第8話 添えられた手

「頼仁と藤子は?  まだ帰ってきてない?」

 昼休憩を終えて教室に入った喜直は、既に席に着いている忠佳と和孝に尋ねた。

 教官はまだ来ていないため、教室内はがやがやとしている。

 和孝は肩をすくめた。


「まだだ。早く帰って来てほしいよな。新しい掛詞教えてやりたいし」

「お前、面白がっているだろ」

 忠佳は読んでいた本を閉じて和孝を睨んだ。

 先程から彼の目は文字を追っておらず、集中していない事に和孝は気付いていたが、心に留めるだけにしておいた。


「あいつがどれだけ嫌がっても、頼仁はこの国を背負う立場の者だ。それが変わることはない」

 忠佳の言葉に、和孝は真剣な顔で返した。

「だからだよ」

 いつもと違う声音に、喜直も驚いて和孝を見る。


「今は対等だけど、いつかきっと対等じゃなくなるから。だから俺はそうなる前に……」

 喜直は寂しそうな表情を浮かべ、忠佳も軽く目を伏せた。

 すると和孝はにっと笑った。

「あいつにくだらないことをいっぱい教えて、怒らせたいなーって思って。だって上司になったら出来なくなるじゃん!」

「おいっ」


「誰にくだらないことを教えるって?」

 けして大きくはないが、背後からよく通る声が聞こえた。

「頼仁!」

 教室の後ろの扉から現れた頼仁の姿に、喜直と和孝は駆け寄り、忠佳も視線を追った。


「大丈夫か、なんか服が埃だらけじゃね? あと襟巻は?」

「ああ。破れたから捨てた」

 頼仁はそう返して、衣服の土埃を軽く払った。軍服が黒いため、白い土埃が目立つのだ。

 あれだけ色々あったというのに、頼仁はすぐに基地に戻るよう教官らに厳命された。

「藤子は?」

 喜直が尋ねる。

「彼女も無事だ。ただ──」



 藤子は一週間の自宅静養をするよう言い渡された。

 藤子の無実は証明されたが、体内から検出された薬の成分量が通常より多かった事を口実に川崎教官が要請したのだ。

 兄が機密を犯し、投獄されたのだ。彼女の心身の負担も鑑みたようであった。



 翌週、鳥辺野基地から外出許可を得て、御所の兄のもとに訪れた頼仁は、事の仔細を報告した。

「この度は力添えをして頂き、ありがとうございます」

「たまには頼仁の力になれたみたいで、なによりだよ」

 信仁は目を細めた。本日は暖かな快晴で、御殿も風が通りやすいように御簾が上げられていた。


「あの後、九条朔弥の後ろ盾になっていた貿易商の屋敷から、すり替えられた薬が発見されました。それが証拠となり、摘発されたそうです」

「そっか。とりあえず怪しげな金銭の動きは、一つ止められたね」

 良かった良かった、と信仁は頷く。その真意を掴みかねて、頼仁は尋ねた。


「ところで兄上、俺に話したい事とは何でしょうか」

 報告だけならば手紙のやり取りだけで済んだ。

 わざわざ外出許可をとってまで赴いたのは、書状を発行してもらう時に信仁が大事な話があると言ったからだ。

「ああ、そうだね」


 信仁は周囲に人がいないか再度確認をした。

 人払いをした若宮御殿は、鳥のさえずりが聞こえる。

 信仁は居住まいを正すと、改めて頼仁に尋ねた。

「頼仁は、軍国主義に反対しているね」

 頼仁は頷いた。


「私も帝位に着いた暁には、それを排して和平の国にしたいと思っているんだ」

「え……?」

 頼仁は瞬いた。何故ならば、彼が頼仁の言動をたしなめた事はあっても、表向き頼仁の言葉を支持した事は一度もなかったからだ。

「でも、今のままだと列強に攻め込まれる。だから……この力を保ったまま和平の道へと進みたいんだ」


「何故、今それを打ち明けるのですか」

「父に言っても意見を潰されるし、悪ければ廃嫡されるだろう」

 現状がそれに近い頼仁はばつが悪そうに顔を歪めた。

「父の都合の良い操り人形のように振舞っていれば、ある程度の情報と権力は使えるからね。……もっとも、言いなりの振りをしている方が私の性に合っていたからなんだけど」

「ですよね。兄上の気の弱さは私も心配です」

「はは……」

 信仁は曖昧に笑った。


「一人で頑張り続ける事は難しいけれど、誰かと一緒に頑張れたら、いつか成し遂げる事が出来るかもしれないって思えるんだ」

「信用する相手を間違えておいででは?」

「そんなことないよ。こう見えて、人を見る目はあると思っているからね」

 頼仁は息をついた。

 兄の思いもよらぬ打ち明けに、何と返答すればよいのか迷った。


「私が言うのもなんですが、夢物語に近い理想です。軍内部に入ってより一層思いました」

「そうだね。だからそれを口に出せるお前はすごいよ」

「今回の事件の九条朔弥だって軍の被害者です。あのような事がもう起こらないようにするには……」


 泣いていた藤子を頼仁は思う。

 朔弥は己の為とはいえ、軍の技術の犠牲になった。

 あの技術を捨てる事はけして難しくはない。

 実験所を閉鎖し、関係者全員に緘口令を敷き、薬そのものをなかった事にさせればいい。

