増殖と混迷

美池蘭十郎

第1話

 冬の寒い朝、益田卓夫が悪夢に震えながら覚醒すると、自分が部屋の中で増殖しているのに気づいた。彼の寝床には、もう一人の男が身を横たえていた。男は背中向けに寝ており、同じ布団にくるまっている。卓夫が起き上がり、回り込むと自分そっくりな男の姿が見えた。

 布団をまくり、様子を見ると顔立ちや体つきまで何から何まで、同じである。男は死んだように眠っていた。

――こんな馬鹿な現実はない。俺は夢の続きを見ているのか?――と彼は思った。部屋の中を丹念に調べて見ても、昨日と何も変化しているところはない。鏡に映る姿も、自分自身に他ならない。書斎の机の上には、パソコンが置かれ、スマホも普段通り充電している。

 卓夫は公立中学校の理科教師である。壁には交際相手の女教師に描いてもらった風景画がかけられている。近くの公園の樹木や、噴水が描かれた絵である。見目麗しい彼女は、美術教師で同じ中学校の同僚だ。

 卓夫はカーテンを開け、マンションの外の景色を眺めた。博多では珍しく、路面には雪が積もり、冬枯れた街路樹は寂寥感をイメージさせた。粉雪が宙を舞い、外は酷く寒そうに見える。

 早く目覚め過ぎたので――外はまだ暗い、もうひと眠りしても朝礼に間に合う――と、思ったが、男の存在が気がかりで、出来そうもなかった。何故ならば、自分と瓜二つの男は熟睡しており、邪魔になるので一つの布団で寝る気がしない。

 男の正体は気になるが、触れると漆にかぶれるような不安を感じた。何度も近づいて、叩き起こそうとしたが、好奇心と不気味な印象との間を振り子のように行き来して、結局のところ断念した。

 卓夫は考えた。――何に巻き込まれたのか分からない。しかしながら、自分の家に居候させるわけにも、放置するわけにもいかない。面倒な事態になる。男を怒らせるのも、ここに留め置くのも具合が悪い――見ると、そっくりな男は寝返りを打った。寝息を立てているので生きているのは知っていたが、男の動きに驚くと同時に脈拍が早くなった。

――勤め先の中学校では、クラス担任としての学級運営を軸に、バトミントン部の顧問、生活指導、進路指導、アクティブラーニングの導入など、仕事につきまとう苦労は大変なものである。

 他人が思うように、授業だけを受け持ち、春、夏、冬の長期休暇で優雅に暮らせる身分ではない。担当クラスのいじめ問題や、モンスターペアレントの突き上げにも悩まされる――

 身体が震え、冷や汗が流れ出した。かすかな眩暈を感じたが、風邪や内臓疾患から来る症状ではなく、違和感と緊張のせいだ。

 卓夫は布団のところに戻り、男の前に屈みこんだ。彼は考えた。――睡眠不足は、人間を魯鈍で分別の出来ない者にする。健康のためにも、十分な睡眠が必要となる。学習塾の経営者の中には、豪華な居宅を構え、贅沢に暮らすものもいる。俺は神経をすり減らし、仕事を終えてから帰宅すると、翌日の授業のための資料を整理し、万全の備えをする。人一倍の努力をしている。

 俺だって豪奢で悠長な生活に憧れる。美術教師の恋人がいなければ、辞表を叩きつけて飛び出していた。校長の前に歩み出て、狡賢い教師の悪口や、教育方針への批判を思う存分に吐き出してやる。校長は青ざめて、大いに反省するのは確実だ。

 正直なところ、一度は校長や教頭、学年主任、それにPTAの生意気な役員を頭ごなしに怒鳴りつけてやりたかった。近い将来、十分な結婚生活のための資金が準備できれば、校長に「性根を据えて、生徒の学習指導や問題に取り組んだらどうだ」と、毒づいて辞表を提出するつもりだ――

 枕元のデジタル時計を見ると、時刻は午前七時だ。絶望的な気分になった。中学校までクルマを飛ばしても、間に合うかどうか微妙なタイミングだ。時計は六時にアラームが鳴動するようにセットしていた。だが、卓夫が四時に目覚めてから、一度も鳴らなかった。三時間も目覚めていたつもりが、無意識に眠り、幻覚を見ていたのか? 

