賽は投げられた
まにょ
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
「来ないでください」
これが彼の聞いた彼女の最後の言葉だった。
とある廃ビルの屋上。今にも崩れ落ちそうな鉄柵に彼女はまたがっている。彼女を追いかけて来た彼にとって、止めなければ彼女が自殺してしまうのは自明の理だ。
彼は彼女の家族や親戚、ましてやガールフレンドというわけでもない。少なく見積もっても学校の同級生だ。
しかし、彼にとってはそれだけでは終わらない。彼女からしたら何もなくても彼にとって初恋の人なのだ。だから損得感情抜きで今目の前の彼女を救おうとしている。
彼の瞳孔に彼女の姿が映る。
虚ろな目にボロボロな赤い服、服の隙間から見える醜い痣は見ていて痛々しかった。
彼のか細い手がわなわなと震える。
彼が彼女の手をつかんで引っ張ろうと恐る恐る近づくと、
「 」、彼女は力強く叫ぶ。それは誰にも曲げることができないような固い意思があった。
彼は萎縮して返す言葉も出ず、喉元で詰まり続けている。
何かあるはずだ、いっぱいあるはずだ、そう思っていても彼の口には届かない。もちろん、彼女の心にもだ。
刹那、彼の視界から彼女が消えた。数秒後、ドスッという鈍い音が彼の耳に入る。
彼の両手にあった包帯とハサミが呼応するように床に落ちる。
この一瞬が彼に現実を突きつけるには充分すぎる時間だった。
憐憫な赤い花が落ちた。
彼の頭が真っ白になる。
彼はただポツポツと歩いた。目的地は決まっている。彼女のいた柵の前だ。
ぎこちない足取りで柵にまたがって、片足を柵の外に置く。下を見る余裕が彼には無かった。かといって目をつぶり過去に浸る勇気もなく、虚空を見つめる。
そして――――
愚劣な白い花が落ちた。
赤い椿白い椿と落ちにけり
とあるの廃ビルの上空。二人の天使がいた。
「先輩、今日の仕事ってなんですか?」
つい先日就任してきたばかりの後輩は私に仕事の内容を聞いてくる。
「ここで死亡する予報があったから、天国へ誘導するために私たちが来たわけ。ほら、女が一人走ってきたよ」
私は屋上の扉を指差す。そこには血相を変えて扉を開ける女の姿があった。その女はあたりを見渡してから何かを察し、さっきとは裏腹にゆっくりと柵まで近づく。
「あれが件の人ですかね。でも何か変じゃないですか」
「えーっとね、ここにある死亡書によれば、ストーカーの監禁からの逃亡後、自ら身を投げ出血死したそうよ」
「まじですか…あ、じゃあ今入ってきた男が…」
「ええ、ストーカー本人みたいね。さすがの本人も監禁していた女が逃げていたら急いで追いかけるわよね」
「なに感情移入しちゃってるんですか先輩!女の容姿を見る限り、やることやってんのは明白ですよ。女が可哀そうです」
後輩は変な事を想像したのか身震いする。
「感情移入なんかしていない。ただ、現状を観察して感想を述べただけ」
「まあでもあのストーカーにも優しいところがあるんですね」
「え?どこをどう見たらその結論に至るの?」
あまりの驚きに私は女の死亡書を落としかける。落としたら大変だ。もう二度と上司の火山が噴火したような説教を受けたくない。
「だってあの包帯とハサミ、女の怪我を応急処置するために持ってきたって考えられるじゃないですか」
「確かにその可能性もあるだろうね。でもあれはストーカーだよ。それも監禁までする。包帯は縛っておくため、ハサミは服や下着、最悪の場合、体を傷つけるために使おうとしたって考えるのが妥当でしょ」
後輩は私の推測に戦いてか絶句している。この仕事を始めてすぐにこんな話だとしょうがないだろう。
「あ、女が落ちたよ」
「先輩…人が死ぬ瞬間なんて見たくないです」
「ダメ、これが仕事だから」
「……わかりました。って、え?あのストーカーも落ちていったんですけど」
「ストーカーの思考を臨床心理学のかんてんから見るという記事をどこかでよんだことがあるんだけどね。自分の好きな、または嫌いなものに対して異様な執着を示し、非常識な行動をとるようになる、統合失調症に近い感じになるらしいのよ。だから、あのストーカーは女と一緒に死んで一生そばにいることで、自分だけのものにしようとしたんじゃない?」
「そんなのひどいです」
後輩は羽をばたつかせる。
「ええ、そうね」と言い、私は女の亡骸へと近づく。後輩も前にならえと近づく。
後輩の顔はみるみるうちに曇り、今にもすぐ目を背けたいようであった。
「さあ運ぶよ。女の足を持って、私は足を持つから」
「男は運ばなくていいんですか?」
後輩は怪訝そうな表情をする。それに私は呆れながら答えた。
「なんでクズを天国に導かないといけないの?」
後輩は表情は少し明るくなる。
「そうですね。さっさと行きましょう」
「仕事なんだから丁寧にね」
そう言って女の亡骸から透けた体を持ち上げ天国へと羽ばたいた。
賽は投げられた まにょ @chihiro_xyiyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます