第2話
テレビを付けるとイリュージョンマジックのショーが開催されていた。卓夫は自分の分身が乃南亨輔を名乗り、出演している事実を確信した。仮面を着けて出演しているものの、身体的特徴や声が自分と同じだ。
テレビに映る乃南は、自信たっぷりな口調で「神の化身、乃南亨輔が今宵も皆様の前に天空から降り立ちました。皆様の度肝を抜いてご覧に入れましょう」と告げた。
毎日のメールのやり取りで、分身たちが日本全国に散らばっているのは知っていた。
大半は日雇い労働か、個人経営の飲食店に勤めていた。マイナンバーカード、年金手帳、健康保険証、住民票、免許証などの本人確認書類がないと、一般の企業に就職できない。パスポートがないと国外への合法的な脱出も不可能だ。
今まで、乃南のような目立った行動に出るものはなかった。
乃南は瞬間移動のマジックで、人気を博しテレビ番組の視聴率を大幅に押し上げた。スタジオの中心で司会者の紹介を受けた乃南は、舞台の左袖に姿を消した瞬間、右袖から姿を現し、次に左袖から姿を消したと思うと、大勢の観客のいる席の反対側のドアを開けて入り、舞台まで走って駆け上がった。
次に、中継画面に映った乃南は、一瞬にしてビルの二階に移動し窓から顔を出したかと思うと、姿を消し直後に屋上に姿を現して手を振る。乃南は、北海道の居酒屋で客と乾杯する姿を示し、同席の女性に本日付の新聞紙を広げさせ、スマホで時報を聞かせた。
と思うと、次の瞬間にはスタジオに姿を現し、観客に握手を求めた。無論、移動する前には、乃南は仮面を外して、素顔を見せた。
マンションの隣室から、悲鳴が聞こえた。卓夫の両親は、同番組を見て、生放送中に隣室にいる息子の姿が、テレビ画面に映し出されているのを視聴していた。そうとしか思えない。しばらくして、ドアをどんと叩く音が聞こえた。続いて「兄貴、あれはどうなっている!」と、叫ぶ声が耳に届いた。
卓夫は弟の雄次郎を招き入れると、現在までの経緯を説明した。
「何らかの実験の失敗が原因か?」雄次郎は、どう切り出すか迷う様子で素朴な質問をした。
「授業で行う実験が原因で、こんな事態が発生すると本気で信じているのか?」
「俺は、兄貴を心配して尋ねている」
「因果律では、原因のない結果はない。だが、原因が皆目、見当もつかない」
「原因は探ってみたのか?」
「繁殖は驚嘆するスピードだ。時間の余裕はないが、すでに集団実験をやってみた」
「それで、どうだった?」
「俺たちはムクムクと、二人に増えていたのでもなく、寝床に忍び込む曲者を見つけもしなかった」
めくるめく展開に、スタジオの観客だけではなく、テレビ視聴者も息を呑んだ。
「乃南亨輔は、ステージマジックの天才だ」と、司会の男は絶賛した。乃南のマジックは、他のイリュージョンマジックとはスケールが格段に違うとの見解だ。
雄次郎は、説明を一通り聞くと「何かあったら、俺たちに相談してくれ」と、兄の行く末を案じて励ました。
乃南からの連絡では、日雇い労働も、個人商店も就職活動で不採用となった者を集めて、東京に進出し、有名マジシャンに弟子入りしていた。乃南は「俺たちは、世にも珍しい一卵性の多胎児です。視聴者をあっと言わせて見せますよ」と、売り込んでいた。
――自分の中に、乃南たちのような草の根の逞しさがあるか――と、卓夫は心の中を探ってみた。
乃南は「名声なんて、束の間の……、無意味な幸福のために、ショーを演出したのではない。俺たちの生活のためにした」と、打ち明けた。
同じ週の土曜日、卓夫は一週間ぶりに、未玖とデートした。キャナルシティ博多は、大勢の顧客で賑わいを見せていた。
待ち合わせ場所に着いた時、彼女は卓夫から二十メートル先に立っていた。紫色のダウンジャケットに、ジーンズをはき、こちらを眺めていた。卓夫も彼女を見つめ返した。離れていて顔の表情までは読み取れない。様々な疑念が去来し、駆け寄る気はしなかった。
彼女は、今の自分をどこまで知っているのか。どのタイミングで真相を知らせたものなのか……。胸の内に問いかけながら、ゆっくりと近づいた。
未玖は、幸いにもマジックショーは見ていなかった。時間の問題とも思えるが、これまでの経緯を説明できない自分を歯がゆく感じた。乃南と人違いされないよう、頬に油性のインクで黒子を一つ作り、義妹に借りた化粧品で鼻の両横にシャドウを付け、眉墨を塗り付けていた。
ノースビル四階の劇場でミュージカルを見た後、レストランへ移動中に、少なくとも三人は分身がうろついていた。博多の周辺には、卓夫から分裂した者がかなりの数でいる。テレビで見たマジックショーと異なるのは、彼らがサングラスや帽子で変装している様相だけだ。未玖に正体が知れないか、緊張で卓夫の額から冷や汗が流れた。
二人はイタリアンレストランで、おいしいパスタを注文した。
「最近、心配事が多くて眠れない」
「あなたには、睡眠導入剤が必要なのよ。食欲は、どうなのかしら?」
「たまに、食事するのも忘れる時がある」
「月曜は学校を休んで、通院したら……?」
「君の言う通り、専門医が必要かも知れない」
「不眠症の? それとも、鬱病?」
「そう見えるかい?」
「私の話に生返事を繰り返しているし、何か考え事をしているの?」
「俺がもし、とんでもない怪物だったら、君はどうする?」
