第8話(最終話)

矯正医官として多摩刑務所に出向してから1年が経とうとしていた。


最後の診察日。午後の診察時にある受刑者が私に話をしてきた。


「噂を聞いた」

「何ですか?」

「先生、もうすぐでムショから離れるって」

「ええ。本当です。」

「どこに行くんだ?」

「在籍している医大病院に戻ります。」

「先生は他の人より気づいてくれるのが早くて信頼していた。まだ居て欲しい」

「僕以外にも良い医師はいます。治療をきちんと受ければ良くなります。」

「収監されている自分らには絶望しかない。先生の存在がある意味…希望を導いてくれた」

「ご家族はいらっしゃるんですか?」

「妻と中学生の子どもがいる。ただ自分が出る頃には子どもも結婚している頃になる」

「面会には来ているんですか?」

「妻だけだ。そういう決まりなんだと」

「奥様を通してお子さんの成長を聞くしかありませんが、きっと貴方に会いたがっているでしょうね」

「どうだろう。何とも言えないな」

「待つ事も訓練だと思っていてください。いつか報われる」


「なるように、なるか」


「先生、そろそろ次の者を…」

「はい。処方箋も前回と同じ量でだしておきます」

「また、先生がいいな」

「時間だ。出なさい」


当日の診察には数名が似たような言葉を投げかけてきた者がいた。ただ私が関われるのは残りの期限までだ。


同情する事なく患者として来る受刑者たちの声を通じて心身の状態を診るだけに向き合う。


17時を回った頃、次の者が入ってきた。

82歳の軽度の認知症を持つ無期刑囚だった。


「音を聴くので服を上げてください。…次に口を開けてください」

「…痛い。」

「喉も綺麗ですね。夜は眠れていますか?」

「時々母さんが足元に座って話しかけてくる。何を言っているのかはわからないが、さっさと消えて欲しい」

「面会には来る方はいますか?」

「娘だと言って訪ねて来る人がいる。私には子どもすらいないのに、私の事を分かっていてやたら話してくる。あれは何なんだろかと刑務官に言っても家族だと言ってくる。不思議だ」

「来る事に対しては嫌ですか?」

「退屈しのぎでいい話相手になる」

「貴方を知っているなら、会えるうちに話していてください」

「家族はいない」

「話し相手がいるだけでも、幸せですね」

「そうかな?」

「身体も落ち着いていますので、次回まで様子を見させてください」


その受刑者は軽く手を振って診察室から出て行った。

全ての診察が終わり刑務官と机やベッド、医療器具の消毒を済ませて、電灯が消されると部屋を後にして医務室へ入った。

白衣を脱ぎカバンに整頓し身支度を整えた後、総務棟の所長室へ向かい、市橋所長に挨拶をしに行った。


「1年間の出向を終えていかがでしたか?」

「病院と刑務所での掛け持ちという形で遂行していきましたが、接し方に関しては病院患者と変わりはありませんでした。」

「何かと威嚇される事もあったと伺っています。それについてはどうでしたか?」

「病院にしても同様の事はつきものです。1人1人個性があるのも人間ですし。なるべく対等に診ていきましたが、医師としている以上は嫌われるのはどこも同じだと覚悟しながら診療にあたりました」

「村上刑務官から聞きましたが、綾瀬先生は受刑者らには評判が良い方だと。私も今こうして見ている限り、彼らに寄り添える存在だったと見受けられます。来ていただいて感謝しています。」

「こちらこそ勤勉できたことが、今後の医療支援の見直しに繋げていける機会となりました。ありがとうございます」

「村上刑務官。貴方からも挨拶を」

「私達刑務官や看守と任務を携われた事、心よりお礼致します。先生の診療結果に基づいて、今後の治療にも活かせるよう、医師らと共に努めて参ります。…僕からもありがとうございました」

「村上さん、助手としていてくださり色々助かりました。ありがとうございました」


18時。多摩刑務所を後にして医大病院に戻り、教授室に報告書を提出した。


20時。自宅に帰り、玄関のドアを開けると妻がいつものように出迎えてくれた。


「今日で終わったのね。お疲れさまです。」

「明日からまた病院で臨床と研究に勤しむ。新たに忙しくなりそうだ」


「ずっと2人で貴方の帰りを待っていたのよ」

「2人?」


妻が自分のお腹に手を当てて微笑んでいた。


「婦人科に行ってきた。5週目に入った。私達、やっと親になれるの」

「…そうか。良かった。」


エコー写真に写る小さな命。

私は妻が妊娠できた事の慶びにとめどなく涙が溢れて両手で顔を覆い、彼女が頭を摩ってくると、身体を抱きしめた。


数日後、これまでの執行期間に刑務所での診療について学会に提出する報告書をまとめて医局に出した後、隣接する医学科の研究室で癌免疫治療の療法試験のデータを数名の医師らと共に意見を交わしていた。


午後、休憩を取るため、中央棟の上階にあるテラスに出てそこから見渡せる街の景色を眺めていた。


生憎の曇り空だが、僅かに雲の切れ間を太陽の光が照らしているのが目に入った。


私が医官として過ごした1年は他の医官とは敵うものでもない。もっと長く携われば考え方も変わっていったであろう。


元の場所に戻ってきた今、彼らの声を聞けたことでこれから担う矯正医療の取り組みに貢献していく者たちへ繋いでいける架け橋となった。


屈折していても新たに光を注げば、いつしかそれが希望になるだろう。


そこにある未来へと受け渡す祈りを込めて、私は今日も歩んでいく。

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窮奇と莢蒾(ガマズミ) 桑鶴七緒 @hyesu

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