憎悪

紫陽_凛

憎悪

 13になるハジャ皇子が父王から賜ったのは、美しいシロヒョウの獣人であった。もとは戦士だったのであろう、そこかしこに生傷があったが、肌は清められ、傷は手当てをされていた。うっすらと白い毛が生えた胸板から、人とそう変わらぬなめらかな下肢まで、衣服を纏っていなかった。なので、雄であることはすぐにわかった。

 父王は「好きなように使うと良い」とだけいい、獣人の首輪につながる短い鎖をハジャに手渡した。ハジャは父王からのはじめての賜り物を恭しく受け取った。

 このたび、兄たちに与えられたのは領土であったが、ハジャに与えられたのはこのシロヒョウのみだった。


 長きにわたる戦が終わり、隣国との「」がなされたことは記憶に新しい。このシロヒョウもその一つ、いわゆる人質だ。

 ハジャは兄たちほど愚かなわけではなかったので、このシロヒョウが単なる人質ではないことをうっすらと感じ取っていた。おおかた、軍の偉方。それか、ハジャのように王族か。戦士として戦ったらしいところを見るに、王子だとすれば下の方だろうか。

 だとすれば、ハジャと同じだ。

 ハジャは少し後ろを歩いていたシロヒョウをじいっと見上げた。首を真上に向けなければならないほど、その背は高く、体躯はしっかりとしている。その気になればハジャなど食い殺してしまいそうなのに、彼の目には反抗の意思が見えない。澄み渡る湖のような眼が、ハジャを見下ろした。黙ったままの瞳に高貴さが失われていないのを見たハジャは、好奇心から尋ねた。

「名はなんという」

シロヒョウは答えなかった。ハジャはやや語気を強めた。

「言葉がわからぬ訳ではなかろ」

「……ハヌム」

「ハヌム。ハヌムか。いくつだ」

「数えで26になります」


 ハジャは即座にハヌムに服をあてがった。白い体に映える鮮やかな原色の衣類を、ハヌムは表情ひとつ変えずに着こなした。

 ハジャは出歩く時必ずハヌムを連れて歩き、その巨躯を宮殿のものたちに見せびらかした。ハヌムは美しかったし、そんな美しく強大なハヌムを連れている自分はもっと力を得たような気持ちだった。ハヌムはハジャの力、そして財産……宝物であった。


 しかしハヌムの美しさを理解したのは、なにもハジャだけではなかった。


 野暮用があって遠出をしたハジャは、留守の間ハヌムを部屋に繋いだままにしておいた。その隙に、好きものの男どもが数名、ハヌムが繋がれて逃げられないことをいいことに、夜な夜な彼に暴力を働いたのだ。

 宝物を汚されたハジャは激怒した。

 三日三晩喚き、下手人と思われる男たちのそっ首を刎ねて庭先に並べてやった。宮中の者は残らず戦いて、ハジャを遠巻きにした。殺された中には無実のものも混ざっているという噂もあったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 血飛沫にまみれたハジャは、そのまま血まみれの手でハヌムの胸ぐらを掴んだ。


「なぜ抵抗しなかった」

「この国の民を傷つければ、祖国の民が傷つけられる」

「なぜ助けを呼ばなかった」

「従僕が凌辱されたと、あなたの名に傷がつく」

「おれの名だと!?傷も何もあるものか!」

ハジャは喚いて、ハヌムの胸に顔を押し付けた。

「おれはくやしい。おれはくやしいのだ、ハヌム。お前を置いていったせいでこんなことに。すまない……」

ハヌムは目を細めただけだったが、ハジャには知る由もない。




 その一件以来、ハジャはいっそうハヌムを寵愛するようになった。片時も鎖を手放さず、同じ褥に眠り、部屋を開ける時も必ず連れて歩いた。王が妾を連れて歩くよりも高い頻度で、彼らは共にいた。宮殿のものたちは、ハジャとハヌムを「そのように」認めて扱った。

 だから、国の叡智を集めた図書館へ出向くときも、父王への謁見のさいにも。つねにハジャの左手はシロヒョウの首輪につながっていた。ハジャがそれぞれに用を足す間、シロヒョウの瞳はどこを見ていたろうか。ハジャは気にも留めなかった。ただ、左手に握る鎖の先に、ハヌムの存在を感じとっては、ハヌムはおれのものだ、と何度も繰り返し言い聞かせた。