「さあ、考えたこともない。ただ、いつものあなたとは別人に見える」
未玖は、パスタを食べ終えると、テーブルのワイヤレスチャイムを押した。
ウエイターは席まで来ると「いかがいたしましょう?」と、尋ねた。
未玖はメニューを脇に置き、カプチーノを注文した。
「そちらさまは?」
「同じものを頼む」卓夫は答えた。
ウエイターは立ち去った。
「そんなに悩んでいるのなら、何故、今まで相談してくれなかったの?」
「君を混乱させたくなかった」
「なんとなく、分かったわ。生徒の父兄と揉め事があるのでしょ? 給食費の未払い請求で、母親に泣かれた経験も、不登校の生徒を宥めたこともある。そういう話なら、学年主任に相談すれば、良いアドバイスがもらえるわ」
「いや、君の言うような……。そういう話じゃない。もっと、俺個人に関する事態だ」
「どういうこと?」
「今は……、まだ、言えない」
重苦しく、気まずい時間が流れた。彼は夢の中の出来事と同様に、何か一つ大事な事実に気づけば、目の前の幻が消え去りはしないか? そうだとしたら、誰が此の大仕掛けの装置を作動させているのか……と、爆発しそうな苛立ちを感じた。
――これが天使の悪戯でも、悪魔の仕業でも、どちらでも構わない。とにかく、元の生活に戻してくれればそれでいい――と、卓夫は心の中で強く念じた。
レストランに卓夫の分身が入ってきて、通りを挟んだ二つ後ろの席に恋人と腰かけた。分身の男は、野球帽を脱いだもののサングラスのままで、向かいの女性と話している。
卓夫の分身たちは理知的で、異性に対しても自制心がある。彼らが、暴徒と化し、未玖の前で正体を露にしたら……、いきなり彼女に襲いかかったら……と思うと、寒気を感じた。
未玖の耳にも、男の話し声が届いていた。
「あなたの声にそっくりね」と、彼女は顎の向きで示した。
「空耳だろ? でなければ、偶然の一致だ」
卓夫は、座席の上で凍り付いていた。周囲の状景を目視しても、どちらがどちらか、判断しかねて混乱していた。
食事を終えて、クルマを走らせた。
卓夫以外の分身は、運転免許もパスポートも持たない。そのため、クルマの運転も、海外への渡航も不可能だ。彼らの不満は、そんなところにもあった。
歯車が狂い始めた。
乃南亨輔のマジックショーの影響で、卓夫の存在が広く知れ渡った。これまでの安穏とした状況は夢物語となり、渦中に飛び込む展開が予想された。
卓夫は、当然ながら無限に増殖する状態を望んではいない。増加と拡大を続ける存在は、いずれは何者かに駆除される宿命を持つ。
中学校でも、マジックショーの出演者の乃南の噂が飛び交い、視線が自分に向けられているのを感じた。生徒や父兄からも「あの先生は、化け物だ」「現代科学が創造した人造人間だ」「突然変異だ」「不都合があるとまずいので、近づかないように注意しろ」等々の非難の声が飛び交った。
生徒たちも、卓夫を前にすると落ち着きを失い、授業の進行もままならなくなった。同じ日の夕刻、校長室を訪ねて、休職を願い出た。校長は不満そうな表情をしていた。これまでの経緯から、退職勧告の引導を渡したい意図がありありと見えていた。校長は渋面をして「事態の改善が見られたら、復職を願いたい。だが、現状を見る限り難しい」と告げた。
同じ状況が続くと、将来の生活設計が立てられなくなる。卓夫にとっては、何歳で結婚し、子供を授かり、教育方針を立て、年に何回家族旅行を楽しむか、何一つとして予想が出来ない状態は、絶望的なものに思えた。
タブロイド紙や、週刊誌は取材・調査活動で乃南亨輔の周辺を探り、実像を炙り出した。週刊誌の記事には、乃南の写真として、三十二人の男が集まっているものが含まれていた。解説には、都内の形成外科医ら、専門家のコメントが掲載されている。
「三十二人は変装しているものの、鼻、耳、顎などの窺い知る限りの点で、同一です。しかも、外科手術で造形した痕跡はありません」と、形成外科医は断じた。
「写真は合成や加工ではなく、実物を写した物だと考えられます」と、カメラマンが補足している。
記者はこれらの意見を総合して、乃南亨輔を一卵性の多胎児だとの推論を述べていた。
「一人の母親の胎内に、三十二人の胎児が収まるとは到底、想像できないが、それが唯一考えられる事実だ」と、記者の驚愕ぶりが伺える内容だ。
卓夫は、分身たちと同様に、潜伏生活を強いられるものと、覚悟を決めた、彼が分身と違うのは、自分が紛れもなく本物の益田卓夫だと、自覚の上で行動してきた点である。他者からは外貌をみて、判断できない点でもある。
乃南亨輔の事件は、テレビにも飛び火し、連日ワイドショーでも取り上げられた。当然のごとく、卓夫の周辺にも報道陣の取材攻勢は及び、中学校関係者や親類、友人にまで手が伸びた。
「私は、あくまでも私人です。公立中学校の教育者として、公務に携わってきましたが、今回の件はプライバシーの問題であり、取材には応じられません」と、記者の問いかけに素っ気なく答えた。
しかし、当初は乃南亨輔問題として扱われた事件が、益田卓夫に注目が集まると同時に様相は変化した。増殖が始まった日から数えて十日になる。卓夫のもとに来る返信メールには、僅かに離脱者が出ていた。推計では二の十乗で千二十四人だが、返信は千十八人なので、卓夫を引くと、五人が返信していない。
