ホジャ・モジャの異世界移動料理屋さん(in現代)

染谷市太郎

ホジャ・モジャ開店中

 初めての山は、思った以上に厳しかった。

 泥にまみれた安物の革靴の中。足が悲鳴を上げている。


 でも、そんなことはどうでもよかった。

 暗闇の中で、月明かりだけを頼りに体のいい木を探す。

 山に木はたくさんあるが、目的に合ったものはなかなか見当たらない。

 細すぎては重さに耐えれず折れてしまうし、太すぎると枝が高く届かない。

 夜が相まって、視界が悪い。目的のものは見つからない。


 ずる、と湿った木の葉が足元で滑った。

 あっ、と思た瞬間には、私の体は傾斜を下っていた。

 ごろごろと転がり、大きな木の幹にぶつかって止まる。

 うっ、とうめき声が出た。

 呼吸が一瞬止まる。

 咳き込み、体を丸める。だが、死んではいないらしい。

 無駄に丈夫な体が恨めしかった。


 荒い呼吸で、生理的にでた涙が視界をゆがませる。

 暗い山の中では、歪んだ視界がまともに働くことはない。

 手の感覚で、持ち物を離していないことは認識できた。

 入山前のホームセンターで買った、唯一の持ち物。


 幹を支えにしながら、ずるずると起き上がる。


 どうしてこんな思いをしなければならないのだろう。


 人生は思い通りにならない。思い通りになったことが一度もない。

 出来が悪いとなじられ、どんくさいといじめられ、なにもかもがままならない。

 せめて最後ぐらい、思い通りになればいいのに。それもうまくいかない。


 体中が痛かった。疲弊が鉛のようにへばりつく。

 夏を過ぎた山の冷たい空気は、ひどく鋭く皮膚を刺す。

 都会も田舎も、人間には優しくはなかった。


 大きく空気を吸い込む。

 排気ガスに侵されていない山の空気。

 先ほど転がったせいか、ひどく腐葉土臭かった。

 腐ったら土に還るのだから、お似合いなのだろうか。

 虫に微生物に、細かく分解されるイメージを思い浮かべる。

 肉食動物たちの糧となり、ハエなどの死骸に群がる昆虫の住処となり、やがて骨になれば、それを好物とする微生物たちが繁殖する。

 循環の一部と化し、生物たちのゆりかごとなる。

 街では骨壺に入れられるが、山では自然の一員になれる。

 悪くはない。

 極限の疲労からか、ひどく穏やかな境地に至っていた。


 すん、と鼻を鳴らす。


 鼻腔に拡散した分子の激しい運動が、脳を揺らした。

 腐葉土の匂いに混じって、異国の香りが付近に漂う。

 突然、胃が喪失感を叫びだした。

 そういえば、今朝から何も食べていない。水分は取っただろうか?そんなことも、意識になかった。

 空腹と、乾きの信号を脳が発令していた。

 その大号令に拍車をかけているのは、スパイスが絡まった刺激的な香りだった。


 腕が、勝手に体を起き上がらせていた。

 足が、歩き始める。

 口の中の唾液が、飢餓を紛らわそうとするが、なおさら空腹を自覚することになる。


 がさがさと、動きの悪い腕と足で藪をかき分ける。登山道ではない道なき道にいたため、とても人が歩く場所ではなかった。

 革靴が片方脱げたが、探すのも面倒になり、そのまま進む。


 ざざっ、と視界が開けた。

 暖色の明かりと食欲をあふれさせる香りが、ぶわっと体全体を襲う。

 

 そこには、小さな屋台があった。


 ふらふらと縋りつくように屋台のカウンターへと入る。

 屋台は移動式なのか、大きな車輪が四つついていた。

 見慣れない模様が描かれた暖簾の先、目を見開いた。


「い、いらっしゃいませぇ」


 ふわふわのもこもこが、中華鍋を被って料理をしていた。


「ぉーぉぉお客さま?」

 ぽかんとして返事がなかったことに、料理人らしきもふもふはおどおどしだす。

 その様子に、いたたまれなくなったが、仕方がないだろう。なにせこちらはてっきり人が経営していると思ったのだから。

 まさか、獣ともなんとも言えないもふもふの生物が店を構えているとは。

 なんと呼称すればよいのだろう。

 妖怪?妖精?ユーマ?宇宙人?

 頭に穴の開いた中華鍋を被り、フェルトのような分厚い生地でできたクリーム色のコックコートに身を包んでいる。たれ気味の目と釣眉、耳と髪に当たる毛は白っぽいが、顔や体は薄茶で、暖かそうな冬毛が服の間からはみ出ていた。手にはミトンのような手袋がされている。

 なにより、特筆すべきはそのサイズだ。小学生でやっとというくらい背が低い。

 屋台の高さに反して、もふもふと目線が合っているのは、背の低さの分、屋台の床が高いからだ。カウンターからでも、少しのぞき込めば、屋台の木製の床が見える。

「もしや、お料理はお求めではねえですか?」

 強盗ってやつですか?と鉈のような包丁を構えるもふもふに慌てて訂正する。

「なんと!あっしの料理の匂いにつられて!」

 もふもふはこちらが分かるくらいに小躍りしている。

「スケさん……オーナーにこんな山奥で店を開かれたときはお客なんてこねえと思っていたもんで。こんなにお腹を空かせたお方が訪れるとは、あっしの腕も鳴るってもんです!」

 もふもふは、こちらの注文も聞かずにさくさくと料理の準備を始める。

 品物が一つだけのお店ないのか、その割にはいろいろな食材らしきものがカウンターの向こう側に見えた。

 もふもふは、一番大きな寸動鍋をかき回す。どうやらその中身が商品らしい。中身が一回りするたびに様々なスパイスが絡まった芳香が溢れる。

 木製の丸い皿に黄色っぽいご飯を乗せ、鍋の中身をかける。

「あっしは暖簾に書いてある通り、ホジャ・モジャっていいやす。今日はあっしの名前と料理の味だけでも覚えて帰ってくだせえ!」

 暖簾の模様は文字だったのか。

 もふもふ、もといホジャ・モジャは二つのお椀を差し出した。

 これまた木製の分厚いスプーンを並べる。

 お椀の片方はスープカレーのようだった。細長い米に、肉と野菜がゴロゴロ入ったとろみの少ないスープがかけられている。

 もう片方は具のないスープ。こちらは口直しのようなものなのか、澄んだ汁からはスパイスの香りはしない。

 じっと見つめるだけで食べ始めない姿に、ホジャ・モジャははっとする。

「申し訳ありやせん。説明がまだでいやした」

 ホジャ・モジャは手袋で一回り大きくなった手でスープカレーを指す。

「こちらは白キッカチョウ(※1)の、えースパイススープ?……カレー?でいやす」

 シロキッカチョウ?

 チョウとは鳥ということだろうか。世の中には知らない食材がまだまだあったのか、と感心する。

 肉らしきものが入っており、疑問符がついていた気がするが、もしかしたらチキンカレーのようなものかもしれない。

「白キッカチョウは身が淡白で硬いんで、ハーブやフルーツとともにじっくりと煮込ませていただきやした。フルーツは特に滑らかで脂肪分を蓄えたカポドア(※2)を使っていやして、スパイスの辛みの割には滑らかな口当たりになっていやす」

 確かに、香りはスパイシーだが唐辛子そのもののように攻撃的ではない。

「そいでもってこちらは」

 ともう一方を指す。

「白キッカチョウの骨(※3)からダシを取ったハーブスープでございやす」

 鳥ガラスープみたいなものだろうか。乳白色の液面はきれいに明かりを反射する。

「骨だけですとここまで白い濁りはできないのでいやすが、ミルクハーブ(※4)を入れることでこの色になっていやす。ミルクハーブはさっぱりとした後味にしてくれやして、加えてさりげないハーブの香りが味を締めてくれやす」

 

