Xの悲劇(The Tragedy X)Invisible Man 2022

高原伸安

第1話

(この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件等と一切関係ありません。)

Xの悲劇(The Tragedy X)Invisible Man 2022


                     高原伸安


小説では作者のいうことを信じなければならない。小説の文章は数学の定義である。さもなければ、H・G・ウエルズなどの空想科学小説は雪のように消えてなくなるだろう。

                            ―あるSF作家―


 はじめに


 これが、なぜⅩの悲劇と言うのかというと、この題名(タイトル)に大きな意味があるからです。また、犯人Xを当てるミステリーでありますし、エラリー・クイーン(バーナビー・ロス)のXの悲劇と同じように、犯人はその人物でしかありえない人物だというミステリーでもあるからです。このミステリーは、私が大学生の二十歳のときに初めて書いた処女作です。小学校の十二歳のとき思いついたアイデアを形にしたものです。

二番目の「予告された殺人の記録」は、犯人は読者(あなた)であるという超モダンなトリックです。最初の本の帯で犯人を教えています。「予告……」は、高IQだということで、反感を持たれ、イヤミをいわれ、バッシングされた作品です。バカミスNO1といわれましたが、あれはそもそも哲学の書、論理学の書、数学の書で、卒業論文だったのです。

三番目の「乱歩先生の素敵な冒険」は、乱歩ワールドと言うか昭和初期の田沢湖を舞台にした探偵譚です。もちろん名探偵は乱歩先生、私はワトスン役です。こちらも、あり得ない人物が犯人というプロットです。また、機会があったら楽しんでみてください。(※注)


※注.作者、作品はネットで参照してください。


前書き


私は、エラリー・クイーン大先生のように(本格推理小説の古典にならって)、第四章を読み終わったところで、大見得をきります。「すべての証拠は出揃った。犯人を当ててください」と! そして、ノックスの十戒(※注)にのっといてこの小説を認め、地の文は正しいと誓っておきます。もし、この事件の犯人を論理的に推理して当てることができたら、読者諸兄(姉)は、私より頭がいいということになるでしょう。果して、あなたは私の罠をかいくぐることができますでしょうか? さあ、私とあなたの知恵くらべです!


※注.ノックスの十戒.犯人は最初のほうに登場する人物でなければならないとか、作者はあますところなく読者に証拠を示さなくてはならない、といった本格探偵小説の十のルールというかお約束事のことです。


主な登場人物

フレデリック・ヘイワード ……ニューヨーク市警察長官

アレックス・ヘイワード  ……フレデリックの次男、同警部

エドワード・リットン   ……上院議員

リチャード・ハミルトン  ……大富豪

チャールズ・ハミルトン  ……リチャードの長男

エリオット・マーカム   ……リチャードの長女の夫

カール・ウィルソン    ……マーガレットの夫、物理学者

マーガレット・ウィルソン ……リチャードの次女

マーク・ウィルソン       ジョニーとマーガレットの息子 

トニー・ウィルソン       長男と次男

メロディー・アンダーソン

陳志忠             カールの助手

ハリー・ストーン        物理学者

レイ・マーチン

マービン・クロシンスキー

トマス          ……執事

シャーリー        ……女中頭

ジョニー・ウィルソン   ……マーガレットの先夫、故人、物理学者

ウォーカー警部      ……担当警部

タカギ特別捜査官     ……FBI捜査官


プロローグ


海からニューヨークに入いる場合は、最初に左にリッチモンド区のあるスタッテン島、右にブルックリン区を見守りながら、下ニューヨーク湾に入る。

そして、瀬戸大橋に次ぐ、世界第二位の吊橋であるベラザーノ橋がしだいに大きくなり頭の上を通過すると、少し膨らみのある上ニューヨーク湾に侵入する。

それから左手にリバティー島に立つあの有名な自由の女神像、前方にマンハッタン南端の超高層ビルのスカイラインを眺望しつつ、最後にハドソン川やイースト川の櫛の目のように並んだ桟橋に到着する。


いま、このおなじみのコースを辿って、白い大きなヨットがリバーサイド公園近くの桟橋に着こうとしていた。大西洋での三日間のフィッシングを終えて帰って来たところである。このヨットは、世界中のどのヨットと比べてもひけをとらない。長い航海にも耐えられるように作られた、豪華で堅固な船だった。よほどひどい嵐にでも遭わないかぎりは安全で快適な船旅が保証されている。この三日間は天候にも恵まれたし、船に乗っているみんなも十分楽しむことができた。

その船の舳先で一人の男がデッキの手摺を掴みながら、ある感慨をもって林立する高層ビルを眺めていた。今年でコロンブスがアメリカ大陸を発見して五百年たつ。しかし、三日ぶりに陸地を発見した時は、時代を越えて自分もコロンブスになったような気持ちがしたものである。それが現代のアメリカを象徴するニューヨークという機能的な都市と相対していると、温かいロマンチックな感動が無残にも消えて現実に引き戻されていくのを感じていたのである。

その男は十二月終わりの寒さを凌ぐために防水処理を施したジャンパーを着ており、潮風に短い金髪をはためかせている。ブルーの瞳が非常に印象的で、知的なやさしい顔立ちをしており、典型的なアメリカ人といったところである。その顔には皺が刻まれている。

名前をマーク・ウィルソンといい、現在このアメリカで人気及び実力ナンバー・ワンといわれる天才的な科学者である。高度に科学が発達した現代では、二つ以上の分野で成功することはかなり難しいと言われている。しかし、彼の場合は、専門の理論物理学だけでなく数学や、多くの分野においても成功をおさめている。そんな訳で、科学雑誌などに乗っているマーク・ウィルソンの紹介にも多くの肩書がついているのである。その点からみても、彼の学問における把握力、独創力、知識などが、いかに卓越したものであるかが推察できるだろう。新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などのあらゆるマスコミは、その気になって研究さえすれば、専門だけではなく、どの分野でもノーベル賞を取れるだろうと太鼓判を押している。マーク・ウィルソンが一躍注目を集めたのは一年前のブラック・ホールについての理論からで、現在ではホーキング博士の後継者と目されているが、その実力はずっと以前からすでに世界のトップ・レベルにあったとされている。ただ、まだその頃は知られていなかっただけである。現在でも、画期的なアイデアをもつ無名の科学者は、数多くいるのである。そのようなアインシュタインの玉子が、一夜にして脚光を浴びるようになることも、このアメリカでは珍しくないことだった。このブラック・ホールに関する理論も、実際は三年前に一応は完成していたので、発表しさえすればずっと以前にセンセーションを巻き起こしていたはずである。しかし、彼は自分から売り込むことはしなかったし、パーフェクトに対する慎重さと頑固さから三年間の吟味の上で初めて世に出したのである。それも周りから強く勧められて仕方なしに発表したといわれ、そういう背景がなければ彼はまだこのように有名になっていないかもしれなかった。このことは、彼の謙虚さと完全主義を示すエピソードとしてよく知られている。彼がみんなから愛されているのも、実力もさることながら、その人間そのものによるところも大きいのである。

 マーク・ウィルソン博士は、視線を高層ビルから公園の人ごみに落としながら、彼が小学校四年の時に殺された父親のことを考えていた。マーク・ウィルソンに良きにつけ悪しきにつけ一番影響を与えたのは、その父親だったといわれている。この道に進んだのも理論物理学者であった父親の遺志を継いだからであるし、現在の趣味がフィッシング、スキューバー・ダイビング、水泳、軽飛行機や小型ジェット機の操縦であったりするのも、父親が好んでやっていたからだった。いま一番凝っているのが釣りと飛行機の操縦である。フィッシングでの一番の自慢は、昨年の八月におこなわれたカナダのB・Cサーモン・ダービーで、五〇ポンドを越すヘビー級のキング・サーモンを釣り上げて優勝したことであろう。非常にラッキーだったこともあるだろうが、そのキング・サーモンを釣るところを見ていたキャリアのある出場選手を驚かせ、また賞讃させたほどの素晴らしいテクニックも持っているのである。今は暇さえあればヨットや飛行機で出かけて行って世界中の魚を釣って楽しんでいる。

 また、軽飛行機や小型ジェット機の操縦は、フィッシングのキャリアよりは浅く、三年前にブラック・ホールに関する理論が一応完成して暇がもてだした頃習い始めた。天才というものは何をやっても才能があるのか、教えている方が呆れ返るくらいの速さで上達していったという。すぐに自分ひとりで離着陸できるようになり、たった一年でプロ顔負けの腕前になった。そして、今ではどのような種類の飛行機でも大抵のものは操縦できるようになっている。

 彼はヨットで海に行ったり飛行機で大空を飛び回ったりする時、かならず父親のことを思い出す。もはや、それが一種の習慣になってしまっていた。それは、彼が小学校の頃、休日や休暇などによく父親にヨットや飛行機に乗せてもらった楽しい思い出があるからでもあるし、それにもうひとつ父親の殺人に関連して海と空のイメージが頭から離れないせいもあるだろう。いうまでもなく、彼はその殺された父親を非常に愛していたし尊敬もしていた。その父親の死が殺人であったことが理解できた時は、犯人に対して燃えるような憎悪を感じたものだった。しかし今はその犯人も死んでしまって、もうこの世にはいない。後に残ったのは、やりきれない苦悩と悲しみだけだった。

 そのような彼の魂を救ってくれたのが、当時ニューヨーク市警察の長官だったフレデリック・ヘイワードだった。

 長身でがっちりした体つきをした黒人で、そのことを除けば警察長官というよりも、むしろ神父さんといった温かい感じを人に与える。彼もまた天才的と言っていい人物で非の打ちどころのない学歴と鋭い知性をもっていた。写真のような正確な記憶力、注意深い観察力、優れた推理力は周囲の人間を驚嘆させることもしばしばだった。現職だったころはあらゆる警察官に尊敬され愛されていたし、退職してからも警察官である息子のアレックス・ヘイワードの相談役といった形で活躍している。マーク・ウィルソンが十二歳の時に起こったエリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン三重殺人事件を解決したのも彼であった。この事件は、アメリカでも最高の名門として通り、指折りの金持ちであるハミルトン家で発生した殺人事件として、当時あらゆるマスコミを通して報道され、たえず人の口にのぼったものであるが、その複雑な真相を知る者となると、この広いアメリカにも数人しかいない。いろいろな事情が考慮され事件の真相が公表されなかったからである。一般の人の知るところでは、レイ・マーチンが罪悪感からエリオット・マーカムとカール・ウィルソンを射殺した上で、自分も服毒自殺したということになっている。しかし、実際は大胆な構想と緻密な細部によって組み立てられた計画的な殺人事件だったのである。もしあの時、様々な人が現場であるロングアイランドのハミルトン邸に居合わせなかったら、事件の真相は露見することなく永遠にわからず仕舞いになっていたかもしれない。真相を知っている数人は、あの推理小説にも前例がないような恐るべき殺人事件を畏怖の念を持って回顧することがある。だれもできることなら思い出したくないのであるが、知らず知らずの内に振り返ってしまうというのが真実であろう。あの事件は、毎日の平凡な日常生活の中で突然起こった悪夢のような出来事だった。だが、その兆候がまったくなかった訳ではない。そのずっと以前からきざしは現れていたのだ。しかし、その事柄があまりにも小さすぎたり、本当の意味と結びつけて考えられることがなかったりしたために、それと意識されぬまま心の中を通り過ぎてしまったのである。そして最後にやって来たのが誰の目にもはっきりわかるカタストロフィーだった。だが、その殺人事件ももはや過去の出来事なのである。すべては終わってしまったことなのだ。過去は過去のこととして忘れてしまった方がよい。

「しかし」と、マーク・ウィルソンはいつも思うのだった。本当にこの悲劇の幕は下りて仕舞ったのだろうか? みんなまだ舞台の上で悲劇の続きを演じているのではないだろうか? 少なくとも、自分にとっては終わってしまったと言い切ることはできない。自分は一生あの殺人事件を忘れないだろうし、忘れることができないだろう。過去の犯罪は長い影をひくという。特に殺人事件の場合は、その影響が何年も何十年も尾を引くことがある。人命の尊厳ということを考えるならば、それは当然のことと言えるかもしれない。しかし、後に残った罪のない人達にとっては、あまりにも残酷としか言いようがない。そのことが殺人事件の本当の悲劇と言えるのではないだろうか? 過去に殺人が起きた家を訪れた時に、何か不吉なものとか暗い影といったものを感じる場合がある。それは、土地の人から聞いた噂や新聞で読んだりした過去のその惨劇を家自身に投影していることもあるだろうが、残された関係者の悲しみ、憎しみ、苦しみなどの感情や重苦しい生活の匂いなどが、その家の家具、絵画、絨毯、カーテン、日用品などの配置や配色や考えられるすべてのものから雰囲気となって滲み出し残っていることも多いのではないだろうか? 果して、ハミルトン家を訪れた人達はその中に過去の影を読み取ることができるのだろうか? しかし、もしそうであっても、どうしようもないことである。なぜならば、過去の事実は取り消すことができないものであるから……。彼も弟も母親もこの船に乗っているみんなもあの殺人事件の関係者であるから、その影響は多かれ少なかれ多少の差はあっても現在に至るまで残っているはずである。そのマーク・ウィルソンが一番気に掛けているのが、母親のマーガレットのことである。母親は、当時夫を殺されたショックから数週間寝込んでしまったのだ。身体もあまり大丈な方ではなく、悲しみに打ちひしがれ窶れた母親の顔を見ることは、当時のマーク・ウィルソン少年にとっては一番辛いことだった。あの事件が現在母親の胸にどのような傷跡を残しているかは推し量るすべもないが、あの事件をすっかり忘れて後の人生を幸せに送ってほしいというのが彼の一番の願いである。

 マーク・ウィルソン博士が、これまでの人生で一番幸福だと感じたのは、愛する両親と過ごした少年時代ではないだろうか? 現在でも目を瞑れば両親との楽しい思い出がありありと浮かんでくる。それはほのぼのとした暖かさを持った記憶で、どの光景でも父親も母親も弟もみんな笑顔を浮かべている。彼はこれからの人生もこのような思い出を胸に秘めて生きていくであろう。

彼は回想から醒めると、周りのみんなと一緒になって、桟橋の上の人達に手を振って答えながら母親とみんなのためにそっと祈るのだった。みんな、少なくとも残りの人生を幸せに送ることができますようにと……。

そして、また彼の思考は約三十年前の殺人事件の中に飛んでいた。遠いが、身近な過去へと―。


 その同じ頃、フレデリック・ヘイワードも、スカースデイルにある自宅の書斎で、分厚い本を読む手を休めて、エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン三重殺人事件のことを回顧していた。この事件では、現在マーク・ウィルソンが趣味としている小型ジェット機を操縦できる者というのが重要な意味を持っていた。というのも、犯人はエリオット・マーカムを殺害するために小型ジェット機を使用したからである。そして、また事件当時、関係者で小型ジェット機を操縦できる者はたったの三人しかいなかった。殺されたカール・ウィルソンとレイ・マーチン、そして……。の、合計三人だ。もちろんそれは犯人である。だから、警察も小型ジェット機の操縦ができる人物を重要な容疑者と考え、血眼になって関係者の中から探そうとした。そんな訳で、マーク・ウィルソンが飛行機に乗るたびに、この事件を思い出さずにはいられないのも当然といえる。この犯人は、ずば抜けて高度な知性と冷静な判断力を持っていた。フレデリック・ヘイワードは、それを考える度にあの事件を解決に導いたのは運命だと思うのだった。もしあの殺人が別の方法によって行なわれていたなら、だれもそれを見破れなかったのではないだろうか? たとえば事故を装ったものだったりしたら、お手上げだったに違いない。そして、その方が犯人にとって遥かに簡単で安全であっただろう。しかし犯人はそうしなかった。過去の犯罪や秘密を暴露しようとしてあのような方法を取ったために、あまりにも恨みが深かったのか、人命の尊厳さを考えたのか、自分の手で銃の引き金を絞ったために、ほんのちょっとしたことから完全犯罪の図式が崩れてしまったのである。しかし、そうは言ってもあの殺人事件は運といったものが入り込まなかったら本当の姿は露見しなかったに違いない。それほど現実的によく考えられたものだったのである。最初、現場は一種の密室を構成していたし、いろいろな要素から不可能犯罪の様相を呈していた。それか真実がわかってみると、この事件の多くの謎はそれしか解釈がないというほど論理的なものに形を変え、すべてはジグソー・パズルのようにピタリとあるべき場所に当て嵌まり事実と符合したのである。彼は、この事件のことは細部に渡るまで昨日のことのようにはっきりと思い出すことができる。言い換えれば、それほど印象が強烈だったということができるだろう。

 いま、彼の魂は過去に飛んでいた。


 第一章


 ここで物語は、エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン三重殺人事件が起こったところにまで遡る。つまり、それはアメリカ合衆国大統領顧問であったリチャード・ハミルトンの孫でもあるマーク・ウィルソンが十二歳のときのことである。

 ハミルトン家の運命の日も、ひとつのことを除いて、表面上は他の日と同様穏やかに見えた。しかし、ハミルトン家に住んでいるうちの少なくとも一人は、ある決意と意志を胸に抱いて密やかに行動していたのである。

 いま、その人物を乗せた小型ビジネス・ジェット機ファルコン一〇が、十二月終わりの青空を飛行していた。この飛行機は、ダッソー社が生産しているもので、二発エンジン機で、最大巡行速度がマッハ〇・八六、時速九一二キロのハイスピードを誇るのが特徴である。乗員は二名であるが一名でも操縦できるのである。フライトプランでは、操縦士レイ・マーチン、副操縦士カール・ウィルソンとなっている。

 大型ジャンボ・ジェット機なら、機長、副操縦士、通信士、機関士、航空士がクルーとして乗る場合もあるが、ファルコン一〇ぐらいの小型ジェット機になると通常機長と副操縦士で十分だが、機長一人でも操縦は可能である。別に無理をしなくても……。

 今年から二百年前にフランス革命がおこった。そのフランスから贈られた自由の女神があるニューヨークから、この飛行機は飛び立っていた。ロングアイランドからインディアナポリスまでの約一〇〇〇キロメートルの空路である。

 そして、いまこの飛行も半分が終わろうとしていた。目的地が近づいて来たからである。それは山間にあるハミルトンの系列会社の飛行場だった。ここには、数人の従業員がいるだけだった。

 そこにはエリオット・マーカムが来て待っているはずだった。きのう別荘に電話を入れて、今日そちらにジェット機で行くから一時半に秘密裡に飛行場の格納庫に来るよう頼んでおいたのだ。それも普段は誰もいないところを選んでいた。エリオットは、自分がいつもやっているように気晴らしがてらに、こちらに飛んでくるのだろうと思って、何の疑いも抱いていなかった。念のために、渡すものがあると一言付け加えておいた。

 エリオット・マーカムはハミルトン家の会社の重役で、インディアナポリスにある化学工場の視察のためにこちらの別荘に来ているのである。そして、リチャード・ハミルトンの長女である妻のエリザベスには内緒で、秘書であり二年前からの愛人でもあるマリー・グッドナーを連れて来ている。だから、視察とは名ばかりで、実のところは浮気旅行なのである。

 山間にあり数百メートル四方には人家も見当たらないこの別荘は浮気には持ってこいの場所であるといえる。しかし、人気がないということは、それは取りも直さず殺人を犯すのにも絶好の場所であるということを意味していた。

 機内の人物は考えていた。飛行場の従業員は二人しかいないが、こちらが言わない限り、ジェット機には近づかないことになっていた。そして、エリオットはマリーには適当な理由を創ってこの飛行場に来ることになっている。別荘はこの飛行場から約三〇〇メートル離れており山を曲がったところにあるので、死角になって見えないのだ。そんな訳で、すべての条件は揃っており、何も心配することはない。ただひとつ、エリオットに向って本当に銃の引き金が引けるかどうかを別にして……。いや、そんな弱気になってはいけない。初めて殺人という大罪を犯すのであるから躊躇うのも無理はないが、自分はもはや地獄に落ちる決心をしているのである。最後まで冷血な心を持って、この計画を遂行しなければならない。

 小型ジェット機がこの飛行場に着陸したのは、午後の一時半を少し回った頃だった。機内の人物は、注意深く周りの様子を窺ってから、タラップを降りた。この計画のため上から下まで用意周到な格好をしており、右手に黒い鞄を持っている。

 人目を避けるように一番奥の格納庫に行き、横手の人口から中へ入る。内部は広い空間で、何機かの飛行機も見える。

 すると、左手の方の部屋からエリオットが出てきて、手を振りながらやって来るのが目に入った。その人物は他に人が誰もいないのを確認すると、黒い鞄を開けてすでにマガシンを装塡しているVZ(ウジ)6ーSMG(サブマシンガン)を取り出した。統身には、専用サイレンサーが付いている。この超小型の兵器は、一九六八年のチェコ紛争のとき、チェコの治安警察が使用して一躍有名になったもので、別名をスコーピオン(さそり)と呼ばれている。

 その人物は銃の安全装置を外して、銃口をエリオットへ向けた。エリオットは中肉中背で、一見しただけで実業家とわかる雰囲気を持った男である。十二月の寒気のため黒い毛皮のオーバーを着ており、白い息を吐いている。

 エリオットは笑顔を向けて「やあ」と云いかけたが、その表情も舌も一瞬にして凍りついてしまった。その視線は、その人物の手の中のものに釘付けになっていた。エリオットが立ち直るより早く、その銃の引き金がひかれた。消音器によって快く絞られた発砲音がリズミカルに響き渡り、マガジンの弾がエリオットの胸に叩き込まれた。エリオットは、信じられないといった表情を顔に張りつけたまま、後ろに吹き飛ばされた。確かめるまでもなく即死である。倒れた身体からは真赤な液体が滲み出していた。

 その人物は、サブマシンガンに安全装置を掛け直すと、黒い鞄へしまった。そして、エリオットの死体を引き摺って、機材を入れる袋の中へ隠すと、ファスナーを締めた。それから、十分後、血痕などの犯罪の痕跡を消してしまうと、ジェット機へ戻った。タラップを昇ると、ドアを閉めてロックした。

 機内の人物は、この殺人劇のことについて考えていた。ずっと以前、ある事を知った瞬間からすでに殺意は芽生えていたのである。そうは言っても、自分は理性も良識もある人間なのだ。殺人を犯すとなると、やはり躊躇せざるを得なかった。しかし、自分がモタモタしている間に取り返しのつかないことになってしまいそうなのである。そのことがわかった時から漠然とした殺意は、はっきりした形を取り出したのである。かなりの犠牲を覚悟してやらなければならないが、もうこれ以上延ばすことはできない。

この計画は長い時間をかけて練り上げたもので、もうその下準備も済ませてしまっている。あらゆる場合を考えてその予防策も講じている。かなり以前から、この計画は誰にも知られず静かに進行していたのである。しかし、ハミルトン家の邸に住んでいる人間で気づいた者はいなかった。だから、昨日までなら、この計画は中止することもできたはずである。自分とても殺人鬼ではない。三人に対する怒りと戦って、これまで人間としてギリギリのところまで思い留まろうとしたのだ。しかし、結局は感情が理性に対する勝利の鐘を打ち鳴らしてしまった。そして、すでに第一の殺人を犯してしまった現在では、もう後戻りすることはできなかった。最後まで実行するしかないのだ。


 操縦席の人物は、身体をシートにもたせかけながら、暫く考えに耽っていたが、やがて無線のスイッチを入れ、変声器で航空交通管制センターと連絡を取り、離陸の許可を求めた。その手も平行して動き始め一連の操作を開始した。そうすると、身体の一部分であるかのようにファルコン一〇も脈動を始めた。そして、少しずつ動き始め、滑走路をUターンすると、大きな爆音を残して飛び立った。すぐにその姿はだんだん小さくなり、ロングアイランドがある東の空に消えていった。


 その頃、ニューヨーク市警察長官フレデリック・ヘイワードは、彼の息子であり部下の警部でもあるアレックスとともに、セントラル・パークに面して立っている超最高級のホテルに向っていた。

 アレックスは、長身でがっしりした体、褐色の肌を持ち、何から何まで父親の若い頃にそっくりだった。彼もまた非常に有能で、いずれは父親と同様にトップの地位に就くものと将来を嘱望されていた。二人を比べて少し違うところをいうと、父親がイギリス人的な静かさを感じさせるのに対して、息子の方は明るく陽気でアメリカ人に典型的な性格を持っていることであろう。

 二人は、これからアメリカ合衆国上院議員であるエドワード・リットンが居住しているホテルに寄って、リチャード・ハミルトンの邸に出かけるのである。この上院議員は、でっぷり太っているが、愛嬌がある顔をしているので人気があった。

 フレデリック・ヘイワード、エドワード・リットン、リチャード・ハミルトンの三人は小学校以来の親友であり、また同時にいろいろな意味でのライバルでもあり、お互いを認め合い、高め合ってきた。現在、それぞれ自分が選択した職業で最高峰に位置し多忙な身ではあったが、一年に一度は必ず休暇を取り、一緒に釣りや猟に出かけて友情を暖め合うのだった。もはや、それが習慣というか一種の儀式みたいなものになっていた。今年は、今日一日ハミルトン家に泊り、明日の朝早く旅出って一週間の予定でカリブ海でのフィッシングを楽しむことになっている。そして、今年はフレデリックの次男であるアレックスも参加するのである。

 角を曲がると、二人の目の前に目的の建物が現れた。このホテルは超モダンの外見を空高く誇示しており、他の最高級のホテルと同様に部屋の多くは金持ちの定住者で占められていた。もちろんサービスも警備も万全で、贅沢さの中の快適ということをモットーとしている。

 二人は現代的な建物である白い城に入り、制服のガード・マンに目顔で挨拶すると、ロビーを横切ってエレベーターのところへ行った。ホテルの中はセントラル・ヒーティングが利いており、心地好い温度に保たれていた。

 ホテルの内部は死んだように静まりかえっている。

 ヘイワード親子は、二人だけで大きな箱に乗り込むと、エレベーター・ボーイに目的の階数を告げた。

 やっと人心地がついたのか、フレデリックが口を開いた。

「きのうは、ちゃんと家族孝行をしてきたかい?」

 アレックスも、ほっと一息吐いて頷きながら、「ええ、おかげさまで、久しぶりに楽しい一時を過ごすことができました。子供達も大変喜んでくれましたしね。これで心おきなく、カリブ海へ出発できるというものです」

 フレデリックが暖かい表情をした。

「たまには親子四人水入らずというのもいいだろう。おちびちゃんたちは、あいかわらず元気かい?」

「はい、いたずら盛りで元気がよすぎるくらいです。きのうもおじいちゃんはどうして来ないのといって、非常に残念がっていましたよ」

 フレデリックはニッコリ笑って、「せっかくだが、前から子供達がパパとママと一緒に出かけるのを楽しみにしていたのに、邪魔をしたくなかったからな」

 数十秒間重力を感じた後、目的の階に着いた。そこで吐き出されると、西の端のスイート・ルームに向いながら、アレックスが話を続けていった。

「それはそうと、きのうは映画を観たあと、フランス料理を食べに行ったんですが、そのレストランでウィルソン親子を見かけましたよ。向こうはこちらに気づかなかったし、こちらも家族連れだったので、声を掛けませんでしたが、家族団欒といった感じでとても楽しそうにしていました。もちろん、奥さんのマーガレットは病気で入院していますので、カールと二人の息子のマークとトニーだけでしたが、お父さんに食事に連れてきてもらったのかよほど嬉かったんでしょうね。大はしゃぎでしたよ。家族が円満だということは、本当に見ていて気持ちのいいものですね」そして、続けて訊いた。「マークとトニーはどちらも小学生のはずですが、今何年生なのですか?」

 もうその時にはめざす部屋の前まで来ており、フレデリックはドアの横にあるチャイムを鳴らしながら答えた。

「確かいまマークが小学校の五年生で、トニーが三年生だよ」

 インターホンからどなた? という声がして、名前を告げると、答が終わるか終わらない内にドアがさっと開かれた。

 ドアの向こうには、行動力を感じさせる雰囲気を持った男が、立派な風采ににこやかな笑顔を浮かべて立っており、親しみのこもった態度で二人を迎え入れた。百万ドルの笑顔と誰をも魅了せざるを得ない人格とで圧倒的な人気を誇るアメリカ合衆国上院議員エドワード・リットンその人である。

「やあ、よく来てくれたね。外は寒かっただろう? まあ、入ってくれたまえ。リチャードに電話したら、夜まで少し忙しいと云っていたから、ゆっくり話でもしていこうじゃないか?」何時間聞いても飽きないような穏やかな声だった。

 二人の客は同意して頷いた。

 エドワードはコートを外套掛けに掛けるのを手伝ってから、二人をセントラル・パークが見下ろすことができる大きな居間に案内した。部屋は非常に洒落ていて、明るかった。

 三人は窓際の応接セットに腰を落ち着かせると話を始めたが、日が日だけにやはり自然と話題はジョニーのことになり、延いてはハミルトン家のことになった。

「今日で、ジョニーが海で死んでから、一年立つんだね」とエドワードが感慨深げにいった。

「誰でももう一度会いたくなるような、気持ちのいい男だったのにな。みんなもそうだろうが、私も彼が大好きだったよ」フレデリックの声には暖かさが籠っていた。

「確かマイアミの沖にある島の近くでスキューバー・ダイビングをしていた最中での事故でしたね」アレックスが一年前のことを振り返りながらいった。「私の記憶に間違いがなければ、新聞にはその時エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチンの三人が一緒にいた。と書いていたと思いますが……」

 エドワードが、事情をよく知らないアレックスに説明した。「去年の冬は、ハミルトン家に住んでいる者は、みんなマイアミの別荘で休暇を過ごしていたんだ。その朝も、いつものようにジョニーはエリオット、カール、レイの三人と一緒にヨットでスキューバー・ダイビングに出かけた。そして、三人の話によると、相棒方式を守って潜っていたんだけれども、二回目の潜水の時、パートナーだったエリオットは珍しい魚を追っていてジョニーを見失ってしまったらしい。それで取り敢えず上のヨットに上がってみたが、先に戻っていた二人に訊いてもジョニーは帰って来ていないという。少し待っていたけど、それでも何の連絡もない。心配した三人があちこち探してみたが、どこにも見当たらなかったそうだ。エア・ボンベの空気もなくなる時間だったので、いよいよ湾岸警備隊や警察に捜査を求めたけれども、発見された時にはすでにもう手遅れだった。本当に痛ましい事故だった。私は、悲しんでいる奥さんのマーガレットや二人の息子のマークとトニーを見るのがとても辛かったよ。誰もが同じ気持ちだっただろう」

「特に悲しみを堪えているマークとトニーは、とても痛いたしくて見るに忍びなかったね。何か胸を突かれる思いだったよ。私達がこうなんだからハミルトン家の連中は、その気持ちが一層強かっただろうな」フレデリックも同意して言った。

「今日はハミルトン家のみんなは、どうしているでしょうね?」アレックスが遠くを見つめる目付きをした。

「午前中は近くの教会にジョニーのために祈りに行くといっていたよ」上院議員が電話した時に聞かされたことを云った。

「それから、マイアミの海のジョニーが亡くなったと思われる辺りには、飛行機でバラの花束が落とされたはずだよ。なんでも、警察は死体の発見された状態や正確な位置などの詳しいことは捜査上の秘密ということで教えてくれなかったらしいんだが、だいたいの場所は三人が知っているのでそこにできる限りの花束を落とすと、リチャードが言っていた」フレデリックは、坐っている膝の上を指でトントン叩きながら続けた。

エドワードは、少し驚いた顔をした。「それはリチャードらしいな。しかし、捜査上の秘密とは、何か不信な点でもあったのか?」

「いや、警察が使ういつもの形式というやつさ。ただ慎重なだけだよ」

「ジョニーの死体を発見したのは、エリオット、カール、レイの三人ではなかったんですか?」アレックスが父親に訊いた。

「いや、彼を海底で発見したのは、湾岸警備隊が警察のフロッグ・マンだった。だから、詳しいことは知らないんだ」

「そして、その事故から八ヵ月経った時にマーガレットはジョニーの従兄のカール・ウィルソンと再婚したんでしたね」アレックスはこの一年の間にハミルトン家に起こった二番目の事件に話の矛先を向けた。「マークとトニーの二人の息子は、母親が再婚することに反対はしなかったんですか? 子供というものは実の父親を慕うあまり新しい父親を持つことを嫌がるものだと思いますが―」

 エドワードがサイド・ボードからグラスを取り出すと三人の前に並べた。「母親のマーガレットもそのことを心配して、カールからプロポーズされた時に、二人の子供が承知してくれたらオーケーしますと条件を出したんだ。しかし、何も心配することはなかった。カールはジョニーと従兄ということもあって顔形、身体つき、声なんかがジョニーにそっくりだろう。子供達はカールの中にジョニーの姿を見いだしたんじゃないかな。それに父親が死んで寂しかったんだろう。喜んで賛成したという話だよ。このことは、またマーガレットにもいえることだろうけどね」

「それにマーガレットは名前の通り心やさしい女性だからね。相手の気持ちをやさしく受けとめるような性格だし、ジョニーが死んでショックを受けて沈んでいる時、親身になってやさしくされたこともかなり影響しているんじゃないかな」フレデリックはそう言った後、ひとり言のように呟いた。「しかし、私は子供達が喜んで賛成していたとは知らなかったよ。だって、マーガレットがカールのプロポーズを承諾した時は、確かマークはレイ・マーチンと一緒に世界旅行に出掛けていてアフリカかどこかにいたんだろう? それに結婚式にも世界旅行の方が面白いといって帰って来なかったんじゃなかったのかい?」

「国際電話という武器があるさ」フレデリックが微笑を浮かべながらいった。そして、サイド・ボードに並んでいる酒瓶の中から、最上級の瓶を取り上げると、三人のグラスに琥珀色の液体を注いだ。「母親が電話すると快く承知して、結婚を祝福したといわれているよ。まだ小さいのに母親の幸せということも心配していたんだね。なんともいじらしいじゃないか。結婚式に出席しなかったのは、やはりなんといってもまだ子供だ。冒険心が一杯の少年にとって、固苦しい母親の結婚式よりも世界旅行の方が楽しくて面白いのに決まっているさ。結婚式といっても身内や友人だけの小さなものだったし、親の方としても出席してもらいたかったんだろうが、子供に気を使っているから無理に呼び戻すことはしなかったというわけさ。それにいつだったかマークとトニーに会った時に、義理の父親のカールをどう思っているか訊いてみたことがあるんだ。そうしたら二人とも微笑を浮かべながら実の父親のジョニーと同じぐらいに好きだと答えたよ。そのことをマーガレットに話したら非常に嬉しそうにしていた。だから、いまあの家族は円満そのものさ」

「マークがレイと世界旅行に行ったのは夏休みのはずですが、どうしてトニーも一緒に連れていかなかったんですか?」アレックスがグラスの液体を飲み干しながら訊いた。

「トニーは乗り物酔いがひどいんだ。車も船も飛行機もダメなんだよ。だから、辞退したんだ。トニーも世界旅行に行けないことを非常に残念がっていたらしい」と上院議員が答えた。

「それにしても」とアレックスがまた訊いた。「マーガレットも夫が死んで一年にもならないのに、ずいぶん早く結婚したものですね? 少なくともマークが世界旅行から帰って来るまで待てばよかったの……」

 その声には非難ではなく、むしろマーガレットを思いやる暖かい気持ちが籠っていた。

「確かに世間の連中はあることないことをいろいろ噂するからね。それに、リチャード・ハミルトンの娘ということもあって、新聞や週刊誌などのマスコミがいろいろ書きたてる。読んでいて私でも頭にくるような記事もあったよ。ひどいゴシップ雑誌になると、マークとトニーの二人の実の父親はジョニーではなく、カールではないかというようなことを匂わす出鱈目な記事もあった。もちろん根も葉もないことで、私は腹が立ってすぐさまその雑誌を破いてごみ箱の中に捨てたがね」エドワードがまた答えた。「しかし、二人が結婚を急いだのには立派な理由があったんだ。カールの母親が癌でもう一ヵ月も身体が持たないような状態だった。だから母親が生きているうちに結婚式を挙げたいというのがカールと母親自身の望みだった。そんな訳でマークとトニーの二人の子供の承諾を得て慌しく結婚式を挙げたんだ。カールの母親も医者と看護婦に付き添われて出席したんだが、涙を浮べて喜んでいたよ。それで何も思い残すことはなかったんだろう。一週間後に、安らかに息を引き取ったそうだ。このエピソードも、またマーガレットが心やさしい女性だということを証明する出来事でもあるけどね」

「結婚式にはマークとレイを除いて、ハミルトン家のみんなは全員出席したんですか?」

 ハミルトン家の事情をあまり知らないアレックスが、もっぱら訊き役に回っていた。

「いや、全員という訳じゃない。一ヵ月前に強盗に殺されたマービン・クロシンスキーが、風邪で寝込んでいたために出席できなかった。他のみんなは列席していたと思うよ」エドワードが琥珀色の液体で喉を潤しながら言った。

「マーガレットの父親であるリチャードさんは、娘があんなにも早く再婚することに反対はしなかったんですか? 口うるさい連中がいろいろ言うことはわかっていたでしょう?」アレックスは父親を見た。

 フレデリックは、上院議員に目を遣るとグラスの酒を一気に呷った。「リチャードは、そんなことは気にしないよ。根が合理主義者だからね。それに、リチャードが何をおいても一番願っていることは、マーガレットの幸せなんだ。リチャードがマーガレットを目に入れても痛くないほど可愛いがっているのは知っているだろう、もともと明るくて気立てのいい娘だから当然ともいえるかもしれないけど、それにはもう一つ別の理由があるんだ。マーガレットは、いつも軽く跛をひいているだろう? あれは幼い頃の交通事故の後遺症のせいなんだけど、その時車を運転していたのがリチャードだったんだよ。あれはマーガレットが小学校の一年生の時だった。ある日、リチャードはマーガレットを乗せてドライブに出かけたんだ。その途中でリチャードはマーガレットとふざけていてハンドルを切りそこなって、前から来た車にぶつかってしまった。リチャードは奇跡的にかすり傷ひとつおわなかったけど、マーガレットは左足に大怪我をしてしまったんだ。最高の病院で手術させあらゆる手を尽くしてみたが、マーガレットの左足はとうとう完全には治らなかった。当時リチャードはマーガレットの足をあんなにしたのは自分だと言って、気が狂ったように苦しんでいたよ。そんなリチャードをむしろ庇い、慰め、気を使ったのが当の小さなマーガレットだったんだ。振り返ってみれば、マーガレットは左足のことで一言も恨みをいわず、父親を愛し努めて明るく振舞って成長してきた。だから、リチャードにとっては、よけいいじらしくて可愛いんだね。そんなわけでリチャードはマーガレットに対してコンプレックスを持っていて、絶えず気を使っているんだ。それなのにマーガレットが望んだ結婚を反対するはずはないさ」

「なるほど。マーガレットが再婚して一ヵ月もしないうちに心臓を悪くして入院した時は、さぞかし心配したでしょうね」

 エドワードがまた三人のグラスに琥珀色の液体が入った瓶を傾けながら答えた。

「あの時はリチャードもものすごく心配して、大騒ぎだったね。その時はまだ、マークとレイは世界旅行の途中だったけれども呼び戻してマークに母親の側にいてくれるように頼んだぐらいだからね。今度はマークもその事を聞くと、顔色を変えてすぐさま飛んで帰って来たよ。やっぱり母親想いなんだね。当然といえば当然のことかも知れないが、マークらしくて感心したよ」

「それから、長い病院生活を続けていると聞いていますが、病状のほうはどうなんですか?」アレックスがまた訊いた。

 父親がまた坐っている膝の上をトントン叩きながら言った。「手術も大成功だったし、回復も順調で先ほど退院したけれども、今はハミルトン家が経営している保養所で休養中だよ。だから、リチャードも一安心といったところだ」

「長い入院生活で少し身体が弱っているから、体力を回復させるためだそうだ。このことは前から予定されていたことだけれども、マーガレットも入院してからずっと家に帰っていないので、早く戻りたいんじゃないかな? 子供達や家族のみんなとも早く一緒に生活したいだろうしね。今日は母親のヘレンとお姉さんのエリザベスが保養所に見舞いに行って一晩泊まってくると言っていたよ」と、フレデリックが続けた。「あと二週間程したらハミルトン家に戻ってきて普通の人と変わらない生活が送れるそうだ。リチャードも大変喜んでいて、全快祝いパーティーをやると云っていたよ」

 その『普通の人と変わらない生活が送れる』ということは、セックスもオーケーということを意味しているのだろうか? それを感じ取ったアレックスはマークとトニーの二人の子供のことを考えると、何かあまりいい気持ちがしなかった。彼等もその事を考えて二人の結婚を承知したわけではないだろうからである。

「それから、一ヵ月前にハミルトン家の家族の一員ともいっていい同居人のマービン・クロシンスキーが、コロンバス通りで貴金属店から出て来た強盗に撃ち殺されたんでしたね?」

 アレックスは父親に目を遣りながら、ハミルトン家に起こった三番目の大きな出来事に話題を変えた。

「友達のアパートを訪ねた帰りに奇禍に会ったわけだが、あれは凄く惨たらしい事件だったよ。至近距離から散弾銃で撃たれたのでマービンの顔はないのも同然になっていた」と、警察長官がその時英国に行っていて事件の詳細を知らない息子に説明した。「被害者は彼だけでなく、警察が駆け付けた時には死体が通りに一つと店の中に四つ転がっていた。店の中の者は全員ピストルで撃たれていて、通りを歩いていたマービンだけが散弾銃で撃たれていた。通りの死体は顔がグチャグチャだったが、所持品からハミルトン家に住んでいるマービン・クロシンスキーだということがわかったというわけだ。連絡を受けてリチャードが確認に行ったんだけれども、死体の顔はまともに見られない程ひどく、身体つきと着ている物や所持品から判断できただけだと言っていたよ。御両親と妹さんが遺体を引き取りに来て、いまは故郷のロサンゼルスの郊外にある墓地の中に眠っているはずだ」

「なんでも、犯人はもう死んだんだったね?」エドワードが口を挟んだ。

 警察長官はゆっくり頷いた。「夜だったこともあって目撃者もなく、手掛りとなるようなめぼしいものは何も残っていなかった。防犯カメラも壊されていた。ただ、発射された弾丸の種類の数から強盗は三人組だろうと推測された。警察はその線から捜査を進めていたんだが、事件は運よく意外な所から解決された。二週間前にブロードウェイの服地店で同じような事件が発生したんだ。今度は、犯人は三人ともパトロール中の警官に射殺されたが、犯人がその時持っていた銃を調べてみたら、なんと前の事件に使用された銃だった。弾道検査の結果、施錠痕がぴったり一致したんだ。手口も前の時と同じだった。それで前の事件も死んだ三人組の仕業だとの見解が発表されたんだ」

「事件が解決して、マービンも少しは救われただろう」エドワードが、故人となった若き科学者をしのぶような調子でいった。

 暫くは、みんな黙っていたが、アレックスが湿った空気を吹き飛ばすような明るい声で言った。「そして、最後に忘れてはならないのが、今年カール・ウィルソンが物理学の部門でノーベル賞の候補に挙がったことでしょうね。今年は僅差で逃がしましたが、来年は期待できますよ」

 話は、ハミルトン家が所有している物理学研究所の所長であるカール・ウィルソンのことに移っていった。

 フレデリックは何か考えるような表情をした。「私も物理学に興味があって、いろいろな本を読んでいるけど、彼の理論は難解すぎて理解できなかったよ」

 エドワードが受けて言った。「あの理論を理解できる人間なんて世界にあまりいないんじゃないかな。アインシュタインの相対性理論も発表された当時は同じだったはずだよ。アインシュタインの再来といわれているのも、そういう処から来ているんじゃないのかい? ノーベル賞の対象となったのは今年一月に発表した論文だけれども、今年の六日と十日に出した二つの論文もそれ以上に素晴しいものだったそうだ。受賞者とは、一・二票の差だったらしいよ。もちろん、私には物理学はチンプンカンプンで、内容はまったくわからないがね。それにしても、一年前まではまったくの無名だったのに一躍有名になってしまうとは、実にアメリカン・ドリームだね」

「彼がもっと凄いのは、専門の理論物理学だけでなく、他の分野でも業績を挙げていることですね。数学者としても高く評価されているようですよ。本当に、まったく天才的な人物です」アレックスが賛美した。

「しかし、私には口が立つ切れ者といった感じがして、むしろ学者というよりは実業家のように見えて仕方がないな。それに、マークとトニーが大好きだといっているんだから、家庭ではやさしい父親なんだろうが、少し冷たい感じがするよ」エドワードの声には、あまりカールに好意をもっていないという響きが感じられた。彼は死んだジョニーが大好きだったので、当然ともいえる反発かもしれなかった。

「それはいえるな。いつも礼儀正しく如才無いんだけれども、何かよそよそしさを感じるものね。でも、ジョニーがあまりにもいい男だったから、そう感じるんじゃないのかな?」

「ジョニー・ウィルソンもカールと同じ物理学者でしたが、マークとトニーの二人の子供もゆくゆくは父親達の後を継ぐんですか?」

「この前、マークとトニーに将来何になりたいか訊いてみたら、二人とも父親みたいな立派な科学者になるんだといっていたよ。もちろん、この立派な父親というのは、カールのことを頭に置いて言ったんだと思うけど……」エドワードが、酒を一口飲んでから答えた。

「二人ともとても頭のいい子だから、将来は世界的に有名な科学者になることも夢ではないだろう。二~三十年後にはノーベル賞でも取っているんじゃないかな?」と、フレデリックが遠くを見るような顔をしていった。

「それよりも前に、カールの助手の陳志忠、ハリー・ストーン、メロディー・アンダーソン、レイ・マーチンの内の誰かが世界的に有名な物理学者になっているでしょう。彼等は、実に優秀だそうですよ」とアレックスがハミルトン家の四人の下宿人というか同居人のことを考えながらいった。「確か何かで読んだ記憶によると、一ヵ月前に死んだマービンも含めて、彼等は四年前ジョニーが大学から連れて来てハミルトン邸に住まわせたんでしたね」

「早い話はそうだけど、形としては面倒見がいいリチャードが、屋敷の部屋もあいているし、助手だから一緒に住んでいる方が、都合がいいだろうといって引き取ったことになっているよ。リチャードもジョニーを実の息子のように思って信頼していたし、マーガレットの夫ということで気を使っていたからね」エドワードが答えた。「彼等は大学の時からジョニーの手伝いをしていたので、リチャードもよく知っていたんだ」

「彼等はみんな、ジョニーが死んだ時は大変なショックを受けて、まるで自分の肉親が亡くなったように悲しんでいたな。みんなはジョニーを本当の兄貴のように慕っていたからね」フレデリックが付け加えた。

「リチャードや義兄のチャールズが、いかに悲しんでいたのかは、君も知っているだろう?」エドワードがアレックスに確かめた。

「確かチャールズはジョニーと高校時代からの親友でしたね?」

「マーガレットがジョニーと愛し合うようになったのも、チャールズが妹のマーガレットを親友のジョニーに紹介したのがきっかけだったんだ」と、エドワードが説明した。

「それじゃ、それだけにチャールズとしても思い入れが激しかったわけですね?」アレックスが、また訊いた。「ハミルトン家の何かで読みましたが、リチャード伯父さんはもう引退しているわけですか?」

「表向きはね。でも、完全に引退しているわけじゃない。まだ、チャールズの指導を兼ねた相談役として依然大きな支配力を持っているよ」フレデリックは窓の外に広がるマンハッタンを眺めながら、ハミルトン家のことを考えた。白いものが舞い始めており、今夜は雪になるかもしれなかった。

 ハミルトン・コーポレーションというのは全米で一・二のコングロマリットで、その支配下の企業は鉱山、保険、造船、製紙、酒、ガラス、化学、金属、石油、海運業、航空業、電子工業、銃器等の軍事産業などに及び、あらゆる分野に進出している。スキンからスペース・シャトルまでというキャッチフレーズがあり、小さな国ぐらいならそのすべての需要を賄うことができるといわれている程巨大な企業である。そのハミルトン・コーポレーションを支配しているのが、ハミルトン家の一族であり、会長がリチャード・ハミルトン、社長が息子のチャールズ・ハミルトン、重役の一人が長女の夫であるエリオット・マーカムなどとなっている。


 ルネサンス建築の堂々たる外見を誇るハミルトン家の邸はロングアイランドの外れの高級住宅地にある。邸から北へ約三キロ行った所にハミルトン家所有の個人兼ビジネス用の飛行場があり、その近くにはカールの研究所や電子工業の会社が位置している。

 現在その邸に住んでいるのは、当主のリチャード、ヘレン・ハミルトン夫妻、長男夫婦のチャールズ、ナンシー・ハミルトン夫妻とスティーブ、ポールという二人の子供達、長女夫妻のエリオット、エリザベス・マーカム夫妻、次女夫婦のカール、マーガレット(今は療養所)・ウィルソン夫妻とマークとトニーという二人の息子たち、それに同居人の陳志忠、ハリー・ストーン、メロディー・アンダーソン、レイ・マーチン、執事のトマス・ロイド、女中頭のシャーリー・アンカステル、住み込みの女中や料理人といった人達である。


 インディアナポリスを飛び立って約一時間半後には、小型ビジネス・ジェット機ファルコン一〇はロングアイランドにあるハミルトン家専用の飛行場に滞りなく着陸していた。

 この飛行場は、ビジネス用に使われていもいるが、主にハミルトン家の個人のために使用されている。そのため、広い面積を持っているが飛行機の離着陸もあまりなかった。従業員も数人程度だ。この頃は、まだ交通規制もゆるやかで、無人の飛行場さえあったのである。

かつてオリバー・ノースはコントラ(ニカラグアの反政府勢力)援助のために、このような飛行場から武器や資金を送っていたのである。パイロットは、副業としてコロンビアやパナマからカルテルからの依頼で麻薬を積んで帰ってきたりしていた。そのことは、後にイラン・コントラ事件として大問題になる。

 機内の人物は、今までのことを考えてみた。このハミルトン家が所有する飛行場も、インディアナポリスの飛行場よりましであるか、どちらかといえば粗末なものだった。ハミルトン家の個人が使用する滑走路は、飛行場のあらゆる建物から離れているので、肉眼では顔まで見られる心配はない。離陸前には整備員は飛行機をこの場所に置いて建物の方に帰るし、着陸後は暫く誰もやって来ないことになっている。それが、ハミルトン家の個人が飛行機に乗る場合の習慣になっていたのである。それに変声器も二種類使い分けている。機長と副操縦士の分だ。整備主任のトンプソンも、たまに飛行計画に記されている操縦者とは違う者がこの飛行機に乗って操縦していることは薄々知っているだろう。しかし、カール・ウィルソンが金を与えて口を封じているし、秘密に首を突っ込まないよう釘をさしている。秘密を知りたいのが人情というものだが、ハミルトン家の人間のことなので、雇用されている者としては触らぬ神に祟りなしだ。しかも、トンプソンは真面目な青年で、最初金を貰うことを拒んでいたが、一旦金を受け取ってからは寧ろ進んで協力しているようにみえた。インディアナポリスでもここでも誰にも見られなかったし、何の証拠も残していない。すべては完璧で手違いも手抜かりもないはずだった。