 だがそれでは犠牲になった人々が報われない。


「兄上、一つ提案が」

 頼仁は手を挙げた。

「あの研究技術を医術に生かせれば、と思っています。そして薬として世界に輸出すると、多くの人が助かるのではないでしょうか」

 輸血や麻酔といった技術も、多くの人々の犠牲と貢献があって医療技術として形成してきた。


「それは素晴らしい考えだね。そのような技術を持っていると世界に知られれば国際的な地位も高まるし、大国と同盟を組めればなおのこと心強いよ」

 今世界情勢を考えればけして簡単な事ではない。

 平和の為の同盟を結べる日が果たして来るのだろうか。


「私の周りには、将来の士官となる人間が幾人もいます。すぐには無理でも、時間をかければ耳を傾けるぐらいには力になってくれたらと思っております。人に力を借りるのは……苦手だけど」

「一人では無理でも、心を合わせれば出来るさ」

 信仁は祈りを捧げるようにそう告げた。

 それは国民の安寧を祈る帝の、本来の役割を全うする姿のようであった。



「藤子!」

 青空の下、鴨川沿いを歩いていた藤子の後ろ姿を見付け、頼仁は名を呼んだ。

 鳥辺野基地へ向かっていた藤子は、驚いて振り返った。

「迎えに行こうと思ったら、もう九条の屋敷を出たって言われたんだ。良かった、追いつけて」

「わざわざ来て下さったのですか?」

「いや、今日は御所に用事があって、その後に寄ったんだ。ちゃんと外出の許可を得ている」


「頼仁さんほどのお方なら、護衛などがいらっしゃると思っていました」

 藤子は周囲を見渡した。見える限りでは、頼仁の近くには従者らしき人影はない。

「帝の命で護衛は付けられていない。兄上がこっそり遣わした者ならどこかにいるかもしれないが、何もなければ出てこないはずだ。

 せっかくだから、ゆっくり行こう。今日は訓練も休みだから、何時に着いても問題はないだろう?」

 藤子は嬉しそうに頷いた。

「そうだ、おむすびを作ったので、良かったら河原で座って食べませんか?」


 二人は並んで河原に座った。

 頼仁が御所や基地の敷地外でこのように過ごすのは、初めての出来事だった。

 藤子は笹の皮で包んだ結び飯を、風呂敷から取り出した。

「お休みを頂いていた間、じっとしていたら気が塞いでしまいそうだったので、調理場に立たせてもらっていました」


 頼仁は結び飯を一つ手に取ると、じっくりと見た。

 明るい所で見るそれは一見何の変哲もない結び飯だが、以前は岩塩がそのまま入っており、衝撃を受けた。今回はどうだろうか。

 やや緊張しながら頼仁は一口齧った。


「藤子」

「はい」

「……すごく美味くなってる」

 頼仁が素直に褒めると、藤子は目を細めて微笑んだ。

 頼仁は胃に結び飯を収めると、兄と話した内容を藤子にも伝えた。


「兄上は俺の考えに賛同してくれて、少し……俺の願いに近付けたような気がする。

 それと、例の薬の処遇も話して、あの技術を人が救う医療として役立てられたらって提案したんだ」

 それまで穏やかに話を聞いていた藤子はふっと息を詰める。

 その瞳が泣きそうに揺れた。


 頼仁は優しい目で藤子を見つめる。

 自分の願いで、その心が少しでも救われたら、と祈る。

「ありがとうございます」

 藤子は誠心誠意、気持ちを込めてそう伝えた。

 傷だらけの体と心を隠して、それでも高みを目指す頼仁に藤子は惹かれていたのだ。


「あなたがこの国を背負って立つ日が来るならば、私もあなたとこの国の為に戦います。あなたの願う国ならば、私は守りたい」


 頼仁は呼吸を整えた。宮家に生まれた頼仁はわかっていた。

 このまま生きていけば、いつか自分は彼女と共にいられなくなる。

 こうやって二人で肩を並べられなくなる日が来るかもしれない。

 彼女と対等でいられるには。今の温かな気持ちを大切に守るには。

 頼仁は一生分の覚悟を持って、手を差し出した。


「俺にはまだ出来ない事がたくさんある。けれど、見たい景色があるんだ。軍の手足じゃなくて、どうか俺の一翼になってくれないか」


 藤子の唇が微かに震えた。

 幼い頃、兄にずっと言われていた。

 自分の傍にいたらいい。自分だけが味方だと。

 幸せになって、と告げられて、その言葉の呪縛がようやく解けたような気がしたのだ。


「成人したら、宮家の方から申し入れは正式にするから、それまでに俺も藤子みたいな人間に近付けるよう頑張るよ」

 頼仁の眼差しは、国を内側から変えたいと告げた時に見せた、強い光とそして温かさを宿していた。

 藤子は目を細めて微笑んだ。

「どうか、一緒にその景色を、見せて下さい」

 頼仁が伸ばした手の平に、藤子はそっと手を添えたのであった。

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それは藤の花のごとく @murasaki-yoka

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