カウンセラー雨谷雫と奇妙な患者たち
ちひろ
雨谷 雫と「カメラ男」
-事件当日-
「風倉 修平は被害者女性の宮野 明心とデートをしていた」
風倉は、湖をゆったりと眺めている。夕焼けが反射して、色が白飛びしたみたいに輝く湖面に、涙が溢れそうなほど心が震える。
自然と、手にしていたカメラを向けた。
湖に浮かぶボートに乗って水を跳ねながら笑い合う男女も、飛んでいく鳥の黒いシルエットも、水面にまぶされたスパイスみたいな夕暮れも、その時のその場所でしか存在しない。
だから人間はカメラを通して、一つの記憶を残す。
手のひらサイズの、大切な記憶だ。そうして、写真に残された全てを、自分だけの物に変えてしまえる。
「......綺麗だね、風倉くん」
シャッターを下ろして吐いた一息に重ねるように、隣の彼女が言う。
「うん、とっても」
カメラを下げた風倉は、丸い淵のメガネの奥にあるとびきり優しい瞳で、彼女を見つめる。秋口の冷えた外気に、少し手が震える。
「あのさ、手、握ってもいい?
彼女は「いいよ」とだけ笑って、差し出された手に、自身の手を置く。
「ねえ、私のことも、撮ってよ」
彼女は風倉の手を引いた。振り向いて、早足で進む彼女の茶髪が靡いて、夕日に透けて消える。風倉は浅い息を吐くたび、楽しくて仕方がなかった。
「どこが良いかな、言って?」
彼女は振り返らなかった。息遣いすら飲み込んだように、黙って走る。彼女の指が浮いては、風倉の肌に吸い付く。
その様子を見て、風倉も途端に黙ってしまう。すぐに、手汗が滲んだ気がして、慌てて周りを見回し「あ! ここ! ここが良い」と伝えた。右耳からずれたメガネをかけ直し、彼女の背中を見る。
「え? ここ?」
彼女は振り返り、立ち止まった。
荒れた呼吸をしながら、彼女は「あはは、久しぶりに走っちゃった......」と髪に触れる。赤くなった頬だけが、白い肌に浮いて見ていられない。
「じゃ、じゃあ、撮るね?」
名残惜しく、手放すことを確認するように、風倉は彼女に訊く。
「うん、お願い」
彼女は笑って、肩から下げたお出かけ用の鞄の紐を慎ましく引いて、笑いかけた。
その振る舞いのまま、彼女は景色に目をやる。いつも、写真を撮る時、カメラを意識しないように目を逸らすのだ。意識してしまうと、熱っぽくなってしまう。
風倉は小さな声で「うん」と頷き、シャッターを切る。
一瞬一瞬を選び、瞬きを重ねる。光が行き過ぎるような感覚で、流れていく時間が早る。けれど、夕日はまだ湖と半身を共にして、そこで輝いている。
二人の時間はいつも、あっという間で永い。
全てが傑作と呼べるわけではない写真が、蓄積していく。そのどれもが、人の行う記憶よりも選り好みされていない、自然的なワンシーンだ。
「──ねえ、」と彼女は口を開き、顔を上げた風倉へ「撮りすぎだよ」と笑った。
二人はベンチに座って、肩を寄せ合っていた。夕暮れの色は紫にひっくり返ったようで、街灯が二人を照らしている。木々の葉や湖の表面を撫でる夜の声が、静かな公園を抜けていく。
「楽しかったね、今日」
肩が触れ合う距離で風倉を見つめ、彼女は伝える。風倉がカメラを持つ手に、細い指と冷たい手のひらを重ねて、皮と皮とが溶け合うような力で止めた。
「風倉くんが私のこと心配してくれるくらい、私も心配してるんだよ。風倉くんには言わないし、隠してたけど。──でも、安心した」
彼女は、風倉の手に収まったカメラを見つめて「私のこと、ちゃんと想ってくれてるって、わかったから」と話す。
風倉は照れるでもなく、彼女の顔を見つめた。シャッターチャンスを嗅ぎつけるように、一番美しい彼女の表情を瞳が捉えて離さなかった。
「私のこと、これからもこうやって、風倉くんの手にたくさん収めてね」
彼女は、風倉の手をそっと撫でる。
お互いの顔の熱が分かる距離に収まる声色で、風倉は呟いた。
「わかった」
自然な赤みに吸い寄せられるように、頬に唇を触れた。ほんの一瞬、手を重ねる力よりもずっと優しい触れ方で、肌が揺れる。
「──風倉くん、意外と積極的......だね」彼女は拍子に手を離し、そう言って俯いた。
