第7話 届かぬ願い


 藤子は目を覚ました。頭が重くて、気分がとても悪かった。

 見慣れない洋室で、視界をさまよわせるとベッドの端に座っている兄の姿が目に入った。

 兄は憔悴しているのか、いつもより辛そうに見えた。


「ここは……?」

 状況を把握しようと藤子は上半身を起こしかけたが、全身の脱力感で倒れ込みそうになった。朔弥は素早くその身体を受け止める。

「九条家の別館だよ」

 兄の腕の中、藤子は記憶を辿ると顔を強張らせた。


「兄様、もしやと思いますが……あの時お茶に何か混ぜたりされましたか……?」

 朔弥は曖昧に微笑む。

「ごめんね」

 研究で使用する睡眠薬を少量盗むのは、朔弥にとってさほど難しい事ではなかった。

 飲み慣れない紅茶ならば、匂いも色も多少変わっていてもわからない。


「こんな方法をとったのには理由があるんだ。藤子、俺はこの国から逃げるから、付いて来てほしいんだ」

 とても優しい声で朔弥は囁く。

 そして外套の内側に手を入れて、小さな瓶を取り出した。


 瓶の中には真っ赤な真珠のような粒が入っていた。これが非時香果トキジクノカクである。

 持ち出した薬の大半は引き渡したが、切り捨てられる可能性を全く考えなかったわけではない為、いくつかは朔弥が所持していたのだ。


「俺はこの軍の機密である薬を持って、異国に行く。だから、一緒に来てほしいんだ」

「何故そんなこと……」

 そうでなくとも薬の影響で悪い藤子の顔色が、さらに青ざめた。

「俺はもう軍には戻れないし、他に行く当てもない。でも、誰よりも大事にすると誓うから……!」


 ふと、階段とホールを駆け上がる足音が聞こえてきた。

 朔弥は咄嗟に藤子が声をあげないよう彼女の口を塞いだ。

 幾度か壁の向こうから扉の開く音がしたかと思うと。


「藤子! 助けに来た!」


 部屋の壁を引き戸のようにして開けて、姿を現したのは頼仁だった。

「隠し部屋があるとは、洋館はなかなか面白い建物なんだな」

 この部屋はホールから直接出入りは出来ず、書斎の壁が扉の役割をしているのだ。

 隠し部屋の存在は予め桜子から聞いていたが、たとえ聞いていなくとも頼仁はわかっただろう。藤子の持つ匂い袋の香りがうっすら漂っていたからだ。


「よくここに入れたな。軍の人間が動くにしても、もう少し時間がかかると思っていたんだが。組織の機能は必然的に時間がかかるからな」

 朔弥はそう言うと、藤子の口を覆っていた手を離した。


 軍の人間が脱走した時に、鳥辺野基地の緊急時の機動力を朔弥は確認していた。

 あの時は機密事項であるため、なかなか下の人間にまで伝達がいかず、結果的に士官候補生の訓練は実施されたままだったのだ。


 頼仁は対象から目線を逸らさず、かつ周囲の様子に気を配りながら部屋に踏み込んだ。

 一応部屋に入る前に物音で確認はしているが、朔弥に協力者がいる可能性もあったからだ。

 目は覚めているが、薬の影響かぐったりした藤子を、朔弥が支えるようにベッドの上にいる。

 頼仁は、ふとシーツの上に瓶が転がっている事に気が付いた。


「やはり薬を持ち出したのはお前だな。藤子を返してもらうぞ」

 頼仁は藤子を奪い返そうと、手を伸ばした。

 だが朔弥は藤子を支える腕とは逆の手で、所持していた拳銃を取り出すと頼仁に向けて突き付けた。


「大事な妹に触るな」

 頼仁は動きを止めたが、その目はまっすぐに朔弥を睨む。

「大事な妹だったら、眠らせてこんな所に連れ込んだりしない。違うか?」

 ピクリ、と朔弥は片眉をひそめる。


「最初は軍の機密の薬を持ち出すのに、藤子を人質にするつもりなのかと思った。多分、軍の連中は皆そう思っているだろうな」

 すると、朔弥は顔を歪めた。その口から乾いた笑いが漏れた。

「そっか……。俺が妹を連れ出したら、そんなふうに見えるわけか……」


「でも、違うんだろ?」

 頼仁は気付いていた。

 朔弥の藤子を見る瞳が、愛しい者を見る目であった事に。

 その目に気付いたから、頼仁も自覚したのだ。

 彼女に恋をした事に。


「お前にだけは気付かれたくなかったよ」

 兄の不穏な様子に、藤子は彼の腕から逃れようと動く。

 だが朔弥がその腕を掴んだ。

「そうだ、大事だったよ。だって俺には藤子しかいなかったから。屋敷で一人だった俺に、当たり前のように接してくれた藤子が。俺はその笑顔に救われたんだ」


 頼仁は御所で過ごした日々を思い出した。

 折檻を受ける傷を見られたら、養子先の家が咎められるかもしれないと、傷が見付からないように女官たちの世話を避けていた。

 また我が儘を、兄宮様はあんなに素直に育たれたのに、そう密やかな声がいつもこの心を蝕んでいた。


 ちゃんと自分の声を聞いてくれて、声をかけるのが当たり前だと返した藤子。

 それはきっと太陽のように眩しくて、温かい光だっただろう。

 同じように救われたのに。

 でも、だからこそ、頼仁はこの男とは絶対に相容れない。


「たった一人の人間も救えなくて、この国を変えたいだなんて……笑えるな」

 頼仁はぽそり、と呟く。

「頼仁親王。お前の所持している武器を全部置いてもらおうか。まさか丸腰で来るなんて、愚かな行動をとっていないよな」

 頼仁は唯一持っている武器になりそうな物──懐剣を朔弥の前に放った。


「俺は今のお前に勝てるものなんて何もない。力も、覚悟も、今のお前には及ばない。だから全てを投げ打って言うよ。──俺は何をされてもかまわない。だから、藤子を解放しろ」

