孤独で生きて、愛で殺して

佐薙概念

孤独で生きて、愛で殺して




「僕は、孤独を原動力に小説を書いているんです」


 自信のなさそうな表情でそう語るKは、少なくとも日本でも有数の文学賞を受賞した小説家には見えなかった。「気鋭の若手作家、鮮烈デビュー!」という文句の下に、まったく鮮烈ではない猫背で姿勢の悪い男が本を持って立っている。写真のチョイスが悪いように見えるが、思えばこの男はいつもこうだった。


 Kを初めて知ったのがいつなのか、私はもう覚えていない。小学校から高校までずっと同じだった。もしかしたら、幼稚園だって。あまり関わりがないから喋った回数は片手で足りてしまうだろうけど、初めてクラスが同じになった小三の春も、同じ委員会に入った中二の秋も、私に恋人ができた高一の冬も、いつだって彼のことを意識していた。先に言っておくが、それは異性としての意識では断じてない。

 私は頭が良かった。両親はどちらとも有名大学を出ており、父は銀行勤務、母は高校教諭だった。小学校に入るなり塾に通わされた私は同級生と比肩できないほどの知識を身につけ、テストの点は誰よりも高かった。

 一方、Kは勉強が苦手だった。とりわけ理系科目は弱いらしく、算数の時間はいつも当てられることを恐れていた。理解が出来なかった。こんな問題のどこにつまずく要素があるのか。正直に言えば、見下していたとも思う。

 でも、そんな私が、Kに唯一勝てなかったことがある。彼には、文章を書く才能があった。そのことに気付いたのは小一の時。私が夏休みに提出した読書感想文が賞を取ったと担任から告げられても驚きはなかった。当たり前だ。私はこの学校の誰より国語ができるし、文章だって上手いのだから。

 全校集会でステージに登ると、私の前にKがいた。そして、その並びが最優秀賞、優秀賞の順だと知ったのは、実際に賞状を渡されたタイミングだった。私の人生が決定的に狂ってしまった瞬間があるとすれば、間違いなくあの時だった。生まれて初めて知った敗北。あれほど強く下唇を噛んだことはなかった。宿題以外で原稿用紙を引っ張り出したのも、その晩が初めてだった。

 それから中学生になりKが全国の創作コンクールで入選しても、高校生になってKの名前が文芸雑誌の片隅に載っても、私はそれを遠くで眺めるだけだった。

 Kは恋愛小説を書いていた。だから、私も恋愛小説を書いた。だって、同じフィールドで勝負しないと意味が無い。弓使いに槍で勝っても何も嬉しくはない。そんなことを繰り返すうちに、Kは専業の小説家に、私は大学生になっていた。期待の新人作家と、ただの大学生。未練が捨てきれず両親の反対を押し切って文学部に入った点も加味して、彼と私の差は歴然だった。

 これまで数多の恋愛小説を読んで参考にしてきたけれど、それでも一番読んだのは他でもないKの小説だった。ここが気に食わない、ここがつまらないと愚痴を言いながら彼の物語を読み進めるたび、その才能に感服せざるを得なかった。私だって、決して文章は下手じゃない。それでも、私とKの小説には高い壁があった。

 その違いを知るために、実際に恋愛をしてみたりもした。高一の冬、告白してきた同級生の男子と一連の経験をしてみて、分かったのは私が恋愛に向いてないことだけだった。私は人を好きになる才能がないのかもしれない。はっきり言って手詰まりだった。

 だから、Kの受賞者インタビューを読んだ時、私は言いようもない幸福感に包まれた。これまで一勝もできなかった強敵が、自ら弱点を晒してくれたのだ。たったそれだけで、人生が明るくなったような気すらした。


「僕は、孤独を原動力に小説を書いているんです」


 そうだ。孤独を奪ってしまえば、彼は小説が書けなくなってしまう。


 ◇


 髪が女の命と言うなら、私は現在進行形で自殺していることになる。それにしても、死ぬにしては照明も雰囲気も明るすぎる。

 美容師に苦笑いされてから、それが失言だったと気付く。家に籠もってひたすら文字の海に溺れていると、一般的な感覚を喪失してしまうので良くない。もし私が小説家ならばそれはきわめて健全なのかもしれないが、そうでなければただの社会不適合者でしかないのだから。


