短編

@kurogoma12

Stern Träne



 父が振りかざしたナイフが、銀色の軌跡を描く。身体は嘘みたいに震えているのに、喉から絞り出した声が音になることはない。単純な話だ。もう随分と前から、私の口は自由を奪われている。それどころか、私の身体と精神に残された権利なんてものは、既に何ひとつとして無かった。

 どすんと大きな音をたてて、ナイフは床に突き刺さった。空を裂く銀の脅威は、最初から私を殺す目的で振り下ろされたわけではない。ただ私を怯えさせたかっただけだ。至近距離にいる筈の父の怒号が、遥か遠く聞こえる。私達親子の関係性は、行きつくところまで行きついてしまったのだなと、他人事のように考えた。涙一つ溢さず、震えながら現実を受け容れる私に、父は疲れたのだろう。怒声をひとつ、ふたつと浴びせると、突き刺さったナイフを回収もせずに去っていった。


 「これって最後のチャンスなんじゃね?」


 もごもごと、独り言をつぶやく。私の脳内フィルターによって、はっきりと発言されたように補完しただけで、実際はほぼ濁点付きの呻き声だろう。長い時間結ばれっぱなしだった縄は、少しだけ隙間ができていた。痩せ細った腕の一本を、どうにか引っこ抜いて、突き立てられたナイフを手にする。久方ぶりの自由を手に入れた右腕は、みっともなく震えていた。途轍もなく重く感じる凶器で縄を切りつけると、いとも容易く拘束は解けた。ついでに口を覆い、ぬるくなった布も捨てる。

 逃走シュミレーションの中でも、こんなに上手く事は運ばなかったのに。すんなり切れてしまった事実にやるせなさを感じながら、私はゆっくりと立ち上がって、窓を開けた。


 暗く煤けた空に、真っ白な月だけがぽつんと浮かんでいた。どこか寂しい空の色彩に、どうしようもない不安が募る。この日常から逃げ出したとして、朝を迎えられる保障はどこにもない。血眼になって探す両親から、逃げ続けるのは至難の業だろう。ましてや、自分はまだ中学三年生だ。補導されれば、一発アウトである。血の滲んだ四肢を見せれば、助けてくれるかもしれないけれど、家宅捜査は免れない。そうすれば私の身柄は研究所へ送られて、実験体にされるかもしれない。そんな研究所があるのかなんてわからないけれど、少なくとも自由にはなれないだろう。結局のところ、一人ぼっちで逃げ続けるしか、私に残された選択肢はないのだ。


 胸に決意を抱いて、一際長い縄を拾う。夜は存外に短い。正確な時間はわからないけれど、行動は迅速に。然れども、悟られぬよう慎重に。スニーキングミッション、或いは脱出任務の鉄則である。たくさんゲームしてきた甲斐があったな、私。自分を鼓舞して、狭い室内で唯一のドアノブへと縄を括り付けた。縄の余りを窓の外へ垂らすも、長さはあんまり足りていない。此処で死んでしまったら元も子もないのだけれど、生きたまま死んでいるよりかは、幾分ましだろう。そう結論付けて、縄を片手に窓から脱出を試みる。私の脳内にはドーパミンだか、アドレナリンだかが、きっとドバドバに溢れかえっていた。


 「脱出成功…!」


 ややどころか、めちゃくちゃに痛む足を無視して、成功の喜びを噛み締める。まだまだ逃避行は始まったばかりだというのに、胸の中には達成感が満ち溢れていた。

 しかし、ここで満足してはいられない。まだ家の敷地すら出てはいないのだ。両親に見つからぬよう、静かに門を抜け出して、道路を走り始める。澄んだ空気が肺を充たす度に、喜びが駆け巡った。眩む視界も、うまく力の入らぬ手足も、身体中の痛みも忘れて、ただひた走る。目的地は最初から決めていた。


