橙:三
「なあ、あいつに謝れないかな。絶対、昨日の俺が悪かったって……」
登校してから、大樹はずっとこの調子。事あるごとに私のもとへ縋り付いてくる。
そんなの私に言ったってどうしようもない。そもそも大樹が悪いわけでは、もっと言えば誰が悪いわけでもないことだと思う。
そう伝えても引き下がらない。人情に厚いのか、諦めが悪いのか。多分、両方。
「昨日はありがとうな」
帰り際、木田が来て昨日の様子を聞かれた。何故、何が原因だったのか、肝心なところは教えてくれないが、図々しく聞けるものでもない。
今日、律は学校を休んだらしい。それを聞いてしまえば余計に心配になる。あのまま、影に飲み込まれて出てこられなくなったんじゃないか。
今日はそんなことばかり。律のことばかり聞かれて、考えて。余計な心配を携えて、昨日と同じ道を辿る。絵に描いたような普通の幸せが揃った家の前。
突然押しかけるなんてどうかしている。たかがクラスメイトの私に配布物を渡してくるよう言う木田も、どうかしている。鞄には頼まれたプリント各種。加えて、律に渡すよう、こっちが木田に頼むはずだった絵たち。ここまで来て引き返すわけにもいかず、躊躇った末にインターホンを押した。
『はい、どちら様ですか?』
女性の声。その柔らかさは、律に似ている。
「律くんのクラスメイトの葉山と申します。律くんに渡すものがあって––––」
『あら! ちょっと待ってね』
声だけでも伝わるほど嬉しそうなその女性––––素性を聞くまでもなく律の母親は、すぐにドアを開けて出てきた。
「こんにちは、どうぞ中入って」
「あ、いや、すぐ帰るので、」
「まあまあ、時間あったらお茶でも飲んでいって?」
想定より手厚い歓迎に動揺する。そういえば、人の家を訪ねることなんて久しい。迷っていれば「嫌だった?」と聞かれて、誤解を与えないよう強く否定した。すると、「じゃあ入って」なんて意気揚々と招かれる。
適当に理由を付けて帰っても良かったんだけど。朗らかな笑み、明るい声、全てを包み込むような雰囲気に、母性、というやつに、吸い寄せられてしまった。
玄関を抜け、右手のリビングに通された。部屋の広さ、家具の色合い、排除されすぎない生活感、全てが創り出す落ち着いた空間。華美でなく趣味の良い装飾品と––––、人の家をじろじろ観察するのは良くない。
椅子に座るよう促される。テーブルの上にはパステルカラーの花。そこに、香りの良い紅茶が出された。
「ごめんねえ、お茶菓子切らしてて」
「あっいえ、お構いなく」
女性はころころと笑いながら向かい側に座り、改めて律の母親だと名乗ったうえで〝ひかりさん〟と呼ぶよう言った。
「あなた、もしかして美彩季ちゃん?」
驚いた。私の存在が認知されているのか。
少し狼狽えつつも返事をした。
「やっぱり! 律からよく話聞くのよ。昨日も、一緒に帰ってきてくれたでしょう?」
窓から覗いちゃった、と肩をすくめて笑う。〝てへっ〟とでも言わんばかりの仕草。
「昨日は……大丈夫でしたか、帰ってから」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れちゃったみたいだけど」
何が大丈夫なのか。よく分からないのに、大丈夫なはずがないのは明白なのに、不躾にも聞いてしまったそれは笑顔で返された。
律は昨日から自室に籠りっきり。それでも声を掛ければ姿は見せてくれるから、食事も持っていけば少しずつ食べているようだから、大丈夫。
そんな深刻めいたことを軽い口調で話すひかりさんは、この状況に慣れているのか。はたまた、深刻に受け取られないようにわざと、なのか。いずれにせよ〝大丈夫〟を言葉通り受け取れない私は、ひかりさんの目を見られなかった。
「美彩季ちゃん、」
ふと名前を呼ばれ、視線を上げる。
「律はね、最近すごく笑顔が増えたの」
「そう、なんですか」
「そう。『話せる人が出来たんだ』『一緒に絵を描くんだ』って、本当に嬉しそうでね」
本当に嬉しそう、なのは、ひかりさんも同じだ。
「あの子が同級生と話せるの、久しぶりだから」
にっこりと微笑むその表情には、喜びと、安心と、感動と、全てが詰まっている。
何があったのかは聞かない。それを聞いていいのは、もっと特別な、律が選んだ存在だけだろう。私には縁の無い話。
ただ、その笑顔が、純粋に私に向けられたものと認識出来たから。胸の奥がほんのり、温かくなった。
「気にかけてくれてありがとう。お世話になってるのね」
