第6話 えぴろうぐ


央一はまた、幻の中にいた。


屋敷の縁側で、恩師が笑っている。幼い自分は、その膝元に取りすがって難しい顔をしている。


「央一、大きくなったら何をしたい」

「お師匠と同じことをします」


恩師は困ったように笑っていた。午後の日差しは温かくて、次第に幼い自分は恩師の膝を枕に眠ってしまった。


「央一。お前はお前のしたいことをしなさい」


今度は、少し年老いた恩師が真剣な表情で央一の目の前に立った。央一は迷いなく答えた。


「俺のしたいことは、お師匠のやってきたことを継ぐことです」

「央一私は」


しかし恩師は、悲しい顔をするばかりだった。


「お前に、私と同じ苦労をしてほしいとは思わない」

「それでもお師匠、俺は」


影が、不意に恩師の姿を覆い隠す。央一は泣きそうな声になりながら、それでも迷いなく告げた。


「それでも俺は、お師匠の心を継ぎたいのです」


立ち尽くした央一の頬を熱い雫が伝っていた。幻の空間は、そっと閉じていった。

冷たい空気が、やがて央一の意識を覚醒させた。


「ほれ起きんかいボケが」


ぱん、という衝撃が頬に打ち当たって、央一は短い呻きと共に両目を開けることとなる。


「痛……」


腕を両脇につくようにすると、てのひらに草の感触が触れた。鼻腔に、濡れた葉の匂いが入りこむ。央一は驚きとともに半身を起こした。


「……」


彼の視界には、朝焼けの光に濡れる山間の風景が広がった。丘から見下ろす平野は、冷えた風を受けて丈の低い草を揺らしている。


「ここは、“怨叉庭”では」

「そうだった土地やのう」

「……」


がっしりと、央一の頭を背後から掴む手があった。五本の指の感触が、頭皮に食い込んで少し痛い。しかしそれは、鱗や爪の感触ではなかった。


「吉祥、あんた……」


央一は頭を掴む手を振り払うように後ろを振り返る。しかし――そこに在ったのは、もはや見慣れた鷹頭だった。


「……」

「そないけったいな顔すなや。ワシかて全身元通りや思うやろて」


何やねんな中途半端な。と吉祥は苛立ったようにその場へ腰を下ろす。彼の両腕、両脚は鳥の化生のようなそれから、人間のものへ形を戻していた。しかしどういうわけか――鎖骨の上あたりから頭はまるまる、鷹のそれで。


「……」


その様相に、央一はどこかに呪詛の欠片が残っているのではないかと周囲に意識を張り巡らせる。しかし、そのようなものは見当たらない。この地一帯は、自然の五行が巡る土地として蘇っていた。


「ま。生きてるだけで丸儲けっちゅうもんじゃろ」


くわ、と嘴を開いた吉祥は大あくびをこいて草の上に寝転がる。央一はその屈強な男の両腕をちらと見た。あのおぞましい肉塊が伸ばした手に貫かれた箇所は、痛々しい傷が残っているが――それが何かの施術によるものか、この男の回復力によるものなのかはわからないながら、既にかさぶたのようなものが出来上がっている。


央一は彼もまた、気の抜けたような思いになって草の上に身を横たえた。朝焼けに染まる空に、小さな鳥が群れをなして飛んでいくのが見える。央一と吉祥はそのまましばらく、風に吹かれながら呪詛の消えた土地に身体を沈め続けた。


そうして数日の合間も置かぬうちに、“怨叉庭”の呪詛が祓われた報はまたたく間に都全域での噂となる。その中心には例の“はぐれ”除穢衛士がおり、彼の活躍が語り草となった。央一は日に何度も例の土岐実靖の館に呼ばれ、今後の仕事や報酬についてを語られた。