 ぐうぅぅぅ


 目の前のごちそうに、腹の虫が大声を出した。

「す、すいやせん、長々と。どうぞめしあがってくださいやせ」

 木製の匙を手に、まずは食欲を刺激するカレーをすくいとる。

 あふっと熱さに口の中が大わらわになった。

「気を付けてくださいやせ」

 ホジャ・モジャが慌てて冷たい水を出す。

 きゅっと水を飲みほし、今度はしっかりと冷まして口に放り込んだ。

 赤茶のスープとパラパラの米が舌に乗る。昨日ぶりの食べ物に、舌根の筋肉がきゅぅっと収縮して軽く痛かった。

 しかしその痛みよりも口内で絡むスープの食感に驚愕する。見た目はさらりとしていたが、口の中では脂質がとろりと味蕾に絡んだ。カボドアというものの香りだろうか、最初はフルーツの甘みとともに、スパイスが炸裂する。頭は確かにこれをカレーと認識しながらも、多次元的な香り。見知ったカレーとは全く異なる代物だった。

 香りの後を辛みが追う。ぴりりとしたそれは脂質の味を引き締めてくれた。

 白キッカチョウの肉を噛むと歯ごたえとともに、よくしみ込んだスープがあふれだす。柔らかすぎず、かといって硬すぎない肉はものを食べたという感覚を十分に満足させてくれた。

 そして何より注目すべきは米だった。インディカ米特有のぼそぼそ感があるかと思えば、ひとつひとつの粒が立ち、もちもち感を残している。加えて一度炒めたのか、スープの中に入っていたにもかかわらず、水分を吸いすぎていないのにパラパラだった。

 密かな辛さに耐えられなくなると、自然とハーブスープに手を伸ばしていた。

 スープではカレーとかぶっているのでは、と思っていたが、こちらを飲んで一緒に出てきた理由が分かった。

 なんとこれは冷製スープなのだ。

 ミルクハーブと言っていたが、牛乳のような脂肪感はない。どちらかといえば豆乳に近かった。

 だしの味とわずかな甘みが口の中の辛さを改めてくれる。ハーブの香りが後方の後方で微かに香り、味のしつこさを抑えていた。

 赤と白、二つのお椀を匙が往復し、あっというまに空になってしまう。

 感嘆のため息が、自然と腹の底から漏れていた。

「おそまつさまです」

 おいしかった、とこぼれた言葉に、ホジャ・モジャは丁寧に頭を下げた。

 腹が満ちると、体を休ませたいと脳が主張する。しかしこの店はカウンター席のみで、椅子はベンチ状の背もたれのないものだ。

「どうぞ、こちらへ」

 寝そべっていいかな、と思っていると、背後から男性の声に促される。

 そこには座り心地のよさそうな椅子があった。

 ベンチと椅子を取り換えてもらう。背もたれとひじ掛けを全力で利用して体を預ける。ここまで至れり尽くせりか。

「す、すす、スケさんー!」

 男性にホジャ・モジャが叫んでいたが、なんかどうでもよかった。体が脱力していく。

「あっしだけでお客様のおもてなし頑張ったんでやんすよー!」

「静かに」

 こちらを気にしているようだが、どうぞおかまいなく、と手を振る。

 男性は丁寧に頭を下げてきた。

 ホジャ・モジャから予想して、てっきりもふもふかと思えば、男性はスーツ姿の人間だった。毛がもさもさなのは頭だけ。

「いらっしゃいませ。我々の食堂に足を運んでいただきありがとうございます。ほんのひと時でございますが、ごゆるりとお楽しみください」

 低音のしっかりした挨拶。

 その背後を大きな動物が横切っていく。手綱がぶら下がっているそれは、もしかしたらこの店を引っ張る馬なのかもしれない。

 ヤギのような角があり、蹄に近づくほど太くなる足。よく知っている馬のようには見えないが。

 馬もどきは荷物を背負いながら、その辺の草を食んでいる。

「スケさ……オーナー、手伝ってくだせぇ」

「ホジャ、みそ漬けを」

 男性はオーナーであるようだ。確かここに店を開くと決定した人だから、たくさん感謝しなければならない。

 ホジャ・モジャは、車の床下をごそごそ探っている。キッチンの床の高さにたいして車の見た目が合っていないと思っていたが、なるほど、床下が収納スペースになっているのか。

