未来
旭は、自宅のベランダから満天の星空を見上げた。
秋の夜風が、心地よく頬を撫でていく。
「気持ちいいな、瑞穂」
空へ向けて、笑いかけた。
瑞穂は、ひと月ほど前に他界した。
ついこの間まで元気そのもので、噂のご長寿イケメンだった。
秋の初め、ちょっとした風邪をひいたのが原因になった。
「先に、上に戻って待っておる」
苦しい息の下で、彼は旭の手をしっかりと握って、そう微笑んだ。
二人で共に過ごした時は、あっという間だった。
まるで打ち上げ花火のようだ。
高く空へ登って弾けた眩しい火花の中を、瞬く間に走り抜けてきたような。
そんな、呆気ないほどの時間だった。
一緒に通り抜けてきた光と闇が、旭の瞼にまだ輝き続けている。
枕辺でボロボロ泣いて、そうでなくても苦しい瑞穂を困らせてしまった。
けれど。
身体は離れても、彼の温もりは今も変わらぬまま、旭のそばにある。
彼が天へ戻ってからも、空にはいつも瑞穂の気配が満ちている。
遙か上空から、絶え間なく自分を包む眼差しが感じられる。
もう、涙は止まった。
遠からず、また彼に会える。
また、彼の首筋に、思い切り両腕を回せる時が来る。
「……あれ?
瑞穂、今夜は何かいいことでもあった?」
ふと、空から降る温かな眼差しに、キラキラと眩しいほどの輝きが加わった気がして、旭は満天の星空へ瞳を上げた。
「旭」
自分を見つめ、はっきりとそう呼ぶ声がする。
無数の星の瞬く夜空へ、旭は柔らかに微笑んだ。
*
「じい! 今日はこの物語の続きを読んでくれ!」
朝餉を終えた瑞穂の居室に、勢いよく男の子が駆け込んできた。
「これ、
慌ただしく後を追いかけてきた鴉が、慌てて男の子を嗜めた。
「だって、シワだらけで髪も真っ白くて。瑞穂じいであろう?」
「ははは、構わぬ、鴉」
軽い笑みで鴉を制しながら、瑞穂は和穂へ向けて優しく微笑んだ。
「和穂殿、おはようございます。はい、絵草紙の続きは後ほどお読みいたしましょう。その前に、茶を一服だけいただきとうございます。少しだけお待ちくださいませ」
「ん、わかった。早う物語の続きが知りとうてならぬ。待っておるぞ」
「和穂、物語もよいが、その他の学問もあるのだからな。しっかり瑞穂様の講義を聴くのだぞ!」
「そう何度も言わずとも、わかっております父上! 蒼鷺、
厚い絵草紙を抱え、和穂と呼ばれた男の子はパタパタと部屋を出て行った。その小さな背を、瑞穂と鴉は微笑ましげに見送る。
「和穂殿は、実に覚えが早いな。どんなこともすぐに吸収し、理解してしまう。行く末は立派な雨神となろう」
「いや、どうにも腕白で困っております。いつも元気一杯で度胸の良いところは、母親似でございますな」
鴉が苦笑いを浮かべながら瑞穂に答えた。
「みつき殿は、大層優れた雨神となられたな。元より明るく聡明な人だが、揺るがぬ神として任務をこなせるのは、そなたの夫としての支えがあってこそであろう。
鴉も、今や押しも押されもせぬ雨神の夫君であるな」
「有り難きお言葉にございます」
すっかり父親らしい落ち着きを醸した鴉は、少し照れたような顔をしながらも昔と変わらぬ佇まいで姿勢を整え、清々しい所作で瑞穂へ額を伏せた。
和穂への一日の講義を終え、夕餉を済ませた瑞穂は、昔のままの艶やかな朱塗りの欄干へ立った。
秋風が、心地よく頬を撫でていく。
ふと、満天の星空を貫いて、何かの気配が自分に近づいてくる。
一瞬体を強張らせて身構えたが、自分に害を加えるものではない気配を感じ取り、瑞穂は構えを解いて注意深く目の前の闇を見据えた。
ふわりと、小さな光が灯った。蛍だ。
静かに差し出した瑞穂の掌の上で、蛍はふわふわと浮遊しながら青白い光を点滅させる。
「神の世へ戻ったか、瑞穂」
その青い光が、瑞穂の脳に話しかけた。
紛れもなく、初穂だ。
瑞穂はふっと淡い笑みを浮かべ、答えた。
「大変お久しゅうございます、初穂様。
はい。下界で人並みに老い、ひと月ほど前にこちらへ戻りましてございます」
「まだ百年も経たぬ間に、仙人のような姿になっておるの」
「人の時間は、驚くほど早く過ぎゆくものにございます。されど、人としてはなかなかの長寿であったことは、大いに幸いでございました。
——旭をひとり残してこねばならなかったことが、身を切られる程に苦しうございましたが」
「……おぬし達のことだ。その辛さはいかばかりであったろう」
初穂の労わるような呟きに、瑞穂は小さく頷いた。
「去り際に、旭をあれほど泣かせてしまったことが、口惜しうてなりませぬが——固く約束してまいりました。先に上に戻って待っておる、と」
しばしの沈黙の後、初穂が静かに問いかけた。
「で、瑞穂。今はどうしておる」
「はい、懐かしいこの城にて隠居暮らしにございます。
みつき殿と鴉が
「神として何も為さぬまま隠居か」
冗談めいた初穂の言葉に、瑞穂も小さく笑みを返した。
「過分な幸せにございます。私は神の地位を捨てた愚か者にございますから」
「神の世を捨ててまで赴いた下界は、どのような場所であったか。
やはり、闇を這うような凄まじい場所であったのか」
「——……何とも摩訶不思議な場所にございました。
この上なく苦しく、またこの上なく甘い場所にございました」
続きを促すように、蛍の灯がふわりと明るくなった。
瑞穂は静かに言葉を繋ぐ。
「悩みなく穏やかな場所など、人の世にはどこにもございませぬ。神々の采配は、恐ろしいほどに理不尽で気まぐれにございますゆえ。
人は、何の力も持たず、何の保証もなく、ただひたすら光を求めて闇を手探りするのみにございます。
だからこそ、信じ合える者と手を繋ぐことが無上の幸せなのだと。時に行き違い、
神々から見れば、私の人の世での生は、ただ泥に
されど、愛する者と共に歩んだ喜びの深さは、誰に理解される必要もありませぬ。私と旭だけが知っていれば、それで良いのでございます」
「——……そうか。
そなたから左様な言葉を聞けて、安堵した」
一つ息をついた初穂の声が、心なしか引き締まった。
「して、ここから先も、おぬしは旭殿との結びつきを追い求める所存か」
「……」
「旭殿が人の生を終え、再びおぬしのそばへ戻るにせよ、いつまでもここで二人して隠居というわけにもいかぬ。
遠からず、おぬしも旭殿も、再び新たな命を充てがわれ、何らかの身体を得て下界に誕生することとなる。その時は、旭殿と共に生まれ変わることは叶わぬ。新たな身体に使い古した記憶を残すわけにいかぬことは、おぬしも存じておろう」
「——無論、承知しております」
俯いた瑞穂の昏い眼差しを受け止めるように、蛍が静かに光る。
しばしの静寂を破り、初穂が再び言葉を発した。
「——そうまでしてただ一つの愛を欲するそなたに、頼みがある」
瑞穂が、ふと顔をあげた。
「頼み、とは?」
「私の今手掛けている新たな星を、私と一緒に創ってはくれぬか。
新しき神としてな」
「……新しき神……?」
「そうだ」
蛍は、大きく頷くかのように強く輝く。
「この宇宙に、果たして悲しみのない星が創れるのか。
やってみたいとは思わぬか。
私は、それを試してみたい。力を尽くしてな。
愚かなほどに愛を求めるそなただからこそ、是非とも力と知恵を貸して欲しいのだ。この星のような不幸を背負わぬ星を創るためにな」
「…………」
瑞穂の指が微かに震え、やがてしっかりと拳が握られた。
夕暮れの湖のようだった瞳に、新たなさざ波が広がっていく。
「——そのお話、考えてみとうございます。
初穂様。この話をお引き受けする際には、一つ条件をお聞き入れいただきたいのですが」
「申してみよ」
「旭を、共に連れて参りとうございます。新しき星に」
初穂は、ふっと小さく息を漏らすように答えた。
「もとより、そのつもりだ。
この話は、むしろ旭殿抜きでは成り立たぬ。
旭殿がいなければ、おぬしは腑抜けだからの」
クスリと笑うような初穂の返事に、瑞穂は大きく目を見開いた。
「そなたと旭殿が参れば、さよも喜ぶであろう。新しき星の海には、さよと私の子供たちが楽しげに泳ぎ回っておるぞ」
「——ありがとうございます、初穂様」
小さな蛍に向け、瑞穂は深々と頭を垂れる。
感謝を伝える声が、微かに震えた。
「そういえば。おぬしの念を込めた
「……齢分の酒、にございますか。懐かしゅうございます。
されど、私も旭も既に老いた身。酒はあっても最早……」
「瑞穂。何をたわけたことを申しておる?
齢分の酒は、契りを交わす二人で命を等分するのみならず、神の子を宿すための若さをも蘇らせる。——おぬし、それを知らぬのか」
その言葉に、瑞穂は驚愕を露わにした眼差しを蛍へ向けた。
「——……それは……
それは、誠にございますか」
「当時のおぬしと旭殿の齢分は成らなかったゆえ、酒の呪力はそのまま保たれておる。改めて齢分の儀を執り行うことにより、酒に術を施した当時の心身が双方に戻るであろう。
私の星へ来る際は、あの梅酒を必ず持って参れ。
今度こそ滞りなく齢分を行い、そこから二人で始めるのだ。
私たちも見とうてならぬ。おぬしらが創る新たな世界をな」
ざわざわとさざ波を立てていた瑞穂の瞳が凪ぎ、やがて眩しい
瑞穂は、手の上の蛍へ揺るがぬ声で答えた。
「承知仕りました。
ここへ戻った旭の疲れが癒えましたら——そして、旭がこの話に頷いてくれたならば、すぐさま垓にて出立いたします。
旭もまた、迷わず頷いてくれるに違いありませぬ」
「楽しみに待っておる」
蛍は、伝えるべきことを伝え終えるとすっと空へ浮き上がり、その光はすいと闇へ溶けた。
新たな力に満ちた瞳で、瑞穂は遙か下界の愛おしい面影を真っ直ぐに見下ろした。
満天の星の
〈了〉
雨男と雨の神 aoiaoi @aoiaoi
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