「勝てるものなんて何もない、だと……?」

 朔弥は声に嫉妬の色を滲ませた。


 時間の許す限り、軍の基地内で朔弥は藤子を見ていた。だから、気付いていた。

 楽し気に接する二人の姿を。

 血の繋がりのない二人の関係は、朔弥がどれだけ欲しても手に入らないもので。


「恵まれたお前に、俺の気持ちがわかるものか……!」

 朔弥の拳銃を持つ指が震えたのを見て、藤子は咄嗟に叫ぶ。

「やめて! 兄様!」

 朔弥は拳銃を下ろす。代わりに立ち上がって頼仁への距離を詰めると、腹部に深い蹴りを入れた。

 その衝撃に頼仁は崩れ落ちる。


「行こうか」

 朔弥は藤子の方へ向く。

 頼仁は床に這いつくばりながら腕を伸ばして、朔弥の外套の裾を掴んだ。

「待て……藤子を……連れて行くな……」

 すると朔弥は今までにない声で叫んだ。


「俺のたった一つの宝物を取らないでくれ!」


 その声があまりにも悲痛であったため、頼仁の手が一瞬緩んだ。

 手元からするりと布が抜ける。

 朔弥は藤子の手をとった。

 藤子は、その勢いのままにベッドから降りて引っ張られる。


 頼仁はただその光景を見る事しか出来ない。

 動かなければと思うのに、朔弥の最後の言葉に縫い留められたかのように体が動かない。

 藤子の姿が離れていく。

 頼仁の、凍えた心を溶かしてくれた人が。


「藤子っ……!」


 屋敷内のどこかにある時計の鐘が鳴った。

 うつむいていた藤子は、服の下に隠していた頼仁の懐剣を握りしめた。

 朔弥が頼仁に近付き注意が逸れた隙に回収していたそれを、朔弥の喉元に突き付けた。

 一瞬朔弥が怯んだ隙に、訓練で習った通りの動きで彼の持つ拳銃を力ずくで奪い取った。


「私は……自分の生き方は自分で決めます。だから私は、あなたと行きません」


 藤子は頼仁を守るように前に立ちはだかった。

 立っている事すら辛いはずなのに、強い視線で朔弥を見返す。

「……お前まで、俺を捨てるのか」

 朔弥はそれまでから一転して、憎しみと絶望がない混ぜになった瞳で藤子を睨んだ。


 藤子は奪った拳銃を朔弥に向けた。

 頼仁はその行動に息をのむ。

「優しいお前が俺を撃つなんて出来ないだろ」

「あなたが人を傷付けるのならば、私は戦います。たとえ兄様であっても。だって私は……」

 背後を振り向いた藤子の視線が、一瞬頼仁と交錯する。

 そして。


 鋭い銃声の音が一発、部屋に響いた。


 背部から衝撃を受け、朔弥が崩れ落ちる。倒れた体を中心に、血が絨毯に染みて広がっていく。

 一瞬、彼女の持つ拳銃が暴発したのかと頼仁は思ったが、目の前の光景に唖然とはしつつも、藤子は僅かも動いていない。


「そこまでだ。九条朔弥」

 銃口から煙を立ち昇らせた川崎教官と、険しい表情の彼女とは対照的に涼しい顔をした加賀地教官が朔弥の背後にいた。

「間に合った……」

 頼仁は小さく呟いた。


 兄に用意してもらった書状は、軍の九条邸への立ち入りを承認する許可証だった。

 軍から中央部を通すと、書状の発行には時間がかかる。

 加賀地から取引を持ち掛けられた時、彼は頼仁に九条邸に行くよう命じた。

 別で隠れ家があるかもしれないが、彼はあくまでも実行犯で、その後ろに組織がいるのならば誰の指示なのかも引きずり出したいと。

