雨谷 雫と「姉弟」

 -放課後の帰路にて-

「大内 みおは、弟のりんが大好きだ」


 大内 澪は重たいリュックに背中から潰されそうになりながら、靴紐を結ぶ。

「ばいばーい」と手を振って笑う生徒が抜けていった。スカートが尾を引くように作りだした風が、しゃがんでいた澪の前髪を攫う。右手をそっと当て、撫でるように整えた。

「ねえ、帰ったら電話できる?」と問う声が聞こえた。続いて「ごめん。今日、塾あるから」と応じる生徒を振り返り、澪はなんでもなかったように靴紐をリボン状に留めて、脚に力を込めて立ち上がった。

 スカートの裾を引いて、背負った荷物に吊り上げられていないか確認し、そのまま玄関から外へ出た。頭上から出張った日陰から、曇りがちで雨が降り出しそうな空を見上げる。

 不意に、背中からドンとぶつかられた。

「新キャラ、性能やばくね?」と男子の声が聞こえ、衝突された肩を抑えながら、そちらを見る。当人は何も気づいておらず、後ろから話題に応じる男子が、困ったように澪を意識しながら通り過ぎていった。


 澪は、中学校が嫌いだった。

 アニメやアイドル、ゲームや動画配信など、最近同年代の子が没頭しているようなことには熱中もできない。勉強はそこそこで、運動はそこそこより下に寄っている。

 別に他人と合わせた趣味を持たなくていいと考えて、動物や宇宙の本に手を出したことがある。内容をなんとなく理解しつつも、半分まで読み進めたところで、理由も言い訳もなしに本棚へ戻した。

 友人を作るうえで必要な話題を持たず、かと言って内向的な気質の自分には、趣味というツール無しに人と話せる度胸はない。弟の凛はゲームが大好きで、彼と一緒に見るゲーム実況系の動画の言葉を借りるなら、澪の状態は「装備無し縛り」とか「弱キャラ縛り」とか、自身に枷をはめた「縛りプレイ」だ。

 澪は寂しかった。

 居場所のない教室で、いつも窓から外を眺め、時折、隣に建っている小学校の方へ視線を向ける。窓と小学校の位置関係からして、見えるのはせいぜい、小学校を取り囲む塀とその内から伸びる植物だ。しかし、心が落ち着く。

 そこに弟の凛がいて、帰り道を一緒に歩いて、家まで帰る。家に帰ったら、一緒に宿題をして、凛がゲームをするのを眺める。順番にお風呂に入ったら髪を乾かしてやって、たまに逆の立場にもなる。両親は共働きで、母は五時を定時に切り上げて帰ってくるが、遅い時は二人きりでご飯を食べる。

 あーん、をしてあげたい。一緒のベッドで寝たい。一緒にお風呂に入りたい。

 澪はそういう妄想を繰り返して、信号一つを隔てた小学校まで歩いて行き、インターホンを鳴らした。

 ぷつ、と電話の接続された音が鳴って「はい」と中年の女性の声が聞こえる。

「大内 澪です。弟の迎えに来ました」

澪が答えると「あー! はいはい、いつもありがとうね〜」と女性が明朗な声で応じてくれた。澪は数歩横にズレて、所定の位置に着く。

 お腹の前で両手を組み、小さく顎を上げて中を覗き見る。澪自身も通っていた校内の様子は、卒業してから変わったようにも思えたが、実際のところは分からない。

 指をぱたぱたと互いの手の甲の上で踊らせ、たまに周りに人がいないことを確認して、背伸びをしてみる。そうしていると、学童の職員さんと凛が姿を現す。凛の顔を見るなり、澪のじれた表情は解き放たれたように明るくなる。姿を見せた凛も同様に、その可愛らしい顔立ちを存分に活かした笑顔で応え、靴箱に手を突っ込む。

