神に捧げる葡萄酒
吟遊詩人の語りが終わると、人々はほうと息をついた。
おれはといえば、昨日の話も相まって──鼻をすすったりなんかしていた。爺さんが何を望んでいるか、なぜここまで旅をしてきたのか……ぜんぶ、わかっちまったからかもしれない。
「皆。神事の始まる時間ではないかね」
吟遊詩人に促され、人々は「エイレーネの道」の両脇に並び始めた。日は南へ、昼時を迎えようとしていた。
エイレーネ役の女が1人。そして神の盃を支えるための男が2人。3人がかりで、「エイレーネの葡萄酒」の再現をする。それが一年に一度の神事の内容だった。
石の盃──かつては生贄の血が注がれていたそこに、今年のいっとう美味い葡萄酒が注がれている。エイレーネはいちど盃の中身をこぼし、少しだけ軽くする。神事もそれに倣い、少し傾けた盃から、葡萄酒が地面に捧げられた。
おれは爺さんを見上げた。彼は、ことの成り行きを全て記録するかのように、見えるほうの片目でギラギラと盃を見つめていた。
それでも桶を運べないエイレーネは、少しずつ中身を軽くして行った……盃が移動するにつれ、人々もゾロゾロそれについて行く。おれは爺さんに声をかけたが、詩人は頑なに首を横に振った。
仕方ないから、おれもその隣に座った。
「行かないのか、若いの」
「今年はおれもここから見届けようと思ったんだ」
老人は何か言いかけたが、口をつぐんだ。そして、ピタフの泉の方角を遠く見渡した。
「豊かな街だ」
「ああ」
「飢えることもない。人が渇きで死ぬこともない」
「そうだな」
「よい街だ……」
老人の両の目から、涙が滴っていた。あとから、あとから、枯れることのない泉のように。
向こうでは歓声が上がっていた。林檎を入れた神の盃が、目標地点に到達したに違いなかった。砂漠の乾いた砂の上に、葡萄酒が捧げられる。エイレーネ役のミシアは衣装を真っ白に変えて舞い、林檎は切られて子供たちに振る舞われる。──人々のさざめくような笑い声を聞きながら、老人は手を握り合わせ、祈るように背中を丸めた。
「神よ。……神よ。どうか私を連れて行ってください」
「……爺さん」
「神よ。……早く……」
「爺さん。おれはさ」
おれは懐に隠し持っていた取っときの葡萄酒を取り出した。
「おれはさ。あんたこそ神様なんじゃないかなと思ったよ」
「まさか……そんなことは」
「どうぞ。一杯、いかがですか」
ツルツルに磨いたグラスに、葡萄酒を注ぐ。おれはワインボトルを置くと、グラスを持つ手に手を添えて、両手でそれをささげ持った。
「水の神イアコスの弟、アレース殿に」
「……ああ」
しわがれて、毛の抜けた老いた手が、グラスを受け取った。
「ありがとう。確かに」
彼は葡萄酒を一息に飲み干した。そして口をぐっと拭うと、顔を押さえて笑い出した。
「ふふ、わたしも神の眷属と呼ばれるか。変な話だな、なあ、イアコス……」
「500年も生きていれば、神様だよ」
おれは心から言った。こんなの柄じゃない、だから本当に照れ臭くて、晴れ渡る空を見上げた。真っ白い雲が浮いていた。
「いろんな話を聞かせてくれてありがとう、爺さん。……おれも少し、神様を信じてみようと思ったんだ。これからは──」
これからはすこし、神様を信じてみようと思うんだ。
そう続けようとした口が固まった。
吟遊詩人はもはやそこにはいなかった。影も形もなかった。杖代わりの木の棒が落ちている。石の上には、空になったグラスが置かれていた。
「爺さん……?」
ポツポツと、雨が降り始めた。陽の光を背に、大きな虹が空にかかっていた。子供たちがはしゃぎ、大人たちが笑う。
「恵みの雨だ!」
「神様!神様ばんざい!」
「雨の神様!水の神様!」
おれは虹を前に立ち尽くしていた。爺さんは──アレース翁は神になったのかもしれない。そんな妄想が脳裏を掠めて行った。
けれど、確証はないんだ。おれの単なる感傷かもしれない。
おれは爺さんがそうしたように、石に腰掛けて泣きながら両目を何度も拭った。いにしえから築かれてきた生贄の、最後の1人が、今、旅立ったのだと。
──おれはそう、信じることにした。
神の盃 紫陽_凛 @syw_rin
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