雨谷 雫と「シャワールーム連続猟奇殺人2」

 -「心の雨宿りクリニック」にて-

「来訪者は、雨谷 雫を知っていた」


「はい、私です」雨谷は手をあげた。

 クリニックへの、──雨谷 雫への来訪者は顔を上げた。皺のない綺麗な肌と、シワのないスーツ。傷もシミも、全てがない作り物のような人間というのを探すとしたら、彼はその正解の一人だ。

 クリニックの待合室には、その男の存在感は大きすぎる。

「どのようなご用件でいらっしゃいましたか?」晴野が、二人の視線のあいだに割り込むように訊ねる。晴野の声の震えが直に伝わるほどの静寂がひしめいていて、明るくも暖かくも、応接室の陽だまりは冷たく感じられた。

「失礼しました」男は名刺を差し出す。

名雲なぐも カインと言います」

 彼が差し出した名刺を見つめ、晴野は雨谷を振り返った。晴野の後ろから近づく雨谷を、名雲と名乗ったその男は、穏やかな瞳で見つめている。

「法務省の方、ですか?」雨谷が見上げると、名雲は「はい」と頷き、笑みで返した。

「風呂井矯正管区にある『超自我』を管理している者。簡単な説明であれば、そんなところです」名雲の顔と名刺を見合わせ、晴野は「愛故矯正局」と呟く。

「はい、時代錯誤ですよね。愛による異能の恐ろしさによって、誰かを強く愛し過ぎてしまっただけの者まで、それを犯罪に利用する悪人、──『エゴイスト』と一緒くたに『矯正』する施設。名称も、在り方も、もっと変わっていくべきだと思うでしょう」

 被っていた皮が一つ、この名雲 カインという男から剥げたような気がした。晴野も雨谷も、呆気に取られて思考が働かない。立ち話を続けることも厭わず、名雲は続けた。

「すみません。話が脱線してしまいました。本日は、挨拶に伺ったのです。『カメラ男』こと、風倉 修平。彼のカウンセリングを担当していただいている雨谷さんなら既にご存知かと思いますが、彼のようなケースは刑事罰のような制裁を行われない」

「はい。彼は、恋人を殺害してしまった事件当時が、愛故の発生段階です。愛故の悪用や、初期症状を確認のちの症状改善における努力義務違反、怠慢なども一切、有り得ませんでした。そのようなケースであれば、収容施設での経過観察ののちに、愛故対策基本法の規定通り、保護観察とカウンセリングの義務が課せられるはずです」

 雨谷は、現状に対する認識を述べた。捲し立てるようになってしまったことに気づき、会釈程度に頭を下げた。風倉の釈放に関して、良くないことがあったのではないかと、舌に巻きついた小さな不安が勝手をした。

「いえ、不要に不安を抱かせる形になってしまい、こちらこそ申し訳ありません。彼は、問題なく『超自我』から出られます」名雲の言葉に、雨谷は安心して「ありがとうございます」と返した。

「先ほどもお話しした通り、あくまでご挨拶を。と思いまして」名雲は紙袋を差し出した。駅近くの大きな百貨店で、見かけたことのある洋菓子店のものだ。

 名雲が差し出した手土産に、雨谷も晴野も初めて気がついた。名雲は始め、そのような荷物は持っていなかったと感じる。突如として現れたかのように思えた。

「あ、ありがとうございます」雨谷が紙袋を受け取る。

「風倉さんについて、どのようなご用件でこのようにお越し頂いたのか、お聞きしてもよろしいですか?」晴野が問う。控えめではあるが、名雲と雨谷の間に半身をずいといれる。