 それが朔弥と繋がりのある貿易商なのか、それとも九条家も繋がっているのか、わからない状態であった。


 だから彼らは九条邸に踏み入れる必要があった。

 頼仁という国の権力を利用出来る立場の者を使って。

 そして頼仁はその取引を呑み、兄に書状の発行を依頼し、彼らが到着するまで二人を足止めしていたのだ。

 全ては藤子を助ける為に。


「もっともこの程度の傷、あなたには掠り傷程度でしょうがね」

「どういうことだ」

 加賀地は朔弥の襟を掴んで上半身だけ起こさせると、衣服を捲り腹部を見せた。

 貫通した銃弾の傷からの出血は収まり、徐々に塞がっていっている。

「お前は……」


「俺はあの実験の成功体だ。だから、一生軍から抜け出せない身なんだよ」

 朔弥は掠れた声で言った。

「力が欲しくて軍に入って、実験に協力して、やっと成功したと思ったら一生自由になれないなんて、俺は本当に愚かなんだよ。

 これは最後の賭けだった。言われたんだ。軍の機密を持ち出せ。

 異国に売りつける代わりに、この国から脱出して向こうで自由になれるって」


 加賀地教官は優雅に微笑んだ。

「残念ながら九条朔弥。あなたの事は、初めから信頼していません」

 口調は出来の悪い子どもをたしなめるように柔らかいのに、全く温かみのない冷えた声音だった。

「怪しいと思い、薬の在庫は全て偽物にすり替えさせて頂きました」


「お前は一介の教官だろう? 何故気付いたんだ」

 加賀地は朔弥にこっそり囁いた。

「諜報という仕事があるんですよ。大きな組織を統括するには、そういう役回りが必要なんですよ。

 それにあなたは表向きとはいえ、一応教官補佐ですからね。私の監督不行き届き扱いされてはかないませんから」


 軍に必要ならば怪しい動きも見逃すが、軍に不利益をもたらすと判断されれば密告する。

 研究の資金源とはいえ軍の不利益となる組織に繋がるならば、その元を探って潰すだけだ。

 川崎教官が静かに告げる。


「染井達が九条朔弥の部屋から空き瓶を発見した。後は朽月の体内から薬の成分が検出されれば、彼女の疑いは晴れる。もっとも……もう妹は関係ないと自供しそうだが」

 染井の名前を聞き、頼仁は彼らの画策が功を奏した事に安堵した。

 ホールには幾人もの軍人が、既に待機している。川崎教官は鋭く指示した。

「連れていけ」


「兄様!」

 藤子はふらつきながら、朔弥に数歩近づく。

「いつか、帰って来るのを待っ……」


 朔弥は手を伸ばして、藤子の口を塞いだ。先程よりもずっと優しい手つきだった。

 息が詰まりそうな人生に。彼女の存在が、朔弥にとって光になっていた。


「幸せになって」

 そして藤子の頭にぽんと手を置いた。

「お前が幸せになってくれれば、俺はもうそれで良い」


 そして朔弥は軍の者と共に背中を向けて歩いて行った。

 ふと自分の手袋に彼女の紅が付いていることに気付く。

 朔弥はさよならを告げるように、そっと紅を自身の唇に触れた。


 去って行く背を無言で見つめていた藤子は、姿が見えなくなったと同時に一気に力が抜けたように座り込んだ。

 うつむいて静かに涙を流す藤子に、頼仁は寄り添って肩に手を添えた。

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