水が坂を流れるように、風に木の葉が抵抗できず乗せられるように、風倉は自然とベンチを降りて、彼女の顔を覗き込んだ。しゃがんだ風倉が向けたカメラから、彼女は顔を逸らす。
「──撮るの?」彼女が問うと、風倉は「一枚」と応じた。
カメラ越しに、彼女が視線を合わせる。いつもよりずっと不自然で、いつもよりずっと見たかった表情が、風倉の手の中にあった。
「風倉くんだけの写真にしてね」
彼女はそう笑って、一言を添えた。
「大好き」
大きな瞳が笑みで潰れた瞬間、風倉はシャッターを切った。
-事件から五日後の朝-
「カウンセラー
雑多に物や書類が散った小さな机の置かれた一室で、雨谷はソファに横になって眠っていた。
応接室であるその部屋は、壁にかけられた物は一切なく、無機質な印象がある。空間として見ると余白が広く、閉塞感がない空間のコーディネートが意図的にされていた。
「
グラグラとゆすられる感覚を受けて、雨谷は目を開いた。外の風景が見えにくい背の高い窓から、日光が差し込んだ。眩しくて、目を凝らす。
「あ、おはようございま──」
助手の晴野が、笑顔を見せながら覗き込む。細めた目で晴野を認めると、雨谷は穏やかなにっこりとした笑みを見せ、瞼を下ろした。黒髪が一筋、耳元から唇にまで伸びて張りついている。
「ちょっと、ちょっと!!!」
晴野は慌てて、布団を引き剥がしにかかる。
「んんん!! 早く、起きてください!! 今日は、大事な出張ですよ......!!」
口元まで布団を引き上げて、雨谷は抵抗する。
「んん......やだ......寒い......」
「ダメです。今日の仕事は、国から下りてきた依頼じゃないですか。カウンセリング相手の『エゴ』に関する調書にも、もう一度、目を通さないとですし、早く起きてください。絶対に遅刻は許しません!」
晴野は目をつむり、目一杯の力で布団を引っ張った。共に女性である二人の力比べは、体格で勝る晴野が優勢で、雨谷の手から段々と布団が離れていく。
バサッと巻き上がった布団が晴野の胸に飛び込む。スーツ姿の彼女は、内向きの膝でしっかりと受け止めた。
「うう......寒い......」
雨谷は自分の体を抱きしめるようにして、寝転がるソファの背もたれの方を向く。その姿に晴野は目を見開いた。
「ひゃああ!!!!!」
応接室に、晴野の叫び声が響き渡った。
「なんで、服を着てないんですかあ!!!」
雨谷は「寒い......」と体を震わせた。
オフィスカジュアルな、柔らかな色味の白スーツに身を包んだ雨谷は、ばつが悪い表情で車窓を眺める。すんすんと鼻から息を吐く晴野は、ハンドルを握って正面を見つめていた。
「晴野さん......そんなに怒らないで?」
横目で様子を窺い、雨谷は謝る。
「怒ってません! びっくりするから、止めてくださいって言ってるだけです!」
ハンドルを握りながら、彼女はまたぷんぷんと話し続ける。雨谷は弱ったふうに「あはは」と笑って、また車窓を見つめた。
「夜は、ちゃんと翌日に影響が出ないように寝る時間を考えること。朝は、ちゃんと時間通りに起きること。寝る時は服を着ること。今日は、
雨谷の視線が鋭くなる。朝のオフィス街を行き交うサラリーマンの姿を見つめながら、雨谷は手に持っていた資料の文章を脳内でなぞる。
「推定Lv.5エゴイスト、──
事の顛末を語り始める。
「風倉は市内の大学生で、
「風倉と交際相手は、共に市内の同じ高校出身で、在学中に交際を始めた。その後、市内の別々の大学へ進学。交際を続けていた」
「風倉の『エゴ』によって殺害された被害女性の体は、人の原型を留めていないものの、DNA鑑定によって既に身元と照合、一致を確認。風倉と交際相手の関係は周囲から見て良好なものだった。加えて、風倉は素直に取り調べに応じており、殺意があった可能性は低いとみられる。精神的にかなり衰弱している状態で、『エゴ』の暴走には注意を払うように」
「風倉と被害者女性に肉体関係は無し、か......」
雨谷は、深く短い息を吐いた。咳き込みかける仕草をして、唾を飲み込む。
信号機を睨むような表情で、晴野が口を開いた。
