火神の愚かな贄

 目に見える範囲すべてを燃やし尽くした火神アグニは、地上に降り立った。足元には唯一燃やさなかったジャラルの身体が横たわっていた。

「死んだか……否」

 すべての不相応な望みを、憎しみを喰いきったかに見えたその身体から、微かだが何かが溢れてくるのが分かった。

 それは温かく海風が香るような、煩悩よりも遥かに純粋で無垢なもの。彼の抱く夢と呼ぶものだった。死期が近付いてなお、それは強く溢れて香った。

「…………」

 青年の傍に跪き、足元の灰を掬う。火神が掌の灰に息を吹きかけると、白き灰はたちまち銀色の水に変わった。何故だか、火神にはそうすることが出来るという確信があった。

 虫の息のジャラルの口に水を運ぶ。それは後に不死の聖水アムリタと呼ばれるものであった。

 見る見るうちに青年の胸の傷が塞がり、顔に血色が戻っていく。光を取り戻した琥珀色の瞳が瞬いた。

「……あれ?死んでない……?」

 起き上がったジャラルは、何があったのか分からないというように全身を見回した。傍らの火神に問いかける。

「火神、お前が助けてくれたのか」

 神は小さく溜息を吐く。

「お前はこれから死ぬ事がなくなった。瀕死の傷を受けようと立ち所に塞がるだろう。永遠の命を抱え、千年先も生き続けることになる」

「それって……」

 それは永劫の不死の苦悩の始まりに他ならないはずだったが、それでも青年の瞳は希望に輝いていた。一族を出て、外の世界を見に行く。叶わないと思っていた夢の先をその目に見る事が出来る期待感に満ち溢れていた。

 火神は彼の中に沸き起こる感情に眉をひそめる。

「お前の夢は不味くて敵わぬ……我が贄として、千年先まで付き合ってもらうぞ」

「……ああ、任せとけ!」

 ジャラルは眩しい笑顔を向けた。



 時は流れ――現代。

 砂色の服に身を包み、黒い巻き布を頭に巻いた若者が二人、乾いた砂の地を踏んでいた。およそ人が歩いて渡るには過酷な道だったが、渇きをものともしない彼らは駱駝らくだの代金をケチって徒歩で砂漠を完歩しようとしていた。

 琥珀色の瞳の青年が、ふと思い出したように隣の男に語りかける。

「そういえば、カタールでワールドカップやってるらしいぜ」

「どこだ」

「サウジアラビアの隣のほら、ちょっと半島が突き出したとこあっただろ。こないだ市場スーク乳粥マドゥルーバ食べて俺が腹壊したとこ」

 十数年前の記憶を辿り、火神は頷いた。彼らにとっては昨日の事のようだった。

「ああ……あったな、あそこか。行くのか?」

「俺、学んだんだよな。こういう世界で注目されるイベントは世界中から人が集まるから、美人に出会える確率が高ぇ。祭は現地で楽しんでこそ、だろ? 砂漠越えてすぐだし、行ってみようぜ」

 八百年を超える時が経とうと相変わらずどこまでもよこしまな動機だったが、火神は芳醇な煩悩の香りに目を細めた。

 しみじみ、と言ったようにジャラルは呟く。

「はー、乳揉みたい」

「……本当、煩悩に事欠かんな、お前は」


 砂嵐を越え、二人は街を目指して歩いていく。

 永劫の命を抱えた彼らは、いつまでも欲望の赴くままに世界中を旅したという。

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火神と愚かな贄 月見 夕 @tsukimi0518

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