ミリオンダラーベイビー

里市

ミリオンダラーベイビー



《ねえ、さあちゃん》


 電話越しに、聞こえてくる。

 あの娘の声が。吐息が。

 絞り出すような、言葉が。

 これから会う約束をしていた友達が、何かを訴えかける。


 スマートフォンを握る、私の手が。

 強張るように、微かに震える。


《あたしさ、ずっと悪いことしてたんだよ》


 メイコちゃんは、親友だった。

 たった一人の、私のお姫様だった。


《お金、貰っててさ。男の人達から》


 震える声が、スピーカー越しに届く。

 懺悔するような声が、揺れる。


《その人達はね、あたしと遊びたいの》


 ぽつり、ぽつり、と。

 メイコちゃんは、私に打ち明ける。


《だから、お金を渡すの》


 自分のことを。自分のすべてを。

 けれど。きっと、それは。


《それでね。よく遊んでくれるおじさんが……しつこかったの》


 メイコちゃんが、本当に伝えたいことじゃなくて。

 私は電話を挟んで、この娘に縋られていて。


《いつも、いつも、いっつも、付きまとってて……》


 それで、ホテルで酷いことされそうになって、その人を―――。

 そう呟いたところで、メイコちゃんは声を詰まらせた。

 そして、啜り泣くような声が耳に入る。

 あの娘の嗚咽が、スピーカー越しに響く。


《ごめん、ごめんね、さあちゃん。本当に、ごめんね―――》


 ねえ、メイコちゃん。

 ねえ。どうしたの。

 ねえ。泣かないで。

 何があったかなんて、聞きたくない。

 けれど。メイコちゃんに泣いてほしくない。

 ひどく、ひどく、哀しくなるから。

 私は茫然と、不安と焦燥を抱えて。


《……さあちゃん》


 やがて、メイコちゃんは。

 縋るように、ぽつりと呟く。



《会いたい、すぐに》



 何があったかとか。

 何が起きたのかとか。

 そんなことを聞く余裕なんてなかった。

 メイコちゃんが、取り返しのつかないことをしてしまったとか。

 それを考えるだけの余地も、私にはなかった。


 いま、大事なことは。

 メイコちゃんが、泣きじゃくってて。

 私は今、“いつもの待ち合わせ場所”へとすぐに向かえる。

 それだけのことだった。





 きらきらと、光っていた。

 街灯。照明。看板。ネオンサイン。

 星空みたいに、眩しくて。

 星空みたいに、夥しくて。

 星々の葬列のように、途方もなかった。


 私達は、そんな目映い夜を。

 二人きりで進んでいく。

 私――“サチ”は、“メイコちゃん”に手を握られて。指先を絡められて、手と手を結んで。

 メイコちゃんに引っ張られるように。

 歓楽街の大通りを、走り抜けていく。


 あの時、ふいに電話で呼ばれて。

 待ち合わせ場所の路地へと、急いで向かって。

 そこでメイコちゃんが、蹲るように涙を流してて。

 私を見てから、安堵したように泣き止んでくれて。


 それから、メイコちゃんは。

 私の手を取って―――ただ「行こう」と告げてきた。

 それから私は呆然としたまま、メイコちゃんに手を引かれて。

 夜の新宿を、二人で駆けていた。


 眼鏡越しに覗くこの街は、いつだって眠ることを知らない。

 ぎらつくような、大都会の海は。

 ちっぽけな私達を飲み込んで、ぷちりと潰してしまいそうで。

 胸の内に込み上げる動揺と不安は、呆然と揺らめいていた。


 フリルやレースで彩られた黒いワンピース。

 黒革のリュックに、一際目立つ厚底のブーツ。

 青紫のインナーカラーが入った、黒髪のツインテールを揺らして。

 ぱっちりと涙袋を膨らませた目元を、赤く腫らせながら。

 メイコちゃんは、足早に進んでいく。


 いつ見ても、綺麗で―――可愛くて。

 今にも夜に溶け込んでしまいそうで。

 この街のどんな景色よりも、きらきらしてて。

 こんな状況だというのに、私は。

 彼女の姿に、目を奪われていた。


 メイコちゃんみたいに可愛くなりたい。

 メイコちゃんの隣にいたい。

 私はいつも、そんな想いばかり抱いていた。

 メイコちゃんは、憧れのお姫様だった。


 私達は、只管すれ違う。

 過ぎ行く人達を尻目にしていく。

 気が遠くなるような喧騒を、何度も振り切っていく。


 スーツ姿の人達とか。

 友達連れの人達とか。

 観光客らしき人達とか。

 カップルらしき人達とか。

 居酒屋か何かのキャッチとか。

 あるいは、ちょっと怖そうな人達とか。


 老若男女の見知らぬ“群衆”を、ただの“背景”にして。

 私の心と感覚は、春風と共にメイコちゃんに攫われていく。

 なんだか、駆け落ちみたいだ―――なんて。

 ふいにそんなことを考えてしまう。


 ひどくロマンチックで。

 映画かドラマみたいで。

 なのに、酷く不安に駆られる。

 胸の奥底。心の内側が。

 波のように、ざわめている。


 そうして私は、されるがままに導かれて。

 手を繋ぎながら、繁華街を駆け抜けていく。

 バイト帰り。高校の白いセーラー服姿で。

 私は、“お姫様”に連れられていく。


 ――ねえ。メイコちゃん。

 私は、喉から声を絞り出す。

 握り締められた右手の温もりを感じながら。

 自身の手を引きながら前を歩く相手に、呼びかける。

 けれど、か細い言葉は街の狂騒に掻き消されて。

 私は相も変わらず、メイコちゃんと二人で進み続ける。


 街は、パレードのように明るくて、きらびやかで。

 だけどきっと、その幾つもの光は。

 私達のことなんて、これっぽっちも興味もないんだろうと。

 否応なしに、悟ってしまった。





 ほんの数ヶ月前。

 メイコちゃんとは、この街で出会った。


 小さい頃から、内気で臆病な性格だった。

 親しい相手なんて、全く居なくて。

 図書室の片隅で、静かに本を読んでいる方で。

 いつだって、何処か浮いている。

 何かに打ち込めるほどの情熱もなくて。

 周りの空気に溶け込むこともできなくて。

 皆の輪に入る勇気なんて、持てなかった。


 そんな性格のことを、お母さんから色々と言われ続けて。

 高校に入ってからは、少しでも変わりたくて。

 けれど、結局不安で足が竦んで。

 内気なままの自分が、嫌で仕方なくて。

 気が付けば、ストレスを溜め込んでて。


 そうしてある時、お母さんと大喧嘩をした。

 些細なきっかけだったし、今となっては大したことでもなかったけど。

 その時、私は家を飛び出してしまった。


 高校生にもなって、家出を敢行して。

 訳も分からずに都会へと行って。

 行く宛もなく、一人で彷徨って。

 帰るに帰れなくて、途方に暮れてた時。

 私は、メイコちゃんと出会った。

 独りぼっちだった私を心配して、話し掛けてくれた。


 それから、メイコちゃんと交流ができて。

 休みの日とか、学校帰りとか。

 予定の空いてる時に、二人で遊ぶようになった。

 買い物に行ったり、美味しいものを食べたり。

 カラオケで一緒に歌ったり、お揃いのネイルを塗ったり。

 私にとってメイコちゃんは、生まれて初めての親友だった。


 大きな交差点の、横断歩道。

 沢山の人達が、信号を待ってて。

 その人混みの中に、私達は紛れ込む。

 視線の先。無数の車が行き交う。

 閃光のような灯りが、幾つも通り過ぎていく。


 メイコちゃんは、私の手をギュッと握っていた。

 その指先は、微かに震えていて。

 恐怖や動揺を、隠しきれていなくて。

 思わず私は、メイコちゃんの顔を見ようとして。


 その直後に、信号は青に変わった。

 それからメイコちゃんは、再び進み出す。

 私の手を引いて、人混みをかき分けるように。

 流れに乗せられるように、規則正しいリズムで皆は歩いてたけれど。

 私達だけは、急かされるように慌ただしかった。


 横断歩道を越えて、ドラッグストアやアウトドア店などが連なる通りを進んでいって。

 メイコちゃんと何度も通った可愛い服のお店も、あっという間に擦れ違って。

 昔は青果店だった居酒屋も通り過ぎて。

 次の横断歩道を、青信号が点滅している最中に急いで突き抜けていく。


 やがて駅の東口前の広場に辿り着き。

 あちこちを行き交う人の流れを、あるいは待ち合わせや談笑で立ち止まる人々を、足早に擦り抜けながら。

 私達は、地下の駅構内へと通じる階段を降りていく。


 私は、手を引かれながら。

 メイコちゃんの後ろ姿を見つめて。

 ある思いを抱く。


 メイコちゃんが普段、何をしているのか。

 私は今まで、聞いたこともなかった。

 メイコちゃんは、自分から話そうとしなかったから。

 だから私も、無理に聞き出そうとは思わなかった。

 こうして知ることになるなんて、思う由もなかった。

 彼女が送ってきた人生の意味を、ようやく痛感することになった。


「メイコちゃん」


 けれど。だからこそ。

 私は、思わず。


「メイコちゃんは、どうして」


 今、聞けなかったら。

 きっと二度と、知ることができないと思ったから。


「どうして、ずっとつらいことをしなきゃいけなかったの?」


 手を繋いで。

 地下の構内を往きながら。

 私は、そんなことを問いかけた。


 メイコちゃんは、振り返らなかった。

 沈黙して。何か、答えを考え込んで。


「……なんでだろ」


 やがて困ったように、そうぼやいた。

 自分でも答えがわからない。

 そう言いたそうな素振りで。


「なんでだっけ。わかんなくなっちゃった」


 乾いた苦笑いとともに。

 メイコちゃんは、呟く。

 その言葉の意味することを。

 私は、それ以上問い質せなくて。

 ただその後ろ姿を、見つめることしか出来なかった。





 メイコちゃんは、私のお姫様だ。

 初めて出会った時から、目を奪われた。

 メイコちゃんは、私の手を引いてくれた、掛け替えのない人だ。


 そして今も、こうして。

 メイコちゃんと手を繋ぎながら。

 メイコちゃんに導かれながら。

 駅の地下構内で、入り組んだ通路を二人で通り抜けている。


 今の私には、友達がいる。

 上手く馴染めなかった学校で。

 一緒に話せる相手がいる。


 ずっと不安だった。

 ずっと怖かった。

 小さい頃、私はもっと浮いてて。

 周りの子達から、白い目で見られて。

 気が付けば、虐められたりして。

 抱えていた気持ちを、お母さんに分かってもらえなくて。

 都内に転校して、一からやり直すことは出来たけど。


 それから、ずっと。

 私は、誰かと関わることを避けていた。

 親しい相手を作ることを、諦めていた。

 そんな日々を、何年も過ごして。

 孤独というものに、浸り切っていた。


 不幸と呼べるほど、悲惨でもない。

 挫折と言えるほど、閉塞もしていない。

 ただ、漠然と―――なんの味もしなくて。

 ぽっかりと満たされないまま、心が浮遊していた。


 だから、私は。

 無意識に、夜に惹かれたのかもしれない。

 街の喧騒の中で、孤独になりたかったのかもしれない。

 “皆の中での独りぼっち”よりも、その方がずっと気楽だから。


 けれど、私はメイコちゃんと出会った。

 メイコちゃんと、友達になった。

 本当に、ただ偶然みたいな出会いだったけど。

 それでも私とメイコちゃんは、確かに引かれ合って。

 そうして、色々なものを貰った。


 化粧を教えてもらって。

 お洋服を教えてもらって。

 友達がいることの楽しさを教えてもらって。

 自分はもっと、胸を張っていいことを教えてもらって。

 だから私は、踏み込む勇気をもらった。


 学校で小さな友達同士のグループに入って、お話できるようになった。

 まだ大きな輪に馴染むことは、不安だけれど。

 それでも自分のことを、もっと好きになれたから。

 だからこそ、前を向けるささやかな勇気を得られた。

 私は、もう孤独なんかじゃなかった。


 喧嘩しがちだったお母さんとも、少しだけ仲が良くなった。

 メイコちゃんのことは、“仲のいい友達”としか話せていないけれど。

 時折ついつい帰りが遅くなることを、不安がられたりもするけれど。

 それでも友達ができて、変わることのできた私のことを、安心したように見守ってくれた。


 それまでは、いつだって何かを諦めていた。

 生きてる意味が分からない、とか。

 そういう大それたことじゃないけれど。

 これからの人生も、私はぼんやりと歩んでいくんだろうと。

 そんな漠然とした想いを、抱え続けてきた。

 メイコちゃんと会うまで、ずっと。


 駅ビルと地続きの通路を抜けて、駅の改札に辿り着いて。

 そのまま二人でそそくさと改札機を通過していく。


 地下の改札内は、昔よりはずっと分かりやすくなったらしいけど。

 私からすれば、今でも迷路みたいに見えてしまう。

 入り組んだトンネルのような通路を、メイコちゃんに連れられながら通り抜けていく。


 メイコちゃん。

 これから、どこに行くの?