「よもやまことに、あの広大な土地の呪詛を祓うとは」

「……実靖様、そのお話はもう」

「役目大儀であった。お前を向かわせた私も鼻が高いというもの」

「ははッ」

「時に、央一」


しかしながら、やはり土岐実靖の鋭い眼差しはしばしば央一にいやな緊張を強いた。


「役目の後からお前の屋敷に住まうようになったあの……名を何と申したか。巨躯の虚無僧がおったであろう」

「……」


「僧とはいえあの体躯ではさぞ大飯を喰らうのではあるまいか。央一、米には不自由しておらぬだろうな」


何ぞ不自由のあれば、この実靖を頼みとするのだぞ、と。実靖は扇子を口元に添え、ひどく人の悪い笑みを浮かべた。


「ありがたきお言葉にございますれば」

「お前は師の影法師を追いたい意思もあろう。まこと不自由のあれば、私を頼みとせよ。よいな」

「ははっ」


土岐の屋敷にいる間は、常に央一はおかしな緊張感と格闘せねばならなかった。しかし、一歩屋敷を出れば、彼の世界は今までとは異なるそれになっている。


路を歩けば、今まで彼を“はぐれ”だのと罵った連中はそれを後ろめたく思うのか定かではないながら、央一を避けるように道を譲った。代わりに若いご婦人が央一の姿を見れば、なにやらひそひそと喜色めいた頬を染めてこちらをうかがうようになった。

央一ももとより好きであった闇市の通りを歩けば、威勢のいい人々が前にも増して声をかけてくれる。


よう央一、今日はいい魚が入ったよ。

央ちゃん、こっちも寄っとっとくれ。


央一はこの通りを歩くのがますます好きになった。多くは、悪くない変化だと思った。しかしながら、彼は屋敷の前まで近づいて、また冷や汗を流すことになる。


「ねえ笛を吹いておくれよ」

「せやから何でやちゅうとろーが」

「だって、お坊様は笛を吹くんだよ。おれ知ってるんだ」


屋敷の門前に、深編笠をかぶった巨体の男と、それに群がる子供たちの姿がある。央一は全身の毛が逆立つような思いがして、勢いよくそちらへ駆け寄った。


「こら、坊様はおつとめがあるのだ。遊ぶなら向こうへ行きなさい」


央一がそのように伝えると、子供たちは渋々巨躯の虚無僧の周りから去っていく。冷や汗を拭った央一は、所在なさげにしている虚無僧を振り返って眉を吊り上げた。


「昼間は外に出るなと言っているだろ」

「そない言うても身体が鈍るんじゃい。それに何やお前虚無僧て……お陰で尺八吹けや何や言われてしゃーないやないか」

「あんたの頭を隠すためにはそいつをかぶらせるしかないんだよ」


ぶちぶちと文句を垂れる虚無僧姿の男――吉祥の手を掴んで央一は屋敷の中に連れ戻す。居間に戻されて腰を下ろした吉祥は、煩げに深編笠を脱ぎ捨てた。


「男前が台無しやったく」

「……あんたの頭をもとに戻すために何をしたらいいんだ」

「そないなんわかっとったらワシが勝手に始めとるッちゅーねんアホか」

「……」


ふて寝するように脚を組みながら吉祥はその場にごろりと横臥した。溜息をつく央一。彼は勝手口近くから何やら甕を持ち出すとわざとらしく吉祥の頭の後ろにどんと置いた。目を空けてそちらを見る吉祥。それは央一が土岐実靖より賜った酒だった。


「何や」

「俺とあんたは、命を預け合った割に知らないことが多すぎるだろ」

「せやから何やねん」


央一は粗末な椀をふたつ用意して、その中に甕の酒を注いだ。


「聞かせろよ。陰陽博士の御高説ってのを」

「……」


なみなみと酒の注がれた椀を差し出され、吉祥は気だるそうに、しかしどこか少しだけ愉しそうに身体を起こす。


「しみったれたクソガキにワシの高尚な話がわかるんか? お?」

「聞いてみないとわからないだろ」


央一は自分も椀を手にして、吉祥の向かいに座る。夕刻は迫り、涼やかな風が縁側から吹き抜けた。


どこか必死に走り抜けて来た央一は、今この時少し、安心をしていた。その理由が何であるかは、彼自身もまだ理解するに至ってはいない。


しかしながら、師を喪ってからただ一人で住まっていたこの屋敷には新たな、そして少しおかしな声と気配の宿るようになった。


央一はそれをして、自身が少なくとも“はぐれ”ではなくなった――と、そう考えられるようになったのかもしれなかった。

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はぐれの央一と鷹頭の丈夫 上田きつら @U_kitsura

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