第8話 RIO・KATAGIRI
翌日、目覚めたリオは、夢ではなかったことを確認して途方に暮れた。
「おはよう、プロフェサ」
「おはよう、カタギリ」
リオは二人の頬にキスをした。冷たかった。それが、二人へのお別れになった。
シャワーを浴び、血まみれの服を着替えて、研究所の重い扉を押し開けた。壊れたドアは重たいだけで、リオでも簡単に開けることができた。
リオの頭にあったのは、併設されている心療内科のことだった。ドクター・カタギリを待っている人たちが、診療所の前に列を作っていた。
看護師や事務の女性たちも困惑している様子だった。ドクターが鍵を開けなければ、彼女達も中に入れない。
「……」
リオは黙って人々を見つめた。手をワナワナと震わせるおばあさんや、今にも倒れそうになっている女の子や、ふかぶかと項垂れた大人の男の人がいた。みんなが、カタギリを待っている。
カタギリは死んでしまったのに。
「ドクターは死んでしまったんです」。そう彼らに告げることは容易いのだけれど、リオにはどうしても、それを言えなかった。
また涙が溢れてきた。カタギリ。カタギリ。
プロフェサ。プロフェサ……。リオは枯れ果てた喉で泣いた。
「まあ、どうしたの」
看護師の一人が号泣するリオを見つけて駆け寄ってくる。優しい面立ちの、白髪混じりの看護師だった。
「帰る場所が、ないの、」
「家は?」
「なくなっちゃった……」
「まぁ……」
そして彼女は何かを察したように、まるで勇気づけるように、リオの背を撫でた。
「カタギリ先生はね、お優しい方よ。きっとあなたのお話も聞いてくれるわ」
「──うう、ううううううううっ」
知ってる。
全部知ってる。
激しく泣き始めたリオを、カタギリの患者達はじっと見つめていた。看護師は困った様子もなく、リオを抱きしめた。きっと「こうした」患者には慣れっこなのだろう。
「あなたのお名前は?お嬢さん。年はいくつ?」
「……RIO。リオ・カタギリ」
女性は少し考え込み、リオの手を引いた。
「そういえば、先生と連絡がとれないのよね。ご自宅を伺ってみるか……」
「! だめ!」
「え?」
「だめ、だめ、見ないで。見ないで……」
リオは激しく抵抗した。看護師が集まってきて、顔を見合わせた。
「……カタギリ先生に何かあったのかしら」
「見ちゃダメ!」
リオは「焦って」いた。あれを見せてはいけないと思った。それにリオ自身が、あの場に戻りたくなかった。
「ダメ、ダメだよお!ダメだってば!」
「……ごめんね、リオちゃん」
何人かの看護師が連れ立って研究所内に入っていく。リオは暴れた。泣いて、駄々をこねるみたいにして暴れた。そんなリオを、看護師はずっと抱き締めていた。
遠くでけたたましい悲鳴が上がった。何度もカタギリの名を呼ぶ女性の声が聞こえた。リオは目を伏せた。
何者かに対する確かな怒りが、沸々と燃えていた。そしてそれがリオを突き動かしていた。
リオは看護師の腕を振り払うと、がむしゃらに走り出した。
「リオちゃん!」
もう誰もいない。もうリオを愛してくれる人は誰もいない。なら。それなら。
「ああああああああああああ!!」
叫びながら丘を駆け降りる。どこへ向かっていくかはリオにもわからなかった。ただこの激情が止むまで、この身体が止まるまで、走り続けるしかないのだと、リオは悟った。
愛する二人のいない世界で。
〜〜〜〜〜
【カタギリ研究所、および検体r10に関する文章】
人造人間計画、検体r10にまつわる全ての研究は凍結。またカタギリ研究所で起こった事件(死者5名)についても同様、捜査を凍結することとする。
被疑者、検体r10は失踪。
当局は「r10に人間同様の生存能力はない」との見解を示している。よって、r10の追跡及び調査は行わず、──……。
〜〜〜〜〜
「次の方、どうぞ」
若い女医は柔らかな声で告げた。おずおずと入ってきた男性は、このメンタルクリニックの新患だった。女医は、新しい患者に30分ほどのカウンセリングを設けている。
「カワイさん。なにに困っていますか」
「不眠と……食欲がありません。それから……」
「それから?」
「どんな理不尽を受けても、怒れないんです」
彼女はカルテに主訴をさらさらと書き留めていく。
「それは困りましたね。……どういったときに、怒れない、と感じました?」
「謂れのないミスを押し付けられたときや……──」
男性は心をほどくように、女医に話をした。女医はそれを受け止め、時折頷いて、相槌を打った。
「なるほど。自分の価値や名誉が損なわれていると感じているのに、それに怒ることができないのですね」
「そう、なるんでしょうか……」
男性はうつむいた。そんな彼に女医は、一冊の古い絵本を取り出した。
「こちらを」
『エモーション』と書かれた、薄汚れた本。ピカピカで清潔な診療所にそぐわない、手垢まみれの本だった。
「そこにはたくさんの感情が描かれていますね。あなたの気持ちは、どれに近いかしら」
「あの、これは?」
「患者さん、皆さんにお聞きしているんです」
女医は微笑みながら答えた。「私の兄が教えてくれた方法なんですよ。自分の感情と向き合うための、儀式と思ってください」
男性は──「怒」と「哀」のページを何度も往復した。それらのページは隣あっていたから、男性はその見開き4ページを、吟味するように何度も何度も見返した。そして「哀」の、涙を流す女性の絵を指した。
「こんなに頑張ってるのに、報われない。それが悲しい。悲しいです」
女医は言った。
「怒と哀は隣り合わせ──これは、私の持論なのですけれど」
「隣……」
「喜怒哀楽。哀の左は怒り。……著名な研究者のいうことには、“怒り”の影には不快な感情が隠れているのだそうですよ。誰もが、その影に気づかないだけで」
女医はそこで、患者の手にある絵本を1ページめくった。「怒」のページだった。
「ですからカワイさんは、怒る一歩手前で立ち止まってしまっているのかも」
「なる、ほど」
「原因としては、不眠や食欲の減退もありますから、会社のストレスでしょうね……」
女医はそうして、患者に薬を処方した。
「ありがとうございました、──カタギリ先生」
「薬が切れたら、またいらしてください」
女医は立ち上がった。
胸元のプレートが金に光る。
RIO・KATAGIRI。
それが女医の名前だった。
了
哀の左 紫陽_凛 @syw_rin
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