 職員の会釈に、澪はしっかりと会釈を返す。胸から湧く感情が冷めやらないまま結んだ口元は、顔を上げても直らない。

 色の濃度が強い外靴に足を突っ込み、テープを付け直して、凛は立ち上がった。ガラス越しにその手つきを眺める澪は待ちきれないように、背伸びした状態から踵を打った。

「凛!」扉が開くよりも先に名前を呼んで、腰を屈ませる。

 澪が広げた腕に吸い寄せられるように、凛は抱きしめられた。遠慮がちに「ただいま」と言った凛は、恥ずかしげに首を振る。いつもより熱い迎えに、彼は少し照れた。

「お迎え、ありがとうございます」

 微笑む職員に軽く挨拶をして、澪は手を繋いだ凛と帰路に着いた。



 -二人で過ごす時間の中で-

「大内 澪には、願望があった」


 大内 澪は、弟の凛が漢字を書いている姿を眺めていた。

 握ったシャープペンを静かに寝かせて、握った鉛筆を小さな手で動かす凛を見つめる。よく分からない英字が書かれた原色感の強いパジャマの首元は無防備に晒されている。鎖骨が小さく隆起する白い肌に、澪は目を奪われていた。

 鉛筆の走る手が止まった。それを見て、澪は表情を改め、笑顔をつくる。

「お姉ちゃん」凛が顔を上げるのに合わせて、自然に首を傾げ「ん、どうしたの?」と聞き返す。

「ここ」凛が指を差す。

 澪は凛の隣に寄って、プリントを覗き込む。並んだ漢字それぞれに指先を動かして、凛が笑う。

「お姉ちゃんと僕の名前と、一緒?」嬉しそうな表情で言う凛に、澪は身震いを抑えた。

「ほんとだね!」澪は同調し、それから「あ、でも、お姉ちゃんのは『さんずい』って言って、『ちょんちょんちょん』って書くんだけど、凛は『ちょんちょん』って書く『にすい』だね」とプリントの空きにペンで書き示す。

「......じゃあ、僕は違う?」至近距離で見上げられ、気が気でなくなりそうなほど、澪の心臓は跳ね上がった。

「......一緒が良かった?」

「うん」

 澪は腹の底から湧くものが、途端に脳から噴き出すほどの快感にあてられた。泣き出してしまいそうな歓喜や、声を上げずにはいられない興奮に似た、ある種のエクスタシーだ。

 大内 澪は、獣だ。

 その柔らかく白い肌に今すぐにでもありつかんとする、飢餓状態のライオンだ。

 凛が「お姉ちゃん」と笑う。

 その膨らんだ頬、細い首、さらりとした肌の質感がやけに感情を掻き立てる。

 手は握れば閉じ込められるくらいに小さく、全体的に痩せ型だと言うのに二の腕はこぼれそうな肉感がふっくらとしている。

 声は邪気がなく、風鈴に似た音色をしている。けれど、風鈴よりもよく鳴り、かつ脳にまで澄み渡り響く。

 たまらなく可愛くて、好きで、好きで、仕方がない。

 澪には、それらを我慢することが耐えがたい。そのじれったさを味わえたのは、欲求を認知してから、ひと月かふた月の間の話である。今はただ、解放のみを望んでいた。

「凛!!!」強く抱きしめ、名前を呼ぶ。

 凛は戸惑い、澪の背中に腕を回した。優しく触れ、それから、僅かに抵抗する。

「お姉ちゃん、恥ずかしい」凛が照れたように言うので、「なんで?」と澪は返す。

「だって、僕、男なんだよ?」

 凛がそう言った時、澪は、やけに醒めた。


 過去に、母が夕ご飯の時、父に言った。

「だって、凛にべったりなのに、お友達もいないみたいなのよ? いくら姉弟って言っても、男の子と女の子なんだし」

 澪は、母の言葉を聞いた夜、手をつけかけた夕ご飯を残した。自室に閉じこもり、涙を流しながら布団を抱きしめ、包まれていた。涙の訳は怒りでも悲しみでもなく、「私はおかしい」という、以前から気づいていた事実だ。

 中学校で周りの子が繰り広げる、ジェットコースターのようなアトラクション的恋愛ではない。一方で、母が見ているドラマで描かれる、夜景を眺めながらゴンドラに揺られる恋愛でもない。

「私は異常なんだ」と、見て見ぬふりをしていた烙印が、光を当てられて浮き上がっただけのことだ。そう自覚してもなお、その欲望は食欲のように、腹の底から湧き上がる。

「ごめんね......嫌だよね、凛」

 澪は泣き出した。繕っていた笑顔も、その裏に隠していた恍惚も、全部が歪み合って一つになったみたいな泣き笑いだ。手で顔を覆い、せめて上手くなくとも、それらを見せまいとする。

「お姉ちゃん......?」凛は当惑して、澪が泣いているのを見た。

「男の子だもんね、お姉ちゃんがベタベタするの、恥ずかしいし嫌だよね......?」

 訊くと、凛は澪の腿に手をついて乗り出して「僕、嫌じゃないよ?」と言った。澪はその言葉を受け入れられず、「でも、恥ずかしいでしょ......?」と返す。

 凛がどう言葉をかけても、澪は苦しくて辛かった。



 -一ヶ月後、『エゴ』に関する特別授業にて-

「大内 澪は、自分の『エゴ』を恐れていた」


 大内 澪は床に体育座りをして、時々、窮屈に感じられる制服を調えながら話を聞いていた。講師の顔を見つめ、「若い人」「すごいな」と思いながら、スクリーンとの間で視線を行き来させる。

「雨谷さんは、『エゴ』を抑えるために、どんなことが必要だと考えていますか?」

 教員が質問をした。講師として招かれた雨谷は、生徒たちに落ち着いた表情を向け、マイクを通して語りかける。

「『エゴ』は、愛情の病気です。愛情は、心の中にある、一番『あったかいきもち』のことです。一番『あったかいきもち』を大切にしてあげることが、すごく大事なんです」

 胸に手を当てて話した雨谷は、「みんなは、風船を膨らませたことはあるかな?」と続ける。

「風船は、ふうふう息を入れたら、膨らむよね? 入れすぎたり、針で刺したら、『ぱーん』って割れちゃいます。心も、風船と一緒だと思ってあげてね」

「だから、『あったかいきもち』の中にある、『あの子の声を聞きたい』とか『私を、僕を見てほしい』とか、照れ臭いこともいっぱい伝えてください。心の中でいっぱいいっぱいに膨らんで、割れちゃうと危ないからね」

 満足の得られる解答だったようで、「わあ、そうなんですね。ありがとうございます」と教員は頭を下げた。

 澪は、自分が泣き出してしまった二つの日のことを思い出す。

 一つ目は、自分自身で悩んでいたことを、母に言い当てられてしまった日。二つ目は、『風船が割れたとき』に、母に言い当てられたことを思い出し、凛に慰められた日だ。

「それと、大切なことがもう一つあります」雨谷が人差し指を立てる。

「それは、『あったかいきもち』でいっぱいの風船を受け取った時、嬉しくて嬉しくてたまらない時、手を繋いだり、抱きしめ合ったり、それを話せる人にいっぱい話してください」

「もしかしたら、言いにくい『きもち』もあるかもしれません。でも、『言いにくいな』と風船を外から抑えちゃうと、割れちゃうんです」

 雨谷が付け加えた内容に、教員からも感心した声が上がる。この話は、想定していた台本には無かったのだろう。生徒たちに届けるための演出の歓声ではない声を聴き、澪は自然と手を上げた。

