第3話
何故か一人の男だけが、増殖しなかった。二の二十乗=百四万八千五百七十六番目の男だ。つまり、最初の繁殖の日から二十日間が経過したタイミングで、誕生したクローンだ。
殖えない男は、埼玉県桶川市に住んでいるのが判明した。福岡市から桶川市まで千百二十九キロの距離だ。
三週間も益田卓夫を苦しめた状況は、暗くて重苦しかったが、ようやく明るい日差しを見る――どんな碩学にも、専門家にも、誰にも解決できなかった難問を自分なら、糸口を見つけられる――と、確信した。
卓夫は死ぬ前に殖えない男に会おうと決意した。このままだと、明日には二百九万七千百五十二人、明後日には四百十九万四千三百四人になる。特に卓夫の住む福岡市は、博多を中心として、もっとも分身が残留しているエリアだ。福岡市の人口百五十三万九千人を超えるのも、時間の問題となっていた。
彼はこれほどまでに、時間の経過に恐怖を感じた例はなかった。つまり、一刻の猶予もない。卓夫は意を決すると、雄次郎と影夫を誘い、急いでクルマに乗った。
時刻は午後六時三十分なので、冬の冷たい空気は周囲を包み周囲を薄暗くしていた。クルマは、昼頃から雨が降り出していたため、滑りやすい路面の上を進んだ。カーラジオからは松任谷由実特集で、ユーミンの「あの日に帰りたい」が流れている。
桶川市までのドライブは、時間にして十四時間かかる。彼にとって、げんなりするほどの長距離だが、公共交通機関を使って人目に晒されるのを避けようとした。
博多の家を出てから三十分後に、古賀サービスエリアで三人は腹ごしらえをした。
三人は揃って、ごぼう天うどんを完食した。
福岡市を出て、北九州、広島と三人を乗せたクルマは速度を上げて高速道路を他の乗用車やトラックを抜き去り、先へと走り続けた。途中、宮島サービスエリアでトイレ休憩をした後、運転を卓夫から雄次郎に交代した。
クルマの中でも、卓夫と影夫は分身を生み出し、三人で出発した道中が五人に増えていた。
卓夫は、――鶏は一羽で、一年間に三百個の卵を産む――理科の授業で、生徒たちを前にして「雌鶏は、俺たち人間の男より、かなりタフに出来ている」と、笑った光景を思い出した。
パニックを起こしかけた二人の分身たちを……、いつもの要領で宥めて服を着せると、卓夫と影夫は、後部座席で仮眠をとった。
クルマは、広島を出て、岡山、大阪、京都と進み名古屋の守山パーキングエリアに着いたのは、午前七時になっていた。卓夫は――お金や貴金属ではなく、時間こそがもっとも価値のある財産だ――と、感じていた。
「次の角を左に曲がれ」と、卓夫は大きな声で命じた。
ハンドルを握っていた雄次郎は、考え事をしていた。カーナビが示す方向やナビゲーターの「三十メートル先を左折です」と指図する声を聞き逃していた。
やっと、桶川市に到着すると家の前で、殖えない男が待っていた。外の空気は冷たく、卓夫たちの吐く息が、小さな雲の塊になり、近くを漂うと消えていった。彼らは、身を切る寒さに震えた。
卓夫は増殖しない男が単なるデマではなく、実在するのを知り安堵した。
百四万八千五百七十六番目の殖えない男は「佐藤貫太郎」と、ありきたりな名前を名乗っていた。
貫太郎は卓夫の方に歩み寄ると、自分から握手を求めた。貫太郎は、影夫と卓夫を瞬時に見分けると「長旅でお疲れでしょう? 今日は、ゆっくりして行ってください」と労い、ぎこちなく笑った。
「分身たちの中にも、あなたを英雄視する者が大勢います。ある意味、乃南以上に……」
佐藤貫太郎は、この世に生を受けて二日しかならない。有性生殖で生まれた赤ん坊なら、他人を個体識別するのもままならない日数だ。貫太郎の親株にあたる男に安アパートを譲られて、そこに住んでいた。
アパートの中は狭く、きちんと整えられていたが、余計なものは少なく、殺風景に見えた。六人の男がいると息苦しくなるほどだ。しかも、雄次郎を除く五人は皆、同じ顔をしている。
卓夫の自宅の半分の広さのダイニングルームには、座卓がぽつんと置かれていた。ただ、日の当たる部屋の隅に、鉢植えのサボテンが一つだけ、置かれているのが目に付いた。壁や床の内装も至ってシンプルだ。
