寒空の下、先輩と星空ウォッチング

金石みずき

寒空の下、先輩と星空ウォッチング

「見てください先輩! すごくよく見えますよ!」


 二月末。

 卒業を間近控えた先輩の、最後の登校日。

 とっくに天文部を引退した先輩と、私は夜の屋上へとやってきた。


「そうだな」


 氷点下にも迫る寒空の下だけど、ちっとも苦になんてならない。

 だって本当に久しぶりのふたりきり。

 先輩が引退して以来だから、えーっと、もう七か月……いや、八か月ぶりになるかな。


 そんなすっかりテンションの上がり切った私が、視界いっぱいに広がる星空を指さしながら振り返った。

 すると先輩はまるで私を見守るように、暖かで穏やかな視線を向けていた。

 きっと子供みたいに見られてるんだろうなぁと自覚して、ちょっと恥ずかしい。

 けれど恥ずかしがってる場合じゃない。

 だってきっと先輩と会えるのは、今日で最後なんだから。


「そういえば、いいんですか? 夜に屋上、勝手に入っちゃったりして」

「もうすぐ卒業だからな。可愛い後輩の願いは叶えてやらないと」


 生徒が屋上に入ることは禁止されている。

 けれど先輩は鍵を持っていた。

 なんでもずっと昔、天文部で天体観測したときに特別に部で借りたものを、密かに複製した人がいたそうだ。

 それから部員の間で秘密の伝統として、ずっと引き継がれてきたみたい。


「へぇ~。じゃあその可愛い後輩が、今日は特別に先輩に教えられてあげますね!」

「教えられるっていうのに、ずいぶん偉そうな物言いだな」

「えー。だって私、冬の星座は教えてもらってないもん。あ! それともこう呼んだ方がいいですか? せ・ん・せ?」


 べたべたの甘えるような、らしくない声。

 友達に訊かれたら二度見されて驚かれそう。

 それか爆笑される。


 でも真冬の夜の屋上に、私たち二人以外は誰もいない。

 だからいいよね?

 先輩しか聞いてないんだし。

 ……先輩にしか、聞かせないんだし。


「ばーか。そんな趣味はねーよ」


 ハハッと爽やかに先輩が笑う。

 目が猫みたいに細められて、どちらかというと物静かな方の先輩には意外なほど大きな口から、白い歯がのぞいた。

 カッと熱が昇って来て、顔が熱くなる。

 この笑顔にやられちゃったんだよなぁ……。


「じ、じゃあ先輩!」私は気を取り直すように、無駄に大きな声で言った。

「私でもわかりそうな星とか星座ってありますか?」

「えーっと、そうだな。さすがにオリオン座はわかるだろ?」


 確認するような先輩の声。


「え、わかりませんよ」


 即答した私に、先輩は呆れ顔を見せる。


「お前なあ。仮にも天文部なら、オリオン座くらい知っとけよ。今日日中学生でも知ってるぞ」


 知ってるわけないじゃん。

 だって本当は星になんて興味ないもん。

 先輩がいたから天文部に入った。

 先輩と一緒に見るために、必死になって春、そして夏の星を覚えた。

 ちょっとでも私に目を向けてもらいたくて。


「ほら、あそこに見える三つ星と、その上さらに三つ、下に二つ明るい星があるだろ」


 先輩が空を指さす。

 そちらに目を向けて頷くふりをして、先輩の横顔をそっと覗き見る。

 えーっと、どこですか。わからないふりをして、さらに一歩距離を詰めた。


「ほら、あれだよあれ」


 ほんの少しだけ先輩に触れた背中から、熱がじんわりと沁み込んで来る。

 ドキドキと痛いくらいに跳ねる、胸の高鳴りが止まらない。


 だけど先輩の意識は夜空に捕まったまま。

 ちょっとは意識してよ、ばか。

 それともいきなり手でも握れば、私の方を見てくれる?