「いえ、こちらこそ」
「美彩季ちゃんが素敵な子で良かった。これからも仲良くしてね」
ふふっ、っと笑いながら紅茶を飲む姿は、温かく受容されるようで。
ただ、『仲良く』なんて言葉には曖昧に頷いた。
そろそろ律呼んでくるわね、とひかりさんは席を立ち、戻って来た時にはまた笑顔で、
「すぐ来るはずだからゆっくりしてね。私ちょうど買い物行きたかったのよ」
と言いながら、いそいそと出掛ける準備を始めた。
「あの、ありがとうございます。お茶も、お話もしてくださって」
「うふふ、こちらこそありがとう」
ゆったりと、優しく、誰でも包み込む。母親とは、多分そういうもの。
ドアノブに手をかけてから、「そうだ」と嬉しそうに引き返してきた。
「連絡先、聞いてもいい?」
そんな提案、にこやかにされたら断る術は無い。
交換してから気づいたのは、律の連絡先は知らなかったこと。特に聞く理由も無かった。けれど、親とは連絡出来るというこの状況はなかなかに珍妙だ。
これで私と美彩季ちゃんも友達ね、とウインクをして、ひかりさんは出掛けていった。
入れ違いのように足音が近づいてくる。ゆっくりドアを開けて、パーカーの袖を握り締めながら、ふわふわの髪の奥で瞳を揺らしながら。
* * *
目が覚めたのに、脳は起きた気がしない。
身体を起こしたいのに、動けない。
ぼうっとしたままいつの間にか寝ていて、悪夢にうなされてまた起きる。
昨日からずっと、そんな調子で。
また堕ちてしまった自分が心底嫌いだ。恐怖に支配されると周りが見えなくなるのも、いつまで経っても克服出来ないのも。俺の弱さ、全部が嫌い。
茶髪の彼。今考えれば、全く高圧的ではなかった。きっと自分本位でもなかった。ただ俺が話せなかったから、言葉を促していただけ。それなのに、俺は––––。
横になったまま、ベッドサイドに置いてある輪ゴムを手探りで取った。脱力した左腕を掲げ、手首をそれで弾く。ぱちっと、微かな痛み。数本の傷痕に重ねるように、繰り返し、繰り返し。これだけで耐えられるようになったのだから褒めてくれ、というのは驕りでしかない。
それにも飽きてきた頃、ドアがノックされた。
「律、出てこられる?」
こちらを窺う母の声。
お昼、まだ食べ切ってないや。取りに来てくれたのなら申し訳ない。
そんなことを思いながら、なんとかベッドから這い出てドアまで辿り着いた。ゆっくりと開けながら、ごめん、と言う準備。
見えた顔は、何故か嬉しそう。
「律おはよ。美彩季ちゃん、来てるわよ」
––––美彩季? どうして?
「渡したいものがあるって。リビングで待ってくれてるから、お話しておいで?」
私は買い物行っちゃうからお願いね、と去りながら微笑む。俺の心の内を読んだような言葉は、さすが母親としか言いようがない。
会ったところで、何が話せる? 昨日の事は聞かれても上手く説明出来ないだろう。今の俺は最悪なほど陰鬱で、臆病で、目も当てられない。
でも不思議と、来てくれたことへの嬉しさが働いて、そのまま一歩ずつ彼女が待つ部屋へ進んでいった。
美彩季なら変わらず接してくれる。美彩季なら、きっと、大丈夫。
誰彼構わず怯える自分を、そう奮い立たせた。
「ごめん、急に来て」
「……いや、来てくれて……ありがとう」
制服のまま、期待通りいつもと変わらない美彩季。違うのは、会う場所と、私服でぼんやりした俺。学校に行けなかったことを改めて悔やみながら、彼女の正面に座った。
「時間……平気? ……うちの親、はしゃいでた、でしょ。……ごめん」
「全然。優しくしてもらった」
今日予定無いし、と呟く視線の先にティーカップ。同級生が家に来ることなんて小学生以来だから、張り切って出してきたんだろう。強引ではなかっただろうか。
引かずに受け取ってくれた美彩季は、やはり優しい。
当の本人は素知らぬ顔で、鞄の中からファイルを取り出した。
「これ、木田から」
中身はプリント。特に急ぎの連絡ではなさそうなものばかり。
「……あ、……ありが、とう」
「ん。あとこっちは渡したかったやつ」
そう言ってまた別の、二つのファイルを取り出す。一つには昨日預けてしまった絵。もう一つには四枚の、彩色された絵。––––俺が描いた、絵。
「っ、これ……、すごい……!」
美彩季が色を付けてくれたのだ。思わず手に取ってまじまじと見つめる。絵の具ではない。色鉛筆でも、ない。何を使ったのか聞けば、鉛筆画をタブレットに取り込み、アプリで彩色したと言う。つまりはデジタルアートの要領。