「はい。率直に申しますと、こちらのクリニックで預かる形で風倉 修平に勤務していただきます」

 名雲は告げた。雨谷の手に下げていた名雲からの手土産が、カサ、と音を立てる。晴野が雨谷を見返し、丸くなった瞳同士が鏡写しになったように見つめ合う。

 カラコロ、と玄関から音が聞こえた。

「もう少しお話しさせていただきたかったのですが、お邪魔になりそうですね。今日はこの辺で、失礼します」名雲が挨拶を述べ、歩き去る。

 玄関と待合室の継ぎ目で、霧原が姿を現した。本来、このクリニックをこの時間に訪れるのは彼だった。

 名雲は会釈をし、霧原へ笑いかけながら通り過ぎた。クリニックの玄関の鈴の音は涼しげに鳴って、扉がガチ、と閉まるのと同時に沈黙する。

 霧原は顎を少し引き、雨谷へ視線を送った。

「今、出ていった人は? カウンセリングに来た人には、見えなかったが」

「『超自我』を管理してる人だって。法務省の名雲さん」

 雨谷が名刺を差し出し、霧原が覗き込む。霧原は静かに考え込んだ。

「クリニック開いたばっかりの頃の、面倒な記者とかじゃないよ。安心して」雨谷が笑って、紙袋を晴野へ渡す。晴野は霧原へ会釈をする。その彼女の表情を見て、霧原は玄関の方を振り返った。

「ほら、ついてきて。頼まれてたこと、ちょっと調べてたから」

 雨谷は名雲の名刺を持った右手で、霧原を誘いながら歩き出す。



 霧原は晴野へ感謝を述べ、ティーカップに口をつけた。鼻腔に残る香りが、胸をすっと明かす。溶けた雪が滲む、春の空気のような爽快感を気にしているように、霧原は鼻をスンスンと鳴らした。

「早速だが、現在、愛故による犯行と想定された連続殺人が起きている」

 霧原は腿に肘をつき、膝より低い高さのテーブルを見つめている。

「連絡してから、正直、調べる暇もなかっただろうが、専門家としての見解を聞きたい」ノートパソコンを操作する雨谷は「ん」と相槌を打って、ディスプレイをキーボードから切り離した。

「想定できる愛故エゴのモデルケースは次の通り」雨谷が霧原へ見せた画面には、先ほどまで彼女がメモアプリに打ち込んでいた文字列が映っている。キーボードの付いていないディスプレイをタブレット端末のように扱い、指を滑らせて文字を流す。

「現場はシャワールーム」「水が愛故に関わる」

「排水溝から検出された黒鉛」「鉛筆を用いた描画、表現を好む」

「上半身のない肉体」「バストアップ(上半身、胸より上を描く絵)」

 二つの情報と、それぞれの事実から推察される二つの可能性。霧原は無言で頷き、メモを見つめて考え込んだ。その様子を見て、雨谷が話し出す。

「結論を述べるなら、ずばり、『バストアップの鉛筆画』を描かれた愛故の対象がシャワーを浴びるという『水に触れる行為』によって、『描画された範囲の肉体が水に溶けて死亡している』というのが今回の愛故による殺人のカラクリ」

「キリちゃんのその様子から見ても、そもそも『絵にまつわる愛故』という見立てに至る経緯の必要はなさそうだね。とりあえず、情報の限りから考える範囲で言えるのはこんな所」

「ああ。ここまでの見解は、正直、答え合わせだ。まあ、それが心強い。まずは、ありがとう」

 寂れたコンクリート構造物のような表情で、霧原は雨谷を見る。

「うん、おーけー。それで──、」雨谷はメモをスクロールし、真っ白なキャンパスにタッチペンを突き立てる。向かいに座る霧原に見せている画面に、拙い手つきで描いた言葉は、「Lv.5」。

「今回の愛故、直接的に被干渉者を死亡させていると考えるのが妥当。これまで色々なモデルケースを勉強してきたけど、実践的な現場の経験で挙げるなら、『カメラ男』と呼ばれている彼。『風倉 修平』さん」

「直近のものになるけど、彼を例に挙げて、考えてみる」



 -風呂井市「超自我」 カウンセリングルームにて-

「雨谷 雫と風倉 修平は、向き合っていた」


「お互いに、自分から心変わりされてしまうんじゃないかって、心配してたんです。高校は一緒だったけど、進学先は別だったから。僕はカメラを仕事にするために芸術系の大学を選んだのに対し、彼女は古典文学を学びに普通の大学へ。別々の場所で、全然違う集団の中で、目の届かない生活を送っている。メールをして、テレビ電話をして、至らない自分の弱さばかり内側で膨らむのを自覚しながら、最近はどう? とか聞いていました」

 風倉は手でシャッターを模して、その内側に収められた床を眺める。

「物理的に距離が離れる、いわゆるの『遠距離恋愛』ですとか、それに近しい感覚ですね。『思いびとが遠方にいると、愛が膨らんで、愛故が発生しやすい』──毎日、高校で顔を合わせて多くの時間を過ごせた人と、違う環境、違う習慣で隔てられたら、確かに同じ精神状態になる。休日に会えば良いだろうと言いたいところですが、僕は高校生になって──」

「いえ、彼女に会ってカメラを好きになった」風倉の吐き出す全てを、雨谷はじっと静観する。

 同じ場所には、決して立たないように。

 風倉は患者で、雨谷はカウンセラーだ。

「カメラを仕事にしたいと思ったのも、何かに強い意欲を持ったのも、高校生になって初めてのことだった。芸術系の大学を進路に据えたいと伝えた時、両親はひどく驚いてました」

 咳払いを挟み、風倉は続きを話す。

「両親に悪気はなかったと知ってます。けれど、選択に惑うとき、心が勝手に拒絶や嫌悪を抱く。僕が望んだ進路は猛反対されました。説得の材料に、僕は生活費を稼いで家に入れることを提示しました。威張れるほどのことではないですけどね。それだけが要因になった訳ではないにしろ、僕は今の道に進めています」

 風倉は患者であり、雨谷はそれを俯瞰するカウンセラーなのだ。同じ暗がりにはいられない。いてはいけない。静かな相槌と、控えめな頷きを返す。

「平日も休日も働ける分は働いて、バイトも学校もない日は疲れで動けなくて。願っていた写真の勉強についても、カメラで写真撮影をするだけで済むわけでもなくて、仕事にすることを目指すと画像編集でプロが扱ってるソフトだとか、そういうITスキルも一から勉強という感じでした」

 風倉の視線は、常に床を見つめている。

「毎日、苦しかったです。『疲れた』『会いたい』心が吐き出す言葉は体の中で溜まっていくばかりでした。彼女から労いの言葉をもらえれば、それだけで飛び上がるほど嬉しかったです。声を聞けば癒されて、つい寝てしまったり」

 風倉は、手で作り出したシャッターを切る。

「申し訳ない。こんな僕を気遣ってくれてるのに、僕は何も返せていないんじゃないか。愛想を尽かされるだろうか。嫌だな、でも、嫌という資格もないな」

 もう一度、シャッターを切る。苦しい話をする時には、風倉はいつも同じようにそうしていると、雨谷は認識していた。

「時折、胸の内から湧き出します。僕はやっぱり、殺人犯なんじゃないかって。四日ほど前、高校生の頃の僕が街にいる野良猫を撮影して、彼女のような肉の塊にする夢を見ました。猫を殺して、夢の中の僕は笑うんです。その映像が脳裏に焼き付いて、記憶とすり替わろうとする」

「それは、お辛いでしょう」

 雨谷は一言、挟み込む。風倉は、視線を上げる。驚いたような表情が、やがて安堵へ変わる。

「あはは。弱音です。実際は、わかってます。僕はこれから社会に戻って、少しでも真っ当に生きるしかないって。両親からの手紙も、先日初めて、受け取ることが認められました。父は業務内容が一部変わって、仕事がしにくくなったようです。母は居心地が悪くなって、スーパーでのパートを辞めたそうです。合わせる顔がありません。大学にも、通えません。彼女の両親からも、ただ一筆、『風倉くんのことは恨まないから、もう君を思い出させないで欲しい。娘は偶然の事故か何かにあったと思って、生きていく』と」