彼が首を回すと、粗削りな木製フレームに入れられた風景写真が、二つだけ壁にかけられていた。奇妙にも、卓夫がいずれ訪れたいと考えていたカナダのバンフ国立公園と、アメリカのアリゾナ州のセドナの写真だ。
彼は、この世に存在しないものが一つ混じっていても、今の自分なら驚かないと感じていた。卓夫は自分の着想の奇抜さに驚き、滑稽なイメージに薄笑いを浮かべていた。
貫太郎は、当たり前の日常のありふれたひと時のように、六つ用意したコップにコーヒーを注ぎ、テーブルに並べた。
貫太郎は卓夫の目をじっと見て話し、時折だが明るい声で笑った。雰囲気の全体が、事態が発生する前の卓夫と同じだった。雄次郎も、貫太郎には終始、好意的に接した。
分身が増えるほど、彼らと会ったときに目を見て話す気がしなくなる。風呂場で自分の尻を鏡で観察するような気恥ずかしさと、みっともなさを印象するせいだ。彼らもまた、お互いの様子をじっと見ようとしなかった。
卓夫は時間の余裕がない状況で、連絡を取り、百四万八千五百七十六番目の殖えない男=佐藤貫太郎に会えたのを喜んだ。貫太郎は、卓夫から目を逸らさず、まっすぐに見つめながら窮状を訴えた。
「自分たちは、先行きの不安で胸が押しつぶされる。過去の記憶が偽物……、いや、益田卓夫の脳内と同一なのも、混乱をもたらしている。俺も、他の者も途方もない現実に向き合っている」
「あるいは……、お前は救世主になれる。可能性に賭けるために、俺たちは此処に足を運んだ」と、卓夫は貫太郎の訴えに答えた。
影夫は一言も声を発さず、同意を示すために頷いたが、何か話したそうな表情をして貫太郎を見ていた。
男は、卓夫の風貌と似てはいるものの、鏡の中の男のように左右対称形だ。卓夫の右あごの下にある小さな黒子が、男の左あごの下にある。卓夫は右利きだが、男は左利きだ。
タレントでも、有名人でもない卓夫は、等身大の自分の左右対称形を毎日、鏡の中に見ていた。百四万八千五百七十六番目の男=佐藤貫太郎こそが、見慣れた自分自身に思えて親近感を抱いていた。
「約束してくれ」と、卓夫は貫太郎に向かって願い出た。「俺が指示する通り、貫太郎は益田卓夫本人……つまり、俺になり切ってくれ」
卓夫は、佐藤貫太郎に対して福岡の自宅に来るように思いを込めて説得した。
「約束を破るとどうなる? それと、卓夫は他の何になるつもりだ?」
「お前が、約束を破ったら……」卓夫は嫌悪感を浮かべて「俺たちの協力関係は破綻し、佐藤貫太郎は抹殺される」
「どういうことだ?」
「お前は確実に死ぬ。俺たちも、確実に消されるよ」
「おいおい、物騒なことを言わないでくれよ」と、雄次郎は慌てて打ち消そうとした。
「ただし……」卓夫は躊躇うように告げた。「もし、佐藤貫太郎……、お前が俺に成りすませば、影夫と俺が死んでも、貫太郎の中に俺たちは生き続ける」
貫太郎はため息をつき、首を横に振った。
「悲しい選択肢だな。悲しすぎるよ。俺は兄貴の偽物と、これからの人生を付き合わされる羽目になる。悍ましすぎないか」問い詰めるように、雄次郎は声を発した。
「それ以外に選択肢はないよ。時間は切迫している。貫太郎に俺の意志を継いでもらうことで、家族や未玖を傷つけずに済む」と、卓夫は声を落として告げた。
貫太郎には今、耳にした話が信じられなかった。貫太郎は、卓夫の次の言葉を待った。
「ただし、貫太郎には益田卓夫を終生、演じ続けてもらう。俺はお前で、お前は俺だ」
「兄貴の気持ちは分かる。でもな、自分を犠牲にする以外に、何かあるだろ」雄次郎は態度を和らげて、諭した。
影夫はしばらく、考えてから「残念ながら、卓夫の言ったとおりだ。他に方法はなかった」と打ち明けた。
「どうする貫太郎? 他に選択肢はない。お前だけが、俺たちの望みだ」
「よもや、突然の来訪者にそんなことを告げられるとは思わなかったよ。普通なら、時間が欲しいが、それが、あまり残されていないのも分かる」卓夫の唐突な申し出に戸惑う素振りを見せながら、貫太郎が答えた。
