スパイの適性

結騎 了

#365日ショートショート 316

「もし……。そこのあなた」

 点滅する街灯には虫が群がっていた。夜道の、更に暗がりの向こうに。サングラスを着けたスーツ姿の女が立っている。

「なんだお前は。俺は今、博打で大損して機嫌が悪いんだ。勧誘なら他をあたりな」

 男は大声ですごんだ。しかし、女は物怖じせずに距離をつめる。

「あなたにしか頼めないのです。ぜひ、聞いてください」

「なんだっていうんだ、いったい」

「お願いしたい仕事があるのです。あなたにぴったりの内容です。引き受けてくだされば、あなたの人生は大きく変わります」

 酒でも飲んでいたのか、男は赤ら顔のまま固唾を飲んだ。まともな学は無く、仕事も続かず、もっぱら博打と酒ばかり。家に帰れば小言だらけの女房と、聞き分けの悪い子供。こんなくだらない生活を変えられるとでもいうのか。

「わかった。話を聞こうじゃあないか」

 女の説明はこうだった。にわかには信じられないが、彼女は国の諜報機関に属していた。つまり、国際的に活躍するスパイだ。国内外を飛び回り、国益のためにあらゆる情報を収集しているらしい。

「そこで、あなたにスパイになっていただきたいのです。ていよく言えば、スカウトですね」

「はあ、なんだって俺なんかを」

「政府が密かに開発した、マイナンバー情報から国民の行動を分析するAIシステムによると、あなたにスパイの適性があることが分かりました。この適性の高さは全国民の1%以下、驚きの数字です」

「なるほど。そういうものがあるのか」

 男は二つ返事で女の提案を受けた。早速、外国に潜入する大掛かりな任務があるらしい。映画で見たスパイのような仕事に向いていると言われ、悪い気はしない。

 帰宅し、物入れにあった僅かな現金とパスポートをポケットに突っ込んだ。

 女房が駆け寄る。

「あなた、こんな時間にどこへ行くっていうの。それに、もしかしてまたパチンコに行っていたんじゃ……」

「うるさい、黙れ」。男は一喝した。「もうここには戻らんよ」

 そう言い残し、玄関のドアを強く閉めた。いつもならここでヒステリックに喚きそうなものの、女房の声は聞こえなかった。

 女が用意した車に乗せられ、空港に向かう。

「なあ、俺が言うのもなんだけど。こういうのって、普通は研修があるんじゃあないのかい。訓練というか」

「それには及びません」。女はサングラス越しに穏やかに微笑んだ。「あなたの適性の高さを考えれば、そこらの研修なんて時間の無駄です。それこそ国益を損なう始末。一刻も早く、実務についていただきたいのです」

 渡された航空券には、ある発展途上国の名が記されていた。

「この国の元首が、密かにミサイルを開発し、日本に向けて発射する計画を進めています」

「なんだって。それは大変だ」

「あなたには、この国に潜入していただきたいのです。住居はこちらで手配済みです。ただし、指令があるまでは絶対に動かないように」

「わかった」

 そうして、飛行機は轟音と共に空に向かった。

 数ヶ月後、某国にて。男は質素な暮らしを送っていた。ここは物価が驚くほど低い。女から送金される僅かな日本円だけでも、それなりに暮らしていける。住居は狭く、決して便利とは言えないが、これはスパイの任務なのだ。贅沢は敵というものだろう。本国からの指令はまだ届かない。もしかしたら数年がかりの長期戦になるのだろうか。いや、それでもやり遂げてみせる。俺だけに与えられた仕事なのだから……。

 遠く離れた日本にて、サングラスを着けた女はインターホンを鳴らした。玄関のドアを開けたのは、ひとりの女性であった。部屋の奥からは朗らかな子供の声が聞こえる。

「いつもありがとう。これは今月の分」

 数万円の現金が女に手渡される。

「確かに預かりました。それではまた来月、伺います」

「助かったわ、本当に。まさかこんな商売があるなんて。さすがに、死んでもらっては寝つきが悪いもの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スパイの適性 結騎 了 @slinky_dog_s11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