「深い愛情による『エゴ』だと考えられそうですよね。故意の殺人ではないこと、『エゴ』の発現時の出来事であることからも、過失を問われたのち、『
「そうだね。でも、対面するまでは、変に深い感情移入はしないようにね」と雨谷が返した。
晴野の声のトーンが下がる。「そうですね」
雨谷は膝で寝かせていた資料を起き上がらせ、遺体の情報を確かめた。
「被害女性死亡時、雲倉はカメラのシャッターを切った。瞬間、被害女性の体は『超常的な力』によって押し潰され、紙を握りつぶしたような肉塊になった。肉塊の歪みを整形したところ、写真の寸法として一般的なものの一つである89mmかけ127mmに、5mmの厚さがついた直方体だと判明。カメラは押収されており、検査の結果、カメラを媒体として『エゴ』が発現したと断定されている」
「『エゴ』については再現性が確認されている。風倉にカメラを用いて写真を撮らせたところ、被写体を手で握れるだけの大きさに潰すことができた」
雨谷は資料の中で、より厳重に扱われていた画像資料を思い返す。そこに映った被害女性だったはずの小さな肉の塊は、到底人間だとは思えなかった。
雨谷は助手席の収納を開いて、ガムを取り出して口に含んだ。溜まっていた唾液にミントの辛みが溶けて、鼻まで痛みが突き抜ける。
「朝、何も食べてないですよね、──コンビニでも寄りますか?」
ハンドルを何度か握り直して、晴野が問いかける。目の前の信号が赤に変わって、軽い急ブレーキを踏んだ。
「いや、大丈夫」雨谷の、肩にかかったセミロングの髪が揺れる。
ガムを噛みながら眺める朝の街並みはオフィス街を離れ、段々と人気のない郊外へと変わっていく。
『エゴ』犯罪者収容施設──通称「超自我」。
そのほとんどは、人々の生活から隔たれた郊外に位置する。人々から捨てられた農耕地に伸びっぱなしになった植物が風にそよいで、車から降りた二人を迎える。
「依頼に応えてくれてありがとう。
収容施設の門に立っていた警備とは別に、スーツ姿の男が現れる。彼は挨拶に重ねて、晴野へ頭を下げた。誠実さが現れた整った短髪は崩れない。
「おはようございます、
晴野は数歩、小さく駆け寄ってお辞儀を返す。
「いつも、長い道のりをありがとう。久しぶりだね」
逞しい体格に乗った精悍な顔立ちが、相好を崩す。目尻に寄った小さな皺には、霧原の人格がよく現れている。晴野にとって、人を見上げることはなかなかないことだが、霧原の場合は別だった。
「いえ、市民の皆さんのためになる大切なお仕事ですから。お手伝いをさせていただけるだけで、私はすごくありがたいことだな、と思っています」
晴野の返答に「そうか」と霧原は優しく言う。それから、目尻の皺をほどくように、視線を雨谷に向けた。
雨谷は施設に背を向け、秋の色づきの雑草が粗雑に生えた周囲の風景や、廃れた小屋を眺めている。小屋の周囲には、不法投棄されたテレビや掃除機が積み上げられ、かつ崩れている。扉から覗く農具の先が錆びていた。
人々から置いていかれ、自然に飲み込まれそうな建物が点在する景色に対して、「超自我」の存在感は異質に感じられる。
「──
「あ、キリちゃん。おはよう、今日はよろしく」
雨谷は、光を取り戻した瞳で霧原を振り返り、笑った。
「ああ、よろしく頼む。最近の調子はどうだ?」
「元気元気。朝も食べたし、仕事には問題ないよ」
雨谷は歩き出し、晴野と霧原の横を通り抜けながら、笑顔を見せる。
「ほら、カウンセリングの時間だよ」
霧原はネクタイに触れ、柔らかく握った。
-風呂井市「超自我」留置所 廊下にて-
「カウンセラー雨谷 雫は、深呼吸をしていた」
薄暗い廊下で、雨谷は準備運動のように肩を伸ばしていた。隣では、助手の晴野が資料を再確認し終えたところで、透明なクリアファイルに、ホチキスで止められた紙を戻していた。
霧原と若い事務官が遠巻きに、その様子を眺めている。
「雨谷さん、まだ二十代も前半ですよね。隣の助手さんも」霧原は硬い表情のまま、事務官の方を見た。
「専門家でない自分が言うのはなんですが、Lv.5の『エゴイスト』なんて、対処可能なんでしょうか? 霧原さん、幼少期からの知り合いなんでしょう?」
