はじまり
吉祥寺にあるスパイスカレー屋、だるまのフリーターを長らくしているわたし、咲はその日も店にいた。
2名がけテーブルが2つ、あとはカウンター5席のみの狭い店のキッチンはさらに狭く、店長である孝太郎さんとよくぶつかる。孝太郎さんはとても大きい。はっきりと聞いたことはないけれど、183センチ105キロくらいだろうか。
冬でもこの店の暖房はなかなか仕事を与えられないのはそのせいだろう。この店が体の芯から温めるスパイスをたっぷり使ったメニューを提供していてよかった。そうでなければきっといまのような寒い季節にわたしは到底暮らしていけないだろう。ただえさえ貯金できない性分なのだから。
彼は就職活動はしたものの、ピンとこないという理由で大学卒業直前に内定を辞退し、フラフラとしていたわたしを救ってくれた恩人だがどうにも好きにはなれない。だるま、というネーミングセンスも気になってしまう。
まあそれが世にいうフィーリングというものなのだろう。
それでもほぼ毎日2人きりで働き続けていて辞めたい、とは思わないのだからこれはこれでいいことだと思っている。同僚は友達ではない、と誰かが言っていた。2年おきに転職を繰り返すこれまたやる気があるのかないのかわからない昔の友人の顔が浮かぶ。
那央はこの店に男の人と来た。
彼氏か、とのちに聞いたがそうではないらしい。性的な関係があるわけでもなく、那央の思いは彼に伝わっているが届かず、宙に浮いているらしい。友達、という言葉は非常に曖昧でときに厳しい。
彼はその時以来見かけていないが、那央は週に二、三度カレーを食べにくるようになった。どうやらもともとあの日も那央の提案で来店したようだ。
那央はランチタイムが終わりかける14時すぎごろ店が暇になったタイミングにいつも来る。カレーを頼み、彼ときた時よりもゆっくりとひとくちひとくち口へ運び、ランチ営業の15時半までいる。席はいつのまにかカウンターの一番右端と決まっていた。
最初に話かけたのはわたしから、ということになるのだろうか。那央にあれはわざとだったの?と尋ねたこともあるが口周りの皮膚の薄い人特有の笑みでごまかされた。
ただ、あの日店の椅子の下に忘れていったハンカチはわたしにくれた。
二重 碧海 山葵 @aomi_wasabi25
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