 私は、そう問いかけた。


 遠くに行けるやつ。

 どれだっていい。

 メイコちゃんは、ただそう答える。


 駆け上がる。

 二人で階段を、早足で。

 顔を上げてみれば。

 駅のホームの光が見える。

 道標のように、私達の道を示して。

 逆光のように、メイコちゃんを照らす。


 私達は、何処へ向かっていたんだろう。

 いま駆け上がってるのも、ひょっとすると天国への階段だったのかもしれない。

 そんなことを、一瞬だけ考えてしまう。


 このまま電車に乗ってしまえば。

 メイコちゃんは、もう悪いことなんてしなくて済むのかな。

 そして―――私は、どうなっちゃうんだろう。


 ここから、先。

 メイコちゃんに手を引かれて。

 それから、何が待っているんだろう。


 どうにか、わかろうとしても。

 靄がかかったように、理解を拒んでしまう。


「さあちゃん」


 階段を、上がって。

 メイコちゃんが、ぽつりと呟く。


「映画で、あったよね」


 私にしか聞こえないような声で。


「悪いことをしたカップルが、二人で遠くまで逃げるやつ」


 今にも、泣き出しそうな顔で。


「駆け落ちみたいにさ、何処までも一緒で――」


 メイコちゃんが、言葉を紡ぐ。


「愛を誓い合いながら、彼方まで車を走らせるの」


 そして、メイコちゃんは。


「ねえ、さあちゃん」


 私を、見つめて。


「一緒にいたい」


 一言。そう告げた。


 メイコちゃん。

 私の友達で。

 私のお姫様で。

 私の――――。


 だからこそ、私は。

 メイコちゃんに手を引かれて。

 ここまで来てしまった。


 そして。私の奥底から。

 ほんの少しの希望と。

 眼の前の友達への想いと。


 何故だか、わからないけど。

 どうしようもない不安が、込み上げた。

 ふいに現実へと引き戻されたように。

 今の自分が置かれている状況を、見つめてしまった。


 私は、そのとき。

 何も答えられなくて。

 ただ、ぎこちなく。

 微笑むことしかできなかった。





 夜の暗がりと、白い照明。

 何人も並んでいる、駅のホーム。

 やがて来る電車を待って。

 私達は、列の一番後ろに並ぶ。

 すぐ傍まで寄って、手を繋いだまま。


 導かれるままに、ここまで来てしまった。

 今すぐ会いたい。そんなメイコちゃんの電話から始まって。

 私とメイコちゃんは、手を繋いで。

 ぎらつくように輝く、夜の新宿を駆けて。

 そうして駅のホームで二人、じきに来る電車を待ち続けていた。


 すぐに乗れて、少しでも遠くに行ける列車。

 乗り継いでいけば、都心から離れられる路線。

 メイコちゃんは、この街から逃げようとしていた。


 これから、私は。

 メイコちゃんと、二人で。

 何処か遠いところへと行くことになる。


 私はさっき、メイコちゃんに聞いた。

 どうしてずっと、つらいことをしなきゃいけなかったの。

 ―――なんでだっけ。わかんなくなっちゃった。

 それが、メイコちゃんの答えだった。


 私の知らないところで。

 メイコちゃんは、ずっと苦しんでて。

 本当は辛い思いをしていたのに。

 そういう生き方しか、できなくなってて。

 そのことを、否応なしに理解してしまった。


 だから。

 メイコちゃんが、何をしてしまったのかも。

 既に、わかっていた。

 震える指先と、泣き腫らした顔が。

 全てを物語っていた。


 そんなメイコちゃんを見るのが辛くて、悲しくて。

 この娘から縋られて、私は迷わず一緒にいることを選んで。

 そうして二人で、此処まで来たのに。


 ああ。

 この気持ちは。

 何なんだろう。


 空は、真っ暗だった。

 眩い街とは大違いで。

 星の一つも、見えやしなかった。


 掌から伝わる温もりとは、裏腹に。

 夕焼けのような哀しさが、浮かんでくる。

 隣にメイコちゃんがいるのに。

 まるで昔みたいに、寂しくなる。


 たった数分。

 それだけの時間が、永遠に感じる。

 思いが横たわる。

 閉塞と、悲嘆。焦燥と、不安。


 ――――こわい。


 そんな思いが、揺れる。

 これから、どうなるんだろう。

 私は、どうなっちゃうんだろう。

 わからない。なにも、わからない。

 だからこそ、こわくて。


 そして。

 駅のアナウンスが、響き渡る。

 それから間を開けずに、警笛の音が鳴る。

 私は思わず、視線を上げる。


 電車が、ホームへと到着する。

 それは、ゆっくりと速度を落として。

 少しずつ、少しずつ、停車へと向かっていく。


 来た。来てしまった。

 胸の内から、ゆっくりと。

 ここから先を恐れるような気持ちが。

 ふいに、湧き上がってくる。


 電車が、ホームへと停まる。

 一斉に、扉が開く。

 列を作っていた、眼の前の人達が。

 次々に、乗車していく。


 メイコちゃんは、変わらず。

 私の手を、握っていて。

 先程までと同じように。

 手を引きながら、歩き出そうとした。



 ――――走馬灯のように。

 メイコちゃんとの時間が、脳裏をよぎる。



 お母さんと喧嘩をして。

 思わず家出をして、夜へと向かって。

 訳も分からずに、街を彷徨って。

 あの路地裏で、ふいに声を掛けられて。

 それからメイコちゃんと、打ち解けて。

 二人で一緒に、会うようになった。


 物心付いてから、初めての親友だった。

 この夜の街で、私達は引かれ合った。


 メイコちゃんがいなかったら。

 私は、自分の歩き方を見つけられなかった。

 メイコちゃんがいなかったら。

 私は、今でも夜に迷っていた。


 私の人生は、きっと。

 この出会いに、貰ったもの。

 掛け値のない、愛しい人。

 どんなお金よりも、ずっと価値がある。


 けれど。

 この先には、何が待ってるんだろう。

 ここから先に、未来はあるんだろうか。

 メイコちゃんは、私を引き込んで。

 果てのない道へと、誘っている。


 そう思って。そんな恐怖を抱いて。

 私の中に、ひとつの思いが浮かび上がる。



 私の今は、私のもの。

 他でもない、私だけ。

 メイコちゃんのものじゃ、ない。



 扉へと、向かっていく。

 私とメイコちゃん。

 二人で、進んでいく。

 駆け落ちみたいに。

 彼方まで、一緒に。


 ここから先は。

 取り返しがつかない。







「あ―――――」



 メイコちゃんが。

 電車へと踏み込もうとした。

 その瞬間に、私は。


 手を、離した。

 私が。私の方から。

 メイコちゃんの手を。


 結んでいた指先。

 手のひら越しの体温。

 私達を繋いでいたものが。

 ぷつりと、絶たれる。


 私とメイコちゃん。

 二人を結びつけていた、たった一つ。

 手と手が、分かたれて。

 ほんの数秒間。

 永遠のような時間が、流れた。




 ◆




 呆然と、意識が今を見つめる。

 自分のしたことを、突き付けられる。


 なんで。

 私は、自分に問いかける。


 わかっていた。

 答えなんて、とっくに。

 どうして手を離したか、なんて。

 わかりきっている。

 だって、ここで手を離さなかったら。

 私は―――――ああ。


 私ね。

 やっと、前を向けたんだよ。

 もう、独りじゃなくなったんだよ。

 だから、メイコちゃん。


 そうして、振り返ったメイコちゃんは。

 目を丸くして。茫然と、私を見つめて。

 その顔に、動揺を浮かび上がらせて。

 けれど。それから、僅かな間を置いて。


 何かを悟ったように。

 何かに気付いたように。

 そして―――何かを受け入れたように。

 寂しそうに、私へと微笑みかけていた。


 その瞬間。

 私は、思わず声を零した。

 このとき、自分がどんな顔をしていたのか。

 答えは分からない、けど。

 どうしようもない実感だけは、胸の内から込み上げていた。


 取り返しのつかないことをしてしまった。

 私が。私が――私が、断ち切ってしまった。

 メイコちゃんの手を、離してしまった。


 だから。私は。

 水の中で藻掻くように。

 咄嗟に、動き出そうとした。



 待って。

 声を、上げようとした。

 待って。メイコちゃん。

 ――――待って。行かないで!

 ――――メイコちゃん!



 手を伸ばして。

 また、あの娘の手を掴もうとした。

 離しちゃいけない手を。

 大好きな友達の手を。


 だけど、メイコちゃんは。

 私の手を、振り切るように。

 そのまま一人で、歩を進めて。

 列車の扉へと、踏み込んでいく。


「さあちゃん―――」


 メイコちゃんは、僅かに振り返って。

 何かを伝えるように、口を開いた。

 発車ベルと、駅のアナウンスが響く。

 あの娘の言葉が、掻き消される。

 微笑む顔だけが、瞳に映った。


 いつもの表情だった。

 いつも見慣れた、大好きな顔だった。


 ―――ああ。

 その時、やっと気付いた。

 メイコちゃんは、私を拒んでなんかいなくて。

 手を離した私を、変わらず友達だと想ってくれていて。

 だから、メイコちゃんは。


 そして。

 扉が閉まった。


 再び伸ばしかけた手は。

 銀色の壁に、隔てられて。

 どこにも届くことはなく。

 やがて力を失うように、落ちていく。


 窓越しに見えたメイコちゃんは。

 もう振り返ったりはしなかった。


 過ぎ去っていく。

 電車が、走っていく。

 想い出をさらっていく。

 遠くへ。遠くへ。遠くへと。


 そして、目の前の景色は。

 次の車両を待つ、空っぽのホームへと切り替わった。


 私は、立ち尽くす。

 虚空を見つめながら。


 何もかもが、終わったあと。

 春雨を告げて、ちぎれとぶ風の中で。

 遠ざかっていく思い出を、確かめるように。

 右手に残された温もりを、静かに握り締めた。













 うがい薬と、男の臭い。

 口の中にしみついた味。

 ホテルの洗面台の前で。

 必死に濯いで、吐き出す。


 閉塞から逃げたくて、日常を捨てて。

 宛のない自由を求めて、飛び出して。

 若さを擦り減らして、得られたもの。


 一握りのお金と、何かを諦めること。

 ただ、それだけ。






 繁華街の外れにある、狭い路地裏。

 人通りの少ない、薄汚れた袋小路。

 それがあたしの特等席だった。


『ねーえ』


 仕事が終わった後は、よく此処に来る。

 ジュースとか、エナジードリンクとか。

 そういうものを飲みながら、ひっそりと黄昏れるために。

 ある意味で、日課のようなものだった。


『ひとりなの?』


 だから“見知らぬ女の子”が居て、思わず声を掛けてしまった。

 その娘は、ゴミ箱のすぐ傍で蹲っていた。

 家族や友達らしき人は近くにいなかった。

 独りぼっちでそこに居た。


 中学か高校の制服を着ている、黒いボブカットの女の子だった。

 眼鏡を掛けたその姿は、どちらかといえば大人しそうな雰囲気で。

 この街には、とても不釣り合いな姿をしていて。


『ひょっとして、家出とか?』


 だから、問いかけた。

 その娘は、ほんの少しだけ顔を上げて。

 あたしの格好を見て―――僅かに驚いて。


 そのまま呆気に取られたように、こちらを見つめ続けていた。

 あたしの姿を、目に焼き付けるみたいに。

 なんだか、見惚れているようにも見えて。


 それからこくりと、不安げに頷いてくれた。


『あ……あの……すみません』

『いやなんで謝んの』

『なんか……勝手にここ座っちゃって』


 おどおどとした様子を隠さないその娘を見て。

 何だかおかしくて、思わず笑ってしまう。

 別に取って食べようとか、罰金取るとかって訳でもないのに。