そう言い切った事務官は、霧原の視線を見て、「あ、すみません......」と肩を萎縮させた。霧原に威圧する意思はなかったが、そう捉えられたことを否定せず、事務官に告げる。
「俺は、隠して生きていけって言っているんだがな。いずれ、お前も聞くだろう」
「......隠せって、何をですか?」事務官は霧原を見た。
霧原はそう言って、雨谷の背中を見つめる。雨谷は、重厚で冷え切った顔色の扉に、優しく手の甲を触れた。
音を立てずに触れた手をそっと引き「コン、コン、コン」と、子どもに語りかけるような優しさでノックをする。
「雫は、世界初のLv.6『エゴイスト』上白沢 太陽の『エゴ』の罹患者」雨谷が扉を開き、足を踏み出していく。
「──恋人だ」
霧原はそう告げ、スーツのアウターを正して歩き出した。
-風倉 修平のカウンセリング開始-
「カウンセラー雨谷 雫は、風倉へ笑いかけた」
雨谷は、無機質な室内を見渡した。人を観察するために作られた実験場のような部屋には、中央に置かれた鉄製の机と椅子が、ただ整然と置かれている。真っ白な壁紙と、外を感じさせない閉塞感は、雨谷の心をざわつかせる。
「あっ──」中央の机に向いて座る、うなだれていた風倉が顔を上げ、声を漏らした。風倉に気づいたような仕草で、雨谷は微笑みを返す。
「こんにちは」
「こんにち、は......?」風倉は落ちかけの眼鏡を直さないまま、壁を見上げた。雨谷は立ち止まり、静かにその様子を見た。そこには何も掛かっていないことを思い出し、風倉が「ああ」と呟いて視線を落とす。
「今は、だいたい11時半です。お昼前というところですね、風倉さん」雨谷は、泰然とした笑みで告げる。
「ああ、はい。......ありがとうございます」風倉は名前を呼ばれ、不意に顔を上げた。視線が合ったことを確認して、雨谷は椅子へと近づく。
「カウンセラーの雨谷です。座ってもいいですか?」椅子に手をかけ、少し引いた。
「雨谷さん、ですね。......はい」
生気のない顔をした風倉は、雨谷とその後ろに付く晴野を見上げながら、静かに頷いた。机の下で握り合わせた両手に、力がこもる。
雨谷たちは椅子を引き、席に着いた。晴野は資料を横長の机の端に置き、元から置かれていたノートパソコンを開いた。雨谷は横目で、カウンセリング記録の準備が整ったことを把握する。
「風倉さん。気分はどうですか? 眠れていますか?」
雨谷が切り出した。くまの付いた目で、風倉が見返す。
「えっ......と、はい。あ、いえ、あまり、眠れていません」風倉の肩が上下する。机越しで見えない両手を見つめながら、風倉は答えた。
「そうですか。体は辛くないですか?」柔らかな声色で、質問を続けた。
「......どうでしょう。自分でも、よくわからないです。胸の辺りがずんと重たいんですけど、だるさも何もなくて......」
風倉は、少し苦笑するようなニュアンスで沈黙した。晴野がタイピングする音が遠くで鳴っているかのような静けさがあって、隔たって聞こえる。
「そうなんですね。ごはんはどうですか? 今朝は、しっかり食べられました?」
「今朝は......味噌汁を飲みました。毎食、汁物だけは食べ切れてます......お米とおかずは、食べても一口程度だけ。比喩でもなんでもないんですけど、味がしないです。野菜の煮物とかを口にしても、ぬるくて柔らかい何かを噛み潰しているだけで、飲み込む気が起きなくて、無理に飲み込もうとしたら吐いてしまって」
記録を打ち込む音が続く。風倉の話は、一つ一つの区切りにゆったりと間があって、平坦だった。
「お味噌汁は飲めるんですね、よかったです」
雨谷が言うと、風倉は僅かな反応を見せた。体を一瞬、ぴくりとさせるような、小さな驚きだ。
「でも、体を壊してしまわないように、もう少し食べられるようになると良いですね。気が向いた時に、次は二口、食べてみましょう」雨谷が笑いかけると、風倉は素直に「はい」と答えた。
晴野の記録が止まるまで、ほんの少しの空白の時間が生まれる。時計の音を幻聴してしまいそうな程に室内の空気は静止している。