「あ、そこの子。質問かな?」

「え、」澪はためらう。意識せず、気づけば伸ばしていた腕を引っ込めようか、逡巡して立ち上がる。

「あの、私、すごく好きなものがあって......」

 澪は、弟の凛の顔を思い浮かべた。泣き出してしまった一件以来、凛への気持ちは収まったものの、以前、それらが限界になることを不安に感じていた。

「好きなものがある、良いことですね。ちなみに、なんですか?」雨谷の物腰の柔らかさに、澪は引き込まれたように胸が軽くなった気がした。

「......弟、です」一緒に授業を受けていた生徒から、ざわめきが生まれる。

「弟さんが大好きなんですね」

 雨谷が微笑む。

「はい。......その、それで、」澪は、手をぎゅっと握った。言いにくい「きもち」がぐるぐると脳内を巡っている。一緒にお風呂に入れなくなってから見れなくなって、想像の中にだけある凛の体のことが、最初に思いついた。

「──ずっと一緒にいたいなって、思ってて」

 澪は、胸の前で握っていた手を離すことができなくなった。

「そっか。じゃあ、弟さんとお話ししよう。その時は、一緒に暮らしてる家族の人も一緒にね。きっと弟さんも、お姉さんのこと大好きだから、いっぱい応えようとしてくれると思う。だから、家族の人の助けも借りて、『あったかいきもち』が割れないようにしようね」

 雨谷は「いいお姉さんだね」と、最後にもう一度、微笑んだ。

「はい」

 澪は手を握ったまま座り直し、また風船が膨らんでいることを自覚した。

 以後の授業については、ろくに心が追いつかず、気づけば終わりに差しかかっている。

「そして、『エゴ』や『エゴ』の影響の治療については可能な場合と不可能な場合を話しましたが、不可能な一例の中には、『エゴ』の力が残ってしまう場合があります」

「例えば『エゴ』の特性として、好きな相手を『ちっちゃくできる』ようになった人がいたとします。そうすると、その人は他の物も『ちっちゃくできる』ようになってしまう場合があります」

「一見すると便利そうですよね、物をちっちゃくできたら。でも、人をもし小さくしてしまったら、元のサイズに戻せないまま、直後に相手が亡くなってしまいます。体の作りはそのまま小さくなっているのですが、小さくなった時のサイズだと臓器がうまく機能しなくなるんです。怖い話かもしれませんが、それだけ大変なことです」

 澪は、自分より後ろに座っている生徒全員から、後ろ指を刺されている気分になった。自分の想いが原因で、凛がそのようなことになるとしたら、とてもじゃないが耐えられない。おそらく、校舎の屋上から飛び降りるだろう。

「そして、残った『エゴ』の力を悪用する人も、中にはいます。皆さん、いつも学校で言われていることだとは思いますが、怪しい人には付いていかないようにしましょうね。何かに巻き込まれた時は、すぐに近くのお店に逃げ込んで、大人を頼ってください」

「私の所でも、大丈夫ですよ。学校からは少し離れますが、十六条の区民センターと同じマス目の中のちょうど対角に、私の相談所があります」雨谷の表情の崩れなさを、澪はただ眺めているだけだった。

「あ、でも、それなら区民センターに逃げ込んだ方がいいですね。あはは」

 教室で沸いた笑いから、澪は孤立した。



 -雨谷が招かれた特別授業を受けた日、放課後にて-

「大内 澪は、弟の凛の様子に困惑していた」


 大内 澪は、いつものように凛と手を繋いで帰っていた。一度、遠慮がちになった澪にも凛から願って、またそうして帰る関係が続いていた。

 澪は家族で話すべきだと分かりながら、自分の想いを打ち明けるられる気がしなかった。アスファルトを見つめて、考える。視点を置いていた灰色の地面は、足を踏み出すたびに踏み潰され、視界から消えていく。

 第一に、澪は自分自身の欲求にどのような名前が付いているかを知らない。どのように言葉にできるのかを知らない感情は、いやに後ろめたさだけが募って、口にできない。あてどもないまま晒すには、その感情は自身からしても気持ちが悪かった。

 ふと、信号待ちをしている隙に、凛の方を見る。凛はすぐに視線に気づき、笑みを返した。

「凛、なにかいいことあった?」

 澪が問うと、凛は「んー、......うん」と返した。凛ははにかみ、頷く。信号が切り替わって、視線を逸らした凛が先に歩き出す。繋がれた手から促されるままに歩く澪は、「なにかは教えてくれないの......?」と問う。