 私の「作戦」は、まず容姿のチューニングから始まった。一年以上伸ばしていた髪をばっさり切り落とし、ショートボブくらいの長さに揃えてもらう。久しぶりに顕れた肩がなんだか恥ずかしい。

 続いて、これまた久々に赴いた服屋で、青色のワンピースを買った。それに合うように、白い花がワンポイントでついたサンダルも忘れない。最後は動画サイトで紹介されているナチュラルメイクを参考にする。鏡の前に建った私は文字通り別人で、視界に入るたび他人がいると思ってびっくりしてしまうほどだ。

 すべては彼の孤独を奪うための「作戦」。そのためには、まず外見を彼好みにする必要があった。要するに、彼の小説に出てくるヒロインを模倣すれば良いのだ。髪を切り、普段は着ない服を身に纏う私は、もはや私ではない。何度も読み返したおかげで、彼の小説に出てくるヒロインは嫌というほど鮮やかにイメージできる。

 こんな女が好みなのね、と鏡を見て舌打ちする。そこにいるのは私で間違いないのに、鏡の中の女にムカついていた自分が馬鹿みたいだった。

 なにはともあれ、これで準備は整った。あとは、小中高と知り合いであり続けた女だということを隠すための別の人格さえこしらえれば百点満点。私は恋愛小説に出てくるような理想のヒロインに擬態していた。


 彼の家と私の家はそれほど近くないけれど、行動範囲は把握していた。一度、Kがどうやって小説を書いているのかリサーチしたことがあったからだ。毎週火曜日と金曜日、彼は決まってこのカフェに立ち寄る。滞在時間は日によって違うにしても、数年単位のルーティンとして週二日の執筆時間をここで確保しているようだった。

 今日は火曜日。時刻は午前九時。そろそろ、私しかいない店内に優しいベルの音が響く頃だろう。事前に何度か来て、彼が一番奥の陽向が当たる席に座ることも知っている。だからこそ、選択肢を潰すように私もそこに鎮座する。物憂げに窓の外を眺めながら、憎き男の到着を待つ。

 肘の角度が違う。頬はもっと釣り上げなきゃ。理想のヒロイン仕草を微調整していると、銅製のベルが来客を告げた。自然な動作で入り口に目を向けると、やや不健康そうなKが立っている。髭が伸びているせいか、インタビューの写真で見たよりも年増に感じる。照合するのが私の記憶だけだったら見間違えたかもしれない。高校を卒業してから一年ほど見かけなかったKはますますみずぼらしくなっていた。

 あまり凝視しても怪しまれてしまうので、私は一旦自分のグラスに視線を移した。グラス越しに、歪んだKのシルエットがゆらめく。彼も伏し目がちにこちらを見ているようだった。普段は空いているはずの特等席が座られているのだから当然だ。しめたとばかりに私は顔を上げ、たゆたう彼の視線を捕らえる。

 言葉は必要ない。百パーセントのヒロインは、いつだって寡黙でミステリアスだ。言葉になんてしなくていい。ただ静かに、まるで世界の秘密そのものみたいにそっと微笑めば、それでいい。

 皮肉な話だけれど、その時の私は人生で一番可愛かっただろう。ただただ異性に好意を抱かせるための笑顔ほど醜悪なイミテーションはない。でも、造花より美しい花が存在しないように、その嘘は世界でもっとも可憐だった。

 急に目が合ったKは思わず目を逸らす。想定内だ。そして、ついに接触を試みる。


「あの、」


 抒情たっぷりに放った一言目。文句のつけようもない言い方だった。再びKがこちらを見る。


「もしかして、こちらの席に……」


「い、いえ。大丈夫です」


 最後まで言い切ることもなく、Kが遮る。これも想定済み。この男はいつだってそうだ。口下手で、人の話を最後まで聞かない。そこまで織り込んでの「作戦」なのだから。


「すみません。この席、陽向が素敵で。何も考えずに座ってしまいました」


 あくまで穏やかに、控えめな笑顔を添えることを忘れない。ここからが勝負だ。


「席は自由ですから。謝らないでください」


 床を見つめながらそう話すK。


「でも……。あ、そうだ。よければご一緒にどうです? これも何かの縁ですし」


 Kの瞳孔が開いたのが分かる。現時点ではまだ、単なる怪しい女だろう。だが、私の容貌はKの好みそのもの。


「いえ、でも、申し訳ないですし……」


「実は、最近この町に越してきまして。教えて頂けませんか。この町のこと、色々」


 これが決め手だった。この台詞は彼のデビュー作でヒロインが冒頭に呟いたものと一字一句違わない。自分が想像したヒロインの容姿に似た女が、まるで恋愛小説の一文のようなことを宣う。困惑と不安が混じっていようとも、小説家という病はこの誘惑から逃れることはできない。


 ◇


 一時間前に注文したホットコーヒーを飲み終えた頃、私はようやく核心を突くことにした。一時間かけて偽りの身の上話と経歴をでっち上げてきたので、下ごしらえはばっちりだ。


「Kさんは、ご職業はなんですか?」


 しばらく沈黙が通る。K自身、初めて会ったばかりの人間に安易に素性を明かすかどうか迷っているのだろう。


「……信じないかもしれませんが」


 そう前置きし、おずおずと答えるK。


「小説を、書いているんです」


「それは、小説家ということですか?」


「ええ、まあ。そんなもんです」


「すごい、もしかして結構有名な……」


 Kのこの反応は予想外だった。私が見ていた未来では、この後Kは「そんな、全然です」と否定するはずだった。それなのに、この男は嘘まみれの美辞麗句で喜んでいる。誑かしているのは他でもない私だというのに、なぜだか無性に腹が立った。一丁前に照れるんじゃない。

 しかし考え方によっては、これは好都合なことだった。私の目的はKの孤独を奪うこと、すなわち彼に好意を抱かせなくてはならない。ある意味、作業がより楽になったとも言える。

 退屈な大学のこと、普段聴いている音楽、最近楽しかったこと。他愛もない会話をいくつか重ねてから、私は切り出す。


「Kさんさえよければ、連絡先を交換しませんか? 引っ越してきたばかりで、友達もいなくって」


 Kは少し驚いている様子だったが、ただ軽く頷いてスマートフォンを差し出してきた。まさかここまで上手くいくとは思わず、油断すると頬が綻んでしまいそうだ。


「ありがとう」


 短くお礼を言って、そのまま店を立ち去る。ドアの前で後ろを振り返ると、呆けた顔のKが目に入った。作戦は完了だ。


 家に帰って「ともだち一覧」を眺める。Kのアイコンは実家で飼っていた猫。十二年も同じ学校に通っていて得られなかった連絡先を、こんなに簡単にゲットできてしまったことがなんとも不思議だった。

 それから私はいつもよりずっと長く熱いシャワーを浴びた。いつもよりずっと早くベッドに入り、ずっと深く眠った。別人のフリをするのは体力が要る。連絡先は交換したが、敢えてこちらから連絡はしない。次の戦いは金曜日だった。


 ◇


 一〇時七分。外がよく見える特等席。Kはそこに座っているだろう。金曜日はK以外に、朝早くから来ている常連のお爺さんがもう一人。これも既に知っている。

 今日はわざと遅めの時間を選んだ。前回と違って、私より先にKが座っていることが重要なのだ。磨りガラスの扉の前では、店内の様子が影だけで分かる。緊張しているのかもしれなかった。短く息を吐いて、スイッチで切り替えるようにドアを押した。