 町はずれの、誰も寄り付こうとしない廃教会。幽霊が出るだとか、やばい薬の売買をしているだとか、ヤンキーの溜まり場になっているだとか。多種多様な噂で固められた、未踏の場所。危ないから近寄ってはいけないよと幼い頃に言いつけたのは、父だったか、母だったか。そう古くもないはずの記憶は、精確な再生を拒絶している。


 「まあ、もうどうでもいいよな。」


 刺すような冬の冷たい空気が、肺を灼く。もうほとんど走っているというよりは、身体を引きずって歩いているに近い様相だったけれど、幸いなことに人気は全くなかった。崩れ落ちそうな身体に鞭を打って、ようやく姿を見せた廃教会へと転がり込む。体感にして一晩中は走り通したほどに、身体は疲労を訴えていたけれど、実際はせいぜい30分程度だろう。そろそろ両親も、私の逃走に気付いた頃かもしれない。


 教会の外壁を覆う鬱蒼とした草木は、建物の内部にも浸食していたらしい。閉まらない扉の隙間から滑り込んだ自分と同様に、草木も此処から侵入したのだろう。くすんだ柱を覆う蔦に、剥がれ落ちた壁、所々崩壊している天井。暗くて細部は窺えないものの、中央に施されたステンドグラスは意外にも、美しい造形を保ったままであった。なんとか様の像は無残にも倒れているというのに、硝子って実は強度が高いのだろうか。そんなどうでもいい思考を巡らせつつ、長椅子へと寝転がった。瞼を降ろして、久方ぶりの自由を甘受する。


 「いやー、きっつ。体きっつ。体いった。意味わかんねーーー。しんど。」


 極度の疲労状態にもかかわらず、何故だか睡魔はやってきてはくれなかった。降って湧いた自由に、身体も思考も追いついていないのだ。山のように思いつく恨み言を飲み込んで、ぼうっと天井の隙間から空を見る。ひとりぼっちの白月が、自分に重なって段々と哀しくなってきた。つい、枯れ果てたはずの涙が零れそうになってぶんぶんと頭を振る。思考を変えよう、眠れないのは布団がないからかもしれない。いっそ、草木に浸食された床の方が、よっぽど眠りやすいのかもしれない。日本人はやっぱりふかふかお布団がないとだめだよな、そうそう。太陽のにおいに包まれて眠る日々が、どれだけ幸福な日常であったかを思い出して、眦に涙が滲んだ。


 「なんでわたし、こんなことしてんの?」


 ずるずると鼻を鳴らして、止まらなくなった涙をぬぐう。ころん、と長椅子の上に大きな水晶が転がった。きらきらと輝くそれに、唇を噛む。私達家族が崩壊した原因は涙が溢れる度に、ころんころんと音を立てて、辺りに散らばった。


 「へえ、珍しい病気にかかったもんだな。雑巾みたいに薄汚い、侵入者おじょうさん。」


 人間は本当に驚いたときは、声が出ない生物ものらしい。空に浮かぶ星のように、美しくきらめく石礫を睨みつけていた私は、声にならない悲鳴を上げて長椅子から転げ落ちた。


 「うっわー、その辺ノラネコの糞とか転がってるのに、よくやるわー。つっても、どこもかしこも汚れてるし、あんまり糞尿とか気にしねえタイプ?」

 

 そんな訳ねえだろ、馬鹿なの?!どんなタイプの人間なんだよ、一般的な人間はふつう気にするわ!反射的に喉を飛び出しそうになった台詞は、やはり音にはならず、もごもごと口内を移動しただけだった。溢れかえった唾を飲み込んで、重たい背を持ち上げる。幸いにも、ノラネコちゃんの糞とドッキングする、悲しいハプニングには見舞われなかったらしい。たぶん。きっと。おそらく。メイビー。


 目を白黒させる私をよそに、突然現れた失礼な何者かは、宙に浮かんでけらけらと笑っていた。宙に浮かんで。ちゅうにうかんで?


