『私を射とめて』
あまくに みか
『私を射とめて』
ひさしぶり、と彼女は言った。
ぼくは少し斜め前にある、ワイングラスを引き寄せる。彼女が座る。
「キティ」
マスターが頷いて、グラスを取り出す。流れるような手元を見ながら、彼女は子どもみたいに足をゆらゆらさせた。
「ありがとう」
綺麗な赤い色をしたカクテルが出される。それを少しだけぼくの方に傾けて、彼女は笑った。
「乾杯」
キティさんは……。
キティさんというのは、ぼくが勝手につけた彼女の名前。いつもキティというカクテルを飲んでいるから、キティさん。勿論、彼女はそんな名前で呼ばれていることを知らない。
「本当にひさしぶりだよね」
グラスから唇を離して、キティさんは言う。
店内のぼんやりとした照明が、キティさんの横顔を浮かび上がらせる。長いまつ毛の影が、頰に濃く落ちていた。
キティさんは、いくつなんだろう。年上にも、年下にも見える。
「ぼくは、毎日ここに来てますけどね」
キティさんに会いたくて。なんて、死んでも言えない。
「最近、仕事が忙しくてさ」
キティさんはそう言って、たれた髪を耳にかけ直した。その指先が煌めく。
ピンキーリングというらしい。どぎまぎしたぼくは、一度、その指輪がどんな意味なのか、調べた事がある。
好きな人、いるのかな。
名前も連絡先も聞けないぼくが、大事なことを聞ける訳がない。
「あ、そうだ。連絡先教えてよ」
スマホを片手にキティさんが言う。ぼくは、目を丸くする。
「勿論!」
……なんて、これはぼくの妄想。こんなやりとりを何度、思い描いただろう。
「ねえ、何飲んでるの?」
「これ? オペレーターってやつ」
「おぺれーたー?」
「白ワインを、ジンジャエールで割ったやつ」
「ふぅん」
ちなみに、赤ワインをジンジャエールで割ったのが、キティ。
マスターの視線をちらりと感じた。後で何か言われるかもしれない。
だって、今日キティさんが来ると思わなかったんだ。仕方がないじゃないか。
「君って、いつも白飲んでるよね」
どきっとした。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
ぐっと飲み干して、訳もなく後ろを振り返ってみたりする。
どっと、大きな笑い声がわいた。長テーブルでは、男女が交互に座り、大きな口を開けて語り合っている。
初めて会った時に、聞いておくべきだった。名前も、連絡先も。
これではずっと、ぼくはキティさんにとっての「君」でしかない。
ワインバーに、いつもいる男。
ただの、飲み仲間。
今日こそは、聞くんだ。今日こそは。
「ねえ、今日は静かだね」
「そうかな」
「何、考えてたの?」
──キティさんの本当の名前を、聞く方法。
「別に。綺麗な女の子を口説くには、どうしたらいいのかなって」
冗談めかして、ぼくは言う。
これはダメだ。まるで、会社の飲み会にいる、セクハラオヤジではないか。
ぼくは、がっかりする。自分自身に対して。
そんなぼくの心は知らず、キティさんは、ぼくの空いたグラスをひょいと持ち上げた。
「ねえ、この人にワインクーラーあげて。白ベースでね。私のおごり」
「え、どうしたの急に」
キティさんは返事をする代わりに、にっこりと微笑んで、ちょっとだけ顎を上げた。ぷっくらした唇が、お酒に濡れてジューシーに光る。
「試してみる?」
「何を」
ぼくとキティさんの間に、夕焼け空みたいなカクテルが、そっと置かれた。
「ねえ、ワインクーラーのカクテル言葉。知ってる?」
『私を射とめて』 あまくに みか @amamika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます