一の太刀を疑わざるは、
斧鋸マチェ
一の太刀を疑わざるは、
一の太刀を疑わず、二の太刀は負け——このような理念に基づく剣術流派が存在する。
名を
ジゲン流——不世出の剣豪・東郷
『抜き』『懸り』技法のすべてはこのふたつに集約される。前者は鞘を返した逆袈裟の居合、後者は高く掲げた八艘——蜻蛉構えから放つ左右交互の袈裟斬り。
そしてその習得は、実質独力でも可能である。
まず中空を『抜き』にて両断。然るのちに十数本束ねた横木に向かい、枝葉を落としただけの簡素かつ長大な木刀でひたすらに打ち込む。
厳密にいえば、それが稽古法のすべてではない。ないが、ただそれだけでも流儀の本位には十分に達しうるのだ。
朝に三千、夕に八千。狂人が如き“猿叫”なる奇声とともに。大元たる示現流の教えを引き継ぐ苛烈な鍛錬は、どんな凡夫も確実に一端の剣客へと改造する。幕末の動乱期、短期間で量産された自顕流使いの薩摩藩士は、真剣勝負の場において存分にその実戦性を示した。
防御不能の必殺。受け太刀の鍔をも額にめりこませて死に至らしめる豪剣。
故にこそ、血みどろの戦場が遠い過去のものとなった現代においても、仮想空間のそこかしこでまことしやかに囁かれているのだ。
曰く——薬丸自顕流こそ最強の剣術であると。
……実際のところ、どうであったのか?
✳︎✳︎✳︎
芋を切るが如し、と。
そう嘯く男は、特段の身分ではない。代々続く徒士の蔵米取であり、此度の動乱においても所詮は朝廷方の一兵卒に過ぎない。
ただし、剣の腕は確かであった。北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流——江戸の三大流派をはじめ、さまざまな流儀の技法を取り入れたその剣は、実戦の場でも確かに通用した。時代の巡り合わせによりその腕前が出世に繋がることはなかったが、当人はそれを特に不運とは思っていなかった。
むしろ人斬りの機会に恵まれたことを喜びさえする、そういう類の人間であった。
男は未だひとつの手傷さえ受けていない。それは決して怯懦の結果ではなく、既に幾度とない死線を潜り抜けてなおその肌は刃の味を知らないのである。
それほどの
現に。
「キエエエエエエエエエエィッ!!」
今まさに甲高い絶叫とともに駆け寄ってくる薩摩隼人を前にしても、男はなんら動じることはなかった。
「……ふん」
軍鶏足と呼ばれるその運足は、およそ他流には見られない類のものである。全力疾走の余勢を利した絶対的な先制は、確かに流儀の理念に適う。
適う、が。
——二歩ののちに左足で踏み切り、右足前の袈裟斬り。
間合いと歩幅から瞬時にそう判断した男は、踏み切りの瞬間に合わせて左に体を捌く。
結果、必殺の初太刀は虚しく空を切り——気づいた相手が再び蜻蛉にとろうとした時には既に、男の抜刀は完了していた。
神道無念流立居合・一本目。
「かっ……」
横薙ぎに寸断された頸動脈から噴き出す血潮までもゆるりと避けつつ、男はため息を吐く。納刀。血を拭う必要もないほど最小限の斬り付けであった。
がらん。刀を取り落とす音。首でも押さえているのだろう。無駄なのに。どうやら死にながら斬りかかってくるような手合いでもなかったようだ。
——馬鹿のひとつ覚えも、ここまで来ると悲しいものよ。
自顕流自体を弱いとするわけではない。
むしろ生半可な道場剣法よりかはよほど真剣の実際に即すると男は評している。
絶叫により気を奮い立たせつつ相手を威嚇、怯んだところを渾身の一刀で両断。成る程理に適った戦術だと。
抜き身の刀を構えては、誰もが萎縮するもの。そんな状態で気の触れた薩摩猿が打ち掛かってくれば、確かに平常ではいられまい。恐懼に駆られて刃を我が身に寄せるだけの半端な守りに入れば、勢いの乗った力業に打ち破られるのは必定である。
剣理のなんたるかを知らぬ素人でも、それなりの功を上げられようというものだ。
しかし——それはあくまで相手が未熟だった場合に限った話である。
抜き身に怯まず、虚仮威しに動ぜず、ただ冷然と勝ちを見据える真の強者を前にすれば、自ずと暴かれてしまう。いつ、どちらの足で踏み切り、どちらの足で踏み込むかを。
そうなってしまえば、あとは行動を中断できない瞬間——すなわち地を蹴る刹那に身を躱され、無様な居着きを晒して斬られるのみである。
——
彼は純粋に疑問に思っていた。何をそうまで恐れるのか。避けて斬る、ただそれだけで終わりではないか、と。
無論、言うは易く行うは難しとはこのことである。仕損じれば死が確定するその一瞬、間境を冷静に見極めるなど、たとえ十分に修練を積んだ剣士であっても決して容易なことではない。
逆にいえば。
それをこともなげにやってのける心胆の強さ、あるいは一種の人間的欠落こそが、男がここまで生き残ってきた最大の要因であるのかもしれない。
斬り捨てた薩摩者の数が両の手足の指に余るほどになった頃——男はとある異名を得ていた。
すなわち“自顕殺し”と。
大きな——
身の丈は
不撓の大樹が人の貌をとったが如く、存在そのものに由来する圧力を纏っている。
その手に携えるは野太刀。鞘の長さから推し量るに、刃長は
眼前に立つこの巨漢について、男は何を知るわけでもない。所属していた隊が会敵の拍子にばらけ、当てもなく平野をぶらついていたところを呼び止められたのが最初であり、つまりはまったくの未知であった。
「自顕斬いちはおはんのこっか?」
ただひとつ、薩摩者であるらしいことを除いては。
「はて、名乗った覚えもなし」
「おいを見て腰ぃ抜かさんのほいならっで、おはんが自顕斬いで間違おらん」
「はぁ……自顕斬りだか自顕殺しだか知らんが、己れは襲いかかってくる気狂いをやむなく斬り伏せただけであってな」
「すったい、どっさい斬いなさったそうなあ、五十? 百?」
その口調は平坦なもので、特段怒ってもいなない。同胞の仇討ちに燃えている、というわけでもないらしい。
「百……そうさな、薩摩芋の百も捌けば武蔵殿に並ぶか? は、嵩増しも甚だしいよの」
「んだもしたん、芋ばかい喰うとうと飽きもはんか?」
意図的に侮蔑するかのような冗談を投げるも、涼しい顔で返してくる。その角張った頬には朗らかな笑みさえ浮かんでいる。
続く言葉にさえ、何の怒りも恐れも見出せなかった。
「おいとも斬いおうてくいあんせ」
あくまで笑みを崩さぬまま、酒でも呑もうと誘うような調子で、死合を望む。
まごうことなき異常者であった。
「こげなことろしゃ大きな芋っころ、喰うたこっあいもすか」
「ふは、芋には変わりあるまいて」
軽口の応酬に興じながら、ぬるりと抜いた。心置きは既に生き死にの領域にある。
散歩にでも繰り出すが如く尋常を踏み外すその異常は、決して相手に劣るものではない——この場合、優劣の尺度がどこにあるかはおくとして。
一方の大男も野太刀を抜いた……否、鞘を払ったという方が正しいか。この時点で薬丸唯一の居合『抜き』は使えない。
がらん、と鞘を捨てた音が重く響く。
顕になった刀身は見立て通り長く、また身幅も広かった。目方は軽く見積もっても
反りの浅い薩摩拵えの長刀が、ゆらりと立ち昇り——その
右蜻蛉。幾度となく前にした、薬丸自顕流を体現するその構えは、しかし——
「……ふん」
違っていた。何もかも。
高さ、圧力、佇まいの安定感——今まで対峙した如何なる蜻蛉とも明確に一線を画している。
「成る程、
「へえ、そげんこっお言われうと照れもす」
「蠅叩きにも飽いたところよ。精々己れの手慰みに飛び廻るがよいわ」
はるか上空から自らを睨め付ける刃を見遣る。口ぶりとは裏腹に、男は対手への警戒を強めていた。
「間合いはそれでよいのかね」
「おお、構いもはん」
両者を隔てる間合いは
助走による速力を利し、拍子を外して一刀の下に斬り捨てるが勝ち筋のはずである。にもかかわらず、加速のための十全な距離を取らない。
一足一刀から数歩離れただけの、“普通”の遠間。
——此奴は、果たして本当に自顕流なのか。
ここにきて、男はその前提を疑う。
八艘をさらに高く掲げ、左拳を右腕にぴたりと付ける構えは間違いなく自顕流の蜻蛉である。
