橙:二

 放課後。例によって美術室。例によって二人。


「これ、どうかな」


 既に先週と同じ席で待っていてくれた美彩季の前に、四枚の紙を取り出す。

 次会う時までに、演劇のあらすじをもとに看板の構図案を描いてくる。そう提案した。なんでも、かの有名な童話・白雪姫を〝ハートフル・コメディー・ミステリー・ロマンス〟にアレンジするらしい、とのこと。最初は、というか今も理解が追いついていない。もっとも、教えてくれた美彩季もよく分かっていないという。

 それでも、構築する材料は十分だ。看板だから、多少は大袈裟に。絵と文字を融合させつつ、見やすいように。制約のように聞こえるが、お題がある中で想像を膨らませるのは新鮮で、心が踊った。

 美彩季は四枚の絵を前に、感嘆の声を漏らした。その事実に、嬉しくなる。


「一週間で四つも考えたの? すごいね」

「いや、どれか選んでほしいと思って」


 彼女の笑顔は、満開という表現は似合わないが、嘘が無く優しい。今、いつもの微笑よりほんの少しだけ、華やいでいたと思う。喜びもありつつ何だかくすぐったい。


「んー迷う」


 全部使いたいくらい、なんて呟きながらじっくりと絵を見比べ悩み始めた。描き手冥利に尽きるとはこのことだろうか。

 存分に吟味するため、それぞれどのようなイメージで描いたのか等々説明が欲しいと要望された。説明というより、力を入れた部分を紹介しているけれど。


「––––だから、この林檎を主役に持ってこようと思って。やっぱりミステリーで言うところの凶器になるだろうから、」


 一度話し始めてみれば、自分の絵についてこんなに熱弁をふるえたのだと驚く。


「この案はこんな感じかな」

「ん、ありがと。なるほどね」


 美彩季は適宜頷いたり相槌を打ってくれた。話を聞いてくれることが、興味を持ってくれることが嬉しくて、つい長々と話してしまう。


 最後の一枚の説明に移ろうとした時、ドアが、開く音がした。

 反射的に顔を上げると、そこには以前、美彩季と一緒に勉強していたであろう明るい髪色の男子が立っていた。


「よお! 本当に二人でいるんだな!」


 久しく触れていなかった声量に、身体が僅かに跳ねる。


「うるさい、何」

「いや、ちらっと覗いたらいるからさあ。何してんの?」


 その人の方は見ていられなくて、美彩季の方を窺えば特段変わった様子も無く接している。当然だ。知り合いなのだから。

 歩いてくる。美彩季に何やら話しかけている。その間、俺は下を向くことしか出来ない。

 来るな。俺には近付かないでくれ。


「あ、これお前が描いたの?」


 悪い予感は的中するもので、その人はこちらを向いて話しかけてきた。

 俺が描いたと言えば、どうなるのだろうか。そう考え始めてしまい、上手く声が出せなくなる。


「あ……、え……っと……」

「だーかーらー、お前が描いたのかって」

「大樹、」


 美彩季の呆れた声にその人が振り向いた時には、もう遅い。


 大きな声。自分本位の態度。高圧的な話し方。

 あの時の、あいつらにそっくりだった。

 重なって見えた。


 刹那、恐怖に支配された。

 笑われる? 殴られる? 蹴られる? 一人ぼっちにされる?

 心拍が上がって、冷や汗が出て、上手く息が出来なくなって、自分が何処にいるのか分からなくなって。何度喰らっても慣れない感覚。胸を摩っても、ぐっと握り締めても、争うことはできない。

 苦しい。身体も、心も、全部。

 手段としては分かっている。まだ残っている冷静な自我を奮い立たせ、胸ポケットのケースから薬を取り出す。なんとか噛み砕いて飲み込めば、後は前屈みのまま待つしかない。


 段々と落ち着いて、周りが見えてくる。そこにはもうあの人はいなかった。

 代わりにあるのは、背中の温もり。

 目線だけで原因を探れば、いつの間にか美彩季が左側に座っているのが分かった。その手が、ゆっくりと俺の丸まった背を上下する。


「律、」


 そう呼ぶ声にどういった思いが含まれているのか、今の俺には分からなかった。

 この状況を見て、どう思っているのだろう。変だと思われただろうか。面倒だと思われただろうか。迷惑をかけているだろうか。そうやって、また嫌われていくんだろうか。

 黒々とした感情が体内を占拠する。頭に靄がかかって、何も考えられない。


「……ごめん、……一人に、して」


 温かさが欲しいのに、一人は嫌なのに、怖くて仕方がない。辛うじて絞り出せた訴えは、仮にも介抱してくれた人に向けてはいけないもの。

 流れる沈黙の分だけ、罪悪感が醸成される。


「……分かった。十分で戻る」


 彼女はゆっくりと席を立ち、出ていった。


 人への恐怖に負けた。汚い感情に沈んだ。迷惑をかけた。温かい手を拒絶した。

 そんな自分が嫌で、嫌で、消えてしまいたい。

 静寂の中、自己嫌悪だけが駆け巡っていた。



        *         *         *



「木田ー!」


 印刷室から大量の配布物を抱え戻ろうとした途端、背後から大声で呼ばれた。


「木田な、どうした?」

「あいつがやばいんだよ!」


 全くもって伝わらない。もう少し国語を勉強してくれよ。


「具体的に言ってくれないと分からないだろ。誰が何だって?」


 詳しく聞けば〝あいつ〟が〝やばい〟と形容する他無かった訳が理解出来た。焦りも相まってまとまらない内容を圧縮すると、黒瀬が苦しそうにしている、ということ。


「俺どうしたらいいか分かんなくてさあ。とりあえず美彩季に『先生呼んで』って言われたんだけど……。あいつ何か病気なの? ってか俺が急に話しかけたからかなあ?」


 確かに話を聞く限り、黒瀬は伊東に驚いてしまったのだろう。だからといって責任があるとは言えない。


「お前のせいじゃないよ。ちょっと待ってろ」


 病気、かどうかは俺が説明するべきではない。黒瀬自身が話したいと思った時に、自ら話せるようになった方が良い。

 兎にも角にも美術室へ状況を確認しに行く必要がある。両手の荷物を職員室のデスクに置いてから廊下に戻ると、葉山も合流していた。


「おお、葉山も来たのか」

「先生誰も来ないし、一人にしてって言われたし」


 流石の葉山も、少し浮かない顔。憂慮の念が見た目で伝わるほどに。伊東は「絶対俺のせいじゃん」と未だに悄気ている。今こいつは連れていけないな。


「黒瀬は大丈夫だから。二人はもう帰れよ」


 そう告げてから美術室へ向かう。伊東は肩を落としつつも帰ったようだが、葉山は俺の後ろをついて来た。


「どうした? 葉山も帰れって」

「いや荷物、」


 ああ、そうだよな。葉山の荷物は美術室に置きっぱなしなのだ。そりゃあ帰れないよな。

 そんな当然の事実に目が向かないのは、動揺してしまっているからだ。

 黒瀬とかかわるのは二年目なのに対応は手探りのまま。俺だって、どうしたらいいのか分かっていない。


 パニックを起こしたのは久々だろう。

 同級生と引き合わせたことに起因する、というのは、認めざるを得ないこと。

 そもそも、黒瀬と葉山の間に関係性を作ろうと様々な人に意見を求めると、反対も多かった。葉山の性格についての心配とか、そもそも何の得がとか、そういった声には反論や説得をしても、「まだ早いのではないか」との声にだけは何も言えなかった。

 それでも葉山とは良い関係を築けていたから。正直に言えば、油断したな。

 結局、失敗に終わってしまうのだろうか。




 美術室のドアを静かに開ける。見えるのは、項垂れた黒瀬の姿。聞こえるのは、ぱち、ぱち、と輪ゴムを弾く音。

 恐怖を与えないようにゆっくりと近づき、顔の見える位置に屈む。まだ周りを認識出来ていない様子。いつも身に付けているリストバンドを捲って露わになった左手首に、ぱち、ぱち、と音をさせている。少々肌が赤くなっているが、傷にはしなかったのだ。

 偉い。良く頑張ったよ。


「黒瀬、」


 迷子に声をかけるように優しく呼べば、やっとこちらに気付いたのか手が止まる。その隙にバンドは元に戻してやる。葉山がまだ目にしていない事を願いつつ。


「親御さんに迎えに来てもらおうか」


 すると、顔を上げないまま首を振る。


「じゃあ俺が送ろうか。まあ車が嫌なら歩くのも付き合うぞ」


 それにも首を振った。

 さて、どうするか。しっかり座れているからまだ軽度で治められた様子。一人で帰れないことはないだろうが、様々な危険性を孕む。体力消耗、ふらつき、加えて、気分が沈みきって衝動的に動いてしまえば––––。だから本当は家まで送ってやりたいのだが、こいつはそれを拒む。迷惑かけたくない、と。