潜伏生活に嫌気がさし、眼鏡も、仮面も不織布のマスクもつけず、帽子も被らずに分身たちを集め、素顔の行進を始め、報道関係者にアピールするものも存在した。彼らは「聖者の行進」と名付けて、表通りを長い時間歩き続けた。
別のグループは、自分たちの思想の健全性を示すため、募金などの慈善活動を始めた。そこに活路を見出そうとしていた。
彼らの意に反し、周囲の人間は卓夫たちに対して、妖怪変化を見るように、忌み嫌い、遠ざけようとするものが大勢を占めた。
大勢の前に曝された時には、有名人に対するような柔らかな親しみのこもった視線と異なり、鋭利な刃物のような殺気の伴う視線に気が滅入った。仲間が千人居れば千分の一になるものでもないが、一人で受けると胸に耐えがたい痛みを生じさせる視線でもある。
休職届を受理された翌日、未玖から電話が入り「私に相談もしないで、休職するなんて酷い」と詰った。彼女は、卓夫に起きた出来事がまるで理解できない様子だ。彼は別れを切り出される恐怖心で、一方的に電話を切った。
未玖とは、クリスマスイブには、キャナルシティ博多でコンサートを鑑賞し、正月は太宰府天満宮に初詣に出向く予定だった。このままでは、全ての計画は水泡に帰すのが予想できた。
影夫は、卓夫の様子を見て「俺も、草薙に連絡して、しばらく休ませてもらう。それが、いつまでになるか分からないが……」と、伝えた。
乃南のグループは、期せずして瞬間移動マジックの種明かしをされたため、仕事の依頼が来なくなり、世の中から忘れ去られつつあった。
伝書鳩の中には、情況の変化で飼い主の元に戻らない個体が存在する。迷子になる鳩もいれば、猛禽類に襲われて命を落とす鳩も存在する。
職を失い、友人や恋人に見限られたものは、捨て鉢になり、各地で暴動を起こした。
――自分と同じ個性を持つ彼らが、これほどまでに多様化するものか――と、卓夫は思い悩んだ。一つの些末的な判断の相違が、後の人生を大きく変化させる。彼はクルマの運転中に、子供に飛び出され間一髪のところでブレーキをかけた経験があった。あの時、タイミングが一、二秒違っていても事故につながっていた。
大学受験の一週間前は、インフルエンザで高熱にうなされていた。それが受験当日だとしたら、人生はどう変化していたか、何度も考えてみた。
世界は、一瞬一瞬を大切に扱う者のために輝く。それは、卓夫には万古不易の理法にも思えた。それでいて、彼と寸分も違わない群衆が、暴動を企て、他人を力でねじ伏せようとしている。卓夫には、現実の出来事が、存在する世界と同じ大きさには感じられなくなっていた。
分身の中で、顔に傷のある男がリーダーになり、暴動を各地で起こしていた。卓夫の調べでは、周囲から乱暴を受けた時に出来た傷だと分かった。傷のある男がリーダーになれた理由は、卓夫にはすぐに理解できた。
同じ顔の大勢の男を見続けていると、顔立ちや雰囲気の微差が気になり始める。分身の中には、口髭や頬髯を生やしているものもいたが、顔に大きな傷のある男は一人だけだ。酷く目立つ傷だ。相似形の群衆の中にいても、分かるため注目されるうちに、リーダーとなり、乱闘の中心に立ち、号令をかける展開になっていた。
リーダーの男は、周囲の騒音に負けまいと、ありったけの声で叫んでいた。
「俺たちは怪物じゃない。お前らと同じ血の通った人間だ」
現実は、卓夫が予想した以上に遥かに凄まじく進んだ。
九州各地で、機動隊に火炎瓶を投げる者、投石する者、角材で殴る者などが出て来て、怪我人が担架で運ばれる様子がテレビで報道された。事の発端は、分身たちを化け物扱いし、殴りかかる者や、痛罵を浴びせる者など、彼らに対する民衆の手による弾圧が激化した。
彼は、混乱により、忍耐力を失う者の増加に歯止めをかけられないのが悔しかった。
テレビに映る分身の中には、ぼろを纏い、痩せて栄養状態の悪そうなものもいた。苦し気に身をよじり、背中を曲げて、這いつくばり、醜態を見せる男も、卓夫にそっくりな姿かたちをしている情景に、彼は戦慄した。
騒動があった翌日は、特別な警戒が必要になる。彼は経験的にそれを理解していた。
――生徒の前で威厳を示し、姿勢を正してきた自分でも……、状況の変化でこうなりうるのか?――と、考えて困惑した。
関東エリアを拠点とする乃南亨輔グループは、文化人や芸能人に働きかけて、自分たちへの不当な弾圧を中止するように、テレビを通じて呼びかけた。
自分の分身たちが様々な状況で、異質な動きを見せている。卓夫は、人間の持つ可能性の大きさに、不可解な感動を覚え、涙を流していた。
「人間を情報空間に散らばるデータとして処理し、存在を抽象的にとらえると、サイコパスがそうするように、用済みになると、何の痛痒も感じすに他者を処分する悪しき風潮を形成する」と、文化人たちは警鐘を鳴らした。一方で「いつになればクローン人間たちが、殖えなくなるのか?」との問いには、誰一人として明確には答えられなかった。
日も暮れようとする時刻になり、卓夫は昏睡状態にも似た眠りについた。夢を見なかったのは、久しぶりだ。目が覚めたときは、まだ夜中だった。壁や天井に青白いLED照明の光が流れ込んでいたが、卓夫が眠る布団の周囲だけは、真っ暗だった。
午前零時を過ぎていたので、卓夫と影夫の隣には、裸の男が一人ずつ、二人増えていた。地図もなく、終わりの見えない旅に、疲労は極限に達しつつあった。