キーボードが立てる音が止み、「それでは」と雨谷が切り出す。
「風倉さん。まだ心が落ち着かない部分があるかと思いますが、本日は、事件当時の記憶や交際相手の宮野 明心さんについて、お話させていただいてもよろしいですか?」
さっきまで吹いていた強風が止んでしまったかのように、辺りを見回してしまいそうなほど、雰囲気が変わる。部屋がやけに広いことが思い出される。
「......はい」
風倉の両手は、縋りつき合うように強く結ばれた。
-風倉 修平『エゴ』発現時-
「風倉 修平は、血まみれだった」
ベンチに座る宮野 明心にカメラを向け、シャッターを切った瞬間、風倉の頬、手の甲と指、そして全身に血が吹きかかった。
「──え?」
風倉はカメラから顔を離し、宮野 明心が座っていたベンチを見つめた。そこには、血まみれのベンチと衣服、そしてぐにゃぐにゃと歪んだ肉の塊があった。赤く染まった秋の装いは、ベンチから零れ落ちた。
シャッターを切る瞬間、カメラが鳴らす音とは違う、異質な音が同時に聞こえた。ぶしっ、と血が爆ぜた音と、ぐちゃ、と湿った肉が潰れる音だ。
「明ちゃん......?」
風倉は、名前を呼んだ。大切な人は、きっと目の前の肉の塊ではない。
どこに行ってしまったのか、彼はカメラを地面に置いて、ふらふらとしながら立ち上がる。周囲、ほんの一メートル程度の幅の空間を、まるで水槽に入れられた金魚のようにゆらゆら回遊した。
ベンチから垂れて流れた血が、風倉の靴に染みた。踏み鳴らして初めて、彼はもう一度、ベンチの上で小さくなった彼女を見つめた。
「......誰が?」
風倉は呟き、それを脳内で否定した。
──僕がやってしまった。『エゴ』によって。
「う、うああぁぁぁあ!!」悲鳴が聞こえた。
帽子を被り、光を反射するリストバンドを手首、足首に付けたランニングウェアの男性が、腰を抜かして転んでいた。男性はポケットを両手で弄り、スマートフォンを取り出す。
「やった、んですか?」風倉は自分を指差し、男性に尋ねた。
「僕が、やったんですか?」
風倉の目からは、涙が溢れていた。
風倉は、再び、涙を流していた。
口述した事件の前後の内容は、何度も繰り返し話したせいか、綺麗に文脈が連なっていた。しかし、宮野 明心の死を思い出した時から、嗚咽が止まらなかった。
「ごめんなさい。僕が悪かったんです。『エゴ』については、学校の授業でもテレビでも何度も聞いていて、気をつけているつもりでした。明ちゃん......明心さんとも、話していたんです。......カメラなんか、やらなければ」
風倉は、空洞を風が走り抜けるような音を立てて呼吸をしていた。胸を抑えて、苦しげに体を動かしている。膨らんでは縮む背中を見て、雨谷が椅子から立ち上がる。
「大丈夫ですよ、風倉さん。一度、落ち着きましょうか」
雨谷は床に膝で立ち、風倉の背に手を置いた。晴野が記録の手を止める。雨谷は目で疎通をとって、立ち上がりかけた晴野を制した。
「風倉さんと明心さんは、とても良い関係を築けていたんですね。苦しいですよね。大丈夫ですよ」風倉が胸に当てた手に、自分の手を重ねて、彼の激情をなだめる。
その瞬間、雨谷の手に違和感が流れ込んだ。
ほんの一瞬だけ、雨谷の声が止む。その間に、風倉の呼吸も段々と落ち着き始めていた。
雨谷は気を取り直して、風倉へ呼びかける。
「風倉さん。聞いてもらえますか?」
「......はい。すみません、取り乱してしまって」
「いえ、全然」雨谷は笑顔で、風倉からそっと手を離す。隣で膝立ちをしたまま、話し続けた。
「『エゴ』は、愛情の病です。この病は、愛情を向ける者と向けられた者に、苛酷な運命を与えます」
「本来、文字では『
しとしとと話す彼女の声は、それまでよりも少し、ひんやりとしていた。
「私も、その病の患者の一人です。私の恋人は、この施設に収容されています。面会も、滅多に許されていません」
風倉の目から、涙が引く。声も出さず、雨谷の方を見た彼に、雨谷は笑った。
「驚きましたか? 私も一緒なんです」
雨谷は自分の胸に手を当てた。