「どうする? お前の返事次第だ」
貫太郎は、しばらく考えてから頷いた。
「俺たちの中で、お前だけが生き残るのは、恥ずかしいことじゃない」
卓夫は、涙を流していた。
「お前はどう思う? 反対するのなら、何か名案でも出してくれ」
「そりゃ、そうだけど……、うん」雄次郎は、重苦しい声で頷いた。
卓夫は、雄次郎が何を告げたかったのか、想像できなかったが、弟に縋りたくはなかった。
雄次郎は、子供の頃から兄を慕い、小中学校の運動会の時も誰よりも大きな声で、卓夫を応援していた。雄次郎から見た卓夫は、兄であるだけでなく、良きお手本であり、ライバルであり、親友でもあった。
卓夫は、出来ればすべてが悪夢で、目覚めれば晴れやかな空の下で、香しい風に吹かれて、いつまでも生きていたかった。しかし、運命の女神は、そういう展開にしないと、心に決めている様子だ。彼は大きな深いため息をついた。とにかく、貫太郎に協力してもらうしかない。
卓夫たちは、佐藤貫太郎が深夜零時になっても殖えないのを確認するために、佐藤宅に一泊した。観察した結果、貫太郎は分裂しなかったが、四人の男が八人に増えていたため、雄次郎と貫太郎を加えた総勢十人の大所帯になり、部屋の中はむさくるしくなった。
翌日、卓夫たちは、朝早く身支度を整えて福岡への帰路を進んだ。
帰りのクルマの中は、行きのクルマの中と部屋の中で殖えた六人を桶川市に置き去りにして出発した。卓夫が運転しながら考えたのは、これから失うものの大きさだった。――満ち足りた生活を置き去りにして、死を受容する――どんな形で、この世を去るのが妥当なのか……、そればかりが、頭に浮かんでいた。
彼は声を大きくして怒りたかった。理不尽な展開を批判し、無責任な連中を叱り、世の中に存在する悪党を罵倒出来れば、どんなにか救われると想像した。ところが、声に出そうとした途端に、すべての現実を素通りして、悲しみと空しさが胸の中を広がっていく。果てにあるのは、絶望感だった。
人類は害虫、害獣の駆除に手古摺り、パンデミックによる大勢の死者に悩んできた。鼠算式に増える存在の脅威は、いついかなる時にどんな形で襲い掛かるか予想できない。
不測の事態が人間を哀れな状況に追い込むが、現実に抗おうとしても無駄骨になるのを人類は何度も経験してきた。卓夫は今の事態に遭遇するまでは、自分が人類の脅威になるとは夢にも思わないでいた。
影夫は「俺たちには、仏教でいう諦観が必要だ」と、事も無げに主張する。卓夫のクローン人間たちは、自分の記憶を「模造記憶」と名付け、自己批判を始めていた。身近にいる影夫も例外ではなかった。
「お前は、俺の模造品ではない。一人の人格を持つ人間だ。むしろ、自己処罰的な想念感情こそが、人間を矮小化する原因になる。自分を疑うな」
影夫は屈辱感に顔を歪めて「俺は最初から、そう思っていた。卓夫に似ていても、卓夫にはなれない。俺だって色んな状況を考え、感じてきた。このままだと、妻も子も持てない。お前のような家族団らんを……、記憶の中だけではなく、実際に経験したかったよ。本当に慈悲の心があるのなら、俺を……、俺たちを殺してくれ」
「そうなれば、俺も死ぬよ。貫太郎にすべてを託して、この世を去る」卓夫は、声に出した後で、自分の矛盾した言動に思わず失笑した。
クルマの中は、気まずい沈黙がすべてを包み込んだ。
卓夫は車内の淀んだ空気を入れ替えるため、エアコンを強風にして、ラジオのスイッチを入れた。女性アイドルグループによる流行歌の明るい歌声が流れた。
「衣鉢を継ぐ」という言葉がある。これは、仏教の故事で、先人から弟子に受け継ぐことで、禅宗では師匠が一番弟子に奥義を伝授する営みを示す。卓夫が、自分の後継者に指名するのは、佐藤貫太郎以外にはないと決めていた。
※
パトカーがもの凄いスピードで、卓夫が運転するクルマを追い抜き、タイヤを軋らせながら、横滑りし次の角で停車した。警官は敢えて警告せずに、卓夫のクルマを停止させた。パトカーから、警官二人が降り立つと近づき、窓を開けさせた。