睡眠後にシャワーを浴びて、着替えをしても、卓夫は気分をうまく切り替えられなかった。世の中の大半の人の労りの欠如と、応援している……上辺だけの馴れ馴れしさに辟易していた。
僅か四時間の睡眠は、充分なものとは言い難く、目の前がぼんやりとしていたが、卓夫はデスクに向かった。パソコンを立ち上げると「突然変異」「細胞分裂」「クローン」「単性生殖」「異常心理」「幻覚」「薬物反応」などのキーワードをググってみた。
何度、読み返しても納得のいく回答は見当たらない。納得できないままに、そこに記された内容を検討し、何らかの共通項を見つけ出そうとした。
「一卵性」のキーワードで検索をかけたところ、「ディオンヌ家の五つ子姉妹」についての記述が目を引いた。一九三四年にカナダのオンタリオ州に生まれた子供たちで、出生直後から「奇跡の赤ちゃん」と呼ばれて、人気を博している。一九三〇年代の世界恐慌時の人々の心の支えにもなっていた様子が分かる。
だが、彼女らの後の命運は、一律一様ではない。五人のうち、八十歳を超えて存命したのは二人だけで、後の三人は二十歳、三十五歳、六十七歳でそれぞれ死亡している。死因もてんかん、血栓症、癌と異なっている。
――写真で見たところ、見分けのつかない五人だが、体質も違えば個性も異なる――と、卓夫は彼女らを見て、改めて確信した。
※
卓夫は、反乱による政府の粛清を恐れた。時間は日々切迫しているとはいえ、世界には優秀な医学者は大勢存在する。医療による救済を求めたかった。
毎日、彼が送信するメールでは「周囲に迷惑をかけるな。目立つ行動を控えろ。他人の好意には、感謝を示し礼儀正しく臨め」と記述した。
返信メールには「偽善的だ」「綺麗ごとを言うな」「現実を見て、判断しろ」との内容が増えていた。
「偽善的を憎むな。偽善や悪徳を憎め。善人は偽善的に見える。偽善を憎まず、偽善的を憎むと、人は主観で判断し、悪魔的な所業も正当化しかねない」と、警鐘を鳴らした。卓夫の分身たちなら、ロジックを理解できると期待した。
ところが、返信メールで「貴様は善人のつもりか」「理想は現実とそりが合わない」との批判が相次いだ。
卓夫は、自分や影夫との意識の違いに驚嘆した。似ている事実は、相違する内容を含んでいる。環境が人を育て、経験が人格を形成する。同じ部屋にいても、日常の体験や思考は僅かずつ違う。彼らは、時間が経過するに従って、生活環境と経験による差異化が進んでいた。
――このままでは、自分が扱えるキャパシティーを遥かに超える。そうなると爆発的に増加を続ける仲間を管理しきれなくなる――卓夫は底知れぬ恐怖に戦慄した。同時に管理を怠ると、局面は益々、奇態なものに変貌していくのを予感した。日本の市町村は、市が七百九十二、特別区が二十三、町が七百四十三、村が百八十三で合計千七百四十一存在する。
卓夫は、窮状を訴え「仕事に励み、資金が調達出来次第、速やかに各地に分散し、身の安全を守れ」と指令を出した。当然のごとく、遠隔地や山間僻地への移動を告げられた者たちは、強く反発した。
増大が継続すると、メールの送受信もままならなくなる。彼は、各地区に代表を置き、そこからの連絡を待つ体制に変更した。
卓夫は影夫とともに、いつものように新しく殖えた二人の男を宥めたあと、細心の注意を払うように言い聞かせ、廊下に送り出した。迂闊にも、四人でいるタイミングで、母親に見つかった。
僅かな時間が経過して、父親が帰ってきた。玄関のチャイムの鳴る音に気付き、卓夫がドアを開けると、開口一番「どうかしたのか?」と、父親は尋ねた。雄次郎夫妻の表情を見て、動静を察していた。
「お母さんが気分を悪くして、寝込んでいる。少しずつ元気になっている。卓夫が四人に増えたところを目撃したのが原因だ」雄次郎が説明し終わると……。
「そうなると心配していた。わしが注意深く行動するように、言い聞かせていたにも関わらず、この不始末だ」
父親は雄次郎の報告を悪意に解釈し、卓夫たち四人が何か乱暴な言動で臨んだと考えているのが明確に理解できた。
そこで、卓夫は父親の気持ちを静めるため、何かしなければならなくなった。といっても、うまく説明できる自信が持てなかった。
父親はドアを押し開くと、部屋の奥まで入ってきた。「そうか、そうか、そういうことだったのか」と、父親は叫んだ。驚愕と混迷と憤怒を混ぜて、三等分したような声だった。
卓夫は父親の前に向き直った。彼の目には父親越し影夫が、こちらを向いて立っているのが見えた。二人の男が、どちらも自分の長男にしか見えないのに、父親も戸惑っている。
「熊本の出張中に震災に遭った時でも、ここまでは驚かなかった」と、父親は目を大きく見開くと、ハンカチを取り出して額の汗を拭った。
「お父さんは、テレビで乃南亨輔グループのマジックショーを見た時と同様に驚いている。画面を通して見たり、週刊誌で読んだりするより、リアルな衝撃波に打ちのめされている」と、雄次郎が補足した。
「お母さんのショックも、今の反応で理解できる。が……、俺たちに悪意はなかった」と、卓夫はボソッと呟いた。
「どちらが、本物のわしの息子だ?」
「二人とも、あなたの息子だよ。お父さん」
「というと……、どういうことだ?」
「つまり、遺伝的にはまったく違いがない……」卓夫が説明している横から、影夫が口を挟んだ。
「実は俺の方が偽物だ。俺は卓夫のコピー人間に過ぎない。しかも、俺のような人間が爆発的に増えている」
「男の子は、つくづく父親を困らせるために、この世に生まれてくる。そんな風に思えるよ」
父親は壁を支えにして、手探りしながらソファーの方へよろめき、どさりと腰を下ろした。見たところ、いつもより息が荒くなっていたものの、極端ではなかった。自分を宥めるように、しきりに頷いている。
「本物か、偽物かよりも、実の父親にも分からないのが問題だ」
「分身全員を前にしても、俺が本物の卓夫だと見分けられるのは、歯科医だけだ」
「今は、そんな議論をしている場合じゃない」雄次郎が遮り「解決策をどう考えて、実行するか、ただ、それだけが優先すべき重要事項だ」
父親は目を白黒させたあと、黙り込んでいた。
子供の頃から、卓夫は雄次郎に嫉妬を感じたりしなかった。二人の間に大した格差はなく、両親は平等に愛情を注いでくれていた。弟が先に結婚し、両親の面倒を見る話が決まった時も、彼を心から祝福した。
しかし、今回の一連の事件で、弟に負い目を感じ、両親とともに暮らしていける状況に羨望を感じ、生まれて初めて彼は雄次郎に強い嫉妬を感じていた。
連日、テレビ報道は益田卓夫の増殖問題を取り上げた。週刊誌には「神の奇跡か、悪魔の所業か――益田卓夫の正体を暴く!」の特集記事が爆発的に売れ「稀有壮大なイリュージョンマジック――乃南亨輔=益田卓夫の巧妙なトリック」と指摘するデマが書かれたものも注目されていた。
人間が用いる言葉は、世界を切り裂き、溝を大きくする。人と人を対立させ、流血の惨事を招く、呪いの言葉だ。表面的なやりとりに用いる言葉ではなく、他人に対する想像力こそが、世界を救う本質的な言語ではないか? 卓夫は、無責任な報道に凍り付いた。
展開は驚くほど速く、拡大はいつまでも止まらない。急激に増加拡大する種は、近い時期に地上から絶滅する種である。――絶滅は希望しないが、繁殖は止まる――と、卓夫は考えていた。
それが、卓夫ではなく聖人君子や偉人のクローン人間が同様のスピードで爆発的に増加しても、人類にとっての脅威になるのは必至である。生まれながらの悪人に同様の事態が発生したら、世界は地獄と化してしまう。人々は、目の前の動静だけに注目し、彼らの存在を恐れていた。
卓夫たちの分身がクローン人間なら、彼と過去の記憶まで一致しはしない。だが、彼らは、SF映画「スタートレック」に出てくる転送装置のように、物質を量子レベルまで分解し、エネルギー波をビームに乗せて、目的地で再構築する仕組みに似ていた。異なるのは、転送後も此岸と彼岸に人が存在する事実だ。
政治家たちは国会で「益田卓夫増殖問題」を話題に取り上げた。「不測の事態こそ、政府の危機管理能力が問われる」と、野党議員たちは色めき立ち、首相を始めとする閣僚を鋭い口調で責めた。それでいて、野党側からは内閣の足を引っ張るだけで、画期的な提案は一つもなされなかった。
目の前で卓夫たちを見ても、生物学者は「人間は有性生殖によって誕生する。つまり、精子が卵子に侵入し、受精卵となる。父母の遺伝子情報を持つ染色体が合わさる形で、受精卵は子宮内部で分裂を繰り返し、成長する。一人の成人男性の個体が、複数に分裂し増え続ける事態は、地球環境ではありえない。トリックでなければ、人為的にクローンを創造している。倫理的に許されるものではない」と、同様の主張を繰り返す。
中でも異色のサイエンスライターの論考が目を引いた。
ライターは「百八十年後には、細胞を素材にした3Dプリンターで、人間の複製を創造する技術が実現する。だが、現時点での地球上の化学技術を総動員しても、益田卓夫の複製をつくるのは不可能だ」と、自説を開陳した。
「クローン技術を悪用した医学者の暴挙だ」と、主張する者もいたが、言下に可能性を否定された。
科学者は皆、益田卓夫の不可解な分裂増大を理論的に説明できなかった。一日に一人の個体を生み出すには、相当のエネルギー量を要する。卓夫たちは、誰一人としてもう一人の自分を作るほどのカロリーを摂取していない。
絶望的な状況が続いた。過去の震災やパンデミックでは、政府の対応については報道で、もたもた感が強調されていたため、卓夫たちも迅速かつ効果的な対応は、望めないものと諦めていた。
卓夫がクローン人間の爆発的増加の震源地だと判断され、入れ代わり立ち代わり医学者や生物学者が訪ねてきた。彼らは、感染症を恐れる者がする重装備で、全身を防護服で身を包み、目の周りはゴーグルをつけ、ゴム手袋をはめ、長靴を履いていた。
検体を採取したいと申し出を受けていたので、検便と検尿に協力し、鼻に綿棒を差し込まれ、採血もされていたが、原因が不明のまま混迷を深めていた。
「あなたは、一体何者なのですか?」と、医師は愚直な質問をした。
「それが分かれば、苦労しませんよ」
「何が原因か、思い当たることはありませんか?」
「例えば、どんな?」
「今回の変化が起こる前に、普段しないような経験をしたとか、極端な体調不良とか、そういうことです」
「いつもと、特段何か違うことはありませんでした」
「海外渡航歴は、どうです? 一年以内に、他人が行かないような場所に行きませんでしたか?」
「UFO墜落現場を見に行ったか? みたいな質問に聞こえますが……」
「ええ、それに類することです」
「何もありません」
結局のところ、何を調べても明確な原因も、効果的な対処方法も判明しなかった。
しかも、卓夫は職を休み、貯金も僅かになっていた。
胃がむかつき、吐き気を催しながら、よろよろと家を出てクルマを走らせた。卓夫には、見慣れた街並みが、狂気の色に染まり、人々の無理解と憎しみを育んでいるように思えた。
父親や弟は、卓夫のために食事を分け与え、身の回りの世話までした。同居中の影夫も、心労でやつれて見える彼を案じた。影夫は、卓夫と自分の違いを責任感の違いだと考えた。兄弟以上に分かり合える二人だが、卓夫はすべての原因を自分にあると考えて悩んでいる。
見た目は相似形だが、影夫から見ると卓夫は兄ではなく、そこから分裂した単性生殖の親株にあたる。兄であり、親であり、自分自身でもある奇妙な存在だ。
政府の専門家会議メンバーに数学者が加わり、益田卓夫の指数関数的な増加について「今の状態が続くと、世界崩壊の危険な予兆につながる」と強く主張したため、局面が変化した。従来は、人権派弁護士が擁護し、医学者が医療処置による解決策を唱えて支持されていた。
医学者の説を検証する者は、現実の解決までに十年かかると異論を唱えた。卓夫は生物学的に、一つの個体が無限に増殖する可能性はなく、いつ鳴り止むかが問題だと見ていた。
人は他者を見るとき、人種や民族やイデオロギーを同じくする存在を等価で同質な存在だと判断し、一括りに捉える。属する集団を代表する者の性質と、個々の人々が同じ悪質さを共有すると想定し、排斥する手段を講じる。結果として、一般市民に混在している偉人や傑物が大才を開花する前に、命を絶たれる展開も在る。
聖なる存在を……比類ない賢人を……、悪党や愚者が、駆逐する事態も想定される。破邪顕正は凡俗に判断できるものではないが、得てして人は、誰でも他人の聖俗の区別が出来ない。それは人類の歴史であり、目の前の現実でもあった。
――人間は進化の途上で、何か大事な忘れ物をして、今の地平に立たされている――と、卓夫は漠然とイメージした。
卓夫は逃げるべきか、戦うべきか迷った。逮捕されないためには、いずれかの選択肢しかなかった。だが、彼はどちらも選ばず、成り行きに任せる道を進んだ。警官が訪ねてきても、数の力で圧倒し拳銃を奪い取るのは、教育者の選ぶべき方向ではない。
刑事裁判は、本来は起訴されてから二ヵ月後に行われる。卓夫のケースでは、特例処置で、可及的速やかさで行われた。
裁判長が刑法の主文を読み上げた後で「被告人は黙秘権を行使する権利があります。ですから、答えたくないことは答えたくないと言っても、何ら裁判による不利益を被るものではありません」と、淡々と告げた。
さらに「どうして、世間に早く実情を知らせなかったのですか?」と、問いかけた。
検事の分厚い鎧をも貫き通す鋭い視線が、卓夫を捕らえて放そうとしなかった。
卓夫は――世間……とは、今のあなたのように、私たちの敵になりかねない残酷な存在です――と、言葉に出そうとして、唾を飲み込んだ。
検事は、被告人の卓夫たち一人一人に同じ質問をした。
「私たちは展開のあまりの速さに、戸惑うばかりで、成すすべもありませんでした」
「今の時代なら、SNSで告知することも可能でしょうに……」と、検事は反論した。
「それは、私たちに命の危険をもたらします。もっとも、やってはいけないことでした」
弁護士は「卓夫の分身が起こした暴動を急迫不正な侵害に対する正当防衛によるもので、徒に人を傷つける目的でなされたものではない」と主張し、アリバイになる写真を提示した。
※
不安が敵愾心を生み出し、マスコミの扇動がそれを巨大なものに育てた。卓夫は、人々の間に広がった混乱状態について考えたところ、加害者と被害者の特定が困難なため、自分と分身たちを一まとめにして憎んで、断罪や攻撃を迫りつつあるのが理解できた。
それは人間的な誤謬であり、国家や、人種や、民族に対して、個々人の正しさや美質とは別に、敵対する集団の成員であると、殺戮さえ躊躇しない心理状態である。
人類が歴史の経緯で獲得してきた、悪魔の約束事であり、人間的な料簡の狭さが作り上げた常識でもあった。――他に手立てはなく、甘い認識では寝首を掻かれる――そんな、疑心暗鬼と用心深さも原因している。
益田卓夫は、一人の良識を持つ優れた人間としてではなく、忌まわしいクローン人間の仲間として扱われ、罪を犯していないにも関わらず、処罰されようとしていた。
「弁護士の提示したアリバイは、十分なものではなく、証拠を覆すだけのものではありません」ぎらつく目が、もう一度、卓夫に向けられた。
卓夫は眉を顰め、腰に両手をあてた。――分裂増加を続けるのは、肉体であって自分の魂ではない。相似形の外貌と、そこに宿る本質は別物だ――と、彼は思った。
刑法七十七条の内乱罪により、卓夫たちは死刑が適用される。人数の驚異的な拡大が続いていたため、喫緊の命題として扱われた。しかも、異例の速さで刑が執行される予定となった。
卓夫は不本意ながらも、怒りを飲み込み、放っておくと打ち震えそうな腕の動きを理性で抑え込んだ。
担当弁護士は、感情を籠めて「罪を犯していない人間を罰するのは理不尽でしかない。何か解決手段を探し出しましょう」と励ますと、卓夫の肩を労わるように撫でた。
