雨谷 雫と「シャワールーム連続猟奇殺人1」

 -「心の雨宿りクリニック」にて-

「雨谷 雫は深夜、暗くなった応接室で、ソファから体を起こした」


 やけに醒めた意識が、夜の闇の中で街灯のように印象的だった。光に群がる蛾を見たような寒気がして、抱いていた薄いタオルケットを腿の横に下ろす。黒いソファが、窓から入り込む街の明かりを照り返していた。

 雨谷は、自分の胸を見つめる。

 ゆっくりと、ワイシャツのボタンを外されていく。この室内にただ一人しか、人間はいない。また、彼女はワイシャツに手をかけてなどいない。しかし、ゆっくりとボタンは外れ、スルリと雨谷の体から滑り落ちた。ヘビが脱皮をしたように、力なく布が折れ重なって、抜け殻のワイシャツが雨谷の腰を囲うように眠っている。

「......」雨谷は、言葉を発さない。

 ただ、寝静まった街に同調する仕事場で、暗がりの中に押し黙っていた。彼女が静観している間に、横になる際に緩めていたパンツスーツも脱げていた。

 雨谷はその様子をじっと眺めてから、インナーシャツを脱いだ。誰かに促されるように頷いた彼女の瞳は、月から隠れるように俯き続けている。

 下着姿になった雨谷は、初めて息遣いを見せた。自分の身体が、自分以外の意思で動いていたことに気が付く。

「なっ......」

 絶句した雨谷は、脱いだばかりの衣服をたぐる。目を瞑って、深い息を吐いた。肋骨の浮きそうな胸に、衣服を握る拳を置く。窓の外、すぐそこにある交差点の信号機が点滅している光が、ガラスで染みのように拡散している。

「もう良いでしょ、叔父さん。やめてよ」

 呟いた言葉に応えるように、テーブルの上で冷え切った紅茶に波紋が現れた。

 下着姿になった雨谷はそれから、ソファを立ち上がり、別室からゴミ袋を取り出してきた。一人でに脱げたワイシャツとパンツと、気づいたら脱いでいたインナーを袋に詰め込んで、口を結んだ。

「また、病院で廃棄してもらわないと」

 ゴミ袋をその場に置いて、一度、暗い室内を見渡す。音の存在しない仕事場で、晴野の残り香を感じた。淹れたての紅茶の香りだろう。

 今日は、ベルガモットの香りに桃のいじらしさが混じっていた。疲れを見透かすようにお気に入りのものを出してくれるもので、少しくすぐったい感情になるから、つい、晴野へ「ありがとう」と言い直した。

 明日は、なんの香りだろうか。

 柑橘系の香りが加えられたものが、雨谷の好みだ。ふと、最近は淹れていない麦芽らしい香りのブレンドされたパックが切れかけていたことも思い出す。在庫が少なければ、使うことにも躊躇いが生まれたり、無意識に選択から除外し続けたりしてしまうものだ。

 明日、出かける際に買っておこう。そう思って、雨谷はスマホを開き、メモを取った。それから、既に返信を終えた叔母のメッセージを確認する。

「雫と会えるの、楽しみにしてます」

 一対一のトークルームには、「雨谷 穂波」と名前がついている。穂波のアイコンには、高校の校門前で「祝入学」と書かれた立て看板の前に並ぶ、二人の姿が映っている。

「私もです」とスタンプを添えて送った返信で、会話は終わっている。

 雨谷はスマホの電源を切り、ディスプレイに手を当てて、胸に寄せた。

 思い出したように、雨谷は歩き出す。そこで初めて、室内に電気を点ける気になった。スイッチを押すと、目を眩ませられるような光が襲った。絞った目で、クリニック内の収納へ向かい、シャツを出した。

 決心したように、すぐに羽織って袖を通した。急いだ手つきでボタンを留める。下から一つ二つと続き、三つ目を留めたところで、手も止まった。

 雨谷は振り返る。尋常でない様子だ。

 彼女は首を振った。自身の肩に手を置き、「もう──」と口にしかけた時、彼女は頬を打たれたように横へ倒れ込んだ。

 閑散としたクリニックには、やはり誰もおらず、まるで雨谷の一人芝居だ。床に倒れた雨谷のシャツは、またゆっくりとボタンが外され、ひとりでに脱げた。

 少し経って、彼女は立ち上がり、脱げたシャツを持って、一度口を結んだゴミ袋へ向かった。途中、照明を切った彼女は、大きな嗚咽を一度だけ漏らした。

 朝、出勤して雨谷を起こした晴野は、「だから、なんで下着姿なんですか!!」と声を上げたが、弱った彼女は笑って謝るだけだった。



 -雨谷 穂波との夕食-

「雨谷 穂波は、雨谷 雫の姿を見るなり、手を振った」


 叔母の穂波が選んだのは、市内のやや高級な鍋料理店だった。

 穂波自身は、他市で生活しており、勤め先も決して近くはない。それを知っている雨谷は、スーツ姿の彼女に、手を振り返すより先に「あれ?」と反応する。

 先に入っていた穂波の元へ通してくれた店員に会釈をした。店員は扉に手をかけたまま、笑って会釈を返した。皺の寄った手と笑顔は、四十代の穂波よりも深い。

 照明の明るい室内へ歩みを進め、浮かんだ疑問をそのまま投げかける。

「穂波さん、職場からそのまま来たの?」

「うん。雫ちゃんと、すぐに会いたくって。ほら、気にしないで座って?」

 穂波が促すまま、雨谷は席につき、隣の椅子に荷物を置いた。雨谷の置いた紙袋にチラリと視線が動く。紙袋に書かれたロゴは、穂波が好きな老舗和菓子店のもので、穂波は「良いのに......」と呟いた。肩から左胸の前に流して結った後ろ髪を撫でている。

「そうだ。雫ちゃん、お仕事はどう? 独立して、もう一年するわよね。一緒に働いてる人とは、うまくできてる?」

「うん、色々あるけど、無理のない範囲でお仕事絞ってやってるから。利益はそんなにないけど、後遺障害の支援も受けてるから、そもそもそんなに要らないし」

「そっか」少し、穂波の表情が暗くなる。目の前に横たえたおしぼりに目線が落ちて、空気が澱む。

「でも、色んな人が助けてくれてるから、体調も崩してないし、心配しないで。前の働かせてもらってたクリニックから、紹介を回してくれることもあって」

「......そう。良かったわ」

 穂波が笑みを持ち直したのと一緒のタイミングで、個室に店員がやってくる。扉を開いてやってきたのは、鮮やかな緋色の肉と、丁寧に寝かしつけられた白菜や長ネギ。共に乗せられたエノキやしめじも、スーパーで買う物とはまるで輝きが違うように見え、豆腐はしっかりと解けない硬さを保ちながらも、プルプルと震えていた。

「おーーー!」

 二人で顔を見合いながら、喜びを分かつ。店員の微笑みに感謝を述べ、置かれたしゃぶしゃぶの具材を見る。

「すごいね〜」穂波の言葉に、雨谷は同調する。

 それから、穂波はすぐに調理に取り掛かった。調理とは言っても、簡単な工程、作業の繰り返しである。雨谷も手を出そうとしたが、彼女に「私がやるから、良いの」と制され、近況をぽつぽつと会話をしながら時間を過ごした。

 一枚目の肉は雨谷の皿に取り分けられら。穂波はそれに長ネギや白菜を添え、雨谷へやった。仲の良い叔母との一年来での会食に、いつもは微笑み以外の笑顔を知らないような顔をしている雨谷も、「あはは」と笑い声を上げることが何度かあった。