警官は恫喝するように、卓夫、影夫、貫太郎の顔を見ると、横柄な態度で「本来なら任意出頭だが、お前らのやることは見過ごすわけにいかん」と、声を荒げて警察署への同行を求めた。
「お前らは一体、何を企んでいる? どんな手を使って俺たちを欺いている」若い方の警官がどんと机を叩いた。
「本当の……正体は、化け物なのか? 何とか言えよ」
卓夫の背筋に、冷たいものが走り抜けた。
「答える必要はない。黙秘権を行使できる」と、雄次郎は凄んだ。
「疑わしくは被告人の利益に……、それに、俺たちが疑いなくクローンだとしても、現行法では違法性はないだろ」貫太郎が補足した。
「事態が事態だ。平常時の法律など、役に立たない」と警官は反論し、余裕の表情を見せた。
「そりゃ、そうだ」二人の警官は、説得調に変化したが恫喝の意図を含んでいた。
「国家の治安問題は、本官にとっては重要問題だ。この国の私有財産や公共物がお前たちの仲間の暴挙によって破壊されつくそうとしている。怪獣ゴジラでも、こんなには破壊出来ないほどだ。どうだ? 言い逃れは出来ないだろ? お前ら一人一人は、脆弱な青年に過ぎないが、徒党を組ませると爆発的な力を持つ。それが、我々の脅威になっている」
卓夫は座ったまま、一瞬身体を強張らせた。
「一方的過ぎる。令状なしに、警官に強要は出来ないだろ」
「まあ、今日明日は留置場に泊まってもらいますよ」と、年嵩の警官は皮肉な笑い方をして告げた。
影夫は苦笑いを浮かべ、警官の指図に納得できないように、かぶりを振った。
雄次郎が勤め先の顧問弁護士に電話し、警官との交渉に当たらせた。
弁護士はどんな法理を援用したのか、警官は畏まり、署内の固定電話受話器を握り締めながら、ぺこぺこと頭を下げて謝罪した。
正午を過ぎ、小雨が降りだしたころ、全員が釈放された。
「すまんな、ここを出てもらって良いよ。だが、俺たちも正義感でしたことだ。悪く思わないでくれ」と、年嵩の警官は言い渡した。警官の話し方には、軽侮の念がこもっていた。
世界には不愉快なものから目を逸らしたり、排斥したりせず、救いの手を差し伸べる存在が必須といえた。医師が人の命を救い、警察官は市民の安全を守り、政治家は世の中をより良くする。それらの好循環システムが壊れると、世界は崩壊の危機に瀕する。――だが……、自分たちが今、置かれている状況はどうなのか?――卓夫は首を傾げざるを得なかった。
警察署を出て、福岡への帰路を急いだ。此処で、白バイに停められたら無駄な時間が増える。飽くまでも、他車の流れに合わせてスイスイとクルマは、水の中を泳ぐ魚のように先を進んだ。
福岡市内に入り、左側から突然出現した軽トラをハンドル操作で避けようとしたが、間に合わず僅かにこすった。明らかに相手の前方不注意だが、抗議せずに走行し帰宅した。大したダメージはなく、損害保険でカバーできる範囲だ。事故現場を立ち去ったのは、本来ならミスだがそんな瑣事に関わる時間的な余裕はなかった。
自分に異変が起きてから、卓夫は驚きの展開に何度も飲み込まれてきた。それが影響したのか、些細な事故が気にならなくなっていた。増加拡大は時間の経過に比例して、大きなものになる。時間から解き放たれないと、自由を自分の手中に出来ない、流れに身を任せると、次の危険が待ち構えている。
思い通りにならなくても、行動し続けるしか道は開けない。彼は、帰宅した後で未玖に連絡を取り、貫太郎と引き合わせる段取りをつけた。
卓夫は物陰に隠れ、貫太郎と未玖の話す姿を確認した。彼は――あの男こそ。後事を託すに足る男だ――と確信し、死ぬ覚悟を決めた。自分が悪事に手を染めていない人間である事実は、神のみが証人といえる。それだけが、唯一の拠り所だ。
誰かに唆されて死地に赴くのなら、唆した本人だけは地獄の業火に焼かれると、結論付けた。卓夫には、状況から判断して、死ぬしか手立ては、残されていなかった。
「君に心配をかけたけど、俺はもう元の益田卓夫に戻れた」貫太郎は、卓夫と申し合わせた通りの話をした。卓夫に成りすまして、彼女を安心させる作戦だ。