 雨谷は、風倉の心がいかに強いかを知った。

 辛いこと、苦しいこと、それらに飲み込まれても仕方がないこと。人の心を揺れ動かすシーソーは負の面にばかり荷重が振り分けられて、いつかシーソーすらへし折る。けれど、風倉は、雨谷が一言共感を示すだけで、「そのままではいけない」と自分に言い聞かせる。

 そんな風倉の愛故は「干渉の能動性」「意思による操作性」が極めて高い。

 それら「愛故の発現性」は、愛故を持つ当人の自己認知、対人表現、精神マネジメントの能力と相関を示すことが、近年では信頼性の高い一説とされている。



 雨谷はメモアプリ内に付箋を生成し、キーワードを書き込み始め、口を開いた。

「風倉さんは、カメラのシャッターを切ることで、被写体を写真のL判サイズまで圧縮することができる。これは、『愛故による干渉の能動性が高い』と言えるの」

 霧原が軽く腰をあげ、座り直す。雨谷はその様子を見ながら、話を続けた。

「逆に、今回の事件の愛故を『対象が水に触れて初めて起きる現象』だと仮定した時、これは『干渉の能動性が低い』と判断される。なぜならば、水という外的要因に対する受動的な発現のしかただから。調べていた症例を挙げるなら、絵に関する愛故の能動性が高いものには、体が紙のようにどんどんと薄くなっていくものがあるの。シャワールームという殺害現場から、水に濡れることをトリガーにしていると仮説立てるなら、『干渉の能動性は低い』と結論づけられる」

「例外的な可能性は考えられないか? 愛故の対象が水に濡れることにも、意味がある場合だ」霧原は雨谷の仮説をメモしつつ、質問をした。

「そこに意味があるとしたら、愛故の複雑性が高まるね。『対象を描画する』だけではない嗜好や愛情が介入しているから、それだけ複雑な構造だと予想できる。可能性は十分にあり得る」

 雨谷は霧原の質問内容を肯定し、メモ状に記載した。続けて、記載から線を引き、新たな論立てを記述し始める。

「ただ、そうすると、事象の操作性は落ちている。複雑な愛故になればなるほど、『意思による操作性』は低まるの。風倉さんのカメラ撮影のケースで言うなら、彼は被写体を圧縮しないことができる。つまり、愛故の力を行使しない選択もできるくらい、操作、制御ができるわけだけど、複雑な愛故ならそうはいかない。複雑な愛故を持つ人は、簡単に言い表すなら『こだわりが強い』。生活に支障が出る強迫的行動など見られるようなタイプね。そういう愛故を持つ人は、意思で力のオンオフをできない」

 霧原は眉をしかめ、ペンを唇に打った。

「すまない。まとめると、どのような結論に至るか、もう一度言ってくれるか?」

「うん。まず、『愛故の発現性』における二つの観点、能動性と操作性。これらは互いの変化を受ける性質だと想定してほしい。次に、今回の事件の愛故はこの二つの性質において風倉さんと対称的な性質を示していると推察できる。水という外的要因を求める受動性と、複雑な構造による操作性の欠如だね」

 霧原は「その二点で劣っている場合、どのような人物像だと考察できる?」と続きを促した。

「自分の心を認知すること。それを人に正しく表現したりすること。精神的な感情のマネジメント。犯人は、この三つの能力のうち二つは苦手だろう人物だと想定できる。『バストアップという描画の限定』『水』の二面で構造を成している複雑な愛故だと仮説を置くとして、被害者の外見が類似してるとか、そんな話もあったよね。だから、こだわりも強い」

 雨谷はとうとうと仮説を語りつつ、タブレット上にそれらを図式化する。

「だけど、被害者は女性。現場のシャワールームもそもそも被害者宅。それなりに人間関係を構築できるか、性的な魅力や社会的なステータスがある可能性も、犯人像には含まれるよね。さっき述べた三つの能力が劣っていながら、人を惹きつけることを目的として接近し、狙った通りに女性と関係を築けるのだとしたら、解釈が一見、矛盾して見え始める」

「そう、だな。自分の心の認知、人に対する表現、精神的な自己制御。これらが苦手な人間が、三人の被害者と関係を持てたとは考えにくい。被害者女性には事件前後で男性の影はなく、『一晩だけの相手』のつもりだったと予想している」

 霧原が述べた内容に理解を示しつつ、雨谷は用意していた論理をそこへ重ね合わせる。

「うん。じゃあ、おそらく、この犯人像は正しい」

 雨谷の言葉とペンで指し示す仕草に、霧原がタブレットへ視線を戻す。

「犯人は他者との関わりにおいて、共感性には欠けるが認知能力は高い。だから、共感できる魅力的な人間を演じることはできる。複雑な愛故の発現性から、強迫的行動傾向を持つと推察され、そういった人間は過去の事件ケースから神経症を抱えている可能性が高い。共感性と認知能力の勾配を今述べた通りと仮定するなら、プライドも高いかもしれない」

 雨谷は、ふうと息をつき、冷めた紅茶を口に含む。香りは晴野が出してくれた時ほどではないが、豊かで優雅だった。

「ねえ、キリちゃん」タブレットと睨めっこする霧原へ、雨谷が声を掛ける。

「遺体の──、下半身の状態は綺麗だった?」

「ああ、発見はそれほど遅くなかった。加えて、腐敗の程度に差はあれど、外傷はなかった」

 雨谷の瞳が、全てを吸い込むほど深い色ですわっている。殺伐とした会話の内容と反対に、やけに、落ち着いた空気をまとっている。

「被害者女性の中に、一般的に社会的な成功をおさめていると捉えられる人はいる?」

「ああ、全員が全員ではないが、二人目と三人目の被害者はそうだと言えるな。二人とも会社員で、どちらも責任ある地位についていた」

「じゃあ、社会的に成功している人かもね。プライドが高くも成功していない人物が犯人なら、接近する相手にそういう順風満帆な人生を送っている相手は選ばないか、選ぶなら綺麗な遺体は残さないんじゃないかな。傷をつけたり、『烙印』的ななにかを残す気がする」

 雨谷は微笑んだ。まるで、これで最後と告げるような表情だ。

「あはは。あくまで、勝手な考察。プロファイリングごっこだと思ってほしいな。外れてたら、自信ありげに話したのも恥ずかしいし」

 冷めた紅茶へ手を伸ばし、雨谷は小さく、寒そうに身震いをした。



 雨谷の営むクリニックを出た霧原は、見送りに来た晴野へ硬い表情で挨拶をした。小さな駐車場で向かい合って、二人に笑顔が浮き上がる。霧原から、会話を切り出した。

「晴野さん。いつもありがとう。雫にも、そう伝えてほしい。今度、三人でご飯にでも──」

「それなら、私もご一緒していいですか?」割って入った声に、晴野と霧原の視線が集中する。

「佐野......どうして、ここに?」霧原が訊く。

 霧原と晴野より二回りほど背の低い佐野 時雨は、少し冷たい視線で霧原を見返す。切れ味のある目が、ショートカットの髪と相まって、少年性が印象的な容姿をした佐野は、棘のある口調で告げた。

「迎えです。雨谷さんのご意見を伺えたのでしょう? なぜ、晴野さんにまで食事の誘いをするのですか?」晴野へ睨むように視線が向けられた。

「俺の誘いの是非を問うよりも、その態度の方が問題なんじゃないか?」霧原は言い返し、晴野へ謝罪をした。

「じゃあ、また今度」霧原は柔らかい表情を晴野へ向けた。

「は、はい」気圧されきりだった晴野は、深いお辞儀をした。霧原と佐野が車に乗り込む様子を見つめ、小さくため息をつく。

 佐野が乗ってきた車両に乗り込んだ二人は、すぐには口を開かなかった。発進を始め、ハンドルをやわく握った指の先を、佐野がぱたぱたと遊ばせる。

「なぜ、私は一緒に来てはいけなかったのですか?」

「晴野さんと会うと、ああいう対応をするからだ」

 霧原は手帳を取り出し、メモを見返したかと思えば、窓の外を眺める。

「まだ、二回しか面識はありませんでしたが。それも、数分程度です」佐野は不服だと訴える。

「その二回の数分での様子がまずかったんだ」

 霧原がそう言うと、少し急なブレーキがかかった。遠くで雨を降らせている暗い雲に重なって、信号が赤く輝く。

「それは、霧原さんが浮き足だった振る舞いをするからです。顔がだらしなくなっていて、見ていられません」

「......悪かったな」霧原はまた、窓の外を眺める。

 隠れてしまった横顔を見て、佐野は急かされたような口調で謝り出す。

「あの、すみません。霧原さんを悪く言いたいつもりではなくて──」

「──俺も、想われたいんだ。俺が想う人に」霧原は手帳を胸ポケットへ戻す。

 佐野は黙ってしまう。ただ、何を見つめているかもしれない雰囲気のに霧原を見つめた。

「俺も、好きな人の前では笑うんだよ」

「私は──っ。」言葉に詰まった。

 佐野は霧原を見つめる。視線は、返ってこない。

「私は......好きな人の前でも笑えません。文句しか、言えません......」

 信号は青へと変わり、車が走り出す。走行音に、二人の沈黙が轢き殺されていく。喪に服すかのような車内の空気に、咳払いが一度だけ響いた。



 -雨谷 穂波の自宅にて-

「嵐 依貴は、ベッドに腰掛けた雨谷 穂波を抱きしめる」


 背中に伝わる重みと熱が、穂波の心臓を冷水にさらしたように騒がせる。膝に置いていた穂波の手を、嵐は上から握った。穂波の手の甲をさすり、嵐は囁く。

「愛してます」

 好きだとか、綺麗だとか、甘い言葉ほど。鼓膜の奥の渇きかけの池の水面に滴を垂らして、波紋を生む。ゆらゆらと波打つ心では、正常な知性は千鳥足で間違った道を選ぶ。

「穂波さん」嵐が名前を呼んだ。

 彼女は振り向き、瞳を隠した。ほんのりと息遣いが漂って、身につけた香りと混ざり合う。唇が触れ合う前に、穂波は体を離した。

「どうしましたか?」

 嵐は笑顔を絶やさず、シーツのすれる音より優しい声で訊く。穂波は黙り、嵐から顔を逸らしている。水面に立っていた波が静まっていくように、昂っていた二人の間の熱が、途端に落ち着いていく。

