ミリオンダラーベイビー
里市
ミリオンダラーベイビー
◆
《ねえ、さあちゃん》
電話越しに、聞こえてくる。
あの娘の声が。吐息が。
絞り出すような、言葉が。
これから会う約束をしていた友達が、何かを訴えかける。
スマートフォンを握る、私の手が。
強張るように、微かに震える。
《あたしさ、ずっと悪いことしてたんだよ》
メイコちゃんは、親友だった。
たった一人の、私のお姫様だった。
《お金、貰っててさ。男の人達から》
震える声が、スピーカー越しに届く。
懺悔するような声が、揺れる。
《その人達はね、あたしと遊びたいの》
ぽつり、ぽつり、と。
メイコちゃんは、私に打ち明ける。
《だから、お金を渡すの》
自分のことを。自分のすべてを。
けれど。きっと、それは。
《それでね。よく遊んでくれるおじさんが……しつこかったの》
メイコちゃんが、本当に伝えたいことじゃなくて。
私は電話を挟んで、この娘に縋られていて。
《いつも、いつも、いっつも、付きまとってて……》
それで、ホテルで酷いことされそうになって、その人を―――。
そう呟いたところで、メイコちゃんは声を詰まらせた。
そして、啜り泣くような声が耳に入る。
あの娘の嗚咽が、スピーカー越しに響く。
《ごめん、ごめんね、さあちゃん。本当に、ごめんね―――》
ねえ、メイコちゃん。
ねえ。どうしたの。
ねえ。泣かないで。
何があったかなんて、聞きたくない。
けれど。メイコちゃんに泣いてほしくない。
ひどく、ひどく、哀しくなるから。
私は茫然と、不安と焦燥を抱えて。
《……さあちゃん》
やがて、メイコちゃんは。
縋るように、ぽつりと呟く。
《会いたい、すぐに》
何があったかとか。
何が起きたのかとか。
そんなことを聞く余裕なんてなかった。
メイコちゃんが、取り返しのつかないことをしてしまったとか。
それを考えるだけの余地も、私にはなかった。
いま、大事なことは。
メイコちゃんが、泣きじゃくってて。
私は今、“いつもの待ち合わせ場所”へとすぐに向かえる。
それだけのことだった。
◆
きらきらと、光っていた。
街灯。照明。看板。ネオンサイン。
星空みたいに、眩しくて。
星空みたいに、夥しくて。
星々の葬列のように、途方もなかった。
私達は、そんな目映い夜を。
二人きりで進んでいく。
私――“サチ”は、“メイコちゃん”に手を握られて。指先を絡められて、手と手を結んで。
メイコちゃんに引っ張られるように。
歓楽街の大通りを、走り抜けていく。
あの時、ふいに電話で呼ばれて。
待ち合わせ場所の路地へと、急いで向かって。
そこでメイコちゃんが、蹲るように涙を流してて。
私を見てから、安堵したように泣き止んでくれて。
それから、メイコちゃんは。
私の手を取って―――ただ「行こう」と告げてきた。
それから私は呆然としたまま、メイコちゃんに手を引かれて。
夜の新宿を、二人で駆けていた。
眼鏡越しに覗くこの街は、いつだって眠ることを知らない。
ぎらつくような、大都会の海は。
ちっぽけな私達を飲み込んで、ぷちりと潰してしまいそうで。
胸の内に込み上げる動揺と不安は、呆然と揺らめいていた。
フリルやレースで彩られた黒いワンピース。
黒革のリュックに、一際目立つ厚底のブーツ。
青紫のインナーカラーが入った、黒髪のツインテールを揺らして。
ぱっちりと涙袋を膨らませた目元を、赤く腫らせながら。
メイコちゃんは、足早に進んでいく。
いつ見ても、綺麗で―――可愛くて。
今にも夜に溶け込んでしまいそうで。
この街のどんな景色よりも、きらきらしてて。
こんな状況だというのに、私は。
彼女の姿に、目を奪われていた。
メイコちゃんみたいに可愛くなりたい。
メイコちゃんの隣にいたい。
私はいつも、そんな想いばかり抱いていた。
メイコちゃんは、憧れのお姫様だった。
私達は、只管すれ違う。
過ぎ行く人達を尻目にしていく。
気が遠くなるような喧騒を、何度も振り切っていく。
スーツ姿の人達とか。
友達連れの人達とか。
観光客らしき人達とか。
カップルらしき人達とか。
居酒屋か何かのキャッチとか。
あるいは、ちょっと怖そうな人達とか。
老若男女の見知らぬ“群衆”を、ただの“背景”にして。
私の心と感覚は、春風と共にメイコちゃんに攫われていく。
なんだか、駆け落ちみたいだ―――なんて。
ふいにそんなことを考えてしまう。
ひどくロマンチックで。
映画かドラマみたいで。
なのに、酷く不安に駆られる。
胸の奥底。心の内側が。
波のように、ざわめている。
そうして私は、されるがままに導かれて。
手を繋ぎながら、繁華街を駆け抜けていく。
バイト帰り。高校の白いセーラー服姿で。
私は、“お姫様”に連れられていく。
――ねえ。メイコちゃん。
私は、喉から声を絞り出す。
握り締められた右手の温もりを感じながら。
自身の手を引きながら前を歩く相手に、呼びかける。
けれど、か細い言葉は街の狂騒に掻き消されて。
私は相も変わらず、メイコちゃんと二人で進み続ける。
街は、パレードのように明るくて、きらびやかで。
だけどきっと、その幾つもの光は。
私達のことなんて、これっぽっちも興味もないんだろうと。
否応なしに、悟ってしまった。
◆
ほんの数ヶ月前。
メイコちゃんとは、この街で出会った。
小さい頃から、内気で臆病な性格だった。
親しい相手なんて、全く居なくて。
図書室の片隅で、静かに本を読んでいる方で。
いつだって、何処か浮いている。
何かに打ち込めるほどの情熱もなくて。
周りの空気に溶け込むこともできなくて。
皆の輪に入る勇気なんて、持てなかった。
そんな性格のことを、お母さんから色々と言われ続けて。
高校に入ってからは、少しでも変わりたくて。
けれど、結局不安で足が竦んで。
内気なままの自分が、嫌で仕方なくて。
気が付けば、ストレスを溜め込んでて。
そうしてある時、お母さんと大喧嘩をした。
些細なきっかけだったし、今となっては大したことでもなかったけど。
その時、私は家を飛び出してしまった。
高校生にもなって、家出を敢行して。
訳も分からずに都会へと行って。
行く宛もなく、一人で彷徨って。
帰るに帰れなくて、途方に暮れてた時。
私は、メイコちゃんと出会った。
独りぼっちだった私を心配して、話し掛けてくれた。
それから、メイコちゃんと交流ができて。
休みの日とか、学校帰りとか。
予定の空いてる時に、二人で遊ぶようになった。
買い物に行ったり、美味しいものを食べたり。
カラオケで一緒に歌ったり、お揃いのネイルを塗ったり。
私にとってメイコちゃんは、生まれて初めての親友だった。
大きな交差点の、横断歩道。
沢山の人達が、信号を待ってて。
その人混みの中に、私達は紛れ込む。
視線の先。無数の車が行き交う。
閃光のような灯りが、幾つも通り過ぎていく。
メイコちゃんは、私の手をギュッと握っていた。
その指先は、微かに震えていて。
恐怖や動揺を、隠しきれていなくて。
思わず私は、メイコちゃんの顔を見ようとして。
その直後に、信号は青に変わった。
それからメイコちゃんは、再び進み出す。
私の手を引いて、人混みをかき分けるように。
流れに乗せられるように、規則正しいリズムで皆は歩いてたけれど。
私達だけは、急かされるように慌ただしかった。
横断歩道を越えて、ドラッグストアやアウトドア店などが連なる通りを進んでいって。
メイコちゃんと何度も通った可愛い服のお店も、あっという間に擦れ違って。
昔は青果店だった居酒屋も通り過ぎて。
次の横断歩道を、青信号が点滅している最中に急いで突き抜けていく。
やがて駅の東口前の広場に辿り着き。
あちこちを行き交う人の流れを、あるいは待ち合わせや談笑で立ち止まる人々を、足早に擦り抜けながら。
私達は、地下の駅構内へと通じる階段を降りていく。
私は、手を引かれながら。
メイコちゃんの後ろ姿を見つめて。
ある思いを抱く。
メイコちゃんが普段、何をしているのか。
私は今まで、聞いたこともなかった。
メイコちゃんは、自分から話そうとしなかったから。
だから私も、無理に聞き出そうとは思わなかった。
こうして知ることになるなんて、思う由もなかった。
彼女が送ってきた人生の意味を、ようやく痛感することになった。
「メイコちゃん」
けれど。だからこそ。
私は、思わず。
「メイコちゃんは、どうして」
今、聞けなかったら。
きっと二度と、知ることができないと思ったから。
「どうして、ずっとつらいことをしなきゃいけなかったの?」
手を繋いで。
地下の構内を往きながら。
私は、そんなことを問いかけた。
メイコちゃんは、振り返らなかった。
沈黙して。何か、答えを考え込んで。
「……なんでだろ」
やがて困ったように、そうぼやいた。
自分でも答えがわからない。
そう言いたそうな素振りで。
「なんでだっけ。わかんなくなっちゃった」
乾いた苦笑いとともに。
メイコちゃんは、呟く。
その言葉の意味することを。
私は、それ以上問い質せなくて。
ただその後ろ姿を、見つめることしか出来なかった。
◆
メイコちゃんは、私のお姫様だ。
初めて出会った時から、目を奪われた。
メイコちゃんは、私の手を引いてくれた、掛け替えのない人だ。
そして今も、こうして。
メイコちゃんと手を繋ぎながら。
メイコちゃんに導かれながら。
駅の地下構内で、入り組んだ通路を二人で通り抜けている。
今の私には、友達がいる。
上手く馴染めなかった学校で。
一緒に話せる相手がいる。
ずっと不安だった。
ずっと怖かった。
小さい頃、私はもっと浮いてて。
周りの子達から、白い目で見られて。
気が付けば、虐められたりして。
抱えていた気持ちを、お母さんに分かってもらえなくて。
都内に転校して、一からやり直すことは出来たけど。
それから、ずっと。
私は、誰かと関わることを避けていた。
親しい相手を作ることを、諦めていた。
そんな日々を、何年も過ごして。
孤独というものに、浸り切っていた。
不幸と呼べるほど、悲惨でもない。
挫折と言えるほど、閉塞もしていない。
ただ、漠然と―――なんの味もしなくて。
ぽっかりと満たされないまま、心が浮遊していた。
だから、私は。
無意識に、夜に惹かれたのかもしれない。
街の喧騒の中で、孤独になりたかったのかもしれない。
“皆の中での独りぼっち”よりも、その方がずっと気楽だから。
けれど、私はメイコちゃんと出会った。
メイコちゃんと、友達になった。
本当に、ただ偶然みたいな出会いだったけど。
それでも私とメイコちゃんは、確かに引かれ合って。
そうして、色々なものを貰った。
化粧を教えてもらって。
お洋服を教えてもらって。
友達がいることの楽しさを教えてもらって。
自分はもっと、胸を張っていいことを教えてもらって。
だから私は、踏み込む勇気をもらった。
学校で小さな友達同士のグループに入って、お話できるようになった。
まだ大きな輪に馴染むことは、不安だけれど。
それでも自分のことを、もっと好きになれたから。
だからこそ、前を向けるささやかな勇気を得られた。
私は、もう孤独なんかじゃなかった。
喧嘩しがちだったお母さんとも、少しだけ仲が良くなった。
メイコちゃんのことは、“仲のいい友達”としか話せていないけれど。
時折ついつい帰りが遅くなることを、不安がられたりもするけれど。
それでも友達ができて、変わることのできた私のことを、安心したように見守ってくれた。
それまでは、いつだって何かを諦めていた。
生きてる意味が分からない、とか。
そういう大それたことじゃないけれど。
これからの人生も、私はぼんやりと歩んでいくんだろうと。
そんな漠然とした想いを、抱え続けてきた。
メイコちゃんと会うまで、ずっと。
駅ビルと地続きの通路を抜けて、駅の改札に辿り着いて。
そのまま二人でそそくさと改札機を通過していく。
地下の改札内は、昔よりはずっと分かりやすくなったらしいけど。
私からすれば、今でも迷路みたいに見えてしまう。
入り組んだトンネルのような通路を、メイコちゃんに連れられながら通り抜けていく。
メイコちゃん。
これから、どこに行くの?
私は、そう問いかけた。
遠くに行けるやつ。
どれだっていい。
メイコちゃんは、ただそう答える。
駆け上がる。
二人で階段を、早足で。
顔を上げてみれば。
駅のホームの光が見える。
道標のように、私達の道を示して。
逆光のように、メイコちゃんを照らす。
私達は、何処へ向かっていたんだろう。
いま駆け上がってるのも、ひょっとすると天国への階段だったのかもしれない。
そんなことを、一瞬だけ考えてしまう。
このまま電車に乗ってしまえば。
メイコちゃんは、もう悪いことなんてしなくて済むのかな。
そして―――私は、どうなっちゃうんだろう。
ここから、先。
メイコちゃんに手を引かれて。
それから、何が待っているんだろう。
どうにか、わかろうとしても。
靄がかかったように、理解を拒んでしまう。
「さあちゃん」
階段を、上がって。
メイコちゃんが、ぽつりと呟く。
「映画で、あったよね」
私にしか聞こえないような声で。
「悪いことをしたカップルが、二人で遠くまで逃げるやつ」
今にも、泣き出しそうな顔で。
「駆け落ちみたいにさ、何処までも一緒で――」
メイコちゃんが、言葉を紡ぐ。
「愛を誓い合いながら、彼方まで車を走らせるの」
そして、メイコちゃんは。
「ねえ、さあちゃん」
私を、見つめて。
「一緒にいたい」
一言。そう告げた。
メイコちゃん。
私の友達で。
私のお姫様で。
私の――――。
だからこそ、私は。
メイコちゃんに手を引かれて。
ここまで来てしまった。
そして。私の奥底から。
ほんの少しの希望と。
眼の前の友達への想いと。
何故だか、わからないけど。
どうしようもない不安が、込み上げた。
ふいに現実へと引き戻されたように。
今の自分が置かれている状況を、見つめてしまった。
私は、そのとき。
何も答えられなくて。
ただ、ぎこちなく。
微笑むことしかできなかった。
◆
夜の暗がりと、白い照明。
何人も並んでいる、駅のホーム。
やがて来る電車を待って。
私達は、列の一番後ろに並ぶ。
すぐ傍まで寄って、手を繋いだまま。
導かれるままに、ここまで来てしまった。
今すぐ会いたい。そんなメイコちゃんの電話から始まって。
私とメイコちゃんは、手を繋いで。
ぎらつくように輝く、夜の新宿を駆けて。
そうして駅のホームで二人、じきに来る電車を待ち続けていた。
すぐに乗れて、少しでも遠くに行ける列車。
乗り継いでいけば、都心から離れられる路線。
メイコちゃんは、この街から逃げようとしていた。
これから、私は。
メイコちゃんと、二人で。
何処か遠いところへと行くことになる。
私はさっき、メイコちゃんに聞いた。
どうしてずっと、つらいことをしなきゃいけなかったの。
―――なんでだっけ。わかんなくなっちゃった。
それが、メイコちゃんの答えだった。
私の知らないところで。
メイコちゃんは、ずっと苦しんでて。
本当は辛い思いをしていたのに。
そういう生き方しか、できなくなってて。
そのことを、否応なしに理解してしまった。
だから。
メイコちゃんが、何をしてしまったのかも。
既に、わかっていた。
震える指先と、泣き腫らした顔が。
全てを物語っていた。
そんなメイコちゃんを見るのが辛くて、悲しくて。
この娘から縋られて、私は迷わず一緒にいることを選んで。
そうして二人で、此処まで来たのに。
ああ。
この気持ちは。
何なんだろう。
空は、真っ暗だった。
眩い街とは大違いで。
星の一つも、見えやしなかった。
掌から伝わる温もりとは、裏腹に。
夕焼けのような哀しさが、浮かんでくる。
隣にメイコちゃんがいるのに。
まるで昔みたいに、寂しくなる。
たった数分。
それだけの時間が、永遠に感じる。
思いが横たわる。
閉塞と、悲嘆。焦燥と、不安。
――――こわい。
そんな思いが、揺れる。
これから、どうなるんだろう。
私は、どうなっちゃうんだろう。
わからない。なにも、わからない。
だからこそ、こわくて。
そして。
駅のアナウンスが、響き渡る。
それから間を開けずに、警笛の音が鳴る。
私は思わず、視線を上げる。
電車が、ホームへと到着する。
それは、ゆっくりと速度を落として。
少しずつ、少しずつ、停車へと向かっていく。
来た。来てしまった。
胸の内から、ゆっくりと。
ここから先を恐れるような気持ちが。
ふいに、湧き上がってくる。
電車が、ホームへと停まる。
一斉に、扉が開く。
列を作っていた、眼の前の人達が。
次々に、乗車していく。
メイコちゃんは、変わらず。
私の手を、握っていて。
先程までと同じように。
手を引きながら、歩き出そうとした。
――――走馬灯のように。
メイコちゃんとの時間が、脳裏をよぎる。
お母さんと喧嘩をして。
思わず家出をして、夜へと向かって。
訳も分からずに、街を彷徨って。
あの路地裏で、ふいに声を掛けられて。
それからメイコちゃんと、打ち解けて。
二人で一緒に、会うようになった。
物心付いてから、初めての親友だった。
この夜の街で、私達は引かれ合った。
メイコちゃんがいなかったら。
私は、自分の歩き方を見つけられなかった。
メイコちゃんがいなかったら。
私は、今でも夜に迷っていた。
私の人生は、きっと。
この出会いに、貰ったもの。
掛け値のない、愛しい人。
どんなお金よりも、ずっと価値がある。
けれど。
この先には、何が待ってるんだろう。
ここから先に、未来はあるんだろうか。
メイコちゃんは、私を引き込んで。
果てのない道へと、誘っている。
そう思って。そんな恐怖を抱いて。
私の中に、ひとつの思いが浮かび上がる。
私の今は、私のもの。
他でもない、私だけ。
メイコちゃんのものじゃ、ない。
扉へと、向かっていく。
私とメイコちゃん。
二人で、進んでいく。
駆け落ちみたいに。
彼方まで、一緒に。
ここから先は。
取り返しがつかない。
◆
「あ―――――」
メイコちゃんが。
電車へと踏み込もうとした。
その瞬間に、私は。
手を、離した。
私が。私の方から。
メイコちゃんの手を。
結んでいた指先。
手のひら越しの体温。
私達を繋いでいたものが。
ぷつりと、絶たれる。
私とメイコちゃん。
二人を結びつけていた、たった一つ。
手と手が、分かたれて。
ほんの数秒間。
永遠のような時間が、流れた。
◆
呆然と、意識が今を見つめる。
自分のしたことを、突き付けられる。
なんで。
私は、自分に問いかける。
わかっていた。
答えなんて、とっくに。
どうして手を離したか、なんて。
わかりきっている。
だって、ここで手を離さなかったら。
私は―――――ああ。
私ね。
やっと、前を向けたんだよ。
もう、独りじゃなくなったんだよ。
だから、メイコちゃん。
そうして、振り返ったメイコちゃんは。
目を丸くして。茫然と、私を見つめて。
その顔に、動揺を浮かび上がらせて。
けれど。それから、僅かな間を置いて。
何かを悟ったように。
何かに気付いたように。
そして―――何かを受け入れたように。
寂しそうに、私へと微笑みかけていた。
その瞬間。
私は、思わず声を零した。
このとき、自分がどんな顔をしていたのか。
答えは分からない、けど。
どうしようもない実感だけは、胸の内から込み上げていた。
取り返しのつかないことをしてしまった。
私が。私が――私が、断ち切ってしまった。
メイコちゃんの手を、離してしまった。
だから。私は。
水の中で藻掻くように。
咄嗟に、動き出そうとした。
待って。
声を、上げようとした。
待って。メイコちゃん。
――――待って。行かないで!
――――メイコちゃん!