「正直なところ、あなたが誰なのか、どんな人なのか分からなくなった」未玖は相変わらず、混乱していた。
――不測の事態がどんな性質でも、最後まで裏切らないのは親兄弟などの肉親だけで、親友や恋人は相手の変化には同様の寛容さを持たない――と、卓夫は予想していた。両親や弟に助けられて、自分はまだ此処にいて生きている。彼は、眩暈を感じてよろめいた。
「最悪の場合……、俺たちは粛清される。だけど、プロトタイプの自分だけは、命を保証されている」貫太郎の言葉は、予め用意した嘘だが、未玖の表情は僅かに明るくなった。彼女は、中学校の有志と共に卓夫やクローンを擁護し、支援し始めていた。学校職員たちは、何がどうあれ「益田卓夫の命だけは救う」をスローガンに掲げていた。
「要するに、病気に罹ったような状態が、回復した。俺はもう、突然のごとく増殖して、他人を脅かす状況にない」貫太郎は、益田卓夫として熱弁を振るった。
未玖は複雑な表情を浮かべて、簡単には理解しかねる風に、首を傾げた。
クローンの数は、正確には把握できないが、想定できる限界を遥かに超越していた。世界中に何人の分身が増えようと、卓夫の身体のどの一つも欠けず、存在が希薄になるわけではない。存在の希薄感は、人々の心の中だけにあった。
宗教家や人権団体は、異常なまでの繁殖と危険を知りながら「益田卓夫の本物(プロトタイプ)だけは命を救い、医学的処置で解決すべきだ」と主張し、世論を味方にした。
一部の支援者の中には、利権がらみの思惑をちらつかせ、無神経にもクローンたちを追いかけて「医学の進歩と尊い命を守るため、あなた方は全員が死後に献体すべきだ」と、説得しようとした。
一見すると、善良そうな女が甘言を弄して迫ってきたが、冷たい目の奥の異様な光が、邪悪な本性を明かしていた。臓器売買は大金になるため、大勢のクローンの存在を知り、儲けにつなげようとする意図が透けて見えた。
――狡賢いサイコパスは、愛や友情を欺瞞だと心の中で断罪し、他人を利用価値でしか判断しない――。卓夫の家に押しかけて来た時、彼は支援者を装う女性の目をじっと見つめ、申し出を断った。
一方で、影夫が中心になり、企業や政治家の利権の拡大には背中を向け、アイバンクや骨髄バンクなどの非営利団体への献体を呼び掛けた。影夫は、自分を散りゆく桜の美しさや、一粒の麦に例えた。一粒の麦とは……、新約聖書のヨハネ伝第十二章の記述だ。
そこには、キリストの言葉として「一粒の麦は地に落ちることで、無数の実を結ぶ」と、説かれている。それは、他人を救うために自らを犠牲にする行為の尊さを讃えていた。
影夫はこの言葉を持ち出して、自分たちが犬死になるのを避けようとしていた。死は親しき隣人のように、生きるものすべての近くに存在しながら、様相を現さないで見守り続けている。リアルに連想できるのは、余程の重病人か、危難に直面している者だ。
※
博多の街は春になると、色づき始め三月には駅前の花壇にポピーが花開き、四月には住吉公園で桜が咲き誇る。五月にはどんたく、七月には山笠が催される。今のタイミングで、自死を選ぶとそこまで生きられない。
哀切な卓夫の想いと反対に――自分たちの繁殖によって、美しい博多の街を、此の日本を汚染してはいけない――と、感じていた。それは、ある種の狂気であり、同時に正気でもあった。
心理学者のフロイトは、人間には死の本能「タナトス」が内在すると指摘する。卓夫は、死の本能をリアルに意識した経験がなかった。死の闇の帳の向こう側に何が潜んでいるかは、窺い知れない。
フロイトは「精神分析入門」で、タナトスとは逆の生存本能としての「エロス」を肯定していた。卓夫の自分が死んでも佐藤貫太郎を生かす思惑は、タナトスに対するエロスの勝利を意味していた。
未玖と柳川を小舟で川下りしたとき、船頭は「中学校の先生ですか? 有名モデルさんかと思いましたよ」と、彼女の美貌を持ち上げていた。正月には二人で太宰府天満宮に初もうでし。一年の無病息災を念じ、未玖との交際が順調に進むよう願っていた。