「やっぱり、やめましょう。私、恥ずかしいわ。こんなこと」

 穂波は笑って、唾液を飲み込む。

「言ったでしょう。私、姪を引き取って育ててたの。その子が高校生の頃だったから、手はかからな──」

「その姪というのは、雨谷 雫さんでしょう?」嵐は言い放った。

 穂波の唇が、話の途中のまま止まっている。形の変わらない口から、「わかってたの?」とよだれが垂れる時のような呂律の質問が出た。

「ええ、連絡先をもらった時に。苗字を見て、勘が働きました。初めて会ったバーでも、苗字は言ってくれていなかったので、大方、そうだろうと」

 穂波は口を塞げないまま言葉を探している。肩からずり落ちる薄手の羽織物すら気に留められず、嵐を見つめた。

「それで、なにが恥ずかしいのですか? 僕とキスをすることと、姪の雫さんは、関係のない話ではないですか?」

「か、関係あるわ。私は、あなたの母親でもおかしくない歳で、大きくなってからでも、仮にも自分が育てた子供より若い人と関係を持つなんて──」

 嵐は穂波を引き寄せ、ベッドに押し倒した。

「なに、ちょっと......っ!」穂波は抵抗するが、乱暴なほどに強い力で腕を押さえつけられ、ぎしぎしとベッド全体が虚しく揺れるだけだった。

「母親でもおかしくない歳だから、恥ずかしいんですか?」

「それは、だって──」

「訂正してください。僕は、あなたを選んだのに」その言葉は命令のようだった。嵐が見せる初めての顔、初めての表情と言うべき、その瞬間に、穂波は抵抗を止めてしまう。

「違うの。恥ずかしいのは私で、嵐くんはなにか間違いを──」

依貴いだかです。依貴と呼んでください」嵐は、抵抗をやめた穂波の腕を、まだ強く握っている。穂波の視線が、見上げた嵐から散漫にバラける。

 戸惑っている暇を咎めるように、嵐は「呼んでくださいって言ってるんです」と腕を彼女の腕をシーツへ押し沈める。

「依貴くん──」

「違う!!」嵐が荒げた声に、穂波はびくりと体を震わせた。

 嵐は「依貴です。依貴くんじゃない」と。彼の撫で心地が良さそうな前髪のカーテンが下ろした影の中で、瞳が穂波を見つめている。

 獣に睨まれているような、根源的な恐怖と高揚だ。より野生的に、自分を求める形のまま求めてくる嵐 依貴という男は、穂波が知る「嵐くん」ではない。

 胸が鳴るのは、危険を示す信号なのか。押し殺していた寂しさから、ほつれた希望なのか。これまでの人生で「愛されたい」と心の中で口にした分の重みが、嵐の重圧に対して、内側から反発して、隔たりを無くさんとする。

「依貴......?」

 名前を呼んだ。嵐は緊迫した顔のまま、穂波の手を自身の頬に寄せる。

「もういっかい。呼べますか?」

 穂波は頷き、嵐の頬を撫でながら、もう一度呼ぶ。

「依貴」

 一度目ほど不確かでなく、けれど、いまだ戸惑いや未知の中にある心で、嵐を宥める。吹き荒れていた嵐は収まって、静かに二人の距離を縮める。拒まれた口づけは、すんなりと終わった。拒んだはずの口づけを受け入れた穂波はもう、雫のことを忘れ去っていた。



 行為を終えた嵐は、穂波の手を引き寄せ、自分の頬に当てた。

 穂波は笑った。顔から、くすりと音が聞こえた気がした。

「さっきは、ごめんなさい。怖い思いをさせました」嵐は、頬に触れている穂波の手の甲をさする。

「嵐くんとか、依貴くんとか、なんだか『この関係が恥ずかしい』って言われてる気がしたんです。心の距離はあって欲しくなかった」

「......うん」穂波はただ頬を撫でる。

 嵐は表情を綻ばせ、「抱きしめてください」と穂波へ要求する。彼の頭を差し出すような仕草に合わせて、穂波は彼の顔を胸に抱き寄せる。

 仲直りの儀式とも言うべきか、会話の中に介入した一つの行為には共通の意志が宿って、抱きしめ終わった後に二人が見合わせた表情はまるで同じものだった。

「穂波さん」

 嵐から、これからの口火を切る。

「もしよろしければ、雫さんと会いたいです。会って、ご挨拶がしたいです」

 真剣な眼差しが、穂波の視界を三次元的に貫く。

「穂波さんの人生は、どうしても僕より短いから、僕から穂波さんの歩幅に合わせる努力をさせてほしい。まだ、二人で過ごした時間はずっと短いけど、これから過ごす時間は、そうした方が良くなると思います」

 穂波の見せる表情、照れ臭そうな仕草、全てが静画と化した。それから空白をおき、涙で滲む。

「よろしくお願いします」口元を手で押さえ、くぐもった声で言った。

 穂波の深いお辞儀が終わると、今度は嵐から、彼女を抱きしめた。

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