地裁の判決が出た後、人権派の弁護士や宗教関係者などの支援者が、卓夫たちの立場を擁護し、医療従事者へ働きかけ、研究を呼び掛けた。支援者は、卓夫たちを処刑するのは「ホロコーストを再現するのと同様だ。悪しき先例に倣うべきではない」と、声高に叫んだ。卓夫は支援者に連絡をとり、実情を説明し解決の糸口を探った。
宗教家は人間には魂があると教えている。残念ながら、まだ、証明済みの事実ではない。しかし、それが事実であろうとなかろうと、魂が実在すると考える構えが人の命に崇高な価値をもたらしている。――魂の存在を否定すると、人は酷薄で刹那的な愚か者になる――と、卓夫は確信した。
国会議事堂前や、裁判所前などで「益田卓夫を救え!」と、プラカードを掲げた人の群れが囲み、大声で叫んでいた。
それは、分身たちではなく、卓夫だけを救えと指示する意思表示だった。支配者は大衆を道具だと考えるようになり、役立たなくなると抹殺しようと目論む。卓夫を支援する者の中にも、酷薄な考えが蔓延しつつある。卓夫は、分身たちを生命の宿る個体と考えず、存在を抽象化し、冷淡に処分する手段が、政治家の議論の中心になるのを恐れた。
――人が悪魔に変質する瞬間を見たくはない――と彼は、思い浮かべた。
益田家では、法律や規則は守られていた。父親は企業の法務部担当取締役、雄次郎は司法書士事務所を運営している。中学校教師の卓夫の目から見ても、脱法行為は許せないものである。
大勢の群衆が、日本各地で町中を練り歩く姿がテレビ報道で映し出された。評論家は、益田卓夫を犠牲者として扱う者と、乃南亨輔グループの過去の僅かな失言を取り上げ、危険視する者に分かれた。
痩せぎすで、中年の女性としての魅力に欠ける記者が、卓夫の家を訪ねてきた。ちょうど、殖えたばかりの二人を外に追いやる最中に、強引に家に入ってきた。変装前の四人の男を見て、驚いた素振りを見せた後、にやにやと笑っている。
記者は無遠慮に「あなたがたの責任の所在はどこにあると思いますか?」と、問うた。
「俺たちは原因不明のまま苦境に立たされている被害者ですよ」
「ですが……、各地の暴動は、あなたがたが起こしたのでしょう?」
「同じに見えても、一人一人が違う考えを持つ、別々の人間です。暴動を起こす連中と、同一視されるのは迷惑な面もあります」
「そこを詳しく聞かせてもらえませんか?」
「あなたたちの報道が影響して、窮地に立たされている者もいます。今日は、このままお引き取り下さい」記者も、裁判の行方が気がかりな様子だった。
危急の場合であっても、裁判は三審制が基本だ。そこは揺るがなかった。弁護士は直ちに上訴した。
どうにか、最悪の事態は避けられた。
「法の仕組みが、正義を全うする目的を持たず、社会システムの崩壊を防ぐためだけに用いられる。裁判が真か非真かを特定する力を持たず、勝敗を決する手段としか用いられなかったら、罠にはめられて苦しむ人間が必ず出現するのは当然の帰結だ。無実の人間に、重い十字架を担わせるのは、刑を科した側が問われるべき罪悪である」卓夫の支援者の論調は、大半の人間には空しく響いた。
卓夫は処刑される展開以上に、前科者として扱われる不名誉を避けたかった。自分一人ではなく、家族や周囲の人間を傷つける事態を危惧していた。
卓夫には、無力感に責めさいなまれ、他人の無理解や自身の狂気と戦う男を主人公の出てくるスリラーが書けそうな状況だ。彼にとって、それは容易に思えた。何故ならば、毎日の経験をワードに記述し、ドキュメントとして残せば良いだけだ。
因果律の支配するこの世界では、原因のない結果はないものとされる。卓夫の分裂増加が始まり、今も続いている原因は判然としないままだ。
三次元のこの世界では、二十世紀になってアルバート・アインシュタインが相対性理論で定義づける以前から、時間とは世界を劇的に変化させる魔法だ。時間の魔法は、新生児を青年に、見目麗しい青年を老人に変貌させる。卓夫の年齢は、人生が華やかで美しく、謳歌できる年齢だ。朽ち果てるには早すぎる、眩いばかりの時間だった。
逆に卓夫の周辺では、胸糞の悪い、呪いの時間が過ぎていく。彼は焦りと混迷で息が詰まった。
時間が経過し、騒動が大きくなるに従って、メールの返信率が減り卓夫の指示に従わない者も増えてきた。スマホの購入、固定電話機の設置などにも本人確認が必要なうえ、インターネット喫茶や、パソコン設置のマンガ喫茶の入会時でも、身分証明書の提示が求められる。
分身たちは、メール一本の送受信にも、汗を流し、苦労していた。卓夫たちは、高度な管理社会の落とし穴にはまり込み、喘いでいた。
大勢の人間に号令をかけて、思いのまま動かせる。卓夫は考えを変えさえすれば、強大な権力を掌中に治められた。彼がそうしなかったのは、弾圧の憂き目にあい、分身たちの死期を徒に早めるとの判断にある。
新興宗教系の教祖は「益田卓夫がこの世に来臨したのは、神の思し召しだ。人類が滅亡しようとも、彼を守るのが使命だ」と主張した。
一方で「益田卓夫の事件は、妄想の産物だ。ホログラムを利用したトリックに過ぎない」と、断じる者もいた。実物を目で見なければ分からない、見るだけでなく触れなければ信用できない……究極の懐疑論者たちだ。