 布団の中の男は、まだ心地よさそうに眠っている。まるで、幽体離脱だ。普段より早く目覚め、男の存在に気を取られて時間の無駄をしていた。時計の文字盤は、カチカチと時を刻んでゆく。

 卓夫は教師生活を始めてから、今までの七年間、一度も病欠した経験がなかった。学校に、電話で欠勤を告げると、校長は「医師の診断書を受け取り、病気であるのを証明しろ」と、指図するのは容易に予想できた。

 健康で食欲旺盛な青年が、か細い声で病人を装う……、欺瞞行為こそが不健全ではないか。

 様々な出来事に思いを巡らせて、朝食を済ませるか、空腹のまま外に出るか迷った。デジタル時計の表示は七時二十分になった。

 その時、玄関のチャイムの音が鳴った。インターホンに出ると、マンションの隣室に住む父親だった。

「どうした卓夫? いつもなら、クルマを出す時刻だ。何かあったのか?」父親は心配している様子だ。父親はドアを開くと、間違いなく中まで入って来る。卓夫の布団に寝ている男を見ると、衝撃を受けるのは疑いなかった。本来なら、寝ている男を起こし、詳しい事情を説明したいところだ。

「お父さん、大丈夫だよ。ちゃんと起きているし、何とか間に合わせる」と、情況を考えて説明するにとどめた。

「そうか、そうか、それならいいよ」と、父親は立ち去った。

 しばらくして、まだ出かけないのを心配し、今度は母親がチャイムを鳴らし「どうしたの? 体の具合はどう? うがい薬や、熱冷ましなら市販薬がある。持ってこようか?」と、優しい声で尋ねた。

 背後には、弟夫妻も控えていて「兄さん、何か言ってくれ」と大きな声で指図した。

「全部、準備済みだよ。心配しないでくれ」と、三人に向かって答えた。

 弟夫妻は隣室に戻ったが、母親はドアの前から離れようとしなかった。「卓夫、何をぐずぐずしているの? ドアを開けて説明しなさい」と懇願した。

 だが、ドアを開けるとパニックになるのは想定内だ。

 卓夫は気持ちを落ち着けるには、顔を洗い、歯を磨き、パジャマを洋服に着替え、空腹を満たす必要を感じた。寝床にいる不可解な男も、あとで対処すれば良いと思った。朝食を済まし、満腹中枢を刺激するとレプチンが代謝される。生存に関わる欲求が満たされると、気持ちが落ち着くと予感した。

 冷蔵庫には、辛子明太子、高菜の漬物、冷やご飯が入っている。ご飯を電子レンジで温め、レトルトの味噌汁に熱湯を注ぐと、朝食メニューの完成だ。幸い、柚子胡椒も切らしてはいなかった。

 朝食を済ますと、幾分かは気持ちが落ち着いてきた。しかし、正体不明の男は姿を消さずに、卓夫の家で寝続けている。根を詰めて、仕事に精勤し過ぎたのが、精神状態の異常につながったのか。彼は、頭から決めつけたくなった。

 寝ている男など初めから存在せず、幻覚を見ている。それを証明するには、布団の中にいるかに見える男の虚構を暴くのは不可欠だ。彼は意を決すると、布団をめくり上げ男の背中を揺さぶってみた。男は、ぴくりとも動かない。

 顔を近づけて、見れば見るほど自分にそっくりだ。目・鼻・口のすべての特徴が寸分も違わない。男の手と自分の手を見比べると、左右の指紋や掌紋は近似していて、見分けがつかない。足の指の形まで同様だ。

――寝床の中でいつまでも、ぐずぐずしているのは余程の呑気者だ――と、卓夫は独り言を口にした。

 他人の家で眠り続ける男の厚かましさに、怒りと苛立ちを覚え、耳元で大きな声を出してみた。

「おい、こら起きろ、いつまで寝ている。それに、ここが誰の家か知っているのか?」

 男はそれでも、無言で無表情のまま何の音も立てず、起きる気配はない。乱暴するわけにも行かず、男のせいで中学校の授業に支障が出るのも困る。眠れる男の目を醒ますように仕向けるのは、酷く手間がかかった。

――仮死状態の可能性はないのか?――と、疑念が湧いた。睡眠は万人に与えられた休息だが、仮死状態は病気である。謎の男とはいえ、部屋の中で病状が悪化して、死なれても困る。

 卓夫は、眠り続ける男の両足をつかむと、布団の外へ引きずり出した。それで、目を醒ます目途をつけた。男の体格は、卓夫と寸分も違わないが、随分と重く感じられた。

 眠れる男の睡眠の深さは、尋常なものではなかった。叩こうと、大声を出そうと、引っ張ろうと、僅かな反応しかなく、すぐには起きそうにもない。この分だと、奇跡に期待する他は、手立てが思い当たらなくなった。

 諦めるわけにも行かず、何度も同じような無駄骨を折り、一息ついて、また同様の行為を重ねた。思慮深い自分が、正体不明の人物の呪縛に頭が働かず、身動きもとれなくなっている。男を力任せにぶん殴り、喧嘩してでも真相を聞き出すべきか悩んだ。

 同時に、やけくその行動よりも、冷静な判断の方が優れた心構えなのも忘れずに、自分を戒めた。そうしながら、希望を見出すためにマンションの窓から外に目を向けた。時刻は七時三十五分になっている。今から、出勤しても遅刻は免れない。

――八時までに家を出れば、渋滞や事故に巻き込まれたと言い訳しても、校長に説教される事も、学年主任の小言を聞く事もない――彼は、無駄と知りつつも男の耳元にスマホを置いて、大音量の音楽を響かせた。さらに、両肩をつかみ左右に揺さぶった。

 残り時間が七分になったとき、チャイムが鳴った。一階エントランスホール前に、外部から誰かが訪ねてきた様子だ。

 インターホンに出ると、宅配便の配送係だった。部屋の玄関で荷物を受け取り、中に持ち帰り、開封してみると通販で購入した物理学講座のDVDが入っていた。DVDを書斎のライブラリーの棚に収めて、眺めていると、ガサゴソと音がした。

 寝室に戻ると、先程まで眠り続けていた男が目を醒まし、パジャマ姿で窓際に立っていた。卓夫のパジャマを勝手に着ていた。卓夫と目が合った途端に、男は驚愕の表情を浮かべた、二人の男は、お互いの存在が理解できず、束の間、沈黙した。

「他人の家に忍び込むとは、どういうつもりだ?」先に卓夫が口を開いた。

「他人の家? 何のことだ?」男は、問い返した。

 玄関は施錠しており、ベランダ側から五階の部屋に外部の者が侵入するのは不可能だ。

「お前の名前は? どんな仕事をして、何処に住んでいる?」

「俺は益田卓夫だ。中学教師で、この家に住んでいる」

「それは、俺の事だろ。お前がどんな理由で、俺の個人情報を悪用し、ここに来たのか……。それを尋ねている。悪ふざけは、受け入れられない。返答次第では、警察に不法侵入の疑いで通報する」

 男は答えに窮したのか、俯いたまま何か考え事をしている。

「どうすれば、二人のうちどちらが本物だと証明できる?」男は、問いかけた。

「身分証明書なら、免許証、保険証、マイナンバーカードなどがある。お前は、それを携行しているか?」卓夫は自分の問いかけに、男が返答できない状況を想像した。

 卓夫の期待に反して、男は部屋の何処に仕舞っているか、ことごとく言い当てた。

「俺はすべて言い当てた。逆にお前はどうやって証明する?」むしろ、卓夫の方が窮地に立たされた。

 どうすれば、自分が自分であるかを目の前の男に証明しなければならない。過去に何度か、銀行の窓口で身分証明書の提示を求められた記憶ならある。だが、今と同じ状況を経験した例はなかった。

 考えているうちに、ある事に気づいた。

「俺は、自分の臍の緒を入れた箱がどこにあるか知っている。お前はどうだ?」

「……」男は、脂汗が出るほど考えたが、答えられなかった。

 卓夫は念のため、男を洗面所に連れて行き、口を開けさせた。男の口中には虫歯の治療痕は見当たらない。

「歯科医に調べてもらえば、俺が益田卓夫本人だと証明できる」

 男は青ざめて、困惑の表情を浮かべていた。

「何を企んで、俺の真似をしている?」

「真似をしているのではない。洗面所で鏡の前に立つまでは、自分こそが本物の益田卓夫だと思っていた。今は、信念が揺らいでいる」

「どういう意味だ」

「それは、俺にも分からない。俺にも自分の歯を何回か治療した記憶がある。だが、洗面所で見たところ、あるはずの銀歯の被せ物が一つもない」

 卓夫は男が、過去の記憶を口にしたので、質問を重ねた。一つ一つ、具体的に質問したが、子供の頃から現在に至るまで、正確に自分の記憶と一致している。尋ねる都度、驚かざるを得なかった。

――ドッペルゲンガー、一卵性の多胎児、細胞分裂、クローン技術、テレパシー、魔術、イリュージョンなどの言葉が次々と思い浮かんだ――熟慮の末に、彼なりの結論を出さないと、精神状態に悪影響がでると判断した。

 卓夫は「お前は俺の偽物に過ぎない。これから、お前を自分の影のように扱う。影は日の当たる場所に登場するが、日陰では姿を消す。逆にお前の存在は、周囲に知られると困る。だから、存在を隠したい。無論、協力してくれるよな。それから……、今後はお前を影夫と呼ぶつもりだ」と、一方的に告げた。

 卓夫にしてみれば、大胆かつ強引な提案だ。彼は、そうしないと、自分の生活のすべてが、影夫に乗っ取られそうな脅威を感じた。

――カッコウ科の鳥類は、オオヨシキリ、ホオジロ、モズ等、他の鳥の巣に自分の産んだ卵を押し付けて、親鳥に雛の世話をさせる。成長した雛は、巣の中の他の雛を追い出す習性がある。影夫は、何者かが送り込んだカッコウの卵だ。雛が成長すると、自分が追い出される――と、疑念を抱いた。

 時刻は十二時四十分になっていたが、昼食を摂るのも失念していた。

 学校から様子見のため、学年主任が訪ねてきた。影夫とのやり取りに費やしていたので、時間を忘れていた。中学校に休む連絡をしていなかったので、無断欠勤を咎めるためだ。

 インターホン越しに、学年主任の女性教諭と簡単な挨拶を交わした。卓夫が苦手とする嫌味なオールドミスだ。

 卓夫は、学年主任がエレベーターで部屋に上がってくる前に、影夫を書斎に閉じ込め、内側から鍵をかけるように指示した。

「連絡なしに休まれると、学級運営に支障が出るのは知っているでしょ?」

「すみません。腹痛のため、七転八倒していました。ですから、電話一本、架けるだけの気持ちの余裕がありませんでした」

 学年主任は、立ち上がるとキッチンシンクにある汚れたままの茶碗や湯呑をチラ見して「今後は、事前に電話連絡しなさい。それと、通院後に医師の診断書をもらっておきなさい。子供じゃないから、ちゃんとした対応は、どんな場合でも必要です」と忠告した。

 さらに、部屋を出る時に「言い訳は無用です。教職員としてのルールは守りなさい。今日は、それだけを伝えに来ました」と、言い残した。

――明日、校長は朝礼の後で、同僚教師の前に俺を立たせ、無断欠勤の非行をこっぴどく叱りつけるのは間違いない――そう思うと、気が滅入った。

 影夫が書斎から出てくると「俺も、あの先生は嫌いだ。他人を悪く言えるほど、人間が出来ていないのに、偉そうな女だ」と、憤りを言葉にした。

 相似形の二人は、見た目だけではなく、音声も話し方も、考え方や過去の記憶まで同じだ。双子でも、まったく同一ではないが、卓夫と影夫は歯型などの一部を除けば、差異は見られない。

 卓夫は――これから、二人の人間として生きていくのか? それとも、影夫が光の灯らないところで姿を消す影と同様に、忽然と消えないかと念じた。影夫は戸籍もなく、選挙権もなければ、健康保険にも加入していない。本来なら存在しない人間である。抹殺しても、誰も気にかけない――と、考えた。

 二人で生活し、収入源が一つしかないと必然的に、金銭的な負担が大きくなる。影夫の存在が、恋人の未玖との交際にも邪魔になる。考えるほど、影夫の存在が禍々しく、鬱陶しく、重苦しく思えた。一方で、自分そっくりな男を暴力で葬り去るのは、卓夫にとっては不可能だ。

――影夫に対する優位性は、卓夫こそが本物である事実だけだ。影夫は自分の複製に過ぎない――卓夫は、それを心の拠り所にした。

 時刻は午後一時三十分だ。卓夫は、二人分の冷凍チャーハンをレンジで温めると、テーブルに並べた。

「これからは、俺を頼らずに自分のことは自分でやれよ」

「お前が仕事に出ている間、俺は何をすれば良い?」

「部屋の掃除でもしておいてくれ。まだ、お前が信用しきれない。通帳や金目の物は俺が持ち歩く。毎日、昼食代の千円だけ、渡してやるよ」

「毎日のように、部屋の中に籠り切りの生活は耐えられない」

「それは、考えておくよ。とりあえず、明日は指図した通りにしてくれ。電話にも、郵便書留や宅配便にも出ないでくれ」

 二人は、互いの仕草を観察しているうちに、鏡の中の自分を眺めているような錯覚に陥った。一人では気づかなかった、癖や身だしなみまで認識できるものの、有難く思える状況ではない。

 明日、出勤するためには、医師の診断書が必要になる。卓夫は影夫を残し、クルマに乗ると十分で病院に到着した。仮病を使い「今朝、嘔吐と下痢の症状に悩まされ、市販薬を服用したところ、症状は治まりました。ぶり返さないか、気になるので……」と、嘘を並べ立てた。

 帰宅すると、影夫は単行本を読みながら待っていた。卓夫が購入したまま、まだ読んでいなかった本だ。――影夫は自分の分身でありながら、自分の知らない知識を先に身に着けている――そう思うと、説明のつかない感情が湧いてきた。

 夕刻になり、また両親が訪ねてきた。影夫を書斎に閉じ込め、仕方なく部屋に招き入れると、しばらく会話を交わした。卓夫は、朝は腹痛に悩んだものの、医師の診察を受けた内容を伝え「もう、全快しているので大丈夫だ」と、安心させた。

 二人は、晩飯を外でした。先を考えると、影夫だけを終日、家に閉じ込めるのは妥当ではない。それは二人の男にとっては自明の理だ。二人並んでマンションを出るのは、人目を引くので待ち合わせ場所を決めて、別々に家を出た。卓夫が外に出た十分後、影夫は野球帽を深くかぶり、サングラスをつけて後を追った。

 天神まで、十五分歩いた。ラーメン・ギョウザの暖簾がかかる屋台の席に並び、食事をした。卓夫は味噌ラーメンとご飯、影夫は豚骨ラーメンとギョウザを注文した。全ての面で同じ個性を持つ、二人の注文が違う。

――同じ人間に見えて、何かが異なる。それは一卵性の双生児の経験と同様ではないか――卓夫は、不思議な感興を覚えた。

 卓夫は生ビールを二つ注文すると、一つを影夫の前に置いた。箸の持ち方、使い方やジョッキの呷り方まで、自分と同じなのに二人は感心した。お互いが何を感じているかも、容易に想像できた。

 腕時計の時刻は、午後八時三十分を示していた。二人はコンビニに行き、食パン、菓子類、チルド食品を購入した。

 卓夫は自室に戻ると、親友の塾講師に電話した。塾講師の草薙によると「同僚の女性が結婚し退職する予定だ。ちょうど、理科教師に欠員が出来たので、卓夫に来て欲しい」と話していたのに、一縷の望みを託した。

「一週間前だったかな。理科教師の欠員の件、あれ、まだ間に合うのか?」

「定員一人に対して、応募者十五人。今回は塾関係の縁故者がいないので、お前をゴリ押ししておくよ。但し、ペーパーテストと面接に加えて、模擬授業による審査は必須だ。合格する自信はあるか?」

「ああ、あるよ。倍率十五倍だろ。強敵が居なければ勝てる」

「審査は先週スタートしていて、明日が最終日だ。結果は、明後日には分かる」

「ちょうど良かった。助かるよ」

「まだ、採用が決まったわけではない」

 草薙は親友の依頼に、悪い気がしていない様子だ。

 電話を切ると、彼は影夫に「塾の審査は、お前に受けてもらう」と告げた。

「本来なら、勝手に決めるなと言いたいところだが、俺には卓夫の考えが分かる。いつまでも居候できない。働いて自活するよ」

 卓夫はこれまでの人生で、どの一日よりも長い一日を終えた。風呂を沸かし、身体を洗い清めると、影夫のために来客用の布団を敷いた。

 睡眠不足のため、ぐっすりと眠った。

 翌朝、デジタル時計のアラームは予定通り、午前六時を告げて鳴り響いた。卓夫と影夫は、同じタイミングで目を醒ました。

 それぞれの布団に、パジャマ姿の男が二人熟睡している。卓夫と相似形の男は、彼を含めて四人になっていた。彼は、昨日と同様に二人の男の特徴を調べた。二人とも、卓夫と影夫に近似していて、見分けがつかない。

「つまり……、昨日の朝、卓夫はこれと同じ経験をしたのか? 確かに不気味だ。俺がオリジナルではないのを含めて信じられない」と、影夫が声に出した。

「お前はオリジナルの影夫だ。俺の偽物だが、影夫という独自の個性なのは認めるよ」

「こんな状況がいつまで続き、個体発生を何回繰り返すのか……、それが分からないと対策が立てられない」

「これが、広く知れ渡ったらどうなる?」

「そうなると、俺たちは怪物のように扱われるな」

「良くて、モルモットのような研究対象になるだけだが、悪く展開すると、世界から抹殺されるのは予想できる」

「俺たちは、フランケンシュタイン博士が創造した怪物のように暴れはしない」

「周囲の連中は、そうは思わない。増殖がいつ止まるかが、鍵になる」

「指数関数的に個体発生すると、二人が四人に増えたように、八人、十六人、三十二人、六十四人、百二十八人と増え続け、十日後には千二十四人になる」

「止まらずに繁殖が続くと、一カ月後には二の三十一乗=二十一億四千七百四十八万三千六百四十八人になる計算だな」

「令和二年の日本の人口の十七倍だ。このまま増え続けると、世界人口に三十三日で達する。俺たちの存在が、世界の脅威になるのは必然的な結論と言える」

「それよりも、今日、何をするか考えよう」

「明日のことを思い煩うことなかれ……ということだ」

 二人は相談した結果、予定の行動を変更せず、卓夫は朝から中学校に出勤し、影夫は昼から出かけて、学習塾の審査を受ける。

「俺たちが出かけている間、後の二人をどうする?」

「まず、名前をつけて識別しよう。俺の布団に寝ている男を三人目の男の意味で三夫とする。四人目の男は、末夫と呼ぶ」

「末夫……?」

「増殖は四人目で、終わりにしたいからな」

 卓夫は自分が四人に増えたため、存在感も四分の一になったような錯覚にとらわれた。彼は――自我が自己肥大し、専横を極めるよりは余程ましだ――と、思い直した。

 卓夫は、三人分の食費として三千円を預け、さらに影夫には学習塾の往復の交通費千五百円を手渡した。

 中学校に出勤した卓夫は、校長室に直行し昨日の非礼を詫びた。職員室に腰かけて、一時間目の授業の準備をしていると、未玖が席に来た。卓夫は当面の難局を乗り切るには、平常を装うのが有効と考えた。

「もう、お腹の具合は大丈夫?」

「ああ、すっかり良くなったよ。心配かけて御免な」

「無断欠勤は、あなたらしくない。今日も休んでいたら、マンションまで様子見に行くつもりだった」と、未玖は不満げに告げた。

 授業は、皮肉にも「細胞分裂の観察」と「細胞分裂のときに核に起こる変化の観察」をテーマとしていた。細胞を構成する「染色体」「遺伝子」「DNA」は、それぞれ別の意味を持つ言葉だ。

 染色体とは、細胞の核の中に存在する紐状の物体だ。この染色体の中に遺伝子情報が書き込まれている。遺伝子とは、生物の設計図にあたるもので形質を決めている。遺伝子は子孫へ受け継がれる。遺伝子情報の材料がDNAである。黒板に文字で板書し、生徒たちに仕組みを図示しながら説明した。

 単細胞生物では、細胞分裂によって個体を繁殖させる。一方で、人間のような多細胞生物では、受精卵の発生に伴う細胞分裂によって細胞数が増加する。

 授業を進める中で、卓夫は、自分たちだけが、人間でありながら単細胞生物と同様の繁殖のプロセスを繰り返している謎を容易に解き明かせない現実に苛立った。増殖二日目だが、時間的な猶予はない。

 帰宅すると、三人の男は一斉に卓夫を見た。姿かたちでは、誰が誰とも判然としない。今朝の服装で、影夫を見分けた。

 影夫は学習塾での出来事を自分から話した。

「ペーパーテストも、口頭試問も簡単だった。模擬授業は『細胞分裂の観察』と『細胞分裂のときに核に起こる変化の観察』がテーマだ」と告げた。

 同日、別の場所で期せずして、同じ授業をしていた。卓夫は、心理学者カール・ユングの唱える共時性の仮説を信じた。共時性とは――意味の伴った偶然の一致―-を示す言葉だ。

「末夫と俺は、記憶と事実が異なり、今日誕生したばかりの新参者だ」と、三夫が口を開くと、末夫は「三夫も、影夫も、見た目も生活ぶりも乳幼児には見えないが、二十五年の間、現実に生きてきたのは、卓夫だけだ」と、答えた。

 彼らは、四人で同じ場所にいて過ごしていると、自分を立体的に観察できるのに気づいた。中でも卓夫は、今まで平らで薄っぺらな現実しか見ていなかった。三次元に暮らしながら、心象風景は如何にも平面的で、自分を軸にした単調な世界観で生きていたのを感じ取った。

 四人で暮らすと、生活費は膨大なものになる。時間に余裕があると、後で回収可能だが、現状ではそうはいかない。同じペースで個体発生が続くと、一ヶ月後は爆発的な人数で世界を呑み込んでしまうのは必至だ。

 影夫が首尾よく学習塾に就職しても、最初の給与が振り込まれるのは、三週間後になる。精神的ダメージに加えて、経済的ダメージで、持ち堪えられそうもない。

――リーダーシップは、本物である自分が執り続けよう。さもないと、危険を招くのは避けられない――と、卓夫は考えた。

 人数が増え続けると、資金が枯渇する。複製たちに、仕事を持たせる必要があった。さらに、誰一人として「益田卓夫」を名乗って欲しくない。

「三夫と末夫には、職を探してもらう。今後も増え続ける可能性を考えると、住処も別々にしたい。日銭を稼ぐ必要があるので、申し訳ないが日雇いをしてもらう。それ以外の創意工夫はお前たちに任せる」

「卓夫の言葉を補足させてもらうと、同様の個体発生が続くなら、対策が必要になる。日雇いで稼いだ金で真っ先にスマホを購入してもらいたい。何人に増えようと、卓夫がいるここが本部だ。毎日の連絡は怠るな。電話がつながらなくても、メールやラインで情報交換できる」

「そうだなあ。連絡は毎晩、午後十時までにしてくれ。特別な変化がない限り、メールで送信してほしい。書く内容は、何か異変がなかったか。正体が露見していないかを中心にしてもらう。些末的な出来事は書くな。俺が送るメールは、必ず目を通せ」

 三夫と末夫は、渋々ながら部屋を出ていくのと、日雇いの職業を探すのを承諾した。卓夫は――自分が三夫や末夫なら反発した――と、想像していた。役割と意識の持ち方が、同じ個性を別のものにした。

 翌朝、卓夫、影夫、三夫、末夫の四人が目覚めると、二組敷いた布団から外にはみ出て四人の男が寝ていた。相似形の男は、卓夫を含めて八人になった。予想の展開なので、夜通し暖房を点けていた。今日の予定は、卓夫は中学校に出勤する。影夫は、学習塾からの合否の連絡待ちだ。三夫と末夫は新しい住まい探しと、職探しに出かける。

「新参者の四人が目覚めたら、彼らに説明し六人で出かけてくれ」

「ただし、家に出る時も向かう方向も、すべて別行動をするように……」

 卓夫は用意した注意書きのコピー七枚と、全員の当座の資金として十四万円を影夫に手渡すと、家を出た。

 中学校では、課外授業で各クラス担任が生徒を引率し「福岡市科学館」に出向いた。プラネタリウムでは、女性の学芸員が見事な語り口で、天井一杯に広がる星空を解説した。冬の星空はオリオン座の三ツ星や、おおいぬ座の恒星シリウスも観察できる。

 オリオン座の隣には、二つ並んだ双子座が煌めいていた。双子座はカストルとポルックスの伝説で知られている。神話では、兄のカストルはメッセニア王の息子で、弟のポルックスは全知全能の神ゼウスの息子だ。