 切り替わってすぐに渡り始めた信号だったが、渡り終わる寸前には点滅を始めていた。ここの信号は、一方の周期だけ、やたら短い。

「お家、帰ったら教えてあげる」

「そっか......」

 ぽつと頬に雨粒が垂れた。

「あ、雨」と凛が手を出して呟く。澪は「ちょっと待ってね」と凛の手を離した。背負っていたリュックから片方の腕を抜き、前に抱えて折り畳み傘を取り出す。

「はい」

 傘を開いた澪は手を繋ぎ直し、少し背を低く屈ませた。

「ありがとう」凛が笑うので、澪は笑い返す。降り始めた雨は勢いを強め、家に着く頃には激しい風が二人をぐしょ濡れにしていた。



 -急な雨に降られた日 脱衣所で-

「大内 澪は、タオルを棚から取り出していた」


 大内 澪は、真っ白なフェイスタオルを二枚出し、自分よりも先に凛の髪を拭き始めた。凛は「お姉ちゃん、ありがとう」と言って、素直に立っていた。膝立ちになっていた澪は、痛みを感じながら優しく水気を拭う。

 さらさらした髪質を感じながら、雨に降られた体温を至近距離で感じる。

「お風呂、今日は先に入ろっか。風邪、引いちゃうかも」澪はタオルを頭から離して、促した。

「お姉ちゃんは後に入るから、先にどうぞ──」澪が立ち上がり、タオルを持って去ろうとした時、制服の裾が引かれた。

 凛が、澪を見上げている。二人を繋ぎ止めた右手の力とは対照的に、居場所を探している左手が、ズボンの腰の辺りをきゅっと握る。

「一緒に入ろう?」

 凛が聞く。濡れて額に張り付いた真っ黒な髪の間に覗く白い肌が、澪の目に留まる。その視線を外せないまま、澪は「え?」と聞いた。

「だ、大丈夫だよ? お姉ちゃんは。ストーブ付けて暖まって待ってるから、入っておいで?」澪は戸惑う。

「ううん、そうじゃなくってね......」凛は床や、横に並ぶ洗濯機、澪の足元と視線を迷わせた。澪は違和感を感じる。

 凛がまるで、凛でない何かに変わってしまったような気がしていた。その表現は実のところ、適切ではない。凛は凛のままであり、同時に、なにかの確信を得てこのような提案をしている。

 その大きな変化の正体と実情が何であるか、澪は怖かった。澪は持っていたタオルを胸に寄せる。

「どうしたの......?」

「あのね、」

 凛は澪から手を離し、Tシャツの裾に手をかけ、両手でめくり上げた。

「僕、女の子になったよ」

 澪は服の上からでは分からなかった、小さな成長に愕然とした。



 -大内 凛に「エゴ」が発現して二週間-

「大内 澪の心は、大人にも判別できない感情でいっぱいになっていた」


 大内 澪は、医薬品をまとめていた収納の扉を開き、中から円形の容器を取り出す。薄いピンクの蓋を取り外すと、スプーンでほじって食べていた箱アイスみたいに、指でこそいだ形の残る固形のクリームが現れた。