「一日で全部……」
「暇だったから」
表情も声色も変えずに言う。しかし、視線が横にずれた。照れ臭いのだろう。
「ううん、すごいよ……ありがとう」
「まあゆっくり見てもらって、今度一個決めよ」
その提案に頷いて、また絵を見る。
頬が緩む。この絵のおかげで、先程まで燻んでいた世界すら色付いて見える。命が吹き込まれたような感覚がした。絵にも、俺自身にも。人の体温が戻って来たような。
美彩季の方をちらりと窺う。笑顔だった。穏やかな、慈悲深い笑顔。窓から差す西日に照らされた彼女は、さながら〝女神〟、なんて思ってしまった。
ああ、俺はこの温かさに包まれたのか。
ふと目が合った。逸らしてしまって、すぐにまた見る。
––––今なら話せる。話したい。
「……美彩季、」
「ん?」
目を見られるのは正味三秒。名前を呼んだ後はその顔とテーブルとを行ったり来たり。
「……昨日、ごめん」
「え、何が」
「……落ち着くまで一緒にいてくれたのに、突き放した。そのくせ帰るの、付き添ってもらった。……あと、驚かせた、と、思うし、」
真っ直ぐ目を見て、伝えたい事。
「迷惑かけて、ごめん」
「迷惑じゃないよ」
こちらの声を食うように、ふっと笑われながらも諭された。
「たまたまそこにいて、お節介しただけだから」
「いや、違う」
必死に首を振って否定する。そんな事を言わせたかったのではない。謝りたかった訳でも、ないはずだ。
「あんな態度じゃ普通、引く、でしょ? 離れたくなるでしょ? ……でも、傍にいてくれたから、」
俺が伝えたかったのは、感謝。
「安心、した。……ありがとう」
瞬きが数回。それまで正面を、俺の方を見ていた美彩季が視線を落とす。
「まあ、役に立ったなら良かったよ」
どうやら、美彩季は感謝されるのが苦手なようだ。
「……じゃ、帰ろうかな」
「あっ、ちょ、っと、待って」
気まずい顔をして帰ろうとする姿を、反射的に引き留めてしまった。
「その……、時間、あるなら、もうちょっと……話したい」
少し間が空いた後、美彩季は再び椅子に腰掛け、こちらを窺う。
「じゃあ、何話す?」
話したい事は、決まっている。
〝苦しいことも、正直に話してごらん〟
石井先生の言葉が思い出された。
俺は、変わりたい。そのために、まずは自分を曝け出す覚悟を。
「……美彩季に、聞いてほしい。俺のこと」
「律のこと?」
「俺、……中学の頃、いじめられてて、」
小学生の頃はなんて事なかった。
授業を受けて、休み時間は教室で絵を描いて、放課後は友達と遊びに行って。
平凡な子ども。その頃から人見知り、気にしいな所はあったけど、本当に普通の子だった。いや、ちょっとだけ周りよりも真面目だったかもしれない。
それが仇になったのか。
中学に入ると、真面目さが少し浮き始めた。––––浮く程度ならまだ良かった。
あれは、まだ梅雨にも入っていない頃。
ある生徒が鞄を探していた。とても悲しそうだったから、辛そうだったから、一緒に探して。見つけたらお礼を言われて。
でも、その前に見たんだ。それを同級生が持っているところ。きっと隠したんだ。
だから、そういうのは良くないと思う、って言った。
次の日、呼び出された。同級生と先輩達、合わせて五人。主導は先輩の方。
その日は、目一杯に恫喝された。次の日は殴られて、蹴られた。その次は教室中から無視された。
あいつらの豪快で下品な笑い声。何が楽しかったんだろう。
ある時、一緒に鞄を探したあの人と遭遇した。どうしよう、って、相談してみようと思った。
でもその前に、「お前のせいで余計に殴られた。ふざけるな」って。
俺は、間違った事をしたんだ。良かれと思ってやった事は、あの人にとっては最低な事だった。俺が受けているのはその罰だ。
とうとう味方がいなくなって。先生は見て見ぬふりで、親にも言えなくて。される事全てがエスカレートしていって。学年が上がってクラスが変わっても、ずっと続いて。何も感じなくなってきて。
忘れもしない、二年生の七月。夏休みまであと五日だった。
あと五日、やり過ごせば。でも休みが終わればまた、なのか。
そんな事を思ってよく見ていなかったから。いや、誰かに押されたような感覚は、確かにしたんだ。
階段から落ちた。
次の記憶は病院。母さんは泣いていた。「気付いてあげられなくてごめん」って。
俺が隠してたんだから。俺が悪いのに。
その一件を境に、感じなくなっていた恐怖が一斉に襲ってきた。