だから、今日もこの飛行機にだれが乗っているか知っている者はいないにちがいない。だれもがレイ・マーチンがこの飛行機に乗ってインディアナポリスまで行きエリオット・マーカムを殺害したと推測するだろう。念には念を入れてあらゆる予防策を講じたが、そのほとんどが取り越し苦労に終わるにちがいなかった。そもそも、そこまで捜査の手が延びての話であるが……。その人物は、ジェット機のドアを開けるとドアと兼用になっているタラップを降り、西の駐車場に通じるゲートの方へゆっくり歩いて行った。そこには、レイの愛車である真赤なカウンタックがあるのだった。

 右手には黒い鞄を持ち、外見がなるべくレイ・マーチンに見えるように考え抜いた格好に身を固めていた。誰の目にもつかないはずだったが、遠くから見られた場合の用心だった。

 その人物は、空を見上げてみた。だいぶ天候が崩れて来ており、雪片が散っていた。今夜は雪になるかもしれなかった。


第二章


フレデリック・ヘイワード、アレックス・ヘイワード、エドワード・リットンがホテルの前でタクシーを拾って、ロングアイランドにあるハミルトン邸に着いたのは、午後五時を少し過ぎた頃で、辺りはすっかり暗くなっていた。

ハミルトン邸は、大きな屋敷が立ち並ぶ高級住宅地の一番端にあり、西側と南側は小さな森に面していた。その邸は、気の遠くなるような広大な敷地を持っており、ハミルトン家の地位に相応しく実に豪華で堂々としていた。どれだけ莫大な金を費やしてこれだけのものを造ったかは、普通の金銭感覚を持っている者には想像もつかないだろう。電子装置で守られた巨大な宮殿という世間の評判も、少しも大袈裟ではないのである。

遠くの方に、木立の上から三つの屋敷の屋根が覗いていた。

門を入ってすぐの右側に警備室があり、ハミルトン家の安全を司っている。警備室と呼ばれているが、大きな小屋ぐらいの大きさはあり、常時一人以上の人間が詰めていた。三つの屋敷は、数台のテレビ・カメラが死角のないように監視できるようになっていた。もし動くものがあればコンピューターが知らせてくれるので、いつも注意している必要はなく、カードでもするか備え付けの大きなベッドで休んでいればいいのである。だから、夜も緑色のテレビ・モニターを見つめて、視力の疲労を心配する必要も全然ないのだった。

また、その映像と音声はビデオに記録され、二週間保存されることになっていた。この邸にある電子警報装置なりテレビ・カメラなりは、この数年間は実際に効果を発揮するチャンスは皆無といっていい程なかったが、このエリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン三重殺人事件の犯人Xを決定するのに非常に役立ったし、重要な鍵にもなったのである。間接的にであるが……。

 フレデリック・ヘイワード、アレックス・ヘイワード、エドワード・リットンの三人は、ハミルトン邸の前のすっかり葉を落としてしまった木が道に沿って並んでいる通りで、車を降りると、運転手に金を支払ってから、大きな門のところまで歩いて行った。

 屋敷の玄関まで車で乗りつけてもよかったのだが、散歩がてらに歩いて行こうということに決めたのだ。三人とも手ぶらで何も持っていないのは、リチャード・ハミルトンが万事手配して荷物の方はもうすでに送り届けていたからである。

 フレデリックが門の横にあるインターホンのスイッチを押し、ガード・マンに挨拶して用を告げると、リチャードがすでに声を掛けていたのか、「お待ちしていました。どうぞ!」という気持ちのいい声と共に、鉄の扉が自動的に開いた。この見るからに頑丈そうな門扉は、三人が中に入ると、もう二度とこのハミルトン邸から返さないぞというように鈍い音を立てて閉まってしまった。三人は門から五百メートルぐらい離れて建っている屋敷を目指して、くねくねと曲がった私道を歩いていった。

 私道の外は手入れの行き届いた芝生が、一面に敷き詰められており、ところどころに立っている常夜燈が、辺りを仄白く照らしていた。美的感覚を擽るように配置された小さな木立があちこちにあって、門と屋敷のほぼ中間あたりには散歩の休憩所を兼ねた温室があった。ところどころに、こういったところが見受けられる。

 その温室の横を通り過ぎながら、エドワードがオーバーの襟を立てていった。

「なんて寒いんだろう。歩いてみて初めてわかったよ。これじゃ、あの暖かい屋敷に辿り着く前に、凍え死んでしまいそうだ」

 フレデリックが笑いながら言った。

「まるで、南極基地を目の前にしながら遭難しそうな探検隊のような気持ちかい? でも、明後日の今頃はカリブ海のサン・オノレ島の付近の海で、きっと暑くて参っているだろうさ」

 アレックスも寒さのために少し硬張った微笑を浮かべて口を挟んだ。

「そうですよ。要は、気持ちの持ち方ですからね。こんな寒さで弱音を吐くなんて年寄りになった証拠ですよ」その声には思いやりが籠っていた。「それはそうと、この邸はいつ見てもすごいですね。小さい頃アラブの大富豪の邸を見てその豪奢さに驚いたことがありますが、この邸はそれに勝るとも劣らない程素晴らしいものです」

 エドワードが前方に見える一番大きくて合理的で端正と調和を特徴とする屋敷を指さしながらアレックスに説明した。

「あのルネサンス建築の見本のような屋敷はリチャードのお祖父さんが建てたといわれている。彼が初めてイギリスに渡った時にバッキンガム宮殿を見物に行ったんだが、その厳格な幾何学形に魅せられてしまって、自分の邸もそれに似たルネサンス様式で造ったという話だ。外観は今でもその当時から余り変っていないが、内部は度々の改装や改築でかなり変わってしまっているそうだ。私達も何回か泊まったことがあるが、より能率的に整備されていて、実に住み心地満点だよ」

「それに今じゃ、内部はものすごく現代的で、コンピューター室、警備室、図書室、地下には銃器室、美術室、冷暖房調節室、ゴミ焼却室、ランドリー室といったものまである。リチャードは、銃のコレクターで世界中の、銃器を集めているんだ。どの部屋も専用の鍵とマスター・キーで開くようになっている」

フレデリックも小さな木立の向こうにはっきりと白く浮び上っている三つの屋敷に目を遣りながら付け加えた。「あの両脇にある二つの屋敷も、真中の屋敷に調和するように、十七世紀初めの英国の建築様式を取り入れて建てられたんだけど、コンピューター室、図書室、銃器室、美術室がないぐらいで後はほとんど同じ設備を持っている。だから、どの屋敷を取ってみても、快適な生活が約束されているわけだ」

 三人は、小さな木立を抜けると、三つの屋敷の前の広場に出た。三つの屋敷は、ゆるやかな半円形を形作るように並んでおり、広場の中央には今の季節の冬には水が止められている噴水があった。その回りを、春や夏には色取り取りの花を咲かせるであろうと思われる大きな花壇が取り囲んでいる。西の方には少し離れてモダンな体育館と大きな車庫が闇の中に見えており、屋敷の向こう側には今は陰になって見えないが室内プールと大きな温室があるはずだった。

どこを見てもハミルトン家の巨大な財力というものをありありとみて取ることができる。三人は噴水の回りをまわって、真ん中の一番大きな屋敷の前の階段を上がり、玄関の扉の前まで行った。

 この屋敷にはリチャード・ハミルトン夫妻、カール・ウィルソン夫妻とその息子達、四人の同居人、執事、女中頭が住み、右の屋敷にはエリオット・マーカム夫妻が寝起きし、右の屋敷にはチャールズ・ハミルトン夫妻とその息子達が暮しており、それに続く離れには住み込みの女中や料理人などがそれぞれ生活を営んでいた。

 今度はエドワードがドアの呼鈴を鳴らすと、待つまでもなくすぐさま大きな扉が開かれた。

 ドアの向こうには、執事のトマス・ロイドがにこやかな笑顔を浮かべて立っており、親しみを感じさせる態度で挨拶しながら三人を迎え入れた。屋敷の内部もその外見と同じように豪奢でデラックスだった。

 テレビや映画でよく観る大富豪の歴史ある庭や邸であり、雑誌やテレビで紹介され、警備もしっかりしていたので、もしこの邸で犯罪が起きたなら犯人は外部の人間ではなく、内部の人間の仕業としか思えなかった。この屋敷で起こったカール・ウィルソン、レイ・マーチン連続殺人事件は、時間というものが大変重要な意味を持つ殺人事件だった。いわゆる秒読みの殺人である。だから、この屋敷の内部の構造及び部屋の位置が大きな役割を演じたものと判断されたのである。


 まず、玄関を入ると二階までぶっ通しの大ホールがあり、屋敷を横切る廊下の両側にそれぞれ部屋が並んでいる。

屋敷の左翼をみると、大ホールに近い順から、北側はそれぞれマーク、トニーの子供部屋、カール・ウィルソンの部屋、レイ・マーチンの部屋、図書室、コンピューター室、小ホールを挟んで、警備室になっていて、南側はそれぞれ書斎、メロディー・アンダーソンの部屋、ハリー・ストーンの部屋、陳志忠の部屋、空室、小ホールを挟んで、ピアノ室になっている。屋敷の右翼に行くと、大ホールに近い順から、北側はそれぞれ二つの大きな居間、シャーリー・アンカステルの部屋、小ホールを挟んで、厨房になっていて、南側は二つの大きな応接室、トマス・ロイドの部屋、小ホールを挟んで、大食堂になっている。この屋敷の出入口は、南側中央の玄関、大ホール北側の裏口、東の小ホールの南北二つの非常口、西の小ホールの南北二つの非常口、東側の勝手口、西側の非常口、そして居間、応接間、書斎のフランス窓である。

階段は大ホールの北側の両端と東の小ホールの北東側と西の小ホールの北西側にあり、地下室への扉は一階のそれぞれ四ヵ所の階段の下にあった。


 二階は、左翼の北側を七つの客室が、南側をリチャード・ハミルトン夫妻の部屋が占めており、右翼の北側はマーク、トニーの子供部屋が、南側はカール・ウィルソン夫妻の部屋が占領していた。

 しかし、マーガレットが入院してからは、カール・ウィルソンと二人の子供達は階下に移っているので、二階の右翼はからっぽになっていた。

それから、三階はすべて客室になっているが、住む人はなく、ときどきメイドが掃除に行くぐらいで、見捨てられたのも同然になっている。

地下には、ゴミ焼却室、ランドリー室、物置、エア・コンディション・コントロール(セントラル・ヒーティング)室、美術室、銃器室などが大きなスペースを取っていた。

 すべての部屋はいずれも廊下に面して入口のドアがあり、内部は大変広く、整備されている。入口の反対側は一面窓になっていて、それぞれ浴室、トイレ、電話などが付いていた。天井裏には少し物が置けるようになっていた。まるで高級なホテル並で、何処を取っても快適な生活が送れる様に設計されている。入口のドアはノブについているボタンを押しさえすれば自動的にロックできるようになっており、このキーは各自が所持していた。また部屋の両側には隣の部屋に通じるドアがあったが、子供や夫婦の続き部屋を除いてそのドアには鍵が掛けられていた。その鍵は、屋敷のすべての部屋のマスター・キーと一緒に書斎の金庫に納められるようになっていた。

 そして、この鍵の行方と硝煙反応の結果が、この屋敷で起こった殺人事件にあたった警察の捜査を大いに混乱させることになったのである。

 屋敷の内部は暖かく、三人はなんだか生き返った感じがして、ほっと一息吐いた。ホットな空気が、冷え切った身体にとても心地良かった。リチャードが以前に説明したところによると、三つの屋敷はとても人間が一番活動しやすい温度に保たれているはずだった。

 トマス・ロイドは、三人がオーバーやコートを脱ぐのを手伝いながらいった。

「外はさぞかし寒かったでしょう? なんでも天気予報によりますと、夜は雪になるそうですよ」

 その声には相手への思いやりが籠っていて、何か人の心を暖かくするような響きがあった。

「どうりで外はシベリヤのように寒いはずだ」と、エドワードが救助された遭難者のような安心した笑顔を浮かべて、執事のトマスを見た。

 執事といえば年配であまり目立たない男を思い浮かべがちだが、トマス・ロイドはまだ二十代後半の青年で、もとバスケット・ボールの花形選手だっただけあって二メートル近い大男だった。今は、右足が少し不自由だけれども、それでも泥棒なんかが忍び込んで来たりしたらさぞかし頼もしい存在になるだろう。彼はリチャード・ハミルトンがオーナーであるプロバスケット・ボール・チームのポイントゲッターだったが、一年前相手と激突した際に右足を複雑骨折してしまったのである。リハビリテーションで軽く足をひいて歩けるぐらいまでには回復したけど、医者から二度と激しい運動はできないと自分の運命を言い渡された。そこで選手生活から引退して、オーナーのリチャード・ハミルトンが申し出てくれたこの邸の執事の仕事を今年の七月からやっているわけである。執事といっても、家事の切盛りは女中頭のシャーリー・アンカステルがやってくれるので、客や電話の応対が主なもので大した仕事はなかった。最初はこの仕事に戸惑うことも多かったが、最近はようやく慣れて余裕を持つことができるようになっている。


トマスは三人を大ホールに接っする応接室に通すと、リチャードを呼ぶために右足を軽く引き摺りながら出て行った。

 応接室は大きくて明るかった。部屋の中央にはモダンな形のテーブルとそれを挟むように二対のソファがあり、一方の壁には少女を描いた肖像画が掛かっていた。

 アレックスがソファのひとつに座りながら自分の意見を述べた。

「トマスはスポーツマンだけあって実に爽やかな青年ですね。怪我さえしないでプレーしていれば、後世までも名を残すほどの大物選手になっていたかもしれないのに、本当に残念です。心から、そう思いますよ」

 それは、トマス自身にとっても、ファンにとっても同じ気持ちだった。

 エドワードが笑顔を見せた。

「でも、来シーズンからは元のチームに新しいコーチとしてカム・バックするはずだよ。古株のコーチが引退することもあるんだけれども、トマスは選手を引退してからも、ずっと元いたチームや相手チームの研究を続けていたんだ。そして、暇を見つけては、監督やコーチの許しを得て、若手や後輩にアドバイスしたりコーチしていたりしたんだ。リチャードも、最近になって監督からそのことを聞かされて、それならば、いっそのこと新しいコーチにしてやろうと決心したってわけだ。しかし、このことはまだ秘密なんだからみんなに言うんじゃないよ。マーガレットの全快祝いのパーティーの席上で発表して、トマスを驚かしてやろうという趣向なんだ」

 アレックスの顔も明るくなった。

「それはよかったですね。きっと、とても喜ぶでしょう」

「彼なら、きっと監督や他のコーチをうまく助けながら立派にやっていくことだろうね」

 フレデリックも頷きながら言った。

 その時、ドアをノックする音がして、扉が勢いよく開くと、二人の男が入って来た。

 年を取っているが全身からエネルギーというものを感じさせるリチャード・ハミルトンと、父親をもっと知的で都会的にスマートにしたような感じのチャールズ・ハミルトンだった。どちらもきちんとした身形をしており、一見しただけでトップクラスの階級の人間だとわかる温厚そうな紳士だった。

「やあ、みんなよく来てくれたね」

「みなさん、よくいらしてくださいました」

 二人が声を掛けて歓迎の意を表わし、ハミルトン親子と客達はお互いに挨拶を交し合った。

 そして、少しあれこれと談合していたが、やがてリチャードが済まなさそうな顔で言った。

「ずっときみたちの相手をしていたいんだが、ちょっと事業のことでチャールズと重大な相談があるんだ。トマスが呼びに来た時も、実はそのことを話し合っていた所だったんだ。食事までには終わるだろうから、それまで適当に時間を潰してくれないかな?」

「私達は構わないから、まずビジネスのことを済ましてしまってくれ。明日から一週間は仕事のことも何もかも忘れて楽しく過ごしたいからね」と、エドワードがにっこり笑いながら答えた。

 リチャードはトマスを呼ぶと、三人を二階の客室に案内するように命じた。

 みんなは立ち上がって、応接室から大ホールに出た。大ホールの天井には大きな宝石のようなシャンデリアが輝いており、階段から続く手摺の向こうには二階の廊下の空間が見えていた。大ホールには壁に掛かった絵、彫像、鉢植えの観賞用植物、白い砂が入った高い足の灰皿など、一見して高価なものとわかる装飾品があったが、すべて非常に調和が取れていてそれだけに一層、この家に住んでいる人達のセンスの良さといったものが感じられる。

「この家では何も遠慮はいらないから、リラックスして自分の家のように振舞ってくれればいいよ」

「それじゃ、皆さん、また食事の時にお会いしましょう」

 ハミルトン親子はそう挨拶すると、大ホールを横切って屋敷の左翼の書斎に入って行った。

 後に残された四人はトマスを先頭にして大ホールの北西に位置する階段の方に向かった。階段を登りながらトマスがいった。

「明日はサン・オノレ島へ行くんでしたね。この寒いニューヨークから南のカリブ海へ逃げ出すなんて羨ましいかぎりです。でも、百八十度環境が変わるわけですから、お身体だけは十分気を付けてください」

「どうもありがとう。気をつけるよ」

 エドワードが三人を代表していった。そして、一息吐いてから続けた。

「それはそうと、今日の午前中、ハミルトン家のみんなは教会に行ったそうだね?」

 トマスの顔が、少し曇るのがわかった。

「ええ、私も一緒に行ったんですが皆さん大変寂しそうでしたよ。あんなにも素晴しい方でしたから、みんなから愛されるのも当然でしょうが……」

 そして、ジョニーを偲ぶように遠くを見つめる目付きをした。

「私もあの方が大好きでした。ですから、私も今日は一日中ジョニーさんのことを考えていたんですよ」

「きみは前からジョニーを知っていたのか?」とフレデリックが少し驚いた顔をして訊いた。

「コロンビア大学の理学部に在籍していましたからジョニー先生の講義を受けさせていただきましたし、生家が近所だったこともあって非常に親しくさせていただいていたんです。とても面倒見のいい方で、私もジョニー先生を本当の兄貴のように思って頼りにしていました」と、トマスは答えると続けていった。「私がプロになるかどうか迷っていた時も親身になって相談に乗ってくださいました。私がプロで活躍できたのもジョニー先生のアドバイスがあったおかげだと思っています」

 そうこう言っているうちに、一行は二階の小ホールの手前にある客室の前までやって来た。トマスはドアを開け明かりを点けると、三人を招き入れた。

「この部屋と隣の二部屋を、皆さんのために用意しました。皆同じ部屋ですので、どのお部屋で休まれるかは自由に決めてください。それから、部屋の横のドアの鍵は外してありますので、自由に行き来できるようになっています」

 部屋は手入れが行き届いていて感じが良かった。正面には部屋に調和した色のカーテンを引いている窓があり、片隅みにはトイレ付きの浴槽があった。また中央には電話と花瓶が乗っているガラスのテーブルを囲んでソファが横たわり、天井には小さなシャンデリアがぶら下がっている。そして窓に沿って大きなベッドが配置され、机元には緑色の笠が付いたフロアスタンドと酒壜が並んだサイド・テーブルが置かれていた。

 部屋を見渡し終わると、エドワードが気にしていたことを口に出した。

「マーガレットが後二週間したら帰って来ると聞いたけれども、子供達はさぞかし喜んでいるだろうね」

 それを聞くと、トマスの顔が暖かい表情になった。

「二人ともとても待ち遠しいようで、ここのところソワソワして何だか落ち着かないようですよ。四ヵ月間も家を開けていたので、一日も早くマーガレットさんが家に帰って来て欲しいと望むのは当然でしょうが、見ていて非常に微笑ましいですね。きのうも二人で小遣いを出し合ってプレゼントを買って来ていたようです。入院中も休みには病院や施設に見舞いに行っていました。本当に、母親想いのやさしくていい子供達ですよ」

「私達にもリチャードから話があったんだが、何でもマーガレットの全快祝いにパーティーを計画しているそうだね?」

 フレデリックが口を挟んだ。

「お呼びしているのは極親しい友人の方だけで、内輪だけのパーティーなんですが、マーガレットさんを喜ばすためにいろいろと趣向を凝らしていて、何だかとても豪勢なものになりそうです。リチャードさんも大変な気の入れようで、自らシャーリーにいろいろ細かいことまで指示しているようです。皆さんもその時は出席していただけるのでしょう?」と、トマスが笑みを浮かべて訊いた。

「もちろんそのつもりだよ。もう長いことマーガレットの顔を見ていないからね。元気な姿を見るのを非常に楽しみにしているんだ」とエドワードが言った。

「エドワードはマーガレットの名付け親でもあるから、余計にその気持ちが強いんだよ」

 フレデリックが後の二人に説明した。

 話が跡切れたので、窓の傍でカーテンを開けて外を見ていたアレックスが話題を変えて訊いた。

「あの明かりがついている建物は何なんですか?」

 トマスが窓のところにやって来て、明るいモダンな建物を見降ろすと答えた。

「ああ、あれは室内プールですよ。温水設備があるので冬でも泳げるんです。今は、マークとスティーブの二人が練習しているはずです。二人は同じ小学校のスイミング・クラブに所属しているんですよ」

 そして、トマスは時計を見ると、「お食事の時にはお呼びに参ります。それまで、どうぞご自由にお寛ぎください」と言うと、右足を引き摺って出て行った。

 アレックスが振り向くと、いまは頭に浮かんだ疑問を述べた。

「マークとスティーブは同級生だそうですが、どちらが優秀なんですか? 下世話な話だが」

 事情をよく知っているエドワードが、その質問に笑えた。

「どちらとも言えないらしい。近くの私立の小学校に通っているんだけど、二人とも学年で一・二を争う成績だそうだ。ただマークは理科系の科目が得意で、スティーブは社会系の科目が得意だから、二人とも父親の後を継ぐには都合がいいね」

「性格の方はマークが育ちのいい小さな紳士といった感じで、スティーブは頼りがいのあるタフ・ガイといったような感じがするね。マークはやはりジョニーによく似ているし、スティーブはリチャードの小さい頃にそっくりだ」

 フレデリックが続けた。

「二人は非常に仲がいい親友で、いい意味のライバルなんだ。私たちの小さい頃にそっくりだと、リチャードが言っていたよ」

「二人の弟のトニーとポールの方はどうなんですか?」と、アレックスが再び訊いた。

「トニーとポールもお兄さん達と同じ小学校で、トニーが三年生でポールが二年生なので比べようがないけれども、お兄さん達に勝るとも劣らず優秀だということだよ。二人とも時々お兄さんに勉強を教えてもらっているそうだから、そのせいもあるかもしれないな。性格の方も、お兄さん達をもっと元気にしたような感じだ」

 フレデリックが子供達のことを考えながら答えた。

「これは頼もしいですね。リチャードさんもさぞかし鼻が高いでしょう?」とアレックスがニコニコしていった。

「リチャードも殊の外四人の孫を可愛いがっていて、彼等の自慢話ばかりしているよ。聞いている方としては耳にたこができるくらいだ」

「将来、この家から有名な実業家と学者が輩出されることを期待しようじゃないか!」

 エドワードもやさしい表情で、期望を述べた。

 三人は暫く暖かい気持ちで子供達のことを考えていたが、やがてフレデリックが提案した。

「食事まで退屈だから、ちょっと家の中でも散歩してみないか? 食事前の運動にも、ちょうどいいと思うけれどもね」

 エドワードが頷いて、窓の外の明かりの方を指さした。

「子供達が泳いでいるのを見に行こうじゃないか?」

 アレックスはベッドの端に座りながら言った。

「私は少し疲れましたので、ちょっとベッドに横になって休んでいたいと思います。どうかお二人で散歩を楽しんで来てください」

「そうか、それじゃ仕方ないな」というと、二人は上着を脱いでいるアレックスを残して廊下に出る。

 両側に部屋のドアが並んでいる今さっきやって来た廊下を引き返して、二階の踊り場のところを曲がり、階段を降りると再び大ホールへ出る。

 そして、室内プールへ行くために北側の裏口へ向かおうとした時に、左翼から大ホールに出て来た華やかな人影が目に入った。

 カール・ウィルソンの助手の一人であるメロディー・アンダーソンだった。

 女性としては背が高く、モデルか女優になっても通用すると思われるような都会的でスマートな美人である。英国人の父親とフランス人の母親を持っているそうだ。

 ポニー・テールにした金髪が実際の年よりも若い印象を与えており、整った顔立ちと青く澄んだ瞳が非常にマッチしてやさしい雰囲気を醸し出している。

 しかし、何処となく落ち着いた物腰や引き締まった顎の線から、芯の強さや意志の強さとかいったものを読み取ることができる。

 ちょっと見ただけではこんな美人が科学者であるということは想像もできないが、話をしてみるとやはり驚く程の知性を持っていることがありありと感じられる。

 メロディー・アンダーソンは二人を見つけると近づいて来て、相手をウットリさせるやさしい笑顔で歓迎した。二人と親子のように親しみの籠った挨拶を交し合うと、メロディーが訊いた。

「アレックスさんはどうなさったんですか? 一緒にいらっしゃると、リチャードさんからお聞きしましたが」

「息子は疲れたといって、二階の部屋で休んでいるよ」

 フレデリックが答えた。

「私達はジッとしていられなくて、これから室内プールへ子供達が泳いでいるのを見に行こうとしているところだよ」

「まあ、私も同じですわ。御一緒しましょう!」

 メロディーが先頭に立って、フレデリックとエドワードが後に続くといった形になった。三人は大ホールの北側にある裏口から外へ出ると、膚を突き刺すような寒気の中を歩いて、明かりがついている現代的な形をした建物の方へ向かった。

「外はやっぱり凍え死にしそうな程寒いね。零度をかなり下まわっているんじゃないか?」と、エドワードが白い息を吐きながら言った。

 メロディーが常夜燈の上に広がる真っ黒な空を見上げていった。「寒いはずですわ。雪がチラホラ舞い出して来ましたもの」

 真っ白い雪が、音もなく静かに舞い落ちているのがいかにも寒々しかった。

 闇の中をしばらく進んで行くと目的の建物に着いた。モダンな姿をしたガラス張りのハウスで、闇の中に水晶のように輝いている。

 二重のガラスの扉を開いて中に入ると、暖かいというよりもむしろ暑いような空気が三人を包んだ。

 内部は驚く程広くて天井とずっと高く、競技用の屋内プールと比べても何の遜色もない程立派で、非常に整備されていた。

 壁も天井もすべてガラス張りでモダンな姿を誇っており、整備から何まで現代的で機能的だった。

 真中には青い水を湛えた長さ五〇メートルの大きなプールが構えており、その周囲には涼しげな形をしたチェアがところどころに置いてあった。

 今、この八コースあるプールの真中を二人の少年が水を切って泳いでおり、向こう側のプールサイドでは長身でがっちりした身体つきをした青年がメガホンを持ってコーチしている。

 これまたカール・ウィルソン研究所の所員であるハリー・ストーンであった。

 元オリンピックの金メダル泳者だっただけあって無駄のない筋肉を持った体を持っており、それと知的な顔立ちが非常にアンバランスな魅力を生み出している。性格の方も華やかな過去を象徴するかのように明るく陽気で、スポーツマンの好青年といったような印象を与えていた。子供達からも、本当の兄貴のように慕われているのも当然といえるだろう。

 プールサイドの向こうのチェアには二人の裸の少年と二人の少女と一匹のペルシャ猫が座って、マークとスティーブが泳いでいるのを眺めていた。

 メガホンを持ったハリー・ストーンは、三人が入って来るのに気がついて手を振って叫ぶように言った。

「やあ、フレデリックさん、エドワードさん、いらっしゃい!」

 エドワードもそれに答えて大声でいった。

「やあ、ハリー、こんばんは。少しお邪魔させてもらうよ」

 子供達も、二人に気づいて次々に声を掛けて来た。

「フレデリックおじさん、エドワードおじさんいらっしゃい!」

 子供達の挨拶に笑顔を浮かべて返事をしてから、フレデリックがハリー・ストーンに向って言った。

「私達のことは気にしないで続けてくれたまえ。散歩がてらに見物にやって来ただけだから」

 ハリー・ストーンは頷くと、少年達のコーチに戻っていった。

「さあ、マーク、スティーブ、今度は一〇〇メートルをバタフライで泳いでみようか」

 そして、「ヨーイ、ドン」という合図で、二の少年のしなやかな身体がプールに飛び込むと同時に、ストップ・ウォッチのスイッチを押した。

 フレデリック、エドワード、メロディーの三人は子供達がいるのと反対側のプールサイドに席を取ると、腰を落ち着かせて二人が泳ぐのを見物した。

「マークとスティーブは、とても女の子にもてるんですのよ。今二人が通っている小学校では、女生徒の人気を二分する程のアイドル的な存在だそうですわ」

 エドワードは、改めてプールの二人に目を遣った。二人は今一〇〇メートルを泳ぎ切って、プールサイドに上がろうとしているところだった。

 トニーが気軽にリンゴを投げて、マークは左手で上手くキャッチしていた。そんなところにも、二人の仲のよさがうかがわれた。

二人を比べて見ると、マークの方が甘くて整った顔立ち、鞭のようにしなやかで引き締まった身体つきをしており、スティーブは荒削りではあるがバランスの取れた顔、ギリシャ彫刻の少年のような体をもっている。マークはやさしくて柔らかい雰囲気を持っているのに対して、スティーブの方は何か頼りがいのある逞しさを感じさせる。

 エドワードは笑顔を見せながら、思っていることを口に出した。

「二人はまったく正反対のタイプだけども、私達が見てもどちらも非常に魅力的な少年だと思うよ。女の子に人気があるのも当然だろうね。どちらも小学生にしては背が高いし」

 プールサイドの向こうでは、ハリー・ストーンがストップ・ウォッチを見ながら言っていた。

「今日はいろいろと忙しかったから疲れているんだろう。タイムがだいぶ落ちているよ。それじゃ、二人は上がって選手交代といこうか!」

 今まで椅子に座っていた二人の少年が立ち上がってプールサイドにやって来た。

 二人とも短い金髪と青い瞳がとってもよく似合っていて、それぞれお兄さんにそっくりだったが、二人をもっと小さくわんぱくにしたような感じだった。

 マークとスティーブは、引き下がると二人の少女から受け取ったバスタオルで身体を拭きながら、隣の椅子に腰を下ろした。

 メロディーが、マークの横の椅子に座っている少女を指さして言った。

「あの娘が、マークのガール・フレンドのジェニー・スタンフォードですわ。隣の屋敷に住んでいるんですの」

 フレデリックとエドワードは、白い小さなブーツを履き、白いジャンプ・スーツに赤いキルティングのスキー・ジャケットを着た少女に視線を移した。

 先程から頻りにマークへ熱い視線を注いでいるので、彼女がマークを好きだということはハッキリしていた。

 美少女という言葉がぴったりの女の子で、絹のように柔らかい金髪と知的なグリーンの瞳が可愛いらしさを湛えており、すっきりと整った顔立ちが将来美人になることを保証している。

 十二歳にしては上背もあったが、百六十センチはあるマークとスティーブに比べるとやはり小さくみえた。

「大変可愛い女の子だね。マークとはお似合いのレディーだよ」とエドワードがニコニコして言った。

「見ていて非常に微笑ましいね。まったく、まるで童話にでも出て来るようなカップルだよ」

 フレデリックも暖かい口調で云った。

「その隣の金髪に赤いリボンをつけた女の子がジェニーの妹で、トニーのガール・フレンドのルーシー・スタンフォードですわ」と、メロディーが向こうのプールサイドの、青いセーターを着て、膝に赤いコートと白いペルシャ猫を抱いている女の子を見ながら説明した。さっきからトニーに声援を送っている少女である。

 一見しただけで隣のジェニーの妹であることがわかる程よく似ていたが、こちらの方が御転婆だということは顔の線にもはっきり現われていた。

「あの女の子は、お姉さんによく似ているけど、もっとお茶目な感じがするな。こちらも、まったく明るく元気がいいカップルじゃないか」とフレデリックが感想を述べた。

「スタンフォードといえば、スタンフォード工業のスタンフォードだろう?」

 エドワードがメロディーに訊いた。そして、メロディーが頷くのを見ると続けた。

「一ヵ月程前にスタンフォード家が隣に引っ越してきたことはリチャードから聞いて知っているけれども、あのような可愛い娘達がいることは知らなかったよ」

「御両親のロジャーさんとグロリアさんも、娘達にいいボーイフレンドができてよかったと大変喜んでいましたわ」

 メロディーが振り返って言った。

「本当に、気持ちのいいカップルですものね」

「スティーブとポールにも、もちろんガール・フレンドはいるんだろう?」とフレデリックが何気ない調子で訊いた。

「ええ、もちろんいますわ。スティーブとポールのガール・フレンドも小学校の同級生で、どちらも小さな美人といった感じのとてもチャーミングな女の子ですよ。この間、この邸で催されたパーティーの席上で紹介されたんですが、二人とも一生懸命ガール・フレンドをエスコートしていて、端で見ていると自然に顔が綻んでくるような感じでした」

 メロディーは、その時のことを思い出してニッコリした顔で言った。

「ハリーも志忠もマーク達がとても好きで、まるで本当の弟のように可愛がっています。あの子達を見ていると、何だかいろいろと世話を焼きたくなりますものね。もちろん私もそのうちの一人で、彼等の幸せのためだったら何だってします」

「四人ともそれぞれに個性があって、大変いい子達だからね」とフレデリックも子供達を見ながら頷いた。

「君達があの子達を大好きだという気持ちはよくわかるよ。稀にしか会わない私達だって自然と暖かい気持ちになるからね」

 エドワードがメロディーに向ってやさしい表情でいった。

「ところで、最近カールはどんなことを研究しているんだい?」

「ワーム・ホールについてですわ。それを数学の方程式で証明しようとしています」

「ワーム・ホール?」

「宇宙にあいた穴ですわ。ワーム・ホールに関しては、ホーキング博士よりコールマン博士の研究が有名です。簡単にいえば、ビッグバン以前の宇宙において、ワーム・ホールが多くの宇宙を繋いで、宇宙定数の大きさをゼロに調節する役目を果していたということができます。ですから、宇宙にはこのワーム・ホールがいくつもある可能性があります。そして、この穴を通れば、過去、未来、他の宇宙へトラベルできるんです」

「ということは、理論的にはタイム・マシンが作れるということかい?」

「いいえ、駄目です。このアイデアには大きな難点があって、実現性は皆無の産物です。なぜならホーキング博士の言葉を借りれば、そこへ辿りつく前にその人間の体はスパゲッティのようになってしまうからです」

「そうか、カールはSFのような研究をしているのか?」

「でも、理論物理学という学問は馴染みのないようですが、すぐ形になるんですよ。レーダーしかり、原子爆弾しかりです」

 プールに目を遣ると、トニーとポールがハリーの掛け声に合わせて、クロールですいすい水を切って軽く泳いでいた。

 また、プールサイドでは、ルーシーがペルシャ猫の頭を撫でながら二人の泳者に一生懸命声援を送っており、マークとスティーブはジェニーを真中にして身振り手振りまでつけて楽しそうに話をしていた。

 三人は暫く、まるで映画にでも出て来る様な和やかな光景を見ながら自分自身の考えに耽っていたが、やがてフレデリックがガラス張りの天井からぶら下がっているデジタル式の時計をチラッと見ると口を開いた。

「もうすぐしたら食事だけれども、私はその前に調べたいことがあるので図書室に行こうと思うんだが、エドワード、君はどうする? ここに残って見物をしているかい?」

「いや、私も図書室に行こう」とエドワードは少し退屈して来たのかそう答えた。

 メロディーに丁寧に断わりを言いながら、二人は立ち上がった。

 そして、デビットと子供達に手を振ってその旨を伝えた後、出口の方へ向った。

 二重のドアを押して外へ出ると、今度は冷たい空気が熱った身体に心地良かった

闇の中を歩きながら、フレデリックがさっきから気になっていたことを訊いた。

「メロディーは、子供達の話をする時、少し様子がおかしかったけど、一体どうしたんだろう?」

「今日はジョニーの命日だから、特別の思い入れがあるんじゃないのかな」

 エドワードもフレデリックも、メロディーが男としてジョニーを愛していたのを知っていた。もちろん、メロディーの片想いではあったが……。

「あっ、そうか」

 エドワードは、言おうか言うまいか迷っている様子だったが、真剣な表情をすると声を落として言った。

「それにこれは個人の名誉にも関わることなので余り言いたくないんだが、メロディー、ハリー、志忠の三人は、カールがジョニーの研究を盗んだんじゃないかという疑いを持っているんだよ」

「誰からその話を訊いたんだ? リチャードかい?」

「いや、リチャードもこの話は知らないよ。強盗に殺されたマービンが、大分前にこの邸のみんなには言わないという約束で教えてくれたんだ」

 屋敷の裏口の立派なドアを開けて中に入ると、フレデリックが自分の考えを述べた。

「それは、メロディー達の思い過ごしじゃないのかい? メロディーはジョニーに対して恋心を抱いていたようだったし、ハリーと志忠にしてもジョニーを尊敬して慕っていたようだったから、公正な目で見れば幾分嫉妬の気持ちもあったような気がするな」

「なんともいえないね。ただ、私はメロディー達がそういう疑いを持っているといっただけだよ」

 誰も見当たらない大ホールを横切って図書室へ向かいながら、フレデリックが肩をすぼめて言った。

「このことはカールの名誉や人間関係に関するデリケートな問題だから、部外者の我々が口に出すことじゃないね」

「確かに、この家ではその話はタブーだな。マークとトニーが幸せそうだから余計そう感じるよ」とエドワードは同意した。

 三対の部屋の前を通り過ぎると小ホールの二つ隣にある図書室の前まで来た。

 図書室には先客がいた。

 これまたカールの助手の陳志忠である。

 中肉中背の、ロイド・メガネを掛けたいかにも学者らしい男で、東洋系の顔とどこか仏教徒のような雰囲気とが、会う人に朴訥な人間であるという印象を与えた。

 父親は理論物理学の有名な世界的権威で、中国では非常に尊敬されている。そのせいか、その能力と才能には定評があり将来を属望されていた。ジョニーの大学に留学して、そのまま滞在しているのだが、いずれは帰国することになっている。

 陳志忠は窓際の机の上に本を積み重ねて一生懸命何か調べ物をしているところだったが、二人が入って来るのに気がつくと立ち上がって声を掛けてきた。

「お二人とも、いらっしゃい!」

「やあ、志忠、こんばんは! 一晩お邪魔させてもらうよ」とエドワード。

「久しぶりだけれど、元気そうだね」と、フレデリックが言った。

「はい。お蔭さまで。お二人もお元気そうでなによりです。お二人の御活躍は、よく新聞やテレビで拝見していますよ」

 エドワードは少し照れた顔をして「それは、どうもありがとう。君もがんばっているようじゃないか」

「何かとても忙しそうだから、私達には構わないでその仕事を続けてくれたまえ! 私達は散歩を兼ねてちょっと寄っただけだから……」とフレデリックが付け加えて言った。

 それでもやさしい人柄の陳志忠は、しばらくの間二人の相手をしてから自分の仕事に戻った。

 フレデリックは、規則正しく林立する本棚の間を縫うようにして歩きながら、ときどき本を取り出しては開いていたが、やがて何かに気づいたかのようにあちこちの本を調べると、少し驚いた声を上げた。

「これは一体どうしたんだ! この図書室の本という本は、すべてまっさらで新品じゃないか?」

 エドワードも、本を一つ一つ取り上げて確かめてみた。

「確かに古い本は一つもないね。まるで、全部の本を新品と入れ替えたみたいだ」

 それを聞くと、陳志忠は頭を上げて二人の方を振り向いた。

「ええ、実際、前あった本はすべてカールさんが焼却炉で処分させて、同じ本を買わせてこの図書室に入れたんですよ。ご存知のように、希覯本は別室に保管されています」

「処分しただって?」とエドワードがびっくりして言った。「全部の本といったって、十冊や二十冊じゃないんだよ。ゆうに三万冊を超える本を処分する理由なんてあるのかい? 金額にしても五十万ドルは超えているだろうしね。希覯本は別だとしても」

「何でも、本の中に書き込みなどの自分の研究の秘密があるので、それを残していると安心していられないから処分してしまったんだということです」と陳志忠は少し考えながら言った。

「書き込みがしてあったといっても、全部が全部にあったわけじゃないだろう? それにこの図書室にあった本も、カールの専門である物理学や数学の本だけでなく、人文化学から自然科学のあらゆる分野に渡る多種多様な本があったし、果ては小説から雑誌まであっただろう? 一見カールの研究とはまったく関係もなさそうな本まで処分するとは、一体どんな秘密があったんだろう?」と、エドワードが当然ともいえる疑問を述べた。

 陳志忠は、困惑した顔をした。

「それは助手である私達にもわからないことです。カールさんも、その話をするといかにも迷惑そうな様子だったので、あまり詳しいことを訊くことができないまま、うやむやになってしまいました。ただカールさんの様子からして、あの本の何冊か若しくは全部に大変重要な秘密が隠されていたことだけは確かだと思います」

 ここでさっきから黙っていたフレデリックが考え深げな顔をして口を挟んだ。

「いくら金持ちだからといっても、五十万ドル以上の本を灰にするんだから、よっぽど大きな秘密といおうか理由があったのに違いないね」

 確かにその通りだった。

 その秘密というのは、この事件を通じての大きな謎であったが、事件の真相が明らかになってみれば、なるほどと思わせるような立派な理由があったのである。

 フレデリックとエドワードは、しばらく考え込んでいたが、ドアを開ける音がしたので我に帰ってそちらの方を見た。

 ドアのところには、トマス・ロイドが立っていた。

 そして、こちらに魅力的な笑顔を向けると言った。

「こちらにいらしたんですか? 随分探しましたよ。お食事の用意ができましたので、お呼びに参りました」


 トマスに連れられて食堂に行く途中で、チャールズの奥さんのナンシー・ハミルトンにバッタリと出喰わした。彼女も食事に行くところだった。

 ナンシーは、いかにもチャールズが好きになりそうな、聡明でたいそう魅力的な女性だった。内面の素晴らしさがそのまま外見に出ているような感じで、どことなく暖かい母親のイメージを人に与えた。顔も身体も柔らかな曲線を持っており、アクセサリーの金の指輪と金のイヤリングがブロンド・ヘアーに非常に調和していて、たいへんエレガントで女らしかった。

 そのとてもチャーミングな口もとをニッコリと綻ばせながら、二人に声を掛けてきた。

「まあ、フレデリックさんにエドワードさん、いらっしゃい!」

 その声も暖かく心地良く耳に響いた。

「やあ、ナンシー、こんばんは。また今日一日お邪魔させてもらいにきたよ」と、エドワードがその口調に釣られて自分も笑顔を浮かべながら言った。

「フレデリックさんやエドワードさんなら大歓迎ですわ。もう家族の一員と同じですもの」

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

 フレデリックもニッコリしながらナンシーを見た。

 食堂にいくと、もうすでに子供達もプールから上がっていたし、アレックスも起きて来ており、フレデリックやエドワード達を除いてみんな集まっていた。

 もちろん、全員といってもマーガレットはまだ保養所に入っているし、彼女のお母さんのヘレンとお姉さんのエリザベスは今夜そちらの方に泊まることになっているので欠席している。

 また、トマスやシャーリーなどの使用人は別の時間に食事を摂ることになっていた。

 だから、この晩餐に出席しているのは、残りのリチャード、チャールズ、ナンシー、スティーブ、ポール・ハミルトン、カール、マーク、トニー・ウィルソン、レイ・マーチン、陳志忠、ハリー・ストーン、メロディー・アンダーソンと客のフレデリック、アレックス・ヘイワード、エドワード・リットンの合計十五人である。

 二人が入って来ると、カール・ウィルソンが立ち上がって、いつもの丁寧で慇懃な態度で挨拶を交わした。

 カール・ウィルソンは長身のハンサムな男で、着痩せして見えるが引き締まった身体を持っていた。短い金髪をオール・バックにしているのがとてもよく似合っており、誰が見ても科学者なんかではなく、精悍なスポーツマンか実業家のように見えた。ジョニーに大変よく似ていたが、少し冷たい感じがするのは、あまりにも整いすぎたその端整な容貌からくるのかもしれない。しかし、女性にとっては魅力的であるのには違いなかった。

 続いてレイ・マーチンも挨拶したが、何か落ち着かない様子でソワソワしていた。

 整った顔立ちで、こちらも学究肌の人間というよりはスポーツマン・タイプであったが、カール・ウィルソンに比べると影が薄く、繊細な感じを与えた。

 食事はフランス料理で、本場仕込みの料理長を使っていることもあって、そこいらの高級レストランと比べても勝るとも劣らず美味しかった。

 しかし、今日はジョニーの命日ということもあって、みんな口数も少なく自然と話題はジョニーのことを避けたものになっていた。何かの拍子で話がジョニーのことになりそうになると、だれかが意識して話を未然に他の方に持っていく。だから、みんな少なからず敏感になっていて話をしていても何となくぎこちなく、目に見えない張り詰めた空気が食卓の上を覆っているみたいだった。その原因は、主にカール・ウィルソンとレイ・マーチンにあることは誰の目にも明らかだった。もし、彼等がこの食卓にいなかったら、もっとフランクにその話が出ていたことだろう。

 リチャードが、そんな沈んだ空気を吹き飛ばすような明るい調子で云った。

「ねえ、ハリー、子供たちの水泳の上達具合はどうだい? 少しは速くなっているかい?」

 ハリーは、少し考えながら、「ええ、驚く程の進歩です。この分では、お世辞じゃなく、スティーブとマークは将来のオリンピック候補生ですよ。もっとも、練習次第ですが……」

 この言葉は程度の差こそあれ、みんなを驚かせた。

 スティーブは、少し顔を赤らませてハリーの知的で爽やかな顔を見た。

「マークはともかくとして、僕にはそんな実力はないよ。もし、本当にオリンピックに行けるとしたら、それはマークだろうな。マークは何をやっても才能があるんだもの。勉強にしても、水泳にしても、マークは何も努力していないのに、僕がものすごく頑張って、はじめてやっと追いつくことができるんだ」

 カールは周りの緊張を知ってか知らずか、「何もやっていないように見えるけれど、マークも陰では一生懸命努力しているんだよ。人間誰でも汗を流さなければ、人に追いつき追い越すことはできないからね」と、やさしく諭すようにスティーブに向って言った。

「本当にそうだよ。いくら才能や実力があったとしても、それを使わなくては宝の持ち腐れになってしまう。マークにしてもスティーブにしても才能はあるんだから、努力さえすれば一流になれるよ」陳志忠は如何にも学者らしい顔に人懐っこい笑顔を浮かべて、カールに同意した。

 当のマークは真っ赤な顔をして、「僕はそんなに才能なんか持っていないよ。勉強も水泳も、スティーブに負けないように一生懸命頑張っているだけだもの。水泳は絶対にスティーブの方が速いし、オリンピックに行って金メダルを獲れるのは、僕なんかじゃなくスティーブに決まっているよ」

 大人達は、子供達のこの謙遜ぶりを、目に笑みを湛えて聞いていた。

 注意して見ていると、食卓の空気も和らいできているみたいだった。

「僕が見るところによると、二人はいい身体つきをしているし、体力も大人顔負けなので、どちらも将来オリンピックや国際大会で金メダルを獲る可能性はあります」と、ハリーは二人の子供達を見て言った。

 そして、お兄ちゃん達のことばかり言ってぼく達は一体どうなんだという顔をしているトニーとポールに気づくと、そちらに笑顔を向けて、「そうそう、こちらの二人のことを忘れていたね。トニーとポールも才能はお兄さん達に勝るとも劣らずあるので、これからが非常に楽しみです。近い将来、ハミルトン家がスポーツ一家として有名になるのも夢ではないでしょう」と、後の方はみんなに聞かせるような調子で言った。

 ナンシーが、感激して叫ぶようにいった。「まあ、それは素敵だわ。毎日一生懸命練習しているけれども、まさかそれ程の実力があるとは思ってもいませんでした」

「本当に素晴らしいことだな」リチャードも大変喜んでいるみたいだった。

 子供達は少し照れながらも、満更でもなさそうだった。

 そこで話が途切れたような格好になったので、今度はメロディーが子供達に笑顔を向けて訊いた。「まだ成績は見せてもらっていないけど、今度の試験はどうだったの?」

「ぼくとトニーは一番だったんだけど、お兄ちゃん達は他の子にトップを奪われちゃったんだよ」と、ポールがスティーブの方を見ながら得意そうに胸を張った。

 スティーブは弟をうるさいという調子で一暼してからマークと目配せすると、少し言い難くそうに口を開いた。

「マークが二番で、僕が三番だったんだ。でも、前の試験の時よりも点数は上がっているんだ。だから、勉強を怠けていたわけじゃないからね」

「誰もそんなことは言っていないよ。しかし、二人を抜くとは、その子は余程頭がいいんだね。名前は何というんだ?」チャールズがやさしい調子で訊いた。

 スティーブはその言葉を恐れていたかのように、ますます言い難くそうに、「カレン・ミューラーという女の子さ。マークなら抜かれても余り悔しくないけど、女の子に負けるなんて癪でたまらないよ」そして、マークの方に向き直ると、「ねえ、マーク、次の試験じゃ、絶対カレンに目にものを見せてやろうな」

 マークは、力説しているスティーブを楽しそうに見ながら頷いたが、そんなことは意にも介していないようだった。こういった反応にも二人の気性の違いが明確に表われていた。

 メロディーが笑顔を浮かべながら、「でも、それは女性蔑視というものだわ。今は男女平等の時代よ。私は、そのカレン・ミューラーという女の子を応援するわ」そしてスティーブが『そんなあ!』と叫ぶのを楽しそうに見て「その女の子はどんな娘?」と訊いた。

 スティーブが黙っていたので、マークが換わりに答えた。

「プラチナ・ブロンドの長い髪の毛の典型的な北欧美人だよ。背が高くてスマートだし、性格も明るくてとてもチャーミングなので、男子には人気があるんだ」

「マークもスティーブも、本当は彼女の崇拝者なんじゃないの?」とメロディーが目に笑みを湛えて、少しからかうような調子で言った。

 その言葉に、スティーブが直ちに反応した。

「とんでもない。マークはともかくとして、僕はカレンには全然興味ないよ」

「その慌てぶりは非常に怪しいな」と、陳志忠も笑顔を浮かべてからかった。

 スティーブは、少し顔を赤くしながら、「カレンはマークが好きなんだよ。マークは女の子にとてもやさしくて紳士だからね。このあいだ、友達のジェームズ・マッケイがカレンにデートを申し込んだら、そういって断わられたんだもの」

 この裏切りに、今度はマークが慌てる番だった。

「そんな話は全然聞いていないよ。それに、そんなことを口にするなんてカレンに悪いぞ!」と、マークはフェミニストぶりを発揮して言った。

「いや、その話は絶対間違いないよ」とスティーブは完全に矛先をマークの方に向けてしまった。

「ジェニーにカレンか! マークも、二人の美女に想われて幸せだね」

 その場の雰囲気に釣られて、エドワードまでもが話に加わった。

 マークの方は、ますますリンゴのように真っ赤になる。

「ジェニーもカレンもとても美人だし、マークもどちらを選ぶか大変だよ。もちろん、僕はジェニーの味方だけどもね」スティーブが少し大人びた言い方をした。

「大変贅沢な悩みだな。もてる男は辛いよ」と、アレックスもニッコリしながらマークにウィンクした。

 みんなは楽しそうにこの遣り取りを見守っていた。もう、さっきまでの重苦しい雰囲気は消えていた。

「まあ、からかうのはそれぐらいにしてやれよ。マークがどうしていいのか困っているじゃないか! それはそうと、マーク、あと二週間したらお母さんのマーガレットが帰って来るんだってね。嬉しいだろう?」

 フレデリックがやさしく助け舟を出してやった。

 マークは真っ赤な顔に笑顔を浮かべて、「はい、とても嬉しいです。僕もそうですが、弟のトニーが大変楽しみにしていて、早くお母さんに甘えたがっています。この間も、トニーはお母さんが恋しいと言って泣いていたんですよ」

「嘘だ! ぼくは泣いたりしないよ。ママに一番会いたがっているのは、お兄ちゃんの方じゃないか!」子供扱いされたことを不満に思ったのか、トニーが反駁した。しかし、それがいかにも嬉しそうな様子だったので、フレデリックも自然と顔が綻ぶのを、禁じざるを得なかった。

「お母さんに全快祝いのプレゼントを買って来たんだってね?」チャールズが、マークにやさしく訊いた。

「ええ、お父さんに何がいいか訊いたら、身につける物がいいんじゃないかと云うんで、トニーと相談した結果、二人でお小遣いを出し合ってネックレスを買って来ました。でも、お金があまりなかったので高い物は買えませんでした。お母さんが喜んでくれればいいんですけど……」

「もちろん、とても喜んでくれるさ。要は、真心が籠っているかどうかさ。きみ達はお母さんのことをとても大事に思っているんだもの。その気持ちは必ず伝わるはずだよ」と、チャールズが、素直な気持ちを口に出した。アレックスも同じ気持ちだった。

「チャールズの言う通りだよ。大切なのは思いやりだからね。何も心配する必要はない。ママは必ず喜んでくれるよ」

「チャールズの言うとおりだよ」

 フレデリックも二人を暖かい目差しで見つめながら言った。

「マークは心配性だからな」とスティーブが友達を庇うように口を挟んだ。

「マーガレットは、もういまはよくなっているんだろう?」

 エドワードが、リチャードの方を向いて確かめた。

「もちろん、もう心配はいらない。完全な健康体だ。でも、長い入院生活のために心身ともに弱っていて医者も療養することを勧めたので保養所行きになったわけさ。念には念を入れてという言葉もあるし、その方が私達も安心できるからね。昨日も見舞いに行ってきたけど、もう元気そのもので早く帰りたがっていたよ」

「もう少しの辛抱さ。またすぐ一緒に楽しく暮らせるよ」と、フレデリックは二人の子供達に聞かせるように言った。

 今や食卓は和やかな雰囲気に包まれていて、最初の緊張が嘘のようだった。

 そして、おのおののグループに分かれて話をしていたが、普段の晩餐の雰囲気に戻っていた。

 少し意識して無理にそうした面もあったかもしれないが……。

「ねえ、マーク、今日の午後はレイと二人で映画を観に行ったんだろう? どうだった? 面白かった?」

 スティーブが、デザートのアイスクリームをスプーンで口に運びながら訊いた。

 マークが答えようとするのを制して、レイ・マーチンが少し慌てた様子で言った。

「とても面白かったよ。ねえ、マーク?」

 その言葉には少し強制するような響きを含んでいたので、フレデリックはオヤッと思って二人を見たが、他のみんなは自分達の話に夢中になっていて、その微妙な変化には気づかなかったようだ。

「そうそう忘れていた」と言いながら、カールはテーブルの下の紙袋からコンパクトな包みを取り出して、マークに渡した。「頼まれたカセット・テープだよ。帰りがけに買って来たんだ。今日、使うんだろう?」

 マークが頷いて、奇麗な包装紙を破ると、中から六つのカセット・テープが出て来た。

「九〇分用、そのテープでよかったんだね?」

「うん、ありがとう。少し違うけれど、これでいいよ」と、マークはそのカセット・テープを上着の大きなポケットに入れながらいった。

「少し違うって、頼まれたメーカーじゃなかったのかい? 注文通りに買って来たはずなんだけどね」

「うん、デザインがよく似ているから間違えたんじゃないのかな。このメーカーの方が、少し品質が悪いんだよ。オーディオマニアのジョージが言っていたんだから確かさ。そのジョージが頻りに僕が頼んだ日本製のテープにしろと勧めるので、パパにそれを頼んだんだ。でも、僕はジョージみたいに凝らないから、このテープで十分だよ」

 マークは六つのカセット・テープが入っている大きなポケットを叩いて言った。


 食事が終わると、フレデリック、アレックス、エドワードの三人は、ジョニーの命日ということもあって、みんなとの話も、そこそこに早々と食堂を出た。二階の客室で話に花を咲かせるために、リチャードも一緒だった。

 ナンシーは熱があるというので、食事が終わりしだいチャールズが付き添い、子ども共々、隣の屋敷の部屋に引き上げることになった。

 大ホールまで来ると、ちょうど二階から降りて来る女中頭であるシャーリー・アンカステルに出会った。

 女中頭などという古臭い言い方をすると、中年のしっかり者の醜女を連想しがちであるが、トマスと同様にシャーリーもそのイメージから掛け離れていた。エリートのキャリア・ウーマンなのだ。シャーリーはまだ二十代前半の少し小柄だが控えめな感じの美人で、大人の女というよりは少女といった方が相応しいような雰囲気を持っていた。

 しかし、女中頭ということからもわかるように非常にしっかりした有能な女性でもあった。

 高校時代の成績は非常に優秀で本人も大学への進学を望んでいたそうであるが、家庭の事情でどうしても働かなければならず、ハミルトン家とは遠縁ということもあってこの邸で働いているということだった。

 シャーリーは、フレデリック達を見つけると、少女っぽい顔に魅力的な笑顔を浮かべてあいさつした。

「みなさん、いらっしゃい!」

「やあ、シャーリー、こんばんは! 相変わらず、元気そうだね」

フレデリックも、穏やかな顔を綻ばせていった。

「ありがとうございます。元気だけが取り柄ですから―。みなさんも、お元気そうでなによりです」

 そして、二・三言葉を交すと、「御用がありましたら、何なりと言い付けてください」と言って、食堂の方へ後片付けに行った。

「とても、いい娘だね」

 階段を登りながら、エドワードがリチャードに声を掛けた。

「よく気が付くし、気立てもやさしいし、本当にいい娘だよ。それに、マーガレットがいないこともあって、よく子供達の面倒をみてくれるので非常に助かっている」リチャードは、暖かい目差しをして言った。

 四人は客室の中に入ると、部屋の中央にある椅子やソファに、それぞれ腰を落ち着かせた。

 そして、話を始める体勢が整うと、さっそくアレックスが口を開いた。

「さっきの晩餐は、子供達によって救われましたが、最初は少し気まずいというか固くなっていましたね。リチャードさんがいるのにこんなことを言ってはなんですが……」

 リチャードは手で制して、「いや、いいんだ。そのことは私が一番感じていたことなんだから。あれが大人だけの食事だったら、きっと料理がひとつも美味しくなかったのに違いない」

「でも、今日はジョニーの命日なんだから、沈んだ雰囲気になるのも仕方がないんじゃないのかい?」エドワードが少し思案して言った。

「それだけじゃなく、みんなさりげなくしているんだけど、何か張り詰めたと言おうか、緊張がひしひしと伝わってくるような空気でしたよ。そして、私が見た限りでは、その源はカールとレイにあるみたいでしたね。もちろん、そんな雰囲気が直接二人から出ているんではなく、周りの反応を進める触媒のような働きをしているように思えたんですが」と、アレックスはリチャードを見た。

「みんなは、ジョニーをとても深く愛していたからね」

 アレックスは、リチャードのその言葉の奥深くにある意味を考えながら、「でも、みんなはジョニーの死の原因が彼らにあると考えているんじゃないでしょう?」

 リチャードは言おうか言うまいか少し迷っている様子だったが、やがて決断していった。

「いや、そうじゃない。私が言っているのは、カールがマーガレットと結婚して、マークとトニーの二人の子供達の父親になったことなんだ」

「そうすると、みんなは二人の結婚をあまり好ましく思っていないということかい?」と、フレデリックが思案顔で訊いた。

 エドワードの頭の中に、“メロディー達は、カールがジョニーのアイデアを盗作したんではないかと疑っている”というフレデリックから聞かされた言葉が浮んできた。

 しかし、そんなエドワードの思惑にはお構いなしで、リチャードは言葉を選びながら慎重に答えた。

「みんなの心の奥底を覗く術がないので、そんなにはっきりと断定することはできない。でも、イエスかノーかどちらかを選べというなら、イエスというしかないね。私がそう思うのは、前にも一度、カールとマーガレットの結婚式の前日の晩餐の時に今日と同じような雰囲気を味わったことがあるからなんだ。今日はジョニーの命日ということもあって、似たような状態になったんだろう。半年前マーガレットからカールと結婚したいということを聞かされた時は、私達はみんなものすごく驚くと同時に大ショックを受けたよ。特にメロディーが一番ひどかったみたいだな」と、過去を思い出す目つきをして、「カールとマーガレットの結婚は、君達もよく知っているように、カールの母親の死期が迫っていることもあって、非常に急いだスピード結婚だった。メロディーは、それより前に三週間の休暇を取って旅行に出掛けていたので、二人の結婚のことを間際まで知らされていなかったんだ。結婚式の三日前にようやく連絡が取れて急遽帰って来たんだけれども、その時の彼女は青褪めて死人みたいな感じだったよ。余程二人の結婚がショックだったんだね。その時のメロディーの様子こそが、みんなの気持ちを象徴していたように思う。もちろん、マーガレットが望み、マークとトニーが賛成した結婚なので、みんなも敢えて反対せずに暖かく笑顔で祝福したけど、心の中ではどう思っていたかわからないよ」

 そこで一息吐き三人の顔を見回して反応を確かめると、続けた。

「もちろん、別にカールが悪いわけでもカールが気に入らないわけでもなく、その原因はみんながジョニーを愛し過ぎていたことにあるんじゃないかと思う。他の誰がマーガレットと結婚していたとしても、みんなはその男に対して反撥を感じたんじゃないかな? いくら姿形が似ていてもカールはやはりジョニーではないし、マーガレット達親子には寂しいからとか父親が欲しいからとかいう理由があるけれど、周りの人間に対してはジョニーの代わりをできはしないからね。しかし、カールに対してどういう気持ちを持っているにしても、これまでは表面に現われることはなかったので、安心していたんだ。でも、今日のことから推察して、まだみんな多かれ少なかれ何らかのこだわりを持っていると思った方がいいだろう」

「ジョニーは、本当にみんなから愛されていたんですね」アレックスは感心して独り言のように呟いた。

「ああ、みんな彼を本当の家族のように思っていたからね」

 そのリチャードの声には何か心を打つような響きがあった。

「しかし、それならば、どうしてみんなはレイまでをも意識するんですか? カールひとりで十分だと思いますが」と、アレックスはなおも腑に落ちないといった顔付きでリチャードを見た。

「きみは知らないかもしれないけど、レイとそれに今ここにいないエリオットは、カールと非常に親しい人間だからなんだよ。一蓮托生というわけさ。それに、カールやレイ達はジョニーが死んだ時に一緒にいた人間なので、みんなは彼らに気を使って意識していたということもあるだろう」

「今日のことは、リチャードのいうようにいろいろな原因が重なった結果だろうけど、また明日からは元通りになるさ。何も心配することはない!」と、エドワードは楽天的にいった。

「このことは今日お父さん達にも訊いたんですが、カールと子供達はうまくいっているんですか?」

「カールは頭がいいからね。子供達の心を掴むことなんかお手のものさ」

 リチャードは腕時計に目を遣ると、少し慌てて大声を上げた。

「もう八時五分か! 八時に市長に電話すると約束していたんだ。ここじゃ、邪魔になるから、下の書斎に行って掛けてくるよ」

 そして、三人に詫びを言うと、急いで立ち上がって部屋を出て行った。


 ドアが閉まると、アレックスが気になっていたことを訊いた。

「リチャードさんは、さっきはとうとう自分の考えを述べませんでしたが、リチャードさん自身はカールとマーガレットの結婚をどう思っているんでしょうか?」

 エドワードは首を振った。

「さあね。彼ら夫妻はジョニーを本当の息子同様に可愛がっていたんだよ。だからリチャードがいくら公平で人格者だといっても、少しはこだわりを捨てきれないんじゃないのかな?」

 フレデリックも少し考えながら、自分の意見を述べた。

「リチャードは、普段は自分の身内のゴタゴタは話さないのに、それを口にしたということは余程前から気になっていたんじゃないか? だから、自然にカールのことを意識させられるんだと思うよ」

 エドワードは、フレデリックとアレックスにコーヒーを飲むかどうか訊いた。二人が頷くのを見ると、立ち上がって、サイド・テーブルから、カップ、砂糖壺、コーヒー・ポットが乗ったお盆を取って来た。そして、カップを三人の前に置き、ポットから褐色の液体を注いだ。その動作はてきぱきしていて、見ていて気持ちが良かった。

 それから、エネルギッシュな顔に暖かい笑顔を浮かべて、まだ若い警部を見つめた。

「それはそうと、アレックス、この前のジョン・パーマー殺害事件ではよくやったね。警察官としては少し行き過ぎがあったかもしれないけど、一人の若い女性の命を救ったんだから私は拍手を送りたいね」

「ありがとうございます。しかし、あの事件は検死官のサム・ステッドマン達のお手柄ですよ。彼等があの巧妙な殺人を見破ったんですからね。私は最後にちょっと出て行っただけです」

 アレックスは謙遜した。

「でも、きみが犯人を威して、何という毒ヘビか白状させなかったら、あの美しい婦人は手遅れで死んでしまっていただろう。それほど時間がギリギリだったと聞いたよ。しかし、サムもよく前の被害者が病死ではなく謀殺だとわかったね。何でも、死因は学者にだって聞き慣れないようなヘビの毒によるものだったそうじゃないか。しかも体には傷口はなかったというし、たとえヘビの歯型があったとしても、誰もニューヨークのど真中でそんな毒ヘビに嚙まれて、死んだとは思いはしないよ」

「ええ、ヘビの毒はタンパク質性の毒なので、口から入った場合は大部分の種類のものは消化されてしまいますからね。最初ジョン・パーマーが倒れて救急車で病院に運び込まれた時も、まったく原因がわからず為す術がなかったそうです」

「パーマーも、かかりつけの医者も、普段は血圧、心臓はもちろんのこと、何処にも異常はなく健康体そのものだと云っていたそうだね」フレデリックは、コーヒーを飲みながら口を出した。

「はい、それで変死ということで、解剖に附されることになったんです。身体を隅々まで調べてみてもかなりの出血を起こしているといった、病院で既にわかっている以外のことは何も出て来ませんでした。身体には何処にも傷口はないし、胃や腸の消化物からも毒物は検出できませんでした。しかし、その日のジョンの行動を追っていくうちに、サムはジョンがその日の朝はかきなんか食べていないのに口の中がかきを食べた後のようだと云っていたのを訊きつけ、その狡智なトリックを見破ったのです」

「非常に浸透力が強い薬品が犯人だったんだね」

 エドワードが物知り顔で言った。

「その薬品が体内へ入ると、口の中がかきを食べた後のような味がするんです。それで何者かがその薬品と毒物を混ぜて、ジョンの皮膚から毒物を体内に侵入させたんではないかということがわかりました。そして、毒物の成分を調べたんですが、それだけは依然として不明でした。しかし、そうこうしている内に今度はジョンと先妻との間にできた娘のレスリーが倒れてしまいました。症状はジョンの場合とかなり違いましたが、これまた口の中が、かきを食べた後のようだと言ったんです。血液の入れ換えなどで少し時間を延ばすことができますが、ジョンの二の舞になることは目に見えていました。だから、何という毒物が使われたかを突き止めることが先決問題になったんです。毒物さえわかれば、救う可能性があるかもしれないからです」

「だから、毒物の専門家のジム・ロジャーズ博士に登場願ったわけだね」と、フレデリック。

「はい、それでようやく、その毒物が無機物ではなく有機物、つまりタンパク質性の毒だということが判明したんです。前の検査では無機物質ばかり検査していたので見逃していたんです。ロジャーズ博士がいうには、どちらも多分ヘビの毒だろうということでした。そこで、ヘビの専門家を呼んで、取り敢えずレスリーの方のデータを協議してもらった結果、そのような症状を示す毒を持つのは二種類のヘビのどちらかに違いないということになりました。しかし、その内のどちらであるか決定することはできませんでした」

「そこで、きみはジョンの友人の動物学者であるクリフ・サヴェジを怪しいと睨んで、彼のところに乗り込んだわけだね」と、エドワードがコーヒー・カップを持ったまま笑顔を浮かべた。

「ええ、そのような特殊なヘビの毒を入手できるのは彼しかいませんでしたし、とにかくリミットぎりぎりで法的な手続きを取っている暇がありませんでした。免職ということをも覚悟していたんですが、軽い処分でよかったですよ」

「それは、ヒューマニストのアレックスらしいな」

「容疑者の頭に銃を突き付けるなんてことは、警察官としてあまり褒められたものじゃないが、人命が賭かっていたんだから仕方がないだろう」警察長官は少し窘めたが、その声には暖かさが籠もっていた。

「人道主義者のお父さんの息子ですからね」アレックスは笑顔を見せたが、すぐに真面目な顔に戻って、「しかし、それにしても血清のある毒ヘビでよかったですよ。もし、血清がない奴だったら、彼女は今頃天国ですからね」そして、コーヒーで喉を潤すと、再び口を開いた。「後で犯人に訊いたら、ジョンの場合もレスリーの場合も、なるべく徴候が目立たず死因がわかりにくい毒ヘビを選んだそうです。さっきエドワードさんがおっしゃったように、大変珍しいヘビの毒で死んだなんて、傷口もないのにどんな名医でもわかりませんよ。しかし、もちろんヘビの毒だとわかれば、珍しいということは取りも直さず自分の首を絞めることになりますが」

「確かどちらの場合も、あの浸透力が強い薬の症状を粉らわすように朝の食事にかきを出したんだけど、二人とも食べなかったんだったね?」

「はい、女中の話によると、ジョンの若い後妻であるメアリーが強く勧めたにもかかわらず嫌いだと言って食べなかったそうですが、そのことがあの事件を解決し、パーマーの全事業の相続人であるレスリーの命を救う糸口になったんです。そして、そのかきの料理の一件から、クリフの単独犯行ではなく内部に共犯者がいる。しかも奥さんが怪しいということになったわけです。そもそも、動機が遺産だったら、犯人は奥さん以外には考えられませんけどね」

「そうそう、放射線検査の結果、その毒がぬられていたのはどちらも靴の内側だったということだけど、レスリーは女性だからともかくとして、ジョンは勿論靴下をはいていたんだろう? ということは、靴下をも突き抜けたということか?」と、エドワードはずっと疑問に思っていたことを口に出した。

「浸透力が非常に強くて、注射の代わりにと考えられている薬品ですから、靴下ぐらいだったら軽く突き抜けてしまいます。サムによりますと、適当な容器に入れて、一滴、服にかけるとか靴の中に垂らすとかでも十分効果を発揮するそうですよ」

「しかし、靴の中とはよく考えたものだね。よほど調べなければ気が付かなかっただろう。あの事件は、近年このニューヨークで起こったものの中で、もっとも巧妙な殺人事件の内のひとつじゃないかな。最近は残虐で暴力的な犯罪が多いと同時に、非常に科学的で巧妙な知能犯罪も増えてきて、大変だよ」

 エドワードが目の前の二人の警察官を眺めながら言った。

「犯罪そのものが急激に増加して来ているからね」フレデリック長官は嘆くように云った。「もはやこのニューヨークは世界一の犯罪都市という余りありがたくない別名がついていて、安心して住める土地じゃなくなっている。人間を豊かにし、幸せにしたはずの文明が、今度は逆に人間を支配し蝕んでいるんだよ」

「いまやニューヨークだけでなくアメリカ全体が精神異常、麻薬、失業、犯罪、人権差別といった様々な社会問題で苦しんでいるし、かつては不可能をも可能にするといわれた自由と希望の国アメリカが、現在では悩める大国といわれる有様だしね。もう我々の力でもどうすることもできなくなっている」と、上院議員が現在のアメリカを憂えていった。

「確かにベトナム戦争以来、このアメリカは少しずつ狂って来ていますね」アレックスの言葉には、古き良き時代を偲ぶような響きがあった。

「でも、その潜在的な要因はもっとずっと以前からあったんだ。それがケネディ大統領の暗殺などを契機にして一気に流出したというわけさ」と、エドワードが少し考えて付け加えた。

「しかも、近年その現われ方はますます激しくなってきている。たとえば、殺人にしても最近は他の国と比べても一桁違うぐらい多いし、今年も最終的にはアメリカ合衆国全体で三万人近い人間が殺されることになるんじゃないかな。しかも傾向としては理由なき殺人、大量殺人、ティーン・エイジャーの殺人が増えてきているのが特徴だね。その上、ジョン・パーマー殺人事件みたいな計画的な殺人事件なんかは稀で、そのほとんどが衝動的なものなんだ。実に嘆かわしいことだよ」

 フレデリック長官が、この国の犯罪を分析して言った。

「ところで、あのジョン・パーマー殺人事件では、奥さんのメアリーとその愛人で動物学者のクリフ・サヴェジの二人が犯人だったわけだけれども、確かジョンとメアリーの夫婦には生まれたばかりの娘がいたはずだし、クリフの方も結婚していて二人の息子がいたはずだね? 彼等はこれからさき一体どうなるんだろう?」エドワードが真剣な顔をして言った。

「ええ、ジョン夫妻には九ヵ月になる女の子がいますし、クリフ夫婦は、いまは別居していますが十歳と八歳になる男の子がいます。その彼等が自分の母親や父親が人殺しだということを知った時が可哀相ですね。特にジョン夫妻の子供の方は自分のお母さんが父親を殺してしまったんですからね。それを知った時一体どうなるのか、それが非常に心配です。殺人者の子供ということに負けないで、これからの長い人生を幸福に送ってくれればいいんですけど……」とアレックスも真面目な表情で言った。

「過去の罪は長く尾を引くと、よく言うからね。私はいつも思うんだが、殺人事件では殺した側や殺された側はもとより、後に残された何の罪もない者達が一番の被害者といえるんじゃないかな?」

 フレデリックは、犯人逮捕の後にいつも感じていたことを口に出した。

「それが殺人事件の一番の悲劇といえるかもしれないね」エドワードも、二杯目のコーヒーを注ぎながら同意した。

「私も、殺人者の子供や家族が数奇な運命を辿った多くの例を知っていますよ」アレックスは遠くを見るような目つきをしていった。

「その典型的な例が、一九六二年に起ったジェラルド・オブライエン殺人事件だろうね」と、フレデリックは少し考えて過去の有名な事件を引き合いに出した。

「後の大量殺人の原因になった事件ですね?」アレックスは、前に父親から聞かされた記憶を思い出しながら云った。

 そのとき階下の方で、何かガチャンとガラスでも割れるような音がした。

 アレックスがすぐさまその音を聞きつけて、「あの音は何でしょう?」と、軽く自問するような調子で訊いた。

「きっと誰かが花瓶でも落としたんだろう」と、エドワードは気にも留めずにいった。

 フレデリックも、何でもないさ、と別に問題にしていない様子だった。

 何が起こっているのか知る由もないエドワードは、話をもとに戻した。

「もう遠い昔のことになるけど、ジェラルド・オブライエン殺人事件というのは、彼の妻のリンダと愛人のピーター・オニールが、彼を事故死に見せかけて殺し、まんまと莫大な保険金をせしめた事件だったね?」

「よく覚えているな」と、フレデリックは感心していった。

「後年、ジェラルドとリンダの二人の息子が殺人鬼と化し大虐殺をやってのけた時に、新聞やテレビはこぞって、原因は彼等の少年時代に起ったジェラルド・オブライエン殺人事件にある、あの事件が二人の息子の精神と性格を破壊してしまったんだと騒ぎ立てたじゃないか。あんなにも人の耳目をそばだたせたんだもの、覚えてない方がおかしいよ。私の記憶に間違いがなければ、確かあの事件は解決まで二年かかったんだったねえ?」

「そうだ。その時はリンダとジェラルドは人も羨むような仲のいい夫婦だという近所の評判だったし、ジェラルドも状況から酒に酔って川に落ち溺死したんだろうということになって事故死と判断されたんだ。リンダとジェラルドの間には二人の息子の他にもう一人娘がいたんだが、二年後にリンダとピーターの二人はこの女の子にも多額の保険金をかけ事故死に見せ掛けて殺してしまった。しかし、今度はたまたま目撃者がいて逮捕されてしまった。よく取り調べて追及した結果、リンダの前夫のジェラルドをも殺したことを白状したというわけだ」フレデリックが二人の記憶をはっきりするために説明した。

「二人の息子は、事件当時どちらも小学生だったんでしたね?」

「ああ、それまで二人は明るくて素直ないい子だったそうだよ。勉強もよくでき、スポーツも得意で、人気があり、学校でも優等生として通っていた。しかし、母親が逮捕され、事件の真相がわかってくると、彼等も実の母親が自分達の父親と姉を殺したということを知って、二人の性格は狂気の方へガラリと変ってしまったんだ」

「そして、二人は破滅へ向って突き進んで行くんですね」

「幼い時に受けた激しい精神的ショックで、二人の精神は少しずつ狂いだしていたんだね。二人は心の中にこういう爆弾を抱えて成長していったんだが、それが爆発したのがそれから七年後のことだった。兄のフィリップは、誰かを殺したいという理由だけで、大通りでマシンガンを乱射して通りがかりの人間を十五人も射殺してしまったし、そしてその事件より少したって、今度は弟のビルが、女が憎いという動機で、十三人の女性を暴行しナイフで局部をメッタ突きにして殺してしまった。フィリップのほうは乳母車に乗った幼児や小学生の男の子まで容赦なく手当たり次第に撃っているし、ビルの場合は被害者の中にまだ十一歳になったばかりという可愛い少女もいるといった具合で、どちらもはっきりと犯人の異常性を物語っていた。この手の事件によくあるような、両親による幼年期の虐待はなかったようだ」

「二人はどちらも、精神鑑定の結果、精神病院に入れられて、そこで自殺してしまったんだったな」と、エドワードは二人の兄弟の運命を哀れむようにいった。

「どちらも妄想型精神分裂症(※注)だったそうだ。医者は人格形成の一番大事な時機である幼い頃に受けた精神的ショックが原因だといっていたよ。つまり、少年時代に立て続けに起った殺人事件の後遺症だね。本当に、あの母子が起した一連の殺人事件はまるで悪夢のような後味の悪い事件だったよ」(※注.現在でいう統合失調症)

「『過去の罪は長く尾を引く』か? たしかに、その典型的な例だね。まったく酷いとしかいいようがないよ」エドワードは溜息をついた。

「特に殺人事件の場合は、後々まで人に悪影響を及ぼすからね。まるで、開けたら全ての悪が飛び出したというパンドラの箱のようだ!」

「ところで話は変わりますが、カールが元FIDCの世界チャンピオンだった男とチェスをして勝ったという噂は本当ですか?」

 アレックスが、話の一段落した所で訊いた。

「本当だ。相手はカールの古くからの友人でロシアの人間だといっていた。実際はパソコンを使って、ITの電話回線でアクセスしたそうだが、見事世界チャンピオンを打ち破ったというよ」エドワードが答えた。

「カールは、チェスが趣味なんですか?」

「いや、ほんのお遊びで、たまに楽しむ程度だろう」

「それは」と、フレデリックが言いかけた時にバーンと一発の銃声が響き渡り、少ししてバタン、ドサッという何かが倒れるような大きな音がした。


 それは、殺人の舞台がインディアナポリスの飛行場からロングアイランドのハミルトン邸に移ったことを告げる合図でもあった。

 その時、フレデリックが腕時計を見ると、針は九時三一分十三秒を指していた。

 アレックスが心配しそうな顔をして、「一体、どうしたんでしょう? あれは紛れもなく銃声ですよ」

「下のカールかレイの部屋からだな」フレデリックも危惧するような声色で言った。

「どうしたんだろう? 強盗かな?」エドワードの頭には、そのようなことしか思い浮かばなかった。

「まさか! 誰も、この家を取り巻く厳重な警戒網を潜り抜けて忍び込もうなんて考えないよ」

「それじゃ、一体?」

 フレデリックは、エドワードが何か言おうとするのを制して「とにかく下へ行ってみようじゃないか!」と、先頭に立ってドアへ向った。

 東の階段を降りて行くと、レイの部屋の前に人だかりができて、ざわめいていた。

 リチャードが扉をどんどん叩いて、「レイ、どうしたんだ? 開けろ!」と、繰り返していた。志忠、ハリー、メロディー、シャーリー達の心配そうな顔も見える。また、トマスは、大ホールの角にある電話のところで受話器を耳に当てていた。たぶん、ゲート・ハウスにいる警備員とでも話をしているのだろう。そして、マークとトニーの二人は自分達の部屋を出て来て、大人達に加わっていた。よく観察すると、子供たちはもちろん、他のみんなもパジャマや部屋着にガウンとか簡単な服装に着替えていた。ただ、トマスやシャーリーは、まだ仕事中なので制服のままだった。

 銃声を聞いてからフレデリック達がこの光景を見て取るまで、まだ五~六分も経っていなかった。このことが後の捜査において大きな壁となると同時に、事件を解く大きな鍵にもなったのである。

 三人は一行に加わると、フレデリックが三人を代表した格好で訊いた。

「一体、何があったんだ?」

「わからない。きみ達も聞いただろう。レイの部屋の中で、銃声らしき音がしたんで駆けつけて来たんだ」リチャードが不安そうな表情で言った。

「カールも見当たらないが、どうしたんだ?」

 みんなの顔を見渡しながら、エドワードが訊いた。

「わからない。何事もなければいいのだけど」リチャードの声には心配そうな響きが籠っていた。「とにかく、私は金庫の中のマスター・キーを取って来よう」

 リチャードが行ってしまうと、今度はエドワードがドアをドンドン叩いて虚しい努力を繰り返した。

 フレデリックは、レイの部屋の前の廊下に白い羽根が落ちているのに気づいて、それを拾い上げた。

「それは、何ですか?」と、アレックスがそれに気づいて訊いてきた。

「アッ、いや、何でもない」

 フレデリックは、白い羽根をポケットの中に入れた。

 もうすでに、みんなの頭の中にはどす黒い不安と不吉な予感が広がっていたのであろう。この場にいる人々の顔は一様に青褪めてみえた。

 この時玄関のチャイムが鳴り出したので、みんなハッとして我に帰った。

「たぶんチャールズだろう。誰か鍵を開けてやってくれ?」

フレデリックがみんなを見て言うと、シャーリーが自分の仕事に忠実であることを示すように飛んで行った。

 トマスも電話を掛け終えて、こっちにやって来た。

「ガード・マンの話によりますと確かに銃声がしたそうですが、カールさんの部屋もレイさんの部屋もカーテンが閉まっているので、何が起こったかわからないそうです」

「ガラスとかは割れていないのかい?」

 フレデリックが訊いた。

「外から見るかぎりでは、何の異常もないということでした」

 リチャードが、鍵をもって帰ってきた。

「お父さん、一体何が起こったんですか?」

 チャールズが、シャーリーに連れられてやって来た。シャーリーが電話で教えたのだろう。

「よくわからない。レイの部屋で何かあったらしいんだ」

 フレデリックはリチャードから鍵を受け取ると、レイの部屋のドアを開けた。部屋の中は、少し暑かった。

 今やフレデリックがこの場の主導権を握っていた。もはや全員が犯罪の予感といったものを敏感に感じ取っていたのである。

 煌々たる光の中で、レイは倒れた本棚の下敷になり死んでいた。本棚と青い絨緞の間から部屋着のズボンの足が覗いていた。傍にはバラバラと本が落ちている。その手前のロッキングチェアの側の丸テーブルの上には、拳銃が載っており、足もとには空のグラスが転がっていた。

 フレデリックは、アレックスに手伝わせて本棚を起こし、レイを仰向けにした。生きているかどうか確かめるため脈を診たり、胸に耳を当てたりしていたが、首を振って立ち上がった。

「駄目だ。死んでいる。たぶん、シアン化物を飲んだんだろう? 口もとから、アーモンドの臭いがする」

「毒ですか?」

 アレックスも、レイから一滴の血も流れていないことに気づいていた。拳銃でうって、自殺したのなら血が飛び散っているはずだった。

 他のみんなは、ドアのところから顔を覗かせて中の様子を伺っていた。フレデリックが待ったをかけたのである。

 フレデリックは、ここはそのままにして、カールの部屋へ行ってみることにした。部屋と部屋の間のドアが開いていたからである。

 カールは、ボウ・ガンで射たれて死んでいた。ソファのクッションで防ごうとしたのか、クッションを貫いて矢が胸に刺さり、ソファに虫ピンのように止められているクッションが破れて、辺り一面に中味の白い羽根が飛び散っていた。カールの顔には驚愕の表情が貼り付いていた。

 向かいのソファの上、窓よりのところに、ボウ・ガンが載っていた。右ききの人間がボウ・ガンを射ち、残していった格好である。

 中央のテーブルの上には、アルバムが開かれて置いてあった。気をつけてみると、死体の右手は何かを握っているようだった。

「死んでいます」

 アレックスは、頸動脈を触ってみて言った。「みんなに報告しよう」

 フレデリックは、アレックスを伴ってレイの部屋に戻った。

 戸口で、物問いたげにしているリチャードが、さっそく声を掛けてきた。

「レイとカールは、どうなんだ?」

 フレデリックは、ゆっくり首を振った。

「二人とも死んでいる」

「そんな」

「マーク、トニー、あなた達は見てはいけないわ」

 最初に呪縛から解放されたのはメロディーだった。彼女は子供達を胸に抱くようにしながら、目を背けさせようとした。

「向こうに連れて行った方がいい」と、チャールズも促した。

 子供達は後ろの方にいたので、よく見えなかったのだろう。二人は、「どうしたの? 何があったの?」と口々に聴いていた。

「シャーリーお姉さんに、温かいミルクでもつくってもらいましょうね」

 メロディーは無理やり笑顔を作りながら、子供達を食堂の方へ連れて行った。

 四人がいなくなると、リチャードが、「二人は一体どうしてしまったんだ? 自殺か? 他殺なのか?」と、先程から気になっていたことを訊いた。「アレックス、お前は私を手伝ってくれ!」

 フレデリック長官は、それには答えず、警察の権限を持ってテキパキと指示を与えた。

「リチャード、きみはみんなを居間に連れて行って、私の指示があるまで、そこで待っていてくれないか。それと警察に電話して欲しい」

「いいよ。ガード・マンにも一応連絡しておこう」と、リチャードは頷いた。

「私も残って手伝いたいんだが……」と、エドワードが申し出た。

警察長官は少し考えていたが、「まあ、いいだろう」と、簡単に許可した。

 みんなが居間の方へ行く後ろ姿を見送ってから、三人は部屋の中に入り込んだ。

アレックスはポケットからハンカチを取り出し、指紋を消さないようにノブを包むと、静かにドアを閉めた。

「エドワード、言うまでもないだろうが、何処にも触らないようにしてくれよ」フレデリックが注意した。

「もちろん、わかっているよ。それはそうと、レイがカールを殺して……」

「結論を出すのは早すぎるよ」

三人は隣の部屋に入りカールがよく見える位置まで回り込んだ。

 カールの心臓に深々と矢が刺さっており、クッションの下から血が滲み出して部屋着を濡ら

していた。辺り一面に、クッションの中味の白い羽根が飛び散っている。クッションで身を守 ろうとしたのだろうか。白い部屋着、クッションと赤い血の色の対比が凶々しさを示している。即死であったのに間違いなく、事実叫び声を聞いていないように悲鳴を上げる暇さえなかったはずである。

 カールは酒を酌み交わしながらアルバムを見ていたところをボウ・ガンで射たれたらしく、テーブルの上には琥珀色の液体が入ってグラスが両サイドに一つずつと、開いたままのアルバムが載っていた。

 ボウ・ガンは向かいのソファの端に置かれていたが、これは廊下に通じるドアの右手の壁に装飾品として刀剣類と一緒に掛けられていたものだった。残りの矢も、そこに飾られていた。そのボウ・ガンを取ろうとして、暖炉のマントル・ピースの上の花瓶に触れたのだろう。青磁石の花瓶が床に落ちて割れていた。床は青い絨緞が敷いているので、暖炉の大理石の部分にでも当たったのにちがいなかった。その床の上には水が零れており、赤やピンクのバラの花が散らばっていた。

この暖炉は薪も用意されていて使用可能だが、普段は使われていなかった。セントラル・ヒーティングのため必要がないのである。

「銃声の少し前にしたガチャンという音は、この花瓶が割れる音だったんですね」

 アレックスが、二階で聞いた音のことを思い出しながら言った。このまだ若い警部は、あの後すぐカールが殺されたんだと思うと、背筋に戦慄が走るのを禁じ得なかった。

「あの時、カールが殺されたんだな」

 エドワードが重々しい声で言った。

「動機はわからないが、状況から判断して、レイがカールを射殺して、服毒自殺したのかな?」

「見掛けはそのようにみえるな。しかし、結論を急ぐのはよそう」フレデリック長官は、警察のおきまりの科白を口にした。「カールは手に写真を掴んでいるようだが、それは後回しにして、次はレイを見てみよう」

 三人がレイの部屋に引き返した時、ドアを軽くノックする音が聞こえた。


 アレックスがハンカチで指紋をつけないように扉を開けると、メロディーだった。色が白いので、よけい青白い顔にみえた。

「子供達がスティーブとポールのところに行きたいと云っていますが、どうしましょうか?」

「そうさせればいい。その方がマークとトニーも落ち着くだろう。二人の様子はどうかね?」と、フレデリックが心配そうに言った。

「シャーリーと一緒に食堂で子供達の相手をしていたんですが、レイとお父さんは、どうしたのかと非常に心配しています。二人とも死んでいるんでしょう?」メロディーは最後の方を声を潜めて云って、相手が頷くのを目にすると、一層血の気が引いたような顔で続けた。「それで子供達には、二人の死をいつ伝えたらいいのでしょうか? マークは大変敏感な子なので、もう薄々気づいているかもしれませんが……」

「今は話すのはよそう。今日はジョニーの命日で精神的にも肉体的にも疲れているから、今夜はグッスリ眠らせてやろう」

「ありがとうございます。しかし、お父さんが死んだことをマークとトニーに伝えるのは、非常に辛いことですね」

「まったくだ。しかし、明日にでも、その役をきみかシャーリーにでも引き受けてもらわなければならないんだが」フレデリックが言い難そうに云った。

「私が伝えますわ。誰かが知らせなければならないことですから」メロディーは決心するようにキッパリ言うと、「それじゃ、子供達を隣の屋敷に連れて行って来ます」と、音を立てないようにドアを閉めた。


 彼女の姿が見えなくなると、エドワードが感心して言った。

「メロディーもシャーリーも、しっかりした娘だな。レイの無残な死体を目にした時も、普通の若い女性のようにヒステリーも起こさなかったし、気絶もしなかったしね」

「あの可愛い子供達のことが心配で、それどころじゃなかったのかもしれないな?」とフレデリックが、彼女たちのマークとトニーへの愛情を示唆して言った。

「そうかもしれない」

 その言葉を最後に、三人は検分に戻った。

「たぶん、あのグラスに毒が入っていたんでしょうね?」

 アレックスは、テーブルの足元に転がっているグラスを見て言った。窓際にあるベッドの横のサイド・テーブルの上へ、薬包が載っており、その中にシアン化物が入っていると推定された。

「たぶん、苦しまぎれに暴れて本棚を倒したんだな?」

「でも、この拳銃と銃声は、何だったんだろう?」

 エドワードが、一番の疑問を口にした。

「一発、発射されていますね」

 アレックスが、テーブルの上のスミス&ウェッソン・モデル六四を調べて言った。

「それじゃ、どこに?」

「ああ、あの本に銃弾の痕があるよ」

 フレデリックが、倒れていない本棚を指さした。部厚い本の二冊に、斜めから銃弾が撃ち込まれていた。ちょうどロッキングチェアに座り、右ききの人間が自分の頭に銃口を当てて引き金をひいたらと思わせる位置である。

「たぶん、ピストル自殺できなかったので、毒を飲んで死んだと考えられます」

 アレックスが、その痕跡を調べながら言った。

 この部屋に足を踏み入れた時から気づいていたのだが、メインのテーブルの上には白い粉が零れており、透明なワンパックのビニール袋が載っていた。いかにも怪しげである。

「たぶん、ヘロインだろう。これで、レイはハイになっていた」

「自殺する勇気がなかったのかな? それで、ヘロインの力を借りた」

 アレックスが、口を挟んだ。

「どちらも用意したのか? 準備周到だな?」

 エドワードが言った。

「拳銃を撃ったのは、自殺するキッカケを作るためかもしれませんよ。死ぬには勇気がいりますからね。銃を撃てば、みんなが駆けつける前に行動を起こさなければ、カールの死体が発見されることになって刑務所行きです」

「なるほど」と、エドワードがハンカチで額の汗を拭きながら、「しかし、それにしても、暑いな!」

 カールとレイを繋ぐドアの右手に暖炉があるが、いまはパチパチと薪が燃えていた。

「しかし、レイもなぜセントラル・ヒーティングがあるのに、暖炉に火を入れているんだ?」

「たぶん、何かを焼くためだろう! それしか考えられない」

「確かに、本か書類を燃やしたようだな。それらしき黒い灰が重なってある」

 エドワードが、暖炉の中の形が残っている燃え残りを覗いて言った。

「もし、自殺なら遺書があってもいいはずなんだが、みんなも捜してくれないか?」

 フレデリックが、思案顔で頼んだ。

 三人は部屋の中を探し回ったが、アレックスが発見した。

「このパソコンのディスプレイの画面に、遺書が残されています」

 カールの部屋との壁に近い窓際に机があり、その上にパソコンが載っている。

 三人は、パソコンの前に立ち、ディスプレイの画面を読んでいった。

 そこには、驚くべき内容の告白が認められていた。それはハミルトン家に関係する人間にはショッキングな内容であった。


『私ことレイ・マーチンは、正常な精神状態のもとで、エリオット・マーカム、カール・ウィルソンを殺して自ら命を絶ちます。二人を道連れにして自殺するので、何も書き残して置かなければ、私が狂ったと思われたり、私だけが悪者扱いされたりするでしょう。そんなことは許せないので、この一連の無理心中の理由などを詳しく述べておきます。これから私が話すことは、みなさんにショックを与えるでしょうが、気をしっかり持ってください。

 さて、エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチンの三人の名前の連想から、すでに薄々気づいているかもしれませんが、一年前の今日、マイアミ沖の島の近くでジョニーさんが溺死して亡くなったのは、単なる事故ではなく私達の計画的な犯罪だったのです。もちろん、ジョニーさんが死んで誰が一番得をしたかを考えればわかるように、カールさんが主犯でした。

 ジョニーさんを殺した私達の動機を簡単に説明しておきますと、カールさんの場合は、すでにジョニーさんとの間に二人の子供があったのにも拘らずマーガレットさんに横恋慕したのと、ジョニーさんの素晴しい理論(カールさんが今年一月に発表して一躍有名になると同時にノーベル賞の対象になったもの)を盗んで自分のものにするためでした。

 エリオットさんの場合は、ジョニーさんに秘書との浮気を知られてしまったことや正義感の強いジョニーさんを普段から快く思っていなかったこともあるでしょう。しかし、エリオットさんはカールさんを実の弟のように可愛がっており、二人は若い頃から一緒に悪いことをやってきたので、ここでも手伝ったというのが本当のところでしょう。

 私の場合は、カールさんとエリオットさんがジョニーさんを殺す相談をしているのを立ち聞きしたことが切っ掛けで、毎月一定のお金を貰う約束で共犯になりました。強要されたこともありますが、お金にも魅力がありましたし、どちらかというとカールさん達と親しかったので、余り抵抗なく仲間に入ることができました。

 ここで暴露ついでに、もう一つ重大なことを告白しておきます。カールさんは、ジョニーさんが亡くなった後でも幾つかの論文を発表しましたが、それは十一月に強盗に殺されたマービンから金で買ったものでした。カールさんは口が達者で如才なく、科学に対する理解力や把握力は卓越したものを持っていましたが、独創力といったものがまったく欠けていたのです。

 とにかくそういうわけで、去年の今日、私達三人は以前からの計画通りに、スキューバー・ダイビングに行ったマイアミ沖のヨットの上で、ジョニーさんの後頭部を一撃して昏倒させました。海水で溺死させた後、空のエア・ボンベを背負わせて、前から目を付けていた海底の漁船セント・ジョージア号のところまで運びました。そして、甲板を崩し、ジョニーさんの死体を身動きできない程度に下敷きにしたのです。

 三人で罪を犯したせいか、最初の内は不思議とほとんど後悔しませんでしたが、私も本来は神経が太い人間ではありませんから、あの可愛いマークとトニーを見ていると、だんだんと良心の呵責を感じてきました。そして、もはやそのことに耐えきれなくなったのです。そこで、ジョニーさんの命日からちょうど一年経つ今日をもって、すべての幕を下ろすことに決めました。これも、神様が私に与えた使命だと思っています。

 今日の午後は、マークを映画を観に連れて行くようにカールさんから頼まれていたのですが、マークには私がスカースデイルに秘密に借りているアパートの一室でテレビ・ゲームをしてもらっていました。マークもけっこう楽しんだようですし、男の約束だと言って一緒に映画を観たことにしてもらったのです。私は、研究所のそばのハミルトン家の飛行場からインディアポリスの飛行場までジェット機で飛び、格納庫に呼び出しておいたエリオットさんをウジ・サブマシンガンで蜂の巣にしました。エリオットさんの死体は格納庫の東の隅の資材を入れるファスナー付きの袋の中に隠しています。エリオットさんは出張ということになっていますが、実際は秘書のマリー・グッドナーとの浮気旅行です。たぶん、彼女は今心配してエリオットさんを捜しているはずです。

 私はカールさんをボウ・ガンで射殺して、ピストル自殺するつもりです。しかし、もしもの時のためにシアン化カリウムも用意しました。勇気をもつためにヘロインも……。自分の頭を撃ち抜けないにしても、拳銃の引き金をひくことは、文字通り自殺への引き金となることでしょう。

 私の最後のお願いですが、私もマーガレットさんや子供達が好きですので、どうか彼女や子供達にはこの遺書に書いていることは話さないでください。マーガレットさんや子供達は事件の一番の被害者だし、性格的にやさしすぎるので、カールさんがジョニーさんを殺害したのを知ったら、気が狂うかもしれませんから……。

 それから、私が死んだら、エマーソン&ピーターズ法律事務所から、一年前の殺人の証拠の品が届くはずです。それが、私の切り札だったのです』


 この告発は、文字通り三人を驚倒させずには得なかった。

「信じられない」エドワードが半信半疑の面持ちで叫んだ。「ここに書いていることは本当のことかな?」

 フレデリック長官は真剣な顔をして考えていたが「普通の人は、これから死のうとする人間は嘘を吐かないと思っているが、それは間違いだ。自殺者も、見栄っぱりで嘘つきなんだよ。だけど、いくらなんでも、こんな嘘はつかないんじゃないかな?」

「もし、真実でないなら、わざわざ自分は殺人者なのだと嘘をついて死ぬ人間なんていませんよ。その反対の場合は考えられますが……」

「自分は無実だと言い張って死ぬ人間か? しかし、気が狂って、自分達三人がジョニーを殺したんだという妄想に取りつかれたことも考えられる」エドワードは、絶対に認めたくないというように反論した。

「証拠の品が警察に届くと言っているよ」

「届かないかもしれない」と、上院議員は自分に言い聞かすように呟いた。

「いくらなんでも、すぐわかるような嘘はつきませんよ」アレックスは心を痛めているエドワードを見た。

「それに、この遺書の内容だけからでも、一年前のことは事故ではなく、殺人に違いないと推理できるよ」

「なぜ、そんなに自信を持って云えるんだ?」

 フレデリックは言葉を選びながら説明した。

「きみのホテルの部屋でも話したように、警察はリチャードにさえもジョニーが発見された状況や正確な位置などは捜査上の秘密ということで教えなかったんだよ。それなのに、どうして、レイはジョニーが後頭部を打撲していたとか、海底に沈んでいる漁船のセント・ジョージア号の甲板の下敷きになっていたとかいうことを知っているんだ? そんな詳しいことを知っているのは、その現場にいたということ、ひいては犯人であることを表わしているよ。そして、状況を考えると、三人が協力してジョニーを殺したとみるのが妥当な線だね」

「頭に一撃を喰っているとしますと、たぶん瘤か外傷があるでしょう。それは、ジョニーの検死報告書をみればわかりますよ。そしてレイが告白した死体の置かれていた状況とマイアミ市警の記録が一致すれば、もう決まりですね」と、アレックスが敷衍した。

「多分、同じだろう」

 フレデリックの声には確信した響きがあった。

「この遺書に書いていることが本当だとすれば、早くインディアナポリスの警察にも電話して、事実の確認とエリオットの秘書の事情聴取を急いだ方がいいでしょう」と、アレックスが現実の問題に帰って言った。


「私が電話した方が何かと都合がいいだろう。ここはそのままの状況にして置きたいから、大ホールの電話で掛けて来るよ。それに、一応マイアミ市警にも電話を入れて、様子を訊いてみよう」

 フレデリックはそう言うと、足早やに部屋から出て行った。

「この遺書の内容が本当だとすると、マークやトニー達が可哀相だな」と、エドワードが閉じたドアの方を見て言った。

「本当ですね。大好きだといういまの父親が、自分達の実の父親を殺したんですから」

「その点は、マーガレットにしても同じことだ。ジョニーを殺した犯人と結婚したんだからね。それに、もうひとり、渦中の人で忘れてはならないのが、エリオットの奥さんのエリザベスだ。いくらマーガレットよりはショックは少ないといっても、やはり自分の夫が妹の亭主を殺したんだからね。エリザベスは、人一倍の妹思いだから、やりきれないよ。あとに残された罪もない彼女達のことを想うと、こっちまで胸が痛むな」

「このことは、できることなら四人には伝えたくないですね」アレックスも同じ気持ちでいった。

「まったくだ。しかし、カール達がジョニーを殺したということが事実だとすれば、いつまでも隠し通すことはできない」

「彼女達だけでなく、この邸の他のみんなも、このうえジョニーは事故で死んだのではなく、カール達三人によって殺されたんだということを知ったら、まさにパニック状態になりますよ。部外者の私達でさえ、こんなにもショックを受けたんですから。毎日顔を合わせて生活していたハミルトン家の者にとってはなおさらです」アレックスが危惧して言った。