死の覚悟が十分でないためか、それらの記憶の中の光景が胸を締め付ける。
インターネットのニュースで、海外に密航していた六十四人の男が逮捕された状況が告知されていた。不祥事が起こる都度、不法行為を何もしていない自分たちまで、批難される展開が続いた。
遅れて、テレビでも同様のニュースが流れたが、ニュースキャスターの音声は、もはや卓夫の耳には届かなかった。
このところ卓夫は、よろめく足取りと、くたびれて何者かに憑かれていそうな表情が目に付くようになっていた。卓夫の疲労は限界に達していた。彼は力なく立ち上がると、縺れる足で二、三歩歩き、立ち止まった。次に、苦痛に顔を歪めると、バランスを崩し横向きに倒れ込んだ。
卓夫が身体を横たえている間にも、分身は爆発的に勢力を拡大していた。二十三日目になり、計算上は八百三十八万八千六百八人になる。しかし、二十日目に誕生した貫太郎が分裂増加しなかったので、八百三十八万八千六百人と推計される。これだけの人間を収容する施設はなく、短時日で準備できない数量になっていた。
博多の町の上空に暗雲が立ち込め、容赦なく雨粒を路面に叩きつけた。ぽつりぽつりと降り出した大粒の雨が、しだいに勢いを増し、道行く人々の足元をびしょ濡れにして、歩道を滑りやすくした。
人々は、家やオフィスへと足を走らせた。川端商店街のアーケードの下では、雨が小止みになるのを待ち、佇む人たちもいた。そこに、卓夫の姿があった。卓夫は、永遠の別れの前に未玖の姿を目に焼き付けたくなり、中学校の昼休み時間に彼女を呼び出し、食事をした。
未玖は降雨に気づくと、コンビニで傘を購入し中学校に戻っていた。
卓夫は見慣れた町を徘徊し、回想した。五月の博多どんたく、七月の博多祇園山笠,十月の博多おくんちの祭の開催時も、必ず此処を訪れていた。なかでも、沢庵を齧りながら食べるお汁粉の「川端ぜんざい」は、卓夫の好物だ。彼は、未玖と別れた後で、甘いお汁粉の味を堪能した。
過去の記憶がシャボンの泡のように、浮かんでは消えていった。分裂増加の変事が始まってからは、心の湿りと同様に、雨の日の薄曇りの空と、湿気を帯びた記憶ばかりが蓄積されていた。中でも、最近の記憶は、苦く舌を刺激する錠剤と同様に、味覚を楽しむどころか想起するのも苦痛だった。
現実と虚構の区別がつかず、迷妄に惑わされいつまでも同じ場所を徘徊するのは、精神疾患である。卓夫は正気を保ちながら、今いる場所に留まりたいと念じた。影夫が心配して待っていなければ、ロマンティックな衝動に従い、夜明けまで商店街で過ごしたいほどだった。
卓夫の足元で、犬がクンクン鳴いた。商店主の飼い犬で、ライルと名付けられているフレンチブルドッグだ。ライルは、他の人間には人見知りするが彼にはなついていた。
卓夫は、屈みこんで犬の頭を撫でた。毛と毛の間が詰まり、良い匂いが彼の鼻腔をくすぐった。飼い主にブラッシングしてもらったばかりの様子だ。――人間には、自分と分身たちの違いは分からないが、犬にはちゃんと分かっている――卓夫は、それが嬉しかった。
福岡県内では卓夫のクローンの数が、人口の五分の一を占めていた。博多周辺は、彼らの始祖にあたる卓夫が存在する聖地のため、二十人に一人の割合で、彼と相似形の男に出くわした。
家から外へ出かける時は、窓から人気のない廊下を覗き込み、確かめた。誰の姿も見えないのを確認し、通りに出た途端に、複数のクローンを見かける頻度が増えていた。
卓夫は近所のコンビニに変装して出かけても、店員に正体を見破られ警戒された。店員の目は大きく見開かれ、顔から血の気が失せ、真っ青になった。――今後は面倒でも、裏口から歩道に抜けて、路上を走るしかない――と、判断せざるを得ない。
卓夫が二日間、家を空けているうちに、クローン人間の数は膨れ上がり、北九州市では、市の人口の九十六万人を超えていたため、完全制圧していた。職を失った彼らは、暴徒と化してスーパーマーケットや家電量販店を襲撃し、商品を戦利品として持ち去っていた。
