渦潮

 どこか懐かしさを感じさせる優しく香ばしいパンの匂いが家の隅々にしみこんでいた。


 イシュメルはモビーの家へ入るとすぐに二階へと案内され、椅子に座るように促された。


「お腹すかれているでしょう。すぐにスープをご用意するので待っていてくださいね」


 モビーはイシュメルの返事を待つことなく台所へと向かっていった。一階はパン屋と調理室になっており、二階がモビーたちが暮らす居住スペースとなっていた。一階と二階は直接つながっておらず、外の階段を上ると二階の玄関がある。


 イシュメルは脇に置かれたモビーの父、フェリックスの古着へと素早く着替え、台所のモビーを見つめていた。目が見えないのにもかかわらず淡々と調理をしていく彼女に感心しながらも一つだけ疑問に思ったことがあった。


 フェリックスが寝ているという部屋からは人の気配が全くしなかった。聖騎士として何年も活動しているイシュメルは常人とはかけ離れた感覚を持っている。そして、モビーはそんな彼に気づかれることなく背後に立ったのだ。このことを思い出したイシュメルは彼の中でこの家族への警戒レベルを一つ上げた。


「はい、出来ましたよ。あとこれ、私が焼いたパンです。少し不細工ですが味は保証します」

「ああ、ありがとう」


 いつの間にか席についていたモビーは湯気の立つ野菜のスープといびつな形をしたパンをイシュメルの前に置いた。


「パンは君の父が焼いているんだったな」

「ええ、私も練習しているんですがなかなかうまくいかないんですよ」


 モビーはそう言ってバスケットの中からパンを一つ取り出して笑う。


「君はいつから目が見えないんだ?答えたくなかったら答えなくてかまわない」


 イシュメルは真剣な声色でモビーへと尋ねた。


「母が亡くなった時に」


 モビーは重い口調で、しかしはっきりとそう述べた。しかしイシュメルはまだ何かがひっかかっていた。彼の中で大方の予想はついていた。この家には魔法の残滓が漂っている。それも強力な。


「悪いが目を見せてくれないか?」


 イシュメルのその問いにモビーは観念したように頷いた。そしてゆっくりと目元にまかれた包帯をといてゆく。


 包帯を外した彼女はやはり美しかった。閉じられた瞼は三日月のような弧を描き、白いまつ毛が蝶の羽のように生えていた。


 モビーはゆっくりと瞼を開く。瞼の奥の瞳は宝石のように虹色に輝いていた。


「結晶化か…」


 その言葉にモビーは再度頷く。イシュメルの予想は当たっていた。モビーは魔力が尽きるほどの魔法を行使したのだ、何らかの事象に対して。


「何があった?」


 イシュメルは優しく語りかける。


 魔力の使用は倦怠感を伴う、魔力が少なくなってくると次第に痛みを伴うようになる。そして大抵の人間は魔力を使い切る前に全身の倦怠感、そして激痛により意識を失う。最後の魔力を使い切るという行為は普通の人間には起こりえないのだ。


「母は私が七歳のころ病気になりました。父と私は治療のために二人で懸命に働きました。しかし、このパン屋だけではどうにもならず父はいくつもの仕事を掛け持ちするようになりました。あの頃の父は寝る暇もなかったはずです。そんな生活が三年間続きました」