「カールはマーガレットや子供達を幸福にしてくれると信じていたのに、完全に裏切られた気持ちだね」

 リチャードは、憤慨していた。

「死者を悪く言いたくはありませんが、特にマークとトニーのことを考えると、怒りさえ感じます」アレックスも少いきつい調子で言った。

「カールとはいくら血が繋がっていないとはいっても、まるで本当の父親のように慕っていたんですからね。二人がこのことを知ったら、彼等の純心な明るい心に一生消えない傷が出来ることは目に見えています。彼等は重い十字架を背負って、これからの長い人生を送らならければなりません。そのことを思うと、胸が潰れる気持ちです」

「さっき話していたように、“過去の罪は長く尾を引く”という。でも二人の子供達がその言葉通りになると決まったわけじゃない。マークとトニーは強い子だし、周りには思いやりのある大人達や友達が一杯いるんだ。けっしてジェラルド・オブライエン事件のフィリップやビル達の二の舞いにはならないさ。それに、よく相談してみなければわからないけど、マークやトニー達にこの遺書の内容をずっと秘密にしておける方法があるかもしれない」エドワードは自分自身を納得させるように言った。

「そうだといいんですが……」

 もちろん、三人はレイ・マーチンの部屋と図書室、カール・ウィルソンの部屋と子供部屋の間のドアの鍵はきっちりとロックされていたのを確認した。


その時、外の方で次々に車が止まってドアが開く音がして、人が降りて来る気配が感じられた。

「いよいよ、警察の御登場だね」

 エドワードがポーチのチャイムを聞きながら、気持ちを和ませるように冗談めかして言ったが、彼の表情は沈んだままだった。

「追っ付け、お父さんが連中をここに案内して来るでしょう」アレックスは、先程大ホールへ電話を掛けに行ったフレデリックのことを考えて云った。

「これからが大変だな」

「ええ、事の真為を確かめなければなりませんからね」アレックスは遺書の上に視線を落とした。

 人のざわめきが大ホールの方からこちらへ近づいて来るのを聞いて、三人は自ずから緊張した。

 大勢の足音が部屋の前で止まり、フレデリック長官と一緒に警察の一行が踏み込んでくるのを見て、アレックスはびっくりした。

 父親と並んで入って来たのは、アレックスのよく知っている男だったからである。

「アレックス先輩、お久しぶりです。このところ御無沙汰していますが、お変わりありませんか?」と、大学時代の後輩でヘイワード家にもよく出入りしていたウォーカー警部が、にこやかな笑顔を浮かべて声を掛けて来た。

「やあ、ハルじゃないか。久しぶりだな。私もお父さんも相変わらずだ。君の方こそ変わりはないかい?」

 アレックスは驚きながら、センスのいい服を然り気無く着こなしているお洒落なハル・ウォーカーを見た。

「ええ、お陰さまで元気でやっています。眠る暇もないほど忙しくて、休みもとれませんよ」ウォーカー警部が外見と同じように若々しい声で言った。

「それにしても、きみがこの事件の担当だとは奇遇だね」と、アレックスは警察の一行を見回して云った。

「はい、偶然にそういう巡り合わせになったんですけど、さっきホールでヘイワード長官にお会いしてびっくりしましたよ」

 場合が場合だけに、二人は再会の挨拶を簡単なものに留めて、主だった者を紹介した。

 一応その引き合いが済むと、フレデリック長官が、「ハル、鑑識の連中に少し調べさせてもらいたいことがあるんだが、私が指示してもいいかね?」と、穏やかに訊いた。

「もちろんです。私にわざわざ断わる必要はありませんよ。どうか御自由に連中を使ってください」ウォーカー警部は敬意を評して言った。「それに、電話では要領を得ませんでしたし、私もまだこちらへ着いたばかりで事情がよくわかりませんので、渡りに船といったところです」

「どうもありがとう」と、フレデリックは感謝すると、自分の息子に指示した。「アレックス、お前はウォーカー君にこの事件の経緯を説明してやってくれないか?」

 現場のことはフレデリックに任せて、アレックス、エドワード、ウォーカー警部の三人はテーブルの周りのソファに腰を降ろした。

 アレックスは、父親がベッドの横で警察医や鑑識の連中に指示を与えているのを横目で見ながら、ウォーカーにこの事件のことを掻い摘まんで説明した。

そして、机の上のパソコンに入っている遺書を読むよう促した。

 三人は立って、パソコンのところへ行った。

 ウォーカー警部は、興味深そうに遺書に目を通していたが、それを終えると忙しく立ち働いている人々の間から覗き見える絨緞の上の死体やソファの上の後頭部に目を遣った。

「そうすると、あそこで死んでいるレイ・マーチンが、一年前に犯した殺人の良心の呵責に耐えきれず、そのせめてもの罪滅ぼしとして、共犯のエリオット・マーカムと主犯のカール・ウィルソンを殺してから、自分も自殺してしまったというんですね?」と、確かめた。

 アレックスは、先程警察が来る前に交わした三人の推理を述べてから、「一応、マイアミ市警の協力を仰がなければならないけど、この遺書に書かれていることは、まず本当と思っていいだろう」

「そうそう、云い忘れていたが、インディアナポリスの警察はすぐに出動して捜査することを約束してくれたよ。それから、別荘に電話したら、やはりエリオットは行方不明で、秘書のマリーも心配していた。もっとも、いつもの秘書の顔で対応していたがね」

 フレデリックは、本棚の銃の弾痕を調べていたが、振り向いて大声で言った。

「それで、この遺書はレイ・マーチンが書いたものに間違いありませんか?」ウォーカー警部は形式的に訊いた。

 アレックスとエドワードは思わず顔を見合わせた。その質問の奥に潜む恐るべき意味に思い当たったからである。

「そりゃ、そうだろう。この遺書を他の者が書いたなんて考えられない」と、エドワードがハミルトン家のみんなのことを頭に想い浮かべながら、口を挟んだ。

「状況から考えて、疑問の余地はないだろう」アレックスもきっぱりと言った。

「犯人しか知り得ない事実も、遺書にはかいているからね」

「そうですか?」と、ウォーカー警部は頷いた。

「さて、そのことなんだけど」とフレデリックは沈痛な顔で言い、三人にソファに座るよう促した。「それがそうじゃないみたいなんだ」

「それはどういう意味だ?」エドワードは、その言葉がよく聞こえなかったというように訊き返した。

 フレデリックは、今度はそのものズバリの言葉を使った。

「カールとレイは、誰かに殺されたんだ。たぶん、エリオット(まだエリオットの死は確認されたわけではないが、生存の可能性はほとんどないと思われる)の命を奪ったのも、その何者かの仕業だろう」

 このフレデリックの言葉がもたらした効果は絶対なものだった。事情をよく知らないウォーカー警部は緊張に身を引き締めたが、ハミルトン一家と親しいエドワードとアレックスはまるでノックアウト・パンチを喰らったようだった。

「なんだって! そんな馬鹿な!」

 エドワードが、半信半疑の面持ちで言った。

「どうして、そんなにはっきりと断言できるんですか?」

 フレデリックの性格をよく知っているアレックスが訊いた。

「それは、この羽根さ」

 フレデリックが、ポケットから白い羽根を取り出した。

「なるほど、そうだったんですか!」とアレックスが、すべてを悟ったように呟いた。

「この羽根は、私達が銃声を聞いて駆けつけた時に、レイの部屋の前の廊下に落ちていた。その時は、何とも思わなかったんだけど、これはカールが射たれたときにクッションから零れ落ちたものだ。レイは、自分の部屋とカールの部屋を往復するのに、間のドアを使っていたから廊下に出る必要はなかったんだよ」

「それじゃ、その羽根が犯人によって廊下まで運ばれたというのかい?」

 フレデリックは頷いた。

「たぶん、犯人は羽根が付いているのに気づかなかったんだろう」

「確か、あの時は全員廊下に出ていましたね」と、アレックスが記憶の糸を辿りながら言った。

「その前に花瓶が割れる音がした時、シャーリーはトニーとポールが灰皿なんかに落書きしたので、大ホールでそれらを消していたんだが、音がしたので用がないかとそちらへ行ったけど、どのドアも開かなかったし顔を出して呼ばれもしなかったので仕事に戻ったそうだ。その後も、気になったので、ちょくちょくそちらの方を見ていたそうだが、誰も廊下には出なかったということだ。さっき、電話をかけに行った時に、シャーリー達に訊いてみたんだ」

「つまり、このハミルトン家の誰かが、三人を殺した犯人ということか?」

 エドワードが、論理と感情の狭間に立たされて半信半疑の面持ちで訊いた。

「窓もすべて内側から鍵がかかっているし、ハミルトン家の厳重な警備を考慮すれば、外から誰かがこの邸に忍び込んだなんて考えられないから、そういう結論に到達せざるを得ないな」

「しかし、あの人達の中に殺人者がいるなんて、私にはどうしても信じられません」アレックスも強い調子で言った。

 フレデリックは、思いやりの籠った声で「前にも言ったように、どんなに信じられないようなことでも、事実は事実として認めなければならない。私もお前やエドワードと同じように、まるで悪夢でも見ている気持ちだが、感情に負けていたら、これからの仕事はできない」

 そして、レイ達が殺されたことがどのようなことを意味するのかが、みんなに受け入れられると、フレデリックは実際問題の捜査に帰って、「さっきレイが死の直前まで座っていたと思われるロッキングチェアの辺りから硝煙反応がでたよ。ということは、犯人は消煙を浴びているはずだ」

「それは犯人に取って、命とりになりますね」ウォーカー警部が頷いた。

「ところで、ハル、これから一体どうするつもりだね?」フレデリックがハミルトン家のみんなのことを考えながら、今後の捜査方針を訊いた。

「はい。早ければ早い方がいいと思いますから、これからハミルトン家のみんなの硝煙検査を行なおうと思います。ヘイワード長官がおっしゃったように、犯人は必ず硝煙を浴びているはずです。それに、アレックス先輩の話では、銃声がしてから階下でみんなと合流するまで五分も立っていないということですので、犯人には髪や皮膚に付着した硝煙を落とす暇も服を着替えたりする時間もなかったはずです。だから、犯人の体や服からは必ず硝煙反応がでてきますよ」

 ウォーカー警部は、この事件はすぐに解決するといわんばかりに楽観的に言った。

「それに、同時に家宅捜査をして硝煙のついた服を捜してみます。これは、念のためですが……」

「しかし、この家の地下室には射撃場があって、ハミルトン家のみんなはストレス解消のためによく銃を撃っているから、複数の人間から硝煙反応が検出されるかもしれないよ」

 エドワードが注意した。

 ウォーカー警部は、ふいを突かれたみたいだったが、すぐに立ち直って、「でも、銃を撃つといっても、みんながみんなそういうわけではないでしょう? それに、仮に数人から硝煙反応が出たとしても、容疑者が何人かに絞れるんですから構いません。もし硝煙反応が出てくるのが一人なら、それで決まりです」

「たとえ、容疑者が数人でも、いま着ている服から硝煙反応が出て来たら、それが犯人だよ」アレックスが横から口を出した。

「どうして、そう言えるんだ?」エドワードは、訳がわからないといった顔をした。

「私達が二階から駆けつけて来た時、みんなは簡単な部屋着だったり、パジャマにガウンを羽織った格好だったり、夕食の時の服から寛いだ服に着替えていましたね。それなのに、まさかそんな恰好で地下の射撃場へ銃を撃ちに行くはずがありません。もしそんなことをしたら、火薬臭くて仕方ありません。そして、ハルも言ったように、犯人は犯行をおこなった後では、服を着替えたり処分したりする時間はありませんでした。時間的には、犯人はどうにかこの部屋から脱出して、騒いでいる人達に加わるのが精一杯だったと思います。だから、いま着ている服から硝煙反応がでたら、その人間が犯人です。それに、トマスやシャーリーが制服のまま地下の射撃場で銃を撃ったりするとは思えません。いかに、今日がジョニーさんの命日でストレスが溜まっていたとしてもね」

「なるほど、しかし犯人が頭からスッポリ被るカッパかガウンのようなものを着ていて、処分できないまでもどこかに隠したとしたらどうだい?」

「そんな処理をする暇があったかどうかは問題ですし、それだったらよく探せばすぐ見つけることができますよ。それに、『警察はレイの自殺でこの事件を片付ける』と、犯人は思っていたでしょうから、そこまで工作をしないような気がします」

「まあ、そのことは硝煙反応の検査の後で、ゆっくりと話そうじゃないか! また、どういう結果が出るかもわからないのに、いろいろ議論しても仕方がないよ」フレデリックは、話が逸れそうになるのを元に戻して云った。「それはそうと、リチャードには事の真相を話して協力してもらおうと思うんだが、ハル、きみはどう思う?」

「もちろんヘイワード長官がそうする方がいいとお考えでしたら、私達には異論はありませんよ」ウォーカー警部が笑顔をみせて言った。

「ありがとう。でも、いくらリチャードと私達が親友だからといって、リチャードが容疑者のひとりであることには変わりはない。それに、私達も事件の真っ只中にいる関係者なんだから、私達を除外して考える必要もない。すべてきみの指示に従うよ」フレデリックが警察官の顔に戻って言った。

「ヘイワード長官やアレックス先輩が犯人だなんて考えたことは、一度だってありませんよ。それに、銃声がした時にはリットンさんを含めて一緒にいたということですから、立派なアリバイがあるじゃありませんか? ですから、どんどん指示やアドバイスを与えてください」

「そう云ってくれて、ありがとう」フレデリック長官は感謝した。

 ウォーカー警部は、「それじゃ、リチャードさんを呼んで来ましょうか?」と訊いて、フレデリックが頷くのを見ると、「それに、序いでですので、硝煙検査をするためのいろいろな手配をして来ましょう」と言って、ラット部長刑事を連れて部屋を出て行った。

ラット部長刑事は、白髪と温やかな顔立ちが特徴の初老の男で、実直さが売りものだった。ウォーカー警部は、たとえ階級が下であっても年配の人達には敬意を持って接しており、そこにハル・ウォーカーの人柄の良さが感じられた。また、その性格から彼はみんなから好かれており、上下のコミュニケーションもうまく保たれているようだった。

二人が出て行くと、アレックスが父親に尋ねた。

「リチャードさんに、カール達三人がジョニーを殺したことまで話すんですか?」

「ああ、当然そういうことになる」

「でも、リチャードさんには、ショックが大きすぎやしませんか?」

「しかし、カール達三人が何者かに殺されたことを話せば、当然その動機は何かということになるし、たとえ言わなくてもどうせわかってしまうよ」

 フレデリックが少し考えて言った。

「カール、エリオット、レイの三人といえば、すぐに一年前のジョニーの事故のことが思い浮かぶからね」と、エドワードが付け加えた。

「他のみんなには、殺人の疑いもあるので一応念のために検査するということで協力してもらおうと思うが、このハミルトン家の当主であるリチャードには、すべてを話して全面的に協力してもらいたいんだ」

「どうやら、その方がいいようですね」アレックスも賛同した。

 そのとき、ラット部長刑事がリチャードを連れて帰って来た。

「私に話があるということだが、一体何かね?」リチャードが部屋に入って来るなり訊いた。

 フレデリックは、リチャードに、ソファに座るように勧め、「気持ちをしっかり持って聞いて欲しいんだが」と注意しておいて、これまでに判明したことを説明した。遺書の内容から白い羽根についての推理へと話が進むと、フレデリックの顔に驚愕の表情が浮かんで、血の気が失せていくのが傍目にもよくわかった。

「それじゃ、ジョニーの復讐のために、だれかがカール、エリオット、レイの三人を血祭りに上げたというんだね?」

 話が終わると、リチャードが気を取り直して、恐る恐る訊いた。

「そう考えて、まず間違いないと思う。もちろん、他の可能性も捨てるわけじゃないが、取り敢えずその線で捜査を進めていくことになるだろう。動機で付け加えるならば、マーガレットや子供達の将来のことを考えて、殺人を犯したということもあるかもしれない」

「それは、どういう意味だ?」

「カールを殺すということは、いまはマーガレットや子供達を悲しませるだけだが、もしもマーガレットが退院してカールの子供を宿したりしたら、あの親子にとって、それ以上の悲劇になるからね」

「なるほど!」

 そして、一瞬の沈黙があったあと、「その三人を殺した犯人はこの屋敷の中にいて、私も容疑者の内のひとりということになるんだね?」

 リチャードは笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。

「何もきみを疑っているわけじゃないが、ハミルトン家の厳重な警備体制を考えると、この屋敷の中に犯人がいるとしか思えないな」と、フレデリックが、いかにも残念だという顔をした。

「カール達三人がジョニーを殺したということだけでも信じられないのに、そのうえ私達の中にその三人を殺した人物がいるなんて、とてもじゃないが信じられないよ。しかし、誰が考えても事実はそう言う方向を指しているようだね」

 一条の光明でも見いだせたらと思っていたリチャードは、フレデリックの言葉に打ちのめされた。

「それで、私にどうしろというんだい?」

「きみにとっては辛いことかもしれないが、捜査に全面的に協力してほしいんだ」

「どういうふうに?」

「さっきも話したように、犯人は必ず硝煙を浴びているから、これから取り敢えず硝煙反応の検査をする。だから、まずみんなに協力してくれるように頼んで欲しいんだ」

「どの程度まで事実を話せばいいんだ? これが殺人事件だということを云ってしまうのか?」リチャードが心配そうに訊いた。

「いや、殺人の可能性もあるので、それを否定するためにも検査する必要があるんだと説得してくれればいい。もちろん、ジョニーのことには触れないでくれ」

「ありがとう。それなら、みんなも混乱しないで済むだろう。今日は、これ以上ショックを与えるのはかわいそうだからね」リチャードが人格者の片鱗をのぞかせた。

「それから、これはもちろんのことだが、今日の午後と今晩の銃声がした時のアリバイを調べたり、簡単な訊き取りをするから、それにも協力してくれるように言ってくれ。こちらの方は、一応自殺の時も行なっている警察のおきまりの規則で仕方がないんだと云ってくれれば、問題はないと思うよ。それに、家宅捜査の許可もだ」

「ああ、わかった。他には?」

「もう夜も遅いので、今晩はそれぐらいにして、後は明日ということになるだろう」

「フレデリック、私達のことをいろいろと考えてくれて、どうもありがとう。感謝するよ。それじゃ、みんなに捜査に協力するように申し渡してくるかな?」

 リチャードは無理に元気そうな様子をしてみせると、フレデリックやエドワードと親しい者だけがわかるような視線を交わして出て行った。

リチャードの姿がドアの向こうに消えると、エドワードが恭しく言った。

「リチャードはハミルトン家の当主ということもあって、さっきの驚きや怒りは、私達より遥かに大きかっただろう」

「しばらくは声も出ないといった様子でしたね。しかし、さすがにリチャードさんだけあって、ひとつも取り乱さない立派な態度でした」アレックスが賞賛した。

「リチャードが一番心を痛めているだろうな」と、フレデリックが気の毒そうに言った。

 その時、ウォーカー警部が帰って来て、さっきの報告をした。

「電話で、硝煙検査や所持品検査など令状の手配と、検査のための鑑識や警官の応援を頼んできました。また、女性もいるということですので婦人警官も連れて来るように言っておきました」

「ごくろうさま。万事手抜かりはないようだね」フレデリック長官が声を掛けた。

 ウォーカー警部は照れて、「リチャードさんの方は、どうでしたか?」と、訊いた。

「交渉は成立したよ」

 フレデリックは、ウォーカー警部が席を外していた時の話をしてやった。

「これで、ずっと捜査がやり易くなりました」

 そして、ウォーカー警部は、提案した。

「援軍が到着するまで、少し時間がありますので、後のことはラット部長刑事に任せて、この事件の大切だと思うことだけでも吟味してみませんか?」

 他の三人とも異存がなかったので頷いた。

「まず、犯人の行動ですが、どう思われますか?」

「まず昼間にジェット機でインディアナポリスに行ってエリオットを殺したのに違いないだろう。エリオットの死亡は確認されていないが、まず間違いないと思う。とても、レイがエリオットを殺したと思えないからね。ハミルトン家で飛行機やジェット機のライセンスを持っているのは、カールとレイだけのはずだけど、他に誰か操縦できる者がいるに違いない」

「飛行場の関係者に尋問する必要がありますね。きっと、誰か知っているはずです」アレックスが口を挟んだ。

「そのことはいくら言ったって埒があかないので、後に回そう。犯人はたぶん食事の後、すぐレイの部屋に行き、レイをヘロインで朦朧にした。そして、何喰わぬ顔をしてカールの部屋を訪れた。廊下側のドアから出入りするのは危険だから、たぶん中のドアを利用をしたんだろう」

 フレデリックは、三人を促して二つの部屋を繋ぐドアからカールの部屋に入った。ここは、犯行時は開いていたのだ。

「状況から考えて、犯人はカールと向かい合ってアルバムを見ていた。この時、ボウ・ガンを見せて欲しいと言って、暖炉のところへ行く。ボウ・ガンをとった時に、マントル・ピースの上の花瓶を落とした。そこで、ベッドの横のタオルを取りに行くとかの理由で、ボウ・ガンを持ったままカールに近づき、密かに矢を装填してカールを射殺する。その時、クッションから飛び散った白い羽根が体についた。そして、ボウ・ガンをサイド・テーブルの上へ置く。カールとレイの部屋の間のドアの鍵は、前もって外しておく。そして、隣の部屋に行き、レイに毒を飲ませて殺す。その後、用意した拳銃で銃弾を本棚の本へ打ち込み、本棚を倒した。ここの行動は、前後しても構わない。そして、部屋から脱出したんだ。たぶん、カールの部屋の反対側には子供達がいたから、レイの部屋の隣の図書室に逃れて廊下のみんなの中に紛れたか、廊下のドアから外へ出て最初に駆けつけた人間に化けたかのどちらかだな。そして、そこで問題の白い羽根が落ちたんだ」

「素晴らしい推理ですね。たぶん、細かなことは別にして、だいたいその通りだったのでしょう。まるで手に取るように、その光景が目に浮かぶようです。もちろん、犯人の顔はみえませんが……」

 ウォーカー警部が、感心して言った。

「おや? カールさんは右手に何か掴んでいますね」

 掌を拡げてみると、アルバムの一番左上のスペースから引き千切られた写真だった。それには、イースター島の石像である巨大石人像のモアイをバックにしてジョニーとマーガレットが写っていた。家族旅行の時のスナップのようだった。構図的には、モアイが主役で右下の端に小さなジョニーとマーガレットが仲睦まじく立っていた。

「これは、カールのダイイング・メッセージかな?」と、アレックスが、その写真をマジマジと見ながら言った。

「それはわからない。苦しまぎれに掴んだともとれるし、ジョニーのために殺されるともとれるからね」

 フレデリックは少し考えて、慎重に言った。

「この事件の動機ですが、さっきヘイワード長官もおっしゃったように、犯人はジョニーさんを殺された復讎やマーガレットさんと子供達の将来のために、カール、エリオット、レイの三人を殺害したのでしょうか?」

「そう思って、ほぼ間違いないだろう。犯人が、犯行の日を今日というジョニーの命日に選んだことや、レイがエリオットとカールを殺し、一年前の悪事を認めた遺書を残した上で自殺する筋書きにしたことを考えただけでも、そう考えるのが妥当だろう」アレックスは考えながら言った。「犯人にしてみれば、このような殺し方をするより事故に見せ掛けるとか、もっと簡単な方法が一杯あったはずだ。それを、わざわざ人に見られるかもしれない危険を冒して飛行機でインディアナポリスまで飛んでエリオットを殺し、これまた秒を争うような際どさでカールとレイを殺したんだからね。いわば、秒読みの殺人だ。別の動機だったら、このような冒険はしないよ」

「他の動機だけど、警察の目をくらますために、このような方法を取ったとは考えられませんか?」ウォーカー警部が、ひとつの可能性を提示した。

「それは考えすぎだよ。犯人にとって危険が大きすぎる。その可能性はまずないと見ていいだろう」アレックスは、いとも簡単に否定した。

「ハミルトン家のみんなの人柄を考えても、動機はジョニーを殺された復讐や後に残されたマーガレットと子供達のためということ以外には、あり得ないと思う。みんな殺人を犯すような人間じゃないが、ジョニーやマーガレットや子供達のこととなったら話は別で、ひょっとしたらやりかねないと感じさせるからね。私だって犯人の立場だったら、そうしたかもしれないよ」

と、エドワードが付け足した。

「おいおい、エドワード、そんなぶっそうなことを言うもんじゃないよ。でも、部外者のエドワードまでそう言うぐらいだから、毎日一緒に生活していたハミルトン家のみんなが、そういう気持ちになったとしても何の不思議もないかもしれない。それ程、みんなはジョニーを愛していたし、マーガレットや子供達を愛しているんだ」フレデリックが感慨深げに云った。

「しかし、犯人がマーガレットさんや子供達のことを気にかけていたのなら、どうして彼女達が悲しむような遺書を残したんでしょうか? カールさんがジョニーさんを殺したなんて知った時の彼女達の気持ちを考えたら、とてもそんなことはできませんよ。こんなことを云うのは不謹慎ですが、もし私だったら事故に見せ掛けて殺しますね」

 ウォーカー警部が、不審に思ったことを口に出した。

「君のいうことも、もっともだが、犯人の気持ちもわかる気がするね。犯人は、あの三人特にカールが悪党だということを、どうしても暴露したかったんじゃないのかな? だから、真偽の方はともかく、カールの発表した論文は盗作で、カールは無能だということまで暴露したんだと思う。それほどカールに対する憎悪が大きかったとも云えるし、こんなことは一人の胸にしまっておくには大きすぎる秘密だからね。しかし、マーガレットや子供達のことを考えなかったわけじゃない。ちゃんと、遺書には『マーガレットや子供達には話さないでください』と書いてあるからね」

と、アレックスが答えた。

「それに、たぶん犯人は遺書に書いているように警察に証拠の品が届くことを考慮したんだろう。そのことが、レイを自殺に見せて殺したことの大きな理由ではないかと思う。もちろん、遺書を残したのは、警察がいろいろ嗅ぎ回ったら、よけいにマーガレットや子供達に一年前の真相を知られてしまうと思ったからじゃないかな?」

 フレデリックが付け加えた。

「なるほど」と、ウォーカー警部は納得して言った。

「ハミルトン家のみんなのことはよく知っているが、誰が犯人であったとしても、やさしくて良識のある人間に違いないよ。だから、犯行を決意し実行するまでに、さんざん迷い悩んだことだろう。だけど、結局感情の力が理性の力を打ち破ったんじゃないかと思う」

「しかし、これは根本的なことなんだが、犯人は三人を殺さなければならなかったのかな? こんな手段を取るなら三人の罪を告発して三人を有罪にするだけでよかったんじゃないのかい?」と、エドワードが、この事件の根幹の部分に触れることを訊いた。

「もちろん、そういうことも考えただろう。しかし、どうしても三人とも死刑じゃないと気が済まなかったのかもしれないし、警察が発表した事故死ということを覆して三人を有罪にするだけの証拠がなかったのかもしれない。レイが遺したという証拠品は、レイが死ななければ手に入らないからね」

 フレデリックが答えた。

「それに、もし騒ぎ立てただけで、証拠不十分で起訴できなかったりしたら、今度は自分の命が危なくなります」アレックスが父親の方を見て言った。

「動機はジョニーさんの復讎とマーガレットさんや子供達のためということで何も問題はないと思いますが、そこから容疑者を何人かに絞ることはできますか?」

「さっきも言ったかもしれないけど、みんながみんな動機を持っているので、それは無理だろう」と、アレックスが答えた。

「しかし、いくらハミルトン家の人達みんながジョニーさんやマーガレットさん親子を愛していたとしても、その中には血の繋がっていない下宿人や雇用人もいるでしょう? その人達はいくらなんでも殺人までは犯さないんじゃないですか?」ウォーカー警部が強い疑いを抱いて訊いた。

 フレデリックは、その言葉を否定し、ウォーカー警部にメロディー達下宿人やトマス、シャーリーといった住み込みで働いている雇用人のことを簡単に説明してやった。

「そうすると、誰もがジョニーさんを本当の家族のように愛していたというんですか?」ウォーカー警部は、明らかに失望したようだった。

「それだから、マーガレットや子供達に対する愛情も、よけいに強いんだよ」

「しかし、執事のトマスとか女中のシャーリーとかは、動機が弱すぎるんじゃありませんか?」

「しかし、だからといって、彼等を除いてしまうわけにはいかないだろう。トマスはジョニーが死んでからこの屋敷に来たわけだけど大学時代からジョニーに大変世話になっていたと云っていたし、シャーリーはもう長年ハミルトン家で働いていて家族同様といっていい。だから、どちらも見た目よりも遥かに強い愛情を持っていたのかもしれない」

「しかし、この事件を動機の面から見るとややこしいようだけど、硝煙反応のことを考えれば簡単に片づくさ」アレックスがウォーカーを慰めるように言った。

「そうですね。それじゃ、今度は犯人が何処から出て行ったかということですが、もう部屋の出入口のドアは確かめましたか?」

「さっききみがアレックスから事情を説明されている時に全部調べてみたけど、いま開いているカールとレイの部屋の間のドアと、私がマスター・キーで開けたレイの部屋の廊下側を除いて残りの三つのドア(カールの部屋、子供達の部屋へのドア、図書室へのドア)にはすべて鍵が掛かっていたよ。もちろん、レイの部屋の廊下側のドアも私達が駆けつけた時には、鍵が掛かっていた。でも、どのドアの鍵も内からでも外からでもロックできるものなので、合鍵さえあれば自由に出入りできるはずだ」フレデリックが説明した。

「窓の方は?」

「窓も一応確かめてみたんだけど、レイの部屋のベッドの横の窓のひとつを残して、後はすべて内側からロックされていたよ」

 四人は、またレイの部屋に戻り、それぞれソファに腰を落ち着かせた。

「レイの部屋のその窓に鍵が掛かっていなかったことに何か意味があるとお思いですか?」ウォーカー警部が興味ありげに訊いた。

「ただ掛け忘れただけじゃないかな? 窓の方は、四六時中テレビ・カメラで監視されているし、ビデオ・テープが残るようになっているから、犯人が出て行ったり細工したりすることはできないよ。だから、そちらの方は問題にしなくてもいいだろう」

と、フレデリックは、あっけないほど簡単に答えた。

「そうすると、犯人は隣の部屋の廊下側のドア、この部屋の廊下に面したドア、隣の部屋から子供達の部屋へ通じるドア、この部屋と図書室を繋ぐドアという四つある出入口のどれかから出て行ったことになりますね」ウォーカー警部が確かめた。

「部屋の間のドアは、ワンタッチ式ではないし、オリジナルのキーがマスター・キーが無ければ開け閉めできない。これはプライバシーの問題と自由自在に入れないようにするためだ。そして、事件が起こった時、このどちらも鍵が掛かって閉まっていた。もちろん、カールの部屋との間のドアは開いていた」

「私が見た限りでは、事件が起こったとき子供たちは廊下側のドアから出たのを見たよ」

 エドワードが、口を挟んだ。

「普通に考えると、廊下側の二つのドアから直接出るのは人に見つかる可能性が大きすぎるし、子供達の部屋に通じるドアから出るのはマークとトニーがいたから無理だろう。子供達は感心なことに八時から十時頃まで勉強しているというし、私達が二階から降りて来た時には自分達の部屋から顔を覗かせていたので部屋にいたことは確かだ。だから、図書室へのドアから出た可能性が大きいね。犯人は一旦この部屋から脱出して、図書室か、もうひとつ向こうのコンピューター室まで行き、そこから然り気無く抜け出して、騒いでいるみんなに加わったんじゃないかな? とにかく、このレイ殺しは秒読みの殺人だから銃声がした時のことをみんなから訊き出して、その証言を総合すると、すべてはっきりするだろうし、また有力な容疑者が浮かんでくるだろう」

「それに犯人は合鍵を持っていたはずですから、鍵の行方を突き止めれば、犯人とはいかないまでも何かわかるかもしれませんね?」アレックスが口を挟んだ。

「レイとカールの部屋を繋ぐドアの合鍵は、レイの上着ポケットの中にあったよ」

「たぶん、犯人が入れたんでしょうね」

「出る方はそれでいいとして、犯人は中に入る時はどうしたんでしょうか?」ウォーカー警部が再び訊いた。

「テーブルの上にあるグラスは犯人の擬装だとしても、犯人はカールがアルバムを見ている時にボウ・ガンを射っているから、たぶん極親しい人間だろう。だったら、カールが招き入れたんじゃないかな。レイの場合も同じだろう」フレデリックは、開いているドアから隣の部屋を見ながら言った。「もうひとつ訊いておきたいんですが、この邸の人達でジェット機を操縦できるのは、誰々でしょうか?」

 ウォーカー警部が、さっき少し話がでたことを訊いた。

「死んでしまったカールとレイがジェット機のライセンスを持っていただけで、他の誰もジェット機はおろかセスナ機だって操縦できないはずだよ。一年前に亡くなったジョニーは別にして」

 リチャードが、口にした。

「しかし、だれかがその技術を持っているんですよね?」

「だけど、ハミルトン家の中にカールとレイ以外に飛行機を操縦できる者がいるなんて話は、これまで耳にしたことはないな。一年前に死んだジョニーもジェット機のライセンスを持っていてよく乗っていたが、もう彼は死んでしまっているからね」エドワードが困った顔をして言った。

「私も聞いたことがないな。でも、ハミルトン家の中のだれか、飛行場の誰かが知っているかもしれない」

 フレデリックが元気づけるように言った。

「そして、その可能性は大きいと思う」

「私には、カールやレイが飛行機それもジェット機のライセンスを持っていた、ということからして初耳です」アレックスが、付け加えた。

 屋敷の外から、何台かの車のエンジン音が聞こえた。

「どうやら、応援が来たようですね。それでは、さっそく仕事に取り掛かることにしますか? ハミルトン家の皆さんを、あまり待たせたら悪いですからね」

と、ウォーカー警部は言った。

「四人一緒に行動するより分担する方が能率的だから、二組に分かれよう。アレックスとハルは、他の刑事と応援の連中を指揮して、いま居間にいるハミルトン家の連中の硝煙検査や尋問に当たってくれないか?」フレデリック長官が指示した。

「お父さん達はどうするんですか?」

「私とエドワードは検死官や鑑識の連中から報告をきいたり、もう少しこの部屋や隣の部屋を調べようと思う。それが済んだらゲート・ハウスに行って、警備員から話を訊いたり、銃声がした時の監視カメラのビデオ・テープを見るつもりだ。もちろん、こちらが済み次第、鑑識の連中にはそちらの応援に行ってもらうよ」

「アレックス先輩、私達は居間の方へ行って仕事に取り掛かるとしましょう。それじゃ、ヘイワード長官、後のことはよろしくお願いします」と言うと、ウォーカー警部は、アレックス共々、他の刑事を連れて新しい戦場へと出向いて行った。

 この部屋から、検死官や鑑識の連中を残してみんなが出て行ってしまうと、さっそくフレデリックは、まずテーブルの上に覗き込んでいる鑑識課員に訊いた。

「そのテーブルの上に零れている白い粉は何かね?」

「ヘロインですね」

鑑識課員が検査キッドで調べて言った。

「被害者の鼻の下に付着しているのも?」

「同じです」

「吸ったんでしょうか」

 フデレリックが、検視官の方へ振り返った。

「たぶん。もちろん、帰って調べてみないとわかりませんが」

 ドクターは、白髪をきれいに撫で付けた真面目そうな男で、長身で針金のように細い身体つきをしていた。その声は年に似合わずメリハリがあり、若々しかった。

「お待たせしました。まず、死因からお訊かせください」

「隣の部屋の死体は、見ておわかりのように胸部に矢を受けていて心臓を貫通しています。まったくの致命傷で声を立てる暇もなかったでしょう。矢の角度からして、ソファかソファの少し後ろのところから射たれています。どうやら犯人は立っていたようです。ですが、犯人の身長までは特定できません。ただ、あのボウ・ガンは、見た目よりは遥かに強力な殺傷能力があります。クッションをまるで紙のように易々と突き抜けています」

 ドクターは、一息ついて続けた。

「この部屋の床の上の死体は、明らかに服毒死です。毒物は詳しく検査しなければ断定はできませんが、たぶんシアン化カリウムですね。もっともポピュラーな毒物の微候が表われています」

「睡眠薬でも飲まされた形跡はありませんか?」

「それは、外から見ただけではわかりません。しかし、解剖すればハッキリするでしょう?」

「それで、死亡推定時間は?」と、フレデリックが訊いた。

「多少の誤差はありますが、こちらの死体はだいたい九時半で、あちらの死体はそれより少し前だと思います。あらゆる可能性を考えても前後三〇分とは違わないでしょう。ただひとつはっきりしていることは、ソファに座っている男の方が、そこに倒れている男より前に死んだことは確かです」

「銃声がしたのが九時三一分で、花瓶が割れる音がしたのが、それより五~六分程前だから、だいたいその時間と一致するな」フレデリックはエドワードの方を見た。

「二人の死亡推定時間は、監視カメラのビデオに収められている音ではっきりするだろう?」

 エドワードが、何でそんなことを訊くのかと不思議な顔をした。

「それはそうだが、念には念を入れて訊いた方がいい」

「他に何かありますか? なかったら、早く次の仕事に取り掛かりたいのですが」

検死官が訊いた。

「今は、だいたいそんなところですね。解剖の結果が出たら、すぐに教えてもらえますか?」

「わかりました。何かわかり次第、お知らせします。それじゃ、二つの死体を解剖に回してもよろしいですか?」

 フレデリックは、もう一度さっき何か指示を与えていた鑑識課員を呼んで、もう死体を運び出してもいいかと尋ねた。

 そのいかにもベテランらしい鑑識課員は頷いた。

「おっしゃられたことなどは、すべて調べ終わりましたから、もういいですよ」

「それじゃ、運び出して解剖に回してください。それから、レイ・マーチンが他殺だということや私達が話していたことは内密のことなので、誰にも話さないでください」

フレデリックが釘を刺した。

「もちろん。わかっています。ハミルトン家で殺人があったことを知っただけでも、新聞やテレビなどのマスコミは放っておきませんからね。そちらの方の対応も大変ですね」ドクターはフレデリックを安心させるように笑顔を見せた。

検視官は白衣を着て担架を持った男達を呼ぶと、死体を運ぶように指示し彼等と一緒に出て行った。

カールとレイの死体が、それぞれの担架に乗せられて出て行くのを、フレデリックは感慨深かげに見送っていたが、鑑識課員に訊いた。

「さっき頼んだことの結果は、どうだった?」

「はい。まずレイ・マーチンの死体の服、髪、皮膚などを調べましたところ、すべてから硝煙反応がでました」

「手からは?」

「右手を詳しく調べるようにということでしたが、そこからもはっきりと検出されています。

「そうか、それで?」長官は先を促した。

 鑑識課員は、浴室の外にある洋服ダンスの方を指さしながら「あの機長の服やブーツなどからも硝煙反応がでました。服のポケットには手袋が入っていましたが、それからもでています」と、報告した。

 その洋服ダンスの外には、ハンガーで白色のジャンバーやズボンなどを掛けてあり、その足もとの絨毯の上には靴が揃えて置かれていた。

 それは、今日の午後レイが身につけていたものに違いなかった。

「そうするとレイが死んでいた時に着ていた服で拳銃を撃ったり、ハンガーに掛かっている服でマシンガンを撃ったとしてみても、何らおかしくないんだね?」

フレデリックが確かめた。

「ええ、ありません」

「これも、犯人の擬装かな? それとも、やはり見かけ通りにレイはエリオットとカールを殺して、自殺したんだろうか?」

エドワードが言った。

「すべてレイの仕業だと思いたいのはやまやまだけど、それだと廊下に落ちていた白い羽根の説明がつかない。硝煙反応が犯人の擬装か犯人が着て犯行を行ったと考えるほうが自然だ」

「そうだとすると、犯人はなんの手抜かりもなく完璧にやっているな」エドワードは、ある種の賞賛を持って言った。「しかし、犯人はどうやって硝煙をつけたのかな?」

「硝煙スプレーを使えば、偽装は簡単だ。それとも、レイの服を着て地下の射撃場で銃を撃ったかしたんだろう。レイの服を着てインディアナポリスに行ったと考えるのも一理ある。身長なんかが違っても、ハイ・ヒールやロー・ヒールを履けばいいし、方法はいくらでもある」

「なるほど」

「指紋の方はどうだ?」フレデリックは、あちこちに粉を振りかけている鑑識課員に声を掛けた。

「いま調べているところですので、わかり次第お知らせします。でも、その指紋が誰のものであるか判明するのは、指紋採集して比較しなければなりませんから、今日のことにはならないかもしれません」と、その背の高い鑑識課員が答えた。

「隣の部屋のテーブルの上にあるグラスやレイの部屋着のポケットに入っていた鍵からは、指紋がでたかい?」

「ええ、そのいずれにもはっきりとついていました」別の若い鑑員が、隣の部屋から顔覗かせて事実だけを述べた。

「こちらのグラスの指紋がソファで死んでいたカールのものに違いないし、たぶん反対側のグラスや鍵の指紋はこの部屋で倒れていたレイのものだろう。だけど、なるべく入念に調べてみてくれ」

「はい、わかりました」

「やはり、犯人が擬装していると思うのかい?」エドワードが口を挟んだ。

「犯人は指紋を残さないように手袋をはめていたはずだし、自分の指紋を残すほど馬鹿ではないだろう。それに、どうしてもレイがやったと見せ掛けるために彼の指紋を残す必要があったからね」

「もっともだな。それに、グラスや鍵なんかにレイの指紋をつけるなんてことは、意識がないレイの指にそれらを持たせればいいだけだから、何ら造作もないことだっただろう」

「凶器の指紋は、どうだった?」

「鮮明なものはありませんでしたが、なんとか検出できました。たぶん、レイ・マーチンのものでしょう」

「拳銃の方は?」と、フレデリックはテーブルの上に置いている柔らかなシルバー色を放つスミス&ウェッソン・モデル六四を指さしながら訊いた。

「外側には、はっきりとついていました。これもレイ・マーチンのものに違いありませんね」

「やはりな。それで、挿弾子(クリップ)の外側の潜像指紋の方はどうだった?」フレデリックが、今度はある程度期待を持って訊いた。

「さっき見てみましたが、確かにどれにも付いているようでした。こちらの方は署に帰ってから詳しく調べてみようと思っています」

「なるべく早く、そうしてくれないか! それも、レイの指紋である可能性は大きいが、もしかしたら犯人が残したものかもしれないからね」

「はい、わかりました。それでは、いまハミルトン家の人達の指紋のサンプルを取らせてもらいに行っていますから、その者が戻り次第、署に帰って指紋照合機で比較してみましょう。二つの死体の指紋は、もうすでに取っています」

「頼むよ」

「挿弾子の潜像指紋というのは、一体何のことだ?」

エドワードが、フレデリックに訊いた。

「拳銃に装填している弾丸についている指紋のことだよ。普通、リボルバーの場合、手袋をはめて弾丸を装填するような者は滅多にいないし、ふと見落としてしまいそうなことだから、その弾丸の外側に犯人の指紋がついていることが多いんだ。私も大変頭のいい犯人が挿弾子に潜像指紋を残すというミスをして掴まった例を何件か知っているよ。今回も、犯人は手抜りなくレイの指紋をつけているかもしれないけど、ひょっとすると自分の指紋をつけている可能性もあるわけだ」

「もし仮に、レイの指紋がついているとしても、犯人が非常に緻密で抜かりのない人物だということだけはわかるね」エドワードが付け加えた。

「その可能性の方が大きいがね」フレデリックが、自分の意見を述べた。

「DNAは?」

警察長官は、床とかを調べている別の鑑識課員に聞いた。

「DNAは、掃除機をかけて収集していますがあまり期待できません」

そして、背の高い鑑識課員の方へ向き直ると、「それから、この部屋と隣の部屋を仕切るドアのノブの指紋は、どうだ?」と、訊いた。

「見ておわかりのように、部屋と部屋の間のドアのノブには、安全のために合成繊維のカバーをかけていますので、全然出ませんでした」

「そうか、やはりね。最後に、もうひとつだけ訊いておきたいんだが、暖炉に残っていた燃え残りの灰から何か出てきたかい? たぶん、本や書類だと思うんだけど、指紋は無理だとしても題名や内容はどうだろう?」

 フレデリックが、燃え栄る暖炉の中を見ながら訊いた。

 暖炉の前には断熱シートが敷かれ、その上に“燃え残り”が取り出されていた。

「長官に云われて、すぐに炎の中から拾い上げたんですが、もうほとんど燃えていました。いま残っている物も、全部火が通っています。それを読み取るのは細かい仕事で、ここには機械もないので、署に帰って分析するしかありません」

「わかった。今夜は徹夜になると思うが、頼むよ」

「科学の進歩で、そんなことまでわかるんだな。昔とはえらい違いだ」エドワードが、感心して言った。

「いまのところ、訊きたいことはそれぐらいだ。仕事に戻ってくれ!」

 フレデリックは、鑑識課員達が頷いて仕事を始めるのを見守りながら、「エドワード、ちょっと来てくれ!」と、言うと、上院議員を連れて、カールの部屋へ移動した。アルバムの写真を、もう一度詳しく調べようというのである。


 テーブルの上に載っている開いたアルバムのページに目を遣ると微かに血が付いていた。その横にカールが、しっかりと握っていた写真が置かれていた。それは、先程目にした写真で、イースター島の巨大石人像のモアイを背にしてジョニーとマーガレットが笑顔を浮かべて写っていた。もちろん、モアイ像が主役である。

 アルバムの開いているページには、左右とも縦三枚横二枚の六枚ずつ、合計十二枚の写真を四角を止める形で収められるようになっていた。いまは、一一枚のスペースが埋められている。

 それらの写真は、どうやらハミルトン家のみんなが、イースター島で写したもののようだった。

 左のページの一番上の段の左側の場所が開いていて、そこに問題の写真が貼られていたのに違いなかった。

 アルバムの写真をよく見ると、左のページは上段の左側が空白、右側がモアイとエリオットとカールの写真、中段の左側がモアイとチャールズとカールの写真、右側がモアイとエリオットとジョニーの写真、下段の左側がモアイとチャールズとジョニーの写真、右側がモアイとチャールズとエリオットの写真だった。すべて同じような構図で、巨大石人像がアップで人物が小さく写っている。

 右ページは上段の左側がモアイをバックにしたレイのアップの写真、右側がモアイをバックにしたリチャードのアップの写真、中段の左側がモアイをバックにしたチャールズのアップの写真、右側がモアイをバックにしたエリオットのアップの写真、下段の左側がモアイをバックにしたジョニーのアップの写真、右側がモアイをバックにしたカールの写真となっている。こちらは、人物が主役でモアイはただの背景にすぎなかった。

 違うページには、ハミルトン家の他の人達の写真もあった。メロディー・アンダーソンやハリー・ストーンや陳志忠まで楽しそうに写っている。トマスやシャーリーの顔も見える。

 前後のページには、イースター島の遺跡、アフー祭壇、巨大石人像、テレバカ山などをバックにハミルトン家のみんなを組み合わせた写真で塞がっていた。

「その写真に、何かの意味があると思うかい?」エドワードが、カールが摑んでいた写真のことを訊いた。

「その写真の握り潰され方からみても、もともと手に持っていたのではなく、アルバムから掴み取ったことは明らかだ。写真の右上角が千切れそうだし、右下角が少し折れている。これは乱暴に剥がした証拠だ。アルバムの空いたスペースの上に血がついているから、カールは射たれた直後ではなく、直前に写真を掴み取ったことがわかるね。それから、右ききのカールにとって、アルバムの左のページの左上は一番離れていて手を伸ばし難いところだ。だから、偶然その写真を掴んだとも思えない。やはりカールは故意に、その写真を掴み取ったとみる方がいいのかもしれない。クッションの陰になっていたから、犯人は見落としたのかもしれない」

「人を殺したんだから、気が動転もするさ。そうすると、カールは私達に自分を射った犯人を咄嗟に教えようとしたのかな?」

「カールの行動が故意のものだとすると、カールは犯人と向かい合っていて顔をハッキリ見ているわけだから、犯人若しくはそれに近いものを指し示そうとした可能性は大きいだろう」

「しかし、写真にうつっているのは、モアイを背にしたジョニーとマーガレットのカップルだ。一体、どういう意味だろう? この中の何かが、犯人の正体を表わしているんだね?」エドワードが、言葉を選ぶようにして言った。

「たぶんね」フレデリックは言葉を濁して、曖昧な言い方をした。

「ダイイング・メッセージか? もしそうだとしたら、カールの頭の中には犯人とその写真とを結ぶ、どんな連想が浮かんだのかな? 推理小説だと、よく出て来るんだけどね」

 エドワードは、一息吐いて続けた。

「ジョニーの復讐のために殺されるということを示したかったのかな?」

「確かにカールがどんなに混乱していても、犯人とジョニーというイメージの組み合わせは頭に浮かんで来るだろう。しかし、もっと取り易い右ページの下段の左端にモアイを背景にしたジョニーのアップという写真があるよ」フレデリックが示唆した。

「目に入らなかったのかもしれない。たまたま目についたのが、あの写真で、それを掴み取った可能性だってあるじゃないか。それとも、“ジョニーとマーガレットのために殺される”というメッセージだったとしたら? ジョニーとマーガレットのペアというのは、これ以外には開いているページの中にないからね」

「なるほど。でも、これから死のうとする人間が犯人の動機などを示そうとするかな? もっと直接犯人を指摘しようとするんじゃないか?」

「それには、いい材料がなかったのかもしれない。それじゃ、君はその写真がまったく別のものを表わしているというのかい?」

 エドワードは眉をひそめた。

「そうは言っていないよ。その可能性も大いにあると思っているけど、ただ他の可能性もあると云っているだけだ」

 フレデリックは、鑑識課員達を呼び、「他に何か云っておきたいことはあるかね?」と訊いた。

 鑑識課員達は、確かめるように互いに顔を見合わせたが「いえ、今のところは別にありません」と、背の高い鑑識課員が代表して答えた。

「それじゃ、私達はこれからゲート・ハウスに行って監視カメラのビデオを見ることにするから、何かわかったら知らせてくれないか?」

「承知しました」

「それに、もうひとつ、さっき私達の話を耳にしてわかっていると思うが、レイ・マーチンが他殺だということや私達が話したことなどは、くれぐれも口外しないでもらいたい。 わかったね?」