 隣で直立して待つ凛は、脂汗のようなものをかいている。貧血気味なのか、肌や唇も血色が悪い。

「凛、ごめんね。お腹が痛いのは治った?」澪はそう言いながら、凛の胸に触れる。

「うん、大丈夫」時折、くすぐったそうに身を震わせる凛に、胸がざわついた。触れることへの恐怖と、自身が生み出した事態への罪悪感が息を詰まらせる。

「また擦れて痛くなったら、自分でこのクリームを塗るか、お姉ちゃんに教えてね。それと、体育の授業がある日は、包帯かなにか巻いていこっか......」

「うん、ありがとう」凛が笑うので、澪には懺悔もなにもできない。

 なにが「ありがとう」なのか、どうして「凛の体が女性になっていっている」のか、いつまで母に隠せるか。澪は、思考する隙間もないほどに切迫した胸中に、声が出なくなる。

 手に取った包帯を取り落として、床に転がって広がる。

「あ」と凛が声を上げて、澪も気づき、それを拾う。

「ごめん、試しにしてみよっか?」

 力なく笑ってみて、気づいた。

 凛の体が変化することは、いつまでも隠せることではない。母にはきっと強く叱られ、父は衝撃を受けて会話に壁をつくるだろう。

 澪は、凛の人生を変えてしまったことを理解して、凛の胸に触れた。男の子にはない柔らかな感触に触れて、一言だけ漏らした。

「どうして......?」

 包帯やクリーム、凛すらも置いて、澪は家を飛び出した。



 -「心の雨宿りクリニック」にて-

「雨谷 雫は、少女の訪問に微笑んだ」


 雨谷 雫はカウンセリング用の部屋へ大内 澪を案内した。晴野に促され、澪は木製のイスに座る。乗っていた浅い緑のクッションは柔らかく、腰が沈む感覚がした。晴野がリモコンを手に取り、室内の光を白色から少し刺激の弱い暖色に近づける。

「大内 澪さんだよね。二ヶ月前、『エゴ』の授業で先生をさせてもらった雨谷です。覚えててくれたのかな?」

 雨谷が問いかけると、澪は静かに頷いた。名前を知っていたことに、澪は反応を示さない。

「ありがとうございます。とっても嬉しいです。今日は、どうして来てくれたのかな?」

 核心をつく質問に、澪は少しギョッとした。その話をしに来たことは確かなのに、吐露することに体が硬直する。

「話しづらいかな」と、雨谷が澪を見つめる。澪は雨谷との間に隔てられた机の木目を見つめて、たまに唾液を飲んで喉を動かす。

「じゃあ、じゃんけんしよっか」

 澪が顔を上げる。雨谷が出したグーの手に目が止まり、口を開いた。

「え?」

「ふふ、じゃんけんだよ。私が勝ったら、一つ質問してもいい? 答えられそうだったら、答えてみて」雨谷はそう言うと、否応無しに「じゃーんけ〜ん」と腕を振った。

「ぽん」雨谷の合図に、慌てて澪も手を出す。

 勝敗は、澪がパーを出して、雨谷はグーを出していた。

「あ、負けちゃった」

 雨谷は困ったように笑う。澪は呆然と、その様子を眺めた。その隣で、晴野はカタカタと音を立てて、パソコンと向き合っている。

 澪は、パーを出して固まっていた手を引っ込めようとした

「──大内さん」と雨谷が声をかけ、手のひらを見せる。

「手は握らないで」

 その言葉に、澪はフラッシュバックする。雨谷へ質問をしようとした時の仕草を観察していた雨谷の微笑む目が、また自分を見ている。

「手は開いたまんま、あの日、言えなかったことを教えてください」



 -大内家の両親が到着してから-

「大内 澪は、母に抱き締められた」


 大内 澪は待合室のような場所で、時計を眺めて待っていた。隣のキッズスペースの縁に座った雨谷は、児童用の絵本を足を組んで読んでいる。澪はその様子を気にかけては、空間の雰囲気に視線を泳がせた。

 柔らかいソファや、表面の仕立てが良さそうな小さなテーブルなどのインテリアの色合いはシックで、自然と息が休まった。明かりはオレンジみがあって、床や壁の木材の反射も相まって気分も暖かくなった。