「彼の『エゴ』は強くて、暖かかったです。雨の日でも、雪の日でも、彼がいるだけで、私は生きていられました。それだけ、愛してもらっていたんです。そして、だからこそ、私も彼を強く愛していました」
晴野の記録の手が静止し、少し震えた。
「風倉さんも一緒です。風倉さんの『エゴ』はLv.5に推定されますが、これは交際をしている男女間で発現する『エゴ』の中でも、極めて少ないレベルです。それだけ、お互いの愛が深かったと言えるのではないでしょうか」
雨谷の柔らかな声と表情は、決して絶えない。
そこで、落ち着いた雰囲気を持っていたはずの風倉が、強い語気で割って入った。
「でも、殺したのは僕ですよね? その事実は変わりませんよね?」
「違います、風倉さん。『エゴ』という病が、明心さんを死に至らしめたんです」
「だから!!」風倉が怒鳴り、雨谷を見て叫ぶ。
「その病気の原因が、僕なんじゃないんですか?」
風倉は、また握り合わせた両手を強く握った。呼応するように、風倉が事件当時のことを話す際に出した資料やクリアファイルが、ぐしゃぐしゃと握り潰されたように変形する。
室内に警報音が鳴り、ガタ、とモニタリングしている隣室から大きな音が鳴った。
「大丈夫です、カウンセリングを続けます」雨谷が手のひらを外に向け、軽く手を上げる。
「風倉さん、もう一度言います。お互いの愛が深かった。だから、明心さんは『エゴ』によって死に至らしめられた。この事実はつまり、二人が引き起こしたことなんです。風倉さん一人に非があるわけではありません」
机の上で手で潰したような形になった資料の動きが止まる。風倉は「でも、」と口を開こうとした。
「風倉さん、もう一度、手の甲に触れてもいいですか?」
雨谷が手を差し出し、風倉がそれに応じる。
「こうして、明心さんに触れられませんでしたか?」
雨谷が聞くと、風倉の表情が揺らいだ。乾いた唇で、「ありました」と話を始める。
「最後に、一枚撮る前に。その日撮った写真を二人で見返してたら、こうやって手を重ねられて──」風倉は、息を呑む。
「なにか、あったんですか?」雨谷は首を傾げ、顔を覗き込む。
「──言われました、彼女のこと、これからも僕の手に収めて。って。それで、僕は......、わかった。って」
雨谷は、その言葉に風倉と明心に発現した『エゴ』の全貌を見出した。
『エゴ』とは、強く惹かれた相手に対する欲求が、超常的な力によって歪んだ実現方法を与えられる病気である。
「ああ。よく言ってました。僕の手のひらの中に彼女がいることに、ドキドキする。とか、指でカメラを真似して、僕が彼女の手の中にいる。とか」
宮野 明心が「カメラによって手の中に収まる」という価値を見出した。そして、彼女は「風倉の手に自分が収められること」を望み、風倉はそれに応えた。
風倉は机の下を俯いたまま、両手の人差し指と親指を立て、カメラを模した。
「あー、そっか」
「やっぱり、カメラなんか、やらなきゃ良かった」
風倉は、顔を歪ませた。
-三年前 高校二年の春 二人が出会った頃-
「風倉 修平はデジカメを手に取った」
「桜......」
風倉はぽつりと呟く。特に意味もなく、家から持ち出した使っていないデジカメを、爛漫と咲く真っ白な木々に向けた。
散った花びらの中で孤立した彼に、宮野 明心は声をかけた。
「ねえ」彼女の呼びかけに反応した風倉が振り向く。
「同じクラスになった、風倉くんだよね。桜、撮ってるの?」
青年の中で長く燻っていた、桜より淡いなにかの蕾が、胸のうちで開きはじめる。
「あ、う、うん。宮野、明心さん?」
「ふふ、フルネーム? 覚えててくれたんだ」
彼女が笑って、風倉も自然と笑えた。桜が落とした影の下で、桜みたいな肌の女の子が笑っている姿が、とても綺麗だった。
「ね、風倉くん」彼女が切り出す。
「撮って」
彼女は顔を逸らし、桜を見上げた。
-四年前 高校入学の春 彼女が彼を一目見た時から-
「宮野 明心は、ずっと惹かれていた」
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