手を伸ばして。
また、あの娘の手を掴もうとした。
離しちゃいけない手を。
大好きな友達の手を。
だけど、メイコちゃんは。
私の手を、振り切るように。
そのまま一人で、歩を進めて。
列車の扉へと、踏み込んでいく。
「さあちゃん―――」
メイコちゃんは、僅かに振り返って。
何かを伝えるように、口を開いた。
発車ベルと、駅のアナウンスが響く。
あの娘の言葉が、掻き消される。
微笑む顔だけが、瞳に映った。
いつもの表情だった。
いつも見慣れた、大好きな顔だった。
―――ああ。
その時、やっと気付いた。
メイコちゃんは、私を拒んでなんかいなくて。
手を離した私を、変わらず友達だと想ってくれていて。
だから、メイコちゃんは。
そして。
扉が閉まった。
再び伸ばしかけた手は。
銀色の壁に、隔てられて。
どこにも届くことはなく。
やがて力を失うように、落ちていく。
窓越しに見えたメイコちゃんは。
もう振り返ったりはしなかった。
過ぎ去っていく。
電車が、走っていく。
想い出をさらっていく。
遠くへ。遠くへ。遠くへと。
そして、目の前の景色は。
次の車両を待つ、空っぽのホームへと切り替わった。
私は、立ち尽くす。
虚空を見つめながら。
何もかもが、終わったあと。
春雨を告げて、ちぎれとぶ風の中で。
遠ざかっていく思い出を、確かめるように。
右手に残された温もりを、静かに握り締めた。
◆
◆
◆
◆
◆
◆
◆
◆
◆
うがい薬と、男の臭い。
口の中にしみついた味。
ホテルの洗面台の前で。
必死に濯いで、吐き出す。
閉塞から逃げたくて、日常を捨てて。
宛のない自由を求めて、飛び出して。
若さを擦り減らして、得られたもの。
一握りのお金と、何かを諦めること。
ただ、それだけ。
◆
繁華街の外れにある、狭い路地裏。
人通りの少ない、薄汚れた袋小路。
それがあたしの特等席だった。
『ねーえ』
仕事が終わった後は、よく此処に来る。
ジュースとか、エナジードリンクとか。
そういうものを飲みながら、ひっそりと黄昏れるために。
ある意味で、日課のようなものだった。
『ひとりなの?』
だから“見知らぬ女の子”が居て、思わず声を掛けてしまった。
その娘は、ゴミ箱のすぐ傍で蹲っていた。
家族や友達らしき人は近くにいなかった。
独りぼっちでそこに居た。
中学か高校の制服を着ている、黒いボブカットの女の子だった。
眼鏡を掛けたその姿は、どちらかといえば大人しそうな雰囲気で。
この街には、とても不釣り合いな姿をしていて。
『ひょっとして、家出とか?』
だから、問いかけた。
その娘は、ほんの少しだけ顔を上げて。
あたしの格好を見て―――僅かに驚いて。
そのまま呆気に取られたように、こちらを見つめ続けていた。
あたしの姿を、目に焼き付けるみたいに。
なんだか、見惚れているようにも見えて。
それからこくりと、不安げに頷いてくれた。
『あ……あの……すみません』
『いやなんで謝んの』
『なんか……勝手にここ座っちゃって』
おどおどとした様子を隠さないその娘を見て。
何だかおかしくて、思わず笑ってしまう。
別に取って食べようとか、罰金取るとかって訳でもないのに。
可愛いなあ、なんてことを思う。
それであたしは、その娘のすぐ隣にしゃがみ込む。
驚いたような顔を見せてたけど、あたしは構わず相手を覗き込むように視線を向ける。
『名前、なんて言うの?』
そう言われて、その娘は。
少しだけ躊躇って、少しだけ考えて。
それから、静かに口を開いた。
『……芳川、幸』
ヨシカワ、サチ。
サチちゃん、というらしい。
『なんか……』
あたしの中での第一印象は。
『ワンちゃんみたいでかわいい』
そんな感じだった。
『……わ、わんちゃん?』
『なんか、ハチ公とかみたいじゃない?』
『ま……まあ……言われてみれば……?』
思わず困惑するサチちゃん。
戸惑いつつも、苦笑いしてて。
少しだけ顔が綻んでいた。
『“幸あれ”の幸で、サチ?』
『まぁ、はい』
『いい名前じゃん』
“幸あれ”の幸。
“幸福”の幸。
それで、サチちゃん。
可愛くて良い名前だなあ、なんて。
そんなことを、しみじみと思う。
サチちゃんは、ほんの少しだけ照れ臭そうにしていた。
『それで?サチちゃん、どうしたの?』
それからあたしは、改めて問いかける。
何をか、って。
『たぶん家出とかだろうけど』
まだ学生なのに。
何でこんなところに居るの、という。
そんな直球の疑問だった。
サチはバツが悪そうに、視線を背ける。
そうして暫く黙りこくっていたけど。
『……家出の真っ最中です』
白状したように、ぼそっと零した。
それから、あたしとサチは。
路地裏で暫くお話をした。