苦手な物がたくさん出来たけれど、一番は人が怖くて。学校には行けない、そもそも外に出ることも不可能。
でも、カウンセラーの先生も、家族も、味方になってくれたから。進学先を決める頃にはかなり回復していた。
高校に入ったら、ちゃんと通いたい。クラスで過ごしたい。そう思って。
結局のところ、入学式から一週間でまた駄目になった。
余裕が生まれて、自分を過大評価してしまった。もう大丈夫って、思ったのに。病院でも、家族にも、そう伝えたのに。恐怖心はそう簡単に撲滅出来ないらしい。
そして今。教室に入る事は、まだ出来ていない。
一つ一つ、言葉にして伝える。忌々しい記憶を甦らせながら。
気付けばまた、苦しくなっていて、美彩季はまた、隣で屈んで背中を摩ってくれていた。
「でもっ、俺、変わりたくて、人と、話せる、ように、友達に、」
「ん、分かったから。一回落ち着こ」
浅い呼吸の隙間に並べた願い。美彩季は静かに聞いてくれた。
その掌のリズムに委ねると、徐々に息をしやすくなる。まだ過呼吸になる手前、すぐに落ち着いた。
「ごめん……ありが、とう」
「謝んなくていいから」
背中に乗っていた手が離される。美彩季はそのまま、床に視線を送りながら口を開いた。
「……友達かどうかは知らないけどさ、」
彼女の、強い意思の灯った目。吸い込まれそうなその瞳に見上げられる。
「律は、私と話せるように、なったんでしょ?」
ゆっくり、咀嚼しやすいように話される。
––––そうか、俺は少しずつ、果たせているのか。
「そう……だね」
雫が一滴、頬を伝った。必死に堪えてきたのに。泣いている姿は、どうしてもそれだけは見せまいと強がってしまう。だから慌てて拭った。
「あの、俺、人が苦手になっちゃって、でも一人ぼっちも怖くて。……こんな面倒臭い奴に付き合ってくれるの、美彩季くらいだよ」
「そんな事ないでしょ」
「そんな事あるよ」
未だ何とも思っていないような顔。自分がどれだけ一人の人間の力になったかを認識していない。
「カウンセラーの先生がさ、『苦しいことも誰かと共有すれば楽になる』『それが出来る人を増やしていこうね』ってよく言ってて。美彩季ならって思ったから、話せたし、案の定ちゃんと聞いてくれた。……本当、こんな優しいの、美彩季くらいだと思う」
「……へえ」
そそくさと立ち上がり、元いた椅子に戻っていく。照れ隠し、だろうか。感謝されるのが苦手なら、今の発言も動揺させたかもしれない。でも、伝えたかった。
無愛想なようで分かりやすい時もある。垣間見えるその一面は、美彩季の、誰にも真似出来ない大きな優しさの表れだと思うから。加えて、同じ孤独の片鱗が見えるから。〝友達になって〟なんて改まって言うことでもないし、恥ずかしくて言える訳ないけれど。美彩季なら受け止めてくれるって、思えた事。それだけでも伝えたかった。
美彩季が帰ってしまう前、「連絡先、交換してもいい?」と聞いたら少し笑われた。何故なのかは分からないけど、交換してくれたから良し。これできっと、もしまた来ても〝急にごめん〟なんて言わせる事はない。何より、もう友達と名乗っていいかな、と思えることが嬉しかった。
自室に戻り、ベッドに座った。一人は寂しい。
ふと気付いたのは、リストバンドをしていなかったこと。袖があるから手首から上が見えていた訳ではない。それでも、普段は人に会う時は完璧に隠さないと落ち着かないのに。それだけは忘れた事はないのに。だから少し、前に進めている気がした。
窓を開けて外を見る。空の半分、橙色が濃く現れていた。涼しい風がさっと髪を揺らすと、甘い香りがする。繊細で健気な、金木犀の季節。
と、昨日の朧げな記憶が再生された。そういえば、いろいろな話をしてくれていた。
美彩季も好きかな、金木犀。雰囲気が似合うと思うけど。昨日も今日も、暗くなる前に帰れたかな。
自然と、先程の笑顔まで思い出された。また自分の中に、優しい温度が沸き上がってくる。
寂しく、ないかも。
心を晴らすのは、意外にも単純なことだったりする。もう学校に行けるだろうか。いや、明日病院に行って、月曜からでもいいか。大事をとって、という言葉は使い所まで学んだ。
ただ、鬱々と籠っている事だけは止めたい。
外に出よう。お気に入りの公園まで、歩いて三分。夕焼けが消える前に。
美術室、彩る黒 日向あじさい @h-ajisai
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