 カラン、と鳴ったら始まりの合図。Kはやはり左奥のあの席にいる。


「こんにちは。また会いましたね」


 反応こそ薄いものの、決して嫌われてはいないことが見て取れる。当たり前だ。伊達に十二年もこの男を観察していない。三日ぶりに会ったKは明らかに以前より心を許していた。




「なんていうか、『寂しさ』みたいなものを大切にしたいんです」


「寂しさ? 小説を書く上でってことですか?」


「はい。寂しさを出発点に小説を書いたら、まとまった文章ができて、最終的に本になる。物理的に触れられる寂しさは、なんだか愛おしいんです」


「なるほど」


「すみません、つまらないですよね、こんな話」


 そんなことないよ、と言って私は首を振る。実際、彼の話は興味深かった。穴が空くほど彼の作品を読み返してきた私だが、それでもすべてを汲み取ることはできない。何年かけても解けなかった問題がこの一瞬で解説されるのは虚しいけれど、敵が自ら内情を暴露してくれることはとてもありがたかった。彼のことを知れば知るほど、私の「作戦」は完璧に近づいていく。


 私と彼がこの喫茶店で待ち合わせする習慣は、その後も続いた。基本は火曜と金曜の午前中。ただ他愛もない会話を重ねるだけの時間だったけれど、目的のためなら多少の忍耐は厭わなかった。時折、自分が架空の女を演じていることを忘れてしまいそうになる。そんな時はあの頃を思い出した。初めてKに負けた、死ぬほど悔しかったあの頃を。


 一ヶ月ほど過ぎた金曜日。その日はいつもより五分早く家を出た。この時間に出れば、Kより僅かに早く到着できることを知っていた。

 先に着いてKを待っていた私は、ポケットの紙切れを何度も触っていた。そうして所在を確認していないと、すぐに消えてしまいそうな気がしたのだ。

 やがていつも通りのKがやって来る。前回会った時、Kが現在書いている最新作の構想に悩んでいることは聞いていた。絶好のタイミングで、私は二枚の紙片を取り出した。


「プラネタリウムのチケットが、余ってるんです。大学の友達が行く予定だったけれど、要らなくなったみたいで」


 そこまで説明しても、Kは未だピンときていないようだった。


「Kさん、よければ一緒に行きません?」


 とどめに、わざとらしいくらいの笑顔を添えて。普段使わない表情筋を使っているのが感覚で分かる。

 Kは返答に迷っているらしかった。この男のことだ。人生でこんな類いの誘いをされたことがないのだろう。ならば、こちらから押さなければならない。


「新作の構想に悩んでるって言ってましたよね。きっと、参考になると思います」


 口にしたのは一瞬だったが、新作が「星」に関する物語だと言っていたのを、私は聞き逃さなかった。


「ええと……」


 Kの中で、おそらく回答は既に決まっていた。それでも口ごもっているのは、この状況で適切な語彙を探しているからだ。


「ぜひ、よろしくお願いします」


 釣りをしたことはないけれど、魚がかかった感動はこんな感じなんだろうか。私は手帳に今週の日曜の予定を書き込んだ。


 ◇


 待ち合わせの駅に着いたのは二〇分前にも拘らず、そこには普段通り冴えないKの姿があった。中学生のセンスから成長しないファッションは、成長する気が感じ取れないところまで含めてムカつく要素だった。

 私は相変わらずヒロインを模倣していた。今日は、彼が高校生の時に受賞した小説のヒロインの格好を真似ている。ある意味、これは復讐でもあった。自分の書いたキャラクターそっくりの女が、ダサい作者の隣にいる。考えられる中で、もっとも醜悪な方法の一つだ。


「毎回あそこで会ってるから、なんだか変な感じですね」


 施設まで歩く途中、Kはなんの気なしにそう言った。それは私も同じだった。週に二回も顔を合わせるのに、休日に別の場所で出くわしたクラスメートのような気恥ずかしさがあった。


 最後にプラネタリウムを見た記憶を思い起こすと、小学校まで遡らないといけない。人生において「星が見たい」と思ったことがないので、どういう意図でここに足を運ぶのか、いまいち理解できなかった。

 けれど、入場口でチケットを切って、周りを見渡すと答えは明白だった。辺りにはカップルしかいない。

 つまり、ここにいるほぼ全員が「星を見たい」と思って来ているわけではないのだ。満点の星空でロマンティックな気分に浸り、それを相手と共有する体験を買いに来ている。であれば、恋愛なんてものは嘘でしかない。相手が好きなのではなく体験が好きならば、別に誰でもいいということになる。やはり現実の恋愛に意味などない。

 そうは言っても、Kにとってそれは大きな問題だったようだ。選択されたのが「カップルシート」であることに動揺し、先程から反応がおかしい。そんな名前に意味などないというのに。


「本当に、大丈夫ですかね……」


「大丈夫ですよ。そもそも、友達が譲ってくれた理由が彼氏と喧嘩したからだったんです。だから、最初からシートは決まってました」

 もちろんそんな友達はいない。だいたい、今時の大学生はデートでプラネタリウムなんか行かないはずだ。たぶん。


「まあ、それなら。いや、でも……」


 でも、それを分かってて誘ったんですよね。きっとKはこう言いたいのだ。最後まで言葉にできないのがいかにも彼らしい。


「ほら、もうすぐ始まりますよ。新作のためですから、あまり気にしない方が楽なはずです」


 その台詞がよほど効いたのか、Kは目に見えて気が楽になっていた。臆病な人間ほど、大義名分が役に立つ。歪んだ正義を加速させるのは、大義名分を与えられた臆病者だと歴史が証明している。


「大変長らくお待たせいたしました。それでは、一二時三〇分からの公演を始めさせて頂きます……」


 男性のアナウンスが流れ、上演が開始する。しばらく注意事項が繰り返された後、場内が暗転した。短く控えめな猫なで声があちこちから聞こえた。

 Kの横顔を盗み見る。心が完全に少年に戻っていた。


 小一の夏、宿題で課された読書感想文で、Kは『銀河鉄道の夜』について書いていた。そして、その文章で最も名誉のある賞を獲得した。

 それが理由なのか、それとも前からそうだったのかは知らないが、Kはおそらく星が好きだった。

 それは彼の作品を見れば明らかだった。全ての作品で、星や宇宙、空といったモチーフが必ず出てくる。


「ねえ、Kさん」


 解説が一段落したところで、いつもより距離の近いKに話しかけた。


「うん?」


「Kさんは、星が好きなの?」


「そう……ですね。星は好きです。小さい頃から、ずっと」


「それはどうして?」


 理由を考えたことがなかったのか、Kは顎に手をやった。少し考えた後、「強いて言うなら、こういうことです」と呟いてから言った。


「こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。」


 私は、そのフレーズに聞き覚えがあった。だから、続きを口にした。


「けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい。」


 Kは目を丸くしていた。まさか伝わると思っていなかったのだろう。その反応は明らかに、彼の人生で続きを唱えてくれる人が初めて現われた時のために用意されていたものだった。

 当然だ。私はKの小説を誰より読んでいる。誰より口に出している。彼が気に入って繰り返し使う『銀河鉄道の夜』の引用を暗唱できないわけがない。

 それから私とKが会話することはなかった。場内には詳しい星座の解説が響いていた。周りのカップルはおそらく誰も真剣に聞いてなどいない。

 唯一真面目に聞いていたであろうKですら、私のことを頻繁に見るようになった。彼の少年の心は、もうなかった。

「作戦」は最終段階に入った。私はそっと彼の手を握った。彼の手は湿っていたけれど、それでも気にせず握り続けた。困惑したKが複雑な表情をしてこちらを振り返っても、そのまま微笑み続けた。

 その瞬間、私は正真正銘のヒロインだった。理想のヒロイン。世界と自分の間にある薄布の向こうで、この世の秘密そのものみたいに微笑む女の子。


 ◇


「作戦」を実行に移してから、三ヶ月経った頃だった。いつものように喫茶店に入ると、あまりにも顔色の悪いKがいた。


「どうしたんですか? 体調が悪いとか……」


 何の前置きもせずに、Kは唐突に語り出した。


「小説が、書けないんです」


 私は心の中でガッツポーズをした。これにて、「作戦」は完全に達成されたことになる。表面を取り繕うのに苦労する。


「書けないって、どうして急に」


「分からないんです。書きたいことがひとつも浮かんでこない。それどころか、僕は今までどうして小説を書いていたのか、どうやって、小説を書いていたのか、もうちっとも思い出せないんです」


 あの日、Kの心に蒔いた種は、三ヶ月経って完全に開花した。小説が書けなくなる、孤独を奪う、美しい悪魔の花だった。

 けれど、Kが原因に気付くことはないだろう。すべての元凶が目の前で手を握っているとは思いもしないだろう。恋は人を狂わせる。恋の前では皆が盲目。熱湯に投げ込まれたカエルはすぐに飛び出すが、水のまま投げ込んで沸騰させればそのまま死に至る。


「きっと大丈夫ですよ、私も協力しますから」


 こんなにも心ない言葉がすらすら出てくることに、自分でも驚いていた。Kはもう小説が書けない。

 結局、その日はKをひたすら慰めるだけだった。家に帰り、PCに向き合って文字を紡いだ。これで私を邪魔するものは何もない。正真正銘、一番面白い小説が書けるのは私自身だ。

 夜になっても、なかなか眠れなかった。きっと、長期にわたる達成感と興奮のせいだと思った。その日は、そう思っていた。


 けれど、それから一週間経っても、一ヶ月経っても、私は眠れなかった。朝起きられない日が増えたばかりか、喫茶店にすら行かない日もあった。眠れないだけならまだマシだっただろう。それどころか、私まで小説が書けなくなってしまっていた。Kと会っていた時期にあれだけ進んだ筆が、いっさい動かなくなった。

 Kも症状は同じだった。彼が締め切りを何度も延ばした挙句出版された新刊は、レビューサイトで過去最低との文字がたくさん並んだ。

 あれだけ輝いていた達成感はやがてどす黒い罪悪感に変わり、長年抱いていた野心はじわじわと希死念慮に変わっていった。

 Kに会うことが辛くなった。あれだけ望んでいた時間が、いとも容易く苦痛になった。Kの精神状態が、私にも伝染しているみたいだった。


 それから、私は長い長い文章を書いた。昔使っていた原稿用紙をたまたま見つけ、久々に手書きで物語を書こうと思ったのだ。あの時Kに負けた気持ちを思い出そう。そうすれば、私はもう一度小説が書ける。


 三日が経っていた。原稿用紙の枚数は、百を超えていた。そこに書かれていたのは、小説ではなかった。Kに対する想いを綴った、ただのファンレターだった。

 私は心底驚いた。無意識に書き続けていた文章が、世界で一番憎らしい男への想いを綴った手紙だったのだから。その時、私はようやく気付いた。本当に愚かしくて、馬鹿げた結論だったとしても、そう認めざるを得なかった。


「ああ、私、あの人のファンだったんだ」


 ◇


 雪がちらつき始めた、寒い冬の日だった。まだ午前中だというのに、空はどんよりと曇って店内も薄暗い。

 店長がお皿を洗う音がやけに響く。あれだけ短く切った髪がもう肩にかかっていることに今さら気がつく。

 Kと出会って、これまでにないほど重たい沈黙が続いた。言うべきことはたくさんあるはずなのに、何から切り出すべきなのか皆目分からない。そして、おそらくKの側からは話し始めないだろうことも理解していた。


「Kさん」


 意を決して第一声を放つ。心臓を吐き出しそうだった。罪を犯した人間は償うことなんてできない。そんなのは、加害者による傲慢だ。できるのは嘘をつかないこと。真実を伝えること。百分の一にも満たない贖罪だとしても、そうする他なかった。