サチは、高校に入ったばかりらしくて。
学校に上手く馴染めなくて、悩んでて。
そんな矢先、些細なことで親と大喧嘩して。
勢いで家を飛び出して、そのまま電車に乗って新宿まで来て。
行く宛もなく途方に暮れて、この路地裏に辿り着いたという。
最初こそ、恐る恐ると喋っていたサチだったけど。
あたしと話を重ねているうちに、少しずつ緊張が解けていったらしくて。
気が付けば、ちょっとした世間話とか。
あるいは、趣味の話とか。
好きな番組とか、好きな芸能人とか。
そんな他愛もないことで盛り上がっていた。
あたしの“本当の仕事”については、話せなかったけれど。
それでもこの束の間の一時に、気が付けば安らぎのようなものを感じていた。
この街に来たばかりの頃。
あたしは、同じように蹲っていた。
サチより、ずっと笑えない環境だったけど。
無我夢中で、飛び出して。
訳も分からないまま、彷徨って。
路地裏の片隅で、行く宛もなく。
ひとりで孤独に打ちひしがれて。
それから、声を掛けられて。
“稼ぐ手段”を、教わって―――。
ああ。
どうりで、ほっとけないわけだ。
その娘の姿に、昔の自分を重ねて。
だからこそ、気にかけてしまった。
こんな所に居ちゃ駄目だよ、って。
あたしみたいになっちゃ駄目だよ、って。
そんな想いを抱いて、お節介をかけた。
『ねえ』
けれど。だったら、どうして。
サチと―――“さあちゃん”と。
『友達にならない?』
友達になろうと思ったんだろう。
『……えっと、それって』
『遊びたいの。サチちゃんと』
あたしは立ち上がって。
サチの前に立って、手を差し出す。
これは、一銭の足しにもならない。
そんな“遊び”への誘い。
『せっかく、家出したんだから』
なんで、誘ったんだろう。
なんで、手を引いたんだろう。
あたしは路地裏の人間で。
この娘は、そうじゃないから。
一緒にいるべきじゃないのに。
なのにどうして、友達になりたかったんだろう。
答えは、簡単だ。
『――帰る時まで、楽しまなきゃでしょ?』
ひとりが、寂しかったから。
ひとりが、辛かったから。
だから、誰かが居てほしかった。
手を握ってくれる友達を、求めていた。
まるで昔の自分のようだったこの娘なら。
こうして打ち解けられたサチなら。
きっと、傍にいてくれんじゃないかって。
そう思っていた。
失敗ばかりの人生だから。
諦めてばかりの人生だったから。
少しでも、癒やされたかった。
それから、サチは。
少しだけ、沈黙して。
ほんの僅かな間を置いてから。
あたしの方へと、視線を向けた。
『……名前、聞いてないです』
そして、ぽつりと。
『お姉さんの……名前』
サチが、言葉を紡ぐ。
思えば、まだ名乗っていなかった――なんて。
そんなことを思って、“いつもの名前”を思わず言いそうになったけど。
喉元の手前まで来た言葉を、押し留めた。
やがてほんの少しだけ考えた後。
あたしは、ゆっくりと口を開く。
『メイコって呼んで』
―――久しぶりに、名乗ったなあ。
―――あたしの“本名”。
そんなことを、ふと思ってしまった。
いつ以来だろう。自分の本当の名前を振り返ったのは。
懐かしさのような。感慨のような。
不思議な気持ちが込み上げてくる。
『……メイコさん』
『敬語とかいーよ。固いし』
ずっと余所余所しいサチにむず痒さを覚えて、思わずそう言ってしまう。
サチは少しだけ驚いてから、あたしを見つめて。
『じゃあ……メイコちゃん?』
『うん。サチちゃ……そうだ』
そうして、あたしが差し出した左手を。
サチは、おずおずと握り返した。
不安気で、まだ固いけれど。
温もりをしっかりと、確かめるように。
その手を、握っていて。
『さあちゃんでいい?』
『えっ』
『サチだから、さあちゃん。可愛いでしょ?』
それからサチは。
真っ直ぐに、あたしを見つめていた。
仄かな輝きを、瞳に宿して。
『―――うん』
何かを噛み締めるように。
何かを確かめるように。
“さあちゃん”が、頷いた。
だから、あたしも。
微笑みながら、見つめ返した。
『じゃ、いこ?』
さあちゃんの手を引いて、先導する。
優しく結んだ指先の体温を、互いに感じながら。
二人で手を繋いで、歩いていく。
街は、パレードのように明るくて、きらびやかで。
突き放すように冷淡で、素っ気ない光でも。
あたしはもう、構わなかった。
◆
さあちゃんは、あたしのお姫様。
お金で買えたりなんかしない。
100万ドルよりも価値がある、愛しい人。
―――ねえ。そうでしょ?
◆
ミリオンダラーベイビー 里市 @shizuo_
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