 現実には、双子の父親が異なるケースは、一卵性では皆無である。カストルが戦死したとき、弟のポルックスはゼウスに兄と死を分かち合いたいと願い出る。神の子ポルックスは、本来は不死の命を授かっていたが、ゼウスは願いを叶え、双子の兄弟を天に上げて星座にした。

 太陽系を含む、天の川銀河は数ある銀河の一つに過ぎない。全ての天体の数は、地球上に存在する砂粒の数より遥かに多く、文字通り、天文学的な数値である。ビッグバン仮説では、我々の宇宙は百三十八億年前に誕生している。宇宙は高温高密度の状態から、大きく膨張し低温低密度へと爆発的に膨張し続けている。宇宙こそ、増加拡大の歴史を歩んでいた。

 現代の宇宙物理学では、ハビタブルゾーンと呼ばれる地球上に似た生物が生息できる領域が発見されている。惑星の表面に水が存在できる範囲を指している。半径四百六十億光年の宇宙空間に無数の星が存在する中で、我々人類は皆、この地球を選んで誕生した。卓夫は今更ながら、生徒とともにいて存在の不可思議に思いを馳せた。

――二十世紀の哲学者、ジャン・ポール・サルトルは逆説的に「人間は自由の刑に処せられている」と、主張していたが、俺たちは明らかに不自由の刑に処せられている――と、卓夫は考察した。

 夜になり、卓夫は終日家にいた影夫から「草薙から連絡があり、学習塾の採用が決まった」と、告げられた。三夫、末夫ら六人は家を出て行き、職場と住処を何とか確保していた。

「俺たちの分身だ。それなりに頭が働くからな……。ただし……」と、影夫は神妙な表情をした。「両親や弟夫妻に俺たちの正体が露見してしまった。管理人にも気づかれた可能性がある」と告げた。

「六人が出かける時に、家族とすれ違った。無論、一度に六人だと変装しても悪目立ちする。一人一人出るように仕向けた。最初の一人が、外に出たのが、卓夫が出勤した十五分後だ。これは、何とかやり過ごした。次に、外に出た末夫が父親に見つかり、『何だ、お前は……、まだ家にいたのか』と問い詰められた」

「それで、他の四人と再度、出くわして問い詰められたのか?」

「その通りだ。しかも、二度も会った」

「なるほど……。それで、管理人はどんな風に関係している」

「管理人は、何度もよく似た人間が出入りするのを見て、不審に思いエレベーター内部とエントランスホールにあるカメラ画像を再生し確認した。それを父親に見せた」

「家族だから、変装しても、姿かたちや仕草で分かるよ」

「それで、説明を求められ、家族にだけ実情を話した」

「驚いていただろ?」

「母親は、頭の整理がつかなくなり、蹲っていたよ」

「しばらく、そっとしておくべきだな」

「今のところ、俺たちを三人だと信じている。まだ、増殖するのは知らない」

「いずれにしても、説明が難しい問題だ」

       ※

 卓夫と影夫が中心になって、金曜日の夜、自分の複製たち全員にIDナンバーを告知した。卓夫たちは、本人を含むと三十二人に増えていた。

「IDナンバーは、お互いの自粛によるトラブルの抑制のために行う。ただし、互いをナンバーで呼び合わないのは鉄則とする。各自、人間的な名前を名乗り、アイデンティティーを失わないよう心掛けろ。さらに、支配・被支配の関係に立たないように注意が必要だ。俺と同じ頭脳を持つ諸君には、他人を抽象化して支配する危険や、道具のように扱うために生じるトラブルについては、理解できると確信している」

 卓夫はメールで全員に呼び掛けた。三十二人の男の内、東京に八人、大阪に三人、横浜に二人、沖縄に二人、名古屋に一人の計十六人が、住処を移転していた。

 さらに、卓夫は、今後の方針を伝えるため、明日、福岡市内にある忍者村の跡地に、集合するように追加メールを送信した。

「忍者村跡地は有名な心霊スポットだ。いつもなら、お前の考えは分かるが今回ばかりは、まったく読めない」と、影夫は首を傾げた。

「ここは、今は更地になっており、学校法人が土地を取得して管理している。心霊スポットだから人が恐れて近づかない。そこが狙い目だ」

「他人の土地だ。無断で使用できないだろ?」

「土地の保有者の学校法人の経営者は、校長の知り合いだ。連絡して、一晩だけ貸してもらった」

「俺たちで、心霊現象は無責任な連中が流している、ただの風聞だと証明しよう」

土曜日の朝、卓夫と影夫が共同生活する部屋に、また分身が二人増えていた。各場所で同じ現象が続いているとすると、六十四人に増加している。

 卓夫も影夫も、無限回数増加するとは考えていなかった。単細胞生物でも、同じ個体が無限に繁殖し続けるわけではない。一方で、予想が外れると十八日後、最初の増殖から数えて二十四日で千万人を超える。そうなると、国内のみならず、世界中でパニックになる。