明日にはクローンは、倍の勢力になり、明後日になると四倍に増加拡大する。
さらに、市庁舎に乗り込み市会議員たちを追い出し、我が物顔でのさばっている。人が暴徒と化すのは、将来不安に加えて、何らかの手段を講じさえすれば力を行使できると確信したタイミングだ。
――群衆という……、偽善を信奉する狡猾な悪魔に虐げられ、追い詰められているのはクローンたちではないか?――と、卓夫は思いめぐらした。
卓夫には「病原性のウイルスは、古代宇宙人が地球人を絶滅させ、自分たちが支配するために送り込んだ」そんな……、馬鹿げた俗説が、真実と同様に感じられた。
本来は卓夫や影夫や貫太郎と同様に、理知的な分身たちが、荒れ狂うのは人々の理解不足と、不自然な成り行きがもたらした結果だった。
当局は事態を重く見て、迅速に対応した。
マスコミを通じて、全国民に危険を避けるべく、外出禁止を呼び掛けた。――どこの国でも飢えた国民は、政府に反旗を翻し……、豊かな生活を約束された国民は、政府の意向に秩序正しく従う――。クローンたちは、飢えと将来不安に苦しみ、一般市民は満ち足りていた。
無数の益田卓夫の分身が、町中で溢れかえっていた。彼らは、変装するのをやめて素顔を晒した。どの一人も、優秀な中学校教師の面影を持たず、ゾンビの大群のように人々の目に映った。
沈没船の乗員乗客が海の荒波に飲み込まれるように、町中で……、国中でパニックが広がっていた。
福岡の上空を戦闘機が飛び、町中を戦車が走行していた。
クローンたちは、ある者は抵抗を続けたため暴行を受け、別のある者は潔く投降し投獄された。乃南のグループは最後まで「医学生理学的解決手段で、難局を乗り切れる」と主張し、論陣を張り言論活動による抵抗を継続していた。
その日も、陰鬱な一日だった。東に重く垂れこめた雲の向こう側が僅かに明るくなるのを感じて、やっと、太陽が昇ったのが分かった。
早朝、卓夫は影夫や他の者たちと共に、一か所に集められた。彼にとっては、こんなにも色彩のない部屋に閉じ込められた経験がなかった。セメントの湿気を帯びた匂いがしていた。
彼は永訣の時が近づくにつれて、相反する感情の間を行き来した。一方は愛、友情、正義、高揚感であり、もう一方は絶望、困惑、不安である。
卓夫は永遠の中に生きる状況を選んだ。――永遠とは未来永劫に続く、時間の流れの中にではなく、一瞬の中に宿るものである――と、彼は思った。卓夫と分身たちは、それ以来、姿を消し去った。
クローンたちの生命はおろか、あらゆる可能性と、すべての権利と尊厳が、益田卓夫とともに闇のように葬り去られた。
人は計り知れぬ可能性と、未知の危険性に満ちた領域に放り込まれた時に、真価を発揮する。益田卓夫の周辺で起きたすべての事件は、正常な人間の頭を混乱させ、不安と恐怖に陥れる奇妙な出来事だった。
益田卓夫も今はこの世になく、彼の行いの是非について意見が分かれたとしても、貫太郎にはあの哀れみ深く、国家や人々の将来を真剣に案じていた男の姿が誇らしく思えた。彼と他のクローンとは似て非なる存在だった。――自分こそが、益田卓夫の継承者だ――と、貫太郎は心に銘記した。
益田卓夫たちを弾圧する決議は、素早く実施されたのに反して、佐藤貫太郎を擁護する施策はなかなか進捗しなかった。それは、経費の圧縮には血眼になるものの、産業振興策で景気を回復し失業対策のための財政出動を否定する財政破綻論者の論調に似ていた。
佐藤貫太郎の周辺では、迫害を防ぐため人権派の弁護士が主導し、ボランティア団体のメンバーが交代で警護に当たった。敵意と危険をはらんだ外界から、彼らが貫太郎の身を守ってくれた。
貫太郎は自分の存在証明のつもりで、大勢の人と面談した。人権派の弁護士、国の内外の生物学者、高名な医学博士、首相、県知事、市長などの政治家である。結果的には、会う予定にしていた大半は、向こうから佐藤貫太郎を訪ねてきた。
彼らの中には、健康状態を気遣い「お加減はどうですか?」と、尋ねる者もいた。貫太郎は、病院で精密検査を受けた後も、自分を病気だと思っていなかったが「健康そのものです。風邪一つ、ひきませんよ」と答えた。彼らは皆、佐藤貫太郎を益田卓夫だと信じていた。