フデリック長官は、検死官と同じように鑑識課員達にも徹底した箝口令をしいた。

「もちろんです。口が裂けたって喋べりはしません」と、若い鑑識課員が一番先に口を開いた。

 フレデリックとエドワードは、彼等が頷くのを見て、殺人現場から出た。


 その部屋のすぐ外には制服の警官が見張りで立っており、フレデリック達が出て行くと堅苦しい調子で敬礼した。

 また左の方に目を移すと、大ホールの向こうの居間のドアの前にも、制服の警官が直立不動の姿勢でジッと立っているのが見えた。

「なんだか、ここが刑務所のように思えて来たよ」エドワードが素直な感想を述べた。

「こんな豪華でデラックスな刑務所なんて、何処を探したってありはしないさ」

フレデリックが笑顔を見せて言った。

 大ホールにはアレックスがいて、電話を掛け終わったところだった。

「どうしたんだ?」フレデリックが、アレックスの普通ではない様子に気づいて声を掛けた。

「これから、そちらへ行こうと思っていたところです」

 アレックスが、とまどった表情を浮かべて云った。

「硝煙検査の結果はどうだった?」エドワードが、一番気にしていることを訊いた。

「それなんですが、いま居間にいるハミルトン家のみんなの硝煙検査を行なったんですが、誰からも硝煙反応はでませんでした。念には念を入れて、隣の屋敷に行かせて子供達の硝煙検査も行なったのですが、やはり無駄でした。子供たちはシャワーを浴びていましたが、銃声がしていたとき着ていた服を調べても白でした。念には、念を入れてです」

アレックスが、予想外のことを口にした。

「何だって!」エドワードが、びっくりして大声を上げた。

「それは本当かい?」フレデリックも信じられないと云った顔だった。

「はい。みんなの衣服、髪、皮膚など考えられるところはすべて検査したんですが、驚くべきことに何処からも硝煙反応は出て来ませんでした。それから、もちろん誰も硝煙がついた手袋や合鍵を所持している者はいません。いつかお父さんが話してくれたマッギヴァーン事件を思い出したので、みんなの部屋履きまで検査したんですが、これまた空振りに終わってしまいました。部屋履きの裏というのは犯人も見逃し易いところなので、いいアイデアだと思ったんですが……」アレックスが説明した。

「それで、みんなが居間の方へ行ってから、誰かひとりになった者とかはいないのか?」フレデリックが、逸早く立ち直って訊いた。

「いいえ、私達も硝煙反応の結果が出てからは、誰かひとりになって細工をした者がいたんじゃないかと思って、居間の方へ行ってからのみんなの行動を調べてみたんですが駄目でした。まずメロディー、シャーリー、マーク、トニーの四人は、最初食堂の方にいたんですが、メロディーもシャーリーもずっと一緒にいたと証言しています。ただ、メロディーは私達に子供達の処遇を訊きに来た時に一人になっていますが、これも食堂の扉が開いていて、シャーリーにはメロディーの姿がずっと見えていたといいますから問題はありません。それから、子供達を隣のチャールズの屋敷へ連れて行き、居間の方へ戻って来た時も二人一緒だったそうで、その後は居間から出ていません。子供達の確認を取っています。この二人が居間に戻って来るまでのことも警備員がカメラで見ています。何の不審の行動もなかったそうです」

 三人は、それぞれ大ホールにあるソファやチェアに腰を落ち着けていた。

「また、居間の方に入った他のみんなですが、こちらもリチャードさんがお父さんに呼ばれて出ただけで、他の者は中のトイレへ立ったぐらいで一歩も外へ出ていないことが確かめられています。もちろん、リチャードさんの居間を出てからの行動も、見張りの警官によって、居間とレイの部屋を往復しただけだということが確認されています。マークとトニーも隣の屋敷へ行ってからは、スティーブとポールとずっと一緒にいたそうです」

「念を入れて、ちゃんと子供達の行動もチェックしているんだな」

「いつも、お父さんが口癖にしている数学の問題ですよ。そうしないと、消去法が使えませんからね。犯人でないものを消していくんです」アレックスが、、ニヤリと笑った。

「そうすると、みんなが居間の方へ行ってからは、みんな硝煙の付いた衣服を処分したり、他の服に着替えたりすることはもちろんのこと、髪や皮膚に付いた火薬残滓を落としたりすることもできなかったことになるね」

 フレデリックが、確認した。

「また、銃声がしてみんながレイの部屋の前に集まってからは、厳密にいえばリチャードがマスター・キーを取りに書斎へ、シャーリーがチャールズを迎えに玄関へ行ったわけだけど、二人ともすぐに帰って来たから、こちらの方も問題にしなくてもいいと思う」

「はい、だから銃声がしてからは犯人には何もする暇や時間はなかったものとみるしかないと思います」

「しかし、そうだとすると一体どういうことになるんだ?」エドワードが、そんなこととはあり得ないという強い調子で言った。「いままで確認した結果では、犯人はこの屋敷にいる人物で、しかも硝煙を浴びている。そして銃声がしてからは何も工作する時間もなかった。しかし、それにも関わらず誰からも硝煙反応が出なかった。果して、こんな矛盾に満ちたことがあってもいいのか?」

「犯人がどんなトリックを使ったのかわかりませんが、何処かに必ず盲点があるはずです。合羽を着ていたとかね」

 アレックスが思案顔で言った。

「それとも、やはりあの遺書に書いてあったあったことが本当で、すべてレイの仕業だったのかもしれないな」エドワードはフレデリックに視線を移した。

「そんなことはないよ。前にも議論したが、あの羽根の一件があるかぎり、この事件はレイ以外の者が企んだことに違いない。それとも、あの羽根のことをうまく説明できるかい?」

「しかし、これまでわかったことから判断すると、ハミルトン家のみんなの中に犯人がいると思うよりは、あの羽根の件をうまく説明することを考える方が、より可能で、簡単なことのような気がするよ」

「確かに、それは言えてますね。この事件は私達がいたこともあって普通では考えられないくらい完璧な処置をし、素早い初動捜査を行なったと思います。それにも関わらず、誰からも硝煙反応が出なかったんですからね。しかし、私もお父さんと同じで羽根の件がある以上、この事件はいま屋敷にいる誰かの仕業によるものだと思います。また、ハルの考えも同じで、この事件を連続殺人と考えて捜査していくことに変更はないと云っています。その方針でいいでしょう」

 アレックスも硝煙反応の結果には大変困っているようだったが、キッパリと言いっ切った。

「私も、別にこの事件が殺人ではないと云っているわけではないから、その点は誤解しないでくれよ。私もこの事件がすべてレイの仕業であってくれればいいと心から願っているけど、前にフレデリックが云ったように事実は事実として認識していきたいと思っているんだ。それに、あの羽根のことがあるから、レイも殺された可能性が強いからね」

「まあ、そのことは後でゆっくり議論することにしようじゃないか! アレックス、他には何かあったか?」

「ええ、もうひとつ大きなことがわかりました。カールが論文を盗作していたことは事実のようですが、どうやら少なくともマービンからではないようです」

「何だって! それで、誰がカールに論文を提供していたかはわからないのかい?」

「はい、このことも後で詳しく話しますが、女中のアマンダとドロシーの証言を総合してわかったのは、カールが論文を盗作したのはマービンではなく、このハミルトン家の他のだれかだというところまでで、それが誰なのかはまだ判明していません。二人は、それぞれ偶然にカールとレイが口喧嘩しているところを立ち聞きしてしまったそうです」

「もちろん、他の可能性も捨てることはできないけれども、常識的に考えれば、それはカールの助手であるハリー、志忠、メロディーの三人の内の誰かということになるだろうね?」エドワードが口を挟んだ。

「その可能性は強いようですが、まだ何とも言えません。外の科学者ということも考えられます。私は一応みんなの訊き取りが終わってこちらへ来たんですが、それとなしに訊いても誰も名乗り出ていませんし、誰なのか想像もつかないと言っています。いま、ハルが補足質問をしているところです」

「なんだか、複雑な理由があるみたいだな。このことも難しい問題なので、後でハルも加えて一緒に検討することにしよう。他に何かあるか?」フレデリックが話題を変えた。

「大きなことは、その二つです。私は、お父さん達に早くこれらのことを知らせて、方針を訊いておこうと思って、こちらへ来たのです。いま電話していたのはゲート・ハウスにいるガード・マンで、一応あの銃声がした前後にこの屋敷を出入りした者がいるか確かめてみたんです。やはり、怪しい者は誰も見ていません。事件の前後にこの屋敷を出入りした者はチャールズだけで、銃声がして少しして隣の屋敷からこちらの屋敷に来るのをテレビのモニターで確認したそうです。その暫く後で、メロディーとシャーリーが子供達を連れて、この屋敷からチャールズの屋敷へ行って帰っています。チャールズは、食事後気分が悪くなったナンシーとスティーブとポールの子供達を自分の屋敷に連れて帰って、また舞い戻ったようです」

「そうすると、やはり犯人は居間にいる連中からチャールズを除いた者の中にいることが確かめられたわけだ」

 フレデリックは少し考えていたが、「そういうことになるだろうね」と、言った。

「少し躊躇ったけど、君はチャールズも犯人の可能性があると思っているのか?」

 エドワードは、フレデリックの態度を不審に思って訊いた。

「そういうわけじゃないが、ちょっとしたことが頭に浮かんだものだからね」

「どんなことだい?」

 その時、ラット部長刑事が顔を覗かせたので、フレデリック達の話は断ち切れになってしまった。

「インディアナポリスから、電話が掛かっていますので、ちょっとおいでくださいませんか?」

「ありがとう。それじゃ、エドワード、ちょっと行って来るから、きみはここにいてくれ。アレックス、お前も来てくれ!」と、フレデリックは上院議員に声を掛け、アレックスを供って、急いで居間の方へ行った。

 フレデリックが報告を受けに行ってしまうと、エドワードは別にすることもないので、自分でこの事件の犯人を推理してみた。


“チャールズは、ジョニーと高校時代からの親友だったので強い動機を持っているといえる。しかしフレデリックがどう考えようと、私には物理的に不可能だったように思われるから、まず除いていいだろう。物理的にも可能で動機が強いと思われるのは、マーガレットをこの上なく愛しているリチャード、ジョニーを本当の兄貴のように慕っているハリー、志忠、メロディーの三人といったところだろう。だがフレデリックがいったように、ダーク・ホースとしてトマス、シャーリーの二人も見逃すことはできない。しかし、そのためには、まずエリオット、カール、レイの三人がジョニーを殺害したという事実(といっても、もはや間違いないであろう)を知らなければならなかったはずだが、その可能性があったのは一体誰だろうか? そこから、容疑者を何人かに絞ることはできるだろうか? いや、みんな同じ屋敷で生活しているのだから、みんなに(レイがまたそうであったように)何かを立ち聞きするといったようなことはあり得たはずで、それだけでは犯人の範囲を狭めることはできない。また性格的な面から見ても、前にもいったようにハミルトン家のみんなは殺人を犯すような人柄ではないが、これはそもそも自分のためのエゴイズムによる殺人ではない。すなわち復讐や他人のための自己犠牲による殺人、つまりはジョニー、マーガレット、マーク、トニー(エリザベスも入いるかもしれない)への愛情のための殺人だから、何となくみんなやってもおかしくないと感じさせる。そして実行力という点でも、リチャード、ハリー、志忠、メロディーはもちろんのこと、トマス、シャーリーも、この殺人をやって退けるだけの意志の強さや頭の良さをもちあわせているように思われる。それからカールとレイ以外にジェット機を操縦できる者がいるということだが、そんなことは噂でさえも聞いたことがない。果して、本当にジェット機を操縦できる者が、ハミルトン家のみんなの中にいるのだろうか? レイにでも乗せて行ってもらったのかも? そして隙を見てエリオットを殺した? わからない。データ不足なのだ。また、カールが死の直前にアルバムから剥ぎ取ったあの写真は、やはりジョニーとマーガレットのために殺されるというこの事件の動機なのではないだろうか? だから犯人はあの写真の存在に気づいていて、見逃したのではないだろうか? それだと、犯人がレイだとしても何の不都合もないはずだから……。しかし、あの硝煙検査の結果は、どうしたのだろう? レイが犯人でなくて(レイからは硝煙反応が出ている)、誰からも硝煙反応が出ないなんてことがありうるのだろうか? 第一なぜ、拳銃を撃つ必要があったのだろうか? これまで推理してきたように自殺を決心するため? たぶん想像を絶っするような巧妙なトリックがあるのだ。しかしカール、エリオット、レイの三人がジョニーを殺したことさえ信じられないようなことなのに、いま居間にいるハミルトン家のみんなの中にその三人を殺した犯人がいるなんて、何かの間違いか手違いとしか思えない。夢ならば、早く醒めてくれればいいのだが……“


そんなエドワードの瞑想は、肩に置かれた手の感触によって破られた。電話を終えて、フレデリックが帰って来たのである。

「どうだった?」エドワードがぼんやりと訊いた。

「インディアナポリスのハミルトン家の別荘から警察が電話を掛けてくれたんだが、やはりあの遺書に書いてあったことは本当だったようだ」

「というと?」

「警察が、マシンガンで射殺されたエリオットの死体を飛行場の格納庫の中で発見したそうだ。その死体が本人であることは、秘書のマリーが確認している。また、死体があった場所とか機材用の袋に入れられていた状態とかは、遺書に書かれていた通りだった。フライトプランでは、操縦士レイ・マーチン、副操縦士カール・ウィルソンとなっている」

 フレデリックが説明した。

「エリオットはマリーに黙って別荘を出ていて、誰に会う約束だったかも知らないそうだ。どうもエリオットはそのことを秘密にしていたようだな。それからエリオットとマリーはヘロインを楽しんでいたみたいだ。警察は別荘から一〇グラムのヘロインを押収している」

「エリオットがヘロインを? それは本当か?」エドワードが、驚いた声を上げた。

「たぶん、ちょっとやってみた程度だろう」フレデリックは、事もなげに続けた。「エリオットの死亡推定時刻はだいたい今日の午後一時から二時の間で、凶器はウジ・サブマシンガンではないかということだ。今のところ、わかっていることはそのぐらいで、新しいことが判明し次第、また電話をくれるそうだ」

「そちらから、何か出て来ると思うかい?」エドワードが訊いた。

「わからない。でも、犯人の頭が良ければ、何の証拠も残していないだろうし、へまもやっていないだろう」フレデリックは頭を振った。

「私もそう思うよ。いままでにわかったことからみても、どうやら犯人は抜け目のない人間のようだからね」

「いま、ちょっと地下の銃器室に行って確かめてみたら、ハミルトン家の所有しているVZ・SMGは全部で三挺あった。そのどれも納まるべきスペースにちゃんとあったので、犯人は今日その内のどれかを持ち出し、また後で元通りに帰したのだろう。ただマガジンが三個なくなっていたよ。そして、射撃場のレイのロッカーの中には、飛行カバンと鍵が掛かる黒い大型の鞄があった。この黒い鞄の中に、VZ・SMGやマガジンを入れて行ったのに違いない。だから、それらを調べるように鑑識の連中に指示して来た。そうそう、さっきついでに調べてみたんだが、やはりレイの部屋にあったスミス&ウェッソン・モデル六四は、地下の銃器室にあったもののようだよ。そのスペースが空いていた」

 後で詳しく、VZ・SMG検査した結果、その中のひとつから硝煙反応があり、使用された痕跡があり、線条痕も一致した。もちろん、指紋は検出されなかった。

「やはり、この事件で使われた銃器は、どれも地下の銃器室から出たものだったか! 想像通りだね。ということは、この屋敷に住む者なら、誰でも簡単にそれらを持ち出せたことになるな」

「鍵さえあればね。世界中のどんな銃でも選り取り見取りだったはずだ」

 アレックスが帰って来たので、フレデリックが訊いた。

「それで、ハルはこれからどうしたいと云っている?」

「はい、リチャードさんともよく相談したんですが、いま家宅捜査をして鍵や硝煙の付いた衣服とか手袋とかを捜している最中です。もちろん誰からも硝煙反応が検出されなかった以上、エドワードさんが言ったように犯人は頭からスッポリ被るカッパかガウンのようなものを着ていた可能性があるからです」

「家宅捜査か? それでさっきから慌しかったんだね。人の出入りが激しいと思ったよ」

 エドワードが、辺りを見回して言った。大ホールの少し奥まったところなので、廊下の部屋々の様子がわからないのである。

「それに鑑識の連中に、レイの部屋の床の上などの硝煙反応を一センチ刻みで調べるように頼みました。あの床の上は、警察の人間が歩き回って踏み荒らしていますが、何かわかるかもしれませんからね。もし、図書室の床の上から硝煙反応が出て来たら、犯人はそちらへ逃げたことがわかります」

「犯人は、ぴったりした部屋履きを履いていて、事件後どこかに隠したとか?」

「しかし、そんなものは発見されていない。それにみんなのスリッパや靴の裏からは硝煙反応は出なかったんだろう?」エドワードが確認した。

「それも、犯人の体や衣服から硝煙反応が出なかったのと同様に、何かとんでもないマジックというかトリックがあるんですよ。私は必ず、それを見つけてみます」

 アレックスが、意気込んで言った。


「それじゃ、私とエドワードは、これからゲート・ハウスに行って来るよ。警備員から話を訊かなければならないし、監視カメラのビデオも見なければならないからね」

「そちらは、お父さん達に任せることにして、私はこちらでの仕事を片付けます。ゲート・ハウスへは警察の車で行ってください」

 アレックスは制服の警官を呼んでゲート・ハウスまでの運転を頼んだ。その警官は、すぐさま玄関から姿を消した。車を回しに行ったのである。

 フレデリックとエドワードは玄関から外へ出た。二人は手回しよく、オーバーとコートを持って来ていた。

「トマスが云っていたように、雪が降っているな」

 エドワードはそう言うと、オーバーの襟を立てた。

 屋敷の外には、もうすでにかなりの雪が積っており、この分ではハミルトン家の悲劇に色を添えるかのように、大雪になりそうだった。

「事件のことに気を取られて少しも気づかなかったけど、もうだいぶ前から降っているようだね」フレデリックが、パトカーの方へ急ぎながら言った。

 二人がパトカーに乗り込むと、すぐさま発車した。ゲート・ハウスまで、車だったら二・三分の距離だった。

 ゲート・ハウスは、バンガロー風の建物で木を組み合わせて作られていた。

 パトカーを見送りながら、フレデリックが、木製の戸のベルを押すと、すぐに開けられた。

「さあ、お入りください。寒かったでしょう」

 警備員は銀髪を後ろに撫で付けたガッチリした大男だった。名前をビル・モンローといい、昨年ニューヨーク市警を定年退職して、フレデリックの斡旋でハミルトン家の警備員に収まっているのである。

「ヘイワード長官、リットン上院議員、お寒かったでしょう? コーヒーでも、お入れしましょうか?」

「ありがとう。頼むよ」フレデリックが、昔の部下に言った。

「やっと人間の世界に戻った気分だよ」

 エドワードが、この山小屋の内部を眺めながら感想を述べた。

 この部屋の中も、バンガロー風に木をメインにデザインされていた。床や壁も剥き出しの木でできていて、木目が美しかった。部屋の隅の木製のベッドも人に安らぎを与えている。

 部屋の一方の壁は、現代エレクトロニクスの粋を集めた電子装置で占められていた。その金属の冷たさと木の暖かさがアンバランスでユニークだった。

 いま、この部屋のすべてのテレビ・モニターは、その緑色の画面に雪が降りしきるこの邸の様々な映像が角度を変えてうつし出されていた。

「さっき電話で頼んだことは、どうだった?」

 フレデリックが、出されたコーヒーに口をつけながら訊いた。

「ハミルトン家の皆さんが教会に出かけたのは午前九時少し前で、帰って来たのは皆さんバラバラでしたが、一番早い人で午後四時頃でした」

「そうすると、みんな時間的にはインディアナポリスでの殺人をやってのけるだけの余裕はあったみたいだね」

 エドワードが口を挟んだ。

「ヘイワード長官がおっしゃったように、マーチンさんは飛行カバンと黒い鞄を持って屋敷を出入りしています。他には、それらしいものを持ち出し持ち帰った人はいません」とモンローが報告した。

「それは、ある程度予想していた答だな。犯人側からすれば、絶対レイにそうさせなければならなかったはずだから……」

「それから、さっきも申しましたように、ハミルトン家の皆さんは午前九時前に一緒に出かけました。帰宅した時間は、わかりやすいように表にしてみました」


 警備員は、用箋を部屋の中央のテーブルの上に開ろげた。

 そこには、整然と次のようなことが書かれていた。

 

シャーリー・アンカステル…午後三時五分


トマス・ロイト  …………午後四時二分


 ハリー・ストーン …………午後四時一六分


 陳志忠

 トニー・ウィルソン    午後四時三八分


 レイ・マーチン

 マーク・ウィルソン    午後四時四六分


 メロディー・アンダーソン…午後四時五三分


 リチャード・ハミルトン

 チャールズ・ハミルトン  午後五時七分


 ナンシー・ハミルトン

スティーブ・ハミルトン  午後五時一〇分

ポール・ハミルトン


カール・ウィルソン ………午後七時一二分


「それじゃ、銃声がした時の監視カメラのビデオ・テープを見せてもらおうか」

フレデリックが、椅子から立ち上がって言った。

「こちらへおいでください」

 モンローは、テレビ・モニターの前まで行くと器用にスイッチを操作しながら言った。

 まるで、ホワイト・ハウスのシチュエーションルームを小さくしたような部屋である。

 縦三、横三と合個九つあるテレビ・モニターに子供部屋、カールの部屋、レイの部屋、図書室の一面の窓が、映し出される。屋敷のこの一角をズーム・アップした映像である。画面の右上に時間が表わされていた。画面全体が光量増幅装置のため緑色がかっている。

「さっき気づいたんですが、どうも音声が入っていないようなんです。普段から音がしないところですから、音声が入っていなくても気づかないんです」

 モンローが、監視カメラのビデオ装置を操作しながら言った。

「でも、マイクは壊れていないんだろう? 君もハッキリと銃声を聞いているんだから……」

「ええ、多分ビデオ装置にトラブルがあるんでしょう」

「いつ壊れたか、わかるかい?」

 フレデリックが、雪の降りしきる画面を覗き込みながら訊いた。

「それはわかりません。実際ビデオを見る機会がありませんでしたから……。ただ1ヶ月前の定期点検の時には、正しく動作はしていました。アルとビリーに訊けば、いつ壊れたかわかるかもしれません」

 アルとビリーというのは他の警備員で、交代制をとっているのである。

「ハミルトン家の誰がよくここへ遊びに来る?」

 フレデリックが、カールとレイの部屋の窓から目を離さずに訊いた。

「皆さん、よくおいでになりますよ。小さなモンキーをペットとして飼っているんで見に来るんです。リチャードさんでさえ、行き帰りにちょくちょく覗いてくれます」

「みんな動物好きだからな」

 エドワードは、先程隣の部屋を覗いた時、ベッドの足元に可愛いモンキーが鎖で繋がれていたのを思い出した。かなり自由に動き回れるようになっている。

「今日も、子供達やメロディーさんが遊びに来ましたよ。でも、それが何か?」

「いや、ちょっと訊いただけだ」

「君は、この故障が作為的なものと思っているのか?」エドワードが訊いた。

 画面のデジタル数字は、今夜のPM九時二〇分を表示している。

「わからない。雪でおかしくなったのかもしれない」

 フレデリックが、簡単に答えた。

「さっきから気づいていたんだが、図書室で志忠が調べものをしているな」

 図書室の東端から二番目のカーテンが半分開いていて、陳志忠が椅子に座って、書きものをしていた。机の上には、本が積まれている。たぶん雪を眺めるためにカーテンを開けたのだろう。陳志忠の様子からして、反対側に誰かいて話をしているらしい。

「まるで、昔のサイレント映画みたいだ」

 エドワードは、食い入るように、カール、レイの部屋の窓を見ながら言った。

「何の変化もないな。犯人の影さえ映っていない」

「照明の関係だろう」

 デジタルは、PM九・二六を示している。

「志忠の相手は、ハリーだったんだね」フレデリックが言った。

 カーテンの左側から、陳志忠の横へハリー・ストーンが現われたのである。

 今度は、陳志忠が立って窓の右へ消えて行った。本でも探しに行ったのだろう。ハリーは窓際へ立ったまま外を眺めている。

「これじゃ、何もわからないな」

 エドワードが、諦め顔で言った。

 PM九時三十一分に、陳志忠が帰って来て、ハリーと一言二言話していたが、急に二人の顔がレイの部屋の方へ向いた。

「銃声がしたんだな?」

 エドワードが注釈を加えた。

 陳志忠とハリー・ストーンは、すぐにカーテンの左の方へ消えて行った。

「もし、犯人が図書室へ逃れたのなら、志忠とハリーが目撃しているかもしれないな」

「わからない。図書室のあの位置からだと、本棚が邪魔をして、レイの部屋へのドアを見通せないんだ。私も何度もあそこに行っているんで知っているんだ。犯人がすばやく行動していたなら、二人に見られなかった可能性もある」

 フレデリックが説明した。

 この後、暫くテレビ・モニターを見つめていたが、何も変わったことはなかった。誰も映ってない画面が延々と続くのである。

「くたびれ損だったな」

 エドワードが、素直に感想を述べた。

「いや、収穫はあったさ。志忠とハリーのアリバイが確かめられたじゃないか」と、フレデリックが、励ますように言った。

 そのとき、ブザーが鳴ったのでドアを開けると、アレックスだった。


「みんなのアリバイは、どうだった?」

 アレックスがコーヒーを飲んで人心地つくと、フレデリックが訊いた。

「ハミルトン家のみんなへの尋問も一通り終わりました。いまハルがみんなの行動表を作っています。教会は、この屋敷から北へ一キロ行ったところにあり、みんなは十一時過ぎに解散したそうです。ちなみに、飛行場はそこから北へさらに二キロ、研究所は西へ五百メートル行ったところにあります。午後のアリバイがあったのは、トニーと一緒に遊園地へ行っていた志忠、セントラル・パークの近くの医院で診察を受けていたハリー、会社で仕事をしていたチャールズとリチャードさんといったところです。後の人間は、アリバイはなくジェット機に乗って、帰って来る時間はあったはずです。もちろん、パイロットの衣服を処分する時間も。銃声がした時のアリバイがあるのは、書斎で市長に電話していたリチャードさん。図書室に一緒にいたハリーと志忠。大ホールで話をしていたシャーリーとメロディー。隣の屋敷に帰っていたチャールズ、ナンシー、スティーブ、ポール。自分達の部屋で勉強していたマークとトニー。自分の部屋にいて銃声がしてすぐメロディーとシャーリーに合流したトマスとなります。もちろん、私たちは部外者ですから省いていますよ」

 と、アレックスが簡単に説明した。

「午後のアリバイはともかく、銃声がした時のアリバイは全員が持っているじゃないか? こんなことはあり得ないよ」

 エドワードが、お手上げのジェスチャーをした。

「硝煙反応だけでも頭が痛いのに、このうえアリバイ問題か? 参ったな」

「図書室にいたハリーと志忠から、何か訊き出せたかい?」フレデリックが、頭を振りながら訊いた。

「いいえ、駄目でした。ハリーも志忠も何も聞いていないし、見てもいません。二人が廊下へ出た時、メロディー、シャーリー、トマスが大ホールの方からやって来るところだったそうです。少しして子供達が顔を出し、最後にリチャードさんが書斎に出て来たと云っています。他の人達の証言も同じようなものです」

 アレックスが、少し困った顔をして言った。

「お父さん達の方は、どうでしたか?」

「銃声がした時のハリーと志忠のアリバイが確認されたぐらいで、私達が知りたいものは何も映っていなかったよ」

 フレデリックは、監視カメラのビデオ・テープのことを話してやった。

「犯人は窓に影が映らないよう気を配っていたと思うし、照明と自分の位置関係も計算していたのだろう。だから、当然の結果かもしれない」

「これは推理小説でいう密室で、不可能犯罪の様相を呈してきましたね。ディクスン・カーが生きていたら泣いて喜びそうな殺人事件ですよ」

 推理小説が大好きなアレックスが、遠くを見るような目つきで言った。

モンローにも固く口止めして、屋敷へ帰り、フレデリックの申し出で、フレデリック、エドワード、アレックスの硝煙検査が行なわれた。レイの部屋を歩き回ったため靴の裏から少し硝煙反応が出たものの、衣服、髪、皮膚から硝煙は検出されなかった。犯人のリストから名前を削除しなければいけないからだ。

徹底した家宅捜査に関わらず、硝煙が付着した衣類等は現われなかった。ただマスター・キーの合鍵が、大ホールの背の高い灰皿の白い砂の中から発見され、これが計画的な殺人だということがハッキリした。いわゆる傍証だ。

ウォーカー警部など、警察関係者が見張りを残して引き上げ、フレデリック達が床についたのは時計の針が午前三時をかなり回った頃だった。


第三章 


「今朝は、どうも食事をする気にならないな」

 エドワードが、素直な感想を述べた。

「身内が三人も死んだんだから、仕方ないだろう。私達にはどうすることもできない」

 フレデリックが沈痛な面持ちで言った。

「マークとトニーのことを考えると胸が痛みます。でも、やっぱり二人とも男の子ですね。ショックを受けているようでしたが、反対に大人達を気づかっていましたもの」と、アレックスが、寝不足の顔で云った。

「さっき電話があったようだけど、何だったんだ?」

 エドワードがフレデリックに尋ねた。

「検視官からさ。やはり、レイはヘロインを摂取していた。体内からヘロインが検出されたようだ。これが、約六分の空白の時間を埋める鍵になる」

「どういうことですか?」

 アレックスが訊いた。

「最初に花瓶が割れたときが、カールがボウ・ガンで射たれた時間だろう。そして次に銃声と本棚が倒れる音がしたのが約六分後だ。もし、レイに正常な頭があったら、騒ぎ立てるだろう。それなのに大人しくしていたのは、ヘロインで眠っていたかラリっていたかのどちらかということになる」

「どのくらいのですか?」

「夢の中で遊ぶには十分だそうだ。カールが殺されたとき、起きていたか眠っていたかは不明だ。ただ、検視官の見解では常習者ではないということだ」

「それだけが救いですね」

「殺人者にはイエスも手を差し延べないさ」

 フレデリックのその言葉は心に染み入る響きを持っていた。

 

今日の朝食は、昨夜の晩餐の時のメンバーと同じだったが、みんな黙々と手と口を動かすだけの寂しいものだった。話題も昨夜のことは一斉口にせず、一言二言で会話が途切れるぎこちないものだった。

 三人の客は食事を早目に終えて、居間で今後の対策を話し合うことに決めた。

 その時、トマスが顔を見せ「FBIの捜査官がお見えです」と、慌てて取り次ぎにやって来た。

「こちらへ通してくれないか」

 ヘイワード長官が、すぐさま返事をした。

「なぜ、FBIが来たりするんだ? 殺人事件には、FBIは関係ないだろう」

 エドワードが、不審な顔をした。

「コカインさ。FBIは、レイの身辺調査を始めようとしていたらしい。これには、コロンビア人かパナマ人が関係しているそうだ。さっきFBIの副長官のオハラからも直々に協力要請があったよ。DEAとの合同捜査だそうだ」

「あのレイが麻薬の売人だった?」

 エドワードが動揺した声を上げた。

「エリオットとカールはどうなんだ?」

「わからない。オハラもそこまでは言わなかった」

 トマスが、FBIの一団を連れて来た。今回はなぜかDEAよりFBIが指揮を執るということだ。

 責任者は、三十代前半の中肉中背で黒い髪を丁寧にオール・バックに撫で付けた男だった。金縁眼鏡を掛けていて、東洋の修道士といった雰囲気を持っていた。

名前をキヨシロウ・タカギと言い、日系三世だそうである。

すぐ後ろに控えているのは紅一点の、これまた日系人の女性でキョウコ・ヤマグチと名乗った。背が高く、ショート・カットの髪が知的な顔立ちに似合っていて、一目で有能な女性だということがわかる。フレデリックは、すぐさまこの二人が恋人同士で強い絆で結ばれていることを見破った。

あとは二十代から三十代の精悍な白人の男達で、何事もてきぱきして卒がなかった。たぶん、アカデミーやクワンティコを優秀な成績で卒業したエリート達なのだろう。

二人が挨拶し合い、フレデリックがこの事件のことを説明していると、ウォーカー警部の一行がやって来たので、二人を引き合わせた。ハル、アレックス、キヨシロウの三人がこれまでの経緯を報告し合っているのを訊きながら、エドワードがそっと訊いた。

「一体、どういう取引をしたんだ」

「お互い相手の仕事には干渉しないで協力する。そして、抵触する場合は、今後の方針を相談して決めるというものさ」

「頭がいい交渉だな。果して、うまくいくかな?」

「大丈夫さ。あのタカギというチーフ、年の割には、物事を弁えている人間らしいからね」

「なるほど」

「ミスター・タカギ、君達は前からレイに目を付けていたのか?」

「いいえ。情報提供者から、信頼できる情報を入手したのが昨日のことなんです。捜査に取り掛かる矢先に、マーチンが殺されてしまったのです」

 日系人の捜査官は正直に捜査状況を話した。フレデリックには、オープンに手の内を晒した方がいいと判断したのだろう。

「昨日、きみ達がレイを尾行してくれていたら、犯人の正体がわかったかもしれないのにな。犯人は少なくとも二回、飛行カバン等を引き渡すためにレイに接触しているはずだからね」

「そうですね」

 ウォーカー警部も、溜息を吐いた。

「エリオットとカールは、関係していたのかい?」ヘイワード長官が訊いた。

「いいえ。彼等は関わっていないようです。マーチンも運び屋なんですが、トップクラスの人間に辿り着く糸口になるはずだったので私達が出て来たのです。マーチンは小遣い稼ぎで、この仕事に手を出していたようです」

「ハミルトン家の飛行機を使っていたんだな。とんでもない奴だ」アレックスが口を出した。

「きみ達が乗り出して来たのなら、レイはトップ・シークレットを握っていたというわけか!」

「それを繋ぐパイプですよ」

 フレデリックの問いに、タカギ捜査官は曖昧に笑った。

「君達は、これからどうするつもりだ?」

「この屋敷のマーチンの部屋と、スカースデイルに借りているというマーチンのフラットを家宅捜査するつもりです。この秘密のアジトの場所は、マーク少年に訊けばハッキリするでしょう」

「レイの部屋にあったパソコンやフロッピー等は、署に持ち帰って分析していますから、必要だったらおっしゃってください」と、ウォーカー警部が申し出た。

「うちにもコンピューターの専門家がいますから、そちらへ派遣しましょう」

 タカギ捜査官は先程の紅一点の女性を呼び、ウォーカー警部に引き合わせ協力を依頼した。

 ヤマグチ捜査官が刑事と供に署に向かい、様々な打ち合わせが整うと、男達が出て行きFBIとニューヨーク市警の合同捜査が開始された。

 まずハミルトン家の昨夜のメンバーが、居間へ呼ばれた。

 ハミルトン家の人達は、新たに加わった捜査官達が働いているのを横目で眺めながら、小羊のように大人しく部屋へ集まって来た。

「昨夜はあまり眠れなかったと思うけど、もう少し我慢してつき合って欲しい」

 フレデリックが、みんなを前にして言った。アレックスやウォーカー警部が、後ろに控えていた。タカギ捜査官は、隣の屋敷へマークの尋問をおこないに行っていた。

「それじゃ、さっそく質問するけど、図書室の本がすべて新品と入れ替えられたことについて、何か知っていることがあったら教えて欲しい。昨夜、志忠に訊いた話だと、それを命じたのはカールだったということだけれど……」

「その通りだ。一ヵ月程前に一冊残らず処分して新しい本を入れたんだ。なんでも新しい理論に関する書き込み何かをしているので、秘密を守るために焼却すると言っていたよ」リチャードが答えた。

「カールは、この家にスパイのような者がいると思っていたのか?」

 エドワードが、すぐさま訊き返した。

「そうかもしれない。カールは、少し神経質なところがあったからな」

「しかし、図書室には物理学や数字の本だけじゃなく、ありとあらゆる分野の本があったわけだろう。それらの本を処分すること自体おかしいと思わなかったのかい?」

「それは、思ったさ。しかし、すべての本を買い揃えた後だったので、余程の理由があると思って口を挟まなかったんだ。それに、私が金を出したんならともかく、カール自身が金を払ったんだから、文句を言う筋合いではないだろう?」

 エドワードがやんわりと口を挟んだ。

「カール自身が金を払ったのか?」

「ああ、そのことに関して、すべての手筈を整え、実行したのはカール本人だったはずだ。もっともレイも何やかやと手伝っていたけどね」

「レイが? 他には何か気づいたことは?」

「別にない。そのことは、それっきりになってしまったからな」

「他のみんなも、何か知っていることはないかい?」

 フレデリックが、みんなを見回して言った。

「私もそのことをカールさんに尋ねたんですが、取り付く島もありませんでしたわ」メロディーが口を開いた。

「何だか、あの時はそんなことを訊いてはいけないような雰囲気でした」と、ハリーが同調した。

「ぼくが訊いた時も、いらないことに首を突っ込むなと言わんばかりの顔をされました」

 陳志忠は、その時のことを思い出したのか、ブルッと体を震わせた。

「確かに、カールは本のことを訊かれるのが、いかにも迷惑そうな様子でしたね」チャールズが、三人を捕捉して言った。「色々な重大な書き込みをしていて、どれに書いたかわからないとは言っていました」

「重大な書き込みね?」

「トマスとシャーリーは、何か気づかなかったかい? 何だっていいんだ」

 ヘイワード長官が、部屋の隅の椅子に大人しく座っている二人に声を掛けた。

「さあ、私も本を運び出す時に手伝ったんですが、別に何も気づきませんでした」トマスが、椅子の腕を握ったり離したりしていた。緊張した時の癖なのだろう。

「私も同じです。それに、そんなことは私達が口に出すことではございませんし……」

 シャーリーは、少し考えて言った。

「ただ、カールさんは本を積んだトラックを見送る時に、小さな声で、“おしいような気もするが、秘密を守るためには仕方がない”と呟かれました」

「秘密を守るためか? なんだか含みのある言葉だね」

「しかし、そのことが昨夜の事と関係があるのか?」と、リチャードは、わけがわからないという顔をした。

「いや、何ともいえない。しかし、自然じゃないことは、すべて訊いておかないとね」

 フレデリックは、軽く躱した。たぶん、みんなの前ではこの問題には触れたくなかったのだろう。

「この中で、あの図書室を利用している者は誰々だい?」

「全員だよ」リチャードが簡単に答えた。「みんな図書室の本はよく読んでいるからね」

「みんなか? それじゃ、物理学と数学の専門書を使っているのは誰だい?」

「ハリー、メロディー、志忠、あとはトマスとシャーリーぐらいだな。もちろん、死んだカール、レイ、マービンも、よく読んでいたけれどね」

「トマスとシャーリーも?」

 フレデリックが、部屋の奥の二人を見ながら訊いた。

「ああ、二人ともインテリなんだ。トマスもシャーリーも物理学や数字だけじゃなく、暇があれば本を読んでいるよ。トマスは大学時代にジョニーの下で物理学を勉強していたし、シャーリーはジョニーに数学を教えてもらっていたんだ。だから、二人が専門書を読んでいても、不思議でもなんでもないんだ」リチャードが代わりに説明してやった。

「なるほどね」

 フレデリックは前にリチャードから訊いた話を思い出していた。シャーリーは、本当は大学へ進学したかったそうだ。それが家庭の事情でどうしても働かなければならなかった。女手ひとつでシャーリー達姉妹を育ててくれた母親が病気で入院したからである。それをジョニーが不憫に思って、シャーリーにマン・ツー・マンで学問を教えていたそうだ。

「そうか」

 アレックスは、これでカールに論文を提供していた人物の可能性が二人増えてしまったと、心の中で舌打ちした。

 ハミルトン家のみんなも図書室の本のこととこの事件がどう結び着くのかわからないにしても、カールの盗作問題に関係があると思ったのか、用心深く誰もそのことを口にする者はいなかった。

「この中で、飛行機、それもジェット機の操縦ができる者はいるかい?」

 フレデリックが、話題を変えて訊いた。

「ライセンスを持っていたのは、死んだカールとレイだけだ。もっとも、一年前に死んだジョニーも持っていたけど……。だから、いまジェット機を操縦できる者なんか、他にはいやしないよ」リチャードが断言した。

 ヘイワード長官は、ジェット機を操縦できるかどうか、一人ずつ順番に訊いてみたが、誰もがノーという返事だった。また、その表情、態度から証言が嘘か本当かは判断できなかった。

「それじゃ、ハミルトン家の誰かがジェット機を操縦できるのを見たり聞いたりした者はいないかい?」

「そんなことを聞くのは、いまが初めてだよ。それはきみも知っているだろう」

 この質問の答も否定的なもので、誰もが見ざる聞かざる言わざるになってしまったようだった。まるで、モンローが飼っているモンキーのように……。

「ハミルトン家の中で、カールやレイの飛行機やジェット機によく乗せてもらっていたのは誰だろう?」

「一番はやはり子供達だろう。それは、ジョニーが生きていた時も変わりはしない。後はたまに乗せてもらう程度だ。しかし、ジョニーが生きていた時は、みんなよく乗せてもらっていたよ。シャーリーやトマスも乗せてもらったことがあるはずだよ。もちろん、トマスはプロバスケット・ボールの選手の時だけれどもね」

「そうか、わかった」

「誰かジェット機の操縦ができる者がいるのかい?」リチャードが訊いた。

「その可能性は大きい。だけど、だれも名乗り出る者はいない」

 フレデリックは、ハミルトン家のみんなを見回しながら言った。

「ところで、今日はもう一つ悪い知らせがある。レイは麻薬の取引に関係していたらしいんだが、何か知らないか?」

「レイが麻薬に手を出していた? そんな馬鹿な!」リチャードが驚いた声を上げた。

「信じられない気持ちもわかるが、どうもレイはコカインの運び屋を遣っていたらしいんだ。ついでに、ヘロインもだけど。もうすでにFBIもDEAも動いている」

「ジェット機を使って、麻薬の取引をしていたんだな?」リチャードが訊いた。「そこで、他にも誰か関係しているのか?」

「いや、それはないと思う。カールやエリオットも、そのことには手を染めていないようだ。ただ、エリオットは、それをレイから分けてもらっていたらしい」

 ハミルトン家の他の連中の反応も、リチャードのそれと似たり寄ったりで、初耳だったようである。

 みんな、「何も知りません」という、お決まりの返事がかえってくるだけだった。

 ただ、シャーリーは、「一週間程前、図書室に入ると、レイさんとエリオットさんが喧嘩をしていました。エリオットさんが、“もっと薬を安くして欲しいんだ”と言うと、レイさんが、“そんなことをすると、値崩れしてしまいます。それに、ぼくには決定権がないんです”と答えたと思います。そして、言い争いが始まったのですが、私に気づいて黙り込んでしまいました。私も居たたまれなくなって図書室から出ました」と、答えた。

 フレデリックは、タカギ捜査官をみんなに引き合わせて、捜査の協力を要請した。


ヘイワード長官、タカギ捜査官、ウォーカー警部の三人は、鳩首協議をしていたが、結論が出たのか、ウォーカー警部が代表して言った。 

「それでは、これからもう一度みなさんの部屋を捜索させてもらいますから、恐れ入りますが、どうか立ち会ってください。それからリチャードさん、今度はこの屋敷を一センチ刻みで、隅から隅まで調べようと思いますが構いませんか?」

「なにも遠慮することはないから、君達の納得がいくまで徹底的に調べればいい」リチャードが穏やかな表情で言った。

 他のメロディー達も、あまりにも受けた衝撃が大きかったのか、不満を言う者は誰もいなかった。

「ありがとうございます。それから、みなさん、この後の家宅捜索のことは、すべてタカギ捜査官とラット部長刑事に任せてありますから、どうか二人の指示に従ってください。ここまでで、何か質問しておきたいことはありますか?」

「これから君はどうするんですか?」チャールズが訊いた。

「私の方は、これからヘイワード長官達と今後の捜査方針を相談して、この事件の分析を行ないたいと思っています。他には何か?」

 みんな黙ったままだったので、ウォーカー警部は、タカギ捜査官とラット部長刑事に後のことを頼んで、フレデリック達へ向き直ると「それでは隣の部屋にまいりましょうか」と促した。


 その時、ちょっとした愁嘆場が演じられた。マーガレットの母親のヘレンとエリオットの妻のエリザベスが帰って来たのである。エリザベスは、長身でボーイッシュな美人で、ショート・カットの金髪が勝気そうな性格を想像させた。ヘレンの方はといえば、よく太っていて、温和で暖かい感じを与える女性だった。

 エリザベスは、リチャードの顔を見ると、飛びついて来るなり泣きじゃくり始めた。リチャードは、そんな長女をやさしく抱き締めてやっていた。

 ウォーカー警部、アレックス、フレデリック、エドワードの四人は、そんな光景を後にして、隣の居間へ入って行った。

 部屋の真中のテーブルを囲んで置いてあるソファやチェアに適当に腰を下ろして、これまでに判明したことを話し始めた。

「まず、硝煙反応の検査のことですが、すでにアレックス先輩からお訊きになったこと以外に、付け加えることはありません。考えられないことですが、ハミルトン家のだれからも硝煙反応は出ませんでしたし、みんなの証言を総合すると銃声がした後では服を着替えたり、髪や顔や手を洗ったりする時間もなかったことがわかっています。犯人がしていたと思われる手袋も発見されていません。あの時は、ヘイワード長官もご存じのように、みんな秒単位で行動していました。このことは信じられないことだし、一番重要な問題なので、後で詳しく話し合うことにしましょう。たとえ他のことで犯人の目星がついたとしても、このことをうまく説明しないかぎり、犯人の首を絞めることはできませんからね。何か硝煙反応のことについて質問はありますか?」

「別に、いまのところはないな」フレデリックが言った。「エドワード、きみは何かあるかい?」

「いや、別に思い浮かばないよ」上院議員はウォーカー警部を見て云った。

「それでは、とりあえず、次の問題に移ることにします。さて、カール・ウィルソンの盗作問題ですが、これは女中のアマンダ・デ・ガデネットとドロシー・ストラットンの証言から、アレックス先輩がお知らせしたようなことが判明したわけです。最初にアマンダの証言ですが、彼女は今年の夏にカール・ウィルソンとレイ・マーチンが言い争っているのを聞いています。たぶん、八月の終わりだと言っていました。その内容は、一部だけですが、まず、レイ・マーチンが『もっと自分に入る金を増やして欲しい』と言ったのに続いて、『お前も共犯なんだから、いま以上の金額を渡すことはできない』とカール・ウィルソンが答え、それに対してレイ・マーチンが『ぼくの言っているのは、そんなことではありませんよ。あなたが論文を盗作していることへの口止め料です』と、云っていたそうです。アマンダは二人の余りにも激しい調子にびっくりして、木の陰で身を竦めていたんですが、後は声が小さくなって聞き取れなかったと云っています。また、ドロシーの方ですが、こちらは二週間程前に地下室の階段の角で立ち聞きしてしまったそうで、レイ・マーチンの『もし、彼(女)が、これまでのように論文を提供しなかったり、誰かにそのことを話したりしたら、どうするんですか?」という言葉に続いて、『あいつは私の言いなりになるし、この屋敷で一緒に生活しているんだから十分目が行き届くさ』というカール・ウィルソンのてんで問題にしない声が聞こえて来たそうです。しかし、彼女はなんだか聞いてはいけないようなことだったので、すぐに立ち去ったと言っています。彼女が言うには、レイの発音がHEかSHEかよく聞き取れなかったそうですが、自分はHEだと思ったそうです。二人とも、カール・ウィルソンとレイ・マーチンの言葉がそっくり同じだったという自信はないそうですが、二人の話の内容は保証できるようです。そして、二人ともこのことを自分の胸だけに仕舞っていて、誰にも話さなかったといっています。もちろんこちらの方は当てになりませんが」

ウォーカー警部が報告した。

「ここで、まずアマンダの証言から、カール・ウィルソンが誰かから論文を盗作していたことが確かめられます。またマービンの死んだのが一ヵ月前なので、ドロシーの証言から、論文を盗作していたのはマービンからではなく、この屋敷に住んでいる他の誰かからだということがわかります」

「筋道が通っているな」エドワードが言った。

「面白いことに、アマンダが潜んでいた時、すぐ近くをメロディーが通ったと言っていました」

「ということは、メロディーもその話を聞いた可能性がありますね?」

 アレックスが、思い付きを口にした。

「しかし、メロディーはそんなことは一言もいわなかったよ」エドワードが、さっきの訊き取りを思い出しながら言った。

「もしそうでも、きっとわけがあるに違いない」

 フレデリックは、そう言って考え込んだ。

「あの問題の遺書の中で、犯人はカールに論文を渡していたのはマービンだと指摘していましたが、そうではないとすると、一体どういうことを意味しているのでしょうか? 果して、論文の提供者イコール犯人という構図は成り立つのでしょうか?」ウォーカー警部が、自分の意見を述べた。

「あの遺書に書かれていることからみても、犯人はカール・エリオット、レイの秘密をよく知っている人物のようだから、当然カールに論文を渡していた人物の名前を知らないはずがない。それなのにマービンだと故意に嘘を言っているんだから、よほどの理由がない限り論文提供者=犯人とみていいんじゃないかな?」と、アレックスが答えた。

「でも、それは推論でしかない!」

 エドワードが、ハミルトン家のみんなを庇った。

「もしそうだとすると、論文の提供者も隣の部屋にいたことになりますが、なぜ適当な理由をつけて名乗り出なかったのでしょう? たとえば、簡単なところでお金を貰うことになっていたとか云っておけば、十分説明がつくし納得させることができます。その方が、わざわざ後に傷がつかなくてよかったはずです」ウォーカー警部が、納得できないという顔をした。

「それは言えているな。たとえ、論文提供者=犯人だとしても、この二人を繋ぐ糸はないのだから(少なくとも今のところわかっていない)、マービンの替わりに自分の名前を使う方が不審に思われることはないし、余程自然に見える」フレデリックが口を開いた。

「まだ私達が発見していないだけで、きっと犯人と論文提供者を結びつけるリングがあるんですよ」アレックスが、思案げに言った。

「水を差して悪いんだが、犯人と論文提供者がまったくの別人で、犯人は何らかの理由でカールに論文を渡していた者を庇って、マービンの名前を使ったとは考えられないかい?」エドワードが、新しい可能性を述べた。

「そのことは問題にしなくてもいいと思います」アレックスは、その質問を待っていたとでもいうようにニッコリした。

「どうして、そんなにハッキリと言えるんだ?」と、エドワードは訝しげにアレックスを見つめた。

「そこまでやる必要がないからです」アレックスが答えた。「たとえ何らかの理由で庇うにしても、カール達三人が死んでしまっているから何とでも言訳できますからね。あの遺書に本当の名前を書いて、後は本人に任せておけばいいんです。もし必要なら、適当な理由を加えておけばいいでしょう」

「犯人はカールに対する憎しみが強かったから論文の盗作のことも書いたんだろうが、もし何らかの理由で論文提供者を庇うんだったら、その問題は敢えて取り上げなかったんじゃないかな? 二人が別人なら、犯人には論文提供者が、自筆の論文とかいった物を残しているかどうかわからない。だから、犯人は遺書にマービンと書かないで本人の名前を書いただろうね」

 フレデリックが、窓の外の雪景色を見ながら言った。昨夜降り出した雪は、すでに午前二時頃には降り止んでいた。

「裏を返せば、マービンという名前を使ったのは、彼が死んで何も言えないからだろうが、これは論文提供者と個人とを結びつけるものがないと知っていなければできないことだ。だから、このことは事前に犯人がそれらのものを処分したことを意味していると考えられないかい? それらのことを総合すると、犯人と論文提供者が同一人物の可能性が強いんじゃないか?」