 これは強制的に迎えをお願いするしかないな。

 そう考えていると、黒瀬が口を開いた。


「……帰り、ます」


 消え入りそうな声でそう言った後、スクールバッグを雑に掴み立ち上がった。そのゆっくりとした、全身に錘が付けられたような動きは、やはり危ない。


「あ、ちょっと待て」

「律、」


 その背中を呼び止める声の主は、俺ともう一人。いつの間にか支度を終えていた葉山。冷静なその声は、いつもの態度を取り戻したというより、心配さえ上手く隠しているのだろう。

 黒瀬の動きは、止まった。


「これ預かって良い?」


 葉山が指したのは机上の四枚の絵。そのタッチを見れば誰が描いたかはすぐに分かる。

 黒瀬は一瞥した後に頷いた。それを確認して、葉山は続ける。


「律の家、スーパーの方でしょ。今日そこ行かなきゃだから、途中まで一緒に歩いてよ」


 一緒に帰ることを半ば強制するような、しかし付き添われる側はあくまでも自分なのだという言い回しは、それを拒否される理由を排除していた。

 そんな誘いを受けた本人は、表情は暗いまま、黙ったままだが、頷いた。受け入れた。

 またふらふらと歩き出す姿を、葉山は四枚の紙を手にして追う。

 それを手短に、呼び止めた。


「悪いけど、頼んだ」

「……ん、さよなら」


 返事をするまでに少し空いた間。瞳が揺れたのは何を思ったからか。

 自分のことは二の次のくせに、他人の辛そうな姿は放っておけない奴。その優しさについ、期待をしてしまう。それが教師として、大人として許されるのかについて、答えは出ていない。

 階段を降りていくまでは、二人の姿を見送った。


 黒瀬が受け入れたのは、ただ頭が働かず拒否権を喪失しただけかもしれない。しかし、〝葉山だから〟受け入れることが出来たという可能性もある。

 二人を引き合わせたのは、と決めつけるにはまだ早い。



        *         *         *



 速度を合わせて、隣を歩く。自転車は後で取りに戻れば良い。

 駅とは反対方向、普段は使わない道。よろよろとした足取りは危なっかしくて、それに車道側を譲らないように進む。どの道で帰るのかは知らないけど、「せっかくだから」で家まで共に。我ながら、強引にもほどがある。

 俯いたまま、前髪から覗く目はどこか虚ろ。絵の話をしていた時の純粋無垢な輝きは見られない。まるで暗く深い影に飲み込まれているようで、うっかりすると消えてしまいそう。

 進路の件で居残りをしていた時。今思えば、あの時も律は、影に取り憑かれていたのだろう。しかし、小さな幸福を渡しそっと笑いかければ、その顔は綻んだ。つまり、きっと誰かが手を引いてやらなければ、一緒にいてやらなければ、暗がりから抜け出せない。

 だから、傍にいることが伝わるように、定期的に話しかけ続けた。


 夕焼けに染まってきたね。

 金木犀が咲き始めたね。


 そんな他愛も無い話題を探すのは、案外、楽ではないのだと気づかされる。

 隣を見れば、小さく頷いたり、不安げな視線を送ってきたり、微かな声で相槌を打ったり。心ここにあらず、といった具合。歩く間、左手首をぐっと掴むこと数回。先程の、美術室で見た傷痕だらけの。痛い、辛い、そう悲鳴を上げているような仕草には、思わず目を背けてしまう。


 住宅街に差し掛かり、ふと、律が足を止めた。


「……ここ、だから」


 住居が比較的密集していない、閑静な場所。そこにある一軒家の前。クリーム色の壁、黒い屋根、花壇と駐車場付き。


「そ、じゃあね」


 こちらから別れを告げると、家に入るのかと思えば、力無く道の先を指差す。


「……真っ直ぐ、」

「え?」

「……ここ、行くと、近いから、……スーパー」


 そんな話とっくに忘れていた。その状態でよく人に親切に出来るな。放っておいていいのに。


「ああ、ありがと」


 じゃあ、ともう一度言うと、今度こそ門を開けてふらふらと入っていく。律の姿が見えなくなるまでは、そこから動かず見届けた。


 歩いている間、完全な無視はされなかったけど、笑顔を見せることは無かった。

 人が苦しんでいると助けたくなる。でも実際、私にそれが出来ることはない。そんな力はないから。あったとして、誰も受け取らないから。

 胸が締め付けられたのは、金木犀の独特な香りのせい。私はこんなにも特別で、お前は何一つ特別ではない、と嘲笑するような。

 ––––そんなの、分かっている。


 今日は何処で夜まで過ごそうか。そんな事を考えながら、踵を返した。

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