 「は?!いや、浮いて…!?浮いてるーーーーーーーーーッ!!!!!!」


 うっかり爆音で叫んでしまった私は、はっとして口をふさいだ。私ってば、今現在進行形で逃走中なんだった。いけない、いけない。うっかりさん。てへっ。眼前で起きている不思議な現実から全力で目を背けて、長椅子へと腰掛ける。たぶんこれは夢か何かで、今私は眠っている最中なのだ。そのように思い込めば、大体そのようになる。思い込みの力は偉大である。


 「そら君、浮くだろ普通。俺、吸血鬼だもん。そして此処は、俺の530番目の棲家マイホーム

 「何言ってんだこいつ。」


 条件反射とは恐ろしいもので、いつの間にか思っていたことを口から吐き出してしまっていた。だって、仕方ないじゃん。突如として中二病も真っ青の意味不明なことを宣う変な人を見たら、普通こうなるじゃん。言い訳をたらふく咀嚼して、どうにか飲み込む。未だぷかぷかと宙に浮かんでいるのは、ほら、夢の中だから。イッツアドリームワールド。イグザクトリー?


 「うそうそ、此処は俺の52番目の別荘マイスイートホーム。」

 「いやめちゃくちゃ数字盛ってんじゃん。あとそこじゃねえんだわ。常識的に考えろや。」


 頓珍漢な自称吸血鬼は何が可笑しいのか、早口で捲し立てる私を見て、又もけらけらと笑った。この流れでなんで笑うの、意味わかんない。夢の中とはいえ、常識の範疇を超えすぎているのでは。


 「よく見てもやっぱ侵入者おじょうさん、きったねえな~~。」


 何が悲しくて私は、意味不明な自称吸血鬼に指をさされて、罵りながら爆笑されなければならないんだろう。どんな夢だよこれ。


 「何なの?アポイメント無しに俺の実家マイスウィートホームへ侵入した挙句に、なんでそんなきったねえの?家出?常識考えろよな。ピンポン押して、土産のひとつやふたつやみっつは寄越すのが礼儀ってモンだろうよ。」

 「絵に描いたような非常識に礼儀語られたくないんですけど!?自称吸血鬼が、人間の常識を騙るんじゃねえ!!!」


 そもそも、ここは廃教会だ。誰のものでもなく、誰も棲んでいない、錆びれて、廃れて、今にも朽ちそうな、立派な廃墟である。確かに不法侵入かもしれないが、人っ子一人いない廃墟へ手土産を持参し、呼び鈴を鳴らしてお宅訪問する人間が、何処の世界に存在するというのか。


 「いやいや。昨今じゃあそういう常識マナーは大事にしないと、生き残れないんだぜ?領地マイホームを守るのも大変な世の中なんだよ、きったねえバカにはわかんねえかもしれんが。」

 「なんっで私は夢の中で、よくわからん生物に罵倒されてんの…。夢のなかでくらい、幸せになってもよくない…?」


 段々と嫌気がさしてきて、宙を揺蕩う自称吸血鬼から視線を逸らした。はあと大きな溜息と共に寝返りをうつと、嘘みたいな激痛が身体中を奔る。最近の夢は痛みまで再現するのかと、これがまぎれもない現実である証拠に背を向けた。いつの間にやら引っ込んでいた涙が滲む気配を感じて、ぎゅっと目を瞑る。そして、はっとした。そういえばよくわからない生物は、数年前から私の身に降りかかった不幸の根源をと称してはいなかっただろうか。


 何かがわかるかもしれない。夢だと思い込んでいた自分を棚に上げて、現実と向き合う覚悟を決めた。がばりと勢いよく上半身を起こして、宙空をふよふよ飛んでいる謎の生命体へ視線を戻す。


 「ねえ、あんた。これ、何かわかるの?」

  

 長い前髪で隠していた右目を晒して、正体不明の生命へ指し向ける。僅かな月明りに照らされた自称吸血鬼は、暗くて詳細はわかりかねるものの、よくよく見るとかなりの美形だった。煌びやかな金色に縁どられた瞳は、宝石みたいな紅色だ。肌は夜闇の中でもわかるほど青白く、恐らく背はめちゃくちゃ高い。中世貴族っぽい豪勢な装束を身に纏い、夜と同じ色彩のコートを羽織っている。所々に金の装飾が施された荘厳な出で立ちは、どこかフィクションめいていた。


 「最近の人間の子供って非常識だな、ホント。挨拶は大事、第一印象が勝負って教わらなんだか?」

 「そのキャラ設定長いわ、引っ張りすぎなんだよ。あと初対面で人のこと、雑巾扱いしたヤツに言われたかねえ!こんばんは!私の名前は千秋ちあき!よろしくお願いします!!」

 「はい、よろしい。最初からそうしとけってんだ。」


 やだー、こいつめちゃくちゃ面倒くさーい。本音をどうにか心の内に閉まって、手がかり欲しさに対話を試みる。そう何事も対話が大切なのだ。未知との遭遇であったとしても、コミュニケーションが取れるのであれば活用すべきだろう。


 「で、あー。奇病それな。流星病シハーブ・マタルか、星憑病ステラ・レムレースだったかなあ。いや、星泪症シュテルン・トレーネ?ああ、たぶん、そんな名前だったな。」


 訝し気な表情をする私を知ってか知らずか、或いは気にも留めていないのかはわからないが、自称吸血鬼は長く細い指を顎に添えながら話を続けた。どうにも中二病のレベルが高そうな言葉の羅列から意識を逸らす為に、私は宙に浮かぶ生命体を観察することにした。よく観察してみても、この生命体は性別がわからない。服装は男性のように見えるが、どことなく女性っぽい雰囲気もしている。声はどちらともとれる、中性的な音色だ。男性か、女性か、はたまたどちらでもないのか。そこまで思考して、彼方へ逸らした思考を強引に戻した。あまり、詮索しない方がいいことも世の中にはたくさんあるのだ。


 「人間の眼球に、星の魔力が混ざることで、星に近い成分で構成された魔石を落とす病気だ。治す方法はない。人界では患者の落とす涙は希少な宝石として扱われ、高値で売れる。よかったな、ボロ雑巾。石油王になれるぞ。」 


 何から突っ込めばいいのかわからないが、自称吸血鬼の言葉に、ささくれだっていた心が怒りに震えた。高値で売れる?よかったな?。高値で売れることなんて、誰よりも知っている。この奇病のせいで幸福な家庭は崩壊したんだ、良い訳がない。堰が切れたように、ため込んでいた感情が爆発した。

 父も、母も、穏やかで、優しくて、時に厳しい、ふつうの人達だった。娘を縛り付けて脅迫したり、暴力を奮うような人達じゃなかったんだ。最初は病気のことだって、とても心配してくれていた。治療の手がかりを掴むために多額の借金をこさえ、色んな場所へ赴いては治療法を探してくれていた。色んな人たちに騙され、嘲笑され、馬鹿にされて。そうして少しずつ、歯車は狂っていった。。どうしようもない事実を知り、おかしくなってしまった両親は、それで莫大な借金を完済し、ギャンブルに手を出してはまた莫大な借金を作って、また涙を売って。私の感情次第で生み出される宝石の価値が変動することを知ってしまってから、家庭内の狂気は加速度的に増していった。


 「回想モノローグの最中悪いんだけど、ここ、俺ん家なんだわ。よそでやってくれるか。」

 「血も涙もねえな、お前!」


 怒りでぼやける視界の中で、冷徹な吸血鬼は大爆笑していた。何がそんなにおかしいんだよ、本当に。怒りで身体がおかしくなったのか、止めようにも止めらぬほどに涙腺は崩壊していた。ぼろぼろと落ちる大粒の石は、見た事のない色彩をしている。眼前で笑う生命の瞳に似た、燃えるような緋色。太陽にも似たそれを、無造作にひっつかんで宙へとぶん投げた。これでも体育の成績は10。そして私はソフトボール部には入っていないが、時々助っ人に呼ばれる程度にはスポーツの出来る中学生なのだ。


