに挟んだ一枚の絵を取り出している。その絵には、口元を隠して笑った穂波がいた。ファイルは投げ捨てられ、穂波が描かれた紙が裸になり、雨に溶けていく。

「──今はただ、気が狂いそうだ」嵐が呟くとともに、穂波は痛みに悲鳴を上げて崩れ落ちた。

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カウンセラー雨谷雫と奇妙な患者たち ちひろ @Ino_utsumuku

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