「はあ〜、美味しかった。雫ちゃんも、いっぱい食べた?」

「はい。美味しかったです」丁寧に改まって、雨谷が小さなお辞儀をする。

「ふふ。良かった。雫ちゃん、ちゃんと食べてるか心配になる細さしてるから」

 穂波が笑いながら、自分の手首を触っている。雨谷もつられて、自分の手首から腕にかけてを同じように触った。

「私なんか、もうすぐアラフォーでもなくなるし、手も随分、骨張っちゃって。雫ちゃんは若くて綺麗だから、ちゃんと食べて健康でいないと」

 穂波は俯いて「彼氏くん、今度、また会えることになったんでしょ?」と言った。

 雨谷の表情が、パチリと変わる。二人の間の鍋のまだ冷め切らない熱とは対照的に、親しい人との静かなムードは人生を晒け出す。

 穂波が切り出したのは、雨谷の交際相手であり、Lv.6エゴイストの上白沢 太陽についての話題だった。

 上白沢は現在、エゴイスト収容施設「超自我」の檻の中にいる。

「うん。連絡した時は、日程が決まってなかったけど、来週になった」

 雨谷が告げる。穂波は「そっか、良かったね」と笑う。

「じゃあ、雪が降っちゃうかな?」

「うん。まあ、面会できるのが本人に伝えられるのは、当日の一時間前って言われた」

 雨谷はそう言って、残念そうに笑顔を浮かべた。檻の中で、孤独に罪と向き合っている上白沢を思うと、面会ができることを、すぐにでも伝えてあげたかった。

「当日じゃなきゃ、彼は教えてもらえないんだっけ」

「面会相手が『愛故エゴ』の対象である時、『愛故』の特性とか、本人の精神状態を鑑みて、対応を変えるんだけど......」雨谷は、テーブルの上のグラスに手を伸ばした。

「ほら、雪降っちゃうって、穂波さんも言ったでしょ?」

 穂波から、「ああ......」と声が漏れる。

「太陽くんの『愛故エゴ』は、どんな人も知ってるから、一週間前に伝えて一週間は雪が降り続いたら、不安が広がっちゃう」

 雨谷は言葉を続けながら、結露した水でテーブルを滑るように寄せられたグラスの水を、一口、喉に通した。

「一年、雪が降り続いた『雪の新杖にいづえ』みたいになるんじゃないか」

 新杖は、「エゴイスト」上白沢 太陽と、その恋人の住んでいた町。それは、全国民が知っている事実であり、世界で最も知られた日本の地名でもある。

 それは、Lv.6という新たな枠組みを生み出すだけの「愛故エゴ」が発現した「エゴイスト」の生まれた町というセンセーショナルな報道が、連日全国、全世界で続いたせいだろう。

 当然である、「愛故」の観念が覆る規模の力を、上白沢は持ってしまったためだ。

 元々、「愛故」のレベルという概念は、エゴ対象への「心身への干渉性」と「干渉の強さ」の二面によって構成されている。

 例えば、Lv.1に区分される「愛故」は、「身体的行動や意思の誘導」を「エゴ対象者が抵抗して、無力化できる干渉強度」で与えるものを指す。具体的には、「エゴ対象の視線を自分へ誘導する」などがよく挙げられる。

 Lv.2では、「共に可逆的な、身体的変化や意思の変化」を「エゴ対象が抵抗できる干渉強度」が区分され、ケースとしては犬系と称する交際相手を愛していたら、「犬の耳や尻尾が生えた」というものがある。珍妙かつ可笑しい症状、コスプレのようで可愛らしいという意見も多くあり、「愛故」を扱った恋愛作品においては「動物系パートナーもの」などとジャンルとして確立されている。実際は、身体的変化による健康被害などがあり、雨谷が直近でた大内姉弟の弟、大内 凛についても「身体の女性化」における「非同期的な身体構造の変化」によって緊急的な開腹と入院が必要になった。排出するはずだった血が内部で溜まっていたこと、それらが凝固して周囲の内臓を圧迫していたこと、は命の危険すら冒していた。身体の構造を生み出し、あるいは変化させる症状には、それだけのリスクがある。免疫の低下や不全が弾き起こり、外的な傷病にも目を見張らなければいけない。

 他レベルも同様に指標が存在し、直近の事案であり、世間を騒がせた「カメラ男」風倉 修平はLv.5。

 風倉の持つようなLv.5の「愛故」は、「死に至らしめる心身への干渉」を「エゴ対象者の意思に関わらない干渉強度」として最高の区分とされていた。

「死に至らしめる愛」それを超えるレベルが現れた衝撃は、必然、世間を騒がせた。そんな愛を生み出してしまったのが、雨谷と上白沢だった。

 新杖と上白沢 太陽について、雨谷が口を開く。

「『雪の新杖』は一年以上、雪に閉ざされた。人々が住める環境は、その全てを深い氷雪で覆われた。運が良かったのか、あるいは太陽くんの意思か、連日の大雪でも死人は出なかった」

「新杖に居住していた人たちは移住を余儀なくされて、誰が言い出したのか、メディアの煽りか、『雪の新杖』なんて呼ばれるようになった。個人や物体、生き物の一個体までしか『愛故』の干渉規模が無かったなか、『町』一つを飲み込んだエゴはLv.6という、新たな概念を生み出した」