そうこうしているうち――ハジャは16に、ハヌムは29になっていた。


「ハヌム」

 ハジャは夜、隣で窮屈そうに体を縮こめるハヌムに、こう打ち明けた。

「おれはお前をおれのものにしたいのだ」

「わたしはもはやあなたのものでは」

 ハヌムはあの湖のような瞳で尋ねた。ハジャは赤面し、首を横に振った。

「違う。そうではない。お前はおれを一度も見ないから」

「見ないとは」

「……お前の瞳の焦点はどこにある?ハヌム」

 ハヌムははじめて、ハジャを見つめた。少なくとも、ハジャはそう感じた。彼ははじめて、俺を見た。

「故郷か。家族か。……それとも」

「許嫁が」

 すうっと、ハジャの背が冷えた。冷え切った後、ぐつぐつと、何かが煮立つように溢れかえってきた。ハジャの変化に気づかぬまま、ハヌムは続ける。

「笑顔の可憐な娘です。花のよく似合う、素朴な……」

 聞いたことのない優しい声。今でもハヌムは、その許嫁のことを愛しているに違いなかった。

 もう良い、しゃべるなと。言ったか言わないか、わからない。ハジャはハヌムの首輪を掴んで、その首筋に噛み付かんばかりに抱きついた。

 衣服の留め具を外して、性急に肌に触れていく。半獣人独特の、獣のざらついた肌に五指で触れる。緩やかな筋肉の隆起を確かめるように、窪んだ臍から胸板へ、そして最後に首輪に触れた。

「……お前はおれのものだ」

「ハジャ皇子」

「お前はおれのものだ」

 繰り返される言葉に、ハヌムは頷くしかなかった。

「ハヌム」

ハジャは下肢を覆っている衣服の紐を緩めてから、横たわるハヌムに手を延べ、囁いた。

「こちらへ」


 そして、ハジャとハヌムが褥を共にしたのはその晩が最後だった。









 獣人族一斉蜂起の報を受け、ハジャは炎に包まれる城下を見下ろした。背後から、鎖を引きちぎった獣の鼻息が聞こえる。

「ハヌム」

 振り返れば、ぎらりと光を宿した、刃の切っ先のような眼光。

これが本来のハヌムなのだと、ハジャは瞬時に認めた。

 ハヌムはこの時を待っていたのだ。憎きかたきに犯され、飼われる恥辱に耐えながら。

ハジャはおだやかな声で話しかけた。

「おれはこの三年の間、お前の本当の顔を知らなかったのだな」

ハヌムは沈黙した。言葉を探しているようにも思われた。

「おれが憎いか。ハヌム」

ぎり、とハヌムの歯が軋んだ。名も知らぬ衛兵の血が、彼の口元を汚している。

「……ああ、憎い。俺を、我が国を辱めたお前たち全員が憎い」

 衛兵から奪った偃月刀が、ハジャの首筋にあてがわれる。しかしハジャは、首筋を伝う血をものともせずに、偃月刀の柄を掴んだ。

「なんだ、殺さぬのか」

ハヌムの目が揺らいだ。はじめて、揺らいだ。

「それとも、殺せぬのか」

「うるさい!」


シロヒョウは咆哮した。部屋中の空気をふるわし、窓をビリビリと鳴らすほどの大声だった。


「うるさい、うるさい……お前など、お前など嫌いだ」

「おれは嫌いではない」

「うるさいっ!黙れ、殺されたいのか――」

かたかた震える刃が、ハジャの首に食い込んでいく。ハジャは痛みに目を細め、それでも逃げようとはしなかった。

「――許す。殺せ、ハヌム」

「っ……!」


ぎらりとしたその目がハジャだけを見つめた。ハジャは心底嬉しかった。やっとハヌムがこちらを見てくれた──。


「おれをお前だけのものにするといい。おれはそれでいい。お前のものになるなら、それでよい」






第七皇子ハジャの首が討ち取られたのはその直後のことであった。

未だその首は見つかっていない。

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