 そんなふうにも考えたけど、どうやらここが私の限界みたい。

 心臓はとっくに限界を迎えていて、これ以上はとても耐えられそうになかった。


「も、もうわかりました。ありがとうございます」


 言いながら一歩離れ、いつの間にか止めていた息を深く吐き出した。

 そしてゆっくり時間をかけて吸い込む。

 酸欠になった身体が、酸素を求めて心臓を急かしてくる。

 きっとこの、まだちっとも止まろうとしない高鳴りはそのせいなんだ。

 そう自分に言い聞かせ、必死に呼吸を整えた。


「そうか? じゃあ次は――」


 三年生と一年生。

 一緒に部活出来たのは、夏休みに入るまでのほんの三か月ほど。

 中学の頃はただの憧れだった。

 でもどうしても忘れられなくて、必死になって勉強して追いかけた。

 前みたいに運動部に入ってるのかなと思ったら、先輩がいたのはまさかの廃部寸前の天文部。

 詳しくは教えてくれないけれど、風の噂では怪我をして選手生命を絶たれたらしい。

 本人は何も言わないけどね。

 そんなところもいいな、と思う。


 オリオン座を追いかけるシリウス。そしてそのオリオンを構成する星の一つ、ベテルギウス。さらに少し離れたプロキオンの三つの星で作られる、冬の大三角。

 さらにポルックス、カペラ、アルデバラン、リゲルを加えて、冬のダイヤモンド。


 そんな先輩の説明を、今度こそきちんと聞く。

 真剣ながらどこか優しい声が、私を包むのがわかる。

 一音一音決して逃がさないように、しっかりと全身で受け止めた。

 このまま永遠に浸っていたい。

 けれど――


「くしゅんっ」


 終わりは必ず来る。


「寒……っ」


 全身を抱いて、身体を震わせた。

 いくら先輩が近くにいるといっても、生理的な反応は止められない。

 だって本当は呼び出すつもりなんてなかった。

 でもどうしても最後に顔を見たくて、連絡した。

 まさか応じてくれるなんて思わなかった。

 ましてや「最後に先輩と星がみたい」ってお願いを聞いてくれるなんて、それこそ思わなかったよ。

 だから十分な準備ができなかった。


「そんな薄着してるから」

「だって……」


 お気に入りのコートはこの間、クリーニングに出したばかりだった。

 今学校に着て来てるコートは、あまり可愛くない。

 であれば次善の選択は、制服だった。

 先輩には出来る限り可愛い私を見て欲しかったから。


「しょうがないな……。ほら」


 先輩が来ていたコートを脱ぎ、私に掛けてくれた。

 ぽかぽかと先輩の体温が伝わってくる。


「え、でも、これじゃ先輩が」

「いいんだよ。俺はそこまで寒くないから」


 嘘。

 本当のことを言わない時はそっぽを向いて話す癖、知ってるんだから。

 でも、今はその心遣いが嬉しい。


「じ、じゃあ先輩」


 だからちょっとだけ、勇気を出してみようかな。


「一緒に着ます……?」


 震えそうになるのを必死で抑えたその声は、思ってたよりもずっとか細くて。

 先輩にちゃんと聞こえたかな? 心配になったけれど。

 先輩の目が私を捕らえ、そしてすっとまた空に戻った。


「いや、大丈夫」


 わかってた。

 先輩は絶対に応じてくれないって。

 だって先輩の心には別の人がいるから。

 そして次の春からは、その人のいる大学へ行くんだよね。


 私みたいだ。ちょっとだけそんなふうに思ったけれど、でも先輩は私とは違う。

 だって未だにこの想いすら告げられてない私と違って、先輩はすでにその人と付き合ってるから。

 だから先輩の中に私の居場所はどこにもない。

 私の中の先輩はこんなに大きいのに、どこか不公平に感じてしまう。


「ねえ、先輩」

「ん?」

「星、綺麗ですね」

「――ああ、そうだな」


 唐突に言った私の言葉に、先輩は戸惑ったみたいだった。

 もし私がここで「月が綺麗ですね」と言ったなら、先輩はきちんと理解してくれただろう。

 そしてやんわりと拒絶されたはずだ。


 だからあえて星、と言った。

 月ほどは先輩の中で輝くことは出来ないかもしれないけれど、それでもほんの少しでも存在感を残せたらいいなと願って。

 先輩はそんな私の独りよがりな願いには、ちっとも気づかなかったみたいだけれど。


 ほぅ、と息を吐く。

 中途半端にしか吐き出せなかった想いを込めて。

 私の口から出た白いもやもやが、寒空の中に溶けていった。

 優しい夜空が、そっと受け止めてくれたような気がした。


「先輩っ」


 結局、想いは告げられていない。

 けれどどこかすっきりした気分だった。

 だから私は目一杯の笑顔を先輩に振りまいた。


「そろそろ帰りましょ! 今日はありがとうございました! ……ご卒業、おめでとうございます」

「ああ、うん。ありがとな」


 先輩が照れくさそうに頬を掻いた。

 ……おや?

 もしかして、ちょっとは爪痕を残せたのかな?

 そうだったらいいな。

 今日ここに来た意味もあったというものだ。

 勘違いかもしれないけれど、少しだけ嬉しい。


 と、勝手に内心上機嫌になっていると、先輩が何かに気が付いたように動きを止め、ポケットを探った。

 そして取り出したものを、私の方へと差し出してくる。


「これ、渡しとくわ。俺にはもう必要ないし」


 そう言って差し出されたものを、両手で受け取った。

 ――鍵だ。きっと、この屋上の。


「いつかお前の後輩にあげてくれ」

「……わかりましたっ」


 ずるいなぁ。

 こんなものを残してくなんて。

 きっと見るたびに思い出しちゃう。

 いつか素直な気持ちで誰かに渡せる日なんて来るんだろうか。


 ……まあ、いっかっ!


 帰りましょ、もう一度そう言って踵を返したそのとき、先輩が「あ」と小さく呟き、空を指さした。

 私も振り向いて、そちらを見る。


 ス――……ッと白い軌跡が消えていった。


「流れ星……」

「……だな」

「先輩は何か願いましたか?」

「さあな」

「私は願いましたよ」

「そか」


 先輩はまた、爽やかに笑った。


「叶うといいな」

「そうですね。……でもきっと、叶います」

「……? そうなのか?」

「はいっ」


 私たちは今度こそ、屋上を後にする。

 たった一つの願いだけをそこに残して。

 もらったばかりの鍵を使って、しっかりと閉じ込めた。

 

 ――大好きな先輩あなたが、ただ幸せでありますように。

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寒空の下、先輩と星空ウォッチング 金石みずき @mizuki_kanaiwa

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