 出てきたのは口を皮の布で蓋をした大き目の壺だった。壺はホジャ・モジャの顔ほどの大きさがある。

 縄で縛った皮布を外す。ふわっとみその匂いが漂ってきた。

 もうお腹がいっぱいかと思っていたのだが、口の奥から唾液が溢れる。

 ホジャ・モジャが取り出したのは、大きな葉っぱの包みだった。変色が長時間の漬け込みを表している。

「料理ができるまで、こちらをどうぞ」

 コトン、とグラスと小鉢がおかれる。

「こちらは白のグリューワインです。日本産のものを厳選させていただきました。アルコール度数は低く作らせていただいております」

 耐熱ガラスのグラスから、ふわっとワインと柑橘の香りがする。スパイスは控えめだった。

 先ほどまでの知らない食材のメニューに対して、日本産という親しみのある単語が、ホジャ・モジャとオーナーの二人の店らしさを醸し出している気がした。

「こちらの小鉢は、フライベリー(※5)を柘榴ビネガーに漬けこんだものです。ワインと合わせてお召し上がりください」

 ガラスの小鉢には、小ぶりの巨峰くらいの果物が入っていた。濃い赤がよく映える。つまようじで刺せば、張りのある皮にぷつんと通った。

 口の中に放り込むと、ぷちっと皮が破れた後、ゼリーのような食感が歯を楽しませた。柘榴酢の味がよくしみ込んで甘酸っぱかった。ほどよい酸味が心地いい。

 そこにワインを合わせると体が勝手にぐい、と飲もうとする。もっと飲みたいという気分が体を勝手に動かしていた。頑張って自分をセーブしようとする。

 カウンターの向こうを見れば、奥でオーナーがナイフで大きな卵を割っており、手前ではホジャ・モジャが串に肉を刺していた。

「こちらは赤キッカチョウ(※6)のみそ漬けです。先ほどお召し上がりいただいた白キッカチョウとは異なり、肉が柔らかいことが特徴的です。どんな調理法でもおいしくいただけますが、直火で炙る方法が一番うまみを引き出してくれます」

 オーナーはボウルの中身をカシャカシャと絶え間なくかき混ぜながら説明をしてくれる。

 ホジャ・モジャは緊張した顔つきで串に通した肉を火にかけた。よほど難しい作業なのか、それとも二人分の視線に緊張しているのか。

 オーナーが作業に戻ったところで表情が緩んだため、恐らく後者なのかもしれない。

 カウンターの中には火がたける場所が作られており、炭火で炙られる肉から、香ばしいみその焦げが香った。パチパチ、と子気味いい音が鳴る。

 よく焼き色のついたそれを、串についたまま、ホジャ・モジャは大きな葉で作られた皿に並べ、カウンターに差し出す。

「おめしあがりくださいやせ」

 ちょうどワインを飲み終わったタイミングだった。

 グラスと小鉢がさっと下げられ、新しいシャンパングラスに琥珀色の飲み物が注がれる。

 そういえば、最初のカレーの皿たちも気づかないうちに下げられていた。存在感のない給仕に驚かされる。

「こちら、梅酒の炭酸割でございます。梅酒は当店手製のものです。赤キッカチョウとは特に相性がよいので、お試しください」

 丁寧にお辞儀をし、オーナーは静かに下がった。

 目の前の串焼きに手を伸ばす。口の中はすでに唾液で洪水になっていた。

 今度はしっかりと冷まし歯を立てる。

 かりっぷりっという食感に驚いた。外はカリカリに焼かれているが、中はエビのようにしっとりぷりぷりしている。最初に食べたカレーの肉をイメージしていたため、そのギャップはすさまじいものだった。

 そしてあまじょっぱい味噌の味。加えて肉を巻いていた葉の香り。どちらも質量のある脂質と絡まって濃厚な味に仕上げている。

 もっと食べていたい、という思考とは裏腹に、喉の筋肉が収縮し、ごくんといつの間にか飲み込んでしまった。とてもおいしかった、ということもあるが、スムーズに喉を通った理由は、なにより肉のやわらかさだ。弾力がありつつも筋はない。歯が不要なくらい長時間の咀嚼を不要としていた。かといって食べた、という感覚は残る絶妙なバランス。

 次、と肉汁が滴る串にかぶりつく。歯と舌の喜びが神経を伝達し脳に伝わった。

 ぺろりと唇についた味噌と汁を舐めとる。

 手が二本目に行く前に、少し曇ってしまったシャンパングラスに目が行く。

 そうだ、梅酒を忘れていた。

 小さな泡が寂し気に琥珀色の中で踊っている。

 うっかりしていてごめんなさい、と口をつける。

 グラスの小さな口から、鼻腔へと、梅の酸味のある香りが漂った。先ほどまで温かい料理を口にしていたため、唇に触れる冷たさが気持ちいい。

 そう思っているとすっと自然に口内へと梅酒が招かれていた。

 パチパチパチと口の中で割れる気泡。香りもそうだが、梅のうまみが口いっぱいに広がり、串焼きの脂肪分を洗い流す。

 よくある梅酒のような強い甘みはなく、串焼きがあまじょっぱい味噌で濃厚だったからこそ、さっぱりとした口当たりのこのお酒は抜群に相性が良かった。

 あっというまに、空の皿とグラスとがカウンターの上に残る。

 ふぅーと満足感を表すように椅子の上で脱力した。

「お楽しみいただき幸いです。こちら、最後の一品になります」

 オーナーがサーブする。

「紅白カステラです」

 それはドーム型のケーキだった。大人の男のこぶし大で、出来立てなのかほかほかと湯気が立っている。

 紅白と言っていたが、ケーキは滑らかなクリーム色だ。藍色の皿の上で、きれいな卵色のそのケーキはまるで満月のようだった。

「赤キッカチョウと白キッカチョウの卵(※7)を使っているため、紅白と名付けています。懐かしい卵の味と軽い食感が売りの一品となっております」

 次にドリンクも並べられる。

 こちらはどうやら紅茶らしい。

「先日、西蔵で手に入れた茶葉です。ゆっくりとした時間を過ごすためにぴったりの香りですので選ばせていただきました」

 白いカップに入った薄い色の紅茶は、静かに香りを漂わせている。

 一口すすれば、じんわりと温かさがしみこんできた。自然と体がリラックスしてしまう。

「スケさ」

「オーナーだ」

 カウンターの向こうでホジャ・モジャがもこもこの体をもじもじしている。

 目の前には、こちらのものと同じカステラがあった。

「オーナー、あっし……あっしもぅ耐えれんですー!」

 ホジャ・モジャがカステラにかぶりつく。はぐはぐとその食べ方は豪快だがおいしそうだった。

「まったく、お客様の前だぞ」

 オーナーは呆れながら、ごゆっくりとこちらに会釈する。

 オーナーの手にもカステラがあった。

 自分の目の前のカステラも、食べてくれと泣き声を出している気がした。

 フォークを手に取った。カステラめがけて刺した。さくっと刺さったフォークにより、カステラは柔らかく欠ける。並んでいたナイフに気づくも、おそらくそれがいらないくらいスムーズな切り離しだった。

 ほかほかとした湯気を感じながら口の中に放り込む。

 最初は卵の香りだった。次にその柔らかい食感。しかし歯や舌には決してしつこく付きまとわない。

 ああ、なんだろう。食べたこともないはずなのに、懐かしい味がする。

 二口目を食べて思い出した。懐かしさのみなもと、それはきっと小さなころの絵本だ。

 特殊な絵本ではない。子供ならだれでも読んでもらった普通の絵本たち。そこに出てくる、キャラクター達が食べた、ホットケーキなどのお菓子。誰だって、それがどんな味なのか想像して、食べたくなっただろう。このカステラは正に、小さいころに頭の中にしか存在できなかったあのお菓子だ。

 溶けるような口当たりはまるで夢のようで、卵の香りは自然そのもの、合成した人工物はどこにも見当たらない。こころが、小さなころへと戻ってゆく。

 一口、また一口。

 あっというまになくなってしまったカステラを惜しみつつ、紅茶をすする。

 カップはまだ温かい。両手で握り、椅子に体を沈ませる。

 自然と、空を見上げていた。

 こんな風に、上を向いたのはいつぶりだろう。

 視界はとめどない星空に放り出され、ゆるゆると瞼が閉じた。








「——おい、おいあんた!」

 体が強くゆすぶられ、目を覚ます。

 白い朝日が視界を赤く焼き、とっさに目を細めた。

「あんた、こんなとこでなにしてんだい?」

 登山用の帽子をかぶったおじさんがこちらを覗いていた。

 きょろきょろと回りを見渡す。そこは山の中にぽっかりとできた小さな草地だった。

「登山に来たわけじゃ……ないよなぁ……」

 おじさんは心配そうにこちらを見つめる。

 確かにそう思われるだろう。スーツ姿、靴は片方なく、ところどころ泥がついている。

 周辺に、ホジャ・モジャの店は見当たらなかった。ロープも、同様にない。

 まるで夢のようだ。しかし手に持っているカップと、体を預けていた椅子が、あれが現実だったことを示している。

 心配そうなおじさんを横に、ぐぅっと伸びをする。なんだか気分がよかった。

 からん、とカップの中で何かが転がる。

 それは二つにおられた白い名刺サイズの紙だった。

 中の文字にふっと口角を上げる。


『ホジャ・モジャ異世界移動料理屋


 シェフ  ホジャ・モジャ

 オーナー 星屋 郷介


 またのお越しをお待ちしております』


 また。

 次がある。

 そのときはどんな場所にいるのだろう。

 どんなものが食べれるのだろう。

 両足を地面につけると、もう片方の革靴も寿命を迎えていた。

 そうだ、まずは靴を買おう。新しい靴を。






 注釈

(※1)白キッカチョウとは、漢字で書くとするとおそらく白菊花蝶となる。翅が白い巨大な蝶の仲間であり、動物の体液と肉を餌とする。肉食だが、羽化直後に羽を処理すれば脅威にならず、病気に強く頑丈で、また繁殖が容易という面から食肉の家畜として扱われる。また肉が淡白で硬いため、幼虫のみが食肉に加工される。

(※2)カポドアとは、高脂質の可食部を持った果物。果肉部は、硬く味がないうえ栄養素も少ないため、種の中身を食べる。種は硬い皮に包まれている。現在は栽培に成功し種の部分だけを流通させている。それ以前は、木を見つけることが難しく、カポドアを食べる動物の糞から、残ったカポドアの種を収穫していた。

(※3)白キッカチョウの骨とは、外骨格のことを指す。

(※4)ミルクハーブとは、乳白色の液体をもった白い植物。液体の白さはタンパク質が元で、味はさっぱりしている。葉緑体を持たない寄生植物で、ハーブに寄生すると栄養素以外にも香り成分も吸い取る。繁殖力が旺盛で一度発生すると森を白く塗りつぶし全滅させるほど。そのため自然界では駆逐され絶滅している。現在は人工的に栽培されたものしか残っていない。

(※5)フライベリーとは、山奥の淡水に住み着くクラゲのような球体の生物。元々は透明で触手を持つ。フライベリーそのものには味はなく、砂糖や果汁に漬け込むと味がしみこみ、水分の調節で触感はゼリーやグミのように変化する。生きたまま漬け込むとより味がしみこみやすい。酢漬けにすると触手部分が溶けるため見栄えがよくなる。養殖はされていないが、簡単につかまえることができるため安価。

(※6)赤キッカチョウとは、漢字で書くとするとおそらく赤菊花蝶となる。翅が赤い巨大な蝶の仲間である。白キッカチョウが品種改良された家畜。主な特徴は白キッカチョウと同様だが、動物の脂肪を好み、肉は脂質が多く、柔らかい。幼虫から成虫まで食肉に加工が可能である。

(※7)赤キッカチョウと白キッカチョウの卵とは、キッカチョウが産む細長い楕円形の卵。カラは薄く、ナイフで切って中身を出す。通常は幼虫が入っているが、疑似交尾をさせることで無精卵を採集する。赤キッカチョウの卵はほとんどが黄身。白キッカチョウの卵はほとんどが白身になるよう改良されている。どちらのキッカチョウも一生のうち一回、10個卵を産む。回数は少ないが、幼虫はすぐに成虫になるため卵はそこまで値が張ることはない。

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ホジャ・モジャの異世界移動料理屋さん(in現代) 染谷市太郎 @someyaititarou

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