十六(終)

「日向さんは、お嬢さんに気があるんですよ」

「そうかなぁ?」


 陽の当たる縁側で、光里はおめいの言葉に苦笑いを浮かべた。

 鞠子と名を改めた吉が【日ノ元市】を去って、七日が過ぎた。

 光里は酷く残念に思ったが、あの子にはあの子の行く道がある。光里が甘える余地などないと、気を引き締め直した。

 満漸と鞠子は、事の次第を報告しに【加児かご宿】へ向かうようで、もちろん鰯丸も同行することになった。鰯丸はすっかり鞠子に惚れ込んだらしく、


「あたいはお嬢についていくでござんす。早速、旅の供をする許しを親分から頂戴せねば!」


 と張り切っていた。


「みつりさん、お世話になりました」


 旅装に身を包み、別れを告げる鞠子の手を、光里は優しく握った。


「鞠子さん。いつでも私の家に帰っておいで。旅に疲れた時でも、そうじゃない時でも、遠慮することなんてないからね。また一緒に美味い物を食おう」

「あい」


 師となった満漸は頷いた。


「近くに来れば、是非とも寄らせて頂こう」


 妖しの者だけでなく、人との繋がりも鞠子には必要だ。

 光里は旅立つ三人の後ろ姿をいつまでも見送った。

 それから賑やかだった家は一気に静まり返り、光里はなんだか心に穴が開いたようであった。早い話、寂しいのである。

 見廻りに出ても、「あそこで一緒に団子を食ったなあ」とか、「あそこの親子丼が好きだったなあ」など、ついつい思い出してしまう。

 あげくに、鞠子が一所懸命に書いた手習いの紙も捨てることができず、大事に文箱にしまってある。

 すっかり気が抜けてしまった光里を見かねて、おめいが言ったのが、先程の一言である。


 ――日向さんはお嬢さんに気があるんですよ。


 岡っ引きの大親分の手下てかを務める日向は、光里から事の次第を聞くと、なんの役にも立てなかったことを悔やんだらしく、「精進します」と頭を下げた。

 それからというもの、「なんぞ御用はありませんか」と時々光里の家を訪れるようになった。

「役人と縁ができたし、早く岡っ引きになろうと努めているんだろう」と光里は言ったが、おめいはそれだけではないと言い張る。


「少しでもお嬢さんとお近づきになりたいんですよ。絶対そうです」

「そうかなぁ?」


 光里は色恋にはとんと疎いから、よく分からない。

 ちなみに、光里が若い僧を追いかけ回し、捕らえた件についてだが、町では満漸の誤魔化した通りの噂が囁かれている。に騙され、子どもを攫ったそそっかしい坊主であったと。

「なんとも慌てんぼうの坊さんがいたもんだ」と町の人々は笑っている。光里にも「大変だったねえ」と声をかけてくれる。

 時折、「坊さんに一撃かましたあの猫はなんだったんだろう?」と尋ねてくる者もいるが、


「さあ……。鰯でも横取りされたんじゃないですかね」


 とお茶を濁すようにしている。

 けれども光里はそんなことより、満漸が鞠子に言った言葉が、未だ深く心に沁み込んでいた。


 ――〝そなたは、そなたであらねばならぬ〟か。


 光里が光里であるためには、槍が必要だ。

 ならば、鞠子が鞠子であるためには、妖しの者との関係が必要なのだろう。

 光里は「私ではなく、満漸殿があの子を引き取ってよかった」と改めて思った。鞠子にとっては、この【日ノ元市】での暮らしは窮屈かもしれない。

 それにあの満漸ならば、鞠子の良き手本となり、あの子が行きたい所まで導いてくれるだろう。

 光里はひと時の休息であればいい。またあの子たちが来た時には、美味い物をたんと用意して、精一杯もてなそう。そう決めた。


 ――父さんが父さんであるためには、秦野家が必要なんだろうな。なら、母さんにはなにが必要なんだろう?


 今度帰った時に訊いてみようか。あの母ならば、どのような答えが返ってくるのか、楽しみなようでいて少し怖い。

 ちなみに、おめいに尋ねてみると、


「改まって訊かれると難しいですねえ。……まあ、うちの宿六じゃないことだけは確かです」


 とのことだった。


 ――それにしても。


 鞠子が攫われた際、光里を導いてくれた髪の長い女についてである。

 彼女は満漸が影の捜索を依頼していたという、例の一軒家の占い師だったのだ。

 占い師は〝影の無い子どもが殺められようとしている〟と予見し、誰ぞに伝言を頼もうと思ったが、あいにく一軒家はみな出払っていた。そこで自分の足を動かし、ひいひい言いながら光里の元まで駆けつけてくれたのだという。

 鞠子が無事だったのは、彼女のおかげだ。光里は是非とも礼がしたいのだが、妖しの者が集うという一軒家の場所など知らず、どうしたものかと悩んでいるのである。


 ――哲愁殿に頼むという手もあるか。


 すべての事に決着が着き、寺を後にしようとした時である。石段まで見送りに来てくれた哲愁がふと尋ねてきた。


「しかし秦野殿。影の無い子どもを見つけた際、なぜ私どもを頼って下さらなかった。自分で言うのもなんですが、ここ【日ノ元市】において、人の理解を超えた事象にまつわる相談所そうだんどころとして一番有名なのは、この寺なのですが」

「ああ、えっと……」


 光里は言い淀んだが、正直に打ち明けることにした。


「その、眉唾ものだと思っておりまして……」

「……」

「この世に起こる不可思議な事、あやかしや物の怪に至っても、すべては人の心の内にあると思っておりました。ですから、この寺の噂は聞こえていましたが、惑う心を静めるすべに長けた場所であると、勘違いをしておりました。不明をお詫びします」


 光里は頭を下げた。すると、哲愁がなにかを言う前に、満漸が声を立てて笑った。


「がっはっは! 光里殿、そなたはやはり大人たいじんである! そなたが振るう槍の行く先が、儂も楽しみになってきたわ!」


 満漸は「がっはっは!」と笑いながら、鞠子と共に石段を下りていった。

 哲愁は優しい笑みを浮かべると、光里に言った。


「秦野殿の考えが間違っているわけではありません。人の心が見せる摩訶不思議など、この世にはしょっちゅうございます。

 しかしながら、貴殿のようにどこまでも真っ直ぐな心根を持ったお方は珍しい。その真っ直ぐさ、どうか大事にして下さい」

「はあ」

「また妖しの者に関する事でお悩みになった際は、是非とも私どもをお頼り下さい。この哲愁、いくらでも力を貸しましょう」

「ありがとうございます」


 光里は縁側で茶を飲む。


 ――哲愁殿なら一軒家の場所も知っているだろうし、いっそ頼ってみようか。


 けれども、光里はあの占い師に直接礼を言いたいのだ。

 あの時は慌てていて相手を見る余裕などなかったが、思い返してみれば、歳の頃は光里と同じか少し下ぐらいであった。長い髪は乱れてはいたもののつややかで、からすの濡れ羽の如く美しかった。


 ――けっこう可愛い顔してたんだよなぁ。


 今度はきちんと会って、話がしてみたい。

 光里がつらつらと考え事をしていると、縁側の影にぴょこんと人の頭が飛び出した。まだ子どもの影である。おまけに、影の本体がどこにも無い。

 ということは。


「おや、吉さん。どうもこんにちは」


 影の吉はブンブンと腕を振った。なにか手に持っているようだ。

 光里が手を差し出すと、吉は光里の影に届け物を渡した。すると、本体である光里の手の中に、まるで手妻のように紙包みが現れた。

 光里は驚いたものの、「ありがとう」と吉に礼を言い、早速中を検めてみた。畳まれた紙が二枚入っている。一枚目は、満漸からのふみであった。

 曰く、〝影の吉は、人や妖しの者よりよっぽど速く道を行くことができる。よって伝令として文を託すことにした〟と。


「ふんふん。吉さん、大活躍だ。」


 影の吉は腰に両手をあて、えへんと胸を張った。

 ちょうどその時、急須の茶を淹れ替えてきたおめいが現れた。

 子どもの影を見ると仰天したが、「満漸さんからの文だ」と光里が言うと、そちらに関心が移ったらしい。縁側に盆を置くと、光里が広げている文を覗き込んだ。


「あらあら。お嬢さん、あの子は元気ですか?」


 おめいはおめいで、鞠子のことを案じているのである。


「ああ。無事、【加児宿】に着いたって。今はそこの宿で世話になっているらしい」


 満漸はまず鞠子に、手習いと共に、術やしゅを扱う上で基礎となる知識を教え込んでいるという。やはり鞠子は才があるらしく、覚えが早い。将来が楽しみだ、と記してある。

 そして鰯丸についてだが、かの猫又は【加児宿】の親分に「鞠子の守りを続けたい」と懇願した。親分は「そう言うだろうと思った」と許しはしたものの、ひとつ条件が付いた。


「鰯丸。あんたはまだ半猫前の未熟者だ。そんなことでは、鞠子ちゃんの修行の妨げにしかならない。せめて人に化けられるようにならなくちゃあ、旅の供に加わるなんてもってのほかさ」


 そして、親分は目を光らせ、にたりと笑った。


「幸いなことに、あんたにはこの親分がついてる。きっちり仕込んでやるから安心しな」


 と毎日親分にしごかれているという。


 鞠子も鰯丸も、しばらくは【加児宿】に逗留し、勉学に励むことになるだろう、と満漸は記している。


「ははあ」


 光里は槍を始めたばかりの頃を思い出した。見るもの、聞くもの、触れるもの、すべてが初めてのことであり、戸惑いつつも、楽しかった。

 鞠子も、そのように楽しんでいたら良いと思う。

 ……鰯丸はまあ、大変そうだが。


「まっ、元気そうでなによりだ」


 文を閉じると、おめいが「お嬢さん、もう一枚の紙はなんでしょう?」と声をかけてきた。


「さあ。なんだろうね」


 広げてみる。


「あらあら、まあまあ」

「おやおや。……ふふふ」


 半紙には、拙い字で大きく〝まりこ〟と記されていた。





(第一話「影遊び」――了)

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五芒星まにまに奇譚 小浮あまお @amao-kouki

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