 可愛いなあ、なんてことを思う。


 それであたしは、その娘のすぐ隣にしゃがみ込む。

 驚いたような顔を見せてたけど、あたしは構わず相手を覗き込むように視線を向ける。


『名前、なんて言うの?』


 そう言われて、その娘は。

 少しだけ躊躇って、少しだけ考えて。

 それから、静かに口を開いた。


『……芳川、幸』


 ヨシカワ、サチ。

 サチちゃん、というらしい。


『なんか……』


 あたしの中での第一印象は。


『ワンちゃんみたいでかわいい』


 そんな感じだった。


『……わ、わんちゃん?』

『なんか、ハチ公とかみたいじゃない?』

『ま……まあ……言われてみれば……?』


 思わず困惑するサチちゃん。

 戸惑いつつも、苦笑いしてて。

 少しだけ顔が綻んでいた。


『“幸あれ”の幸で、サチ?』

『まぁ、はい』

『いい名前じゃん』


 “幸あれ”の幸。

 “幸福”の幸。

 それで、サチちゃん。

 可愛くて良い名前だなあ、なんて。

 そんなことを、しみじみと思う。

 サチちゃんは、ほんの少しだけ照れ臭そうにしていた。


『それで?サチちゃん、どうしたの?』


 それからあたしは、改めて問いかける。

 何をか、って。


『たぶん家出とかだろうけど』


 まだ学生なのに。

 何でこんなところに居るの、という。

 そんな直球の疑問だった。

 サチはバツが悪そうに、視線を背ける。

 そうして暫く黙りこくっていたけど。


『……家出の真っ最中です』


 白状したように、ぼそっと零した。

 それから、あたしとサチは。

 路地裏で暫くお話をした。


 サチは、高校に入ったばかりらしくて。

 学校に上手く馴染めなくて、悩んでて。

 そんな矢先、些細なことで親と大喧嘩して。

 勢いで家を飛び出して、そのまま電車に乗って新宿まで来て。

 行く宛もなく途方に暮れて、この路地裏に辿り着いたという。


 最初こそ、恐る恐ると喋っていたサチだったけど。

 あたしと話を重ねているうちに、少しずつ緊張が解けていったらしくて。

 気が付けば、ちょっとした世間話とか。

 あるいは、趣味の話とか。

 好きな番組とか、好きな芸能人とか。

 そんな他愛もないことで盛り上がっていた。


 あたしの“本当の仕事”については、話せなかったけれど。

 それでもこの束の間の一時に、気が付けば安らぎのようなものを感じていた。


 この街に来たばかりの頃。

 あたしは、同じように蹲っていた。

 サチより、ずっと笑えない環境だったけど。


 無我夢中で、飛び出して。

 訳も分からないまま、彷徨って。

 路地裏の片隅で、行く宛もなく。

 ひとりで孤独に打ちひしがれて。

 それから、声を掛けられて。

 “稼ぐ手段”を、教わって―――。


 ああ。

 どうりで、ほっとけないわけだ。


 その娘の姿に、昔の自分を重ねて。

 だからこそ、気にかけてしまった。

 こんな所に居ちゃ駄目だよ、って。

 あたしみたいになっちゃ駄目だよ、って。

 そんな想いを抱いて、お節介をかけた。



『ねえ』



 けれど。だったら、どうして。

 サチと―――“さあちゃん”と。



『友達にならない?』



 友達になろうと思ったんだろう。


『……えっと、それって』

『遊びたいの。サチちゃんと』


 あたしは立ち上がって。

 サチの前に立って、手を差し出す。

 これは、一銭の足しにもならない。