「お話があるんです」


 Kがおもむろに顔を上げた。聞いたことのない声色だったのだろう。もう取り繕う必要の無い私の声は、ひどく低く、冷たい。


「とても長くて、酷い話です。それでも、最後まで聞いて欲しいんです」


 何かを悟ったのか、Kは観念したように脱力した。再度椅子に座り直すと、こちらの目を見て頷いた。


「ある町に、一人の少女がいました」


 ◇


 ある町に、一人の少女がいました。少女は失敗を知りませんでした。裕福で教養深い両親のもとに生まれ、勉強も運動も学校の誰より優れていました。

 しかしある日、少女は自分より遥かに才能が豊かな男の子を見つけてしまいました。文章を書く才能です。その男の子は、少女の近くにいながらも少女よりずっと良い文章を書きました。中学校・高校と経ても、その一点において少女が男の子に勝つことはありませんでした。

 やがて時が過ぎ、少女は大学生に、男の子は作家になりました。それも、多くの人が知っている有名な賞を受賞した、期待の作家です。

 少女は気が狂いそうでした。いえ、もう少女と呼べるような年でもありません。小説を書くために全てを捧げてきたのに、彼の才能にはまったく追いつくことが出来なかったのです。そして偶然にも、彼のインタビューが載った雑誌を手に取ります。そこには、こう書いてありました。


「僕は、孤独を原動力に小説を書いているんです」


 彼女は思いました。孤独を奪ってしまえば、彼は小説が書けなくなるのではないか。そして、そのために作戦を考えました。恋愛小説に出てくるような理想の女性を装って、彼に近づくことにしました。彼に好意を抱かせて、かき乱してしまおうとしたのです。

 結果は大成功。彼は見事にスランプに陥り、彼女の目的は達成されました。


「本当は一緒にいるのが嫌でしかたありませんでした。あなたに近づいて好意を持たせたのは、あなたから孤独を奪うためです。目的は達成されました。私は、あなたの前から姿を消します」


 初めてここで会った時と同じく、瞳孔が開かれる。Kはおぼろげな意識のままで、私の苗字を呟いた。どうやら名前は覚えられていたようだ。

 これ以上は耐えられなかった。背もたれにかけたコートを手早く取り、一万円札を机に置いて店を後にする。もう振り返ることはなかった。

 ただ、店を出る直前、少しだけ立ち止まって呟いた。


「……さようなら」


 その声がKに届いていたかどうかは知らない。けれど、それでいいと思った。

 結論から言えば、それがKに直接会った最後の日だった。

 肌を刺すように鋭利な冬だった。その晩、私は久々に眠ることが出来た。罪悪感と寒さに溺れながら、最低な夢を見た。


 ◇


 桜が満開になるとのニュースを聞いたところで、私はテレビの電源を落とした。今日はとある喫茶店でインタビューの仕事がある。今年初めて着る春用のコートを出して家を出た。

 数年前、毎週のようにこの道を通っていたことを思い出す。一陣の風が抜けて、花びらが舞い散った。最低だったあの頃が許されることはないにしても、桜の美しさだけは忘れたくないと思う。

 あれからKに会ったことは一度もない。彼はさらに家に籠もるようになったのか、喫茶店にも現われなくなった。彼が今年三つ目となる文学賞を受賞したとのニュースを耳にしたのは、つい先日のことだった。

 店の外見はまったく変わっていなかった。ドアを押すときの重みでさえ、今は懐かしい。銅製のベルが鳴って、左奥に手を振る人がいる。陽向の当たる特等席。


「お待ちしておりました、先生。本日はよろしくお願いします」


 暇だった数年前とは一転、先月小説賞を受賞したばかりの私は忙しい日々を過ごしている。


「早速なのですが、先生が小説を書く原動力はなんですか?」


 インタビューが始まったようだった。少し考えるフリをする。でも実際のところ、私はその答えをずっと前に見つけていた。それも、この場所、この席で。


「私は、愛を原動力に小説を書いているんです」


 帰ったら、手紙を出そうと思った。数年前、大好きだった小説家に宛てた、長い長い手紙だった。

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