「なるほど! どうやら犯人=論文提供者と考えてもいいみたいだな。しかし、それでも依然、なぜ適当な理由をつけて名乗り出ないかという問題は残っているわけで、犯人が論文提供者ならば猶のこと、その謎……はクローズ・アップされて来るだろう。それで、この問題だが、論文提供者はカール達に過去の犯罪とかの秘密を握られていたから、名乗り出られないんじゃないだろうか? そのことは、取りも直さずカールに論文を渡していた理由にもなるんだけど……」と、エドワードが、新しい可能性を述べた。

「それはあるかもしれませんね」アレックスが穏やかに言った。「ドロシーの証言の中のカールが云った言葉を考慮すれば、それはカールに論文を与えていた理由とも考えられます。しかし、これもカール達が死んでしまった今となっては、何とでも証言できますからね。さっきも言ったように、後で金を貰うことになっていたんだ、というような偽証をしても、誰もそれを否定できませんし、それが嘘だと証明することもできませんよ」

 それは穏やかな否定だった。

「たとえば、レイの言うような、何か証拠が残っていたとしたら、どうだろう?」エドワードが食い下がった。

「それは話になりません」

 アレックスは問題にもしなかった。

「なぜ?」

「普通、証拠といえば、誰か個人と犯罪なり秘密なりを結びつけるものでしょう。それなのに、誰だかわからない論文提供者と犯罪を繋ぐ証拠なんて考えられません。だから、自分が論文提供者だと名乗っても、なんの損もないでしょう」

「それは言えているな。どうやら、その考えも捨てた方がいいみたいだ」エドワードも、ついに折れた。

「話は少し逸れますが、やはり論文提供者が誰かということと、カール・ウィルソンが図書室の本をすべて新しい本と入れ替えたことは、密接な関係があるのでしょうか?」

 ウォーカー警部が訊いた。

「さっきも少し触れたけど、論文提供者の正体を隠すために、そうしたと考えるのが妥当なところだろうね」フレデリックが、自分の考えを口にした。

「いままで議論してわかってきたことを考慮すると、どうもカールが自分から進んでしたと考えるよりも、論文提供者がカールに入れ知恵をして、そうさせたとみる方がいいんじゃないかな?」と、アレックスもウォーカーの方を見て言った。

「この事件の起こる前に、そのことをやってのけたことを考慮すると、やはり犯人の意志が働いていたと思われるね。それに、犯人にとっては、あんなに目立つことはしたくなかったはずだ。だけど、そうしなければならなかったことから考えて、非常に大きな理由というか秘密があったとみていいんじゃないか?」フレデリックが付け加えた。

「数にして数万冊、金額にして何十万ドルという本を灰にしたんだから、余程の理由があったのか気が狂っていたかのどちらかだよ。普通の神経の持ち主だったら、そんなことはやりはしないさ」エドワードの口振りは、当然のことだと言わんばかりの調子だった。

「そんなにも多かったんですか?」

 ウォーカー警部は図書室の本の数や金額が予想以上だったので、ビックリしたみたいだった。

「それじゃ、余程の理由があったのに違いありませんね。その理由というのは、普通考えられるところでは指紋とか書き込みのためですね」

「さっき訊いたように、みんな図書室を利用しているんだから、本に彼等の指紋がついていても何の不思議もないだろう。それに、物理学と数学の専門家じゃない者もいるけど、さっき訊いた時に、興味があるから読んでいると言っておきさえすれば、指紋のことは十分説明がつくだろう? だから、すべての本を処分したのは指紋のせいじゃないとみて間違いないね」と、アレックスが決めつけるように言った。

「しかし、書き込みといったって、何万冊にも及ぶすべての本に書き込みをしているわけではないだろう。もし書き込みのせいなら、それらの本を処分するだけでよかったんじゃないのか? その方が目立たないで済むし、犯人に取っても最善のはずだ。だから、書き込みのせいでもない気がするね。どの本に書いたかわからないからだと言い訳しているけど、子供騙しのウソだと誰でもわかるよ。その可能性はあるけどね」エドワードも負けずに言った。

「指紋でも書き込みでもないとしたら、一体どういうことになるんですか? 私には想像もつきませんよ」

ウォーカー警部は明らかに困惑してしまっていた。

「いずれにせよ、物理学や数学の本だけでなく、全部の本を処分したことに秘密が隠されていると思うね。だから、そのことと、なぜ論文提供者は自分だと名乗り出ないのかということがわかれば、この事件は半分解けるんじゃないかな?」

 フレデリックが、自分の勘を述べた。

「ハル、きみのことだから、ヘレン達からも証言を取っているんだろうな?」

「はい、でも、ヘレン、エリザベス、マーガレットさんも何も知りませんでした。あの人達の相手をするのには、大変気を使いましたよ。まるで、時限爆弾をいじっているみたいでした。彼女達が、真の意味での被害者かもしれませんね」

「ありがとう。リチャードに代わって礼を言うよ」エドワードが、労りの表情を見せて言った。

「当然のことをしただけですよ」

ウォーカー警部が言った。


「それでは、次は飛行機の問題に移ることにしますが、このジェット機を操縦できる人物というのも皆目見当がついていません。昨夜の訊き取りの時にも尋ねてみたんですが、誰もジェット機はおろか軽飛行機も操縦できないと言っていますし、またハミルトン家にカール・ウィルソン、レイ・マーチン以外に飛行機を操縦できる者がいるということは聞いたこともないそうです」ハルはメモを見ながら、「それから、飛行場関係者の話ですが、問題のジェット機が飛び立ったのが午前十二時十六分で、帰って来たのは午後三時二十七分だそうです。また、ハミルトン家の個人が軽飛行機なりジェット機に乗る時は、管制塔から遠く離れた専用の滑走路を使用し、前もって飛行機をその場所に置いておくとのことです。細々した指示は電話や飛行機の無線を使って行っていたそうです。タラップは自分で上げ下げできます。ちなみに、この習慣はもう一年近く前から続いているそうです。今回も整備員は、パイロットや乗務員の顔を見ていません。カールやレイが飛行機を利用する際は、電話で手続きや手配をすることになっていて、今回もレイ・マーチンが電話したと言っていました。係員は毎回のことで声を覚えており、確かに本人に間違いなかったということです。彼等は滑走路の西にある駐車場へ通じる門から出入りするそうです。その付近は人気がなく、ガード・マンもいなくて、犯人はうまく計画を実行できたようです。昨日も、はっきり目撃した者は出て来ていません。しかし、管制官の話では、無線から流れてきた声はレイ・マーチンの声のようだったと証言しています。断定はできないと言っていましたが」

「何だって! 無線の声はレイだったというのか?」

 それまで大人しく話を聞いていたフレデリックが、驚いて口を挟んだ。

「短い会話ですから、誤魔化そうと思えば可能ですよ。それに、変声器を使えば、ある程度真似できます。筋委縮症で喋ることができないホーキング博士も音声合成装置で話をする時代ですよ。現代のハイテク技術をもってすれば、声の質をレイ・マーチンに似せることぐらい朝飯前のことです。口調は練習すれば真似ることができるでしょう」

 科学の信奉者であるウォーカー警部がいった。

「ハミルトン家の個人用の飛行機の責任者はトンプソンという男ですが、警察だということでひどく警戒して何も知らないの一点張りでした。しかし、殺人事件の捜査だと脅してやりますと、やっと重い口を開きました。トンプソンの話だと、時々飛行計画に記載されていない第三者が一人で飛行機に乗っていたことに薄々気づいていたそうです。しかしそれが誰なのか知らないと言っていました。また、そのことを黙っていた理由を問い質しますと、自分はハミルトン家に雇われている身だし、レイから釘を刺されていたので、なるべく首を突っ込まないようにしていたとのことです。私の感じでは、トンプソンはレイから金を貰っていて、進んで秘密を守ることに協力していた模様です。ひょっとしたら、麻薬の密売のことも知っていたのかもしれません。それで、目を背けていたとも考えられます。レイと一緒に飛行機に乗るコロンビア人の顔を見たりしたら、ヤバイことになりますからね。たぶん、それで私達に話をするとき必要以上に怯えていたのでしょう。もう一度刑事をやって締めあげてみようと思っています」

 ウォーカー警部は続けた。

「今回も、いつもどおり整備員はパイロットに顔を合わせていません。乗組員は一人だったかどうかさえわかっていません」

「犯人だな?」と、エドワードが口を挟んだ

「目撃者は?」アレックスが訊いた。

「カートを運転していた作業員と別の飛行機をみていた整備員が名乗り出ています。しかし、二人とも遠くから、駐車場へ向かう後姿を見ただけです。それに、ずっと目で追っていたわけではないし、比較する対象物はジェット機しかないので、身長が普通より高かったか低かったかなどということまではわからないと云っています。それに靴やヒールでだいぶ身長は変わってしまいます。いわゆる機長の服で、髪の色などは帽子を被っていたので判明していません。目撃したのはひとりだけで相棒はいなかったと証言しています。男か女かわかりませんが、その人物が持っていたのは、大きな黒い鞄ひとつだったようだと、一人の目撃者が証言しています」

「飛行カバンは、どうしたんだ? レイは、それを持って屋敷を出入りしていたんだろう?」フレデリックが訊いた。

「一旦、あの大きな黒い鞄に入れたんじゃありませんか? 無理をすれば入るように思いますが……」と、アレックスが少し考えて言った。

「そんな必要があったのかな?」フレデリックがウォーカー警部を見た。

「おいおい、そんな細かいことはどうでもいいじゃないか! 犯人が、その後レイに渡したことは確かなんだから……」

 エドワードが、あきれた顔をした。

「レイがジェット機を操縦して、犯人は同乗していたんじゃないかな? カールでもいい。チェスの駒が替わるだけで、別に問題は無い」

「その可能性もあると思う。私達は、この事件がレイ以外の者によって企まれたと考えた時から、一から十までその謎の人物がやったという先入観に捕われてしまっていたからね」フレデリックが言った。

「しかし、目撃者の話では、一人だったそうです」ウォーカー警部は、否定した。

「それに、犯人がインディアナポリスの格納庫でエリオットを射ち殺しているんですよ。レイに知られずに、そういうことをするのは難しいんじゃないですか?」

 アレックスが、同調して言った。

「確かに、一人だけだったんだね?」

と、エドワードが念を押した。

「断言はできませんが、二つの飛行場とも他の人間を見た者はいません」

「それに、トンプソンの言うことが本当なら、ハミルトン家の中に少なくとも、もう一人ジェット機を操縦できる人間がいますよ」

 アレックスが、示唆した。

「その人物が犯人であると考える方が、筋に合っていると思います」

「もし犯人イコールジェット機の操縦できる者なら、その間レイ・マーチンは何処にいたのでしょうか?」ウォーカー警部が訊いた。「犯人にとっては、その間レイに人前に顔を現わされては困るはずです」

「もしかしたら、副業に精を出していたのかもしれないな? 犯人もそれを知っていたとしたら辻褄が合う」フレデリックが言った。

「もうひとつ秘密のアジトを持っていた可能性もある。そちらの方は、タカギ捜査官が突き止めてくれるだろう」

「もし、変声器を使ったならば、犯人はこんなにも早く警察がレイの死を他殺だと判断して動くと考えてなかったはずだから、まだそれを処分していないかもしれない。だから、ジェット機や研究所の中とかを徹底的に調べる必要がある」アレックスがウォーカー警部の方へ目を遣った。

「はい、もちろん、考えられるところは隈なく捜索することにしています」

「でも、これまた自分がジェット機を操縦できると名乗り出なかったんだろうか? 図書室の本の場合と同じ考え方でいいのかな?」エドワードが疑問を述べた。

「犯人だからですよ。自分にわざわざ疑いの目を向けさすことはありません」アレックスがすぐに答えた。

「たしかに、こちらの方の言い訳は難しいようだな。まかり間違えば、命取りになる」

 エドワードが、納得して言った。

「いままでのことを纏めると、犯人Xイコール論文提供者イコールジェット機の操縦ができる者という関係が成り立つのかな?」

「これまで議論した結果、犯人X=論文提供者、犯人X=ジェット機の操縦ができる者という二つの等式が成り立つと見るのが妥当だと思います。だから、当然そう思っていいでしょう。だれも、自分が論文提供者だともジェット機の操縦ができるとも名乗り出ていないんですから」アレックスが言った。

「犯人X=論文提供者=ジェット機の操縦ができる者か? まるでこの事件の犯人は透明人間(Invisible Man)だな」

 エドワードが言った。

「それとも、そんな人物は初めからいなくて、犯人は良心の呵責に耐えかねたレイ・マーチンなのかも」

 彼もまた、リチャードと同じで、レイが犯人で自殺ということで事件が終わって欲しいのだ。そうすれば多少の疑惑は残るが、円満に事件が終結して、だれも傷つくことはない。おかしな表現だが、それが一番ハッピー・エンドなのだ。しかし、アレックスは考える。自分は警察官で、みんなに公正で、真実を突き止めなければならないのだと……。

「カール・ウィルソンとレイ・マーチンが、図書室やジェット機のことに対して、いろいろ協力して進んで秘密を隠蔽しようとしていたことは明らかです。その理由は、やはり論文提供者とジェット機の操縦ができる者が同一人物だから、便宜を図ってやったとみるのが一番あり得ることじゃありませんか? それにレイ・マーチンの副業のこともある」

 ウォーカー警部が、したり顔で言った。

「それは、論文提供者イコールジェット機の操縦ができる者ということだな。つまり、論文提供者だから、我儘を許して飛行機に乗る手配や手続きをしてやった。そして、ライセンスを持っていないから、秘密にしておく必要があったんだ。もしかしたら、麻薬の密輸にも関与していたのかもしれない。これは、単なる憶測にしか過ぎないけれどね」エドワードが説明した。

「麻薬の運び屋ではないと思います。それは断言できます。犯人はジョニーの復讐とマーガレット、マーク、トニーのためを思って、この三重殺人事件を起こしたんですよ。そんな清廉潔白な人間が麻薬に手を出すはずがありません。犯人が聖人だとは言いませんが」と、アレックスは、あろうことか犯人を庇う発言をした。哀れなマーガレット、マークとトニーの子供達のことに思いを馳せたのだろう。

「少しわからない点もあるけど、だいたいその線に沿って考えていこう」フレデリックが息子の気持ちを忖度して言った。

「わからない点というのは、どんなことだい?」

「誰もすぐわかる嘘を吐くはずはないから、みんなが軽飛行機やジェット機のライセンスを持っていないというのは本当だと思う。だから、ここで問題になって来るのは、なぜ犯人はライセンスを取らずに、いつもあんな面倒な方法で飛行機に乗っていたかということだ。少なくともカールやレイ達は、違法を承知で飛行機に乗せるより、ライセンスを取ることを勧めるだろうし、普通ならライセンスを取らせたんじゃないのかな?」

「なるほど、これまた余程大きな理由がない限り、そうするでしょうね」ウォーカー警部が同意した。それとも、麻薬の運び屋とするために秘密にした方が、都合がよかったのかも? 先輩は、お気に召さないかもしれませんが」

「カールやレイ達へ、犯人が何らかの理由をつけて説得したと見ることができるから、それはないと思う。それに麻薬の売買は重罪だからね。カールも、レイの副業のことは知らなかったんじゃないのかな? カールは、レイと違って大金持ちなんだから、そんな大きなリスクを犯してまで小遣い稼ぎをする必要はない。見てみぬ振りはしていたかもしれない。ジョニー殺しの仲間なんだから。そこで犯人側の理由だが、誰にも見られずに飛行機に乗れるような習慣を作ったのは一年程前だというから、その時からジョニーの復讎を考えていたんじゃないのか?」エドワードが言った。

「それは考えられません。なぜなら、一年前にエリオットが昨日インディアナポリスに視察に行くことは予定に入っていなかったはずで、ジェット機を殺人に利用するなんてことは夢にも思わなかったはずだからです。それに、私には犯人がそんなに早くジョニーの事故が殺人だと知ったとは思えないのですが、いかがでしょうか?」

ウォーカー警部が口を挟んだ。

「もっともだね。それじゃ、ごく簡単なところで、面倒だからライセンスを取りにいかなかったんじゃないかな?」

「カールやレイを説得し、あのような方法で飛行機に乗る方が大変ですよ。でも、こちらも図書室の本と同じく大きな理由があったのに違いありません。でも、確かに麻薬の密売には関係ないと思いますよ。犯人の倫理観にもよりますが」

「だけど、ライセンスを取る程の実力はなかったけど、操縦はできたのかもしれない。だから、あのような方法をとったとも考えられる」エドワードが、再び意見を述べた。

「これまた難しい問題ですね。ひとまず、そのことは置いておくとして、犯人が誰から飛行機の操縦を習ったかということですが、一年前に死んだジョニー・ウィルソン、昨日殺されたカール・ウィルソン、レイ・マーチンの三人の内の誰かからとみてもいいのでしょうね?」ウォーカー警部が、訊いた。

「みんなが、飛行機の操縦はできないと否定していることから考えて、犯人は秘密に習っていたのに違いない。だから、ハミルトン家で飛行機の操縦ができたジョニー、カール、レイの三人の内の誰かから学んだ可能性は大きいんじゃないかな?」

フレデリックが答えた。

「みなさんの過去を洗ってみるとともに、誰か彼等三人と飛行機によく乗っていたかということも調べ直そうと思っています。それから、もう一度、ヘレン、エリザベス、ナンシー、マーガレットさんにも当たってみるつもりですが、彼女達は事件にはかかわっていないとみてもいいでしょうね?」ウォーカー警部は他の三人を見た。

「それは請け負ってもいいよ」フレデリックが断言した。

「犯人=論文提供者=ジェット機の操縦ができる者と断定してもいいと思えるから、あの時この屋敷にいた人物だけを考えればいいと思うな」

アレックスが付け足した。

「しかし、犯人は“自分がカールへ論文を提供していた”ことや“飛行機を操縦できる”ことを、ハミルトン家のみんなによく隠し通してこられたね? 同じ屋根の下で一緒に生活しているんだから、不可能でないにしてもかなり難しいことじゃなかったのかな?」

エドワードが訊いた。

「一人だったら難しいだろうが、ハミルトン家にはカール、レイ、エリオットという強い味方がいたし、飛行場にはトンプソンという協力者がいたし飛行場のみんなも見て見ぬ振りをしていたようだから、本人さえその気になれば隠しおおすことができたはずだよ」とフレデリックが答えた。

「なるほど、本人も含めて四~五人、若しくはそれ以上の人間が協力すれば問題じゃないかもしれないな」

「この事件の犯人が二人以上の可能性はあると思いますか?」

ウォーカー警部が、この事件の重要な部分に触れた。

「私の勘では、この事件のタイプからして一人の人物の仕業だという気がするよ」フレデリックが言った。「それに、犯人はズバ抜けて頭の良い人間のようだし、そのような人物は通常共犯者を持たないのが普通だ。もちろん、共犯者がいるという可能性も捨ててはいけないけれどもね。それが、推理小説の鉄則だ」

「これまでいろいろ理論的に分析してきたことを考え合わせると、犯人が一人である可能性は大きいと思うな」エドワードも自信を持って言った。

「たとえ共犯者がいたとしても、これまで議論してきたことから、犯人=論文提供者=ジェット機の操縦ができる者という関係は崩れたりしないさ。だから、カールに論文を渡していた者やジェット機を操縦できる者の名前がわかれば、その人物が犯人の一人であることに変わりはないよ」アレックスは、そんなことは余り問題ではないといった調子で言った。

「なるほど」

 ウォーカー警部が頷いた。


 午後三時頃、ハミルトン家のみんなのアリバイ調査の結果がだいたい出たため、フレデリック達は居間でそれらを分析することにした。

「アリバイ調査はアレックス先輩に受け持ってもらいましたので、先輩から報告してもらいます」ウォーカー警部が切り出した。

 アレックスは、「昨日の昼間と銃声がした時にアリバイがあったのは」と、昨夜フレデリックとエドワードに報告したのと、ほぼ同じことを繰り返した。そして、小脇にかかえていたノートを取り出すと、最初のページを広げて二人の方へ差し出した。

「このノートには、このハミルトン家の人々の、昨日教会で解散してから帰宅するまでと食事が終わってから銃声がするまでの行動を証言に基づいて要約していますから、どうぞ見てください。もっと詳しいものが必要でしたら、刑事に逐一ノートさせた奴がありますので持って来ますが、どうしましょうか?」

「いや、それには及ばない。お前がだいたいのことを説明してくれるだけでいいよ」

 フレデリックとエドワードがノートを覗き込むと、そこには訊き取りの結果、ハミルトン家のみんなが申し立てた行動が整然と書かれていた。


リチャード・ハミルトン

  午前一一時半頃から午後四時半頃までは、ここから車で約三〇分のところにあるハミルトン・コーポレーションの本社ビルにいた。午後一二時から午後四時まで、副社長のコールドウェル氏と昼食及び仕事の相談をしていた。午後五時七分、チャールズと一緒に帰宅する。晩餐が終わってから午後八時五分頃までは、二階の部屋でフレデリック、エドワード、アレックスの三人と雑談をしていた。午後八時一〇分頃から銃声がした(午後九時三一分)までは、書斎で市長に電話していた。


「副社長のコールドウェル氏は、昨日の午後はずっとリチャードさんと一緒にいたと証言しています。また、本社ビルの中でリチャードさんを見かけた証人も何人もいます。電話の件は、市長に確認したところ、リチャードさんの話を裏付けています。電話から流れる銃声も聞いています」


 チャールズ・ハミルトン

  午前一一時半頃から午後四時半頃までは、リチャードと同じくハミルトン・コーポレーションの本社ビルにいた。ずっと社長室に籠もって書類に目を通していた。午後十二時十分頃に食堂から昼食を頼む。午後三時頃に、秘書がコーヒーを持って来たので、少し雑談する。午後五時七分にリチャードと一緒に帰宅する。晩餐が終わってから、ナンシー、子供達と一緒に、隣の自分の屋敷に帰っていた。午後八時四〇分頃から午後九時一〇分頃までは、忘れ物を書斎に取りに来て、ついでに居間でシャーリーに入れてもらったコーヒーを飲んでいた。午後九時一〇分頃から銃声がするまでは、隣の自分の屋敷に帰っていた。


「本社ビルの食堂のウェイトレスとチャールズの秘書からも、ちゃんと裏が取れています。後半の夜の証言も、あの時はシャーリーが相手をしたそうで、確認されています。席を外したのはコーヒーを入れに行った十分程なもので、ずっと話をしていたわけではないそうですが、絶えず視界には入っていたと言っていました」


 ハリー・ストーン

  午前一二時過ぎに、パンナム・ビルの一階にあるレストランで食事をした。午後一時過ぎから午後三時前まで、メトロポリタン博物館の近くにある医院にいた。午後四時一六分過ぎに帰宅する。晩餐が終わってから、午後八時五〇分頃までは自分の部屋で音楽を聴いていた。午後八時五〇分頃図書室に行き、銃声がするまで、ずっと志忠と一緒にいた。


「レストランのウェイターからも医者からも、アリバイが証明されています。夜のアリバイについても、お父さんとエドワードさんが監視カメラのビデオ・テープで見た通りで、志忠からも一緒にいたという証言を得ています」

「医者にかかっていると言ったけど、ハリーはどこか悪いのか?」

「いいえ、定期的な検査で、毎月やってもらっているそうです。運動選手は健康管理に厳しいんですよ」


 陳志忠

  午前一一時過ぎから、トニーと一緒に、車で四〇分程の距離にある遊園地に行って遊んでいた。午後四時三八分に帰宅する。晩餐の後は、図書室で調べ物をしており、午後八時五〇分頃ハリーがやって来て、銃声がするまで一緒にいた。


「この遊園地行きは、トニーに前から強請られていたもので、トニーも前から楽しみにしていたそうです。遊園地では片っ端から一緒に乗り物に乗っていて、係員も覚えていました。夜のアリバイは、ハリーと同じで完璧です」


 メロディー・アンダーソン

  午前一一時過ぎから、午後四時五三分に帰宅するまで、ロングアイランドをドライブしていた。バスケットにサンドウィチと飲み物を入れて持って行ったので、何処にも寄っていない。晩餐が終わってから、自分の部屋で本を読んでいた。午後九時一五分頃食堂へ飲み物を取りに行き、そこで夜食を食べに来たトマスと会う。九時二二分頃から銃声がするまで、大ホールでシャーリーと話をしていた。


「昼のアリバイは全然ありませんが、飛行場の付近で彼女を見かけたという目撃者もありません。夜のアリバイは、午後九時一五分頃部屋を出て、大ホールで掃除をしているシャーリーに挨拶し、食堂へ入っています。この間二~三分。トマスと一言、二言、言葉を交わし、缶ジュースを持って、食堂を出たのが、午後九時二〇分頃。それから、銃声がするまで、シャーリーと立話をしていました」


 トマス・ロイド

  午前一一時過ぎから午後四時二分に帰宅するまで、車で海を見に行っていた。午後一時頃、昼食をとりにレストランへ行く。海岸では犬を連れた少女を見かけたが、場所はよく覚えていない。夜のアリバイは、晩餐が終わってから、午後八時三〇分頃までシャーリーと一緒に後片付けや雑用をやっていた。午後八時三〇分から午後九時頃まで自分の部屋へ戻って休憩をとっていた。午後九時過ぎに食堂へ行って休んでいた。午後九時二〇分頃、メロディーが食堂に来て、飲み物を持って出て行く。銃声がするまで、ひとりで食堂にいた。


「トマスの話の中に出てくる犬を散歩させていた少女というのは、まだ見つかっていません。これまた、昼間のアリバイはないのも同然ですが、飛行場の付近でトマスらしき者を見たという有力な証言は得られていません。午後九時二〇分過ぎのアリバイはメロディーによって証明されています」


 シャーリー・アンカステル

  午後一二時頃から午後三時頃までは、会う約束をしていた友達が急に病気になったため、メトロポリタン博物館、グッゲンハイム美術館、近代美術館と、美術館巡りをしていた。午後三時五〇分帰宅。晩餐が終わり、午後八時三〇分頃までトマスと仕事をしていた。午後八時四〇分頃から午後九時一〇分頃まで、チャールズが来たので相手をしていた。その後は、大ホールで子供達の落書きを消していた。午後九時一五分頃、メロディーが出て来て、食堂へ行く。午後九時二〇分頃、カールの部屋で花瓶が割れるような音がした。午後九時二〇分過ぎに、大ホールへメロディーが帰って来て、銃声がするまで一緒にいた。


「この日の美術館は込んでいたようで、係員達もシャーリーの顔を覚えていません。午後九時過ぎのアリバイは、チャールズやメロディーによって確認されています。もちろん、飛行場の近辺にシャーリーは現れていません」


 レイ・マーチン

  午前一一時過ぎに、ここから車で二〇分のアパートへマークを連れて行き、午後四時過ぎに迎えに行くまで不明である。晩餐が終わってからは、自室にいた模様である。


「マーク少年は、レイと男の約束をしていたようで、最初一緒に映画を観ていたの一点張りでしたが、レイが死んだことを打ち明けますと、やっと重い口を開いてくれました。晩餐が終わって、自室に引き上げてからは、そこから出ていません」

「マークは、レイが昼間何処にいたか知らないのか?」

「レイは、“大事な約束がある”と言っただけで、それ以上は何も話さなかったようです」

「“大事な約束”か? 誰かに会っていたんだな」

「飛行場付近の訊き込みも、あまり芳しくなく、ハミルトン家の誰かを見たという報告は入っていません」

「レイも、また然りというわけか」

「もしかしたら、犯人はレイと一緒にインディアナポリスまで飛んで、レイの隙を見てエリオットを殺した可能性だってあります」

「それより、レイひとりの単独犯と考える方が、筋が通っているんじゃないかな? 航空管制官の話によると、ファルコン一〇は機長一人で飛ばせるらしいからね」


 カール・ウィルソン

  午前一一時過ぎから午後七時一二分に帰宅するまで、研究所の自室で研究していた。晩餐が終わってからは、自室に籠っていた。


「昨日はみんなに、研究所へ行って仕事をしてくると言っていたそうです。休日でだれもいませんでしたが、警備員が出帰時間を確認しています。ただ、電子キーさえあれば非常口等から誰にも見付からず自由に出入りできますので、ずっと中にいたかは証明できません。晩餐後は、レイと同じく誰にも姿を見られていません」


「それから、一応形式的にマークとトニー達の行動も調べておきました。参考になるでしょう」


 マーク・ウィルソン

  午前一一時過ぎから午後四時四六分帰宅するまで、レイのアパートにいた。本を読んだり、ゲームをしたりしていた。晩餐が終わると、自分達の部屋へ帰り、午後八時三〇分頃までスティーブ、ポール、トニーと遊んでいた。午後八時三〇分頃、スティーブとポールが隣の屋敷に帰ったので、銃声がするまでトニーに勉強を教えていた。勉強を教えていた時の声をテープ・レコーダーで録音している。


「レイがマークをアパートへ送って行き別れたのが午前一一時四〇分頃、再び迎えに来たのか午後四時頃だそうです。マークとトニーが言うには、確かに午後九時二〇分頃隣の部屋でガチャンという花瓶の割れる音がしたそうです。この音は、マークがテープ・レコーダーで拾っています。これは、昨日カールに買って来てもらったカセット・テープの性能を試そうとして、マークがトニーに勉強を教えているところを録ったものです」


 トニー・ウィルソン

  午前一一時過ぎから、午後四時三八分まで陳志忠に遊園地に連れてもらっていた。晩餐の後は、自分達の部屋でスティーブ、マーク、トニーと一緒に遊んでいた。午後八時三〇分頃から銃声がするまで、マークに勉強を教えてもらっていた。眠たそうな声で半分ねているようだった。


「子供の証言ですが、マークもトニーもしっかりしているから、時間は信頼できると思います。また、大ホールの灰皿などに落書きしたのはトニーとポールで、昨夜の晩餐後に悪戯したようです。どちらも叱られるのを恐れて、“ぼくはやっていない。やったのはポールだ。トニーだ”と言って、シャーリーに怒られていました」


「しかし、この表を見る限りでは、この中でエリオットを殺せたのは、レイ、メロディー、トマス、シャーリーの三人だけでカール、レイを殺すことができた者は、犯人がレイじゃないとすれば、一人もいない」

 エドワードが、三人の顔を見回して言った。

「こんなこと、あり得ないよ」

「やはり、レイが犯人じゃないのかな?」

 リチャードが主張した。

「白い羽根の一件だけならともかく、灰皿の中の鍵のことを考えれば、これは連続殺人事件と考えざるを得ません。しかし、不可能犯罪なんて、推理小説では珍しくありませんよ。コロンブスの玉子と同じで、わかってしまえば簡単なことなんです」

「しかし、これは小説ではなく、現実の出来事なんだよ」フデレリックが反論した。

「それも、推理小説によく出て来る科白です。しかし、私も現役の警部ですから、その点はわきまえています。だけど、我々が相手にしているのは、世界で指折りの天才にちがいありません。凡人では想像もつかないような、トリックやアイデアがあったはずです」

「問題の銃声がしてからのみんなの行動ですが、様々な証言を総合しますと、最初にレイの部屋のドアの前に駆け付けたのが、メロディー、トマス、シャーリーの一団、二番目がハリー、志忠、次がリチャード、最後がマークとトニーの二人の順序になっています。あの時、みんながいた位置から、そういうことになったようです。こちらの殺人の方は銃声がしてから後に、みんなが見たり聞いたりしたことが非常に重要なポイントになると思います。だから、それらの証言を纏めたものがありますので、みてください」


 メロディー・アンダーソンの証言

  「レイかカールの部屋の方で銃声がしたので、そちらを見ましたが誰もいなかったし、レイ、カールの部屋のドアも開きませんでした。シャーリーとそちらへ行こうとしていると、トマスが追いついて来ました。レイの部屋の前にいると、ハリーと志忠が図書室から出て来て、合流しました。その少し後に、リチャードさんが書斎からやって来ました。次にマークとトニーが部屋から顔を覗かせました」


シャーリー・アンカステルの証言

  「レイさんかカールさんの部屋で銃声がしたので、そちらを見ましたが、廊下には人はいなかったし、レイさん、カールさんのドアも閉じたままだったと思います。そちらの方へメロディーさんと向かっていると、トマスさんが食堂から出て来て仲間に加わりました。ハリーさんと志忠さんもいつのまにか合流していました。レイさんの部屋の前に着いて二、三分立ってからリチャードさんが書斎からやって来ました。その後、マークとトニーが部屋から出てきました」


 トマス・ロイドの証言

  「銃声がして廊下へ出てみたら、メロディーさんとシャーリーが屋敷の左翼の方へ向かおうとしていたので、一緒に行きました。レイさん、カールさんの部屋のドアにも廊下にも、何も変わったことはありませんでした。少しして、ハリーさんと志忠さんが図書室から出て来て、リチャードさんも加わりました。それから、子供達が顔を見せてこちらに来ました」


「三人は一緒にレイの部屋の前に行ったわけですが、カール、レイの部屋のドアにも廊下にも、異常は見当たらなかったそうです」


ハリー・ストーンの証言

  「隣で銃声がしたので、志忠と一緒に廊下へ出ました。レイの部屋の前に、メロディー、シャーリー、トマスがいました。その後、リチャードさんが書斎から出て来ました。そして、二人の子供達も」


陳志忠の証言

「隣の部屋で銃声がしたようなので、ハリーと一緒に廊下に出ました。すでにレイの部屋の前にメロディー、シャーリー、トマスが集まっていました。少しして、リチャードさんも書斎からやって来ました。その後に、マークもトニーの興味津々の顔も見ました」


「ハリーと志忠は一緒に廊下へ出たそうですが、レイの部屋と図書室の間のドアは本棚の陰になって見えなかったそうです。図書室で怪しい音を聞いたり、不審なものを見たり聞いたりはしなかったと言っています」


 リチャード・ハミルトンの証言

  「銃声がしたので、市長との電話を切り上げ廊下に出ると、みんながレイの部屋の前で騒いでいた。自分も仲間に加わった時に、マークとトニーが部屋からやって来た」


「市長に確認を取ったところ、確かに電話で銃声を聞いたといっていました。それで“何だ?“ということになって、電話を切り、様子をみるために外へ出たそうです。長い電話の理由を聞くと、市長の再選と市の再開発のことで少し揉めたということだった。すこし無理を頼んだんじゃないですか?」


 マーク・ウィルソンの証言

  「銃声がしたので、テープ・レコーダーのスイッチを切ってから、トニーと一緒に外へ出ました。すると、レイの部屋の前にみんな集まっていました」


トニー・ウィルソンの証言

「銃声がしたので、お兄ちゃんと一緒に外へ出たよ。ちょっとバタバタしたけど。そうしたら、レイの部屋の前でみんな騒いでいたんだ。それで、そちらに行ったんだ」


「ここでみんなというのは、もちろんメロディー、シャーリー、トマス、ハリー、志忠、リチャードさんのことで、子供達の証言はみんなの話を裏付けただけです」

「冷静に、テープ・レコーダーのスイッチは切ったんだな」

「ハリーと志忠は、隣の部屋にいて何も気づかなかったのか?」

と、フレデリックが確かめた。

 

「二人からも、面白い話は訊けませんでした。何も物音は聞いていないし、気づいたこともないそうです」

「二人の子供達は?」

「こちらも収穫はありません。花瓶が割れる音と銃声以外は聞いていないし、何も見ていません。だいぶしつこく食い下がったのですが、無駄な努力でした。まるで、犯人は静かな透明人間のようですよ」

アレックスは、肩を竦めて言った。

「みんなの行動や証言を頭に入れて、これからの話を聞いてください。さっきも言いましたように、カールとレイの昨日帰宅してからの行動ですが、どちらも帰って来てから食事までと、食事が終わって殺されるまでは、どうやら自分の部屋にいたようです。それに、カールは『食事が終わってから、レイと重大な話があるから、こちらから呼ぶまでは誰も来ないでくれ!』と、言っていたそうです。だから、花瓶が割れる音がした時も、だれも様子を訊きにいかなかったのです。前に一度、トマスが言い付けに背いてカールの部屋に行ったことがあったそうですが、その時カールは、ものすごく怒ったそうです」

「たぶん、カールは論文提供者と密かに会っているところを誰にも見られたくなかったんじゃないかな? それで、トマスが来た時に思わず怒ってしまったんだろう」エドワードが言った。

「そして、昨日もカールは誰も来ないようにと言っていたんですから、昨夜会うことになっていた人物もレイではなく、論文提供者と考えていいんじゃないですか?」アレックスは自分の父親を見た。

「これまで議論してきたことから推理すれば、そうかもしれない」

「そのことに関して、ひとつ興味深いことが出て来ました。昨日の晩餐の前に、リチャードさんは話があってカールの部屋を訪れたのです。その時カールは論文を読んでいたそうですが、それを壁の金庫に仕舞ったというのです」アレックスは話を続けた。「そして、今日その金庫を開けてみたんですが、金庫の中はからっぽで、リチャードさんが見たという論文はなくなっていました」

「それは確かなのか?」上院議員が訊いた。

「金庫の中に何もなかったのですから、間違いありません。もっとも、論文の他は何も入っていなかったようです」

「その論文は、犯人が持ち去ったとみていいだろう。そのことがわかっただけでも収穫というものだよ。たぶん、論文はレイの暖炉で燃やしたんじゃないかな?」フレデリックが言った。

「そのことは、論文提供者=犯人説を裏付けることになりますね。もっとも、それは積極的な証拠じゃありませんが」

「それで、その金庫を開けることができるのはだれだれいる?」エドワードが訊いた。

「カールだけだそうです。ダイヤル式の金庫なんですが、そのナンバーを知っているのはカールしかいないんです」

「それじゃ、君達はどうやって金庫を開けたんだ?」上院議員は不思議そうに言った。

「造作もないことです。だれも金庫のナンバーを知らないと云うので、専門家を呼んだんですよ」

 アレックスは、ニッコリ笑った。

「なるほど。手回しがいいな」

 エドワードも、そのジョークに顔を綻ばした。

「そうすると、犯人は金庫のダイヤルのナンバーを知っていた者、ひいてはカールが目の前で金庫を開けるほど親しい者ということだろう。だから、やはり論文提供者という線が強いな」

「しかし、いま屋敷にいるみんなの中にカールやレイ達と特に親しい人物がいたとは思えないな」

「二重スパイみたいな役を演じていたのかもしれません。つまり、カールやレイ達には表面上は違うけど、本当は味方だと思わせておいて、やはり本心は虎視眈々とジョニーの復讐を誓っていたというわけです」

アレックスが、自分の推測を述べた。

「すると、この屋敷にアカデミー賞ものの演技をする役者がいるというわけだな。たぶん、手強い相手に違いないよ」

 フレデリックが、少し戯けた調子で言った。

「先ほど言い忘れましたが、チャールズ、カール、志忠、ハリー、メロディー、レイ、トマス、シャーリーは、それぞれ車のライセンスと自家用車を所持していて、昨日もその車を利用して様々な所へ出掛けています。それにお父さん達も知っているように、リチャードさんも車を運転できますが、マーガレットさんに怪我をさせてからハンドルを握ったことはなく、昨日もチャールズさんの車に乗せてもらって教会や本社ビルに行っています」

 アレックスが報告した。


 午後五時過ぎ、タカギ捜査官がハミルトン家に戻って来たころには、かなりのことが判明していた。

 大がかりな二度目の家宅捜索も空振りに終わり、何処からも硝煙が付いた衣服、帽子、手袋、靴の類は出て来なかった。また、カールが金庫にしまったという論文も、変声器などのハイテク装置も発見されなかった。

「やはり、レイ・マーチンの遺書に認められていた三人がジョニー・ウィルソンを殺したという告白は事実のようです」

 ウォーカー警部が報告した。

「マイアミ市警に照会しましたところ、ジョニー・ウィルソンの死んだ場所、状況等の詳しいことは公にしなかったという回答を得ました。そして、確かにセント・ジョージア号という漁船の甲板の下敷きになっていて、後頭部に打撲傷があったそうです。それに、生活反応があることから、生前に受けた傷だと検死官は判断しています」

「これで、決まりだな!」エドワードが沈痛な表情で言った。

「それに、今日の午後、それを裏付ける証拠がルイス法律事務所から届いています」

「レイのいう切り札だね。さっそく契約が履行されたってわけだ」

「ルイス弁護士の話によると、一年前の十二月二十八日に事務所へレイがやって来て、自分が死んだら警察に届けるようにと封筒を渡したそうです。商売柄、封筒の中身とかは一切尋ねなかったと言っていました」

「プロなんだからしかたないさ」フレデリックが口を挟んだ。

「これが、その証拠品です」と、ウォーカー警部が、脇のカバンから五枚の写真を取り出してテーブルの上に並べた。

「封筒の中にはこの五枚の写真が入っていました」

 写真は、カールがスパナでジョニーに殴り掛かろうとしているもの、後頭部へ一撃を食ってジョニーが倒れているもの、エリオットが意識のないジョニーに空のボンベを背負わそうとしているもの、カールとエリオットが、グッタリしたジョニーを両脇から支えて船縁へ行こうとしているもの、その後そのまま三人が海へ足から飛び込んだもの、合計五枚である。ブレたりしているのは、密かに撮っているせいだろう。

「たぶん、カールとエリオットに気づかれないように隠し撮りしたんだな。掌にスッポリ入る程の超小型カメラを使ったんだろう?」

 アレックスは、肩を竦めて言った。


「しかしカールとエリオットを一級の殺人罪で告発するには十分ですよ。これが自分を守る切り札と、金を生む卵にしたんでしょう。これがあったから、レイの我儘を許していたんだと思います。というのは、レイは麻薬を運ぶのにジェット機を度々利用していたようですが、表向きはカールの仕事と称していたそうですから……」

 アレックスが説明した。

「確かにジェット機の燃料費はべらぼうに高いからね。私もレイが自由に飛行機に乗っていると聞いて、おかしいと思っていたんだ」エドワードが注釈した。

「それから、暖炉の燃え残りの分析結果が出ました。あれはドイツ語で書かれた本の一分で、催眠術の専門書だそうです。本の題名までは判明していませんが、うちの署の検死官や鑑識課の連中の協議の結果、どうやら最近の催眠術の方法を述べたものらしいということがわかっています」

「催眠術だって!」

 エドワードが驚いた声を上げた。

「そうか! もしかしたら、この殺人事件にはトリックには催眠術が使われていたのかもしれないな」

「まさかきみは集団催眠術にかかっていたと言うんじゃないだろうね? そんなことは、あまりにも馬鹿げているよ。小説なら出て来るかもしれないけど」

 フレデリックが否定した。

「誰も、そんなことは言っていないよ。だけど、一人か二人は催眠術を掛けることが可能だろう? たとえばレイに催眠術を掛けて、カールとエリオットを殺させたとしたら」

 エドワードが、新しいアイデアを出した。

「でも、それは駄目だな。それでも、白い羽根の一件と灰皿の中の鍵の一件は説明できない」

「子供は催眠術に掛かり易いといいますよ」

アレックスが口を挟んだ。

「君は、マークやトニーが催眠術に掛けられて、エリオット、カール、レイを殺したというのか? それこそ、荒唐無稽な話だ。SF作家だって、そんな馬鹿げたことは考えやしないよ」

 エドワードが笑顔で言った。

「確かに催眠術で人を殺したという話はときどき耳にするけどね。この前も裁判になっていただろう?」

「ただ、私は犯人が、子供たちに催眠術をかけて、カールの部屋から子供たちの部屋を抜けた可能性を示唆したかっただけです。ただアリバイに一役買ってもらうとか、一時的に何かを預かってもらうとかいうことが、頭に浮かんだだけです」アレックスは両手を広げて言った。

「アリバイ作りか? でもそれは無理だろう? トニーの部屋の隣は階段でドアはないし、トニーかマークの部屋から、前の廊下に出てもみんなの目が光っていた」

「昨日志忠とトニーが遊園地にいたのは何人かが目撃しているし、昨夜のマークとトニーの持ち物検査や子供部屋の家宅捜索をやっても埃ひとつ出て来なかったんだからね。子供達を利用するメリットがない」

 フレデリックが、その考えを打ち消した。

「このことで、ひとつ面白いことがあります。暖炉の燃えた本のことです。運よく、焼け残りの部分に、“六・一七、セント・ジョージア”という書き込みがありました。しかし、筆跡鑑定の結果、このハミルトン家のだれのものとも違っていました。それに、これまたハミルトン家の全員に尋ねてみたんですが、誰もそれを書いたのは自分ではないと否定しています」ウォーカー警部が話を進めた。

「“セント・ジョージア”というと、『セント・ジョージア号』のことだな。つまり、六月十七日に、誰だか知らないが、カール達の話を立ち聞きしたんだ。それは、たぶん図書室だったんだろう。あそこだと本棚の陰で人がいるのに気づかないときがあるからね。それで、読んでいる本に日付とヒントとなる言葉を書き付けたんじゃないかな?」

 フレデリックが推理を披露した。

「たぶん、そんなこところでしょう。その人物は、日付を書き込む癖があるのに違いありません。その人物というのは、やはり犯人の可能性が大きいと思います。犯人だから、そんなことは書いていないと逃げたんですよ」アレックスが自分の意見を述べた。

「それが妥当な線だろう。犯人の動機となった秘密を、二人も三人も立ち聞きするなんて考え難いからね」

「つまり、今年の六月十七日に、犯人はジョニーがカール、エリオット、レイ達三人に殺されたことを知ったんだな?」エドワードが確認した。

「それとも、疑うに足る何かをだ。そして、探ってみて真相を突き止めた」

「筆跡が誰とも違うと言ったけど、一ヵ月前に殺されたマービンのものじゃないのかい?」エドワードが訊いた。

「マービン・クロシンスキーのノートが残っていたので比べてみましたが結果はノーでした。この屋敷の人間はみんな右ききですが、その文字は左ききの者が書いたものだそうです」

 ウォーカー警部は、鑑識の結果報告書をテーブルの上へ広げた。

「ハミルトン家の中で、左ききといえばマーガレットだけだけど、もちろん君はマーガレットの筆跡も調べたんだろう?」

「ええ。でも、やはり違っていました」ウォーカー警部が、ニッコリ笑って言った。

「きっと、もうひとり左手を自由に使える者がいるんですよ」

 アレックスがキッパリ言い切った。

「いろいろなことから推理すると、一ヶ月程前にカールが図書室の本を全部焼却したにもかかわらず、その書き込みをした本があったということは、誰かが借りていたので処分を免れたんだろうね。そして犯人がそれに気づいて暖炉で焼いたんだ。それとも犯人がずっと持っていたのかもしれない」フレデリックが可能性を述べた。

「犯人が持っていたという方が、筋が通っていますね」

 ウォーカー警部が、少し考えて言った。

「ミスター・タカギ、君の方の捜査はどうなっている?」

 ヘイワード長官が、FBI捜査官の方を向いて尋ねた。

「かなりの成果はありましたが、この殺人事件にはほとんど関係がないことばかりです。マーク少年が連れて行かれたアパートのフラットから、コカインとヘロイン一キロを押収しましたし、フロッピー・ディスクにはレイ・マーチンと接触した人間のリストが記録されていました」

 タカギ捜査官は、家宅捜査の結果などを掻い摘んで報告した。

「どうやら、秘密のアジトは一ヵ所だけだったようです。徹底的に調べましたが、鍵などが発見されなかったのです。もちろん捜索は続けますが」

「なるほど」

「ハミルトン家の皆さんは、麻薬には無関係のようです。エリオット・マーカムもカール・ウィルソンも、レイ・マーチンの仲間ではないようです」

「それを聞いて安心したよ。もうこれ以上の悲劇は誰も望まないからね」エドワードが、みんなの気持ちを代弁して言った。

「レイ・マーチンには血の繋がっていない義理の妹が一人いるんですが、いまロサンゼルスに住んでいて、UCLA(カリフォルニア大学)に通っています。両親は早く亡くなって、肉親と呼べるのは彼女ひとりのようです。どうやら、その義理の妹に毎月千ドルずつ仕送りしてやっていたみたいです。またレイは今年の一月に一〇〇万ドルの生命保険に入っています。もちろん、受取人は義理の妹になっています。この生命保険は一年未満だと、自殺しても保険金は支払われません」

「そのことは、弱いながらもレイの死が自殺ではないことの反証になりますね。あと一ヶ月待てば、一〇〇万ドル手に入るんですから……」

 アレックスが、自分の意見を述べた。

「しかし、余程、その義理の妹を可愛がっていたようだな? 自分が死んだ後のことも心配してやるなんて……」フレデリックが、感心して言った。

「その金は、カールと麻薬から稼いだものだろう。レイが悪に走った陰には、義理の妹の存在があったのかもしれないな。研究所の助手の給料なんて高が知れているからね」

 エドワードが、ある感慨を持って言った。

「レイ・マーチンの銀行の預金通帳を調べてみますと、今年の一月から毎月二千ドルずつ振り込まれていて、今年の九月からは七千ドルに跳ね上がっていました」

 タカギ捜査官が付け加えた。

「それは、女中のドロシーがカールとレイの話を立ち聞きした時期に一致していますね。ジョニー殺しの報酬に、論文盗作の口止め料が上乗せされたのでしょう?」アレックスが言った。

「預金の残高はどれぐらいあった?」フレデリックが訊いた。

「三つの銀行の通帳があったのですが、全部で四万ドルちょっとです。もっとも他の銀行とも取引があったのかもしれませんが……」

「麻薬で稼いでいるにしては、思ったより金額が少ないな」エドワードが、正直な感想を述べた。

「宝石とかの貴金属を買って隠しているのかもしれませんし、義理の妹の名義で不動産とかを手に入れているのかもしれませんよ。義理の妹想いのレイのことですから、何か残しているはずです」

 アレックスが、少し考えて言った。


 今日の晩餐の料理も味気ないものだった。確かに一流のコックが作るのであるから美味しいのに違いないが、重苦しい空気が垂れ込めていて胸が苦しくなってくるようなのだ。

 ハミルトン家のみんなが、黙々とナイフとフォークを動かしているのを眺めながら、エドワードは考えていた。

『今日は、実に忙しい日だった。ウォーカー警部やタカギ捜査官達も大変だったろう。住み込みや通いの使用人、研究所の職員や科学者、飛行場の関係者などへの尋問。テレビや新聞等マスコミ関係者を集めての記者会見。屋敷、レイのアパート、研究所、飛行場、ジェット機の中の捜索。ここからもなにも証拠は出てこなかった。この事件についての分析、捜査会議、等々……。体がいくつあっても足りないだろう。しかし、目の前にいるみんなの中に殺人者がいるなんて、とてもじゃないが信じられない。しかし、レイの死が自殺じゃなく他殺だとすると、この中に犯人がいなければおかしい。確かに、この中にエリオット、カール、レイ殺しを演出した人物がいるのだ。でも、一体誰なんだろう。皆目見当もつかない。みんな青白い顔をして、この事件に心底驚いている様子である。だが、この中の少なくとも一人は、芝居をしているのだ。表情や仕草からは、全然わからないが……。しかし、何人もの人間に訊き込みや尋問を行なったにもかかわらず、論文提供者の正体もファルコン一〇を操縦できる者の名前も特定できなかった。アレックスじゃないが、まるで犯人はカメレオンのように周りに同化してしまって、尻尾さえ現わしていない。犯人イコール論文提供者イコールジェット機の操縦ができる者。だれも、その正体を知らない。まるで透明人間だ。そんな人間が本当にいるのだろうか? 体中に巻いた包帯をほどいていけば、中身は空っぽなのではないだろうか?』


 フレデリックは、ナイフやフォークが立てる音を聞きながら考えていた。

『今朝、マークが録音したカセット・テープを改めて聞いてみた。子供達の声と九時二四分に花瓶の割れる音、九時三一分にした銃声と本棚が倒れる音が入っていたが、その他には不審な音は聞こえなかった。つまり見かけどおり、私たちが思っている時間通りに殺人が行なわれたということだ。しかし犯人がゲート・ハウスにある監視カメラのビデオの音声装置を故意に壊したとしたら、このカセット・テープに事件の謎を解く鍵があるのに違いなかった。その問題のビデオの音声装置は、パネルの下のプラグが一つ外れており、故意か偶然かはわからない。これはごく簡単な作業で、警備員の目を盗めば誰でもできたはずである。長くても三〇秒もかからなかっただろう。たぶん、このことには犯人の意志が働いているのだ。何のために、そうする必要があったのか? それさえ判明すれば、犯人の名前も浮かび上がってくるのに違いない。それから、ボイス・レコーダーに残っていた昨日のフライトの交信記録を訊いたところ、レイの声に非常によく似ていた。本人の声といっていいだろう。しかし、これはハイテク装置を使って、レイの声をコピーしたとも考えられるから、何とも言えなかった。レイの声が残っているオリジナルのテープがないため声紋検査などの検査ができないのである。犯人は、きっとハイテク産業が生み出した魔法の機械を使ったのに違いなかった。たぶんマークが録音したあの音に、この事件の真相が隠されている気がしてならない。もう一度あの音声を吟味してみよう』


 ハミルトン家のみんなの指先を見詰めながら、アレックスは考えていた。

『今日の議論の話題には挙がらなかったが、いろいろなことが確認された。指紋に関して、犯人はうまく立ち回っていた。レイ、カールの部屋からは不審な指紋は検出されず、あるはずの所にはちゃんと二人の指紋が付着していた。たとえ、二人の部屋にシャーリーやメロディー達の指紋があったとしても不都合はない。それ以前に掃除や訪れた時に付いた可能性もあるからだ。もちろん昨日女中が拭いたテーブルの上などに犯人の指紋を付けないように犯人は手袋をしていたはずで、実際そんなミスは犯していなかった。カールの部屋のテーブルの死体側にあったグラスにはカールの指紋が、反対側のグラスにはレイの指紋が付いていた。サイド・テーブルの酒壜にはカールの指紋しかなかった。ボウ・ガンにも、ちゃんとレイの指紋が付着していた。レイの部屋のパソコンからも持ち主以外の指紋は検出されなかった。これは、作成済みフロッピーを持って来て差し込んだと考えられるから、問題はないだろう。各部屋には同じ機種のパソコンがあるので、誰でもあの遺言を作成することは可能だった。今は子供達でさえパソコンを勉強しており、昔とは時代が違うのだ。レイの部屋の絨毯の上に転がっていたグラスからも、スミス&ウェッソン・モデル六四からもレイの指紋が検出され、問題の挿入弾子にも犯人の指紋の替わりにレイの指紋が付いていた。特殊なテープを使ってカールやレイの指紋を移したというか付けたのかもしれないが……。もちろん何らかの口実(シナリオ)を作って、自分で付けさせたのかもしれない。ちなみに、このとき銃弾の犠牲になった本はシェークスピア全集のうちハムレットとマクスベス(フレデリックは、この二つの作品の内容を考えると運命の皮肉を思うのだった)の二冊だった。またVZ・SMGやファルコン一〇のコクピットやドアなどからは指紋は検出されなかったが、これは例えレイが犯人だとしても手袋を嵌めていたと説明できる。だから、犯人側にとって、何ら不利な点ではないのである。それから、カールとレイの死体の解剖の結果、新しく判明したことはなかった。すべて想定内のことだった』


 晩餐が済んで一服していると、ウォーカー警部、タカギ捜査官達がやって来たので、再び居間で捜査会議が開かれることになった。メンバーはお馴染みの顔ぶれプラス、フレデリックの希望でリチャードも加わっていた。

 ウォーカー警部のあらかたの報告が終わると、リチャードが訊いた。

「今日の共同記者会見では、レイが自殺ではなく他殺だということも、あの遺書に認められていたことも伏せてくれていたけど、真相はいつ発表するんだい?」

「ヘイワード長官とも、よく話し合ったんですが、もう少し様子をみようということに決まりました。第一、硝煙反応のことが解明されないかぎりは、レイ・マーチンは自殺ではなく他殺だとは言えませんからね」

 リチャードには、協力を得なければならないこともあって、捜査結果のあらましは教えていたのである。

「それにマーガレットや子供達のことも考えなければならないし、カールの論文盗作という頭の痛い問題もあるからね」フレデリックが付け加えた。

「まだ、あのノーベル賞の候補に挙がった論文が、ジョニーから盗作したものだということは証明されていませんが、その可能性は大きいと思います。もし、それが証明されれば、国際問題にも発展しますから、このことは警察だけの問題というわけにはいかないのです」アレックスがリチャードの方を向いて言った。

「確かに、難しい問題だね。ところで、この事件の犯人のことだけれども、もう目星はついているのかい?」

「いえ、これまた硝煙反応のことがわからない以上、誰とも云えない状態です」ウォーカー警部が答えた。

「私を含めて、みんなの訊き取りの様子はどうだったんだい? 刑事の勘という奴で、誰が犯人か断定できないまでも、怪しいと思った者はいたんじゃないのかい?」リチャードが立て続けに訊いた。

「そのことに関しては、ヘイワード長官やアレックス先輩とも話し合ったんですが、みんな特別に怪しいと思われる言動や素振りはなかったようで、そちらからは犯人の目星はついていません」

「私も同じ意見です。誰に対しても犯人だというインスピレーションは閃きませんでしたし、何も不審だと思うようなことは感じませんでした」アレックスも頷いた。

「今日は私も訊き取りに参加したんだけど、二人と同意見だな。しかし、犯人は大変頭が良くて抜け目のない人間のようだから、自分の感情をコントロールすることや計算して演技することも、簡単にできたはずだ。だから、はじめからそちらの方はあまり期待してはいなかったんだけれどね」フレデリックが付け加えた。

「なるほど、それで昨夜は訊き取りに加わらなかったというわけか!」エドワードが口を挟んだ。

「いや、そうじゃない。昨日はアレックスとハルという専門家がいたから、二人に任せただけだよ」

「ところで、マークとトニーには、カールが死んだことを誰が伝えたんだ?」エドワードが話題を変えた。

「メロディーとシャーリーが話してくれた。やはりマークもトニーも泣いていたよ」

リチャードが暗い表情をして言った。

「この上、カールがジョニーを殺したなんていうことを知れば、どんなに悲しむかわからないね」

「しかし、これから先、犯人がわかって起訴する段階になれば、いくらなんでも隠し通すことはできないでしょう? いずれ機会をみて話さなければなりませんよ」アレックスも沈んだ顔で言った。

「まあ、そのことに関しては最善の方法を考える必要があるね。それで、マーガレットやエリザベスは、どうなんだ?」フレデリックが心配して訊いた。

「エリザベスは、きみ達も見た通りだ。マーガレットの方も大変だったんだ。マーガレットも、家に帰ると言い張ったんだけど、明日の葬儀まで向こうに居させることにしたよ」

「彼女達や子供達のことを考えると、本当に辛いね。替われるものなら、替わってやりたいよ」

 エドワードが、しみじみと言った。

「子供達は、今どうしている?」

「ハリーとメロディーが、ラット部長刑事らと研究所に行っているので、志忠が遊んでくれているよ。彼はとてもやさしいからね。それに、特に志忠は指先が器用でよく玩具を作ってやっているから、子供達にも人気があるんだ。今年の八月頃は、モデル・ガンを作ってやっていたから、バンバンと騒がしかったよ。もし、あの頃に今日のようなことがあったら、少しも気にしなかっただろうね」リチャードが説明した。

「まあ、彼に任せていたら安心だな」と、フレデリックが言った。

「もちろんメロディーもハリーも志忠も、シャーリーもだけれど、トニーとマークをことの他、可愛がって気に掛けているのは同じだけどね。彼等も学生時代には働きながら大学に通っていて、いろいろ苦労しているんだ。確か、メロディーはハンバーガー屋、ハリーはヘア・スプレーの工場、志忠は映画会社のSFXの製作部で働いていたんじゃなかったのかな? シャーリーは、すぐにこの屋敷に来たから、マークとトニーに対する思い入れは相当なものだ。トマスは、ジョニーを神様のように崇拝していた。だけど、みんな(敢えてシャーリーとトマスを入れる)貧乏していたという程じゃないから、金に困って論文を売るということは考えられないと思うよ。彼等は、科学者であることに誇りを持っているからね。いくら金を積まれたって断わるだろう」

「わからないことが多いな!」エドワードがお手上げだと言った顔をした。

「ハミルトン家のみんなの過去を調べてみてもきれいのもので、この事件と関連があると思われるものは何ひとつ浮かんで来ません。過去に操縦を習ったという記録が残っている者はいませんし、飛行場で働いていた者もいません」ウォーカー警部が報告した。

「みんな政治家のように清廉潔白というわけか?」と、上院議員が笑顔で言った。

「それはそうと、ハル! 今日、きみはあの温室で何をしていたんだ? 私の言うのは、この屋敷と門とのちょうど中間にある温室のことだけれども……」フレデリックが、湿っぽい話を吹き飛ばすように言った。

「ええ。あの中に黒板があって、物理学の難しい数式や計算などが一杯書いてあったんです。だから、もしかしたら論文提供者が書いたんじゃないかと思って、写真を撮って調べてみたんです」

「それで結果はどうだった?」

「みんなの筆跡のサンプルと比べてみたのですが、カール・ウィルソン自身が書いたことがわかっただけです」

「なるほど、それで報告には出て来なかったわけだね?」

「済みません」

「別にあやまることじゃないよ。そこに書いてあったのは、どんな数式だったんだ?」

「メロディー・アンダーソンの話では、なんでもカール・ウィルソンが今年の十一月に発表した論文の数式などだそうで、大変難しくて自分達にもよくわからないということです。あの数式を完全に理解しているのは、カール・ウィルソンだけじゃないかと言っていました」

「カールは散歩の途中などに見ればインスピレーションが湧くからといって、温室の黒板などに数式とか計算なんかを書き付けていたんだ。もっとも、カールが誰かから論文を盗んでいたのなら、そうする必要はなかったはずだけど……。それとも、自分で理解するためだったのかもしれないな」リチャードが説明した。「それとも、覚える必要があった」

「たぶん、論文提供者のために、そういう状況を作り出したんでしょう」アレックスが言った。

「なるほど、考えられることだな」

「アレックス、ハミルトン家のみんなを動員して、銃声がした時の再現をやっていたみたいだけど、いい数字が出たかい?」フレデリックが訊いた。

「ストップ・ウォッチを片手に実験してみて、だいたいの時間を割り出しました。銃声がして本棚が倒れてから、レイの部屋の前に集まるまでの時刻表を作成したのでみてください」

 アレックスが、ワープロで打った表をテーブルの上へ広げた。

「この数字は何回も確かめて出したものですから、かなりの信憑性があると思います。違っていても、二・三秒でしょう。銃声がした時間は、午後九時三一分三秒とさせていただきました。お父さんの時計は、一〇秒進んでいましたので……」


 午後九時二五分一四秒 花瓶が割れる音がする


 午後九時三一分〇三秒 銃声がする


午後九時三一分〇五秒 トマス、食堂を出る


午後九時三一分〇七秒 本棚が倒れる音がする


午後九時三一分〇九秒 トマス、シャーリーとメロディーに合流する


午後九時三一分一七秒 トマス、シャーリーとメロディー、レイの部屋のドアの前に到着する


 午後九時三四分〇四秒 ハリー、志忠、図書室から出て来て、一緒になる


午後九時三四分一九秒 リチャード、書斎から出て来る


 午後九時三四分二六秒 リチャード、みんなに加わる

           マーク、トニーの二人、廊下に出て、レイの部屋の前に行く


 午後九時三四分四八秒 フレデリック、エドワード、アレックスの三人、みんなに合流する


「これでは、どんなに考えても硝煙反応のことは説明できません。時間の壁があって、無理です」

 アレックスが報告した。

「犯人にはシャワーを浴びて硝煙を落としたり、硝煙の付いた服を燃やしたりする暇はなかったというんだね」エドワードが、おどけて言った。「そんなことをしていれば、どんなに急いでも、一〇分はかかっただろう」

「裏を返せば、それは犯人にはそれだけの余裕があったということですよ」

 それまで、ずっと沈黙を守っていたタカギ捜査官が発言した。

「ミスター、タカギ、君には何か考えがあるのか?」エドワードが訊いた。

「いいえ。ちょっと思いついたことがあっただけです。しかし、それはヘイワード長官も気づいていると思いますよ」

 FBI捜査官は、矛先を警察長官の方へ向けた。

「一体、どういうことだ?」エドワードが訊いた。

「ひとつ考えられる可能性があるんだけど、まだ発表できる段階じゃないんだ。それに、ひょっとしたら間違っているかもしれないしね」フレデリックが、少し慌てて言った。

「名探偵は、勿体振って最後まで手の内を見せないんですよ。推理小説では、いつだってそうです」

 アレックスが、ニッコリ笑って言った。

「茶化すんじゃないよ」エドワードが目で笑いながら注意した。

「いまさっき、マイアミ市警の友達から電話があったよ。公式の回答は今日の午後に教えた通りだけど、こちらは内聞にしてくれというやつだ。いわゆる極秘事項だね」フレデリックは話題を変えた。

「どういう内容なんだ」

 エドワードが、興味をそそられて訊いた。

「なんでも、一年前のジョニーの死は事故ではなく、カール、エリオット、レイの三人による謀殺の疑いが強い。そのために、レイが良心の呵責から、カール、エリオットを道連れにして自殺したんじゃないかと進言してくれたんだ」

「それじゃ、マイアミ市警は一年前のジョニーの事故を、殺人の疑いが強いとみていたのかい?」リチャードが驚いて訊いた。

「友人が、オフレコということで教えてくれた。最初は事故と考えていたそうだが、今年の七月の初めに匿名の手紙が届いて、捜査陣が色めき立ったと言っていたよ。というのは、ジョニーは事故死でなく、カール、エリオット、レイの三人に殺されたという告発だけでなくて、ジョニーがセント・ジョージア号の甲板の下敷きになっていたこととか、後頭部に一撃を喰らっていることとかいった、あの問題の遺書に認められていた事実と同じようなことが書かれていたからなんだ。だから、昨夜私達が推理したのと同じように、マイアミ市警も、ジョニーはカール、エリオット、レイの三人によって謀殺されたものと疑って、極秘に調査を進めていたそうだ」

「きみ達の推理とは、一体どういうものなんだ?」

 フレデリックは、掻い摘んで昨日の推理を話してやった。

「そして、あの時海に出ていたのは彼等だけだったから、殺人ということが判明すれば、犯人はカール、エリオット、レイの三人しか考えられないってわけさ」

「なるほどね。犯人しか知らないことを知っていたってわけか? しかし、警察がジョニーのことでカール達三人を捜査していたなんて、少しも知らなかったよ」リチャードが、告白した。

「カール達三人に気取られないように細心の注意を払っていたそうだし、ハミルトン家の人間ということもあって、極秘となっていたそうだ。だから、気づかなくても無理はないよ。私も今日まで、マイアミ市警がそんな捜査を行なっていたなんて知らなかったんだからね」

「それで、捜査の結果はどうだったんだ?」エドワードが訊いた。

「黒だと確信していたけど、事故死だということを覆すだけの決定的な証拠がなかったそうだ。だから、指を咥えて見ているしかできなかったと言っていたよ。レイの預金のことから何まで、かなり詳しく三人のことを調べ上げていたようだね」

「論文提供者とかジェット機を操縦できる者についての情報は持っていなかったのか?」

「私もそれを期待して訊いてみたんだが、残念ながら、そこまでは捜査の手は及んでいないようだった。そのことに関する情報は、何も入っていないようだ」

「その手紙を出したという匿名の人物というのは、誰だかわからなかったのかい?」

 リチャードが、あまり期待はしていないという顔で訊いた。

「消印が、このハミルトン家がある地区を扱っている郵便局のものだったので、ハミルトン家の中の誰かが出したことまでは判明したけれど、それが誰なのかは結局わからず仕舞いだったそうだ。消印の日付けは七月二日で、差出し人を特定する指紋は検出されていない。郵便配達人とかの指紋はベタベタついていたそうだけれどね」

 フレデリックは一息吐いて、続けた。

「ワープロ書きの手紙だったそうで、どうもこの屋敷の各部屋にあるパソコンを使ったようなんだ。その手紙はマイアミ市警の刑事が持って来てくれることになっているので鑑識にどのプリンターで印刷されたものか調べさせるつもりだ。タイプ・ライターと同じく、プリンターの文字も微妙に違うので、どの部屋のパソコンが使用されたか判明するだろう。そうすれば、何らかの結論が出るかもしれないよ」

「七月二日というと、催眠術の本に書き込んでいた“六・一七”の日付けに、ちょうど符号しますね」と、アレックスが指摘した。

「その匿名の人物というのは、やはり犯人かな?」エドワードが訊いた。

「前も話したように、その秘密を二人も三人もの人間が知っていたとは考えられません。もしそうなら大騒動になっていたはずです。それなのに、その匿名の人物が口を噤んでいたということは、取りも直さず復讐を誓っていたからでしょう。さもなければ、誰かに相談しているはずですよ」アレックスがキッパリ言い切った。

「昼の議論の蒸し返しだね。たぶん、その人物は一旦警察に任せるつもりで手紙を書いたと思う。復讐を考えていたとしても、やはり良識のある人間なら躊躇するからね。匿名にしたのは、バレたら逆に自分の命が危なくなるからだ。しかし、警察は何もしてくれなかったし、動いてもくれなかった。それで今度は自分で手を下すことにしたんだ」

 フレデリックが、自分の推理を述べた。

「警察が腑甲斐ないから、自らカール、エリオット、レイの三人を裁いたんですね」

 アレックスが、暗い表情をして言った。


ウォーカー警部とタカギ捜査官が帰って行くと、図書室に場所を移して議論が続けられた。もう一度、図書室の構造を確かめてみようというのである。確かに、銃声がした時、ハリーと志忠が図書室北東の窓際のテーブルのところに居たなら、レイの部屋のドアと図書室の間のドアは幾重もの本棚の陰になって見通すことはできなかった。しかし、図書室・コンピューター室には東の小ホールへ抜けるドアはなく、ここから外へ出るなら廊下に面するドアを使うしかなかった。もう一ヶ所脱出口はあるが、これはカールの部屋からマークかトニーの部屋へ抜けなければならない。また、マークがトニーに勉強を教えているとき、マークとトニーの間のドアは開けっ放しだったそうだが、だれかが入ってくれば、二人のどちらかが気づいたはずである。しかし、それより何より銃声がした直後には、そのドアや廊下等はメロディー達によって監視されており、廊下側のドアから出て来たのは図書室からハリーと志忠、子供達の部屋からマークとトニーだけだったことが確認されていた。

「ここでは、一番の隘路となっている硝煙反応のことについて話し合おうじゃないか? 何でもいいから、アイデアとか意見を持っていたら言ってくれないかな?」

「拳銃をビニールの袋みたいなものに入れて撃ったんじゃないのかな。そうすれば、硝煙はどこにも飛び散らないよ」

「その考えは駄目だ。レイの部屋の椅子の周りの絨毯の上には硝煙が飛び散っていたからね。あの拳銃を撃った時に、犯人は絶対硝煙を浴びている。それは確かだよ」

「それじゃ、硝煙反応を出なくするような薬とかガスをスプレーに入れて吹きつけたんじゃないのかな?」エドワードが思いつきを口にした。

「専門家にきいてみたんだが、いまのところ一瞬にして硝煙反応を消すガスはないそうだ。顔や手は、シャンプーやボディー・ソープなどの薬で洗えば消えるけど、服全体に浴びているからね。洗濯でもしなければダメだよ」

 フレデリックが説明した。

「それに、この事件はそもそもレイの自殺で終わるはずで、犯人は始めから硝煙検査のことなんかあまり頭に入れていなかったと思う。第一もしそこまで考えるんだったら、拳銃を使うことをやめていたんんじゃないかな? レイもカールも、あのスミス&ウェッソン・モデル六四で撃たれて死んだんじゃないんだからね。拳銃を撃つという行為は、表面的には何の意味もないことだよ。注意を引きつけるだけのものだ」

「たぶん、この事件は時間が一番重要で、みんなの注意を引くために拳銃を打ったんだ。二人を殺した時間を知らしめるために……」

「それはどういう意味だい?」

 エドワードが、わけがわからないというようにきいた。

「それじゃ、考えられることは、論理的にひとつですよ」と、アレックスが言った。

「どういうことだい?」

「今さっきタカギ捜査官が云ったように、犯人はシャワーを浴びて洗剤やシャンプーや中和剤で硝煙を洗い落としたり、硝煙のついた衣類を地下の焼却炉で燃やしたりできる時間を持っていたということです」

「論理的だね」リチャードが、半信半疑の面持ちで言った。

「つまり、犯人がカールとレイを殺したのは銃声がした時より前、すなわち午後九時三一分より前だったのです」

 アレックスが説明した。

「シャワーを浴びたり、衣服を処分したり、自分のアリバイを作ったりする必要がありますから、少なくとも二~三〇分は前だったのではないでしょうか? そして、爆竹か何かを火の入った暖炉に投げ込んで爆発させる」

「しかし、午後九時三一分にあの銃声がして本棚が倒れたんだよ。ということは、あの時犯人がレイの部屋の中にいたことだけは確かだろう」

「何か、きっととんでもないトリックがあるんですよ。たぶん、そのためにゲート・ハウスの監視カメラのビデオの録音装置を壊す必要があったんです。お父さんも、同じ考えでしょう?」

 アレックスは、ちょっと思いつきを口にした。

「タカギ捜査官は切れ者だね」と、リチャードがいった。

「銃声がした一時間前からのみんなのアリバイを表にしたものがあるので見てください。検死官が、いくら幅をもたせても、一時間が限界だということですので」

 アレックスは、その表をテーブルの上に開げながら言った。

「一五分単位にしたのは、硝煙を落としたりしていたら、少なくても一五分から二〇分はかかると考えたからです。そして、アリバイを証明してくれる人がいない場合は、極言してアリバイなしとしています。カッコの中は、アリバイを証明してくれる人です」


午後八時三〇分


 リチャード ……一階の書斎(証人、間接的に電話で話していた市長)


チャールズ ……隣の屋敷の居間(ナンシー、スティーブ、ポール)


メロディー ……自分の部屋(アリバイなし)


ハリー …………自分の部屋(アリバイなし)


志忠  …………図書室(ビデオ)


トマス …………食堂(シャーリー)


シャーリー ……食堂(トマス)


マーク

トニー     子供部屋(お互い、スティーブ、ポール)


フレデリック

エドワード   二階の客室(お互い)

アレックス


「またスティーブとポールも一旦この屋敷に戻ってマークとトニーと一緒に遊んでいましたが、午後八時三〇分に隣の屋敷に帰っています。そして私とお父さんとエドワードさんはずっと一緒なので、一つのグループに纒めています。それから、志忠は図書室でずっと監視カメラのビデオに映っています。本を取りに行く時に画面から消えることもありましたが、長くて五分です」


午後八時四五分

 

 リチャード……一階の書斎(市長と電話)

 

 チャールズ……この屋敷の居間(シャーリー)

 

メロディー……自分の部屋(アリバイなし)


ハリー…………自分の部屋(アリバイなし)


志忠 …………図書室(ビデオ)


トマス…………自分の部屋(アリバイなし)


シャーリー……居間(チャールズ)


マーク

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の客室(お互い)

アレックス


「リチャードさんの話では、午後八時四〇分頃チャールズさんが忘れ物を取りに書斎に入って来たそうです。ディクスン・カーの本だそうです」


午後九時〇〇分


リチャード ……一階の書斎(市長と電話)


チャールズ ……居間(シャーリー)


メロディー ……自分の部屋(アリバイなし)


ハリー …………図書室(志忠) 


 志忠  …………図書室(ビデオ、ハリー)

 

 トマス …………自分の部屋から少しして食堂(アリバイなし)

 

シャーリー ……居間(チャールズ)

 

マーク      

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の客室(お互い)

アレックス


 「ここでお気づきかと思いますが、ハリーは志忠とテーブルを挟んで真向いにいて、ビデオには映っていません。二人とも視界から離れたことはなかったといっています。お互いアリバイを証明し合っています。また、チャールズさんは午後九時一〇分頃、この屋敷を辞して自分の屋敷に帰っています」


午後九時一五分


 リチャード ……一階の書斎(市長と電話)


チャールズ ……隣の屋敷の居間(ナンシー)


メロディー ……廊下(シャーリー)


ハリー …………図書室(志忠)


志忠  …………図書室(ビデオ、ハリー)


トマス …………アリバイなし


シャーリー ……大ホール

 

マーク      

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の客室(お互い)

アレックス


「メロディーは自分の部屋を出ており、シャーリーと目をかわして存在を確認していますいます」


午後九時二五分一四秒(花瓶が割れる音がした時刻)マークが録ったカセット・テープの銃声と花瓶の割れる音の間隔から推測。


リチャード ……一階の書斎(市長と電話)


チャールズ ……隣の屋敷の居間(ナンシー、スティーブ、ポール)


メロディー ……食堂(トマス)すぐに大ホールへ行く(シャーリー)


ハリー …………図書室(志忠)


志忠  …………図書室(ビデオ、ハリー)


トマス …………食堂(メロディー)


シャーリー ……大ホール(シャーリー)


マーク       

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の客室

アレックス


「ちなみに、みんなの証言から推定すると、花瓶の割れる音がしたのは午後九時二四分だと思いますが、その時刻のアリバイも挙げておきました」


午後九時三〇分


リチャード ……一階の書斎(市長と電話)


チャールズ ……隣の屋敷の自分の部屋(ナンシー、スティーブ、ポール)


メロディー ……大ホール(シャーリー)


ハリー …………図書室(志忠)


志忠  …………図書室(ビデオ、ハリー)


トマス …………食堂(アリバイなし)


シャーリー…… 大ホール(メロディー)


マーク

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の客室(お互い)

アレックス


「銃声がした午後九時三一分から、みんなが集まった午後九時三三分まで、一分単位で表にあらわしてみました。ここからは、本当の秒読みの行動です。そういう意味では『秒読みの殺人』といってもいいでしょう。ジョン・ディクソン・カーの言葉を借りれば不可能犯罪ということになりますが・・・。しかし、午後九時三一分に、犯人は本当にレイの部屋にいたのでしょうか?」


午後九時三一分〇三秒(銃声のした時刻)


リチャード ……一階の書斎(市長と電話)


チャールズ ……隣の屋敷の自分の部屋(ナンシー、スティーブ、ポール)


メロディー ……大ホール(シャーリー、トマス)


ハリー …………図書室(ビデオ、志忠)


志忠  …………図書室(ハリー)


トマス …………廊下(シャーリー、メロディ)


シャーリー ……大ホール(メロディー、トマス)


マーク

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の客室(お互い)

アレックス


「これは、あの銃声がした瞬間のみんなのアリバイです。ハリーと志忠のビデオは、お父さん達がチェックしたのを私も見ました。銃声がした後は、みんな混乱して記憶が錯綜しています」


午後九時三二分


リチャード ……一階の書斎(市長と電話を切り上げる)


チャールズ ……隣の屋敷の自分の部屋(ナンシー、スティーブ、ポール)


メロディー ……レイの部屋のドアの前(シャーリー、トマス)


ハリー …………図書室(ビデオ、志忠)


志忠  …………図書室(ビデオ、ハリー)


トマス …………レイの部屋のドアの前(シャーリー、メロディー)


シャーリー ……レイの部屋のドアの前(メロディー、トマス)


マーク

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の廊下から階段(お互い)

アレックス


「ここで志忠とハリーのアリバイとしてビデオを挙げていますが、常に映っているわけではなく、本を取りに行ったりと欠けている部分もあります。一分とか二分ですので、それは考慮しなくていいでしょう」


午後九時三三分


リチャード ……一階の廊下


チャールズ ……隣りの屋敷の自分の部屋(ナンシー)


トマス   ……レイの部屋のドアの前(メロディー、シャーリー)


メロディー   レイの部屋のドアの前(トマス、メロディー

シャーリー              シャーリー)           


ハリー     レイの部屋のドアの前(メロディー、シャーリー

志忠ー                ー、トマス)


マーク

トニー     子供部屋(お互い)


フレデリック

エドワード   二階の廊下から階段(お互い)

アレックス


「ここは、ちょっとシンプルに書いてみました。こういう表し方も違う角度からアリバイをみれて面白いでしょう? しかし、レイの部屋の前に着いた時間順に言えば次のようにります」


所見

『午後九時三一分〇三秒から、一七秒ぐらい一番初めについたのはトマスで、同時にメロディー、シャーリー、同、三四分〇五秒頃にハリー、志忠が現われ、同、三四分分二六秒ごろにフレデリック、エドワード、アレックスの三人が加わり、同、三四分四八秒あたりにマークとトニーが合流した図になります。これは、みんなの記憶に基づいているので、前後や錯覚や間違いがあるかもしれませんが、だいたいは合っていると思います』


「この時間の壁を破るトリックですが、後に何も残っていませんでしたから、機械的な装置を使ったものでないことだけは確かです。爆竹のかけらも残っていませんでした。もちろん、火を焚いた暖炉の中で爆発したなら、何も残らないのは当然かもしれません。犯人が故意にビデオの録音装置のプラグを外したのなら、その謎を解く鍵はやはりマークが録音したカセット・テープの音の中に隠されているのではないでしょうか? いま、そのカセット・テープとテープ・レコーダーを持っていますから、もう一度みんなで聞いてみませんか?」

 アレックスが、テーブルの横の鞄から小型のテープ・レコーダーを取り出しながら訊いた。

「そうしてみるか。何か新しいことに気づくかもしれない」フレデリックが言った。

「このカセット・テープは、昨日カールがマークに買って来てやったものだな?」

 エドワードが、カセット・テープを覗き込んで言った。

「そうです。勉強机のそばのテーブルの上に、これと同じカセット・テープが五つ置いていてありましたよ。マークの話によると、トニーに勉強を教え始めたのが午後九時頃で、それと同時に録音ボタンを押したそうです。六〇分用のカセット・テープです。銃声がして、テープを切って様子を見に行ったたそうです」

「それじゃ、そろそろテープを聞いてみようじゃないか!」エドワードが、促した。

 アレックスは、そのカセット・テープを入れると巻き戻して、プレーのスイッチを押した。

 三・四秒の空白の後、マークがトニーに算数を教えている声が聞こえてきた。その微笑ましい光景が目に浮かんでくるようだった。トニーが質問したり、マークが答えたりを挟んで、勉強の様子が延々と続き、午後九時二五分一四秒(銃声がした時刻から逆算)と思われる時に、突然ガチャンという花瓶が割れる音が響いた。

「いまの音は何?」

 トニーが聞く。

「何かの割れる音みたいだね。たぶんパパが花瓶でも落としたんじゃないのかな? 何でもないよ」 

 もちろん、部屋の壁は厚いので、隣の部屋の中の話し声や他の物音は全然聞こえない。

 花瓶が割れてから五分四十九秒後、突然バーンという大きな音がして、バタン、ドサッという何かが倒れるような大きな音がする。

「銃声だよ」と、トニーが興奮して叫ぶ。

「行ってみよう」

 その声を最後に、カチッとスイッチを切る音がして、音声が切れる。

「マークは、このあとカールの部屋との境のドアのノブを回したけど鍵が掛かっていたそうです。また、ドアをドンドン叩いたけど何の反応もありませんでした。それで、トニーと一緒に廊下に出たそうです」

 アレックスが報告した。

「もうこのカセット・テープを何回も聞いたり、鑑識の連中に分析させたりしましたが、何も怪しい音は入っていないという結論にたっしました。お二人は何か気づいたことがありますか?」

「君達が調べて見つからなかったのに、私達が聞いたぐらいで、何か発見できるとは思えないな」エドワードが言った。

「しかし、裏を返せば、その怪しい音が何もないということが、犯人のトリックを解くキー・ポイントになるかもしれませんよ」アレックスが、エドワードの方を見た。

「それは、どういう意味だい?」

「つまり、当然入っていなければならない音が入っていないということです。普段何気なく聞いていて、それと意識されていない音です。そんな音が抜けているんじゃありませんか?」

「チェスタトンの『見えない男』のような? 透明人間か? もちろん、あれは人間だったけど……」

フレデリックが言った。

「よく知っていますね」

「お前の書斎にあったのを読んだんだ」

「私も、ブラウン神父シリーズは読んだことがあるよ」

エドワードが、口を挟んだ。

「たとえば、教会の鐘の音とか讃美歌とかいったものです。もちろん、ここではそんなものは聞こえませんが……」

「確かに、監視カメラについているマイクが捕える音というのは、屋敷の中のものだと、かなり大きな音でないと無理だ。だから、犯人が故意にビデオの録音装置を壊したとしたら、アレックスが云うような大きい音に関係があるかもしれない」フレデリックが付け加えた。

「または、このカセット・テープには入っていなくて、監視カメラに付いているマイクが捉えられる音ですね?」アレックスが、新しい可能性を述べた。

「いまのお父さんの言葉で思いついたんですが、屋敷の外でした音ということも考えられるんじゃないでしょうか? それなら、マイクはかなり小さい音だってとらえてしまいますから、犯人が危険を感じたとしても不思議はありませんよ」

「しかし、その考えは、ゲート・ハウスの監視カメラが何の異常も映し出していないんだから、無理なんじゃないのかな?」フレデリックが言った。

「それとも、問題は午後九時半の銃声よりずっと後にあったのかもしれませんね。マークのカセット・テープの録音は午後九時三一分三秒の銃声のちょっと後で終わっていますが、その後に犯人が脅威と感じる音があったんじゃないでしょうか? 前に何もなったんですから」

「なるほど、そうかもしれないな。もし、マークが録音を続けていたら、不審な音を捉えていたかもしれないというんだな」エドワードが訊いた。

「残念だな」

 フレデリックは、そう言ったきり考え込んでしまった。


「どうも、これまでの話を総合すると、レイ以外の人間がこの犯罪をやるのは不可能のようだね。やはり、レイがカールとエリオットを殺して、自ら命を断ったんじゃないのかな?」エドワードが再びその考えを蒸し返した。

 相手はフレデリック一人で、場所はフレデリックのためにあてがわれた二階の客室である。アレックスは、自分の客室で報告書を作成していた。

「しかし、白い羽根と灰皿の合鍵の件がある限り、他殺の線は消えないよ」

 フレデリックが、自分の意見を述べた。

「警察は自殺者が常識では考えられない言動を取ったりしたりすることを十分知っているから、犯人はレイの心理面に関して気にしてなかったんじゃないのかな? ついさっきまで陽気だった青年が急に自殺した例は、数限りないからね」

「そういう例は、私も知っているよ。私の友人なんだけど、自宅でパーティーを開いて、みんなと楽しく過した後、急にピストル自殺してしまったんだ。私もパーティーに参加していたんだけど、パーティーの最中は陽気で冗談も言っていて、自殺の素振りは何処にも見られなかった。それに、次の日に会う約束までしていたのに、簡単に死んでしまうなんて、まったく信じられない気持ちだったよ。遺書も残っていたし、部屋のドアや窓はどれも内側から鍵が掛かっていて、自殺だということは疑う余地はなかったんだけど、その時は自殺しようという者の行動なども常識の内にあると思っていたからね」

「しかし、この事件は、謎だらけといおうか、常識では考えられないことが多いな。論文提供者といい、ジェット機を操縦できる者といい、硝煙反応の問題といい、頭の痛いことばかりだ。本当に、硝煙反応のことを解明しなければ、この事件は不可能犯罪ということになってしまうな!」フレデリックが、この事件の行く末を案じて言った。

「それとも、レイがエリオットとカールを殺して自殺したかだ」

「犯人が物理学や数字の論文提供者なら、相手は天才だ。だから、そう簡単にはいかないよ」

「幾ら頭がいいと言ったって、同じ人間だ。どんなに完璧に見えるトリックでも、何処かに必ず盲点があるはずだよ。それは、完璧さゆえの欠陥ということだってあるかもしれない」

「そういうのもありえるな」

「しかし、論文提供者もジェット機を操縦できる人間というのも、完全にみんなの中に溶け込んでしまっているな。だれだと言われても、そうかという気がするよ」

エドワードが、しみじみと言った。

「前にもいったように、カール、エリオット、レイ、それに飛行場ではトンプソンや飛行場関係者がみんな協力していたんだから、本人さえその気になれば簡単にできたはずだよ。それに、この邸では余り話をしないで、どこか他で相談とか打ち合わせをしていたんじゃないのかな?」

フレデリックが説明した。

「ところで、フレデリック、ここだけの話だけど、君はこの事件の犯人を、一体誰だと思っている?」

「そのことに関しては、まだ白紙の状態だけど、この事件のキー・ポイントをノートしてあるから、参考にすればいい。何か閃くかもしれないな。昨夜、寝る前に整理してみたんだ」

 フレデリックは、ベッドの横のサイド・テーブルの上から、真新しいノートを取って来て、上院議員に渡した。

 そのノートの最初のページには、これまで問題になって来た事柄が、丁寧に書き込まれていた。


一、 犯人は、どうやって硝煙のついた衣類等を処分したのか? 顔や髪の毛に付いた硝煙は?                                    

二、 図書室の本を、すべて新しい本と入れ替えたのは、なぜか?

三、 論文提供者は、どうして適当な理由をつけて名乗りでないのか? また、一体誰か?

四、 なぜ、犯人と思われる人物は、飛行機のライセンスを取っていないのか? また一体誰か?

五、 カールが剥ぎ取った写真には、どういう意味があるのか?

六、 なぜ、犯人は監視カメラの録音装置を壊す必要があったのか? また、マークの録音したカセット・テープには、何かこの事件の鍵となる音が入っているのか?

七、 犯人が燃やした催眠術の本の意味は? また、誰の筆跡か?


「主なものとして、この七つのことを挙げたんだけど、これらをすべて説明できれば、この事件は解決するだろう」

 フレデリックは立ち上がった。

「何処に行くんだ?」エドワードが訊いた。

「ちょっと屋敷の中を散歩してくるよ。昨日、犯人は銃器室へ行ったり、頻に地下室へ降りたりしていたようだからね。もちろん、マスター・キーさえあれば、何処へでも出入り自由だったはずだけれど……」

 フレデリックは、エドワードの方を見て言った。

「そして、この事件の要点を最初から吟味してみるつもりだ。私達が見逃している『何か』が発見できるかもしれない! 私達の推理に盲点があることは感じているんだが、まだハッキリここだと指摘できないんだ」

 この日の夜遅く、マイアミから届いた手紙の分析結果が出た。問題の手紙は、図書館にあるパソコンのプリンターから打ち出されたもので、誰でも利用が可能だったことが確認されただけだった。


フレデリックは、寝室のソファに座って考えていた。

「犯罪には、犯人の嗜好とか好みとかが、必ず現われるものだ。これまでは、犯人のアリバイのことばかり検討していたが、今度は性格とか趣味とかにスポットライトを当ててみよう。つまり、いままでは物理的な面から犯人に迫ろうとしたが、今度は心理面から迫ってみよう」と。

 この事件の犯人は、天候なども予想し、用意周到な計画を立てたのだ。もし、予定外のことが生じたら、プランA、プランBその対処法も考えていたのに違いなかった。

 このような凝った緻密な殺人をおこす頭のいい犯人だから、ミステリーにも通じているのではないだろうか? 

だから、フレデリックは、あの事件があったときハミルトン家にいた者全員の好きな推理小説をきいて一覧表にしていた。参考として、一つとはいえないときは二つでも三つでも。みんな、快く好きな推理小説を教えてくれた。リチャードがミステリー好きなので感化されたのか、みんな自分の好きなものを挙げてくれていた。

 フレデリック長官は、それを簡単に纏めた表をテーブルの上に広げてみた。


フレデリック・ヘイワード…G・K・チェスタトン「通路の人影」「見えない男」「犬のお告げ」


「奇想天外のトリックと痛烈なユーモアと独特の逆説が面白い。“見えない犯人”、“見えない凶器”、“見えない証拠”、“密室”参考になりそうだ。発想の達人だ」


アレックス・ヘイワード …エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」「アッシャー家の崩壊」「盗まれた手紙」


「有名な短編だ。本当は、『大烏(レヴン)』のような詩が好きだと言っていたが……」


エドワード・リットン  …ガストン・ルルー「黄色の部屋の謎」   


「名探偵は嘘をつく。いわゆる盲点だ」


リチャード・ハミルトン …アガサ・クリスティー「アクロイド殺害事件」「オリエント急行殺人事件」「そして誰もいなくなった」


「やっぱり出てきた。リチャードは大のクリスティー・ファンだからな。クリスティーはだれでも犯人にする。脇役の「女中」、「執事」、事件担当の「警視」。何でもありだ。アイデアではピカ一だ。他の推理作家とは一線を画す」


チャールズ・ハミルトン …S・S・バンダイン「グリーン家殺人事件」「僧正殺人事件」


「ペダンチックだが面白い。だけど、自分でも言っているように面白いのは、六作目までで、後は質が落ちる」


マーク・ウィルソン   …コナン・ドイル「ホームズシリーズ」

トニー・ウィルソン   …モーリス・ルブラン「ルパンシリーズ」


「子ども達は、ジュニア版の本で読んだのだろう? 妥当な線である」


メロディー・アンダーソン…ドロシー・L・セイヤーズ「ナイン・テイラーズ」「五匹の鰊」


「アガサ・クリスティーに並ぶ英国の人気女流作家だ。いずれも正統派の本格探偵小説だ。レッド・ヘリング? メロディーらしい」


陳志忠         …ジョン・ディクソン・カー「三つの棺」「ユダの窓」、カーター・ディクスン「黒死荘の殺人」「赤後家の殺人」


「いうまでもなく密室の王者だ。どれも、トリッキィーで独創的なものだ。アクロバッティングな密室だ。そして、この事件も一種の密室だった」


ハリー・ストーン    …エラリー・クイーン「Xの悲劇」「Yの悲劇」「オランダ靴の謎」


「これも出てくると思った。どれもこれも論理的な推理である。ハリーは緻密で慎重な性格なのだろう。作者のエラリー・クイーン(バーナビー・ロス)は、読者への挑戦において、ワザと負けているように思える。花をもたせているのだ。証拠を見せすぎである」


トマス         …A・E・W・メーソン「矢の家」、E・C・ベントリー「トレント最後の事件」、イズレイル・ザングウィル「ビッグ・ボウの殺人」


「意外だが、トマスがこんなマニアックな推理小説が好きだったなんて想像外だった。すべて、死亡時刻を早く見せ掛けたり、遅く見せ掛けたりするものだ。はたしてこのトリックは、この事件に使えるのだろうか? わからない!」


シャーリー       …イーデン・フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」


「文学の香り高い名作である。トリックも見逃すことはできない」


この難解な殺人事件は、『密室殺人事件』でもあった。

だからフレデリックはあの有名なジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』の“密室講義”を読む必要があると感じていた。だれがなんと言っても、ディクスン・カーは世界一の密室の大家なのであるから……。


「すべて本格探偵小説じゃないか?」

 フレデリック長官は、この表を見て頭を抱えた。

「しかし……」

フレデリック長官は、これらの有名なミステリーの作品の中に、この連続殺人事件を解く鍵があると確信していた。前にもいったが殺人というものには、犯人の趣味があらわれるものなのだ。この事件は『秒読みの殺人』と言ってもいいだろ? だから、犯人は大胆な度胸を持ち、冷徹な頭脳と慎重な性格の持ち主にちがいなのだ。

 たしかに、これらのミステリー群(他の古典も含めて)の中に、この事件のヒントが隠されているような気がしてならなかった。

 フレデリックは、もう一度この表を順番に検討した。

 たぶん、これらの推理小説のトリックをアレンジしたものかミックスしたものにちがいないのだ。これまでの経験からいって……。


 シャーロック・ホームズの推理は、蓋然性はあっても必然性はないとよくいわれる。

ついでにいうならば、エラリー・クイーンの推理はガチガチ論理的な推理で、エルキュール・ポワロの推理は飛躍した帰納法の推理である。

事件の解決にはどの推理方法を取ってもいい。答えに辿り着ければ、それでいいのだ。

犯人を見つけることができさえすれば……。

フデレリック長官は、もう一度この表を見直して頷いた。


 第四章


 エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチンの合同葬儀は、奇しくも二日前ジョニー・ウィルソンのために祈りが捧げられた教会で行なわれることが決まっていた。

 その日の朝食は、この事件が起こった日の晩餐のメンバーから、カールとレイがいなくなり、エリザベスとヘレンが加わっているため、人数は一緒だった。マーガレットは、医者と看護婦(※注)に付き添われて、療養所から直接参加することになっていた。(※注.いまは看護師)

 ハミルトン家のみんなは、誰も彼も一様に青白い顔をしており、口数も普段より少なく、当たり障りのない会話が続いていた。

 食事の終わり頃に、フレデリックがこの事件に関係のある質問をした。

「みんなに、もうひとつだけ訊いておきたいと思うんだが、いつかこの屋敷で大きな音がしたことがなかったかい? 何日前か、何週間前か、わからないけど……。花瓶が割れるような音なんだ」

 フレデリックは憔悴しきっており、一晩で何年も年を取ってしまったようだった。昨夜もほとんど眠っておらず、睡眠不足の顔に優慮の色を浮かべていた。何か掴んだのに違いなかった。

 ハミルトン家のみんなは顔を見合わしていたが、最初にリチャードが口を開いた。

「この邸は空部屋が多いし、子供達も悪戯をよくするからね。ちょっとやそっとのことでは、気にしないよ」

 トニーとポールは、ぼく達はそんなことなんかしないぞ! というような顔をしたが、それでも黙ったままだった。

「シャーリー、君はどうだ? メイドの誰かから、そんな話を訊いていないか?」

「別にありません。とくに苦情を聞いていないという意味ですけど……」

「子供達は遊び盛りで、いちいち気にしていたら身が保たないからね。それに、夏にはモデル・ガンで、西部劇ごっこをやっていて大変だったんだ!」リチャードが説明した。

「そうか! それがあったんだな」

 フレデリックは納得して言った。

 ハミルトン家の他の女中や料理人達にも訊いてみたが、同じ答だった。

 朝食が終わると、フレデリックとエドワードは散歩に出かけた。

 雪は降り止んでいたが、見渡すかぎり雪景色になっており気持ちがよかった。

「さっきの質問は、一体どういう意味があるんだい?」

 エドワードが、白い息を吐きながら訊いた。

「君は、誰かが空部屋で何かの実験をしたというのか?」

「まあね。その可能性は大きいと思う。たぶん、犯人は少なくとも一回は予行演習をやっているんじゃないかな?」

「なるほど。考えられることだな」

「それで、一応ゲート・ハウスの警備員にも訊いてみようと思っているんだ。これから行ってみようじゃないか」

 フレデリックが、なだらかな丘陵の下の方に見える山荘風の建物を指さした。太陽光線が雪に反射して、眩しかった。

「昨夜、あれからマスター・キーを借りて、地下の銃器室へ行ってみたんだが、簡単に銃を持ち出せるのには、少し驚いたな」

「泥棒が忍び込むわけがないし、みんな良識のある人間ばかりだから、銃の管理は意外に杜撰なんじゃないかな? 放っておいても、心配ないだろう」

 エドワードは、邸の外の森や田園の方へ目を遣った。

「しかし、子供達がいるんだから、気を付けなければね。冗談で遊んでいて暴発でもしたら、危ないじゃないか!」警察長官が案じて言った。

 屋敷とゲート・ハウスの中間にある温室兼休憩所まで来ると、二人は一服するために中に入った。

 ガラス張りの内部は文字通り暖かく、奥には蘭の花の鉢が棚の上にズラリと並んでいて、入ってすぐの所には手軽に休めるようテーブルや籐椅子が置いてあった。また、入口の脇には、椅子に座ってよく見えるように黒板があり、難しそうな数式や計算が一面に書かれていた。

「これが、ウォーカーの云っていた黒板だね」フレデリックが、黒板の数式や計算を見て言った。

 エドワードは、テーブルの傍の椅子に腰を下したまま黙っていたが、やがて感慨を持って口を開いた。

「犯人は、これを眺めながら、宇宙のことに想いを馳せていたんだろう」

「それに、エリオット、カール、レイを殺す方法もだよ」フレデリックが付け加えた。

「今朝、タカギ捜査官を見掛けたけど、一体何をしていたんだ?」

 エドワードが、ガラスの外の雪を見ながら訊いた。

「私が図書室を覗いてみると、あの日本人のヤマグチ捜査官と一緒にパソコンで、この事件を分析していたよ。パソコンに、この屋敷の見取り図、みんなの位置、時刻をイン・プットして、二次元的・三次元的にみんなの行動を追っているようだったな。彼は彼で、この殺人事件に関して、独自の見解を持っているようだからね。口を出さないとは、言っていたけれども……」

「彼は、みんなが共謀して嘘を吐いていると思っているのかもしれないな」

「たしかに、みんなの証言が嘘偽のものなら、この犯罪は可能だろう。もしも、それに私達三人の客が加われば、もっと完璧だ!」

「フレデリック、私は冗談を言っているんじゃないよ。本気で、そのことを考え始めたんだ。アガサ・クリスティーの小説にも、そんなのがあっただろう?」

「“オリエント急行殺人事件”かい?」警察長官が、真面目な顔に返って答えた。「時間的にとても複雑なトリックだ」

「そうそう、それだ。もっとも、これはアレックスが冗談で言ったアイデアなんだけど、考えれば考える程、そういう気になってくるよ。もっとも、これは頭の中の話だけで、心情的には信じられないけれどもね」

 エドワードは、立ち上がった。

 二人は外へ出ると、またゲート・ハウスの方へ向かって歩き出した。

「朝食の前、アレックスと相談していたようだけど、何を話していたんだ?」エドワードが、寒さのために肩を竦めて云った。

「殺人の容疑者の範囲も限定されているから、ポリグラフ(ウソ発見器)かPSE分析器を使うことを提案して来たんだが、夜までにすべてをハッキリさせるからと言って、一日待ってくれるように説得したんだ」

「ポリグラフはお馴染みだけど、そのPSE分析器というのは何だい?」

 フレデリックはエドワードの方をむきにわかり易く説明してやった。

「サイコロジカル・ストレス・エバリューション分析器のことで、別名を真実発見器ともいい、人間の声を分析するんだけれども、耳では聞き分けることのできないような声の震えや強弱なんかを捕えて、その真実度を測る機械なんだ。人間というものは、少しばかりの不安や動揺でも声に必ず表われるものだから、信憑性はかなり高いといわれている。また、その便利さも、ポリグラフ以上なんだ。というのは、この機械はポリグラフと違って、被疑者の身体にコードを繋ぐ必要がなくて、声が聞こえさえすればいいからなんだ」

「なるほど、すごい機械だな。しかしポリグラフとかのデータは、裁判のときには証拠にならないんだろう?」

「そうだけど、犯人の目星はつくからね。とりあえず、そこから攻めていけば、犯人のトリックも自らわかるというものだよ」

「しかし、この事件の犯人ほどの頭があれば、そんな機械を誤魔化すこともできるんじゃないのかな?」エドワードが、いま思いついたことを言った。

 フレデリックは、少し考えてから宣言した。

「そうかもしれないが、もうその必要もないよ。この事件は、細部までわかっているつもりだからね」

 ゲート・ハウスに着くと、さっそくモンローや他の警備員に質問してみたが、他のハミルトン家の使用人と同じで、何も気づかなかったという答えが返ってくるのみで、得るところはなかった。

 ただ、テレビ・モニターの前には、キヨシロウ・タカギとキョウコ・ヤマグチの二人のFBI捜査官が陣取っていて、繰り返し犯行時刻の画面を見ていた。それは、映画によく出てくるワン・シーンのような印象を見る者に与えた。


 エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチンの合同葬儀は、予定通り滞りなく行われ、ハミルトン家の全員及びフレデリック達は勿論のこと、歌手や俳優などの有名人や学界関係者や政財界人などを含む多数の人々が参列した。

 また、テレビや新聞などのマスコミも、その様子を報道しようと詰め掛けていた。

 初めてカメラの前に現われたマーガレットは、医者と看護師に付き添われており、実に美しかった。ジョニーやカールが夢中になるのも無理はなかった。病み上がりということもあって痛々しかったが、悲しみに負けまいとする凜とした姿は見る者を感動させた。

 三人の遺体は、ジョニーと同じく、ハミルトン家の先祖が眠るこの教会の墓地に葬られた。

 豪華な三つの棺の前で神父の最後の祈りが捧げられ、喪服につつまれたエリザベス、マーガレット、マーク、トニーなど、家族や親しい者が花束を贈って十字を切り、三人に最後の別離を告げ、薔薇の花が投げ込まれた。

 広大な墓地の雪景色の中には、白い十字架が立ち並び、それを背景にして、エリザベス、マーガレット、マーク、トニー達が寄り添っている姿は、この悲劇を象徴しているようで、人々に深い悲しみと心の痛みを与えた。

 そして、スティーブ、ポール、ジェニー、ナンシー等、子供達がとても心配そうな顔で友達を見守っている様子が、実に印象的だった。

「この事件は、このあと一体どうなるんでしょうね?」アレックスが、参列者の一番後ろで、エドワードだけに聞こえるような声で言った。

「なんだか、私はこのままレイの自殺ということで終わらせてやりたい気がするよ。このうえ、まだ犯人逮捕や裁判があったんじゃ、ハミルトン家のみんなの心はバラバラになってしまう」エドワードは、さらに声を潜めた。

「本当にそうですね。しかし、私は警察官ですから、犯人を見逃がすわけにはいきません……」

「ところで、どうやらフレデリックは、この事件を解決したようだね?」

「ええ、そのようですね。実は、私もひとつの考えを持っているんですよ。もちろん、この世の中には、絶対正しいということはありません」

「それは、一体どういうものなんだ? 例の“みんなが共犯だ”というものかい?」

「いいえ、もっと常識的なものですよ。それに、どうもタカギ捜査官も、別の見解を抱いているようなので、みんなの前で披露しますよ。後で、お父さんが捜査会議を開くと言っていましたから……」

 アレックスは、列より少し離れてウォーカー警部と話をしているフレデリックを見ながら言った。

 ハミルトン家のみんなと、その親しい友人達は納棺に立ち合った後、教会に残って後の儀式を行った。

 しかし、子供達(マーク、トニー、スティーブ、ポール、ジェニー、ナンシーの六人)は納棺が終わると、トマスとシャーリーに付き添われて帰って行った。精神的、肉体的苦痛が配慮されたのである。


 フレデリックとエドワードは、他のハミルトン家のみんなと一緒に、数台の車に分乗して教会から帰って来たが、少し話をしようということで、例の温室兼休憩所の前で車を降りた。

「私も、この事件を初めから分析してみようと思うんだけど、何かヒントになることを教えてくれないかな?」エドワードが、籐椅子に腰を掛けると言った。

 フレデリックは少し考えていたが、「そうだな。昨日きみに見せたノートの要点の八番目に入っていいことなんだけど、どうして犯人はジョニーの命日を犯行の日に選んだのか? ということがわかれば、この事件は解けるんじゃないのかな?」

「しかし、それはジョニーの復讐のためということで、はっきりしているんじゃないのか?」エドワードが、驚いて言った。

「もちろんそうなんだけど、それにはもうひとつ重大な意味があるんだよ」

「それは、何だい? 私も知っていることか?」

「ああ、すでに判明していることだから、よく考えてみるといい」

 フレデリックはヒントを与えただけで、黙ったまま黒板の方へ目を遣っていたが、突然オヤッと声を上げた。

「どうしたんだ?」エドワードが、その様子を見て訊いた。

「この物理の数式や計算なんだけど、朝に見た時と何ヶ所か違っているよ」

「子供達が悪戯でもしたんじゃないのか?」エドワードが、何気ない調子で言った。

「黒板の上の方は、子供達には手が届かないかもしれないけど、この黒板はアームが伸び縮みしてスライドできるようになっているから、十分書き変えられるはずだよ。そして、マークやスティーブは悪戯なんかする子供じゃないから、たぶんトニーかポールの仕業だろう?」

「なるほど、しかし、一応は確かめてみないとね」

 フレデリックはそう言うと、エドワードを促して外へ出た。

「いまのことは、この事件と何か関係があるのかい?」

 屋敷の方へ歩いて行きながら、エドワードが訊いた。

「まだ、なんとも言えないよ。しかし、何か変わったことがあったら、調べてみなければ気が済まないのが、私の性分だからね」

「でも、賭けてもいいけど、あの数式や計算に悪戯をしたのは、トニーかポールに違いない。それに朝は私達が散歩から帰って来ると、すぐにみんなは教会に出掛けたから、それ以後のことだと思う。だけど、教会からはトマス、シャーリー、子供達を除いて、みんな一緒に帰って来たのだから、論理的に何のおかしい所もないんじゃないのかい? それとも、何らかの理由があって、あの数式や計算を書き変えたのは、トマスかシャーリーだとでもいうのかい?」

 フレデリックは、少し考えていたが、やがて言った。

「私は何もそんなことは言っていないよ。私もあの数式や計算に悪戯をしたのはトニーかポールだと思う」

「それじゃ、一体全体あの黒板の数式や計算には、どういう意味があるというんだ?」エドワードは、訳がわからないといった顔をした。

「今の段階では、何も云えないよ」

 フレデリックはそう言うと、二日前事件があった屋敷の中へ入って行った。

 トマスやシャーリーや子供達に会うためである。


 フレデリックとエドワードは、二階の客室で寛いでいた。

「何かえらく精力的に訊いたり調べたりしていたけど、結局黒板のことはどうなったんだ?」エドワードが、ソファに深々と沈み込んだまま訊いた。

「やはり、あの数式や計算に悪戯をしたのは、ポールだったよ。トニーに告げ口されて、白状したからね」フレデリックは、ベッドの上に腰を掛けて言った。

「予想通りだな。私も、もしかしたら、あの数式や計算には何らかの意味があって、今日帰って来てから、トマスとシャーリーのどちらかが書き変えたかもしれないと思ったんだけれどね」

「そのことは、物理的に無理だったよ。トマス、シャーリー、子供達は二台の車に分乗して帰って来て、車庫の前で解散したそうだ。しかし二人はすぐに屋敷に入って、それ以後は一歩も出ていないと云っていたし、そのことは監視カメラでも確認されているからね」

「子供達は、その間何をしていたんだ?」

「気を紛らわすためもあって雪合戦なんかをして、例の温室兼休憩所の周辺で、しばらく遊んでいたと云っていたよ」

「しかし、いやに詳しく調べているな。あの数式や計算には、何か他に意味があるのかい?」エドワードが、不審に思って訊いた。

「あの数式や計算を写真に撮って、前にハルが撮ったものと比べると、八箇所違っていたんだけど、その写真をよく調べてみたら、私の推理を裏付けるようなことが隠されていた」

「それは、どんなことだったんだ?」エドワードが、じれったそうに訊いた。

「二つの写真を見せてやるから、きみも推理してみろよ」

 フレデリックは、そう言って胸ポケットから二枚の写真を大事そうに取り出すと、テーブルの上へ開けた。

 エドワードは、二つの写真を丹念に見比べていたが、八箇所数字や記号が違っている他は、別段何も発見できなかった。

 しかし、この写真には、確かにエドワードが見逃がした驚くべき秘密が隠されていたのである。


 それから一時間後、フレデリックは、ファルコン一〇を操縦していた人物と地下の銃器室にいた。

 もちろん、この事件の犯人と思しき人物と対決するためである。

 フレデリックが、この事件をひと通り解説し終えると、その人物はゆっくり頷いた。

「見事な推理ですね。あなたがあの日にこの屋敷に来ると聞いて、ひょっとしたらという悪い予感がしたんですが、どうやら虫の知らせが当ったみたいです。しかし、なぜ私があんなことをしたか、おわかりいただけるでしょう?」

「ああ、君の気持ちは、十分わかっている、つもりだよ」

 フレデリックの声には、相手への思い遣りが籠っていた。

「ひとつ頼みがあります」

 その人物は、上着のポケットから、掌の中に収まるような小型の銃であるレミントンのダブル・デリンジャーを取り出すと、フレデリックの方へ向けた。銀色に輝く銃口が、非常に不気味であった。

「これから自殺するつもりですが、事故死ということにしてもらえませんか? 後のことは、いろいろお願いします」

 そして、フレデリックが止めるより早く、その人物は銃口を自分の頭に当てて、引き金を絞った。バーンという大きな音が、防音装置を施した部屋中に響き渡った。

 しかし、その音は部屋の外まで届かず、屋敷の中は何事もなかったかのように静まりかえったままだった。


 読者への挑戦


 前書きで約束したように、ここまで読んだところでエリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチンの三人を殺した犯人が誰であるか当ててみてください。エラリー・クイーン先生と同じように読者諸兄(姉)へ挑戦します。フェア・プレイの精神で、こちらの持ち札・手掛かりはすべて示したので、論理的な思考さえ行なえば、犯人を見つけ出すことができるはずです。あなたには、わたしのトリックが見破れましたか? これは嘘と真の本格探偵小説なのです。そして、ジョン・ディクスン・カー、アガサ・クリスティー、エラリー・クイーン等が活躍した黄金期の古典的なミステリーです。それでは、話の続きに移ることにしましょう。


第五章


 その日の午後九時頃、フレデリック、エドワード、リチャード、アレックス、ウォーカー警部、タカギ捜査官の六人は、惨劇のあった屋敷の居間で、それぞれの椅子やソファに座っていた。

 アレックスやウォーカー警部が、今日判明したことを報告し、みんなで事件の推移を最初から確認し直すと、エドワードが言った。

「それで、フレデリック、君はエリオット、カール、レイの三人を殺した犯人がわかったというのだね? 一体だれなんだ?」

 この部屋にいるみんなは、いよいよ事件の最後が近づいて来たことを知り、緊張で身を固くした。

「この事件には、三つの解答がある」

フレデリックは、今朝から憔悴が目立つ顔を上げると言った。

「これから、私はきみ達にその三通りの推理を、包み隠さず話すつもりだ。そして、最後にきみ達に、そのうちのどれかを選んでもらうことにする。もちろん、まったく違った推理があったら述べて欲しい」

「いいですよ」

アレックスが、みんなを代表して言った。

「最初の推理は?」

 エドワードが、興味深げに訊いた。

「一つ目は、やはりこの事件は見掛け通りで、遺書の通り、レイがエリオットとカールを殺し、自殺したというものだ」

「しかし、それだとレイの部屋の前の廊下に落ちていた白い羽根は、どうなるんだ? それと灰皿の白い砂に埋まっていたマスター・キーのこともある」エドワードが訊いた。

「あれは、クッションが綻びていて、前に少し羽根が零れていた。それが、レイかカールに付いて廊下まで運ばれていたんだよ」

「それじゃ、大ホールの灰皿の砂の中にあったマスター・キーの合鍵の説明は?」

 エドワードが訊き役に回っていた。

「それは、ハミルトン家の誰かがジョニー殺しの真相を知って証拠を掴もうと思ったんだ。それなのに、二人の部屋に忍び込む前に、あんなことが起こってしまった。だから、慌ててキーを砂の中に埋めて隠したんだよ」

「論文提供者やジェット機を操縦できる者というのは誰なんだ?」

「それは、遺書にあったようにマービンだったんだ」

「しかし、これまで論じて来たけど、ドロシーが立ち聞きした話のことがあるよ」

「それはドロシーが聞き間違えたか、レイが勘違いしていたんだ。だって、カールはレイの脅しに肯定はしていないよ」

「しかし、口止め料が跳ね上がっている」

「それは、殺人の口止め料がアップしたんだ」

「図書室の本のことは?」

「カールが言ったとおり、方程式などの書き込みがあったからだ」

「カールが掴んでいた写真の意味は、一体何だい?」

 エドワードは、自棄になって訊いていた。

「動機を示していたんだ。“ジョニーとマーガレットのために”という意味さ」

「論文と催眠術の本を暖炉で燃やしたのは?」

「ただの気紛れだろう」

「もし、ジェット機を操縦できたのがマービンなら、なぜライセンスを取らなかったんだ?」

「視覚障害とかいった、ライセンスを手取するのに必要な不適合性があったんじゃないのかな?」

「監視カメラの録音装置も偶然壊れたというんだね。そして、マービンは左手も使えた。フレデリック、君だったらシャーロック・ホームズの推理だって、悉く覆すことが可能にちがいない」

 エドワードが、お手上げのジェスチャーをした。

「よろしい。取って付けたような気もするけど、君の言うことを認めるとしよう。それで、二番目の推理というやつは?」

 他のリチャード、アレックス、ウォーカー警部、タカギ捜査官の四人は、一言も発っせず、聞き込っていた。

「それは、二というより、一の一部と言うほうがいいかもしれない。これは、同じくレイがエリオット、カールを殺して、他殺のように見せ掛けて自殺したというものだ。一の変化のバージョンだね」

 フレデリックが説明した。

「この場合、前もって白い羽根を廊下に落としておいたのも、灰皿の砂の中にマスター・キーを入れておいたのも、レイの仕業だったんだ」

「なぜ、そんなことをする必要があったんだい?」エドワードが、不審そうな顔をして訊いた。

「保険金さ。加入して一年以内は、自殺だと保険金は手に入らないからね。一〇〇万ドルを義理の妹に残したかったんだ」

「もう少し待てばいいだろう?」

「しかし、そうはいかなかった。あの遺書に認めていたように、レイもトニー、マーク、マーガレットを愛していたんだ。急がなければ、子供ができるという大問題が持ち上がるかもしれないからね。そうなれば、一家にとって悲劇以外の何物でもないだろう?」

「それだと、最初の、単にレイがエリオットとカールを殺して自殺したというのと、どう違うんだ?」

「天と地ほどの差があるよ。今度は、レイがすべてを細工できるからね。論文提供者やジェット機を操縦できる者さえ、でっち上げることもできる」フレデリックが説明してやった。

「それじゃ、金庫の論文を燃やしたのはレイなんだね」

「その通りだ。いかにも意味ありげだろう」

「そうだとすると、監視カメラの録音装置を壊したものレイの仕業かい?」

「もちろんだ。誰かが発見することを期待してね。頭がいい人間なら、必ず見つけることができるだろう」

「もしそうなら、それは君だろう」

 エドワードが、フレデリックの方を見ながら言った。

「これだと、だいぶ前からレイは自殺の準備をしていたことになるな。ドロシーの話や飛行場での習慣のことなどを考慮すればね」

 フレデリックが、自分の意見を述べた。

「いつでも自殺できるようにしておいたんだ。良心の呵責に耐えきれなくなったら、それでお仕舞いにするつもりでね」

「用意周到だな。なかなか説得力のある推理だ。しかし、フレデリック、君はその推理も信じていないだろう? 昔からのつき合いでわかるよ」

 このエドワードの質問に、フレデリックは黙ったままだった。

「前に、犯人イコール論文提供者イコールジェット機の操縦ができる者の可能性が強いと結論がでただろう。次の三番目の推理というのは、一体どういうものだい?」

「できることなら、この推理は自分だけの胸に秘めておこうとも思ったんだけど、やはりきみ達には話しておいた方がいいだろう」

 フレデリックが、暗い表情をして言った。

「それは、やはりある一人の人物が犯人というものだ」

「そこまではわかっているが、一体だれなんだ?」と、エドワードは、じれったそうに訊いた。

「信じてもらえないかもしれないけど、さっきその人物と会って来たよ」

 エドワード、リチャード、アレックス、ウォーカー警部、タカギ捜査官の一同は、一様に緊張し、重苦しい沈黙の中でフレデリックが何か話すのを待った。

 やがて警察長官は自分が相手に与える効果を考えていたかのように、ゆっくりと口を開いた。

「三番目の推理は、“この事件の犯人は“マーク・ウィルソン”といういうものだ!」

 その瞬間、まるで時間の針が止まってしまったように感じられた。

 他の五人全員は、一瞬フレデリックが冗談でも言っているのかと思った。それとも、もしかしたら、気が狂ったのかと……。

 なぜなら、当然のごとく彼等の頭の中には、そんな容疑者の名前は存在しなかったからである。まさに晴天の霹靂だった。

 フレデリックが、本気でそう言っていることがわかると、みんなの口を突いて出て来たのは、反論や否定の嵐だった。

「ああー」リチャードは、フレデリックの精神状態に懐疑の念を持つかのような調子で言った。「まったく馬鹿げたことだよ」

 しかし、みんな内心では、フレデリックがこんな大事な時に冗談をいう人物ではないことを知っているので、笑って済ますことができなかった。

「もっとも、信じられないのが普通だよ。最初は、私もみんなと同じ気持ちだったんだからね」フレデリックは、まるで自分自身に言い聞かせるように言った。

「まさか、そんなはずはありません。だって、この前から議論してきたように、犯人は論文提供者であり、ジェット機を操縦できる人物なんですよ」

 アレックスが、逸早く立ち直って反論した。

「マークは、まだ十二歳だけれども、ノーベル賞がとれるほどの天才だし、ジェット機の操縦もできるんだ」

 フレデリックは、思い遣りのある口調で説明した。

「歴史は様々な天才を生んできたけれども、マークは人類が生みだした最高の天才じゃないかな?」

「トニーはあまりにも小さくてジェット機の操縦はできそうにないし、後で述べるが世界旅行に入っていないので、容疑者から最初から外したけど、マークは色々なことから私の頭には残っていた」

「とても、信じられない!」

 リチャードは、そう言ったまま絶句してしまった。

 このハミルトン家の当主の言葉が他の者の驚愕を代表していた。

「『不可能なものを消去していって、最後に残ったものが、どんなに信じられないようなことでも、真実だ』という、このシャーロック・ホームズの言葉は正しい」

 この事件では最初から驚くことが多かったが、やはり何といっても一番の極め付けは、いまフレデリックの口から明らかにされたことだろう。というのも、そんなことは考えの範疇外、常識の想定外のことだったからである。

「何度も言うようだが、信じられないのはもっともだよ。こんな常識では考えらえないことを信じろという方が、どうかしている。しかし、このことはマークに会って確かめているんだ」

「それじゃ、マークは家や学校では全く演技をしていたというんですか? 限りなく子供の役割を……」アレックスが、まだ半信半疑の面持ちで言った。

「ああ、心理学のあらゆるテクニックを使って、子供っぽく見せ掛けていたんだ。このことを知っていたのは、ジョニー、エリオット、カール、レイの四人だけだった。マークの才能に、最初に気がついたのは、やはり父親のジョニーで、天才児だと早くから騒がれるのはマークにとってよくないということで、秘密にしていたようだ。それをカールに嗅ぎつけられ、エリオットとレイの知るところとなった。また、この一年間は、カール達とは屋敷の中で論文の話をあまりしなかったから、幸いにも誰も疑いを持った者はいなかった。それに、私達の予想通り、マークが天才であることや飛行機やジェット機の操縦ができることなどを秘密にするために、三人ともいろいろ便宜を図ったり協力したりしている。だから、いままで正体がわからなかったんだ。自分に関するデータなどは、長い期間をかけてすべて処分してしまっている」

「それでは、その三番目の推理をすべて話してくれませんか?」ウォーカー警部が、まだ信じられないという顔をしながらも、慎重なものの言い方をした。

「この事件の要点を再吟味してみれば、きみ達もすべての謎や事柄が、ハッキリとマークが犯人だということを指していることに気づいただろう。これまでも持ち札は目の前に曝け出されていたのに、マークは人間の思考の常識の外にいたので、それを正しく読み取ることができなかったんだ」フレデリックは一息吐くと続けた。「この事件の一番のポイントは、何といっても硝煙反応のことだと思う。昨日じっくり分析し吟味した結果、やはりレイが殺されたのは九時三一分〇三秒だと考えざるを得なかった。拳銃が撃たれて、本棚が倒されたんだから、その時犯人がレイの部屋にいたことは確かだ。だからハミルトン家のみんなの証言を総合して見ると、犯人はハリーと志忠か子供達のどちらかということになる。時間的に廊下側のドアから出るのは無理だったし、廊下にはメロディーやシャーリー達がいた。あのドアを使うには、心理的にも危険すぎる。そして、いままで議論したように、犯人は硝煙が付いた衣服とか手袋とかを処分する時間を持った者でなければならない。ハリーと志忠は、犯行時間にはずっと庭の監視カメラに映っていたし、子供達は隣の屋敷へ行ってから硝煙検査までかなり時間を自由に使えたことが判明している。ゆえに、そこから導き出される結論はひとつしかなく、犯人は子供達だとしか考えられないわけだ。また、後で述べるようないろいろなことを考慮すると、どうも犯人は単独で、マークだと思われた。最初は、私もきみ達と同じように信じられない気持ちで、何度も何度も考慮し反芻し直してみた。だけど、やはり出て来る答えはひとつしかなかった。だから私は常識よりも、この明確な論理の方を選んだというわけだ。そして、犯人イコール論文提供者イコールジェット機を操縦できる者という推理から、マークはノーベル賞がとれるほどの天才で、ファルコン一〇を操縦したんじゃないかと推理したんだ」

 みんなは、これまで盲点になっていて見落としていた理路整然たる論理に、明らかに圧倒されていた。

「しかし、あのとき、子供達の衣服とか身体とかの硝煙検査をしても、何処からも硝煙反応は出て来なかったんだろう?」エドワードが呟くような声で言った。

「もちろん、マークはレイに硝煙を付けなければならないから、レイにスミス&ウェッソン・モデル六四を握らせて、本棚に向かって撃った。そして、マークは事件の後、もしもの時のために隣のチャールズの屋敷に行くことを計画していて、予め同じ衣類を用意してチャールズの屋敷のどこかに隠しておいた。メロディーとシャーリーに連れられて隣の屋敷に行くと、トニーやポールを唆して隠れん坊などの遊びをして、地下のゴミ焼却炉で硝煙の付いた衣類や手袋を焼き新しい衣類に着替えた。火薬の匂いは、軽いオーデコロンで誤魔化せるからね。そして、シャワーを浴びて石鹸、シャンプー、中和剤等で髪や皮膚の硝煙を洗い落としたんだ。アレックス、お前が隣の屋敷に行ったとき、子供達はシャワーを浴びていたと言っていただろう?」

「そうでした。その時マークは体に付いた硝煙を洗い流したんですね? なんて頭がいいんだ」

「頭から被る薄いカッパのようなものを使用して、小さく畳んで隣の屋敷に持ち込む方が簡単だったかもしれないけど、どうもそうしなかったようだね。トニーと、バンバンとおもちゃの拳銃で遊んで硝煙をつけるという方法もあっただろうけど」

 フレデリックは続けた。

「このように、マークには十分硝煙のついた衣類を処分したり身体に付着した硝煙を洗い落としたりする時間があったというわけだ」

「よくいろいろなアイデアを考えられるものですね」

 ウォーカー警部が、尊敬の眼差しをフレデリックに向けた。

「しかし、マークにはトニーと一緒にいたというアリバイと花瓶が割れる音、銃声、棚が倒れる音などが入ったカセット・テープという鉄壁とも思えるアリバイがあるけど、これはどうなんだい?」

 リチャードは、何が何でもマークを犯人にしたくないという気持ちで一杯だったので必死だった。

「もう気づいているかもしれないが、トニーの方は催眠術を使ってずっと一緒にいたと思わせたんだ。そして、犯行を終えて急いで戻って来てから、正気に戻して一緒に廊下へ出たんだよ。それから、アリバイを証明する問題のカセット・テープだけれども、これは前もって録音していたものだったんだ。この屋敷には同じ構造の空部屋が多いからね。何処ででもいつでもできたはずだ」

「しかし、その録音をする時、どうやって隣の部屋の花瓶をマントル・ピースから落としたんだい? そして銃の引き金をひいているし、それに本棚を倒している。その音が、あのカセット・テープに入っていたからね」エドワードが疑問を述べた。

「それは、自動的に花瓶をプッシュできるタイマー付きの器械を用意したんだろう。そしてこれもタイマー付きの空砲を使った拳銃の自動発射装置も使った。時間の間隔は五分四十九秒にセットした。この偶然そうな五分四十九秒という数字がミソだ。だれも疑ったりしない。たぶん、玩具ぐらいの大きさだと思う。また本棚を倒すetcの装置も同じように用意した。マークは天才だからこんなものを作るのは朝飯前だったんじゃないかな」

「大袈裟な舞台装置だな。あのカセット・テープにはそんな複雑で大掛かりなトリックが詰まっていたのか?」

 リチャードが、感心したように言った。

「子供だから、暇と時間はたっぷりあるからね。いつか、みんなが出かけた日に、実際レイの部屋で行なったのかもしれない。もちろん、警備室に出向いて音声をオフにしておいてね。リチャードが『今年の八月頃、陳志忠が子供達にモデル・ガンを作ってやっていたから、バンバンと騒がしかったよ』と言っていただろう。だから、テープの音を録ったのはその頃じゃないかと思う」

 フレデリックが説明を続けた。

「そうすると、犯人がうっかり花瓶を割ったと思われたことや、晩餐の時にマークがカールは頼んだものと違うカセット・テープを買って来たと言っていたことなどは、偶然でも何でもなくマークの計算どおりだったというのか?」エドワードが、ある種の感慨を持って訊いた。

「マークがカールに買ってきてくれと頼んだメーカーと違うといったのは実際それを頼んだのだけれども、わざと違うと指摘して、偶然性を付与したんだ。計画性をもったトリックだと気づかせないように……。その前もって用意した自分のアリバイが詰まったカセット・テープをテープ・レコーダーに入れ、それを勉強机のそばのテーブルの上に置いておく。そして、カールが買って来た同じメーカーのカセット・テープを一つ、地下のゴミ焼却炉なんかで処分しておけば、準備万端が整うというわけだ。ここで問題となるのは、マークかトニーのどちらかが風邪をひいて声が変わったり、誰かがやって来たりして予定が狂った時には、このカセット・テープのトリックは止めて、用意したカセット・テープは処分すればいいだけだから簡単だろう? 緊急事態になったら、このトリックはあっさり捨てる。プランBだ」

 フレデリックは、息を継ぐと続けた。

「これで、なぜ犯人は監視カメラの録音装置を壊す必要があったのか? という疑問が解けるだろう? 前もって音が入ったカセット・テープを用意しているんだから、監視カメラの録音装置に不都合な音が入っていたらまずいし、花瓶の割れる音と銃声だけで十分アリバイは立証できるからね。花瓶の割れる音と銃声がするまでの、五分四十九秒という時間が重要なんだ。ストップ・ウオッチをもっての秒読みの殺人事件だったが、もしアクシデントがあって花瓶を落として銃声がするまでの時間が五分四十九秒じゃなかったら困る。だから、監視カメラの録音装置を壊しておいた。これも、マークが犯人であることの状況証拠のひとつだ。この録音テープによって、マークは鉄壁のアリバイを手に入れたんだからね」

「周到に計画された殺人事件ですね。天才だ!」

 アレックスが、負けたという顔をした。

「なるほどね」リチャードが再び感心して言った。

「日本の日光東照宮の陽明門には、一本だけ逆さになった柱があるといいます。これは、この世には神のほかには完璧なものは何ひとつないという人間の驕りを戒めるために作ったものだそうです。でも、マーク少年は、完璧を求めた」

 祖先に日本人をもつFBI捜査官が言った。


「犯人がマークであることは、この物理的な面だけでなく、心理的な面からも推察することができるよ」

「それは、どういうことだ?」エドワードが訊いた。

「つまり、なぜ犯人はジョニーの命日を犯行の日に選んだのか? もしその理由が明確にわかっていれば、この事件は解決できるということだ」

「前にも、そのようなことを言っておられたと思いますが……。しかし、それはジョニーの復讐のためだからではありませんか?」

 アレックスは、わけがわからないといった顔をした。

「私が言っているのは、そんなことではないよ。暖炉で燃やした本のサインから、犯人はすでに六月十七日にはジョニーがカール、エリオット、レイの三人に殺されたことを知っていたことになるね。それに、この事件の動機は、ジョニーの復讐に間違いない。それなら、なぜ犯人は八月にカールがマーガレットと結婚するのを阻止しようとしないで、指を銜えて見ていたんだい? 私ならジョニーの命日まで待たないで、どんなことがあっても結婚式前に殺していたよ。だから、私は犯人がその時ハミルトン家にはいなかったんではないかと考えたんだ。そして、その頃ハミルトン家を留守にしていた人物といえば、世界旅行に出掛けていたマークとレイだけだろう? だから、マークが犯人だという結論が、このことからも導き出されるというわけだ」

「しかし、マークはカールとマーガレットの結婚には賛成で、電話で訊かれた時には二人の結婚を祝福したんじゃなかったのかい?」エドワードが訊いた。

「結婚する間際になってきかれたら、承諾するしかないだろう。いくら反対しても無駄だということがわかっていたから、泣く泣く祝福したんだね」

「電話だとしたら、カール達はもう結婚したと嘘をついたのかもしれませんね。そして、マークには事後承諾させたという可能性だってあります」アレックスが、自分の意見を述べた。「だから、そのときおかしいと疑惑をもったのかもしれませんよ」

「なんてことだ!」と、リチャードが、憤懣遣る方ないといった声を出した。他の五人も、リチャードと同じ気持ちに相違なかった。

「そして、マークはマーガレットが心臓を悪くして入院したのを聞かされて帰って来たんだけど、本当はもっと早く帰って来たかったのに違いないよ。海の向こうでは、何もできないからね」

エドワードがため息をついた。

「ジョニーが死んだ正しい場所(座標)などは、レイたち三人若しくは二人の会話を立ち聞きか盗み聞きして知ったんだろう。それで三人が共謀して父親を殺したんだと疑ったんじゃないかな。だから詳しいことを調べた」

 と、フレデリックが、推理を述べた。

「この時のマークの気持ちがわかるかい? 自分の本当の父親を殺した男が、自分の愛する母親と再婚したんだから、その憎しみや遣り切れなさは、私達の想像を超えるものがあったと思う。もし、母親が元気ならすぐにカールを事故にでも見せ掛けて殺しただろうけど、母親は心臓病で精神的なショックを与えられない状態だったから、手も足も出せなかった。心臓を悪くして入院しているのに、そのうえ夫が死んだという知らせを聞かされたりしたら、マーガレットまで天国に行ってしまうものね。それに、よくなって退院するまではセックスもなしで子供が生まれる心配はないから、マーガレットが精神的ショックに耐えられるまでに回復するのを待っていたんだ。そしてマーガレットの退院の時期とジョニーの命日が重なったので、その日をⅩデーと決めたんだ。できることならマークも母親の悲しむ顔なんか見たくなかっただろうが、マーガレットが退院すると一番恐れる子供の問題がクローズ・アップされてくるからね。どうしても、それまでには計画を終えてしまう必要があったんだ」

「そのときのマークの気持ちを思うとやり切れないな」

 リチャードが心の内を発露した。

「マークも、最初ジェット機を使うつもりなんかなかったんだろうが、エリオットがインディアナポリスに行くことになったので予定を変更したんだ。それにマークが飛行機に乗っていることは、エリオット、カール、レイの三人しか知らないことだし、このハミルトン家でジェット機を操縦できるのは、カールとレイしかいないことになっているから、都合が良かったんだ」

 他の五人は、この驚くべき話を様々な思いで聞いていた。

「あのカールが剥ぎ取った写真は、一体どういう意味があるんだい?」エドワードは、沈んだ表情で訊いた。「カールのダイイング・メッセージに思われるんだが―」

 フレデリックは、ウォーカー警部に指示して、その写真をテーブルの上に用意させた。

「一目見て、何か写っている?」と、警察長官が訊いた。

「主なものといえば、巨大石人像(モアイ)の全体とその右下に小さく写っているジョニーとマーガレットかな?」エドワードが、少し考えてから答えた。

「問題は、その小さく写っているジョニーとマーガレットなんだ。小さい―スモール、リトル―つまり、リトル・ウィルソン(ウィルソンの子供)という意味なんだ」

 フレデリックが、言葉を選びながら説明した。

「だから、カールは犯人を示すつもりでこの写真をアルバムから剥ぎ取った。これは、カールのダイイング・メッセージだったんだ。直接犯人を指し示すね」

「なるほど、そんな意味があったんですか? まったく夢にも思いませんでしたよ」アレックスが溜め息を吐いて言った。

「それが、当然さ。マークは、常に私達の死角にいたんだ。一旦、マークが犯人だとわかれば、他の謎も解けて来るだろう? まず、論文提供者は、なぜ適当な理由をつけて名乗り出ないのか? というと、マークは十二歳の少年なんだから正体を明かしても信じてもらえるはずはないし、第一自分は安全なところにいるのに、わざわざ容疑者になるような馬鹿な真似をするはずはないからね?」

「明解な答えですね」アレックスが感心して言った。

「そして、どうして図書室の本を、すべて新しい本と入れ替えたのかと言えば、やはりこれは指紋のためだったんだ。物理学や数学の専門書等に、マークの指紋がベタベタついていたら、おかしいだろう?」

「なるほど」

 アレックスが納得して言った。

「だから、図書室の本をすべて処分する必要があった。だから、カールに入れ替えさせた。例えば、だれかが論文が盗作じゃないかと疑っている。それがバレたらノーベル賞はパーになる。自分も天才だということがわかったら平穏な生活が乱されるのでイヤだ。とかいってね。この証拠隠滅の実行犯はカールさ。カールも盗作問題が露見したら、身の破滅なので唯々諾々と従わずにを得なかった」

「しかし、全部の本を処分するより、そのまま放っておいた方が、目立たないでよかったんじゃないのかい?」エドワードが言った。

「もし、きみがマークの立場で、気づかれない可能性は大きいが、発見されてしまったら命とりになるような証拠を持っているとしたら、どうする? そのまま放っておくかね?」

 エドワードは、少し考えていたが、「やはり、私もどんな危険を犯しても処分しないではいられないだろうな」


「それから、なぜ犯人と思われる人物は、飛行機のライセンスをとっていないのか? それは、もちろんライセンスを取らなかったんではなく、年令が達っしていないために、取れないんだね。それに、マークがジェット機を操縦していたことなんか公にはできないことだ。マークの秘密に関することなんだから……。これで、なぜあのような方法で飛行機に乗っていたのかということも、レイ達が必要以上に肩入れをしていたのもわかるだろう?」

「もっともな理由だな」リチャードが、絶望的な表情で言った。

「もちろんマークは両手利きだ。普段は右利きなのに、左手も使える。私たちがプールにいたとき、トニーがリンゴを投げたとき左手でキャッチしたことがあっただろう? もちろん、野球じゃ、利き腕じゃない反対の手でボールをキャッチするけど、咄嗟の時は取りやすい手を出すだろう。反射神経は、嘘をつけないよ。これは、その一例だ」

「もう一つだけわからないことがあるんだけど、あの黒板の一件はどういう意味があったんだい?」エドワードが訊いた。

 他の四人も、そのことは上院議員から聞かされて知っていたので興味があった。

「ああ、あれか! もう一度、二つの写真を見せてやるから、見比べてみろよ」

 フレデリックは予め用意していた写真をテーブルの上へ広げた。

「右がハルの撮らせた写真で、左が私の撮らせた写真だ」

 五人は、テーブルの上を覗き込んで、引き伸ばされた写真をチェックし直した。

「八箇所数字や記号が違っている他は、何も変わったところはありませんよ」アレックスが言った。「これに、一体どんな秘密が隠されているんですか?」

「わからないかな?」

 フレデリックは、笑顔をみせた。

「右の写真の数式や計算が間違っていて、左の写真のものが正しいんだ。つまり、ポールが黒板の数式や計算に悪戯したのは、今日ではなく二日前だったんだ。そして、今日の午後に私が撮らせた写真の数式や計算をメロディーに検討してもらったら、どこも間違っているところはないということだった。このことから、果して何がわかる?」

「誰かが間違っている箇所を元通りに直したんですね」ウォーカー警部が言った。

「そうだ。また、それをやる時間があったのは子供達だけで、偶然に八箇所も正解に直したことは考えられないから、子供達の中にこの数式や計算がわかる者がいることになる。そして、この数式や計算がハッキリとわかるのはカールだけだというから、子供達の中に論文提供者がいることになる」

 フレデリックは一息継ぐと続けた。

「マークは葬儀から帰ってみんなと遊んでいたけど、温室兼休憩所に一人で入ってみると、黒板の数式や計算が間違っていた。だからトニーかポールが悪戯をしたと思った。そして、あまり気にしないで直した。実際、そうじゃなかったのかな」

 フレデリックは決定的なことを説明した。

「これは、『Xの悲劇』と同じで、容疑者はひとりしか考えられないんだ。向こうは手袋をしていたから殺人ができた者、こちらは時間的に殺人が可能だった者。トニーは本当の子供だし、あのマークのレコーダーの録音には作為が感じられるだろう?」

フレデリックは、他の五人の顔を見回して、表をテーブルの上へ広げた。

「マークが犯人だとすると、私の纏めた要点をすべてクリアできるだろう?」


一、 犯人は、どうやって硝煙のついた衣類等を処分したのか? 顔や髪の毛に付いた硝煙は?                                    

二、 図書室の本を、すべて新しい本と入れ替えたのは、なぜか?

三、 論文提供者は、どうして適当な理由をつけて名乗りでないのか? また、一体誰か?

四、 なぜ、犯人と思われる人物は、飛行機のライセンスを取っていないのか? また一体誰か?

五、 カールが剥ぎ取った写真には、どういう意味があるのか?

六、 なぜ、犯人は監視カメラの録音装置を壊す必要があったのか? また、マークの録音したカセット・テープには、何かこの事件の鍵となる音が入っているのか?

七、 犯人が燃やした催眠術の本の意味は? また、誰の筆跡か?


「確かに、これを満足させる答は、すべてマークを示しているな」

 リチャードが、ため息をついた。

「マークは、チェスタトン風にいうと子供だから『見えない男』(Invisible Man)であり、ポーの『盗まれた手紙』のように大胆に行動し姿を晒していてもわからなかったし、まさしくエラリー・クイーンの『Yの悲劇』の犯人と同じで少年だった。もちろん世界一の頭脳をもっているところが違っているが……」

と、フレデリックが述懐した。

「私はみんなが好きな推理小説の一覧表を見ているうちにこのアイデアがひらめいたんだ。エッシャーの“天国と地獄”の騙し絵のように見方を変えればまったく違った風景が見える。エリオット、カール、レイの三人は、マークのマリオネット(操り人形)だったんだ」


「突拍子もないが、実に理路整然としているね」エドワードが聞き惚れて言った。

「これで、第一、第二、第三の推理と、すべて紹介したけど、きみ達はどれが正しいと思う?」

 フレデリックが、リチャード、エドワード、アレックス、ウォーカー警部、タカギ捜査官の顔を一人一人見ながら訊いた。

「アレックス、お前には何か考えがあったんじゃないのかい?」

「私はこの事件を初めから、レイがエリオットとカールを殺して、他殺に見せ掛けて自殺したと考えていたんですよ。お父さんには、最初からそう言っていたでしょう。だから、二番目の推理を選びます」

「タカギ捜査官は? 君も考えを持っていたんだろう?」

「そのことは、私の間違いでした。私もアレックス警部と同じですよ。二番目の推理以外はないでしょう」

「エドワードはどう思う?」

「同じだ。一番の推理は取って付けたようだし、フレデリック、君はまさか三番目の戯言のような推理を本気で信じているんじゃないだろうな」

「リチャード、きみは?」

「二番目の推理しかないな」

 ハミルトン家の当主は、深々と頭を下げた。その青い目には、涙が光っているようにみえた。

「でも、みんな、どうもありがとう」

「それじゃ、全員一致ということで、二番目の推理に決定するよ」

 フレデリックはそう言って、捜査会議を締め括った。


 フレデリックは立って、隣の部屋に通じるドアのところへ行き、ドアを開けて天才少年の名前を読んだ。

 そうすると、隣の部屋から、ゆっくりとマーク・ウィルソンが入って来た。

 やはり空砲では、死ななかったのである。

フレデリックが、スリ顔負けに実弾と空弾を掏り替えていたのだった。

 その顔は心持ち青褪めていたが、知的で前とはまったく別人に見えた。

 しかし、みんなはまだ夢の中にいるように思えて仕方なかった。


エピローグ


 エリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン殺人事件は、レイ・マーチンが、二人を殺害したあと、自分も服毒自殺したものと正式に発表され、一応の解決をみた。動機は、麻薬がらみのトラブルとされた。

 マスコミは、一時は大々的に騒ぎ立てたが、毎日起こる事件に話題が移り、いつの間にか静かになった。

 ハミルトン家のみんなも、この事件のことを口にする者は誰もおらず、ハミルトン家には再び平穏な日々が訪れた。

 レイ・マーチンは、いくら殺人者とはいえ、今回は汚名を着せられるわけだから、義理の妹にはハミルトン家のお詫びとして、保険金と同じぐらいのお金が、支払われることになった。宝くじが当たったという名目で、秘密裡の賠償金が支払われることになった。リチャードの心遣いであった。

 フレデリックは惜しまれながらも個人的な理由ということで退職し、のんびりと余生を送ることになった。しかし、アレックスの相談役として、まだ活躍していた。

 マーク少年はまだ十二歳の少年で、父親が殺されるという試練を経験したものの、三人もの人間を殺したのであるから、何らかの処罰を受けねばならず、あの秘密会議で、リチャードが責任を持って後見人になり、リチャードの監視下、保護下に置かれることになった。もちろん、それは形式的なもので、何の束縛も無く、自由を享受することができる。権力の乱用といえば言えなくもないが、人間的で道徳的・倫理的に無難な判断ではないだろうか?

この後、すぐさまマークが天才中の天才であることがテレビや新聞などのマスコミを通じて報道され、その才能と実力が世界のトップ・レベルにあることが認識され、一年間でこのアメリカで人気及び実力ナンバー・ワンの科学者といわれるようになった。これも、ある意味でのマークへの社会的な制裁といえるかもしれない。世界中の注目を一身に浴びるということで……。また事件当夜灰になった論文のブラック・ホールに関する理論が、今度こそ自分のものとして発表され、その実力が認められ、異例のことだが、十二歳の少年に博士の称号が与えられた。

なお、これまた例がないことだが、続いてジェット機のライセンスも取得することができた。どちらの場合も、ハミルトン家の強力なバック・アップがあったことはいうまでもない。

 マークが天才だということが明らかになっても、マークの周りの人間関係に変化はなく、誰からも愛されていることに変わりはなかった。またスティーブ達との友情もジェニーへの愛情も以前と同様で、天才であるということを除けば普通の少年とどこも違わない生活に戻っていった。


 マーク・ウィルソンは、約三十年前におこったジェラルド・オブライエン殺人事件のことから、三年前のエリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン殺人事件のことに思いを馳せていたが、やはり一番気に掛かることは母親のマーガレットと弟のトニーのことだった。母親と弟のためには、どういうことがあっても、自分の父親の殺人事件の動機を隠さなければならないし、知られてはならなかった。

 マークは桟橋まで迎えに来てくれているガール・フレンドのジェニー、愛する母親のマ―ガレット、弟のトニー達を見ながら、手を振っていた。ヨットの旅はもうすぐ終わろうとしており、桟橋の人々の顔もよく眺めることができた。

 マークは、肩に手の重みを感じて後ろを振り返った。そこには、にこやかな笑顔が浮かべて、祖父のリチャード・ハミルトンが立っていた。また、自分を暖かく見守っていてくれるチャールズ達のやさしい顔も見えた。

 マークは、再び心の中に暖かいものが込み上げてくるのを感じていた。

愛こそがすべてだ、と……。


後書き


メイン・トリック

これは、アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」と同じく、読者に仕掛けるトリックです。最初の何行かで犯人を推理するという―。


 この物語で最初に述べたことを纏めると次のようになります。

 小説では地の文は信じなければならない。

① 冒頭で、マーク・ウィルソンが回想するのは、コロンブスがアメリカ大陸を発見して五百年たつというのだから一九九二年のことである。マークは、ノーベル賞候補だが何年も前からその実力はあった。趣味はヨットと飛行機で、3年前(1989年)にはジェット機の操縦ができた。

(※注1.この5百という数字は、499年でも501年でもなく500年である。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは、一四九二年です)

② そして、このエリオット・マーカム、カール・ウィルソン、レイ・マーチン三重殺人事件が起きたのは、二百年前にフランス革命がおこった、というのだから一九八九年のことである。しかもジェット機を操縦できたのは犯人、レイ・マーチン、カール・ウィルソンの三人だけだった。それに犯人は、天才的な頭脳をもつ。だから―。

(※注2.この2百という数字は、199年でも201年でもなく200年である。フランス革命がおこったのは、一七八九年です)

③ ゆえに、マーク・ウィルソンが犯人だ。

これは、純粋な論理学の三段論法です。 

 この論理により、他の推理の可能性はすべて否定されることになります。

(日本語で、約という言葉やおよそという形容詞はつけていないので,JUSTといういみになります)


『この作品のサブタイトルがThe Tragedy Xとなっている。間違いではないか? エラリー・クイーンの“Xの悲劇”は、正式には“The Tragedy of X”である。だから、マニアならその命名はオカシイと思うだろう。普通なら“The Tragedy of  X”とするはずである。それなのに、なぜこの作品のタイトルを“The Tragedy  X(これを直訳すれば悲劇Xで、Xの悲劇ではなく間違っている)”としたのか? その答えはこうだ。

「推理小説ファンなら、作者は“The Tragedy of  X”とするはずだ。それを“The Tragedy  X”としたのは、単に間違えただけなのだろう。だから、作者はおっちょこちょいか大雑把な人間だ。だから、五百、二百という細かい数字にも、あまり注意を払っていなくて、約五〇〇、約二〇〇と言う意味なのだ。だから作者は単なるバカにちがいない」

しかし、正確に五〇〇、二〇〇という数字が真相で、サブタイトルをワザと間違えてのミス・リードを誘ったのだから、これも大いなるトリックのひとつである』


この500年、200年を、五〇〇年、二〇〇年としようとした(より正確性をもたせるため)が、敢えて飛躍させ五百、二百としたことに注目してください。五〇〇年、二〇〇年とすれば、これは推理小説ではなく論理小説になってしまうので、5百年、2百年として推理の余地を残したのです。このコロンブスのタマゴを発見できればあなたの勝ち、発見できなければ私の勝ちです。

たとえば、約五〇〇年、約二〇〇年だとしても構いません。国語辞典を捲ってもらえばわかると思いますが、十年も違えば、もう“約”という言葉は使えません。もし、約五〇〇年、約二〇〇年だとしても、これは論理小説ではなく、推理小説なのですから、どうして作者がこんな伏線を張ったのかという意図と企み(謀)に想いを馳せていただければ、マーク・ウィルソンが犯人だという答に辿り着けるはずです。ここでは孫子の“彼を知り己を知れば百戦殆からず”という言葉を贈っておきましょう。(※注)想像力が人を殺すのです。


※注.推理小説では、「なぜ作者は、そんなことをするのか?(書くのか?)」と考えを巡らせることが、大いなる謎(ミステリー)を解くヒントになったりするものです。


敢えて謂うならば、このタイトルのトリックは心理的トリックで、この数字のトリックは物理的なトリックです。つまり陰と陽、柔と剛、ソフトとハードのトリックです。(※注)


※注.数字の問題で、最終的に、故意に、何箇所仕掛けた(トリックを使った)ところがあるでしょうか? それは読者諸兄(姉)に満足していただくためでしょうか? それとも、大いなる謎(ミステリー)があるのでしょうか? 事件が起こったのは、一九八九年のことで、「瀬戸大橋に次ぐ、世界第二位の吊橋であるベラザーノ橋」、「小型ビジネス・ジェット機ファルコン一〇」、「カセット・テープ」、「固定電話」等etcから、だいぶ昔だということを窺い知ることができる。もちろん、冒頭の「小学校四年の時に殺された父親」というのは大きなヒントです。マークは、小学校四年のとき本当の父親の“ジョニー”が殺され、小学校五年のとき義理の父親の“カール”が殺され(死んだ)のですから……。


おわりに

「予告された殺人の記録」(※注)では、アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し」に挑戦と書きましたが、この「Xの悲劇(The Tragedy X)Invisible Man」の方が読者に仕掛けるトリックという点では相応しいと思います。もちろん、これはエラリー・クイーンの「Xの悲劇(The Tragedy of X)に挑戦した物語です。

 本格探偵小説の格言に、肉を切らせて骨をたつ、ではありませんが、わざと負けて勝ちを譲るというものがあります。読者諸兄(姉)が、マーク・ウィルソンが犯人であることを見破って、満足されることを心から祈っています。

 考えてみると、アガサ・クリスティー、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーなどが活躍した黄金期の探偵小説はみんなバカミスです。頭の中では犯行が可能ですが、現実には不可能なものばかりです。ですが、私はそれを否定するものではありません、むしろ尊敬し賞賛しています。なぜなら、現にこうして本格探偵小説をしたためているのですから・・・・・・。

 それじゃ、読者諸兄(姉)の皆様、またお会いできる日を楽しみにして、筆を置くことにします。

 So Long!


※注.「予告された殺人の記録」を読むにあたって、L・ウイトゲンシュタイン『論理哲学論考』、『哲学探究』参照。                                                     

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Xの悲劇(The Tragedy X)Invisible Man 2022 高原伸安 @nmbu

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