 受付カウンターで立っていた晴野が、玄関の方に視線を向ける。すぐに扉が開く音が鳴り、付けられた鈴がコロコロと、おむすびが転がるような音を鳴らした。

みお!!」姿を現した母親は、真っ先に名前を呼んで走り、抱き寄せた。

「なにか、巻き込まれたんじゃないかって心配したの! 大丈夫だった? なにがあったの? 怪我はない?」

 後ろから歩いてきた父親も、かける言葉に悩みながら「大丈夫か?」と訊く。その脇に、凛が俯いて立っているのを、澪は見た。

「......お母さん、私ね、言わなきゃいけないことがあるの」

 澪が打ち明けようとした時、雨谷がそれを遮った。

「──澪さん。それは、私がお話するよ」

「え?」澪が視線を向ける。同時に、澪を抱いていた母もまた、雨谷を見る。

 雨谷は閉じられた絵本を元の場所へ挿しこむと、ゆったりと立ち上がった。

「私のお仕事だから」

 雨谷は視線を手前の二人から飛び越えさせて、凛へ向ける。

「凛くん、お母さんたちと一緒に来てくれる?」

 凛に対して、家族の視線が向く。彼は臆しながら、強く頷いた。

「ありがとう」

 雨谷は「晴野さんは澪さんと一緒に」と付け加え、家族をカウンセリングルームへ案内した。



 -全てが打ち明けられて カウンセリングルームへ-

「大内 凛は、姉の澪がだいすきだ」


 雨谷 雫は、大内 澪が「エゴイスト」であると思えなかった。

 澪は、凛を強く好いている。しかし、彼女が話す言葉には一切、弟の大内 凛が女性化するという願望は存在しなかった。

 澪が度々、「どうして」と漏らすたび、彼女の「エゴ」ではないのだろうと、雨谷には思えた。

「エゴイスト」の中には、自身の「エゴ」であることを受容できず、願望を否定する者も一定数いる。しかし、澪は手を握らず、全てを話してくれた。

 膝に置いた手が、何度折り曲がろうと、決して握らなかった彼女は、嘘をついていない。なにより、自分自身のせいだと主張していることこそが、自分の「エゴ」に見て見ぬふりをしない人間である証左だ。

「凛、触ってもいい?」母が、凛の胸へ手を近づける。

 凛がそれに応じ、母は服の上から触れた。感じられたようで、感じきれない表情を見せる。

「ほんとなんですか......?」母が尋ねる。隣の父もまた、雨谷を見る。

「私は、確認していません。しかし、娘さんのお話からも、事実かと思われます」と雨谷は告げ、イスから立ち上がった。

「一度、私は部屋を出ますね。実際に、確認していただいて、そうしたらすぐに呼んでください」雨谷は廊下へ出た。

 それから、一分ほどの沈黙が続き、雨谷は呼び戻された。

「先生、これは治るんでしょうか?」父から切り出す。母は、こめかみを指先で撫でるようにして、額から下りる髪をかきあげた。髪がするりと滑り、また目元にかかったのを、繰り返しかきあげる。

「そうですね。カウンセリングによって治療できる状態にあります。こういった、身体の変化を引き起こす『エゴ』については、死亡など生き物として不可逆な状態に陥らなければ、治療が可能と考えられています」

 母の視線が雨谷を捉え、吊るされたように張っていた胸と肩から力が抜ける。

「ほ、ほんとですか?」

 雨谷は「はい」と目を見つめ返して答える。その視線をそのまま、凛へ移す。

「凛くん、どうして、女の子になろうと思ったのかな?」

 不意の質問に、両親が困惑した声を上げる。家族間で視線を交わす中、凛は肩を狭く縮めた。

「ど、どういうことですか? 澪がこうしたんじゃないんですか?」母は凛の肩に手を置いて訊いた。

「ええ、おそらく、凛くんが望んだことかと、私は考えています」

「そ、そんな、だって、どうしてそんなこと」母が言いかけた時、凛の背中がどんどんと折れていった。うずくまるように、凛がイスから落ちる。

「「凛!!」」両親が名前を呼ぶ。

 雨谷はすぐに立ち上がり、横になっている凛へ近づいた。

「お父さん、凛くんは動かさないで、一度、そのままで」

 雨谷は扉を開き、晴野の名前を呼んだ。それから、凛へ近づき、声をかけながら腹部に人差し指と中指を当て、優しく圧迫した。凛からは返事もなく、汗をダラダラとかいて気を失っていた。