YouTubeでは「益田卓夫の秘密を知っている」「益田の親友だ。俺に真相を語ってくれた」「私が益田卓夫をこの世に生み出した科学者だ」などと、アップされていた。いずれも、広告収入目当てに、アクセス数を増やすのを目論む、デマばかりだ。
――自分が無数に増えれば、自我が肥大し専横を極めた人間になる――と、卓夫は今の状態になるまで漠然と印象していたものの、現実の展開を前にしてみると、クローンが増えるほど、自分の存在が希薄化し、消えてしまいそうな不安が大きくなっていた。卓夫が経験する時間は、仲の良い双子が経験する濃密で満ち足りた時間とは異なり、絶望的な時間だった。
深夜、マンションの廊下側から両親や弟夫妻が住む隣室の明かりが灯っていた。いつもなら、この時刻には部屋が暗くなり、寝静まっている。父親は声を大きくして夕刊記事を母親や、弟夫妻に読み聞かせている。普段は、物音一つしない部屋の中で、意見を述べ合っている様子だ。
影夫は卓夫を促し、テーブルに着くとウイスキーの瓶を置き、つまみの柿の種やチョコレートを並べた。
「酒を飲もう」と、影夫が誘った。
「今の状況で、よくそんな無茶が言えるな」
「こんな時のための酒だ」
「どういう意味だ」
「お前は責任感から、根を詰め過ぎているよ」
「お前に、何が分かる?」
「俺は、お前自身だ。こういう時は、酒が特効薬になる」
「お前は、俺のドッペルゲンガーなのか?」
「いや、幻覚ではなく、ここに実在しているよ」
「子供の頃、親父に自転車の乗り方を教えてもらったのを覚えているか?」
「ああ、覚えているよ。あの時、親父は転んだ俺……いや、お前が泣いているのに驚き、必死で慰めてくれたな」
「ああ、その通りだ。親父は自分のせいだと思い、情けない表情をしていたよ。俺は自転車が倒れたときに、膝に怪我をした。親父はヨードチンキを塗り、傷口に絆創膏を貼ってくれた」
「俺も覚えている。あの時は、痛い思いをしたな」
卓夫はズボンを脱ぐと「これが、その時に出来た傷跡だ」と、膝小僧を見せた。
「やはり、卓夫。お前こそが本物だ。俺には、記憶はあるが同じ傷跡がない」
「歯の治療痕も、虫歯も、身体にあるはずの傷もない。つまり、影夫の方が、完璧に近い」
「皮肉なことだな。だが、俺も怪我するし、病気にもなる。過去だけが、卓夫と違って、砂上の楼閣のように記憶の土台の上に成り立たせている。そこが辛い。傷物のお前の方が、存在感が大きいよ」
卓夫は、柿の種をぱくつく影夫を横目に見ながら冷蔵庫からキャベツの酢漬けを取り出した。
「キャベツは食物繊維が豊富だから、胃腸に優しい。今の自分の酒のつまみには、これが最適だ。気遣いは有り難いが、そこまでは気づかなかったのかな」
「俺は、所詮お前のクローン人間に過ぎない」
「俺は、一緒にいてお前の優れた面を幾つも見つけた。奇妙な感覚だが、似ているが異なる面がある。俺に勝る長所が、お前にはあるよ」と、卓夫は肩をすくめた。
「生物学では、人間と猿が共通の先祖を持つだけではなく、鯨と海豚、鳥と恐竜、蜂と蟻、蟹と蜘蛛も同根だと考えられている。進化する個体は、有性生殖により両親のハイブリッドとして、様々な状況に早く適合してきた。それに比較して、単性生殖で子孫を残す生物は、緩やかにしか進化しない。生物の世界では、変化のない進歩は皆無だ」
「複雑な多細胞生物の雌性と雄性が、求愛行動による芸術的世界を創造しているのは、恋愛を至上のものとして扱う、人間のクリエイターの編み出す世界に似ている。だが、そんな理論が影夫に当てはまるとは限らない」
影夫の悲観的な物の考え方は、生物学的見解と一致していそうで、主観の傾きのあるイメージに過ぎなかった。
卓夫と影夫は共同で生活しながら、同時に同じ内容を考え、同じ行動をしようとして、タイミングが重なるケースがある。同時に席を立ち、同じタイミングでエアコンを操作しようとしたり、テーブルの菓子を摘まもうとして手と手がぶつかったり、偶然が驚くほど多かった。
酒をグラスに何杯も注ぎ、ボトルの中の液体を二人で飲み干した。卓夫は弟の雄次郎よりも以心伝心で分かり合える、影夫を頼もしく思った。
「補陀落渡海という言葉を当然、お前も知っているよな?」と、影夫が尋ねた。
「何度も言うが、俺はお前がこの世に誕生する以前から、お前自身だ」奇妙な論理だが、特異性の強い事象に一般論は通用しなかった。
補陀落渡海――それは、時代がまだ薄闇の中にある時代に作られたファンタジーに過ぎない――と、卓夫は考えていた。補陀落……つまり、観音菩薩の浄土は南方に存在すると考えられている。そこへ船で赴き、荒波に揉まれて死んでも観音菩薩の浄土に生まれると教える俗説だ。
影夫は「出来る限りのクローンたちを集めて、船で死出の旅に行くのが妥当な結論だ」と、提案した。大勢の仲間を率いて、船旅に出るのは不可能に思われた。
卓夫は影夫の存在を無視して、檻の中の熊のように、部屋を右に左に行き来した。歩きながら、卓夫はこう考えた。――ここには、最早何もない。空虚で実体のない部屋と、二匹の怪物以外はなく、自分が存在し続けるのに意味は何もない――
彼は恐怖心で震えながらも、どこからか高揚した気分が沸き起こるのを感じていた。存外、楽しい遊戯に耽溺できる気がしていた。
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