 「あ、ちょ。それ、やめ。あっつい。あっついわ、てめえ!」


 投擲されるとは露にも思っていなかったのだろう、きらきらと輝く宝石は、宙に浮かぶ謎の生命体へ見事にぶち当たって、燃えた。それはもうめらめらと、燃えに燃えに燃えた。何が起きているのかさっぱりわからない私は、突如として冷静さを取り戻して、新たな居住地が火災で全焼する恐怖に直面する。慌てて水を探すも、見つかる筈もなく。どうしたものかと思案する私の視界に、少し前に落とした透明な水晶が輝きを失うことなく煌めいていた。とりあえずそれを手に取って、二秒ほど思考し、燃え盛る謎の生命体へ向けてデッドボールを決めた。


 「つっめったっ!!さっむ、てめ、ふざけんな!!俺様が折角!非常食として!おいといてやろうか考えてたのに!!」


 わあ、すごい。透明な水晶は目標へ直撃すると、爆炎を一瞬で鎮火するほどの水へと変化した。水というよりは、氷なのかもしれない。吸血鬼の節々には、霜がついていた。ということはだ。この自称吸血鬼を氷漬けにしてしまえば、この廃教会は私のものになるのでは。まじ、天才じゃん私。自分の頭脳が恐ろしい。瞬時にそこまで思考した私が、水晶へ手を伸ばそうとした刹那、身体を鈍い痛みが支配した。


 「調子のんじゃねえぞ、嬢ちゃんクソガキ。こちとら千年生きてんだ、畏れ、敬い、跪け。泣きながら生を媚びろ。。」


 先ほどまでの声音が嘘のような重低音に、僅かに指先が震えた。吸血鬼の細められた双眸は、いつの間にか黄金に瞬いている。至近距離で見る自称吸血鬼は、大層美しい造形をしていた。睫毛長いなーとか、ボロ雑巾とか言ってた癖に食うのかとか、この絵面どっからどう見ても事案じゃね?とか。明らかに恐怖するべき場面で、私はそんなことを考えていた。


 「生憎とはもう枯れてんの。今まで散々、毟り取られてきたし。生きながら死ぬくらいなら、今ここでよくわからない生命体に食われた方が、よっぽど笑えるマシな人生だろ。」


 そう啖呵を切ってやると、先程までの威厳はどこへいったのやら、吸血鬼は大きな溜息を吐き出した。綺麗な顔に、僅かながら悲壮が浮かぶ。何故このタイミングで悲しそうな顔をするのかわからなくて、不思議そうに見つめていると、吸血鬼はのそのそと私の上から退いた。


 「お前、名前なんだっけ。いや、やっぱいいわ。ボロ雑巾みてえなクソガキに相応しい名前を考える。はい、ボロ。お前の名前、今日からボロな。俺様が飼ってやる。喜べ駄犬。」


 あーだとか、うーだとか。一頻り唸り声をあげた吸血鬼は、何やら意を決したかと思うと、早口でそんなことを宣った。茫然とする私を置いてけぼりに、美しい怪物は何やら楽し気な顔をして、指をぱちんと鳴らす。途端、世界が反転した。ぐにゃりと歪んだ視界の中心で、吸血鬼は聞き覚えのない言語を紡ぎ始める。真っ白なキャンパスに絵の具を散らすかの如く、世界が色彩を取り戻していく光景を、私はただ見ていることしかできなかった。


 「はい、箱庭ドッグラン完成。今日からここがてめーの小屋いえだ。喜べ駄犬。」


 朽ちる寸前の廃教会はどこにもなく、目の前には様々な草花が咲き誇る大きな庭園が広がっていた。真ん中に置かれた簡素な犬小屋からは目を背けて、眼前で繰り広げられた非現実をどうにか咀嚼する。いや、できるわけねえだろ。何が起きたんだ、本当に。というか、そんなことよりも私には言わねばならないことがあった。