 そんな“遊び”への誘い。


『せっかく、家出したんだから』


 なんで、誘ったんだろう。

 なんで、手を引いたんだろう。

 あたしは路地裏の人間で。

 この娘は、そうじゃないから。

 一緒にいるべきじゃないのに。

 なのにどうして、友達になりたかったんだろう。

 答えは、簡単だ。


『――帰る時まで、楽しまなきゃでしょ?』


 ひとりが、寂しかったから。

 ひとりが、辛かったから。

 だから、誰かが居てほしかった。

 手を握ってくれる友達を、求めていた。

 まるで昔の自分のようだったこの娘なら。

 こうして打ち解けられたサチなら。

 きっと、傍にいてくれんじゃないかって。

 そう思っていた。


 失敗ばかりの人生だから。

 諦めてばかりの人生だったから。

 少しでも、癒やされたかった。


 それから、サチは。

 少しだけ、沈黙して。

 ほんの僅かな間を置いてから。

 あたしの方へと、視線を向けた。


『……名前、聞いてないです』


 そして、ぽつりと。


『お姉さんの……名前』


 サチが、言葉を紡ぐ。

 思えば、まだ名乗っていなかった――なんて。

 そんなことを思って、“いつもの名前”を思わず言いそうになったけど。

 喉元の手前まで来た言葉を、押し留めた。


 やがてほんの少しだけ考えた後。

 あたしは、ゆっくりと口を開く。


『メイコって呼んで』


 ―――久しぶりに、名乗ったなあ。

 ―――あたしの“本名”。


 そんなことを、ふと思ってしまった。

 いつ以来だろう。自分の本当の名前を振り返ったのは。

 懐かしさのような。感慨のような。

 不思議な気持ちが込み上げてくる。


『……メイコさん』

『敬語とかいーよ。固いし』


 ずっと余所余所しいサチにむず痒さを覚えて、思わずそう言ってしまう。

 サチは少しだけ驚いてから、あたしを見つめて。


『じゃあ……メイコちゃん?』

『うん。サチちゃ……そうだ』


 そうして、あたしが差し出した左手を。

 サチは、おずおずと握り返した。

 不安気で、まだ固いけれど。

 温もりをしっかりと、確かめるように。

 その手を、握っていて。


『さあちゃんでいい?』

『えっ』

『サチだから、さあちゃん。可愛いでしょ?』


 それからサチは。

 真っ直ぐに、あたしを見つめていた。

 仄かな輝きを、瞳に宿して。


『―――うん』


 何かを噛み締めるように。

 何かを確かめるように。

 “さあちゃん”が、頷いた。

 だから、あたしも。

 微笑みながら、見つめ返した。



『じゃ、いこ?』



 さあちゃんの手を引いて、先導する。

 優しく結んだ指先の体温を、互いに感じながら。

 二人で手を繋いで、歩いていく。


 街は、パレードのように明るくて、きらびやかで。

 突き放すように冷淡で、素っ気ない光でも。

 あたしはもう、構わなかった。








 さあちゃんは、あたしのお姫様。

 お金で買えたりなんかしない。

 100万ドルよりも価値がある、愛しい人。

 ―――ねえ。そうでしょ?





 ◆

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ミリオンダラーベイビー 里市 @shizuo_

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