 モビーは淡々と語る。彼女は自分が抱えてしまった闇を誰かに話したかったのだと自分自身で理解した。


「父はそんな忙しい中でも、いつも私に優しかった。そんな父を困らせたくなかった。頑張って、頑張って、頑張った。でも父の努力は報われなかった」


 そこまで言うとモビーは悔しそうな表情を浮かべる。


 過去の光景を思い浮かべるように閉ざされた瞳からは涙がこぼれだす。


「涙が出るなんて、不思議ですね」


 モビーはどこか諦めを含んだ口調でそう言うと小さく笑った。


「母が亡くなった翌日、父は母の後を追うように亡くなりました」


 母が死んだ翌日、なかなか起きてこないフェリックスを起こそうと彼の寝室へ行ったモビーが見たのは首を吊ったフェリックスだった。


「父の姿を見たとき私の頭はぐちゃぐちゃになりました。頭の中を何かが暴れるように駆け巡った後、激痛と倦怠感でそのまま気を失いました」


 魔法は感情に大きく作用される。魔法の才能がある子供がそのことに気が付かず、何かのきっかけで魔力を暴走させてしまうことはよくあった。


「それ以来私は目が見えません」


 そこまで言うとモビーはすっきりとしたような表情で小さく息を吐く。


「死者の使役で間違いないな」


 最後まで話を聞いたイシュメルは小さくつぶやいた。


「君の父はそれ以来毎日パンを作り続けている、そうだな?」

「はい。毎日決まった時間に、同じ量を」


 死者を使役する魔法、これは誰でもできるようなものではない。命令が細かければ細かいほど術者の技量が必要になってくる。モビーは一度の魔法行使で不完全ながらもフェリックスを操り、十年近くもこの魔法を維持している。不運にも彼女は魔法に関して天賦の才を持っていたのだ。


「私はあなたに討伐されるのでしょうか?」


 モビーはどこか救いを求めるような表情でイシュメルに尋ねた。


「君が使った魔法は悪に分類されるものだ。魔法省にこのことを伝えれば君は間違いなく処罰の対象になるだろう」


 魔物が蔓延るこの世界では魔法の使用は許可されている。しかし倫理に反する魔法は悪と分類され魔法省の人間によって調査されたのちに法に則って処罰される。


「だがそれは俺の仕事ではない」


 しかしあくまでそれは魔法省の仕事であり聖騎士の仕事ではない。


「少し出かける。しっかりと別れを告げておけ。君の父は俺がしっかりと弔う」


 イシュメルはそう言ってスープとパンをかきこむと席を立った。


 ◆


 イシュメルが島に流れ着いてから三週間がたった。彼は島に来た商人に教会へ手紙を届けるように頼んだ後、その返事を待っていた。


「俺はもうじきここを発つ」

「そう…ですか」


 高台でモビーとイシュメルは二人並んで海を見つめていた。お互いの寂しさを埋め合うように二人の距離は自然と近づいていった。


「私は…行ってほしくない。ずっとここに居てほしい」


 モビーはイシュメルを困らせてしまうことがわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。彼と生活してきたこの三週間で彼の誠実さや優しさを十分すぎるほど感じていた。簡単に手放すことができないくらい彼女にとって彼の存在は大きくなっていた。


 そんなモビーに何も言わずイシュメルは優しく抱擁した。彼にとっても彼女の存在は捨てがたかった。すべてを投げうってもいいと思えるほど愛しさを感じていた。


「この島の人は優しい、君は一人じゃない」

「…わかっています。でも、私は…」


 モビーにもそんなことはわかっていた。両親が死んでからも寂しさを感じることはあっても、辛さを感じることはあまりなかった。いつだって島の人々は彼女のことを気にかけてくれていた。しかしモビーはイシュメルに家族以上の感情を抱いていた。

 もう失いたくなかった。どんなに強い聖騎士だろうといつか死ぬ。イシュメルもモビーの知らないところで死ぬかもしれない。彼女にはそれが耐えられなかった。


「君に光を贈りたい」

「どういう意味ですか?」

「君に俺の片目を君に移植する」


 体の移植、それは危険も伴うが魔法によって行うことが可能だ。


「そっそんなもの要りません!それにそんなことをしたらあなたがっ!」


 モビーはイシュメルの提案をはっきりと拒絶した。


「もし、俺が死んでも俺の代わりにこの暖かい景色を見続けてほしい」


 イシュメルは有無を言わさぬ口調でそう言った。


 モビーを守る両親はもういない。イシュメルがいなくなれば彼女は一人で生活しなければならない。しかし目が見えないのではあまりにも不便だ。

 これはイシュメルが彼女に贈れる唯一ものだと彼は思っていた。


「危険ではないのですか?」

「危険だ。失敗すれば死ぬ可能性もある。だが、君の安全は保障する。俺の命に代えても」


 矛盾している。そんなことはイシュメルもわかっている。しかし彼は自分の命に代えても彼女を幸せにしたかった。聖騎士はいくらでも替えが利く、しかしモビーは違う。そんなことを彼は考えていた。


「どうして…」

「君が好きだ」


 ◆


 モビーはもう一度光を得た、イシュメルの命と引き換えに。


 魔女が目を覚ます、愛する者のために。


 聖騎士がやってくる、魔女を討伐せんとして。


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鯨の見た夢~聖騎士と魔女のよくある話~ テラステラス @issaku-kyukonn

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