第5話 約束
イザークは結局、ルネと話した日には城へ行くことが出来なかった。全てを思い出したイザークは、自分の中で整理をつける必要があった。そうしなければ、クローデットに何を言ってしまうかわからなかったのだ。
五百年かけて忘れたことを一週間足らずで思い出したのを知ったら、賢者殿はどんな顔をするのだろう。イザークはそんなことを考えもした。しかしそうでなければ、クローデットに会うことも無かった。きっとこんな関係にはならなかった。だから必然だったのだと、そう思った。
クローデットの婚礼の二日前、弓張月が明るく光る頃。
隣国へは婚礼のパレードをしながら、着飾った兵士を連れて丸一日かけて行くという。だからこれが、クローデットが塔の上で過ごす最後の夜だった。
「嗚呼イザーク、もう会えないのかと思った!」
クローデットは今にも泣きそうな顔でイザークに抱き着いた。ずっと窓辺にいたのだろう、イザークの胸元に顔をうずめるクローデットの体はすっかり冷えてしまっていた。
「ごめん。少しやらなきゃいけないことがあって。今日の昼間は、君も色々忙しかったようだし」
「ええ……明日は出発ですから。私の花嫁姿、きっと見てくださいね。ルネが──侍女がとても頑張ってくれたのです。だから、だから……」
クローデットはイザークの手を取ってぎゅっとそれを包み込み、祈るように顔を見上げた。
「どうか、私のことを覚えていて」
二人は
燭台の炎がふっと消え、月明かりと風の音だけがあった。
やがてイザークは、クローデットの手にそっと口づけた。
「約束する。絶対に忘れない」
「ありがとうイザーク。これでもう、私は大丈夫」
それ以上、話すべきことは無かった。
イザークとクローデットは静かに夜を過ごし、月が沈む前に別れた。
いよいよ出発の時がやってきた。
城の前には民衆が詰めかけ、パレードを今か今かと待っている。そこへ固い表情の国王や王子たちが並び、最後にクローデットが現れた。
純白の柔らかな生地のドレス。胸のすぐ下を銀のベルトで絞ってあり、自然に広がった裾の銀糸の刺繍が目を引く。首元を飾るのはひだ付きのレース。方の膨らんだ袖の上からは光沢のある群青色の長いガウンを纏い、胸元を銀細工で留めている。亜麻色の髪を丁寧に結い上げ、しずく型の青い耳飾りを両耳に揺らし、ヴェールの上に様々な宝石の着いた冠を乗せていた。その装いに全く引けを取らぬ、整った顔。凪の海に似た穏やかな笑みを湛え、この国に別れを告げようとしていた。
クローデットの姿を見た民衆は皆、感嘆の息を漏らした。クローデットが馬車に乗り込むその時まで、誰も目を離せなかった。だから馬車の下にするりと入り込んだ小さな生き物に気づく者は、一人もいなかった。
大通りをパレードが進んでいく。音楽が鳴り、花が舞い、歓声が響く。そのお祭り騒ぎの中を、厳粛な顔をした兵士たちが歩く。花嫁の馬車は窓が開けられていたが、クローデットは微笑んだまま、外を見ようとはしなかった。
賑やかな城下町を出て、川を渡り、田園を過ぎると、もはやパレードに祝福の空気は無く、ただの行軍と化していた。花嫁の華やかさが空々しく、しかし誰の目にも美しく映っていた。
国境近くの領地で一夜を過ごした一行は、再びパレードの体裁を整えて隣国へ入った。自国よりも豊かに栄えた町と荒れた戦場跡を抜け、予定通りに王城へとたどり着く。一見、要塞のごとく飾り気のない堅牢な城。しかしその内側は贅を尽くした絢爛さで、この国の富を見せつけていた。
その世継ぎの婚礼となれば、側室とはいえ当然、豪華さを極めたものとなった。厳かな儀式は最初だけで、真珠を溶かした酒やら、美しい鳥をその場で捌く料理やら、奴隷女の踊りやらで大騒ぎだった。その中で、クローデットの美しさは称賛されど、属国の田舎者だなんだとあらゆる皮肉や侮辱を一行は浴びることになったが、反撃の時のために耐え忍んだ。
クローデットは毒を使う機会を狙っていたが、それはなかなか訪れない。正室がずっと冷たい目で見てくる上に、夫になった男が腰や足をいやらしく触ってくるのだった。婚礼から初夜を迎えるまで花嫁は言葉を発してはならないという習わしのおかげで秘密は守られているものの、焦りだけが募る。そのうちに祝宴は、遂に終わってしまった。
男に手首を掴まれながら迷路のような通路を進み、クローデットは寝室に連れていかれた。扉の閉まった瞬間、乱暴に寝台へ突き飛ばされる。
「ああ、この時をどんなに待ち望んだことか」
クローデットよりも一回り以上年上の、丸々とした腹の男が自らの上衣を脱ぎ捨てた。
「全く、お前の国は王家もろくに食えていないのか? 顔は誰より美しいが、骨ばかりでは興ざめだ。まぁ、これから育てると思えば悪くない」
のしかかってくる男の手が、クローデットが払いのけるよりも早く胸に触れた。もう、この相手を殺す機会は無い。それならばやることは一つだった。
「おい! まさか、男なのか……!」
クローデットは寝台を転がり出た。男を睨みつけつつ、耳飾りの片方からしずく型の硝子だけを引き抜く。その小さな硝子飾りに毒薬が入っているのだ。それを一思いに飲み干そうとしたその瞬間、手元からはじけ飛んだ。
驚いたクローデットの前に、部屋の隅から小さな影が躍り出たかと思うと、漆黒の馬が現れる。
「乗れ!」
馬の口から聞こえたのは確かにイザークの声である。クローデットが素早くその背に乗ると、威嚇するように大きく
黒馬のイザークは猛烈な速さで駆け抜ける。騒ぎはどんどん大きくなっていくが、追っ手は少ない。あちこちで兵の声が上がり、剣のぶつかる音が響きだす。ついには城から火の手が上がった。奇襲が始まったのだ。
クローデットは黒馬の首にしがみつきながら、それを呆然と見つめた。城はどんどん遠くなる。やがて追っ手の姿も見えなくなってしまった。
「イザーク、これは、どういうこと?」
小高い丘の上で馬の背から降りると、クローデットはか細い声で言った。
「君はもうクローデットにならなくていいってことだよ、クロヴィス」
乱れた花嫁衣裳を着たままの少年が、驚いて言葉を失った。
黒い馬から人の姿に戻ったイザークは、息を切らしながらこう続けた。
「僕はやっと思い出したんだ。大事な人がいたのに、最後には僕の魔法で失ってしまったことを。だけどそれは、確かに彼の願いを叶えるためだった、ってことを」
イザークは息を整え、クロヴィスに向き直った。
「魔法はいつだって、誰かの願いを叶えるためにある。君も僕に願っただろう? 『私を覚えていて』って。だけどそれはクローデットとしてじゃなく、クロヴィスとしてじゃないのかい」
クロヴィスは、真珠のような涙をぽろぽろと零した。その涙を、イザークがそっと指で拭う。
「それならここで死ぬのは早過ぎる。それに、お姫様を
「イザーク……ありがとうイザーク、だけど私にはあなたに返せるものが何も無い」
「じゃあ君が僕のことを覚えていて。僕が君を覚えているから」
野心的な大国と属国との戦いは奇跡的に小国の勝利に終わり、その独立を果たした。
それから
私の悪い魔法使い 灰崎千尋 @chat_gris
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