「それに、私も一度、氷漬けになったし......」

 雨谷は体を震わせた。恐怖ではなく、記憶の冷気が舞い込んだせいだ。

「大丈夫?」覗き込んだ穂波の問いに、頷いて返す。しかし、顔色が悪くなっているのは、誰から見ても明らかなくらいの様子だった。

「冬になると、太陽くんのこと歌うみたいな、雪とか恋とかの歌がいっぱい。いや、意識が過剰なのかな」

「......」穂波は黙って、それを肯定した。

 ドラマや映画、小説や漫画アニメなど、ストーリーを描く作品ではLv.6の人間が主人公やヒロインとなるのが当たり前になり、音楽では「永遠の雪」「終わらない冬」を思わせる曲がブームになった。

 ブームで沸騰した冬歌は、「雪の新杖」の以前以後を問わず、爆発的にCDが売れたし、音楽番組を露骨に特集を組んだ。

「ごめん、嫌な話ばっかりしちゃった」雨谷が笑う。

「ううん、大丈夫」穂波はそう返し、「そういえば、その紙袋」と、雨谷が持ってきた荷物へ話題を向けた。

「......ああ。そう、穂波さん、ここの和菓子好きだったから。毎年、一回は贈ってるけど」

 雨谷は椅子から立ち上がり、紙袋を持ってテーブルを回って、穂波へ土産を手渡した。熱が飛んだ鍋から、煮汁の香りがほんのり漂っている。



 -近場のバーにて-

「雨谷 穂波は、カクテルの枯れたグラスに指を這わせる」


「なにか、お悩みですか?」店主のバーテンダーが、シロップを垂らしながら尋ねた。入店する時に感じられた甘い香りに慣れた穂波だったが、不意にその香りが強まったように感じた。

「え? あら、ご心配をかけてしまったみたいで」

 穂波は、グラスで遊ばせていた指先を口元に寄せ、笑った。空のグラスに揺れる黄色い電灯が、くるりと表面を撫でたのを見て、悲しげな表情を浮かべた。

「娘のように思っていた子が、長く会えていなかった大切な人と、久しぶりに会えるそうなんだけど......なんだか、色々切なくなってしまって」

 黒光りするカウンターを撫でる穂波から視線を手元へ落として、店主は静かに鼻をすすった。たくわえた髭は清潔なファッションらしく、形が整えられている。

「もう、人生はとっくに折り返しているのに、独り身でいることがそら恐ろしかったり。いつまで、どこまで、仕事を人生の代わりにしていくのか、たそがれたり。あの子は私より深い苦しみの中にいるはずなのに、想う人がいること、それだけで、不意に羨んでいて」

 空のグラスが引かれ、カクテルが差し出される。夜景がとろりと溶けたような、あやしい色が波を立てて揺れている。それを見つめた穂波が、「これは?」と訊くと、店主の男性は手で指し示した。

「あちらの方から」店主の指す通りに視線を向けた穂波は、若くも落ち着きはらった知性をまとう男を見つけた。

 明るい髪色は爽やかな印象で、穂波に向けられた笑顔からは軽々しい印象も感じない。どこまでも好意的な感覚が胸に舞い込んで、穂波は高校時代に感じた以来のときめきを覚えた。

「こんばんは、お隣、よろしいですか?」男性は椅子の背もたれからジャケットを腕にかけて、隣へやってきた。

「......はい」穂波が答えると、手をかけた椅子が優しい音をたてて引かれた。腰掛けた男性は柔らかい笑顔で、最初に謝る。

「すみません、突然で驚かせてしまいましたよね」

「ああ、いえ、全然......」穂波はすっかり面を食らって、姪の雫と大して変わらない歳だろう男に、頬を赤らめる。

「淋しげな表情をされていたのが、気になってしまって。いつか見た絵によく似ている雰囲気が......」

 新しく差し出されたグラスのなかで、氷が音を立てる。強く光を照り返していた氷が、少し溶けたようだった。穂波はどきりとした胸に潜む戸惑いと期待に、一杯目の酔いをすっかり忘れていた。

「絵ですか?」

「はい。油彩の人物画で、下着姿の少女のバストアップが描かれたものです。その少女がそのまま歳を重ねて、素敵になったような──」そこまで話して、男性は恥ずかしげに「あ、すみません。そういった下心で話しかけたわけでは」と慌てて取り繕った。

「は、はい。大丈夫です」穂波はカクテルを流し込む。騒ぐ胸中が、少し冷えて落ち着いたように思えた。顔がアルコールで火照る。脳も少し、その熱にあてられて浮ついた。

「お名前を伺っても?」

「穂波です」と答えると、男性は「あらし 依貴いだか」と名乗った。

 嵐は「穂波さんは、」と会話を切り出し、二人は仕事や互いの人柄について話した。フルーティなフレーバーを好む嵐田は、穂波と歩調を合わせるように酒を味わい、尽きない話題が二人にとって良い時間であるための注文を続けた。

「穂波さん、お強いですね」自分も大して酔った様子でなく、嵐が笑う。

「嵐さんが頼んでくださるのがおいしくて、つい」穂波は両手を柔らかく組んだまま、はにかんだ。背もたれに委ねた体重と、音を立てずに、椅子の脚へ踵を打つ様子を見て、嵐は笑顔でグラスを傾けた。

 次第に、店内の客が入れ替わっていく。夜を明かすつもりで深く腰を下ろしている者もいるが、多くの客はそれぞれの生活に戻る準備のようにため息をつく。店の扉が開いてベルが鳴ると、酒で吐き出した夢や将来の話、愚痴や鬱憤は、舞い込む夜の冷気に吹かれて消えた。

「僕たちも、そろそろ出ませんか?」

 嵐が尋ねる。嫌気のない自信のある振る舞いは女性慣れしている様子も窺えるように感じられ、穂波は答えに迷った。齢四十を超えてから、まさか二十代半ばほどの嵐のような男性にアプローチされることなどはドラマや映画の夢物語だ。成年して以来、付き合って別れた男性もほんの一人。それも既に分かたれた縁であり誰かと体を重ねることも十年はなく、この夜がこの後の人生一度限りであったらと思うと、身震いしてしまった

「......」穂波が黙ってしまうのを、嵐は見つめる。

「飲み直しに行くくらいなら──」

 嵐の手に、穂波は手を伸ばした。酷く暑い秋夜に茹で上がりそうなほど汗を吹き出した額が、店外に出た途端、風に冷やかされた。



 -とある女性が暮らすアパートの一室、浴室にて-

愛故エゴ犯罪対策課から駆り出された刑事の霧原 雄一は、顔を顰めた」


「これで、三件目ですね」

 部下の佐野 時雨は、真っ白な手袋で握ったハンカチを鼻に押し当てて、臭気に耐えていた。霧原もまた、その強烈な死臭と、女性の下半身が倒れている浴室の光景に、胃を直接いじくられているような不快感を覚えた。

「ああ。これまでの二件と似た外見的特徴の被害者、死体の状態、浴室という犯行現場──」霧原は脳内で重なり合う、他の現場の光景や被害者の生前に撮られた写真に、目を細めた。

「疑いようのない、愛故エゴによる連続猟奇殺人ですね」佐野が相槌を打つ。

「これから配管内部を調べてみて、多量の黒鉛が出れば、まあ間違いないだろうな」

 霧原は独り言のような声で、佐野へ答える。その視線は瞼に閉ざされ、緩慢な合掌で遺体へ念を募らせた。

 目を開けると、隣に並んで佐野も合掌をしていた。霧原は視線を落とし、不意に、床の一部の黒ずみに気づく。鉛筆の芯が折れて散った破片を潰したような色は、連続した殺人の影を内包していた。ふと、鮮明に雨谷の顔が浮かぶ。

──雫にあたって、「浴室」や「黒鉛」から連想される「愛故」の症例を聞いてみるか。

 霧原は「少し、電話をしてくる」と佐野へ伝え、脱衣所を抜けた。



 -「心の雨宿りクリニック」にて-

「雨谷 雫は、霧原 雄一の来訪に備え、資料を集めていた」


「浴室の上半身の無い肉体、排水溝や水管から見つかる多量の黒鉛。被害者の外見的類似性。上半身が喪失しているだけなら、『愛故エゴ』による殺人でない可能性も視野に入れる。だけど、外見的類似性からフェチズムや行動規範を持った人間だとは分かる。後者の『黒鉛』の奇妙さからも、嗜好の絡んだ『愛故』だと考えるのは妥当」

 雨谷は思考を放出しながら、分厚い書籍を本棚から抜き出し、腕に抱える。

「愛故」による殺人においての議論の中心はやはり「どのような『愛故』を利用した殺人であるか」だ。どのような現象を引き起こす「愛故」であるかを推察する上で、専門家の意見は特に重要な視点になる。

 その点で、若く経験の浅い雨谷に頼ることは、本来、荷が重い采配だろう。

「『黒鉛』が発生する『愛故』。物質から連想できるのは『鉛筆』かな......」

 書籍の索引を引き、症例が羅列されたページを開く。膨大な量の症例が記されたその書籍は重厚で、雨谷の胴体とほぼ同じ厚みを有している。書籍が厚いことも確かだが、雨谷の体が華奢すぎることも確かだろう。

「『愛故』の発症は芸術家や表現者に多く、その表現方法によった現象を起こすケースがほとんどであることからも、鉛筆を用いた描画をする絵を好んでいる人間が犯人であると考えられるかも」

 雨谷は『鉛筆画』『デッサン』『画家』『芸術家』といった単語を、メモに記す。書籍の内容と見合わせながら、雨谷はソファへ近づく。透明なガラステーブルを拭いていた晴野が雨谷を振り返り、笑う。

「危ないですよ。本を読むのは、座ってから。......太陽さんと会うんでしょう?週末まで、怪我はしないようにしないと」

「......大袈裟、じゃないですね。気をつけます、ありがとう」雨谷は微笑み、ソファへ腰掛けた。前のめりな姿勢で、書籍とノートパソコンを並べた。指紋認証で立ち上げたパソコンからウェブブラウザを開き、愛因性多機能障害学研究データベースにアクセスする。心理士として登録された雨谷のユーザーIDとパスワードを打ち込んだ。

 「愛故」の影響を受けた人の後天的障害や誘発された疾患が、このデータベースには登録されている。人の興味をひく必要がない閉鎖的情報の海には、鮮やかなデザインの意匠も、いやに都合の良い解釈で骨が省かれた皮と肉だけの情報もない。潜水艦も無ければ、酸素ボンベやシュノーケルもない知的活動における潜行。雨谷は自分自身の脳の肺活量一つで、情報の大海に潜る。

「全身の圧痛を訴えた女性。鉛筆画を嗜むパートナーの通報により救急搬送。搬送中に、呼吸困難により意識を失う。搬送後、死亡が確認。女性の体は、パートナーが鉛筆画に用いていたクロッキー紙へと変化。クロッキー紙上には木造の椅子に腰掛けた女性の全身が描画されており、痛みに苦しむ表情だった。その後、女性は憂いを帯びた表情へと変化をした。これは、パートナーが描いていた女性の表情と非常に酷似しており──」雨谷の独り言に、部屋を掃除していた晴野は耳をそばだてる。雨谷は他の症例についての記述を新たに開き、霧原から聞いている情報と共通する部分がないかと、意識を集中させた。

「『バストアップ』......上半身、胸より上を描いた絵。滲んでしまった絵の具のように、顔立ちが崩れた女性がいる......女性は、洗顔をした際に強く痛みを訴えた。視力を失ったものの、命に別状はない」

──この症例は、良い手がかりになるかもしれない。

 そう雨谷が直感した時、クリニックへの来客を知らせる、柔らかな鈴の音が聞こえた。雨谷と晴野は目を見合わせる。

「今日の予約はありませんでしたよね?」

 晴野の言葉に、雨谷は「ええ」と頷く。

「すみませーん」男性の声が聞こえた。晴野が応対に向かうのに対して、雨谷も後ろから付いていく。

 二人がいた談話室は、待合室から伸びた廊下を曲がった先のつきあたりに位置する。晴野が駆け足気味に曲がり廊下を行くのを、雨谷は見つめながら、来客のわけを考えた。

 応接室の高い位置に設置された窓は、日光に溶け出すように輝いている。フローリングが照り返した光で、応接室全体にまで、太陽の暖かさが充満していた。そこにいた客人もまた、太陽のように強い輝きを持っていた。

「ああ、どうも。こんにちは」男性の肌は、木漏れ日を見つめ返しているような色をしている。瞳は、風鈴の鳴らす音のように涼しげな色だ。挨拶として下げた頭は、ブロンドの髪がかっちりと固まっている。ただ、ほんの一筋だけ、光の糸が垂れた。

 晴野は呆気に取られる。海外の映画スターのような外見をした男性は、日常というスクリーンから浮いてしまっている。

「突然ですが、雨谷 雫さんはいらっしゃいますか?」

 聡明な声色、誠意のある視線、主張が強いパーツそれぞれが確かにまとめ上げられている顔立ち。そのどれもが、目の前の晴野を意に介さないように、雨谷へ向けられていることに、雨谷だけが気づいていた。

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