 「私の名前は千秋って言ったろうが!つうかてめー、ネーミングセンスゼロか?小学生からやり直してこいや!!」


 辺りに散らばった水晶の一つを引っ掴んで、思いっきりぶん投げた。綺麗な軌跡を描く剛速球は吸血鬼へと届くことはなく、目前で不自然に軌道がずれる。ぽとりと草花の絨毯へ落ちたそれを、吸血鬼が拾い上げた。どこから降り注いでいるのかわからない光を反射して、透明な宝石がきらきらと輝く。宝石をじっと見つめて、吸血鬼は何かをひらめいたらしい。


 「あー?よく吠える犬だよなあ、ホント。じゃあルフレだ、ルフレ。はー俺ってばセンスあるぅー。これからはせいぜい俺様の犬として、従順に生きるこった。はい、そっち風呂。あと着替え。風呂上がったら換気ボタン押しとけよ、カビるからなー。髪は乾かせ。ほんであったかくして寝ろ。わかったか駄犬?」

 「いやもう、何から突っ込んでいいのかわかんないけど、ありがとうございますぅ!!私は犬じゃねえけどな!!てめえの名前も教えてもらえますー?!」

 

 前半と後半の温度差で風邪をひいてしまいそうだったので、もう私は勢いに任せて会話することにした。そうするしかなかったともいえる。何故なら私は、考えるのを放棄したからだ。だって私中学生だし、監禁されてたし、難しいことはよくわからなくても仕方がないのだ。


 「よくぞ聞いてくれたな!俺様の名前はヴァン・モーラ。気軽にヴァン様と呼べ!そして平伏せよ!敬え!畏れろ!跪け!」

 「ヴァンね、よろしく。じゃあ私、風呂行ってくるわ。おやすみー。」

 

 明らかに言い慣れていなさそうなセリフを高らかに宣言したヴァンを無視して、着替えを受け取った。薄ピンクのもこもことしたパジャマを手に、先程指さしていた方向へと歩き始める。眼前に広がった未知の光景に驚愕して辺りを見ていなかったが、此処は中庭のようなものらしい。大きな庭園を囲うように、真っ白な柱と回廊が続いている。なんだか御伽噺のお城のようだ。細やかな装飾が施された扉に手をかけて、思案の末に振り返った。ヴァンは寂しそうな大型犬みたいにしょぼくれていて、噴き出すのを堪える。どっちが犬だよ、という言葉はどうにか飲み込んだ。


 「拾ってくれてありがと、お人好しなヴァンパイア。これからよろしく、私の飼い主さん。」


 感謝の言葉を告げて、硬くなってしまった表情筋をどうにか動かす。わたしはうまく笑えただろうか。確認したくとも、術がなくてはどうしようもない。泣きそうになるのをぐっと堪えて、精一杯、顔をくしゃりとしてみる。ヴァンがぽかんとしているのを見るに、どうやら私はまだ、うまくは笑えていないみたいだ。それでもまあ、感謝の気持ちが少しでも伝わればそれで良いかと、背を向けて扉を開く。ぎいっと金属音がして開いた先には、見た事のない絢爛な世界が広がっていた。


 「おやすみ、ルフレ。今日くらいは、いい夢観ろよ。」


 暖かくて優しい声が、胸に沁みた。ぽろりと、右目から小粒の宝石が零れる。夜空に輝く星よりも美しい結晶が、ころころと床に転がった。今までに一度も見た事のない、この世のものとは思えぬ輝きを、ぼろぼろになった制服のポケットへ大切に仕舞い込む。病にかかって初めて、私はこの宝石を心から綺麗なものだと思えた。だからこれは、記念にしよう。右も左も上も下も、何一つとしてわからないことばかりで、先なんて全く見えてこないけれど、私はまだ自由への一歩を踏み出したばかりなのだから。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編 @kurogoma12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