だが、この間合い。『抜き』を狙いえないこの状況で、流儀の強みを活かす気が一切ないとしか思えない。
——ならば、東郷流か。
源流たる東郷示現流は、対照的に多彩な型と深遠な術理を持っている。初太刀の威力では薬丸派に劣れど、それを問題なく外せる男にしてみれば余程のこと厄介な相手である。
が、しかし……そうなると今度は新たな疑問が浮上する。
——何故に野太刀など。
どう考えても不合理である。間合いの利と撃力を欲したにしても、この常人離れした肉体を以てすれば
——いや。
あるいはその不協和こそが狙いなのかもしれない——男は推察する。
一見して明らかな矛盾に思考を奪われ、居着きを見せたところを有無を言わせず斬殺する……“自顕殺し”を殺す奇手。
「成る程、見てくれの割には小賢しいな?」
その言葉には腹を探る意味もあったが、当の本人は何の返答もなくただ微笑むばかりであった。
まあいい——男は心置きを切り替える。ならばそれなりにやりようはあるもの。
無造作に垂らしていた鋒を、ついと相手の鍔元に照準——霞構えの崩し。
そのままするりと間合いを詰める。一歩、二歩、なおもにじり寄る。
そしてついに、野太刀の刃圏に踏み入った。
「ふは、怖いなあ」
薬丸自顕流、一刀必殺の剣。その術者の刃の下に身を晒す愚行。ともすればそれは単なる自殺に思えるかもしれない。
しかし——否。否である。
男は明確な勝算のもと、敢えて死線を越えたのだ。
正面打ちに対して面を庇うは下策中の下策。むざむざ太刀の撃力が最大化する瞬間に合わせて受けに回った愚は、致死の教訓となってその身に返る。
ならば。
——前で潰す。
男の意識はその一点にある。
相手の呼吸を見切り、先の先で受け太刀を割り込ませる。如何に薬丸、如何な豪剣といえども、始動する瞬間を押さえられればその撃力を十全に発揮することはできない。
無論、そのまま受ければ剣先と鍔元の圧し合いとなり、粘りの差で押し切られることは必至。
故に横に流す。小手先でなく体幹の駆動でもって力を加え、致死の斬撃を地に墜とす。
現実的な問題として、居着きは死である。
いつぞやの芋侍が、空を切った勢いのまま地面に切っ先をめり込ませ、そのまま抜けなくなったことがあった。その時は腹が捩れるほど大笑し、流石に斬る気も失せて峰打ちで禿頭を殴り飛ばすに留めておいたが。
地軸の底まで叩き割れ。そんな教えを風の噂で耳にした時、男は鼻で嗤ったものだ——本当に地べたを斬る奴があるか、と。
眼前の野太刀使いも同じ愚を犯す手合いであれば、今回こそは容赦なく首を落とす。
「——ふ、」
それは、ほんの僅かな吐息。
猿叫を使うジゲンの剣士ではあり得ない、腹圧による小さな呼吸のみを伴う初太刀の予兆。
——今ッ!
男は聴き逃さなかった。鎖から解き放たれた猟犬のように、防御不能の神話へと自ら
自顕殺しの剣先が、幅広の大太刀の鍔元へと伸び——
「っ、」
その寸前に翻ったのは、思考による行動の結果ではない。
ただ歴戦の剣士としての勘が、狡猾に隠された致死の罠を嗅ぎ分けたのだ。
左拳を掲げ、鋒をくるりと地に向ける。右前腕に添わせることで補強した受け太刀で庇った側頭部に——真横からの一刀が急襲した。
——なんだこれは!?
半ば無意識の防御ののち、男は遅まきながら驚愕する。
柄を握る両の腕を瞬時に交差させ、袈裟斬りの軌道から急激に変化、急旋回させた刃で横面——およそ日本剣術一般から逸脱した技法である。
男は知る由もないが、海を隔てたはるか先には奇しくも似通った術理が存在する。
みしり、
右腕が軋む。小手先の打ち込みであれ、長く重い野太刀の斬撃は十分な遠心力を宿す。
「ちぃっ……!」
この受け太刀は本来、新陰流『輪之太刀』——防御した直後に弧を描いて切り返す剣技の一部である。
己が術を完遂できず受けに回る屈辱に歯噛みしながら、男は全力で後方へと飛び退った。
地を滑るような歩法で数歩離れたところで——男は違和感に気づく。
間合いが取れている。離れられている——いや、違う。
——間合いを取られている!
気づけば両者の間合いは
八間、尋常より明らかに離れた距離。すなわち——
「ぜぇぃいぁあああああ゛あ゛あ゛ッッ!!!!」
——やはり手前も
大気がびりびりと震える。低く濁ったその猿叫は、これまでに耳にしたそれが稚児の癇癪同然に思えるほどの
異形の巨躯、異形の剛刀をもってして、異形の剣技を顕現せしめようというのだ。
「——面白いっ!!」
地響きとともに迫る、この自顕流の化身めいた
——さあ来るがいい。一の太刀を疑わぬその驕りこそ、黄泉への手形と
残り、六間。
その異常な疾駆の速度に、男は左右転身による回避の可能性を瞬時に切り捨てた。前後動で間合いを騙すほかにない。
五間。
中段構えから剣先を限界まで遠くへ伸ばす。
四間。
絶対的な制空権で敵わずとも、相手の目線に合わせることで刃長の目測を困難にし、僅かなりとも踏み込みが浅くなるよう仕向ける。
三間。
じり、と左足を
二間、
を、
割り——
「あ゛あ゛あ゛ああああああああッッ!!!!」
巨大な足が黒土を躙り、絶殺の一刀が発動する。
発動した。
もう引き返すことはできないその一瞬を——盗む!
——いざ、
刀を振り上げつつ右の踵で地を踏みつけ、その反作用で引いた左足に重心を移す。
右膝を高く上げる、直心影流の鶴足立ちの姿勢。
——勝負ッ!
すべてを尽くした男の左目に、絶死の刃が迫り——
一寸前を、通り過ぎた。
その“外し”は完璧であった。
一寸たりとも間積りを過たず、無二の拍子で身を躱した。結果、必殺の斬撃は男の身を掠りもせず、今や自顕の剣士は振り上げた白刃の下に身を晒している。
——薬丸自顕流、敗れたり!
故に、男がそう確信したのは至極当然であった。我こそは真に自顕殺しであると、誇りすら抱いていた。
この猛者を葬るのは、己が剣であると。
「しぃっ——」
大上段からの、必中必殺の一刀が発動する。
発動した——発動してしまった。
もう引き返すことのできないその刹那、男は蝦蟇の油の中にいるかのような遅延した時間感覚の中に没入する。
踏み込みが接地するより先に走った剣先は、正中を別つ軌道を描く。ならば当然、相手の額を断ち割るが定めである。
果たして——
その剣先は、虚空を切った。
——は?
正中線がずれている。沈み込んだその巨躯が、半身に
——あり得ん……!
粘性の時流の中、男は目を見開く。
自顕流の『懸り』は、その絶大な威力と引き換えに確実な居着きを生む。それは避け得ない必然である——何故ならその撃力は、己が体躯自体の質量を投げ出すことでのみ得られるのだから。
したがってどれほどの急制動をかけようとも、その鋒が地を穿つより先に身を引くことは原理的に不可能だ。
不可能のはずなのだ——故に男は信じられなかった。
疾駆の果て、巨体が石火の速度で翻ったこと。
後の先を完璧に捉えたはずの一刀が避けられたこと。
他ならぬ自顕流の初太刀が、あろうことか水平位置で止まったこと。
地を穿つはずの刃が空を睨んでいること。
——ああ、
依然男は刀を振り下ろしており、掠りもしないその斬撃は無為でしかない。
……ない、が。
野太刀の間合いは刀に対して
このことが何を意味するか?
——そういうことであったか。
事ここに至って、ようやく理解する。
自分は上を制したのではなく、下を盗まれていたのだと——それを証明するかのように、
斬り上げられた野太刀が、右前腕の半ばまで埋まっていた。
「ははっ……!」
相対速度でぶつかる骨肉と鋼刃、どちらが勝るかは明白である。腕を切り飛ばされながらも、口からは哄笑が溢れた。
確かに、自分は自顕流を恐れていなかった。捌いて斬ればそれで終いと。
たとえどれほどの豪剣であろうとも、身に受けなければ無為であると。
如何なる豪傑が、如何なる剛刀を用いて、如何なる叫びとともに、如何なる速度でもって成す必殺であろうとも——そう、陥穽はそこにあったのだ。
必要条件と十分条件の混同。
巨躯。長刀。猿叫。疾駆。それらが必殺を実現するための条件であることが真だとして——すべての条件を満たした剣士が振るった一刀が、必ずしも
たとえば。
始めから即座に二の太刀を斬り上げる前提で、緩い握りのまま得物の重みと慣性に任せて“放り込む”ことも可能なのである。
「は……やはり、賢しい奴よ」
しかし。
恐れておらずとも、信じていた。自顕の剣士を何十と斬ってきたその経験から、疑っていなかった——自顕流の初太刀は二の太刀要らず、全身全霊の必殺であると。
「……一の太刀を疑わざるは、」
この己れの方であったか。
自嘲的に呟いた男は、柄を握る左腕を力無く垂らした。剣先が地を舐め、
「——自顕殺し、敗れたり」
沈みゆく夕日を背にして、巨大な蜻蛉の影が伸びている。
その口調は、微塵も薩摩の訛りを帯びてはいなかった。
——終
一の太刀を疑わざるは、 斧鋸マチェ @0n0n0c0
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