 忍者村跡地には、レンタル会社から十六のテントと六十四の寝袋が届けられていた。各自、卓夫の指示に従って、弁当と飲料水を持参していた。

 予定の午後五時三十分には、遠隔地の者も含めて全員が集まった。卓夫は六十三人の彼の化身を前にして立つと、魂の震えを感じた。

――人は一度に一つしか考えられないと言うが、あれは嘘だ。自分の今の内面を探ると、無限繁殖への恐怖心、熱狂的な想い、遊園地の鏡の迷路「ミラーハウス」の中に存在するような混迷、珍奇なものを眺め見る時の滑稽感、多角的に自分を見る経験による細部への洞察、等々、様々な想念感情に思考が入り混じっている――と、卓夫は思量した。

 ウイルスや病原菌は、自己増殖する能力がないため、宿主を見つけて複製させる。卓夫は他の生物に寄生せずに、細胞分裂のように自己増殖を繰り返してきた。

 有性生殖による繁殖が、過去の歴史で人類進化に寄与したとすると、進化しない自分の分身が個体発生し続ける異様さは計り知れない。周囲が思う以上に、此処に集まる卓夫たち全員が怖れを感じてもいた。

 卓夫は分身たちに、同じ場所に集まった趣旨を伝えた。

「此処で、諸君の協力を得て、壮大な実験を行いたい」

 全員が静まり返り、卓夫を見た。卓夫には、出かける時の服装で影夫が何処にいるか分かったものの、他は誰なのか分からない。

 実験は個体が分裂増加するタイミングを観察し、原因を探るのを目的とした。六十四人の男は、十時にテントに入り交代で睡眠をとる。

「一つのテント内で、四人が交代で変化を観察し、事後に報告してもらう」

「実験の目的は何だ?」一人の男が、卓夫に質問した。

「増殖の瞬間の様子をとらえ、原因を分析する。此処にいる誰も、どんな変化がいつ起こっているのか知らない。寝ずの番は、仕事を持つ身には厳しい。大勢でやると、身体的負担を軽減できるし、共通の現象を見つけられる」

 実験は午後㈩時からスタートし、午前六時までの八時間かけて行われた。まず、各テントを四班に分け、午後十時~午前零時、零時~二時、二時~四時、四時~六時で、テント内の様子を観察する。観察結果は、日曜日の朝六時三十分に報告し合い、集計分析する予定だ。

 当然、日曜の朝には、六十四人が百二十八人になっている。各テントで四人が増えている状況だ。

 六十四人はテントに戻ると、晩飯を済ませ、実験のためにスタンバイした。実験では、いつ個体発生するか、増加分裂しない個体が存在するか、二人以上に増加するケースがあるか、睡眠との相関性はあるか、何者かが忍び込み細工をしていないかについて、観察し調査する方針が立てられた。

 卓夫は午後十時から午前零時の担当だ。

朝が来た。総勢百二十八人に増えていた。午前六時三十分には、各テントに眠り続ける四人×十六テント=六十四人を残し、目覚めている六十四人が集合した。

 卓夫は、自分のような人間に起きた変事で良かったと思っていた。稀代の悪人が百二十八人に増えていたら、どんな悪事を行うか予測が出来ない。抜け目のない人間は、自分によく似た存在を嫌う。いつ、寝首を掻かれるか分からない不安から来る感情だ。

 仲間内の抗争が起きても不思議ではなかった。目の前にいる六十三人の男は、他人を裏切るのを嫌悪する卓夫の分身たちだ。彼は、そこに救いを見つけられるように念じた。

 六十四人の男の経験をまとめると、増殖する瞬間に立ち会ったのは二十人だ。彼らは「午前零時ちょうどに増えた」と証言した。午後十時から午前零時の担当が十六人、零時から二時が十六人だ。目撃者が十六人でもなく、三十二人でもなく、誤差が生じたのは、第一班が二班を起こすタイミングの違いが原因だ。

 卓夫を含む二十人の男は「午前零時に、一瞬にして増えた」と、告げた。寝ている男も、起きている男も、自分の分身を同時に生み出していた。

 テレビの映像や、インターネット配信のドラマ映像のように、仮想現実の世界では同じ時期に、同一の番組に映るアクターの姿を視聴者は鑑賞している。同様に、午前零時にスイッチが入ると、卓夫の複製たちは倍に増えていた。

 百二十七人を前にして話していると、一人一人が別々の個性を持つ存在には見えなくなる。独裁者が群衆を眺め下ろしたときに、一人に一つの命の尊厳があるのを見失う。支配のためには、苦しめたり、貶めたり、傷を負わせたりするのに、痛痒を感じなくなる。

――そういう心理に似ていた。卓夫は、百二十七の視線を……、二百五十四の目を……怖れていた。

 午前八時になり、百二十八人に膨れ上がった。男たちは九時を過ぎた頃には、散り散りに帰って行った。

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