戦線

 なすがままに戦場へ駆り出されたジャラルは、曲刀の重みを腰に感じながら馬上で溜息を吐いた。馬に乗れるものはすべて、逃げる間もなく一族郎党駆り出されたのだった。火神アグニは人間の争いには加担せぬと、小鳥の姿で青年の肩に留まっている。

 遥か後ろに見えるのは守るべき聖地。ここを抜かれれば陥落してしまう、彼らは要衝を任されていた。

「なあに、溜息なんて吐いちゃって。怖気付いた?」

 隣で同じく馬に跨るレイラは、小馬鹿にするように兄貴分を揶揄する。

「うるせーな、普通来たくねえだろ。死ぬかもしれないのに」

「あたしは怖くないわ!神とご先祖さまに恥じぬように、立派に戦い抜いて見せるんだから」

 勇敢に言ってみせる彼女だが、その実瞳は震えていた。これが初陣となる少女の、精一杯の虚勢だった。

 前方の土煙が近付く。来たぞ、と誰かが叫ぶや否や、集団は武装した軍勢と相見える事となった。



 西の軍勢は相当な手練だった。名将と謳われる当代のスルタンの猛攻を抜けここまでやって来たはずだったが、その勢いは留まるところを知らなかった。むしろ、悲願の聖地奪還を目の前にして戦意が盛り返しているようにも見えた。

「く……」

 ジャラルも負けじと曲刀を振るうが、一人二人切ったところでは話にならない。それに加え、あちらの奥に長弓隊が控えているのか、軍勢を抜けても雨のような矢が降り注いで行く手を阻まれる。戦況は芳しくなかった。

「これじゃ切っても切っても――」

 矢を切り落としながら泣き言を漏らそうとしたその時。

 彼の目の前で、少女が射落とされた。

「レイラ!」

 彼女は苦悶の表情で馬上を転げ落ち、地に伏せる。慌てて馬を降りたジャラルは駆け寄るも、胸に深々と刺さった矢は骨を貫き肺に達しているようだった。

「う……痛い、苦しいよ……ジャラル……」

「レイラ……」

「嫌だ……怖いよ……あたし、死んじゃうの……?」

 その瞳は戦いに身を投じる前の輝きなどなく、ただ十代の少女らしく死への恐怖に怯えていた。止めどなく溢れる血に、青年は彼女の死期を悟る。

「……火神、頼む……最期はせめて、安らかに……」

 ジャラルの求めに応じ、黄金の鳥はレイラの瞳の奥を見つめた。少女の苦痛と死の恐怖、生への執着が、火神の腹に流れ込む。

「あ……」

 何の苦しみも憎しみもなくなった少女は、穏やかに相好を崩し、息を引き取った。その瞳が光を失うのを、ジャラルは黙って見ていた。

 やがて、震える声を絞り出す。

「レイラ……皆……こんな事って……まだこいつは……十五歳だったんだぞ……」

 辺りには少女だけでなく一族の見知った顔も倒れ伏しており、一様に血煙に覆われていた。死んだ者は帰って来ない。戦争に身を投じた時から分かっていたはずなのに、現実感を伴って襲いかかる。失ったものへの後悔に叫ばずにはいられなかった。

 しかし彼の慟哭は、いつの間にかすぐ側に迫っていた騎士の襲撃により阻まれた。

「が……」

 ジャラルの背から胸を、一筋の長剣が貫いた。



 鎧の兵士が長剣を引き抜くと、刃の軌跡に赤黒い血が舞った。ジャラルの身体は支えを失った布切れのようにその場に崩れ落ちた。砂色の服が濃く赤く染まっていく。

 返り血を浴びた馬上の兵士は、ひとつ血振るいをすると不敵に笑いその場を駆け抜けて行った。

 動くものがいなくなり、荒野にはただ累々と死体だけが折り重なっていた。

 レイラの死体の陰から這い出た黄金の鳥は、そっとひと息吐いたかと思うと炎に包まれた。

「ジャラルよ」

 人の姿をとった火神は、足元で動かない贄に跪き、声を掛けた。彼の死が惜しくなったわけではなかった。ただ、うつ伏せの青年からこれまでにないくらいの感情が沸き起こるのを感じていたからだった。濁った琥珀色の瞳は、それでもなお力を失ってはなかった。

「俺は、死ぬのか」

 血の泡と共に、言葉を絞り出す。空を掴んだ拳が、血溜まりに叩き付けられる。

「ああ……奴らが憎い……憎い憎い憎い……こんな……終わり方だなんて……まだ生きていたかった……!」

 憎しみと生への渇望がその身から滲み出る。すべての思いを傍らの神に託そうと、語りかける。

「火神……俺を、喰え。皆の仇を……取ってくれ。そして……代わりに……俺の夢を、叶えてくれ」

 咳き込んだ彼はそれ以上言葉を紡ぐことは出来なかったが、火神には彼の望む夢が何なのか分かっていた。

 一族を出て、自由に外の世界を旅すること。

 火神が青年の瞳の奥をさらうように見つめると、感情の激流が止めどなく流れ込んできた。それは身分不相応な欲望を抱く『とん』であり、世を憎み嫌悪する『じん』であり、世間とその理を知らぬ『』であり……凄まじい芳香を放つ、煩悩の奔流だった。

 余すことなく吸い上げても衰えない勢いに、火神は笑みを浮かべる。その身の隅々が力に満ち、渇望が充たされるのを感じた。

「おお……」

 黄金の炎に包まれた火神は、空へと舞い上がる。今すぐにでも、みなぎる力を爆発させたかった。眼下では芥子粒のような人間たちが小競り合っている。

 す、と視界から消すように手を振ると、地上の人間たちは金色の業火に包まれた。

「フフ……まだだ……まだ燃やし尽くしてくれる……!」

 火神は扇ぐように両手を広げる。黄金色の絨毯のように、地上のありとあらゆる物質を燃やし、荼毘に付していく。

 聖地を囲む荒野は、小石の欠片ひとつ残さず等しく白き灰に還った。



 そこから少し離れた小高い丘の上で戦況を見守り指揮を執っていた男は、側近たちに囲まれ恐れ慄いた。

「おお……なんという事だ」

 自らの軍が、歴戦の兵士たちが、炎の波に呑まれる様を、為す術なく見ていることしか出来なかった。

「王よ……これ以上は」

 年老いた側近は撤退を促そうと、己の主にかしずいた。地獄の業火は確実に王のいる方へも燃え広がっていた。

「我らの聖地は、もうすぐそこにあると言うのに……」

 炎の向こうに望む聖地に手を伸ばす。王は目の前で潰えてしまった宗教的悲願の達成を惜しむように手を伸ばし――割れんばかりに奥歯を噛み締め、手に入らなかったものを視界から消すように盾を掲げた。

 幾ばくかそうしていたが、彼は顔を上げ側近に向かってこう言った。

「全軍撤退だ!ただのひとりも取り残すな!」

 獅子心王と民草から称えられた勇敢な王は、残った全軍に撤退を指示した。

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