教育委員会は、貫太郎を守るため他の中学校への転属を決定した。それに合わせて、貫太郎は未玖と共に転居した。
福岡城の近くに、大きな塚がいつの間にか出来ていた。人々は、それを益田卓夫の分身たちの墳墓だと噂した。「狂信者の聖地になるのを避けるため、内情が明かされることはない」と、指摘する者も存在した。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
それは、佐藤貫太郎の人生を祝福する爽やかな朝の訪れだった、貫太郎は、自分こそが最初から益田卓夫だったのではないかと、錯覚しそうな気分に包まれていた、貫太郎の横には、身体を寄せて未玖が寝ていた。
自宅のパソコンには、本物の益田卓夫から、佐藤貫太郎が承継した文書記録が保存されている。万一、どこかで増殖が始まったときの対策用資料として、活かすつもりだ。佐藤貫太郎は、じっと自分の両手を見つめた。彼は掌の向こう側の現実を見ていた。
――大勢のクローン人間の中で、自分だけが生き残った――と、実感していた。
それは、安堵感でも、勝者の感動でもなく、表現が難しい寂寥感に似ていた。今は、益田卓夫も姿を消している。
大学ノートは全部で十二冊あって、卓夫とクローンとの違いについて、克明に記述されていた。歯型の不一致の他、経験による認識の差異について書いた内容が大半を占めていた。あとの記述は、自然科学の専門用語の羅列だ。
佐藤貫太郎は、本物の益田卓夫の意志を継ぎ、恋人の未玖と結婚し二児を授かった。男は改名が認められ、益田貫太郎と名乗るのを許された。それでも、一部の支持者から神格化されるのを恐れ、オフィシャルには偽名を使った、
貫太郎と未玖の間に、一卵性双生児が誕生した。二人とも貫太郎の子供であるとともに、卓夫と同じ遺伝子を持つ子供だ。
貫太郎は、双子の我が子を一人ずつ抱きしめると「お前たちは、別々の個性を持っている。それを大事に伸ばしてあげるよ」と、二人に告げた。時間の経過に従って、徐々に攻撃的な外界から遠く離れ、安全に暮らす生活状況が出来た。
――二人の子供には、二つの人間の尊厳があり、気高い魂が宿っている――そう思うと同じタイミングで、貫太郎は、古い道徳律を堂々と声にするのに、抵抗と含羞を感じる自分に奇異な印象を抱いた。
「子供二人の教育は、大変なことだからね。でも、いいわ。覚悟しておく……」未玖は、貫太郎を見て微笑んだ。彼女は貫太郎にとって注意深い聞き手であり、良き理解者だった。彼女の笑い声や、ひたむきな視線、同意を示すときに頷く姿を見れば、内心の思惑や上機嫌かどうかが伝わってきた。
「あなたは、昔から稀にみるような繊細な気遣いの出来る人なのよ。だから、周りにいる人は皆、あなたと一緒にいると楽しい気分になれるの」と、未玖は貫太郎を持ち上げた。貫太郎の長所は、同時に今は亡き卓夫の長所でもある。
過剰な繁殖でも、破綻や滅亡でもなく、調和こそが救いだ。貫太郎は――増殖と混迷の悪夢を繰り返すまい――と心に誓った。
彼は声が聞きたくて、両親に短い電話をかけた。父親も母親も、慈愛に満ちた温かい声で話した。声は、自分の身だけを考える酷薄な人間のものではなかった。途中、雄次郎と交代した。雄次郎は貫太郎に対して「兄貴、最近の調子はどうだ?」と、弟を気遣うように尋ねた。
「ああ、まあな。お陰様でうまく行っているよ。次の連休、うちに遊びに来ないか?」
雄次郎は、貫太郎の申し出を快諾した。
同じ日、貫太郎は未玖を誘い、川端商店街でお汁粉を食べた。身の回り品を買い求めて、アーケードの下を歩いていると、フレンチブルドッグのライルが近づいてきた。ライルは貫太郎の回りに纏わりつくと、鼻をクンクンと鳴らし、尻尾を振った。
増殖と混迷 美池蘭十郎 @intel0120977121
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