「お腹が張ってます、晴野さん、救急車を呼んでください」



 -夕ご飯の一言 凛の「エゴ」-

「大内 凛が妹だったなら、大内 澪は泣かなかった」


 大内 凛は、姉の澪が好きだった。

 それは、純粋な気持ちだ。水は器がなければ広がってしまう。そんな当然の現象と同じように、必然の反応として、澪の愛情が嬉しかった。

 凛が言葉を話せない頃から、澪は凛の面倒を見た。それは自発的な行為で、両親に任されたことでもない、純度の高い愛情だった。故に、凛は澪を愛している。母や父と同じか、あるいはそれ以上の想いだ。

 手を握って歩いていると、澪の足音は凛のそれよりも大きく強くて、腕から腕へ伝わって、心臓にまで届く。

 お風呂に入った後、ドライヤーをかけてもらう時は、頭を撫でてもらうみたいに手つきが優しい。

 嫌なことがあっても澪は優しくしてくれることを知ってるから、嫌なことがあっても凛も優しくなれた。

「あったかいきもち」の風船をいっぱいくれた澪に、愛情の使い方を育てられた凛にとって、姉を想う姿勢は当たり前の仕草だった。

 誰に、なんと言われようとも、そうしていたかった。

 けれど、母が発した言葉に、澪が泣いた夜があった。母に非があるわけでもなく、澪に非があるわけでもなく、ただ心配と不安が食い違っただけのことだ。

「いくら姉弟て言っても、男の子と女の子なんだし」

 その言葉を思い出して、自然と、一つの結論に行き着いた先に、「エゴ」が生まれた。

「あら、弟くんなの? いやだ、もう、私ったら、妹ちゃんかとばっかり」

 道ですれ違った高齢の女性に言われた言葉がある。

「凛、お前、男なのに姉ちゃんと手繋いでんの?」

 同級生に笑われた言葉もあった。

「男の子だもんね、お姉ちゃんがベタベタするの、恥ずかしいし嫌だよね......?」

 澪の涙もそう言っていた。

 自分が妹であれば、女の子であれば、みんな認める。そう言われている気がした。



 -「心の雨宿りクリニック」にて 昼下がり-

「雨谷 雫は『大内 凛』に関する行政書類の校正を行なっていた」


 雨谷 雫は、自身の選択に対し、迷いを抱えていた。

 大内 澪の状態を見た時、学校と取り合って名前を聞き、彼女を気にかけるように雨谷は伝えた。当時、カウンセリングの場を持つ提案をするべきか悩んだ時、そうしなかったことに、小さな後悔があった。

「晴野さん」お茶を淹れる彼女へ、声をかけた。

「はい、なんですか?」

 振り向いた晴野を見て、雨谷は「んん、なんでも」と誤魔化す。

「......凛くん、手術が上手くいってよかったですね」

 晴野は簡素なデザインのポットを傾け、ティーカップに紅茶を注いだ。二つのカップに、角砂糖を一つと二つ、分けて入れる。

「うん。月経を迎えて、血が溜まってたみたい。子宮の形成と成長が先行して、外部に排出する機能が整わないまま、圧迫されてた。これまで『エゴ』の症例で女性化した人は文献では確認してたけど、児童の例は初めてかもしれない」

 晴野は「そうですね」と言いながら、紅茶を前に差し出した。匂いを嗅ぎ、「落ち着きますよ」と隣に座る。

「うん、ありがとう」雨谷は笑顔で返し、カップを手に取った。

 匂いを味わって、晴野の肩に頬を預ける。

「飲まないんですか? 今日は、澪ちゃんがカウンセリングに来る日ですよ?」晴野が高貴な仕草で笑う。雨谷は、穏やかな表情で笑った。

「うん、ちょっと、こうしてあったまりたい」

「そうですね、私としては十分暑いんですが。......まだ寒いですか?」

 雨谷は、目をつむる。

「......ちょっとね」



 -いつも-

「大内 凛は、大内 澪に笑っていて欲しかった」

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